イワン・フョードロヴィチが自分の連れ出した召使を、彼の名である「パーヴェル」で呼ぶようになったのは、ひとえに都市に溶けこむためだった。「スメルジャコフ」という姓はロシアでは——あるいはヨーロッパでも——耳目を引いた。モスクワで何かに気を取られてはぐれかけ、おいと呼んでも返事をしないできょろきょろしているので、いつも呼んでいた呼び名で呼んだ。それだけなのにすれ違った少年が振り返り、怪訝そうな顔でイワンを見た。その無遠慮な視線を浴びてまずイワンが思ったのは、新聞か何かに名前が出ているのかもしれない、ということだった。失礼いたしましたと戻ってきたスメルジャコフを連れて宿屋に入った時、そのことが思い出されてイワンは彼を「パーヴェル」と呼ぶことにした。
もっとも普段はもっぱらおいとかお前とか呼んでいたが、そう決めてしまうと「パーヴェル」はごく普通の男のように見えた。むしろ田舎町の召使にしては小綺麗な方だろう。実際彼は、あの家を出てからずっとできる限り身綺麗にしようとしていた。ただ病み上がりでその気力が十分にないのか、どこかちぐはぐではあった。髪はくしゃくしゃで襟足が跳ねているし、シャツのボタンは、もともとそうだったのか、それとも移動中に引っ掛けたのか、三つめが取れかけている。だがともかくも、髪には櫛を入れ、シャツのしわも可能な限り伸ばしていた。スメルジャコフはなぜかその二点をやたらと気にしていて、旅の最中でも襟足を押さえたりシャツの裾を引っ張ったりしていた。
イワンは、スメルジャコフが身だしなみを気にしてごそごそするたび苛立ちを感じていた。が、強いてそれを表に出さないようにしていた。ふところにはあの三千ルーブリがあり、イワンの財産もそうしようと思えば換金できるだろう。しかし二人は、そう申し合わせたわけでもないのに慎ましやかに過ごしていた。ドミートリイの馬鹿のように金を蕩尽してしまうこともなかったし、酔って誰かに喧嘩をふっかけることもしなかった。そうしていれば、イワンとスメルジャコフはただの旅行か所用で都会に出た若旦那とその従僕に見えた。そういう組み合わせは特に駅の周辺では珍しくなかったし、それはイワンを安心させた。つまりは目立ちたくなかったのだった。苛立ちに任せてスメルジャコフを罵れば人目を引くだろう。
自分に関係のない揉め事は田舎でも都会でも手頃な見せ物だ。うっかりと喧嘩になれば、百姓外套を着た町人から時計の鎖をぶら下げた紳士まで、物見高い見物人が集まってくる。それはそれで耐え難かったが、どこぞの若旦那が従僕を罵倒する様子なんてものは、見物にも値せず、人々はただ田舎者を見るような視線をちらりと投げかけて通りすぎる。少し大きな駅に着くたびそういう男たちに遭遇する。モスクワ駅では、突然怒鳴り声が聞こえて振り向くと、主人らしき男が従僕にあたり散らしていた。主人は赤毛で、口と顎は髭を剃り落として頬髭だけを伸ばしていた。服装はよく言えばベーシック、悪く言えばやぼったい色と型で、今どき誰もつけていないような形の折り返しのついた袖を振り上げ、何か叫んでいる。荷物の運び方が気に入らなかったか何か忘れていたか、そんなところだろう。従僕の方は顔を斜め下に向けて叱責を大人しく受けている。人の流れを止めている二人組にちらりと冷たい視線を投げかけながら乗客が横を通り過ぎる。暇なのかそういう性格なのか、人品卑しからぬといった風情の紳士二人が、駅舎のそばでタバコをふかしながら遠巻きに見物している。
そうした視線を自分が浴びる羞恥を考えると、イワンはスメルジャコフを「パーヴェル」と呼び、彼がどんどん小綺麗になっていくのを視界に入れないようにして、自分の苛立ちを無視するようにした。スメルジャコフの方も、スコトプリゴニエフスクでしばしば見せていた厚かましい態度を引っ込め、ただの下男のように振る舞うようになっていた。
その均衡が破られたのは、フランスに入って最初に乗った列車の中だった。入り口すぐの席に向き合って座った時、イワンの鼻が慣れない匂いをとらえた。甘ったるい花の匂い。それは列車が走り出した後もずっとついてくる。車内はそれなりに乗客がいて、体臭と埃と石炭の燃える匂いが風向き次第で入れ替わり鼻をつく。だが、この匂いは向かいに座っているスメルジャコフのものだろう。ロシアで泊まった宿で、彼の荷物の中に香水瓶があるのを見た。わざわざ持って来たのだと思うと腹が立ったが見ないふりをした。その時の苛立ちがにわかに思い出されてきた。鼻を鳴らすとスメルジャコフが窓の外から視線をはずしてこちらを見つめた。
「何だ」
「何かご用でも?」
「何でもない。気にするな」
イワンは手を振って窓の外を見た。しかし向かいの席でこの下男がじっと自分の方を見つめているのに焦れて相手を睨みつけた。「なら言うが、その香水だ」
「お気に召しませんか」
「ああ、気に入らないね」
スメルジャコフはわかりましたと言うと自分のカバンから香水瓶を取り出し、素早く窓を開けるとそこから瓶を放り投げた。あっという間の出来事だった。あっけにとられてスメルジャコフの方を見ると、彼は無言でイワンを睨み返した。どうです、これであなたのお望み通りでしょう、と言わんばかりの表情だった。
「……ばかめ!」
イワンはそれだけ言って目を逸らし、窓の外を見た。おそらくそれが、あの家を出て初めての衝突だった。そうしたことは滅多にあるものではなく、実際列車に乗っている間も、降りた後も、宿を転々としている間も、しばらく腰を落ち着けるための家を決めた後も、彼らはお互いに距離を保って暮らした。
賑やかな街だった。そして華やかな街でもあった——金のかけられる人間にとっては。石畳の大通りにはカフェや劇場が並び、パサージュを歩けばショー・ウインドウに服やら靴やら時計やらが陳列されている。香水の店もあった。イワンはそれを見ると列車でのことを思い出して嫌な気分になったが、スメルジャコフの方も香水の店があると目を逸らすのに気づいた。勤務を決めたレストランからは給金が入る。そう気軽に買える値段ではないが、全部が全部手の届かないような高級品というわけではない。店を選べば前と同じような香水を手に入れられるだろうが、彼はそうしなかった。そのくせ、店の入り口を道を挟んだ向かいからちらりと見てはくよくよした表情を浮かべる。
どうやら彼は店に入って客扱いされないのを恐れているらしい。しばらく暮らしてみてそう気づいた。躊躇する大きな理由は言葉であろうと思われたが、イワンにはそれが不思議にも思えた。市場などでは物怖じせずに、覚えたてのフランス語とロシア語を混ぜて正確に買い物をし、値段交渉までやりこなすからだ。しかし、そう……市場と店は異なる。客層の違いだけではない。あれは彼にとっては憧れだった。どんなに安ピカものの店であっても。だからこそ入れない。
そんなふうに観察されていると知ったらまた彼は憎悪と羞恥で真っ青になるだろう。しかし観察は今やイワンの仕事だった。
仮の住処であるアパートの窓から、イワンは外を見つめる。これはモスクワにいた頃からのくせだった。編集者に売るのにいいものがないか、彼は常に貪欲に通りの出来事を漁っていた。自分の足で見つけに行くことも多かったが、部屋にいる間も外を眺めてそこにいる人々を観察していた。単なる人間描写でも、ニヒリストの女や田舎者を戯画化して書いてやれば読者大衆は喜んで読む。今もとあるゴシップ誌にペラ紙一枚いくらで原稿を売っている。あまり行儀のよくないものが編集長の好みで、つまりは人の恥部を覗き見る卑しい仕事だ。喧嘩に不倫、田舎紳士や田舎淑女の珍道中、間抜けな犯罪者、出所の分からない噂に怪談、猟奇殺人、はては自殺まで。イワンがこれを涼しい顔で書いていられるのは、そのあまりに即物的な支払い方法のせいかもしれなかった。中身はちらっと見るだけで、あとは原稿の枚数通りに決められた金が現金で渡される。それなりに読める字で、埋め草になるなら何でもいい。何でもいいから彼は自分の言葉と自分自身を切り離していられる。
売れるようなちょうどいい事件は、窓の外をぼんやり眺めても起こるわけでもなかったが、イワンはよくそうしていた。部屋は狭く、気づまりだった。部屋のせいではなく、一緒に暮らす下男のせいだった。それでイワンは窓の方を向いた。
窓の外を甲高い声が近づいてくる。その声を聞いてイワンは身を乗り出した。上を見ると、晴れ渡った空に薄い雲がところどころにかかっている。虹だ、という声が聞こえる。下では子供たちが駆けている。ここらに住む子供たちで、イワンも顔くらいは見たことがあった。一日逍遥して帰るころに、数人ずつかたまって石蹴りや陣地取りをやっている。名前も知っている。ニコ、ステフ、ココ、ギュス、アディル、ポール、エマ、レニ。分からないのも何人かいる。好奇心の強い子供は向こうから勝手に近づいて、自分の名前を名乗る。そうでない子供も、他の子供が名前を呼ぶ。ジャンとかポールとか。遊ぶ時や、あるいはそれを拒絶し、からかう時。仲間はずれにされた子供はぎゅっと口を引き結び、服の裾を掴んで立っている……。濃い色の巻き毛の子供で、他の子供達よりも痩せていて小柄だった。イワンが見ているのに気づくと、顔を赤らめてぷいと顔を逸らし、家に入る。次の日に見ると、その子供は遊びの輪に入っていた。イワンに気づくと何やら甲高い声をあげて指を指した。子供たちが振り返り、ワッと言って逃げ出した。あの巻き毛の子供が石を拾って投げる。石はイワンの足元に当たって転がった。どうやら自分は、彼らに敵もしくは闖入者と認定されたらしかった。
あの時イワンから逃げて走った子供たちは、今日は虹の足を見つけるんだと口々に言いながら走っている。根元には財宝が埋まっている。幸福を求めるひと塊りの生き物になって、彼らは走る。
「パーヴェル」と彼を呼んだ。おいでもお前でもなく、スメルジャコフでもなく、名前で呼んだ。なぜ彼を呼んだのか自分でもわからなかった。虹の話をすると彼ははあ、と言って外を見た。彼にもやはり虹は見えないらしい。
「子供にだけ見えるんだろうか」
「ご冗談を」
言って彼は窓辺を離れる。彼からは火の匂いがした。油、肉、温められたハーブ、香草、小麦、酒、汗、それら全ての入り混じったもの。イワンは窓辺に立ったまま、部屋の奥へ向かうパーヴェルの背中を見つめる。右耳から頬、それから肩へ、窓から入った昼の光が落ちて柔らかに温めた。誰も子供をあんなふうに呼んではいけなかった、という考えが唐突に浮かんだ。彼らはもうすでに子供ではなかったが、そう思った。