アレクセイ・フョードロヴィチからの手紙が絶えて半年が経ったが、イワン・フョードロヴィチは一向気にする様子もなく、相も変わらず昼近くに起き出してお茶を飲み、母に請われてはプーシキンやシラーを暗誦している。うろ覚えの部分は即興で創作しているらしく、それも母を喜ばせる。伝統という埃の積もった書物によるかびの生えた古典教育のたまものだ。
ロシア帝国は、「教養」の名の下に無数の若き記憶力を浪費し、何をなすべきかも未だ知らぬ意欲にあふれた脳を疲れさせた。そうして使命を悟る年頃にはすっかりお役所仕事に馴致し、無難にことをなす以外に労力を割くことを忘れている。何という悲劇! もちろん古典も文学も一国の自立性のために欠くべからざるものだが、それはそういうのが得意な連中に任せておけばいい。これからの時代にはもっと必要な新知識があり、しかも多岐にわたっていて、今後ますます増えていく。暗誦や記憶術のためにいたずらに頭脳を消費するべきではないのだ、とコーリャは職場のうすのろ連中を思い浮かべながら苛々と考える。
イワン・フョードロヴィチは、かつての若き頭脳だった。今や彼はこの家の安っぽい花瓶に生けられた温室育ちの花であり、母なる大地から切り離され、今さら元の場所に戻ることもできなければ、丁寧に世話をされなくては咲き続けることもできない。
そして何よりこの花は、今や国家に仕える身となったとは言え木端役人にすぎないニコライ・クラソートキン一人の給与では手に余る。世話をしているのは、母がなぜかイワンを気に入っているのと、年上の友人であり師であるアレクセイ・フョードロヴィチからよろしく頼むと託されたからだ。
アレクセイ・フョードロヴィチは現在、ロシア全土を対象にした調査任務に就いていた。各地を見回り教育の浸透具合や農村の子供達の様子なんかを記録し、「大改革」の成果としてまとめる目的らしい。さるべき地位にある、尊敬すべき知人からの依頼とかで、自分としても是非ともやりたいが、兄を一人にするのは心配だからと無理を承知で自分のところに来たのだった。もちろんコーリャが断るわけがない。いや、少しはためらった。その点嘘はつけない。しかし、頼んできたのは他ならぬアレクセイ・フョードロヴィチ、十代の頃から打算も優劣もない、汚れなき友情を築いてきたその人なのだ。だからこそ居候を引き受けたのだし、今も世話をしている。そうでなければとっくに放り出している。
そんなことを考えていたので、居間に入って中を——中の惨状を見た瞬間、コーリャの怒りは瞬時に沸点に達した。今朝出かけた時には綺麗に掃除され、ちり一つ落ちていなかった部屋は、今や得体の知れないゴシップ紙や保守系の文芸雑誌、ちびた鉛筆に何かの書き付け、丸めた紙(いくつも!)やチョコレートの緑の包み紙、中身の半分ほど入ったコニャックの瓶、古い上着にこれまた使い古しの格子縞のハンカチまでもが散らばって雑然を通り越して混沌とした様相を呈している。彼はつかつかと混沌の中心に鎮座しているクッション張りの長椅子に近寄ると、その脚をガツンと蹴り飛ばした。うう、とうめき声がして、長椅子に眠る人物が身を起こす。体の上からゴシップ紙がバサバサと落ちる。
「おはようございます、イワン・フョードロヴィチ」
コーリャはつんとして言った。イワンは大きなあくびをして、中途半端に伸びた髪を雑に撫でつけた。今日も一日中家にいたらしく、着古したシャツにこれまた着古したガウンを羽織り、帯だけはきっちりと締めている。また徹夜でもしたのだろう、黄ばんだ白目は充血していた。長年の不摂生のせいか、肌はかさついて張りがなく、くすんだ色をしていて、これもまたこの男のどこかだらしない雰囲気を助長した。
「ああ、どうも。ニコライ・イワノフ、ご機嫌麗しゅう」
イワンは伸びをして、膝の上にひっかかっていたゴシップ紙を払い落とした。コーリャの眉が跳ね上がる。
「あなたねえ……! ……いえ、いいです。とにかく母が帰って来るまでに片付けてください。これじゃ居間じゃなくて何かの巣みたいですよ」
「なかなか面白いことを言いますね」
「あなたに言ってるんですよ。ここはあなたの部屋じゃなくて家族共用の居間なんです、せめて綺麗に使ってくれないもんかな!」
「努力はしているんですがね」
「実践してください」
「いいですとも。何と言っても私は居候の身ですからね。あなたの慈悲に縋って浮世に間借りしている以上、端の方で小さくなっているのが分相応というものです」
「だったら尚更そのように実践してほしいものですね!」
高慢な調子で卑屈なことを言うイワンにカッとなりながら、コーリャはゴシップ紙を拾い上げてずれていたページをきちきちと重ね、四つに折りたたんで長椅子の端に重ねていった。反故紙なのか何なのかわからない書き付けや便箋も同じように畳んで重ねる。イワンは気のない表情で、長椅子に腰掛けたままそばに落ちていたノートの背を指でつまんで拾い上げると、パラパラとページをめくってコーリャの積んだゴシップ紙の上にぽいと投げた。それから、見出しのフレーズにでも興味をひかれたのか、紙の束に指を入れてちょっと持ち上げる。首を傾げて中を覗き込むようにすると、またぱたりと戻す。ずれた端っこをおざなりに直して、ノートを一番上にそっと置き、見目よくなるよう位置を調整する。
一連の動作をちらちら視界の隅で確かめながら、コーリャは紙ごみと酒瓶をまとめて扉の横に置き、床に散らばった紙類を整理していた。よせ、何も言うな、そこで伏せていろ! 自分にそう言い聞かせつつ、イワンの持ち込んだ諸々の紙類を判型と種類に分けて整理し、長椅子の端から順番に並べていった。そうやって手を動かしていると雑念が消えていく。ニコライ・クラソートキンはこの上ない実務家であり、秩序を取り戻すためのシーシュポスじみた繰り返し行為すなわち片付けに快を見出すことのできる稀有な人間であった。彼は腹立ちを忘れて片付けに熱中し、ものの十五分足らずでほぼ元の状態を取り戻した。自分の行った仕事に満足しつつ部屋を見まわし、ほうと一つ息をつく。ふとイワンの方を見ると、すっかりソファに腰を落ち着けて帆掛船を折っている。さっきの紙の束から引っ張り出したものらしく、帆や胴に走り書きが見えた。イワンは折りあがったのを目の高さに掲げ、ふうんと満足げに鼻を鳴らした。コーリャがまた何か言おうと口を開いたところで女中が入ってきた。
「お茶の用意ができましたが——」
「いらん! 何、お茶?」
「いただきましょう」
二人は同時に言った。コーリャがイワンを睨みつける。女中は戸惑った表情で居間の戸のところに立っている。イワンはチラリと女中の方を見てやれやれというように小さく頷いた。
「さっき頼んだんですよ。この時間に用意してくれとね。すっかり忘れていました。あなたもいかがです」
「お茶なんて」
「おお若人よ、前途洋々たれ! お茶すら出してもらえない生活はみじめなもんですよ。熱いお茶の一杯が人の魂を蘇らせることもあるんです。これは私が例の温泉地でルーレットに明け暮れていた頃の話ですが……いえ、よしましょう! あなたの気にいる話ではないでしょうし、起伏のあるタイプの物語ってわけでもない……まあ一種の精神生活の記録といったものでしてね。それはそれとして、もう用意はできているんですから、今更どちらも同じことじゃありませんか。ほらナスチャも困っていますよ」
「……いただきましょう!」
コーリャは片付けの仕上げに、使い古しの格子縞のハンカチと上着を腕にかけた。が、衣類を渡そうとした女中は素早く居間から逃げ出していた。致し方なくコーリャは折った上着を長椅子の背にかけ、ハンカチは四角に折って書類の一番上に置く。そうして一人用の肘掛け椅子に腰掛けて、一つ大きく息を吐いた。これはサイドテーブルを挟んで、イワンの腰掛ける長椅子と直角に置かれていたが、長椅子とは別に、向かいの家族が引っ越すときに安く譲ってもらったもので、それ自体は落ち着いた風合いにもかかわらず他の家具と調和しないために、居間全体をどこか散漫な調子に見せていた。座り心地はよく、母も好んで腰掛けている。居間にはこの椅子の他に、長椅子とそろいの背もたれのない椅子があって、普段はもっぱらそちらを使っていたが、母がいない時には、コーリャはよくこの椅子を選んでいた。
「一段落ですか?」
「ええ、お茶が待ち遠しい……上着を落とさないでください!」
長椅子の背にもたれてくつろいでいたイワンは、コーリャの声におっとという表情になって体を横にずらした。せっかくきれいに折った上着の折り目がずれている。あれではかえってだらしなく見える。コーリャは理性を総動員してこれ以上小言を言うのを我慢した。イワンは何を言ってものらくらかわすばかりなのだから、うるさく言った分疲れるだけだ。幸いというべきか、これ以上のいざこざが起こる前にお茶が届けられた。
イワンの言うことは気に食わない。が、お茶に関しては確かに真実を言い当てている。香り高い湯気を放つカップに口をつけながら、強張っていた背の肉がゆっくりほころんでいくのを感じた。茶葉は母の気に入りの銘柄で、特別珍しいとかものすごく高級というのでもない、言ってしまえば日常使いのありふれたものだったが、そういう貨幣的な価値よりも精神的な意味合いがはるかに重要なのだ。それにとにかく……まあいい! コーリャは紅茶を飲みながら、そんな理屈っぽいことを考えていた。イワンはイワンで、いつものようにとり澄ました顔でお茶を飲んでいる。コーリャはふいにイワンがさっき言いかけていた話に興味をそそられた。イワン・カラマーゾフは、例の事件のあった後、故郷を出て転々としていたが、五、六年ほど前、ドイツかどこかの避暑地に行った際にルーレット賭博にのめり込んだ。その時の破産が、イワンがここへ居候する遠因となったのだが、当時の話をイワンは実に興味深く語るので、悲壮な話というよりも気の利いた一口話のように皆聞いていたのである。確かにコーリャはそういう話が出る時は苦虫を噛み潰したような顔をして聞いていたものだが、精神生活の記録というフレーズは彼の気に入った。
「イワン・フョードロヴィチ」
「何です」
「確かにあなたのおっしゃることは一理ある……つまり、紅茶に関してですが」
「無理に話題を探す必要はありませんよ。我々は敵同士じゃありませんか?」
イワンはにべもなくコーリャの会話を叩き切った。コーリャはむっとして紅茶のカップをソーサーに置いた。陶器同士が当たって耳障りな音を立てる。
「あなた、お茶の時間くらい穏便に済ませられないんですか?」
「穏便にね! まあ性分なんでしょうな」
イワンは投げやりに言った。自分からつついたくせに、まるで上の空で何かに気を取られたように無心にカップを口に運んでいる。ちぇっ! 僕をからかって楽しんでやがる、とコーリャは内心むかむかしながら紅茶を飲んだ。この場に母がいれば場が和んだろうに、彼女は近所の商家にフランス式の刺繍を教えに行っていていなかった。大の男二人が一言も話さず、砂糖をちびちび齧りながら黙々とお茶を飲んでいるのはどこかしら滑稽な感じのする光景じゃないか、とコーリャは内心顔をしかめた。さっき会話を切られたのも、自分の下世話な好奇心を見透かされたようで、何か不体裁なことのように思われて、コーリャはまたぞろ口を開いた。
「あなた……あなたはどうしてそう……いえ、いいです。喧嘩をしたいわけじゃない……僕は単に……どうしてあなたは仕事をしないのかが不思議だってだけなんです! 何も賃労働をしろと言っているのではありません。無為に過ごすのをおやめなさいと言っているんです。あなたはモスクワ大学の出で学識がおありだし、教育も経験もあって、何よりアレクセイ・フョードロヴィチの兄さんだ! どうしてそう無為に暮らそうとするんです。エッセイの執筆でも思索でも、何か生産的な活動をなさったらもう少しあなたの生活にも活気が出ますよ。今のあなたはまるで干した魚みたいです! 無気力の墓に身を沈めるにはまだ若すぎるでしょうに、そうじゃありませんか?」
イワンは突然勢い込んで話し出したコーリャを怪訝そうな顔で見ていたが、話が進むにつれて、その唇の端に冷笑が上り出した。終わりの方は、ほとんど軽蔑と言ってもいいくらいの表情を浮かべていた。コーリャが話を結んでも、そのまままる一分ほど、彼の顔をまじまじ眺めていた。
「正直におっしゃいなさい!」
イワンは突然がらっと陽気な調子になって言った。
「何をです?」
「さっきから私に何か言いかけているじゃありませんか? 正直に言っておしまいなさい、あなた」
「正直にと言ったってね、あなたに言いたいことなんていくらでもありますよ、いくらでもね!」
いくら言っても散らかすこととか、昼まで起きないところとか、ぷらぷらしては近所の子供にほら話を吹き込んで遊んでいることとか、投げやりなくせに妙にぜいたくなところとか、たまに飲酒がすぎるところ、行きずりの酔っ払いやら無職の退役軍人やら娼婦やらとつるんでいるところ、無節操、無気力、無秩序、無礼、無作法、だらしなく伸ばした髪とか! コーリャは頭の中の「イワン・フョードロヴィチに言いたいことリスト」を瞬時に数え上げた。この手のリストは普段から何度も頭の中で反復し、イワンに叩きつける機会を伺っていた。が、今はどうでもいい。
「今僕があなたに言いたいのはたった一つです。つまり、僕はあなたに期待しているってことなんです! イワン・フョードロヴィチ、あなたは僕なんかよりずっと頭がいいし、色々な経験もなさっています。ええ、もちろんろくでもないのも含めてね。しかしイワン・フョードロヴィチ、あなたはそこから蘇ったじゃないですか? あれほどのめり込んだルーレットだってきっぱり縁を切った! お気づきですか、あなたは大変魅力的なんですよ! すばらしい感性をお持ちです! この界隈だけでもあなたと話したがる人間がどれだけいるかご存知ですか? あなたはもっと社会に出て仕事をすべき人なんです。お金なんて! それよりも価値のある活動をあなたはなさるべきだ! なぜそうしないんです? こんなところでゴロゴロしていてはいけません。不健康です。外においでなさい、ぜひそうすべきです!」
イワンは最初呆気に取られたように、次に冷笑を浮かべながら、コーリャの顔を見ていたが、話すにつれて相手の頬がバラ色になっていくのを見るにつけ、何か神経質そうな表情がちらちら見え隠れし始めた。冷笑での取り繕いが破綻しかけた瞬間、イワンはひょいとコーリャの方へ身を乗り出して接吻した。コーリャが体をのけぞらせ、紅茶のカップとソーサーを取り落とした。
「失礼! あんまりうるさかったものですから!」
イワンはけらけらと高笑いをした。そこにはさっきちらりと見えた神経質な強張りがまだ残っていたが、頭に血の昇ったコーリャは気づかなかった。
「あなた……あなたは恥ずかしくないんですか!」
「何がです。接吻くらい友人同士でもやるもんでしょう? もっとも我々は敵同士ですがね、はは!」
「そうではなくて……」
もどかしげに言葉を探すコーリャを尻目に、イワンは紅茶のカップをサイドテーブルに置くと、長椅子の上に置かれた紙類からノートだけを引っ張り出し、「興味深い話をありがとうございました。では、後ほど!」と席を立った。立ち上がった拍子にさっきの紙の船が床に落ちたが見向きもせず、居間の戸の脇のごみの間から中身の入ったコニャックの瓶をつかんでノートと一緒に胸に抱える。扉を開いて外へ行きかけて、ふと振り返る。
「先ほどあなたは、私がルーレットから縁を切ったとおっしゃいましたね。きっぱり縁を切った、と! けれどね、あなた、何のことはない、私にはその金もなければ気力もない、それだけなんです! あなたは私を買い被りすぎです。私はすっかり終わった人間なんですから……どこかの親戚か誰かが私を連れ出してあそこに放り込んで、さあ、遊んでいらっしゃいと言えば私は喜んでルーレットにのめり込むでしょうね! 恥知らずにも最後の一グルデンまでかき集めて、それを全部ルーレット台に置きに行くんです! 震える手でね……これがなくなればいよいよ一文なしだぞと自分に言い聞かせながら、しかしそのことにぞくぞくしながら賭けるんです。お茶なんてとっくに出されなくなっていますよ。ひょっとしたらホテルを追い出されているかもしれません。そうなったら行きずりの男か女の家に行くんです! そしてすっからかんになったら、借金をして、最後は債務監獄行きです。それ以外にも色々とろくでもない経験にのめり込むでしょうが(それを聞くと、コーリャは少年のように赤くなった)それらは全て、成り行きのまま、ああそうなるぞとわかっていながら流されて起こるでしょうね。そんな親戚はいないのでここにいる、ただそれだけの話です。僕は堕落しているんです。意志も気力もない、そういう人間なんですよ!」
イワンは息を切らさんばかりにして一気に言うと、短く鋭い笑い声をあげて居間から出て行った。扉が音を立てて閉じた瞬間、コーリャは立ち上がって追いかけようとしたが、足元に転がったカップを蹴飛ばしかけて立ち止まった。落とした時、中身はほとんど残っていなかったが、わずかに底に残っていた紅茶がこぼれてコーリャのスラックスにしみをつけていた。彼は肘掛け椅子のそばに膝をつき、落としたカップとソーサーを拾い上げた。幸い割れずに済んだようで、コーリャはほっと息をついた。それは以前住んでいた家——スコトプリゴニエフスクの家から持ってきたものだった。割れたら母は悲しむだろう。
コーリャはカップをサイドテーブルの、イワンのカップの隣に置いた。並んだカップを見つめて紅潮の残る頬をこすり、ため息をついた。