地下道を巡りて眩し聖五月
虹を追ふ声遠ざかる二階闇
そら豆剥く暮るる窓辺に肩傾げ
向き合つて先づ水を干す夏料理
かたつむり寝苦しいほど二人きり
明易や借居の窓を開け放つ
夏蝶や羽にとよもす船のこゑ
船のこゑ イワン/スメルジャコフ
公園を通り抜けて行こう、近道らしいから、とイワン・フョードロヴィチが言う。砂利道を踏み、木々の間を通り、地下道をくぐる。地下といってもあの家の穴蔵とは違って、広くて、床は白い石が敷き詰められている。白い石はよく見るといくつかの決まった形を組み合わせていて、大きな模様になっている。目で模様をたどっていると、いつの間にか遅れていて、小走りになって追いかける。薄暗い中を、イワン・フョードロヴィチの揺れる背中について行く。
イワン・フョードロヴィチの肩は片方が下がっていて、これは手に持っているトランクが重いのだ。二人の足音が何重にも反響して、肩にかけた荷物がなおさら食い込むような気がする。駅から歩き通しではあったが、スコトプリゴニエフスクを出た時よりも、ずいぶんと体力も回復した。ペテルブルグ、モスクワ、そしてフランスの名も覚えていない町や村。汽車の故障で、宿に行くのにかなり歩かされたこともあった。これくらいの距離も荷物も、本当ならなんでもないはずなのだ。それなのに、足が重い。
地下道の出入り口を支える石柱をくぐり階段を登る。真昼の明るさに一瞬目がくらんだ。砂利を踏んだ足元からざりざりと音がする。数歩行って、前を行っていたイワン・フョードロヴィチがいないのに気づく。振り向くと、彼はトランクを地面に置いて地図を広げている。
「迷ったかもしれない」
イワンは顔を上げてスメルジャコフに言った。口をへの字に曲げている。
それからは二人で額を突き合わせて地図を覗き込み、行くべき道を探した。最新版という触れ込みの地図には、通りの名前や建物の名前が細かに記されている。記憶を頼りに、今いる場所を探す。大通り、ホテル、美術館、今いる公園はたぶんここ。裏路地は道が細々と分かれていて、乾いた地面にできるひび割れのように見える。風向きが変わったのか、石炭の燃える臭いが、どこからともなくやってくる。
結局、選んだ通りは滞在予定の宿には続いていなかったのだが、たまたま通ったところに手頃なアパートが見つかったので、そこに落ち着くことに決めた。一階が大家の住居、二階以上が貸部屋になっていて、居間の隅には簡易のキッチンもついている。前の住人が出てからひと月ほど経つというその部屋の壁紙は、薄暗さのせいでなく煤けていて、わずかに黴くさい。寝室には寝床が一つしかないから、簡易ベッドを入れるしかない。備え付けの小さな机はクロスもなく、表面はガサガサしていて、二脚ある椅子の一つは座るとぐらつく。それでも、家は家だった。
イワン・フョードロヴィチが、さっそくトランクを開けて本を机の上に放り出した。
地下道を巡りて眩し聖五月
イワン・フョードロヴィチが窓から身を乗り出している。身投げではなく何かを探しているらしい。子供の遊ぶ声が聞こえるから、それを見ているのかもしれない。
「……パーヴェル」
とイワンが部屋の中に引っ込みながら言った。外光の当たる左目がすがめられている。
「何でございましょう」
「虹が出ているらしい」
「はあ」
「お前、見えるか?」
「はあ……」
主人のいる窓辺へ歩みより、外へ顔を出した。炊事の煙と石炭の煤の混じる埃っぽい空気が鼻先を打つ。「見えるか?」「見えませんね」暗い室内からいきなり外へ出たので、虹どころか視界の何もかもが光に埋もれている。
虹の足、という声が聞こえた気がした。子供たちが石畳を駆けていく。「虹の足を探すんだと」イワンが隣で言った。虹の足元には財宝が埋まっている。子供たちは宝探しに夢中だ。宝を見つけた後はどうするか、彼らは考えてもいない。
「やっぱり見えないな。子供にだけ見えるんだろうか」
「ご冗談を」
スメルジャコフは窓辺を離れる。今度は明るいところから暗いところへ行ったから、眩暈がした時みたいに視界全体が暗くなる。外の光の残像が、部屋の隅の暗がりにいびつに映る。いびつなのは屋根の形だ。表通りから一本入った、狭い通りには額を突き合わせるようにアパートが並んでいて、この部屋から上を見ると、通りに並ぶ建物の屋根で、空がガタガタと帯のように切り取られて見える。歪んだ形の虹はまだ消えない。角の薄闇に向かって、虹の足、という異国の言葉を繰り返す。駆け回る子供達の声が遠くから聞こえる。虹の根元には宝物が埋まっている。虹の足下には幸福がある。
虹を追ふ声遠ざかる二階闇
下宿の窓際に机を持ってきて豆の莢を剥く。残り香のような夕暮れの光がようやく手元を照らしている。ついさっきまで賑やかに聞こえていた子供たちの遊ぶ声がだんだんと小さくなっていく。一人、また一人と帰っているらしかった。向かいで「あっ」と声がした。顔を上げると、向かいで同じく莢を剥く作業に没頭していたスメルジャコフが、立ち上がり窓の外を見下ろしている。
彼は初め、イワンを台所仕事に立ち入らせようとしなかった。そこは自分の領域であったし、お坊ちゃん育ちのイワンは台所どころか家事全般についてはほぼ役立たずだったからである。今でも包丁や鍋には決して触らせようとしないが、豆の莢剥きくらいなら、致し方なくといった様子で手伝わせるようになった。
二人の前にはまだ莢を剥かないそら豆と、ボウルが二つ置かれている。一つは莢の殻入れ、一つは中身を入れている。量が多いのは、自分達の分だけでなく、大家と隣家の家族分の下拵えを引き受けたからである。
近所の肉屋に雇われたこのロシア人が、実は料理人であり、かなりの腕前であるということは、近隣ではすでに大きな評判を得ていた。そのためしばしば、家賃の割引や繕い物と引き換えに、下拵えや調理の依頼が舞い込んでくる。
昼下がり、大家夫人が訪ねてきたと思ったら、豆の大袋を持って来た。スープにするための下拵えを頼みたいという。それをどこから聞きつけたのか、隣の家の夫人も豆の袋を……というのが事の経緯だ。今日は特別豆が安かったのだろうか? どちらにしろ、話を聞いて引き受けたのはイワン・フョードロヴィチだ。スメルジャコフは、聞き拾った単語と今までの経緯から、どうやらそういうことらしいと察しがついた。かくして二人で消費するには多すぎるそら豆が、彼らの家に持ち込まれた。
イワンは難しい顔をしているスメルジャコフの隣から窓の外を覗き見る。彼らの部屋は二階にあり、窓は通りに面していた。アパートの谷間に沈む石畳の上に、薄緑色の莢が、二、三散らばっている。状況から見てスメルジャコフが捨てたものだ。イワンはスメルジャコフの横顔を見る。子供みたいに、なぜ? の感情が顔に素通しになっている。
「仕方がないでしょう」
と、スメルジャコフはため息をついてぐらつく椅子に座り直した。顔一面に苦い表情が浮かんでいる。
「お屋敷では、そのまま捨てていたんですから」
カラマーゾフの家はフョードルの持ち家だ。庭もある。そら豆の莢などは、そのまま庭先に捨てていた。そうすれば勝手に腐って肥料になる。こんな風に窓の外即公共空間みたいな、ヘンテコな場所じゃなかった。豆の莢剥きに没頭するうちに、ここがどこかを忘れていたのである。
イワンは窓の外へ視線を戻す。豆の莢は、一階の大家が窓際に出している植木鉢にも乗っかっている。と、窓が開いて腕がにゅっと突き出し、花の上の莢を摘むと、ぽいと道路に放り投げた。腕がひっこみ、窓を閉じる。大家夫人かその娘だろう。スメルジャコフは、相変わらず顔をしかめて、道路に散らばる莢を見つめている。
フランス語は、今のところ簡単な挨拶と、仕事に必要な最低限の会話、それ以外は数単語程度、それもロシア語訛りのものしか話せない。それで、花と莢について、彼らと一体何を話せばいいのだろうか? 日はかなり傾いていた。豆の莢も大家の花も、薄暗い灰色に染まりつつあった。
「まあ、いいさ」
イワンはあっさり言って座り直し、豆を一つ手に取った。
「後で一緒に謝りに行こう」
「後で?」
「これを終わらせてから……」
と言うが早いが、イワンはもう作業に没頭している。そのくせ、遅い。フランス語は堪能なくせに不器用なのだ。イワンの前にはまだ割られていない豆がどっさり残っている。スメルジャコフの方はもう二、三個しかない。自分の主人が、一度始めた作業は最後までしないと気が済まない性分なのは、ここへ移って初めて知った。
作業に没頭するあまり、イワンの肩は窓の方に向かって傾いていた。最近になってイワンはとある雑誌に匿名でコラム記事を執筆するようになっていた。気ままな時間帯に出かけては、帰ってから何か執筆しているのだが、その時もよくこういう姿勢になっている。没頭したときの癖らしかった。傾いた側の肘が窓枠に当たって動きを邪魔しているのだが、イワンはちっとも気づいていない。だから遅いのだ、いやそれ以外にも色々と原因はあるが……スメルジャコフは、手元も見ないで莢の端を折り、指で開いて中身を素早くボウルにあける。一瞬迷って、きゅっと口を引き結び、莢を窓の外に放り投げる。開かれたばかりの豆の莢の、かすかに果実のような甘さを含む、青い匂いが鼻先を掠めて落ちた。
そら豆剥く暮るる窓辺に肩傾げ
逃げるようにあの家から出て汽車に乗ったのは冬のことだった。イワンは向かいの席で始終青い顔をしていた。また熱が出たのかと思ったが、乗り物酔いをしていたらしい。もっとも、自分も病み上がりだったから、顔色の悪さでは似たり寄ったりだったろう。膝の上に荷物を抱えて、ほとんど気絶するようにうとうとしては、列車の揺れで目を覚まして、外を眺めたりイワンの顔を見たりしていた。線路が通るどこの土地も雪が積もっていて、少しでも雲が薄くなると光を反射して眩しかった。
今は夏だ。異国の夏で食の細くなったイワンのために、スメルジャコフはキャベツを酢漬けにしてシチーを作る。冷製にできればよかったが、簡易キッチンしかないこのアパートでは難しい。ぬるいのを出すよりはきちんと温めたものの方がおいしいので、熱いスープとパンが本日の(そして大抵いつもの)食事だ。熱いシチーとパンをイワンの前に置いて、キッチンにとって返す。鍋を火からおろし、炉を開けて残りの燃料を確かめる。コークスはまだ少し燃え残っている。やかんに水を入れて火にかけ、自分の分のスープとパンを持ってイワンの向かいに腰を下ろす。イワンは先に食べ始めていて、顎が規則正しく動いている。
あらかた食べ終わった段階でイワンの方を見る。シチーは半分ほどを食べすすんでいる。こっちは食欲の問題ではない。元々イワンは食べるのが遅い。スメルジャコフは早食いで、彼に合わせるから、これでもゆっくり食べるようになった方だ。パンはあまり減っていなかった。肉があればよかったが、あまり贅沢のできる家計ではない。
食事を終えたスメルジャコフは、自分の分の皿を片付け、フランス語の読本を低く声に出して読みながらコーヒーの準備をする。湯はちょうど沸いた頃合いだった。最初にこの簡易キッチンを使い始めた頃は、火の調節も上手くいかず、水を入れすぎて沸かなかったり、逆に少なすぎたりしたが、今はちょうどいい量を見極められるようになっていた。
イワンが古本屋で見つけて来た読本は、今は初級が終わり、中級に入っている。端本だったから課は飛び飛びではあるが、それなりに役に立つ。その他には、手紙の文例集に演説文集があるがまだ手をつけていない。今度は文法を探してこよう、とイワンは言った。
「いいです。詩やエッセイが書けたからって何になります?」
それよりはフランス語のレシピ集を所望した。スメルジャコフの皮肉な言い方に、イワンはちょっと口の端を上げて頷いた。今はちょうどいいのを見つけて、お金が貯まるまで店主に取り置いてもらっている。レシピ界の古典という評判の本だった。その大仰な形容通りの立派な装幀で、古本の割に値が張る。フランス料理は素人でも、料理人ならこれくらいのを持っていたほうがいいだろう、と、本を積み上げて砦のようになった店の奥に鎮座する、古書店の店主のお墨付きだった。
読本の一課を読み終える頃にようやくイワンが食事を終える。皿を片付け、コーヒーを淹れる。カップとソーサーは古道具市に行った時に二束三文で買ったもので、縁はもれなく欠けていたし、模様は全部バラバラだった。
「これは?」
とコーヒー皿に添えられたものをイワンが指差す。
「勤め先から分けてもらいまして」
実際には買った。大家の雑用を引き受けて得た小遣いで贖った氷砂糖だった。つい先日、スメルジャコフは肉屋からレストランへ職場を移っていた。果物を漬け込むための氷砂糖を、ほんの一握り程度求めると、同僚の料理人は、うちの子にもたまに持って帰るよ、というようなことを言い、少し多めに分けてくれた。彼もまた元々フランスの人間ではなく、どこから流れて来たのか、言葉にはわずかに訛りがあった。この国の人は親切だ、と彼は言った。その通り、とスメルジャコフは思う。自分たちがよそ者であることをわきまえている限り、彼らは親切だ。市場では明らかに質の落ちるものを掴まされそうになるし、文句を言うと次に行ったら売ってくれない。勤め先のコックがこちらを見ながら何か言っていても、気づかないふりをしている限りは何もない。
イワンは便箋を前にコーヒーを飲み、氷砂糖の小さなかけらを口に含む。スメルジャコフも自分の氷砂糖を口に入れてしゃぶる。ほんのり甘いのは最初だけで、すぐにねばつくような砂糖の味が舌を覆う。その甘さをコーヒーで洗い流す。混ぜ物のある菓子屋の飴玉よりも、こちらの方が質はいい。甘味は強いが口の中にべたべたと残らない。イワンも気に入ったらしく、二つ目をつまみ上げている。
甘い唾液を飲み込み、スメルジャコフは読本を差し出して、さっき読んだ時にわからなかったところをイワンに尋ねる。子供の落書きの残る余白に、イワンが簡単な書き込みをする。それをもとにまた読み下し、わからないところに当たるとまた尋ねた。その間、イワンは白紙の便箋とペンを前にして、手を組んでぼんやりしている。以前はよく何かの本をめくったり、どこかに売り込む記事を書いたりしていたが、最近はずっとこうだ。終始無言で、コーヒーばかりが減っていく。一課が終わればイワンと会話練習をするのが習慣になっていたが、言い出していいものやら。
「お前を連れて来てしまったな」
と、唐突にイワンがつぶやいた。視線は白紙の便箋に落ちたままだ。落ち着いたら弟か、恋人に出すはずだった手紙は、スメルジャコフの知る限り、まだ一通も差し出されていない。今更何を、と思う。沈黙は金、という、さっきの読本で出て来たことわざがちらつく。
「さあ、どちらが連れて来たんでございましょうね」
口に出すと声には存外棘が残っている。イワンは皮肉げに口の端を上げたが、シチーのおかげか氷砂糖の効能か、頬に赤みが差しているので表情の効果も半減している。
「そうか?」
「そうでございますとも」
ついて行く、と決めたのは自分だ。コーヒーのおかわりを淹れてから、スメルジャコフは読本と書き込みに没頭する。イワンの前の便箋は今日も白紙のままだ。
向き合つて先づ水を干す夏料理
「まったく」
と隣のベッドのスメルジャコフが、今しがたスープ皿を片付けに来た大家とそっくりの口調で言った。
「どっちが病人なんだか……」
ただしロシア語である。イワンは天井を睨みながら黙りこむ。それでなくても喉が腫れて痛いのに、全くもって彼の言う通りなのだから、一言も言い返せない。目を閉じると瞼の内側に熱が重たく籠る。
つい先日、スメルジャコフが癲癇発作を起こして倒れた。幸いそれほど激しいものではなかった(と言うのが医者の見立てであった)のだが、何かと気になって世話を焼くうちに、今度はイワンの方が熱を出して倒れてしまったのである。いかに親切な大家だとて、説教めいた愚痴の一つもこぼれよう。
さっき空気を入れ替えてもらったばかりなのに、部屋の中はすでに湿っぽさと薬の臭いが充満している。体は重く、休息を必要としているのに、熱のせいでうまく眠れない。ふっと意識が遠のいては寝苦しさに引き戻されて、いつまでも眠りの表面を引っ掻いている。目を閉じたり開けたりして、暗さにすっかり慣れた目は、壁紙の植物模様も見分けられる。青緑のあざのような羊歯だ。幼い頃はよく熱を出していた。その時もこうして、部屋の壁の染みや模様を目でたどっていた。そうするうちにすっかり目が覚めてしまうのも幼い頃と同じだ。こうなると、もう疲れきるまで眠れない。
隣を見る。簡易ベッドを入れた時に間に立てた衝立は、看病のために大家に取っ払われている。スメルジャコフは、簡易ベッドの上に、仰向けに、枕に行儀良く頭を乗せて目を閉じている。唸り声も体の強張りも今はない。元々それほど顔色がよくなかったが、暗い中で眺めると、肌は土色でいよいよ作り物か、死体のように見える。肺を内側から撫でられるような、不愉快で落ち着かない感情が湧き上がる。
母親と、それから弟もある時期までは虚弱だった。幼いイワンの記憶でも母の体は小さかった。発作を起こすとその体を激しく震わせて喉を引き絞るような泣き声を上げる。それは、ほとんど子供のような母の体には過大で、彼女は発作を起こすたびに少しずつ衰弱した。最後の方は、血の温もりすらほとんど残っていなかった。
アリョーシャが発作を起こすとイワンは怯えたが、スメルジャコフが倒れた時に彼の心を刺し貫いたのも恐怖だった。それはごく幼い時期に刻まれた根源的な恐怖だった。記憶と精神の地層の、一番深い場所にあって、今更取り出せない。スメルジャコフを熱心に看病したのも、その恐怖に突き動かされてのことだったように思う。
次に目を開けると、部屋の中がほのかに青く、明るくなっていた。少しは眠れたらしい。部屋の中は夏だというのに冷え切っている。乾いた空気にイワンは咳き込み、寝返りをうつ。夜明けが近いらしかった。多少なりとも明るくなった部屋で見ると、スメルジャコフの顔色はそれほど悪くはなかった。胸が規則的に上下していて、ぐっすり寝入っているらしい。穏やか、と言っていいだろう。イワンは、さっき内臓を満たした不愉快な恐怖が少しずつ霧散していくのを感じた。
フョードル・カラマーゾフは、全てにおいて軽薄で侮辱的な人間だった。彼は人が何かを大事にしているのを見ると、どうもいたたまれなくなるらしく、これ見よがしにめちゃくちゃにせずにはいられない性分だった。聖像を汚されそうになって発作を起こした母親の姿を、イワンは生涯忘れがたい母の思い出として記憶している。母の発作は、それ自体が激しい怒りだった。
スメルジャコフの癲癇発作は、怒りではないし、そもそも本人にもどうにもできない。彼は侮辱に対して、怒るかわりに笑う。おもねるような卑屈な笑みを浮かべる。イワンはそれが気に入らなかった。たぶん誰しもがその笑みを嫌っていた。それは癲癇と同じく、本人にどうにもできないが故に、嫌われ、憎まれ、蔑まれた。
イワンは寝床から起き上がり、窓辺へ行く。寝室にも小さな窓があって、細い路地に面している。カーテンを少し開けると、まだこの路地にまで日は差していなかったが、空は薄明るく、炊事の煙が上がっているのが見えた。ふう、とため息が聞こえて振り返ると、スメルジャコフがさっきと同じ姿勢で寝たまま、目は小さくまばたきを繰り返している。「起こしたか?」と尋ねるといいえ、と小さな声がした。
「窓を開けるか」
「結構です。どうせ煤だらけの空気なんだから」
むにゃむにゃした口調に少し笑みをこぼしながら、イワンはカーテンをきっちりと閉めて寝床に戻る。まだ少し熱っぽかったが、おおかた引いている感触があった。明日にはまた元通りになるだろう。自分も、スメルジャコフも。
カーテンを引いた夜明けの部屋は、布の隙間から外の光に侵入されながらも妙に閉塞的だった。イワンは締め切られた部屋の狭さを実感してようやく眠りについた。彼らはまだここから出られなかったし、今のところ、お互いに自分たちしかいなかった。
かたつむり寝苦しいほど二人きり
故郷の夏は夜が明けるのが早かったが、ここの夜も夏は短い。イワン・カラマーゾフは近頃、夜明けの前に目が覚める。一度目が覚めてしまうと、何をどうやっても眠ることはできなかった。イワンは寝床を出て、居間の窓際のテーブルに向かい、ぐらつく椅子に腰掛ける。酔っ払いでもいたのか、遠くから聞こえる犬の吠え声をぼんやり聞いていると、向かいに客人が座っている。
「随分久しぶりじゃないか? 君がなかなか僕を呼んでくれないんで、もう土星にまでバカンスに行っちまうところだったよ。元気かい、君」
「戯言はよせ」
イワン・カラマーゾフは言う。
「お前は僕だ」
「ああ、そうさ。しかしそんなこと、もうとっくにお互い分かってることじゃないか」
イワンは客人を睨みつける。
居候紳士といった風情の、五十絡みの男が目の前に座っている。流行遅れのジャケットは、前に見た時よりもいくぶんか擦り切れて見える。お針子の誰も引き受けないまま、各家を転々として来たのだろう。そんな男が、夜明けの前の、淡く弱い暗闇の中で、わずかに歯を見せて、親しげに笑みを浮かべている。
「それにしても、君たちはまたえらく遠くまで来たもんだな。ここまで来るのにどれくらいかかったか! おまけに悪魔に旅券は出せないっていうんだからね、僕の苦労も考えてくれよ」
「遠いと言ったって土星ほどじゃないだろう」
「じゃ、僕の戯言を認めてくれるってわけだ!」
客人は大袈裟に喜んで跳び上がり、二、三回拍手をする。
「僕だって冗談くらい言うさ」
イワンは客人から顔を背けるようにして答える。
「はは! それはいい、僕らが会うのは久しぶりだけれど、また昔通りという訳だからね。仲良くやろうじゃないか」
「誰がお前なんかと!」
「しっ。あいつが起きるぞ」
悪魔は人差し指を立てて唇にかざす。
「しかし君もおかしな奴だな。何だってあんな奴を連れて来たんだい。恋人も、あの小鳩のような弟も置いてさ。その上奴に妙に遠慮しているじゃないか。どうしてだい? 罪の意識ってやつか?」
イワンはその瞬間、さっと顔を青ざめさせた。口元が震え、怒鳴り出すかに見えたが、存外静かに口を開いた。
「罪はあいつのものだ」
「そうとも! 君の弟が保証したように、あれをやったのは君じゃない。君じゃないんだよ」
「黙れ。……そんなことは分かってる」
「それならどうして」
「イワン様?」
声のした方を見ると、スメルジャコフが立っている。彼は、イワンを見てぎょっとしたようだった。目に明らかな怯えの色を走らせながら、慎重に、まるでいつでも身を隠せるようにするみたいに、体を縮めてそこにいる。口元には、内心をさぐるような、おもねるような笑みが浮かんでいた。
「どうした?」
尋ねるイワンの声は、ほとんど聞き取れないほどに掠れている。喉が緊張していて声を出そうとすると軽い痛みが走った。
「……お顔が真っ青でございますよ」
「眠れないんだ」
イワンはうんざりしたように言いながら、向かいの席に目をやる。客人の姿はない。さっきまで薄暗かったはずの室内は、すでに昇りきった日の光で、カーテンを引いたままでもかなり明るくなっている。
「何か温めましょうか。ホットワインでも?」
「いい。朝食を頼む」
「承知いたしました」
イワンはカーテンを開け、ついでに汚れて曇った窓も開ける。いくら掃除をしても、煤と砂埃ですぐに窓は曇ってしまう。おまけに立て付けが悪いので、思いっきり力を入れないと開かない。
朝方の空気はすでに煮炊きの煙と工場から出る煤で埃っぽい。窓の外を眺めていると、くたびれた服装の紳士が帽子を上げて挨拶をする。ぎくりとしたが、悪魔ではなく単なる通りすがりのようだった。イワンは深く息をつき、椅子に腰を下ろした。重みで椅子が軋む。(どうしてだと?)イワンは眉根を寄せる。
(そんなもの、僕が一番知りたい)
あの夜、兄の公判の前日、ふと何かが気になって引き返した。それがおそらく別れ目だった。スメルジャコフは自分を吊るす縄を準備していた。イワンはそれに、——言い知れぬ不快感を抱いたのだった。怒りか憎しみか、縄を見た時の衝撃に突き動かされるように、イワンは彼を連れて出た。
裁判は体調を理由に欠席した。その間に荷造りをして家を出た。裁判の結果は知らない。うまくいけば兄は放免されているだろうし、そうならなくてもカテリーナが彼を逃してくれるはずだった。兄の逃亡計画もそのための金も、例の三千ルーブリ以外は、全て向こうに置いてきた。今の気がかりはアリョーシャのことだった。
弟は、自分のこの行動を何と言うだろう。彼の裁定が気になるのではない。自分でも訳が分からない、この衝動を、それでいてもう夏まで、穏やかなまでにだらだらと続いているこの逃避を、彼に裁いてもらいたかった。あなたじゃない、と言った彼の断固たる声は、今もあの村にいた間のイワンの記憶を、子供時代まで、杭のようにまっすぐ貫いている。
「イワン様」
顔を上げる。テーブルの脇に、スメルジャコフが小ぶりの陶製のボウルを持って立っている。ボウルに描かれた素朴な小鳥が、スメルジャコフの手の隙間から顔を出している。こちらを、と置かれたボウルには、プラムが二つ盛られてあった。
「これは?」
「大家さんが下さいまして」
「そうか。ありがとう」
スメルジャコフは一礼してキッチンへ戻る。イワンはその背中を見送った。と言うよりはその痩せた首元を。いつでも縄をかけて終わりまでやすやすと締め付けることのできそうな、尖った顎の線を。
「だけどそんなことをしたら、ここまで逃げたのが台無しだ」
悪魔の声にイワンは首を横に振る。そうではないのだ。そうではなくて……。イワンは目を閉じた。夏の光は日当たりの悪いこの部屋にもまっすぐ入り、瞼を通して視界を柔らかな赤に染める。次に目を開けると、向かいの席は空になっている。イワンはプラムを一つ手に取って齧る。みずみずしい果肉が、渇ききった口中を満たし、痛む喉を潤す。
プラムはよく熟れて甘かったが、中心部分はあくまでも頑固に酸っぱい。開けた窓からは、煙と埃とを吹き散らして夏の風が吹き込む。この夏ももうじき終わるだろう。眠れない夜も、終わるだろうか。イワンは窓の外を見つめて目を細める。眠ることのできなかった目に、朝の陽光は痛いほどに眩しかった。
プラムは一つ、ボウルの中に、彼の同居人のために残されている。底に描かれた小鳥がプラムをつついている。
明易や借居の窓を開け放つ
夏蝶や羽にとよもす船のこゑ
六月二十日
明日しかない。明日が運命の日だ。
六月二十一日
前の日にこう書いておいたのがよかった。ママが出かけてすぐにパーヴェルさんを捕まえることができた。イワンさんに伝言を頼んだら、すぐに部屋に戻って伝えてくれた。パーヴェルさんはいつも気難しそうな顔をしている。ここに来てすぐの頃は、フランス語を話すのも上手じゃなかったけど、今は大丈夫だ。でもいつもすごく真面目な顔をして教科書みたいな話し方をするから、本当を言うと笑いそうになってしまう。でも今日はそんな気持ちには全然なれなくて、とても緊張した。今思い出しても、手がぶるぶる震え出しそう!
数学を教えてほしい、というお願いを、イワンさんは快く了承してくれた。ママに内緒にしてほしい、ということも。どこで教えてもらうかは少し揉めた。私は秘密にしたかったからイワンさんのお部屋でいいと言ったけれど、イワンさんは若い女性を部屋に入れるのは申し訳ないから、と言って、結局二階の廊下に椅子を出して、窓際で勉強をすることになった。
変な場所だと思ったけれど、案外悪くなかった。お日様が入ってくるし、外の音はするけれど、うるさいというほどじゃない。上の階の人たちが降りてくる時は、ドアの音や足音で分かる(特に屋根裏の文士さんは、とっても足音が大きい!)。
何より、ここにいると外がよく見えるから、誰かが帰ってきたのにすぐ気づける。鉢植えを置いたらもっといいかもしれない。視界が明るくなるし、外からは私が見えにくくなる。イワンさんに尋ねると、イワンさんは少し困った顔をして、いいんじゃないかと言ってから、けれども、と付け加えて、
「それは、僕が世話をするんですか。花の世話はしたことがないのですが」
と言うからついに笑ってしまった。もちろん私がやりますよ、と言うとホッとしたようだった。
途中でパーヴェルさんが帰ってきた。お仕事は、と尋ねると、休憩中だからお昼を食べに帰ってきたのですって。パーヴェルさんはお茶を淹れて、私とイワンさんに持ってきてくれた。パーヴェルさんはすぐにお仕事に戻ってしまって、私は、廊下が暗くなるまで数学の授業をしてもらった。
ママは結局夜中に帰ってきた。赤ちゃんは無事に産まれたらしい。あなたも叔母さんになったわよ、と言われたけれど、従姉の子供も姪っこになるのだろうか。
六月二十六日
今日もママは従姉のところに行っている。赤ちゃんも従姉も元気だけれど、子供を産んだばかりの女の人には、たくさん手伝いが必要なんですって。お手伝いにはまだ来なくていい、と言われて、ホッとしてしまった私をお許しください。
学校へ行って、昨日イワンさんから出された宿題を解いた。校舎の裏でスケッチブックを開いていると、みんな絵を描いていると思ってくれる(私はこの時、イワンさんの授業では、ノートの代わりにスケッチブックを使っていた)。何をやってるか尋ねられたり、ノートを覗かれたり、ガリ勉ってからかわれたりしないのはいい。少しだけ本当のスケッチもした。目の前の草に止まっていたキリギリス。止まっている草はゆらゆら揺れるし、描き終わる前にどこかに行ってしまったけれど。
明日見てもらおうと思っていたら、パーヴェルさんが宿題を預かってくれた。
六月二十七日
宿題を返してもらった時に、どうしてノートではなくスケッチブックなんですか、と尋ねられた。
たまたまあったから、とかなんとか、へんに誤魔化してしまった。スケッチブックがたまたまあったのは本当だし、ノートだって気軽に買えるわけじゃない。でも、一番はママに勉強をしていることを知られたくないからだ。ママは私が勉強するのがあまり好きではないようだった。できるのはいいけど、できすぎるのはよくない、と、おばさんに話していた。家計簿を見るだけの力は必要、それ以上は邪魔。そばに私がいたのに、ママはそれを忘れてるみたいだった。
私が家で教科書を持っているのを見るとママは嫌な顔をするけれど、スケッチブックならそんなに嫌な顔をされない。絵の授業は、好きでも嫌いでもないけれど、鉢植えの花とかそこにくる虫とか、飾り窓をその通りになぞるのは、結構好きだった。
前に二階に住んでいた画家の人が、お餞別にと描きかけのスケッチブックをくれたのだった。一枚目は、私がモデルをしたスケッチだった。子供の練習をしたいと頼まれたもので、その時は「子供」と言われたのに少し傷ついたような記憶があるけれど、今見たら本当に子供みたいだと思った。横向きに椅子に座って、かちこちに緊張している私。余白には手のスケッチもいくつか。これも私の手で、今よりもひと回り小さいみたい。あの時から、少しは大人になっているだろうか。
スケッチブックを持って、二階の窓から通りを見下ろしていると、本当に絵を描きに来ているみたいだった。お花を持ってこない方がいいかもしれない。
イワンさんは、私には数学の才能があると言ってくれた。お世辞でも嬉しかった。
七月一日
昨日は一日中家の手伝いをしていたからか、授業でうとうとしてしまった。イワンさんは、あまり疲れているようでしたら今日はやめましょう、と言ってくれたけれど、恥ずかしかった。途中でパーヴェルさんが帰ってきた。私たちにコーヒーを淹れてくれたのだけど、私はコーヒーが飲めなかった。「眠気覚ましにと思ったのですが」とイワンさんが言ったら、パーヴェルさんがにやっと笑ったので驚いた。この人はいつも難しい顔をしていて、笑っているのを見たことがなかった。
パーヴェルさんはイワンさんに何かロシア語で言って、手付かずの私のカップを下げた。イワンさんは苦々しい顔をしていた。それで「私の授業はつまらないですか」と尋ねるから、とても慌てた。今日は疲れているだけで、授業はいつも本当に楽しみにしているのだ、と言うようなことを、一生懸命に言った。
「それはよかった。パーヴェルが、私の授業は平板だから小さな子には辛いだろうと」
私は断じて小さな子ではなかったけれど、イワンさんの授業が淡々としているのは確かだと思った(もちろんこれは言わなかった)。でも、数学は面白かったし、イワンさんは、わからないところは何度でも根気良く教えてくれたから、いい先生だと思う。
パーヴェルさんは、私にお茶を淹れなおしてくれた。
七月十三日
従姉の赤ちゃんを見に行った。生まれたばかりで、すごくすごく小さかった。抱っこしてみたら、と言われてそうしたけれど、ふにゃふにゃしていて、落としたらどうしようとか怪我させてしまったらどうしようとか、とにかく気が気じゃなかった。小さな子は少し目を離したらすぐに怪我をするし、小すぎる子はあまりにも弱々しくて怖い。
従姉に赤ちゃんを返したら笑われた。そんな怖い顔をして、赤ちゃんが泣いてしまうわよ、と言われた。赤ちゃんが怖い、と言ったら、この子はまたそんなことを言って、とママが呆れた。
「何が怖いのかしら。あなたも将来はママになるのよ」
ああ、その言葉を聞きたくなかった! ママと従姉が私の話を始めたので、私は端っこに座って、頭の中で授業で習った数式を何度もなぞっていた。従姉はかなり元気になったと聞いていたけど、赤ちゃんを産む前よりも痩せていたし、顔色もよくなかった。それに、産む時はとっても痛い、という話をしていた。帰りに従姉は、赤ちゃんを抱いてくれてありがとう、とキスをしてくれた。
家に帰ってから、私はママに、私を産んだ時怖くなかったのか尋ねた。
「わからない。たぶん怖かった。そうね、とても怖かったと思うわ。だってあなたは、生まれた時は他の子よりも小さかったし、よく熱を出していたから。だから産むときよりも生まれたあとの方が怖かったかもしれないわね。でも、もう全部忘れてしまった。あなたはとても立派になったもの」
ああ、ママ! 私は思わず抱きついてキスをしてしまった。子供の頃みたい、今も子供だけど、とママは笑ってキスしてくれた。
イワンさんが私に、と手紙をくれた。便箋を折りたたんで、封までしている。中には、私がこの間の授業でつまづいたところの解説と、復習用の問題が書いてあった。とても嬉しかったけれど、男の子たちみたいに上の学校に行けるわけでもないのに、どうして私はこんなことをしているのだろうと思った。
この頃の私は、とにかく母をがっかりさせないように、ということに注力していたように思う。母を失望させるのが怖かった。親切で寛大で、家をほとんど一人で切り盛りしている母を尊敬していた。母のような人になりたかった。そうなれないと思い知った今でも、その時の憧れが胸を刺すことがある。
母は私の生き方や、母のような生き方を幸せに感じないということを、長い間理解しなかった。最後は理解しようとしてくれたけれど、本当の意味でわかろうとはしなかった。私はそのことをこれからもずっと憎むだろう。母の愛情を疑ったことはない。私も母のことを愛している。母が注いでくれた愛情を、私は正しい方法で返せなかった。
七月二十四日
今日は久しぶりの授業だった。ママはもうあまり従姉の家には行かないし、イワンさんとパーヴェルさんはしばらく寝込んでいた。私は先週の半分くらいは休まなければならなかった。これから先はもう背も伸びない、と言われたけど、それは少し嬉しいかもしれない(あとで根拠のない俗信だと分かった)。
イワンさんは、たいてい家にいるけれど、時々どこかに出かけている。お出かけの時間は決まっていない。丸一日いないこともあるみたい。お仕事は何をしているのか聞いたら、雑報記者なんですって。どんな記事を書くのかは教えてくれなかったけれど、後でパーヴェルさんがこっそり見せてくれた。記事の載っている新聞は、ママだったら絶対に見せてくれないような種類のものだ。変な記事が多くて、顔が赤くなった。
イワンさんの記事は、「外国人記者からの手紙」というシリーズで、街の噂や小さな事件を面白おかしく書いている。記者はいつも「とあるカフェ」にいて、たくさんの事件に遭遇しているらしい。やれやれ、いつもながらにフランスとは変な国だ、なんて、ちょっとけだるげに書いている。
「これは面白いのですか」
とパーヴェルさんが尋ねた。面白いものだと思うけれど、私には面白さが分からない、と言った。でも、イワンさんが真面目な顔をしてこれを書いていると思うと、ちょっとおかしかった。
七月三十日
スケッチブックがもうすぐなくなりそうだ。迷ったけど、思い切ってノートを買うことにした。買い食いを我慢して貯めたお小遣いで真新しいノートを買った。
イワンさんは私の新しいノートについては何も言わなかった。いつも通り、前回の復習と、新しい範囲を進めていった。もう教科書の範囲は越してしまったから、イワンさんがノートに数式を書き込んで、それを見ながら説明をしてもらう。それから、問題を出してもらって、私が解く。私が解いている間、イワンさんは窓枠に肘をついて、窓の外を見ている。授業以外のお話はあまりしないし、私が問題を解いている間は何も言わないけれど、これだけは言う、
「パーヴェルが帰ってきた。お茶の時間にしましょう」
イワンさんはいつも私にていねいな話し方をする。あんまり子供扱いしない。大人扱いしてくれているのかしらと思っていたけれど、たぶん子供が苦手なんだと思う。
パーヴェルさんもたぶん子供が苦手だと思う。私のことも苦手みたいだけど、あまり人が好きじゃないのかもしれない。そんなにたくさん話す人ではないからわからない。よくお茶を淹れてくれる。パーヴェルさんの淹れてくれるお茶は好きだった。チョコレートかキャンディがあればもっと素敵なのに、と時々思った。
パーヴェルさんはお茶を淹れて、お昼を食べて、空のカップを片付けたらすぐにお仕事に戻ってしまう。一度お茶に誘ったけれど、カップがないからと断られた。私が自分のカップを持ってきます、と言うと、それには及びません、仕事に戻らなければならないので、と重ねて言われた。次の機会にしましょう、とイワンさんが言った。パーヴェルさんはそのままお仕事に戻ってしまった。
あの人は、どうしていつもあんなにしかめっ面をしているのかしら、と言うと、イワンさんが、苦しみの多い人なんです、と言った。
*
大家の娘は、十一、二歳の、年の割には大柄な娘だったが、子ウサギのようにおとなしく、「授業」のあいだ中、暗い色の瞳を伏せがちに、数式を書くイワンの手元を見ているか、でなければ黙って問題を解いている。と、娘がぴょこんと立ち上がり、ノートを椅子の上に置いて階段を駆け降りていった。来客か郵便かがあったのだろう。学校の先生が病気になってしまって授業が進まないから、数学を教えてほしい、と言われてしばらく経つが、こういう中断は珍しくなかった。
家の仕事は、母親のいない間はこの娘がほとんど切り盛りしていた。女中はいるが、通いの耳の遠い老婆が一人だけだ。ママが生まれた時からいるんです、と、いつだったか娘が教えてくれた。体の自由の利かなくなった老婆に代わり、二階以上の廊下の掃除はこの娘がやっていたし、針仕事や細々した買い物も彼女が引き受けていた。玄関先で子守りをしているところも見たことがある。家政の勉強になるから、と最近は大家夫人監督のもと、家計簿も見るようになったという。
そんなふうだったので、「授業」の中断はよくあることだったが、しばらくすると戻ってくるし、まるで中断などなかったかのように座り直し、淡々と続きを進めた。どこまで解いたかとか、話はどこまでだったかとか、混乱も遅滞もほとんどない。最初に持ってきた教科書はとっくに終わり、もう中等科の内容に入っている。教科書はないからイワンがノートに数式を書いて説明をしている。スメルジャコフ曰く「平板な」授業らしいが、娘は飽きもせずに、暇があればノートを持ってくる。その度にイワンは廊下に椅子を出し、ぐらつく椅子に腰掛けて、彼女に以前の続きを聞かせてやった。
数学以外がどうなのかは知らないが、大家夫人によれば成績は学校で一番らしく、たびたび娘の出来の良さを自慢していた。娘本人はといえば、イワンにはあまり学校の話などはしないが、スメルジャコフには時々、男子がしつこくて嫌だとか下級生はかわいいけど疲れるとか漏らしているらしい。もし男の子だったら医師になりたいが、そうではないから母のような人になりたい、とも言っていたとかで、数学は別段進学のためというわけではないらしかった。
「どうしてお前にはそういうことを話すんだ」
「さあ。私なら秘密が漏れる心配がないからじゃないですか」
とスメルジャコフはひねくれたことを言っていたが、買い物帰りに二人で何やら楽しそうに(と言っても楽しげだったのは娘の方だけだったが)話しながら歩いているのを見たし、彼が淹れるお茶もいつも美味しいとほめていたし、懐かれてはいるのではないかと思う。何となく面白くないが、子供は「先生」とは距離を置くものだ、と自分の子供時代を思い返しながら自身を納得させる。ともかくも「授業」自体は続いているのだから、先生役としては十分だろう。
と、パタパタと足音がして、席を外していた娘が二階に戻って来た。娘はいつものように「すみません、戻りました」と言って着席する代わりに、イワンに何か差し出した。
「お手紙が届いています」
娘が持って来たのはモスクワからの手紙だった。差出人は、アレクセイ・フョードロヴィチ・カラマーゾフ。
彼の弟だった。
帰宅すると、いつものように居間のテーブルにイワン・フョードロヴィチが座り、手紙を前にしてぼんやりしている。明かりを点けないのも珍しくないが、今日はあまりに暗すぎる。狭い通りにひしめくように、同様のアパートや民家が並ぶこの通りで、二階の部屋はまだ夕暮れの光が残る時分にもあっという間に夜闇に没してしまう。
「食事にしてくれ」
ランプを持っていくと、イワン・フョードロヴィチは手紙をたたみ、封筒に戻して言った。薄暗くてわかりにくいが、ちらりと宛名が見えた。スメルジャコフはそれについては何も言わず、ただ「承知しました」とだけ言って台所に向かう。メニューはいつものようにスープとパンで、今日は大家夫人から分けてもらったチーズも出すことにした。
自分で食事の準備を言いつけたくせに、イワンの食事はちっとも進まなかった。ほとんど機械的にスープを口に運び、半分ほどを食べ進んだところで下げさせた。
いつものようにコーヒーを淹れて出すと、イワンは少し口をつけてから、突然「帰るぞ」と言った。
「どこへです」
「あの村へ」
スメルジャコフは怪訝そうな顔をした。
「手紙が返って来た」
イワンはさっきの手紙を机の上に出す。差出人はアリョーシャで、住所はスコトプリゴニエフスクではなくモスクワになっている。
イワンが手紙を出したのは、故郷の家ではなく、アリョーシャのいた修道院だった。家を出てから一切連絡を取っていなかったため、その後の動向がわからず、やむなくそこに出したのである。この時、アリョーシャはすでにモスクワにいて、カテリーナの親戚の紹介で秘書か何かの仕事をしていた。手紙は何度かの転送を経て、数週間かかってアリョーシャの元へ届いた。
近況を伝えるだけの簡単なイワンの手紙に、アリョーシャは便箋数枚の長い手紙を返した。手紙は、兄の体を案じる言葉と、裁判の後に何があったかが詳細に書かれてあった。
「ドミートリイは有罪になった。逃げるのに失敗したらしい。だから……」
イワンは言葉を詰まらせた。喉が詰まったようになって声が出なかった。今更置いて来たものの重さに気づいて慄いているようだった。いや、ずっと気づいていた。ただ見ないようにしていただけだ。
「帰らなくては」
「そうですか」
スメルジャコフはあっさりと言った。
「でしたら、お帰りなさいませ。あなた一人で」
反射的にイワンが顔を上げると、スメルジャコフは憎々しげな表情でコーヒーカップを睨みつけていた。というより、イワンの方を見ようとしなかった。
「私のことはどこへなりとも放り出して下さい。お金もどうぞ、お持ちなさいませ。ですが、帰るならお一人でお帰りなさいまし。私は帰りません」
スメルジャコフは、まるで敵でも見るような表情でカップを見つめている。イワンが黙っていると、顔をあげ、「お下げしてかまいませんか」と尋ねた。一瞬、何を尋ねられているのか分からなかった。スメルジャコフはイワンの返事を待たずにカップを下げ、中身を炊事場に捨てた。
次の日、スメルジャコフは何事もなかったかのようにいつも通りに仕事に出かけた。大家の娘は学校に行っている。イワンはアリョーシャの手紙を広げ、読み返した。昨日スメルジャコフが帰ってくるまでに、何度も読み返した手紙だった。手紙には様々なことが書かれてあった。アリョーシャのこと、リーズのこと。彼の友人の子供たちのこと。ドミートリイの裁判は有罪判決で幕を閉じたこと。逃亡は失敗した。ミーチャはシベリアにいる。グルーシェニカは村でやっていた事業や家財道具を整理してからそれを追いかけた。カテリーナは、村を去ってやはりモスクワの親戚のところにいると言う。あなたの身を案じています、とアリョーシャは書いていた。あなたから手紙が届いたと伝えると、心底ほっとしていました。それにしても、どうしてフランスなんですか? あそこは空気がいいとは思えません……。場違いとも言えるような弟の小言は、ほんの少しだけイワンの心を和ませたけれども、手紙の文の一つ一つが、イワンをあの家と、あの家で起きた出来事に引き戻す。
事情を知れば、カテリーナは自分を許さないだろう。いや、おそらくアリョーシャから話を聞いて、すでに猛烈に怒っているに違いない。アリョーシャが書いていたことを信じていないわけではない。安堵したというのも真実そうなのだろう。それと同時に、激しい怒りを抱くことのできるのが、カテリーナという人だった……いや、これはそうであってほしいという願望だ。彼女がせめて火のように怒り、決して許さないでいてくれればいい。彼女のことは、今まで一度も理解できた試しがなかった。彼女はドミートリイを深く愛していたが、同時に激しく憎んでもいた。イワンを愛するようになってからもずっとそうだった。それは彼女が多情だからではない。むしろひどく一途な人なのだと思う。彼女はどれほど苦しむことになっても、自分の抱いた愛情を手放そうとはしなかった。それは時にイワンを嫉妬で苦しめたが、自分は決して彼女の心、その芯の部分を変えられないということに、悲しみなのか、安堵なのか、途方もないような感情を抱くのだった。
彼女の憎しみが必要だった。それが身勝手なことだというのも分かっていた。こうやってさかしらに考えていること自体、彼女の更なる怒りを買うだろう。イワンは手紙をたたみ、封筒に入れる。目の奥が重く、鈍く痛む。頭痛の前兆だった。視界が歪み、アリョーシャの文字がぼやけていく。イワンは立ち上がり、手探りで寝室に向かう。ひどく目眩がした。ほとんど倒れるようにして寝台に座り込み、意識を失った。
その後、イワンが目覚めたのはかなり遅くなってからだった。夜なのは確かだが、何時なのか分からない。明かりを持って居間に行くと、机の上に食事が用意されていた。スメルジャコフは帰ってこないかもしれない、と考えていたことに、その時気づいた。
「温めましょう」
と声がしてぎょっとした。スメルジャコフは、台所の隅のスツールから立ち上がり、イワンの皿をつかむ。
「いい。コーヒーを頼む」
「かしこまりました」
スメルジャコフは慇懃に頭を下げ、湯を沸かしに台所へと戻る。
別にコーヒーを飲みたいわけではなかったが、スメルジャコフをそばから追い払いたかった。スープはすっかり冷えている。肉のない冷めたスープを二口、三口すすると、もう匙を置いてしまった。スープは舌にざらざらと触るばかりで、味のする気がしなかった。
「もうよろしいのですか」
「ああ……いや」
「またご病気になりますよ」
スメルジャコフはため息混じりに、いやに馴れ馴れしく言って、カップをイワンの前に置く。イワンは彼に促されるようにしてまたスープを口に運ぶ。カップにはコーヒーではなく紅茶が入っている。
「コーヒーはもうありません。明日買いに行きます」
「それならいい。必要ない」
イワンは青白い顔で言った。唇まで色を失って、まるで死人のようだった。イワンがふいに怒りに満ちた笑みを浮かべ、「帰るからな」と言った。
「ええ、お好きにどうぞ。私はどこへなりとも行きましょう、イワン・フョードロヴィチ」
「お前も一緒に行くんだ」
「嫌です」
撥ねつけると、イワンは怒りでますます顔を青ざめさせた。
「兄さんはお前の罪を被ったんだぞ」
「ええ、存じ上げております」
スメルジャコフは立ったまま、挑戦的な目でイワンを睨み返した。知らないはずがなかった。あの村の外でも、あの事件は新聞だねになっていた。ドミートリイが有罪になったことも、見出しをちょっと見ただけですぐわかった。自分やイワンがどう書き立てられていたのかは知らない。本文は読まなかったし、読む気もなかった。
「本当に知らなかったんですか? 今まで?」
スメルジャコフは嘲笑うように言った。病み上がりの頭でもわかったようなことが、彼にはわからないだなんて! それと同時に、本気で知らなかったのだろうとも思った。ここへ来る前もそうだった。彼はしばしば自分の頭の中身と戯れて、見なければならないものを見ようとしない。
「知っていたのか?」
「あれだけ新聞に載っていれば、いやでも目に入りますよ」
イワンの顔が引き攣った。スメルジャコフは、自分の言葉がどうやら彼に痛手を与えたらしいことに満足しながら、向かいに座る。
「それならどうして戻らないんだ?」
「あなたこそ、どうしてこんなところまで来たんです。私なんかを連れて? お兄様の裁判をほっぽり出して、来たくもないフランスなんかに来たのはなぜですか?」
スメルジャコフは畳み掛けるように言った。微かな喉の渇きを覚えていたが、無視した。
「私はあなたの恥ですからね。死なれるのは寝覚めが悪いが、生きていても困る。あなたは結局おやりにならなかったし、私にやらせたという意識もおありでなかったけれども、お父様を憎んでいたのは事実ですし、チェルマーシニャ行きもご自分でお決めになったんですから。『神がいなければ全てが許される』という考えを私に吹き込んだのもあなただ。あなたにとっては気まぐれかほんの暇つぶしだったかもしれませんが、私は本気に取ってしまいましたからね。気まぐれに、何となくであなたは全てを私にさせたんですよ」
「黙れ!」
イワンは拳で机を叩いた。食器が跳ねて耳障りな音を立てる。カップの中の紅茶がこぼれて伝い落ち、ソーサーに垂れる。スメルジャコフは冷ややかな目でカップを見つめ、「お召し上がり下さい」と言った。
「あなたがお命じになったのですよ」
イワンは半ば気圧されるようにしてカップを手に取り、紅茶に口をつけた。カップにはまだほんの少し温もりが残っていたが、中の茶は温かいとは言えなかった。イワンは無理に飲み干して、カップをソーサーに置いた。ソーサーにはさっきこぼれた紅茶が、茶色くいびつな円を描いていた。イワンはカップの縁をしばらく指で拭うようにしていたが、やがて静かに言った。
「お前の言い分はわかった。だが、僕はお前を連れて帰る。お前の罪はお前のものだ。兄さんが負うべきものじゃない」
「子供ではないのですから、連れて帰ると言ったってついて行きませんよ」
「それでも帰るさ」
スメルジャコフは何か言いかけたが、そこで激しく咳き込んだ。立ち上がりかけたイワンを制して言う。
「ご心配なく。少し痰がからんだだけですよ」
顔を上げたスメルジャコフの目は、涙で潤んでぎらぎらとしていた。
「イワン・フョードロヴィチ、私を連れて帰ればあなたは恥辱を受けるでしょうね。召使いにいらぬ考えを吹き込んで、父親を殺させたんですから……。おまけに無実の兄を置いて逃げた。ええ、私の言うことなど誰も信じないでしょう。けれどもあなたは一度私を隠したんですよ。フランスに隠したんだ。私があなたの恥だということは説得力を持つでしょう。そうじゃありませんか? だけどあなたはそれだけだ。時間が経てば皆忘れるでしょうし、ひょっとしたら、より大きな恥辱を受けるのを分かっていて戻ったのは正直だと、あなたの苦痛を評価する方もいるかもしれませんしね。それに哀れな召使いに同情してやったんですから、あなたの優しさに涙を流すご婦人方もいるでしょうよ」
スメルジャコフはしわがれた声で言った。蒼白になっているイワンの顔を一瞥すると、「あなたのために人殺しなどするのではなかった」と吐き捨てた。
その時イワンは、さっき見た夢を思い出していた。見ていた時は夢だとも思わなかったし、目覚めた後は忘れていた。ベッドに倒れ込んでから悪魔がやって来て、隣に座り、イワンにこう言ったのだった。
「あの召使いと一緒に帰るって? ああ、せっかくフランスまで来たっていうのに。また僕もロシアへ逆戻りか! まあ好きにしたらいいさ、どっちみち勝算はあるんだから、ね、あるだろう? 兄貴には自分の財産を提供したわけだし、戻って皆に告白すれば君は真実を掴めるわけだ。何か書き物にしてもいいね、長い書き物にさ! 告白録としゃれこもうじゃないか。あの召使いを連れて出たところなんかは、きっと皆涙を流すだろうね。首吊りの縄から遠ざけて遠くの国に連れて行ったなんて、ちょっと気の利いた読み物みたいじゃないか。君を知る人たちはきっと君の行動を分かってくれるよ。そりゃ最初は許さなくても、いずれは分かって、君の手を取って接吻してくれるだろう、あのカテリーナ・イワーノヴナだって、君の優しいのをいずれ分かってくれるだろう!」
その日、イワンは夜を徹して手紙を書いた。スメルジャコフがぷいと寝てしまった後もちっとも眠れなかった。何度も書き直して、夜が明けても書き終わらなかった。起きて来たスメルジャコフは、書き損じの便箋を見もしないで、朝食を準備すると仕事に出かけた。
手紙を書いていると悪魔がやって来て向かいに腰掛け、イワンに茶々を入れた。
「告白録の下書きかい? いや、こんなことを言うべきではないな、君は真剣なんだから。それにこれは真理のための行為だろう?」
「いいや。兄貴のためだ」
「それもいいさ。それも美しいね。きっと地獄でも大ウケだろうな。実を言うとね、地獄っていうのは規則にうるさいんだ。これこれの罪を犯したものはこの地獄、これこれの罪はこっち、この者はこれこれの罪を犯したが近親者の祈りがあるからこっち、ってね。あれほどお役所じみた場所も他にないだろうね!」
「地獄にも法があるわけか」
「そうさ! その通り! そして僕らも法の支配を受けてるわけだ。地獄ってのは無秩序じゃないんだよ、むしろ法の正義と真理が最下層まで行き渡った秩序立った場所なんだ」
「兄さんはどうして子供のことを持ち出したんだろうか? 哀れな子供のことを……」
「さあね。衝動で動く人間の考えることなんて分からないよ。ああいう人間が意外と真理をつかむものなのかもしれんがね」
「兄さんときちんと話をするべきだった。いつも喧嘩別れになってしまう……どうしてミーチャの話を聞かないで逃亡の話なんかしたんだろうか? 本当に有罪だなんてどうして信じていたんだろう! ミーチャはずっと自分じゃないと言っていたのに。でもいざ話せばきっと僕はあいつにいらいらして、言ってることなんてちっとも聞かないだろうな……今でもばかばかしいと思うよ! あいつの言う聖歌だの十字架だの、まるで意味が分からない。でも話をしたいんだ。ミーチャと話がしたい……」
「だけど今はシベリアだぜ」
「わかってる、わかってるよ!」
イワンはうめくように言って首を振った。
「気の毒なのはカテリーナ・イワーノヴナだよ」
「あの人を悪く言うな」
「悪くなんて言ってないじゃないか。それに、僕は君なんだぜ」
と悪魔が言う。イワンは顔を赤くさせて目を伏せる。悪魔は身を乗り出してささやくように言った。
「君は兄さんのことでも彼女に借りがあるってことだ!」
「それは地獄じゃどんな罪になるんだい?」
「さてね。嘘つき、裏切り、不和だとかそんなものだろう。君はあばらに鉤を引っ掛けられて、地獄の底に連れて行かれる。そこで炎に巻かれるか、体を引き裂かれるだろうね。ただ正直に言うとね、そういうのは地獄でももう流行らないんだよ。それは随分古臭いと言ってね、今はしっかり記録を取ってから色々と事情を加味してどの地獄に送るか決めるのさ! これがまた時間がかかるんだなあ! まあ、でも結局のところ責め苦だよ。体を裂いたり火の川に沈めたりのね。紆余曲折したあとに、結局古いものが一番いいってことに落ち着くんだ」
「くそっ、くだらない!」
「随分じゃないか、君から始めたっていうのに!」
悪魔は哀れっぽい声を出した後、肩を軽くすくめて扉を指差した。
「誰か来たようだよ」
目を覚ますと、誰かが遠慮がちに戸を叩いている音がした。重い体を起こしてドアを開けると、大家の娘がノートと筆記具を胸に抱えて立っていた。イワンを見るとびっくりしたような顔をして、もしもお加減が悪いのでしたら出直しますし、よければ何かお持ちします、と言う。少し寝不足なだけで大丈夫だから、と促すと、前に教えてもらったところで、分からないところがあるから教えてほしい、と言った。イワンは廊下に椅子を出して、娘に授業をした。ほんの三十分ほどの短い授業だった。娘は何度もお礼を言い、一階へと降りていく。イワンは部屋へ戻りかけて、階段の方へ急ぐと、二階から身を乗り出して娘の名を呼んだ。
「あなたにこうやって教えられるということを、私はとても感謝しているんです。わかりますか。あなたに授業ができるのは、私の喜びなんです」
娘の頬がぱっと紅潮した。言葉を詰まらせながら、私も大変感謝しています、と堅苦しく礼を言う娘にせっかちに頷いて、イワンは部屋へ戻っていった。
イワンはその後も手紙を書き続けた。書き足さなければならないことはたくさんある気がするのに、手紙を読み返すと、もうこれ以上に書けることがない。それでも無理に書き足していくと、そのうちに本題から外れて、しまいには出来の悪い言い訳になってしまう。イワンはそれを破り捨て、あるいは上から別の文言を書き連ねて、手を真っ黒に汚しながら手紙を書いた。
スメルジャコフは、その日もいつもと同じように帰って来た。机の上の手紙を見たが、何も言わなかった。
「あの人と……アリョーシャに手紙を書いた。僕たちのことを書いてある。どうしてここまで来たか、何があったか、お前との会話も思い出せる限り全部書いた」
「さようでございますか」
スメルジャコフはその場に立ったまま無感動に言った。
「まだお諦めでなかったんですね」
「そうだ。僕は兄さんを諦めることはできない。ドミートリイは親父を殺していない。それならシベリアから出してやらなければ……。お前には」
とイワンは立ち上がり、スメルジャコフの前に立った。
「弁護士は呼ぶ。医者も呼ぼう。僕も証言する。お前を唆すようなことを言ったと認めるし、あの時の会話も全部証言する」
「あの時の?」
「あの時の……門での会話も、お前が倒れた後の会話も全部だ。それに、そう……その前もだ。父さんの家に来た時から、お前に言ったこと全て」
スメルジャコフは目をそらして斜め下の虚空をぼんやり見つめていた。イワンは重ねて「できる限りのことはする……お前がどこにいても」と言った。スメルジャコフは無反応だった。イワンの言葉が届いていない―― というより、イワンの姿すら見えていないようだった。
「ねえイワン・フョードロヴィチ」と、長い沈黙の後でスメルジャコフがつぶやくように言った。長い間話すことを忘れていた人のように、その声は震えていた。
「ねえ、イワン・フョードロヴィチ。ドミートリイ・フョードロヴィチは人殺し扱いでも貴族ですからね。看守も滅多なことはしませんよ。ですが、私はどうです? 召使いで主人殺しの、虫ケラ同然の存在ですからね。シベリアに行ったら遠からず殴り殺されます。鞭でぶたれて殺されてしまいますよ。ええ、私は人殺しですとも、あなたに唆されたと勘違いしていただけのね、だからって死ぬ時までそんな目に合わせなくたっていいじゃないですか? イワン・フョードロヴィチ、あなたはあの晩、私を殺しませんでした。あの晩、あの裁判の前の晩です。どうして私を生かしたんです? 私は別にいつ死んだってよかったんですよ。そうです。いつ死んだってよかったんだ……だから……そうだ、どうなったって同じことだったんです。同じことなんですよ」
スメルジャコフは顔を上げ、イワンを焦点の合わない目で見つめた。イワンではなく、その先の何かを見ているようだった。
「イワン・フョードロヴィチ、私を殺して下さい」
イワンはぎょっとして身を退いた。スメルジャコフは両手を上げて、何かを掴もうとしたが、指はのろのろと空気を掻いた。彼は、突然それがつらくてたまらないと言うような顔になって、イワンか、その背後の闇に向かって言い募った。
「私を殺して下さいよ。どうせ同じことなんだから、今殺して下さい。私はここから立ち去りたいんです。こんなところ、もう出て行きたいんですよ。イワン・フョードロヴィチ、私はあなたのお父様を殺したことも、お兄様に罪を着せたことも、後悔していないし悪いとも思っていませんよ。殺したのはあなたじゃない、私なんだ。憎いとお思いなら、どうか殺して下さい。書付けが必要ですか? 告白録でも書きましょうか、そうそう長くは書けませんが、あなたと違って学がありませんからね。署名もしましょう。直接手を下すのがお嫌でしたら、そうですね、船の切符を買って下さい。どこでもいいですよ、イギリスでも、アメリカでも、どこでもね……。どこか海の深いところまで来たら、飛び込みますから。私の気の変わるのが心配なら、あなたもついて行って、物陰かどこかから見ていればいい。でもその心配はきっとありませんよ、私はずっと死にたかったんだから、あなたはただ船の切符を買ってくれさえすればいいんです! ねえ、そうしましょうよ。そうして下さい。お願いです、イワン・フョードロヴィチ、そうして下さい!」
「やめろ!」
イワンはスメルジャコフの襟元を掴んだ。怒りに任せてまともに彼を覗き込んだ時、イワンは、自分が今まで恐れていたのは、この顔を見ることだったのだと気づいた。
彼は殺人を犯したが、それが理由ではなかった。彼の苦痛を見るのが恐ろしかった。彼の目に何か致命的な、底知れぬ暗い色を見るのを、彼が身のうちに抱えている苦痛を覗き込むのを恐れていた。彼の生きてきた世界よりもさらに苦しみの多い場所へと、その背中を押したのが他でもない自分で、そのこともイワンの恐れを鋭く深めた。
けれども今、向かい合った彼は、ただの青年だった。たしかに顔色は黄ばんでいて不健康だし、目の色は、病み上がりのせいか不摂生のためか、白目が澱んでいる。故郷にいた頃は綺麗になでつけていた髪も、今はその金銭的な余裕がなくて、癖の残ったまま額に張り付いているか、あちこちに跳ねている。イワンが予期し、見つめることを恐れた絶望や苦痛を表すどのような印も、そこにはなかった。ただ同年代の青年がそこにいた。
イワンはスメルジャコフの襟から手を離した。手を空に彷徨わせ、迷うように、おずおずと、スメルジャコフの肩に置いた。肩は痩せていて衣服の上からでも骨張っているのが分かったし、さっき興奮したせいか、子供のように熱っぽかった。イワンはもう泣いていて、スメルジャコフは、肩に置かれた手と涙で濡れたイワンの顔を、戸惑いながら交互に見ている。
「お前が分からない」
イワンが絞り出すように言った。涙で鼻が詰まってひどい声だった。スメルジャコフが怪訝そうな顔でイワンを見る。
「お前をどうやって愛せばいい?」
スメルジャコフは、今度こそひどく動揺したようだった。ほとんど怯えに近い表情が顔中を走り、目の周りをひきつらせた。後じさりかけたのを、肩に置かれたイワンの手が止めて引き寄せる。
彼の苦痛が分からなかった。その深さも、絶望も、何もかも理解できなかった。ただ彼が目の前にいるということが苦しい。イワンはしゃくり上げながら、スメルジャコフのこめかみに自分の額を押し付けた。
二階のロシア人二人組は、突然やって来て、突然去った。少し事情があって退去したい、と告げたその三日後には、もう荷造りも不用品の処分も全て終わっていた。仕事もカップや皿のような数少ない私物もそれぞれアパートの住人に譲り、あとは備え付けの家具しかないアパートの部屋に、二人で閉じこもっている。もともと荷も少なかったが、こうも早いと何かよからぬ事情でもあるのでは、と勘繰るものもいた。
退去の日には、大家夫人と娘の二人が見送りに立った。
「ロシアへお帰りになるの?」
「いえ、もう少し……療養してから。残念ですが、こちらの空気が合わないようで」
そうね、それがいいわ、と大家夫人は頷いた。この夏に二階の二人組が続けて倒れたのは記憶に新しい。二人ともまだ回復しきっていないようで、あまり顔色が良くなかった。特にイワンの方は、この三日で疲れ切って、ほとんど打ちひしがれたようになっていた。この街は賑やかではあるが、いつも土埃と煙でけぶっていて、病人向きとは言えない。ずっと家に通っている女中も、近頃はしきりと咳をしている。
「もしも弟か、私の知り合いが来たら、手紙を出したと言っていただけませんか。必ず帰るからと」
「ええ、必ずお伝えしましょう、イワンさん」
夫人の隣に立つ娘は、玄関先に出た時からもうほとんど泣きそうになっていた。暗い色の瞳に涙をいっぱいに溜めて、イワンとスメルジャコフを見つめている。今までも住人の退去の際に、娘がこうやって泣くことは何度かあったけれど、ごく短い間にここまで打ち解けたのは彼らだけだった。
娘は涙をこらえながら、二人に真っ白な、真新しいハンカチを差し出した。母親とイワンが話す間ずっと握りしめていたせいか少々よれているが、綺麗に四角に折って、リボンまでかけている。端には名前の頭文字が刺繍されている。
「これを私たちに? ありがとう……大事に使います」
娘は鼻の頭を真っ赤にしながら、つっかえつっかえ、あなたがたのご健康と幸運を祈っています、旅の安全も、と言った。
「出発が突然で申し訳ない。私もあなたの幸せを祈っています。心の底から祈っています」
それを聞くと、娘はもう耐えかねるといった様子でイワンの首に飛びついて、痩せた頬に接吻した。それから、隣に立っていたスメルジャコフにも同じように飛びついてキスをする。
「また会えますか? 会えたらお茶を淹れてくれる?」
娘は泣きじゃくりながら、夢中で二人の手を握りしめて尋ねた。イワンが困って口籠もっていたその時、ほとんど口も開かず、彫像か影のように立っていたスメルジャコフが口を開いた。
「ええ、構いませんよ。もし会えたなら……その時は、お茶をお淹れしましょう」
それから二人は立ち去った。荷も格好も、最初に来た時とほとんど同じだったが、スメルジャコフのカバンだけ、フランス料理のレシピ本の分重たくなっている。道を歩く間も、乗合馬車の中でも、降りて駅に向かう間も、二人は一言も口をきかなかった。
駅は混んでいた。人混みをかき分けながら窓口へ並び、南部へ向かう汽車の切符を買った。何か当てがあるわけではなかった。日が短くなり始めた今、故郷を思い出させる寒さから逃れたいという無意識の選択かもしれなかった。まだ夏の終わりで、日中は暑いくらいだというのに、おかしなことだった。
三等車両に乗り込み、ボックス席に向き合って座る。各々の隣の空きの席に、別々の乗客が座った。イワンがトランクを引き寄せて、足の間に置く。車内は、ぎゅうぎゅうと言うほどでもないが、どの席も人で占められている程度には混んでいる。床に荷物を置いて、その上に座っている者もいた。車両の中はあちこちから話し声がしてうるさかったが、かびくさいようなほこりくさいような、どこか煙たい汗の臭いが充満していて、まだ午前中だというのに、もう一日の仕事を終えたような、薄暗い、疲れた雰囲気だった。
汽車が動き始めると、イワンはうとうとし始めた。近頃、というよりは、おそらくはここへ来てからもずっと、あまりうまく眠れていないらしく、食事や仕事の合間合間に短い眠りをとっていた。彼が今どんな夢を見ているかは、その表情を見れば容易に想像がついた。
あのアパートを出る前、イワンは手紙を何度も書き直していた。結局どうしたのかは聞いていないが、いつでも机の上に出ていた紙片がいつの間にかなくなっていたところを見ると、おそらく出したのだろう。恋人と、無実の兄にどんな言い訳をしたのか、スメルジャコフは知らない。
駅に止まるたび、乗客は入れ替わりながら少しずつ減っていく。とある駅に停止した時、乗客が一気に降りた。ここが終点かと思ったが、皆ホームに出て体を伸ばしたり、行商人からオレンジを買ったりしている。ここでしばらく停車するらしい。イワンは向かいで、首を窓辺へがくりと傾かせて眠っている。額には脂汗が浮いていた。スメルジャコフはカバンを肩にかけると、そっと立ち上がり、ホームに降りた。
昼過ぎの、西に傾きかけた日は、斜め上から暴力的な陽光を浴びせかけてくる。先頭車両の方を見ると、給水塔からパイプが繋げられている。運転士らしき煤まみれの男が、その横でタバコをふかしている。ぶうんと羽音を立ててミツバチが飛んでいる。顔のそばまで来たのを手で追い払う。ホームの周りにはアザミが群れをなすように花を咲かせている。その先はなだらかな丘陵になっていて、青々とした草に覆われた丘にまばらに木が生えている。空気は乾いていて、風が吹くと土煙が立つ。ミツバチが土煙の中に消えていく。汗ばんだ肌に砂がついてざらざらした。
スメルジャコフは、カバン以外にももう一つ重い荷を背負っているように背中を丸めてホームの端まで歩いた。うなじを日光が焼く。雲一つない陽気も、砂埃も、花も、ミツバチの羽音も、全てが重く、煩わしかった。スメルジャコフはカバンを開けて、中からハンカチを取り出した。さっき大家の娘から贈られたものだ。ほどいたリボンをカバンの中につっこむ。ハンカチは糊がきいてぱりっとしている。
ホームの端に備え付けられた井戸のポンプは、体を洗う労働者たちが占めている。ハンカチを握りしめ、どう言おうか考えながら立っていると、一人がスメルジャコフに気づいた。それを濡らすだけならお先にどうぞ、とポンプを譲る。スメルジャコフは小さくどうも、と呟いてハンカチを濡らした。しっかりと揉んで糊を落とし、一度軽く絞ってから、もう一度洗う。広げた時にイニシャルが見えたのか、男の一人がハンカチを指して何か言った。恋人からか、それとも「ママン」からか? とでも尋ねたらしい。周りがどっと笑うのを、不愉快そうに顔をしかめて無視した。これを自分に贈ったののは、そのどれでもない。誰でもない、ただの少女だ。
わざと時間をかけてハンカチを洗い、水が垂れない程度に固く絞る。Merci、と言ってポンプから離れ、三等車に乗り込む。外で時間を潰しているのも飽きたのか、日差しに辟易したのか、中の方が人は多かったが、イワンの向かいの席はまだ空いている。カバンを下ろすと、底に入れたレシピ本が、座席に当たってごとりと音を立てる。それからスメルジャコフは、眉間に皺を寄せて眠るイワンの額の汗を軽く拭い、こめかみに濡れたハンカチを当ててやった。
ラナへ
お元気ですか。私はこの手紙を港の駅舎で書いています。私の乗る船はどうやら三日後にならないと出ないみたい。その間に泊まる場所を探さないといけないんだけど、探す、探すですって? どれだけ大変だと思ってるのよ。ちょっと面倒になって、あなたへの手紙を書いています。グラント先生たちもお元気かしら? 相変わらずあっちこっち診察に走り回っていらっしゃるでしょうね。
たった一月のようでもあるし、一月もここにいたっていう気もする。久しぶりにこっちに帰ったけれど、本当に忙しくて懐かしがる暇なんてありませんでした。家を整理していたら昔の日記が出て来たの。なんと十二歳の時のよ! 一部を抜粋して、ちょっと小説風に仕立てたのを同封します。前に話したイワンさんとパーヴェルさんのこと。私の初めての数学の先生と、私が今まで飲んだ中で一番美味しい紅茶を淹れる料理人さん。読み返したら、忘れていることも結構あってなかなか面白かった。私ったら、医学だけじゃなくて文学の才能もあるのね。
あの家を診療所にするというアイデアはとてもいいと思う。あそこにはそれを必要とする人がたくさんいる。でも、今はまだその決心がつかない。あそこは母と暮らした最後の家だから。ごめんなさいね、もう少し待ってて。家はもうしばらく賃貸に出しておく。でも、あちこち傷んでいたから、どちらにしろいずれ改修が必要だと思う。またお金がいるわね。今度はどうやって集めようかしら。マダムの皆様は私に好意的な人が多いわ。こっちにいる間も、何度か食事会に招待していただいた。あの中に「理解ある夫」を持つ人がいるといいけど。もしくは、独身の大金持ち。
本当になんでもかんでもお金のかかること。私の学費だって、母が私にと貯めた持参金なんて吹けば飛ぶみたいになくなってしまった。後に残ったのは「ペチコートをつけた医者」って称号よ。本当に腹が立つったら。医学校の図書館に行ったら入れてくれなかったのよ。女性は立ち入り禁止ですって。でも私はここの卒業生です、って言ったら変な顔をしていたわ。その横を学生がにやにやしながら通るのよ。「ペチコートをつけた医者」だって。ええ、そう、私はペチコートをつけた、ここにいる誰よりも優秀な医者よ! って言えたらよかったんだけど。結局二時間粘って入れさせた。読みたいものの半分も読めなかったから、次の日も行ってやった。
ああだめ。今ちらっとあそこを学校にするのもいいかもって思っちゃった。まずは診療所ね。でも学校も作りましょうよ。だから私たち、うんと偉くならなくてはね。それでうんとお金持ちになるか、お金持ちからうんとふんだくれるように有名にならなくちゃ。
書いていたらだんだんあなたが恋しくなった。早く帰りたい。でもひょっとして、この手紙よりも私の方が先に着くのかな。
そろそろ手紙はこの辺にして、宿を探しに行かなくては。三日経ったら、あなたへ向かう船に乗る。あなたの幸福をいつでも祈ってる。心の底から祈ってる。
ウジェニーより
あなたとあなたの愛する大地に、愛をこめて