イワンが帰りたい、と言い出した時にはパーヴェルも文句の一つも言ってやろうと思っていた。が、その青い顔を見て引っ込めた。どうやら人混みに当てられたらしい。これ以上引っ張り回したら倒れてしまうだろう。
腹は立つ。久しぶりに外で会おうと言って来たのは向こうだし、少し作業が長引いているからと待たせた挙句に帰るだなんて。でも、本当を言えば待ち合わせに一時間遅れでイワンが現れた時からそうなるんじゃないかと思っていた。というか、今朝朝食を少し残した時から。もっと言えばここ一週間、随分と根を詰めていた時から。悪い予感はしていた。別の日にいたしましょうかとも尋ねた。だけど大丈夫だと言うから!
そう、つまり、要は、自分は今日をものすごく楽しみにしていて、それがおじゃんになったのが気に食わないのだが、そういう子供じみたわがままな感情が生まれているということ自体に真っ先に腹を立てているのだ。それでむっつり黙っていると、イワンは何か勘違いしたのか、「埋め合わせは必ず……」などと言って来る。埋め合わせなんて! 今日は今日しかないのに! という言葉を飲み込んで、「その話は今度にでもしましょう。まずは帰って横になるべきですよ、あなたは」と言った。イワンに気遣ったというよりは彼の反論を封じたのだった。イワンは大人しく黙りこみ、とぼとぼとパーヴェルについてくる。
家に帰り、イワンにクワスを飲ませて寝かせる。それからメイクを落とす——その前に鏡で仕上がりを確認する。鏡には、陶器のような肌に涼やかな目元の、素性のわからぬ男が映っている。少し目を伏せて鏡に斜めに視線を向けると、上品かつ勝ち気な表情が現れた。やっぱり、結構上手くいっている。というかここ最近の中でも傑作に近い。ちゃんと動画を撮っておくんだったと思う。写真を撮り、出かける前に記録用に撮ったものと比べる。出かける前と後、どちらかわからないくらいに顔面は仕上がっている。お出かけしても崩れ知らず。もっとも今日は崩れる余地もなかったが。さっき寝かせた同居人への苛立ちがぶり返しかけて、パーヴェルはスマホ画面を閉じて鏡に向かう。
メイクは仮面というより自分にとっては自分の顔の一部だった。作り上げた顔は自分の技術で得たもので、素顔は数ある顔の一つにすぎない。メイク道具を駆使して、毛穴一つない美しい顔を作り上げるのは小気味良かった。最初はメイクをして出かけるぐらいだったが、参考にしている動画を見ながら、ある日ふと自分もこれをやっていいんだと思った。最初の動画を公開して以来順調に登録者数は伸び、それなりに生活費も稼げるようになっている。顔変わりすぎ、やばい、詐欺かよ、素顔ブスすぎ。そんなコメントが飛ぶのもしばしばだったが、だから何だというのだろう。変えるためにやっていると最初に明かしているのに。世の中には自分が思うよりも阿呆が多いと知ったのも一つの収穫だったと言えるかもしれない。
元々そういうものには興味があったが、あの田舎町では香水を買ったくらいでもう噂になり、からかいのタネになる。イワンの大学進学に合わせてモスクワへ来たのは料理の勉強のためと、寮生活しかしたことのない「イワン坊ちゃん」の世話のためだったが、半分はそういうものと縁を切りたかったのもあった。以来ずっと、イワンが大学院へ進んだ後も二人で暮らしている。別にわざわざ外で会わなくてもいつだって会える。むしろ顔を合わせすぎて衝突することの方が多い。
いや、だから、むしろ今日の外出を楽しみにしていたのだが、イワンがあれでは仕方がない、普段ならああ言われたら言い返してくるのだが、今日はその元気もなかったようだし、しかしそれなら初めから無理だと言えばいいのに……などとやはりイライラしながらメイクを落とし、シャワーを浴び、スキンケアに移行し、それでも腹が収まらないので翌日の食事の仕込みをして寝た。
翌朝、朝食用のパンを焼いているとイワンが起きてきた。「おはようございます。お加減は?」と尋ねると、「悪くない」という答えが帰ってきた。寝巻きのまま、寝癖も直さずにうつろな目で食卓にぼんやり座っている様子は「悪くない」ようには見えないが、確かに顔色は昨日に比べてずっと良くなっている。コーヒーを淹れて目の前に置くと、ようやく顔を上げてパーヴェルの方を見た——そしてちょっと残念そうな顔をする。こいつ。
「私で残念でございましたね、あちらの顔の方があなたのお好みでございますから」
「それは……別に……そういうことではなく……」
「おや、それでは昨日のはお気に召しませんでしたか」
「いや、その……い、今は関係ないだろ」
と言ってぷいと顔をそらし、コーヒーを啜った。都合が悪くなるとそうやって誤魔化すのは彼の悪い癖だ。こちらもある程度いたぶってやったので、これで満足することにする。
イワンは終始無言だった。普段から口数の多い方ではないが、今日は一段と口が重い。朝食を出し、食後のフルーツを出し、コーヒーをもう一杯飲んでようやくイワン・フョードロヴィチは「昨日は悪かった」と押し出すように言った。パーヴェルは、一つため息をついて、
「構いませんや、体調が悪いのに出かけても仕方ありませんしね。ですけれど、昨日のは流石にあなたの体調管理も問題ですよ。まずあそこで寝るのをおやめになってください」
と居間に置いたソファを指差した。
「次やったらあれも撤去しますからね」
「わかった」
イワンは頷いた。だがおそらく、またやるだろう。研究が立て込んでくると、寝る支度に入る前にソファで寝てしまう。ほんのちょっと休むだけのつもりだった、といつも言う。そして咳だの熱だのを出す。
パーヴェルはこっそりと自分が得たものを数える。料理については、レストランを開けるだけの腕と資格は身につけた。メイクだけでなくレシピを配信したのも評判で、そちらからも結構収益がある。いつだってここを出て行っていい。自分は一人で生きられる。
ねえ、そのこと、本当にわかっているんですか。
パーヴェルはイワンに心の中で問いかける。きっと自分はもっとたくさんのことを試す。そうせずにはいられない。あの町を出てカラマーゾフにも養父母にも頼らないでいい力を得た。それは胸を焼くほどほしかった自由のはずなのに、いざ手に入れてしまうとどこかそら恐ろしいもののような気がした。あの町のしがらみから自由になりたい一心でここまで来たけれど、実はもうとっくにそんな地点は通り過ぎていて、今や自分一人でどこへでも行ける。そのことに気づいてしまった。いつか、おそらく、きっと、それは本当になってしまう。ここを離れることを選ぶ。
イワンはたぶん、そのことを怖がっていない。ただ気づいていないだけかもしれない。それが悔しくて憎らしい。