目覚めると違和感があった。とはいえその正体がわからない。イワンは寝椅子に横になったまま、何度か瞬きをする。いつもの自分の部屋だ――おそらく。おそらく、というのはしたたかに酔っていたためここへ帰るまでの記憶がところどころ途切れているからだったが、横になったまま見える範囲で変わったところはない。もっとも、「一歩歩くごとにゴミを生み出さないと気が済まないみたいに」散らかっているから、どこかが変わったとしてもわからないかもしれないが。イワンは家主の精一杯の嫌味を思い出して微笑を漏らした。重い頭を無理に持ち上げるように起き上がり、そうか、と思う。香りが違うのだ。いつもつけている香水ではなく、昨夜は人からもらったものをつけた。というよりその場でつけさせられた。とっくに鼻が慣れているはずだが、起き抜けだったからだろうか。あるいは瓶が目に入って感じないはずの香りを思い出しただけかもしれない。イワンは積み上げた本の上に無造作に置いた香水瓶を見つめる。薄い琥珀色の液体で満たされた、四角い透明な瓶で、口のくびれた部分にトリコロールのリボンが結ばれている。金色のラベルに印刷されているであろう香水のもったいぶった名前は、リボンで半ば隠されていた。イワンは眉間を指で揉み、数度ゆっくりとまばたきをする。さっき感じた違和感は、香りとともにわずかな痕跡を残すだけになっている。
瓶を贈ってきたのは知人だった。「目撃者」時代の知り合いだ。小さなゴシップ紙の編集だった男は、今や誰もが知る出版社のオーナー兼編集長となっていた。人気作家の全集で儲けているらしい。気前よく前借りをさせてやって作家を縛り付け、奴隷同然の条件で働かせているという噂も聞く。本当か嘘かわからないが、あの男ならそれくらいやりかねない。
男はイワンがモスクワにいるのを聞きつけて、どこをどうたどったのか、イワンを探し出して食事に誘った。散歩に出かけたような格好で偶然を装って、飲みに出かけたイワンを捕まえたのだった。普段は馬車を使っているだろうことは、膨れた腹と、埃だらけの道を歩くのに向かないピカピカの靴と傷みのない服ですぐわかった。「イワン・カラマーゾフがモスクワに戻ってきたと聞いてね」男は言った。もう何年も記事は書いていないし、カラマーゾフの事件もいい加減萎れきってそんな事件があったことすら忘れ去られている。一体今度は自分に何をさせる気なんだ? いぶかりながらもイワンは男の誘いに乗った。退屈していたし、いつもの店のおさだまりのザクースカにも飽きていた。
香水は男がレストランで寄越したものだった。レストランは、もうすでに世間から見切りをつけられて久しいイワンでも知っているような流行の店で、通されたのは仕切りを立てて誤魔化したのではない、ほんものの個室だった。シェフはパリのカフェ・アングレで修行したという触れ込みで、確かに美味い料理だったように思う。酒も上等だった。がぶ飲みしたのであまり覚えていないが。香水もフランス産で「最新の、非常に科学的かつ現代的な手法」で作られたものだと言う。「花籠なんてもう古い、今は科学の時代さ。花の香りですらガラス瓶の薬剤を混ぜて作るんだ。ただこの花は存在しない花なんだよ、シダの花の香りなんだ。花をつけないはずのシダの花だよ……どうだね、神秘的な香りだろう!」科学と言いながら神秘的だの何だの言うのに内心苦笑しながら、その香水をつけた。確かに嗅いだことのない香りだったが、その時はすでに酔っていたので、どう答えたのやら。その男はヨーロッパ旅行から帰ってきたところだった。あちこちへ行ったがフランスが一番気に入った、という。高尚な思想から靴の裏張りまで、猫も杓子もフランス、フランスとありがたがる! あんな場所ゴミゴミしているだけで、一本路地を入れば美しくも文明的でもない、酔っ払いと娼婦と尖った顔つきの子供たちが交互に並ぶ、我がロシアと同じ光景が広がっている。イワンがフランスへ行ったのは、六、七年前、ルーレテンブルグで賭博に明け暮れていた頃だった。何か不思議な力に引きずられでもしているかのように大勝ちして、そのまま知り合いに誘われてパリへ行った。金は三週間と保たなかった。まとわりついていた人間たちは誰一人いなくなった。金がなくて秘書の真似事までやったっけ、そして金を作って……またルーレット台の前へ……何にもならない! パリへは二度ほど足を運んだ。その大勝ちした時と、あとは連れて行かれたのと……あの時は何もかもがどうでもよく、今更どこにも戻れないが、さりとて放蕩に身を投じるのも億劫で、だらだらと赤や黒やの数字の上に金を置きながら、賭博場で知り合った連中に生返事をしていたら、いつの間にか、手を引かれるままに芝生の上をよちよち歩く子供みたいに、ホテルから連れ出されて列車に載せられて……袖やら肩やら、引っ張られて抱かれて、ケラケラ笑いながら、本当に小さな子供みたいに手を引かれながらそいつの家に入ったっけ! ルーレットで大勝ちした時みたいに、いくつもの手が自分の体にまとわりついた……。あの澱んだ川の臭い……川風に乗って聞こえるのはフランス語の歌ばかり。
C’est à ne pas mettre un chien dehors…(犬でも外に出さないような天気ではございませんか…)
ヒュッと息を吸い込んで、イワンは自分が、長椅子に起き上がったままの姿勢で物思いに耽っていたのに気づく。まだ雪の時期には遠いが、夏至はとうに過ぎている。どんどん日が短くなって、これから暗い季節が来る。香りのまぼろしと共に、起き抜けに感じた違和感が戻ってくる。(違和感ね!)イワンはその正体に半ば気がついている。目覚めた時の、喉の奥が締め付けられるようなあの感情。おそらくそれは悲しみだったが、どうしてそんなにも悲しいのか分からない。見た夢は忘れてしまった。イワンは目を閉じる。目のふちから涙が一筋落ちる。目を開けてふっと息を吐くと、あの子供じみた悲しみは消え失せている。
そういえば、あの男は何をしに来たのだろうか。まさか単に旧交を温めにきたというわけでもあるまい。あの男は自分の利にならないなら動かないし、平々凡々と暮らす生活人のような顔をしているようで抜け目ない。自分も若い頃は出し抜かれて悔しい思いをした。ただ金払いはよく、支払いが滞るようなことはなかった。損得で生きている分……いや、そうか。要は自分は値踏みされていたのだ。そしてもう済んだのだろう。レストランの食事と香水瓶は時間を割かせたことの埋め合わせか、あるいは自分の権勢をほこるのか。そういうことを無造作にやっても、あの男には痛くも痒くもないのだ。イワンは手を伸ばして瓶をつかんだ。内部を満たす琥珀色の液体が揺れる。瓶の栓を開けて、また閉める。それだけの行為で指先に香りが移る。栓についていた雫でも散ったのだろうか。イワンは指先を擦り合わせて立ち上る匂いに顔をしかめた。瓶を窓から放り出してやろうかと思ったが、場所が悪い。部屋の窓の下には庇がはりだしている。そこで割れて窓からこの匂いが入ってくるのはいまいましい。イワンは結局元のように香水瓶を置いて部屋を出た。
居間には家主のニコライがいた。いつもと違って長椅子に腰掛けている。まだ勤めに出かける前なのか、もう帰ってきたのか。いや、今日は休日か? イワンはそれら全ての感覚を喪失していた。自分がどれくらい眠っていたのかも定かではないが、ひょっとしたらそれほど長く寝こけていたわけではないのかもしれない。
ニコライは強いて手元の本に目を落とし、イワンが入ってきた時に軽く目礼をした以外に反応を見せまいとしていた。今何時で、ニコライがどう過ごし今ここにいるのかは知らないが、さぞかし何か言いたいのを我慢しているに違いない! イワンはむくむくと、加虐心が小さな痒みのように湧き上がるのを感じた。何か一つ揶揄ってやりたいような気がしたが、まだ酒が抜けきっていないせいか、頭がぼんやりして上手い手が思いつかない。
ニコライの前を通って長椅子のそばの一人がけソファに座る。ニコライが顔を上げて、ふと不審げな顔をした。
「何か?」
「いえ、その……いつもの香水はどうなさったんです」
おやおや、なんと聡いことだ! イワンは半ば苛立ちながら、ちょっかいをかけるきっかけを向こうから作ったことに満足しながら答えた。
「ずいぶんと細かいことにお気づきですね」
「別に……単に違うなと思っただけです。僕の勘違いかもしれません。いずれにせよ干渉する気なんてありませんよ、僕らは大人同士ですしね!」
「大人同士ね」イワンはニコライの言葉を拾いながら言った。どう揶揄うか思案していただけで特に意味はなかったが、ニコライの耳の先がわずかに赤くなった。「これは知人から貰ったものでしてね。昨日会っていたやつですよ……(イワンはここで大きなあくびをした)昔の知り合いなんです。今は出版社をやっていますよ。そいつによると、『現代的な、科学的な』手法で作られたそうです。最新の、だったかな。まあいい。とにかく今までの伝統手法に代わって、化学的に合成した香料を使っているそうですよ。科学の神秘というわけです……どうです、ニコライ・イワノフ。お気に召しましたか?」
気に入ったなら押し付けてやろうくらいに思っていたのだが、言われたニコライはムッと鼻にシワを寄せると、
「嫌いです。いつもの方がいく分か好ましいくらいですよ。流行遅れでもね、そのやたらに浮ついた匂いよりはマシです。悪趣味とは言いませんが僕は好みませんね。科学の神秘なんてその辺の詐欺師もそろそろ言わないような謳い文句じゃないですか。まあ、何をするにもあなたのご自由になさったらよろしいですよ! どうせ何事にも慣れるでしょうからね!」
と一息に言った。何が気に障ったのか、異様なまでに腹を立てて、頭から湯気でも立てんばかりにプリプリしている。虫の居所でも悪かったのだろうか。イワンは呆気に取られて息すら切らせているニコライを見ていたが、ぷっと吹き出した。
「何です、何がそんなにおかしいんですか? 意見を求めたのはあなたでしょう、何のためかは知りませんがね、どうせ聞きゃしないんだから……あっ、何をするんです、やめてください! ちょっと、うわっ……ねえ、まだ酔っ払っているんですか⁉︎」
何事も無気力な居候が突然すっくと立ち上がって隣に腰掛けたと思ったら、肩を組まれて頭を思いっきり撫でられた挙句に額にキスまでされて、ニコライはすっかり混乱しながら長椅子の端っこに退避した。
「もう、何なんですか!」
くしゃくしゃの頭を振ってニコライが叫ぶ。
「いえ、何も。ただ君はなかなかにいい人だなと思いましてね」
今度こそニコライはのけぞり、長椅子の肘掛けに腰をぶつけた。不気味なものを見るような目でイワンを見つめる。
「どうかなさったんですか?」
「どうもしませんよ。あなたも変な人ですね。褒め言葉は素直に受け取るが吉ですよ」
「まだ酔いが覚めないならコーヒーでもいかがです」
ニコライはイワンに用心深げな視線を注いでいる。こういう顔をするから、とイワンは思う。つい揶揄いたくなるんだ。しかし今は家主の提案の方にそそられた。
「そうですね、いただきましょう」
そう言うとニコライは目に見えてほっとした。では言いつけてきましょうと言って女中を呼びに立ち上がる。慌てていてさっき読んでいた本が床に落ちているのにも気づかない。イワンは本を拾い上げ、新品のハンカチで丁寧に埃を払って、さっきまで家主が座っていたところに置いてやった。