誰でもない

 モスクワに来てからずっとネズミを殺している。人が多ければネズミも多い。修行先のレストランでは、いくらやってもネズミは仕方がない、これでもうちは気を使っている方だと言うがスメルジャコフは我慢がならず、毎日ネズミ捕りをこまめに確認し、かかった獲物に息があればすぐに殺した。これでは料理修行に来たのかネズミを殺しに来たのか分からない。
 モスクワはごみごみしていて空気が悪いし、下宿は恐ろしく狭く、埃っぽかった。人の作ったものを口に入れるのが嫌で、料理は台所の一角を借りて自分でしたが、大家からはその分の下宿代は引かないからね、と言われた。どうせフョードル持ちなのでどうでもいい。
 ある日、修行先のレストランに行くと、スメルジャコフ、朗報だぞ! と言われた。レストランの裏手の家で猫が仔を産んだらしい。大きくなったら一匹引き取って、ネズミ捕りに飼うという。
「これでお前もお払い箱だな」
とニヤニヤ言うのは、スメルジャコフよりも一つ上の見習いコックだ。ネズミを殺しに来たわけではないし猫も毛だらけで汚いと思ったが、会話が面倒で「そうですか」とだけ返した。見習いコックはスメルジャコフを小突く。それくらいならまだマシだ。虫の居所が悪いと、腕や背中をしたたかに殴りつける。ほんの一年かそこら、彼の方が早くここに入ったというだけで偉ぶっている。けれども彼もやっぱり下っ端なのは代わりなく、仕事の覚えが悪いとか雑だとか、あるいは特段の理由がなくても古株からの折檻がある。スメルジャコフは、持病を理由にしてあまり殴られることはなかったが、使い走りはよくさせられたし、腹いせに名前や病をからかわれるのはしょっちゅうだった。
 ネズミ捕りには今日はネズミがかかっていない。昨日もいなかった。根気強く仕掛け続けたお陰でいよいよいなくなったのか、単に知恵をつけただけなのか、どっちだろう。
「おい、返事しろ。ネズミ殺し」
と見習いは言う。そう呼ばれても返事はしない。年嵩のコックたちは「おい」とか「そこの」とか「坊主ども」と呼ぶ。別に自分を呼んでいるわけではない。見習いのうちの誰かを呼んでいる。ジャガイモを剥けとかニシンを下拵えしろとか、そういうことのために。
「いいよなお前は。その年でお屋敷勤めが決まってる」とジャガイモを剥きながら見習いがぐちぐち言う。確かにそうだが、スメルジャコフが決めたのではない。「俺は修行が終わったらまず店を探さなきゃいけない」だから何だと言うのだろう。「見つかるかどうかも分からないのに」自分には関係ない。
 パーヴェル、と料理長が呼ぶ。振り返りかけて、別のコックのことだと気づく。ここにいるコックがわざわざ自分だけを呼ぶ時は、スメルジャコフか癲癇持ち、で呼ぶ。
「お前パーヴェルって名前なのか? パーヴェル、おい、パーシャ」と呼ぶ見習いをひと睨みし、黙々とジャガイモを剥く。料理自体は格別好きなわけではないが、手を動かしていれば誰とも関わり合いにならないで済むのはいい。無駄口を叩かない分、スメルジャコフの仕事は早くて正確だった。
 十日とか二週間に一度くらい休みがある。今日は横になって何もしない、つもりであったのだが、何やら外が騒がしい。傷んだ裏口の戸の付け替えをしているらしい。それならすぐ終わりそうなものを、少し作業しては手を止めて、ごちゃごちゃと議論している。しまいには口論まで聞こえて来た。スメルジャコフはうんざりして起き上がり、サンドウィッチを包んで下宿を出る。中身のハムと付け合わせのキャビアは昨日修行先からくすねたものだ。ネズミ捕りの確認ついでに、食料庫からもらって来た。これまでも、スメルジャコフはしばしば食料庫から食べ物を持ち帰っていた。確かに猫が来れば、それも終わりかもしれない、と思う。
 外へ出たがさて、どこへ行こうか。モスクワへ行ったなら是非見に行かなくちゃ、とマルファに勧められて、一度芝居を見に行ったが、作り事ばかりでつまらなかった。偽物の背景に、狭い板間の上で、役者が人生や愛について御託を並べる。周りは笑ったり泣いたりしていたが、何が面白いのかわからない。彼にはどんなに迫真の演技で言われた言葉も空虚なものに思われた。衣装やメイクを見るのは面白かったが、今何がかかっているのか知らないし、この時間からわざわざ行って確かめるのは億劫だ。芝居以外で時間を潰そうにも、どこに何があるのか分からない。とりあえず出た道をまっすぐ歩いていると公園に行き着いたので、そこで過ごすことにする。
 公園を一回りして、なるべく人の少なそうなところに落ち着き先を決める。片方のポケットからハンカチを出して広げ、その上に腰を下ろす。もう片方からサンドウィッチを取り出して齧る。昼食はあっという間に腹の中に収まってしまい、後はやることがなくなった。やることがないのは下宿にいても変わらない。違うのは目の前をちらちらと人が行き来しているのが目に入るという点だ。
 道ゆく紳士淑女連は皆道連れがあった。友人同士か恋人か、男も女も二人とか三人で連れ立って歩いている。男は体にぴったり沿ったフロックコート、女はドレスの裳裾を引いて帽子を被っている。杖をついていたり日傘をさしていたり、道の真ん中を歩く連中は皆小綺麗な格好をしている。
 散策者たちは、まれに膝を抱えて座り込んでいるスメルジャコフにちらりと目をやることはあるものの、おおむね無関心だった。それをいいことに、スメルジャコフは人々を存分に観察した。というよりは、彼らの着ている衣装を。芝居で見た安っぽく大袈裟な舞台衣装と違い、彼らの着ているものは時に強く、時に柔らかくきらめいたし、道に敷かれた砂利を踏む靴のつま先は尖り、ぴかぴか光っている。
 そうやって過ごして日もそこそこ傾いた頃に、
「イワン!」
と声がした。見ると、揃いの制服を着た一際うるさいのが集団で歩いてくる。大方近所の中学生か何かだろう。スメルジャコフとそう大して年の変わらなそうな少年たちが、片時もじっとできない、と言うように、お互いにぶつかり合いながら、跳ねるように歩いている。中の一人が、もう一度、イワン、と呼ぶ。
 そういえばお屋敷に昔いた坊ちゃんもイワンという名ではなかったか。少年たちの顔を先頭から順に観察したが、よく分からなかった。イワンという名はよくあるし、もし仮にあの坊ちゃんだったとしても、そうとわかるかどうか。最後に会ったのはもう十年近く前だし、その時はまだほんの子供だった。少年のうち何人かはスメルジャコフに気づいたが、ちらりと見るか、軽く睨みつけるくらいで通り過ぎて行った。
 散策者はその後も途切れなく往来した。大抵は、彼らの同行者か、花や彫刻やよく晴れた天気に夢中で、芝生に座り込んでぼんやりしている少年のことは風景の一部のように通り過ぎていく。芝生には、同じように座って何か書いたり読んだり、ギターを持ち込んでゆっくりと爪弾いたり、木炭で手を汚しながらスケッチをしている人がいる。
 ここでは自分は空気みたいなものだ。母親が聖痴愚(ユロージヴァヤ)のスメルジャーシチャヤであることも、フョードル・カラマーゾフの陵辱の子との噂も、スメルジャコフという苗字も、癲癇も、誰も知らない。彼は今、誰でもなかった。
 公園は整然と形作られ、芝生の間を砂利道が通っている。木々は景観を邪魔しないように刈り込まれ、その下を子供が走っている。木の向こうには、石造りのモスクワ、レンガの壁の家が並んでいる。
 また騒がしい声がした。見ると、中学生たちがわいわい言いながら走ってくる。遊んでいるのかと思ったが、遅れる、マズいぞと言い合っている。さっきの奴らだろうか。スメルジャコフが見るともなしに見ていると、少年のうちの一人が足を緩め、見つめ返した。どうということもない、その辺にいる子供と変わらない、おとなしげな、普通の少年だった。
「イワン、置いてくぞ!」
 今行く、と言って、少年は走り去った。
 もう日は暮れかけていた。しばらくして、スメルジャコフも立ち上がり、下宿に帰った。その頃には裏口も直っているだろう、と思ったが、見ると掛け金のところを乱暴に紐で括り付けてある。あの後喧嘩でもしてしょっぴかれたか、大家に追い出されたかしたのだろう。
 その日から、スメルジャコフは休みの日には時折—— いや、雨でない限り毎回、公園に行った。道ゆく人々の服を見るのは楽しかった。見ていると流行もなんとなく飲み込めてくる。あの紳士は仕立てはいいが時代遅れだ。あれは最新版だが体に合っていない。女たちの服装も、それを着ている中身に目をつぶれば悪くない。それが分かってくると、今度は街の散策が楽しくなった。ショーウインドウに飾られた服は、芝居のポスターや絵画なんかよりよっぽど強く彼を惹きつけた。
 レストランにはまだ猫はやってこない。昼食のサンドウィッチの中身はそこそこ豪華だ。付け合わせは大抵酢漬けの野菜だったが、まれにキャビア。うまそうだね、と声をかけて通り過ぎる人もいる。俺のと交換しないかい、という申し出は丁重に断った。
 中学生は時々見たが、あの「イワン坊ちゃん」たちではなく、別の学校の生徒のようだった。どの少年たちも村の子供と変わりがない。やたらとうるさくて無駄な動きが多い。違うのは服装くらいだ。
「ねえ、坊や」
と、ある日、品のいい老婦人が声をかけてきた。最初はそれに気づかず、ぼんやりと彼女を眺めていた。坊や、ともう一度声をかけられて、慌てて立ち上がり、帽子を取る。
「私に何か御用ですか?」
「ええ、そうよ、坊や」
 老婦人は同行者に合図をした。従僕らしい男は、うやうやしく頷き、進み出てスメルジャコフに小さな紙包みを渡す。
「坊や、いつもここにいるでしょう? よかったらこれも食べて頂戴」
 包みを開けると、中には糖蜜菓子が入っている。上等なスパイスの香りが鼻先をかすめる。
「……ありがとうございます、奥様」
 一礼して顔を上げると、老婦人はにっこり微笑み、従者を連れて去った。スメルジャコフは、立ったまましばらく糖蜜菓子を眺めていたが、紙包みを乱暴にポケットに突っ込むと、散策者の間を足早に縫って公園を出た。糖蜜菓子は途中で捨てた。捨てるそばから、浮浪児が菓子を拾い上げて貪った。
 下宿に帰ると夕食も用意せずに部屋に閉じこもり、ベッドに腰掛けて歯を食いしばる。坊やと呼ばれたことも、菓子を渡されたことも腹が立って仕方がなかった。
 自分の姿を見下ろす。フョードルからもらった仕着せで、ここへ寄越される前に新しく仕立てたものだった。背はあまり伸びていないから、丈はちょうどいい。初めて袖を通した時よりは古びているものの、潔癖も幸いして全体的にさっぱりと清潔なままである。そんな服を着て、太ももにきちんと手を置いた姿勢で座っている自分は、どこからどう見ても、庶民の子供、召使いの子供だった。
 その日以来、スメルジャコフは公園に行かなくなった。出かけることはあったが、あの公園には絶対に近寄らないようにした。イワンと呼ばれていた少年とは会わず仕舞いだったが、そもそもスメルジャコフは、あそこで「イワン坊ちゃん」に会ったことも忘れていた。
 レストランには猫が来た。猫はよく働き、可愛がられ、順調に太り、今度は働かなくなった。結局またスメルジャコフがネズミ捕りの役割をすることになった。しかし猫の気配に怯えてか、ネズミはちっともかからない。
 一つ上の見習いコックは、酔って暴れたはずみで喧嘩相手を殺したか大怪我させたかで、それっきりレストランに来なくなった。しばらくして別の見習いが来た。そっちは羊のように大人しい、というかのろくさい少年だった。問題は起こさない代わりに動くのに人の二倍かかる。だから彼はよく殴られていて、いつも顔のどこかを腫らしている。
 モスクワに来て三年ほど経った頃、フョードルから連絡が来た。そろそろ帰ってこいと言う。料理長に暇乞いをすると、ふむ、と言ってから腕を組んだ。
「もちろん今すぐにというわけではございませんが。いつ頃でしたら辞められますか。主人に連絡をしなければなりませんので」
 料理長はしばらく無言で顎をこねまわすようにしてから、代わりが見つかればすぐにでもやめていい、だがもう少し働いてみる気はないか、と言った。もう少し修行するならもっと上の技術を教えてやると言う。
「はあ……」
「主人は怖いか? 俺から手紙を書いてもいいが」
「いえ……」
 マルファの料理にフョードルが痺れを切らしたのだろうが、もう少し修行を引き伸ばしてもまさかモスクワへ乗り込んでくることはあるまい。かと言って、モスクワに残りたいかというと、それについても感情が湧かなかった。
「店を持ちたくないか?」
「わかりません」
 スメルジャコフは即答した。おそらくフョードルが死ぬまでは、自分はあの屋敷でコックとして働くだろう。その後は、たぶん坊ちゃん方の誰かが屋敷を相続し、自分はそこでコックを続ける。それ以外のことは、考えたことがなかった。
「とりあえずもう少し修行を続けるのはどうだ? お前の主人も色々作れる奴の方が嬉しいんじゃないか」
「……わかりません」
 スメルジャコフは俯く。本当に分からなかった。あの屋敷で生きて死ぬ以外の生活があるということがうまく想像できなかった。
 料理長は、俯いて黙り込んでしまったスメルジャコフの前でしばらく待っていたが、やがてため息をつき、わかった、代わりのやつを探そう、と言って仕事に戻っていった。