明るい花

 何度も見る夢がある。分かれ道に立ってどちらへ行けばいいか思い出そうとしている。隣から「ここでお別れでございますね」と声がして、はじめて連れがいたことに気づく。連れは左の道に行き、自分は右の道を選ぶ。右手の指がひりひりと痛くてたまらない。どうやら火傷をしたらしい。痛みが耐え難くなった頃に目が覚める。
 イワン・フョードロヴィチは、目が覚めてからもしばらくは寝床を動けない。体がずっしりと重い。またそっちの一日か、と思う。昼をずいぶん過ぎてからようやく体を起こせるようになる。頭はぼんやりとしていてうまく働かない。朝食に出されたお茶のカップに手をぶつけ、テーブルクロスを濡らす。手がうまく動かないことにもテーブルクロスを濡らしたことにも、それ以前から今までにあったこと全てに苛立つ。だがカテリーナ・イワーノヴナの頑固さと来たらそれを凌駕していて、消えろと言うイワンに対し、「ええ、消えますとも、でも再び現れますわ、あなたの気の済むまで」と言い返し、つんと顎を上げて退室するのだった。
 まだもう少し調子のいい日には二人で、あるいは一人で散歩をした。空気のいい場所、とカーチャは言う。イワンは日差しの強い場所だと思う。道端や花壇に生えている、明るい黄色の花が眩しくてたまらない。長く歩いていると、だんだんと目が痛くなって涙が出るような気がする。気がするだけで涙は出ないのだけれど。
 一人で歩いている時には、イワンはこっそりと寄り道をする。二股の分かれ道に差し掛かると、決まって左に進むのだった。道の先にはいろいろなものがあった。学校。民家。朽ち果てた家畜小屋。池。森。町の外に出てしまうこともあった。ずいぶんあちこちを歩いた気がするのに、知らない分かれ道が現れる。それとも、自分が忘れているだけだろうか。自分の歩く左の道をいろんな生き物が歩いている。犬や猫、家畜、蝶々、人間たち。けれども夢で見る連れの姿はなかった。この道が夢の道と同じものなのかも分からない。そんなのは、左の道を選んだ瞬間からわかっているのに、いつも左側を歩いてしまう。
 それで、こうやって、へとへとに疲れてしまうのだ。
 イワンは左の道を歩いてたどり着いた池のほとりに、古くなった桟橋を発見して、そこに腰を下ろした。子供みたいに桟橋の端に座って、足先をぶらぶらさせると、靴の先が池の水に浸り、水面に波紋を残す。池の表面にはちぎれた葉っぱだとか、トンボのものだろう、透明な羽だとかが浮いている。そのまま座り込んでいると、やがて魚が水草の影から出て来て尾をくねらせる。だんだんと増えていく魚の影を見ながら、まずいかもしれない、とイワンは思う。立ち上がるのが億劫だ。
 せん妄症からある程度は回復はしたものの、一度落ちた体力はなかなか戻らなかった。頭のほうはもっとだめで、いつもぼんやりともやがかかったようになっている。情けないことに、怒りや苛立ちですら自分を疲れさせてしまうのだ。悪魔は頭の中からいなくなったのに、それと一緒に記憶や思考もごっそりといなくなってしまったような感じだ。戻ってきてほしいのかどうか、最近ではもうそれすらよくわからない。
 それなのに、夢は見る。同じ夢を、繰り返し。
「あいつはいなくなったのに、お前は頭の中にいるんだな」
 イワンはつぶやく。

 帰って来たイワンを出迎えたカテリーナは、柔らかな微笑みを浮かべた後でむっと眉根を寄せた。
「どこへ行ってたの?」
「わからない。池のほとりだった」
「ああ……」
 カテリーナは頷いて、イワンの右手を取った。人差し指に棘が刺さっている。居間の椅子に座らされ、必要もないのに膝掛けをかけられ、カーチャに棘を抜かれる。抜かれた後の方がひりひりと痛かった。あの夢のように。薬箱から取り出された軟膏の蓋には、明るい黄色い花の絵が描かれている。イワンは眩しそうに目を細めた。それをどう取ったのか、「切り傷や火傷に効くんですよ」と使用人の女が言った。
「何の花?」
「キンセンカですよ」
 棘の刺さっていた人差し指の傷に、花の油が塗られる。スメルジャコフの手も火傷の跡でいっぱいだった。いつもどこかしらに傷があって、治ったそばから新しい傷を作っていた。彼の薬箱の中にも、この明るい黄色い花の絵のついた軟膏はあっただろうか。彼はその絵に目も留めずに、蓋を開いて素早く油を指ですくい、傷に塗り、自分の仕事に戻っただろう。