夜中の客人

 十二等官ニコライ・クラソートキンの家は通りに面した二階の三部屋で、シチェルビンという元官吏から借りていたものだが、日当たりも良く、ぜいたくすぎず、母子二人で暮らすなら悠々過ごせるような、身の丈通りの家だった。いずれは手狭になるかもしれないが、当座は不都合もなく、暮らすのに無理をする必要もない。昇進すればもっと広い家に引っ越して、その時は部屋でも貸して生活の足しにすればいい。ニコライ・クラソートキンもそのように算段して借りた家であったが一つ誤算があった。居候である。
 アレクセイ・フョードロヴィチの頼みで、その兄イワン・フョードロヴィチを預かるようになったのは八ヶ月ほど前であったが、まず問題になったのはその所在であった。三部屋の中央にある一番大きな一つを居間兼食堂にし、一つを母親であるクラソートキナ夫人、一つをニコライが使っていたのだが、色々考えて——と言うよりは、どう足掻いてもそうする他なく、ニコライが居候に部屋を譲る形になった。クラソートキナ夫人は、自分が譲ると言って聞かなかったが、それはニコライの方が許さなかった。結局、ニコライは居間で寝起きせざるを得ず、私物はもといた部屋に付属していた、控えの間のような小さな空間に押し込めることになった。これは、居間にしている部屋とニコライの部屋の間にあるが、ニコライ側からしか出入りができなかった。つまりは着替えだの何だののためにイワン・フョードロヴィチの部屋を通らねばならないことになったのだが、これが案外うまく行った。ニコライは元々無駄なものを持つのは嫌いだし、母も自分も毎日決まった時間に寝起きするので、居間を寝床にするのは意外なくらいすんなりいった。壁際に寝椅子を置き、いくつかの手回り品は、居間に棚を置いてそこに仕舞っておくようにしたが、クラソートキナ夫人が蚤の市で年代物の棚を手に入れ、そこに綺麗に刺繍をした布をかけたので、見た目にも見苦しくない。イワンの方も、出入りの時間が決まっているので、ぎこちないのは最初の方だけで、今はニコライが入ってきても顔も上げない。いや、たまにからかったりするが、それくらいなものだ。私物をもっと居間に移すことも考えたが、共有空間がこれ以上見苦しくなるのは耐えがたい。イワン・フョードロヴィチはどうせ朝は寝ているのだし、多少の煩わしさと節度を天秤にかけて、ニコライは後者を取った。
 当面という話だったイワン・フョードロヴィチの居候は、確たる期限の明示もないままずるずると続いていた。最初に預かった金も先日ついに尽き、今はニコライの稼ぎで養っている。それを知ってか知らずか、イワン・フョードロヴィチは悠々自適の居候生活を送っていた。大抵朝は寝ていて、昼くらいにだらだらと起き出して茶を飲み、何か読んだり食べたり煙草をふかしたりしている。気が向けば外に散歩に出て、あちこち歩き回り、その時々の儚い友情を結んでいるらしい。小遣いは渡しているが、何に使っているのかよく分からない。以前大きな水晶の嵌った指輪をしていて、どうしたのか尋ねたら貰ったのだと言う。まさか賭博の代ではあるまいなと思っていたら、イワン・フョードロヴィチは突然笑い出して「ある人にね、札束を渡すとこれをくれたんですよ!」と全く面白くない冗談を言った。後で知ったが、指輪は単なる模造品で、地金もメッキの安物だった。そのほか小遣い稼ぎに何かいかがわしい雑誌にいかがわしい記事を書くこともあった。しばしば夜の散歩に出かけ、酔って帰る。全く自堕落を絵に描いたような生活だった。
 朝夕イワン・フョードロヴィチのところへ出入りするたびに自分が部屋を譲って良かったとニコライは思う。と言うのも、イワン・フョードロヴィチの部屋は無秩序に支配されていたからだ。どうやったらそんなに散らかすことができるのかというくらい、部屋は雑多なもので溢れかえっている。棚もあり、箪笥もあるのに、手紙も本も雑誌も服も出所のよくわからない置き物も絵も香水や酒の瓶も皆野放図に机の上や椅子の背やベッドの支柱や床や窓辺に置かれ、引っ掛けられ、転がされている。部屋の主もまただらしがなく、朝部屋に入った時も、寝床ではなくてソファの方で服のままごろりと横になっていることがしばしばある。灰皿だけはいつも机の決まった場所に置いてあり、吸い殻もこまめに処分しているようだったが、それ以外は元の状態を想像するのが難しいぐらいに散らかっている。ニコライはそういう節度のないのが一番見ていてむしゃくしゃするものだから、イワン・フョードロヴィチが際限なく生み出す無秩序が鍵のかかる扉のついた一部屋で完結することを、強がり混じりながらそこそこ本気で喜んでいた。
 この通り、ニコライとイワン・フョードロヴィチとはあまり折り合いがよくなかった。イワン・フョードロヴィチと来たら、食事も起床の時間も守らず、口を開けば皮肉や当てこすりが飛び出す。せめて夕食の時間は守ってくれないかと小言を言ったところ、「申し訳ありませんね、努力はしているのですが。しかし私は全く終わった人間なんですよ。あなたもそんなことはお分かりでしょうが? そんな人間に改善を期待するとは、あなたも大した楽観主義ですね」などと言われた日は腹が立って腹が立って夜眠れなかった。とは言えクラソートキナ夫人に対しては常に礼儀を守っていて、皮肉も一切言わず、以前したたかに酔って酒場で知り合ったという怪しげな退役軍人を連れ込んだ時には、翌朝丁重な謝罪があった。この退役軍人は、酔って転んだ挙句に小指を折って大騒ぎして、夜中に医者を呼びに行ったり冷やしてやったりと大騒ぎだったのだが、その後もクラソートキナ夫人は何かと気にかけていて、家族ともすっかり仲良くなったらしい。先日は、そこの家の八歳から十四歳の三人の子供達にあげるのだと言って市場で糖蜜菓子やら干した果物やらを買い込んでいた。「ねえ、コーリャ、どうかしら、あなた十四歳の時にこんなものもらって嬉しかったかしら?」と母から尋ねられ、確かに自分はそういう子供扱いを嫌がっていたが、気に掛けられることを嫌がっていたわけではない、というようなことを説明……いや、それはいい。問題はイワン・フョードロヴィチである。十代の頃から自分が師と崇めているアレクセイ・フョードロヴィチの身内でなければ、こんな居候にいつまでも大きな顔をさせておかないのに、とニコライは内心歯噛みをしていた。余談であるが、ニコライは自分が童顔で、ともすれば学生にすら間違われるのを常々気にしていたのだが、イワン・フョードロヴィチが自分のことをくちばしの黄色い小僧っ子扱いするのが心底気に入らなかった。
 クラソートキン家では、ニコライがお役所体質だの旧弊な制度だの社会組織だのに対して一席ぶつのが恒例となっていたが、イワン・フョードロヴィチは途中から食堂に入ってきたかと思うと、夕食をつつきながらそれを興味深げな顔で一通り聞き、一息ついた頃に「あなたはずいぶんと真面目ですね。それにオプティミストだ」などと言うのであった。
「どういう意味ですか?」
「そのままの意味ですよ。含みはありません。あなたは社会や官僚制度の問題点を正確に把握していらっしゃる。その上で変革を望んでいるし、理想もおありです。これが真面目でなくて何ですか? 官僚の皆々様があなたのような考えであれば話は早いのですが!」
 イワン・フョードロヴィチの口調には、いささか揶揄が含まれていることに気づいていたが、一日働いて不満を溜め込んだニコライはつい勢い込んでそれに応えてしまう。
「問題はそこですよ。望んでこの職に就いても、ただ上に取り入って出世ができればいいという人間の方が多いのです。お陰で官僚も法もおそろしく迂遠で不合理な方法で運営されざるを得ません。これは人とその時間の浪費です。世の中は日々進歩しているのですから、ここばかりが旧態依然というわけにはいきません」
「そこがあなたのオプティミズムですな! いや、失礼。これに他意はありませんよ。つまりね、人は果たして進歩を望んでいるのでしょうか? 世の中は進歩していますが、人間がそれについて行きたいと思っているとは思えませんね。少なくとも私はごめんです! あくせく働くなんて」
「あなたはそうでしょうね」とニコライは思わず嫌味を言った。「しかし僕の言っているのは、あくせくではなく合理的に働くと言うことですよ。もちろん手続きの上で最低限必要な、確認といいますか、半分儀式のようなものですが、意思確認であったり情報の共有であったりに必要な多少の不便は致し方ありませんが、形式と順序に則った書類を優先的に見てもらうために、上司の名付け親の名の日の祝いに出席するようなことは、悪しき習慣と言えますね。そうではありませんか?」
「ところがその不合理こそが人間なのですよ。あなたはラテン語や詩作をお気に召さないようですが、詩も絵もない世の中というのは進歩していても張り合いがないでしょう」
「無論精神生活は合理性とは別の場所にあります! 少し誤解があるようですが、私は詩を愛していますし、学者の翻訳したローマ詩の恩恵には私ももちろん与っていますよ。しかし詩は詩人に任せておけばよろしいということなんです、つまりは分業ということですよ。世の中はどんどん複雑になりますからね。必要なのは事務的な正確性であって教養ではありません。句読点一つおそろかにできないというのに、コンマ一つ満足に打てないような連中だって珍しくないんですからね、これはつまりその方面の教育がおろそかにされているということですよ! ひと昔前ならいざ知らず、役所の手続きや決裁には古典的教養も詩的飛躍も必要ありません! どうして橋の補修を進言する文章にウェルギリウスの警句を引用する必要が? いや失礼、これはもちろん比喩的な表現で、つまりは目的上必要とされている以上の労を要求されているということが……」
 ここでイワン・フョードロヴィチのニヤニヤした顔に気づき、ようやく自分がからかわれていることを悟るのだった。
「どうぞ続けて下さい!」
 イワン・フョードロヴィチは半笑いで言う。
「あなたは……あなたはどうせご自身のおっしゃったことも信じていないんでしょう!」
「さてね。まあ、人は合理性のみで生きるのではないというのは本音ですよ。何しろ私のような人間がこうやって生きているのですから! あれだけあった財産をルーレットに注ぎ込んでなお台に齧り付くなんて不合理の極みでしょうが。そういう不潔な環境でしか生きられない人間もいるのです。これは私だけが特殊なのではありませんよ、何せあそこは今も昔も人でいっぱいですからね。私は人生を愛している人間なんですよ、あなたと同じくね!」
「あなたと一緒にしないでください!」
 この辺りでクラソートキナ夫人が間に入り、言い争いに発展するのを止めた。イワン・フョードロヴィチは、「どうも私はすっかりひねくれているようです。申し訳ない。まっすぐに育った若者を見るとどうにもまぶしくて、ついからかってしまうんですよ」などと言い、大して進んでいなかった夕食にとりかかるのだった。
 一言で言うとニコライはいいようにあしらわれていて、それが分かっているのにいつもムキになってしまう。イワン・フョードロヴィチの方も知っていて水を向けるのだから質が悪い。母親の方はといえば、そうした諍いをどちらかと言えば微笑ましく見ているらしく、イワン・フョードロヴィチへの不満をぶちまける息子をにこにこ眺め、あなたはあの方が来てから生き生きするようになった、とさえ言う。確かに退屈はしないかもしれないがこれでも気苦労が絶えないのだ、と説明を試みたが、クラソートキナ夫人は穏やかな顔で相槌を打ちながら、「あまりかっかするものではありませんよ、全ての人の心をあなたに従わせるわけにもいかないでしょう?」と嗜める。今のニコライは、十四歳の時とは別の意味で母親に頭が上がらなくなっていた。というのも、夫人は夫と若くして死に別れたためか家庭内の切り盛りが上手で、家政についてはモスクワへ来て以来、ほとんどクラソートキナ夫人に任せっきりとなっていたからだ。その上居候が一人増えて、しかも生活はそれほど変えず、遺産にも手をつけないというのはその方面に疎い自分でもなかなか骨の折れることではあるまいかと想像がついたが、クラソートキナ夫人は随分と張り切ってこの仕事に取り組んでいた。
 仕事といえばもう一つ、夫人は知り合いの商家のおかみさんに刺繍を教えにいっていて、一種の家庭教師のようなものだったが、これ自体はイワン・フョードロヴィチが来る前からのものだった。何か上品な、「ブルジョワ」的趣味を持ちたいが、年下の若い娘に教わるのはお互いに気まずいからと同年代の母に依頼が来たのだった。母は近所のよしみで謝礼は辞退しようとしたらしいが、相手は相手で、あなた方の世界はどうか知らないが、「技術に対する対価」を真っ当に支払わせないなど自分をみくびるつもりかと主張し一歩も引かず、押し問答の末に謝礼分を家庭教師の互助会に寄付した上で母の気に入りの紅茶を安く卸すということでけりがついたらしい。ニコライとしては、母親には自分の稼ぎで安楽な暮らしをしてほしかったが、本人がそれを望んでいないのはよくわかっていた。実際クラソートキナ夫人は頭や手を動かしている方がむしろ心地いいのだと言って、以前にもまして生き生きとして、頻繁に出かけるようにもなっていた。
 奇妙といえば奇妙だが、ニコライ・クラソートキンは居候にあれほど腹を立てながらも、彼を放り出すことができなかった。そうしてやろうかと思ったことは山ほどある。が、その時どれほど腹を立てていたとしても、それが心底の本心からではないということも自覚していた。自分の手元で彼がだらだらと暮らしているのを見ると奇妙に心が落ち着くのだ。何よりイワン・フョードロヴィチを引き受けると決めたのは自分である。そのためニコライは、この件については己が己に課した義務と心得て、この居候への忍耐を貫くことにしたのであった。
 そんなわけで、ニコライはここしばらく家で居心地の悪い思いをしていた。職場では周囲の人間関係と書類仕事のいざこざを捌き、家に帰ればイワン・フョードロヴィチと対面する。ニコライ・クラソートキンの日常は、一定の様式に従うよう種類ごとに定められた各種の書類と、複雑怪奇な人間関係の網の目にひっ絡まりながら、合間合間に一息つくような窮屈で忙しないものだった。人のいいチモフェイ・ルキヤーノヴィチは話好きでともすれば決済書類を溜め込むから、それとなくせっつかなければならない。その後釜を狙うアレクセイ・アレクセーヴィチとセルゲイ・コンスタンティノヴィチは、水面下で火花を散らしていて、誰かがどちらか一方に余計に気を配っていると思うと機嫌が悪くなる。清書係のアルカージイ・ワシーリエヴィチは、この仕事も長いのだが書き間違いが多く、頭ごなしに注意すると萎縮して余計に面倒になるため気を使って指摘してやらなければならない。そして家ではイワン・フョードロヴィチ! ようやく寝る段になっても、横になるのは自室ではなく居間の隅だ。枕に頭をつけながら、早く官等を上げて、もっと広い家に引っ越さなければ、と思うのだが、その度にいつまでもイワン・フョードロヴィチがいるのが前提になっているのにまた腹を立てる。ニコライは毎晩こんな調子で、プリプリしながら眠りに就いた。とはいえ寝つきは悪くないほうで、寒い夜も、今日のような白夜の日でも、たいてい十五分もしないうちに寝ついた。
 その日の夜中、ニコライはふと奇妙な気配を感じて目が覚めた。昼間の疲れで目は開かなかったが、すぐそばに誰かがいる気がする……もっとも、これはニコライが疲れている時にしばしば感じる感覚だった。誰もいないのに目と鼻の先に誰かがいる気がする。そんなはずはないと眠りにつこうとしても気になって眠れなくて、えいと目を開ける。そこでようやく気配を感じていたのごと夢だったことに気づく。だからコーリャは、またかと思いながら目を閉じていた。結局一旦目が覚めないとこの夢は破れないのだが、それにしても……と思っていた矢先、ふと香水の匂いが鼻先をかすめて、コーリャは今度こそぱっちりと目を開けた。
 そうしてギョッとした。すぐそばに誰かいて、うずくまってニコライの顔をじっと見つめている。思わず身を引くと、ようやく目の前の人物は、自分がじっと見つめている相手が目覚めているのに気づいたようだった。
「ああ、ニコライ・イワノフ……起こしてしまいましたね。申し訳ない」
「いえ……」
 イワン・フョードロヴィチは、そうは言ったものの動く気配はなく、その場に膝立ちになってニコライの顔をぼんやり見つめている。備え付けの古いカーテンを通して届くうすら明るい白夜の夜が、イワン・フョードロヴィチの顔にかかる影を一層濃く見せていた。ふとニコライは以前読んだ記事を思い出した。居候が家主を殺してしまう。彼は学生時代から君僕の関係で、居候も彼の好意だった。何か二人の間に諍いがあったわけではないし、ごく仲のいい友人同士だったが、居候は友人の喉を掻き切った。ただ彼の持っていた銀時計が欲しかったために……。しかしイワン・フョードロヴィチがそんなものを欲しがるとも思えない。あるとすれば家主のいびりに対する復讐だろう、と考えてニコライはそっと身を起こした。さっきの驚きの余波でまだ心臓がどきどきしていたが、懸命に何でもないふうを装った。
「その……そこで何をやっておいでで?」
 イワン・フョードロヴィチは見たところ手ぶらだった。勇気を出してそう尋ねると、イワンは「何も……」と答えた。
「少し酒場へ行っていたのですがね」
「はあ」
 確かにイワン・フョードロヴィチは今日夕食の席にいなかった、と思い出す。寝る前にも帰って来なかったが、珍しいことではないし、大の大人相手なのであまり心配はしていなかった。
「その席でカードが始まりましてね……よくあることではあるのですが、今日はすぐそばで、しかもなかなかに盛り上がっていまして。ポーカーをやっていましたよ。札を持った四人の男が机を囲んで……チップの山が積まれていて……銀貨が投げ込まれて……」
 そこでイワンははっとしたように首をぶるぶると振り、「そんなことはどうでもいい」と言った。いつもの投げやりな調子と違って、自分に言い聞かせているように聞こえた。
「とにかくそんなわけで、酒もそこそこに逃げてきたんですよ……そしてあなたの前に跪いているというわけです。あなたはご存知でしょう、私がここへ来る前どんな生活だったか。折に触れてお話もしていますからね、ああいう恥知らずな騒ぎを何年もやって来たわけですが、時々、どうにかするとまたあそこに戻りたくなるんです。今日みたいに誰かがやっているのを見るとてきめんに、体がカーッと熱くなって、いや、冷たくなるのかもしれませんね。背中に氷みたいな冷たいものを感じるんです。それであの熱狂に身を投じたい、そうしなければならないと思うんです」
 イワンは、寝椅子に腰掛けるニコライの前で膝をついたまま、まるで懺悔をするような調子で言った。暗い中で目がきらりと光り、瞬きするたびにその光が一瞬消える。
「僕はあの熱狂から距離を置きましたよ! もうあんなのは十分ですからね、もう飽き飽きしましたよ。それなのに、ご覧なさい、手が震えてしまうんですよ……まるで全財産を賭けたときみたいに! 僕はあそこに戻るわけにはいかないんです、皆と約束しましたからね……兄弟たちがキスをくれるんです、これは僕らの間の一種の符牒でね! 僕はそれをキリストのキスみたいに享けるんです、ああでも、おかしいですね、こんな話は……」
 長兄はシベリア流刑の身であったし、イワンが会うことのできた兄弟はアレクセイ・フョードロヴィチ一人のはずだったが、イワンは兄弟たちという言い方をした。ニコライはイワンの震える手をつかむと、身を屈めて、その唇の端に口付けた。イワンはびくりと体を震わせてから、苦笑を漏らした。「君、それは……」いつもと違って君という呼称でニコライを呼び、ぎこちなく微笑む。ニコライは、イワン・フョードロヴィチの中に、かつて十四歳の時に見た神経質な青年と、その弟の面影の二つとを見た。こういう人だった。故郷の町で初めて見た時は、少々病的なくらいに張り詰めていて、少し怖かった。イワンへの苦手意識は、ひょっとしたらこの時の印象から来ているのかもしれない。
 その場でしばらく見つめ合っていた。といって、鳩が飛び立つようなほんの短い時間だった。イワンは、不安そうな、あるいははにかむような、どこか熱を帯びた顔でニコライを見ていたが、ふと目が鋭く光った。と思うと、ニヤリと笑って立ち上がり、ニコライを壁に押し付けると、情熱的なキスをした。
「……っ!」
 唇がこじ開けられて舌が入ってくる。酒臭い匂いに息が詰まりそうだった。イワン・フョードロヴィチは、ニコライの口内を存分になぶってから唇を離した。
「それは剽窃ですよ、あなた。もっともこれはこちらの話ですがね。夜中に失礼しました、おやすみなさい」
 イワンは立ち上がり、壁際に追い詰められた姿勢のままのニコライを残して居間を出た。ニコライは呆然としていたが、突然顔を真っ赤にして立ち上がり、イワンを追いかけた。
 イワンが部屋の戸を閉める直前に追いつき、無理やり体を捩じ込んで部屋に入る。鍵は二人とも持っているので、かけられたところでどうと言うこともないが、ニコライはその時とにかく追いついてやるということしか頭になかった。入って戸を閉め、改めてイワンの前に立って向き合った時、ニコライは言うべき言葉が見つからず、ただおろおろと睨みつけて棒立ちになった。イワンは怪訝そうな顔でニコライを見つめながら、フロックコートを脱いで寝椅子に放り投げる。
「何です?」
「何ですって……あなたね、あんな……あんな……」
 イワンは呆れたようにふっと息を吐いた。
「何を今更」
「今更って」
「おや、違いますかね。まあいいでしょう、ではこういうのはどうです? 私は賭博に当てられて、どうにも熱を持て余していたんですよ。そこであなたにその代償を求めたんです。優しいあなたはそれに応えて……」
 イワンはニコライの肩に手を置いて引き寄せ、身も触れんばかりに近づいて低く囁いた。イワンは体格が良く、額はニコライよりも上にあったが、それを彼の耳周りの髪に触れさせるようにして身を寄せる。酒場の匂いに混じって流行遅れの香水の匂いとイワン自身の体臭がした。ニコライは目をぎゅっと閉じ、開く。
「あなた……そうやってご自分の感情を貶めるのはおやめなさい」
「感情を貶める? どういう意味ですか? 貶めるも何も、私はまさしく卑しい人間ではないですか。私がどんな生き方をしてここまで来たか、あなたもよくご存知でしょうに? それに私はあなたが思っている以上に卑劣かもしれませんよ。あなたの善良さはその目を曇らせてしまうようですが」
「自分を必要以上に卑しめるのもおやめなさい。私を持ち上げるのも結構です。あなたが卑劣かどうかもどうでもよろしい、ともかくあなたは結局引き返してきたのだし、それにアレクセイ・フョードロヴィチも……」
「その名を出すのはやめてください」
 イワンがぴしゃりと言った。ニコライを突き退けるようにして体を離す。その顔には奇妙に歪んだ微笑が浮かんでいた。
「私はね、ニコライ・イワノフ、どうしようもない人間なんですよ。あなたこそ私を不相応に高い場所に置こうとするのはおやめなさい。生は愛すべきです、私も生を愛しています、しかし私はそれを侮辱しないでは生きていられないんです! いいですか、私の呪われたカラマーゾフの血はどうもそれくらいしないと満足しないようでね、は、は! しかし血のせいにするのもいかがなものでしょうね、弟はあの通り坊さん見習いだった時から清らかだし、兄はすっかり悔い改めてシベリアで修行者よろしくやっているのだから、これは私の性分なのですよ……まあ、いい、とにかく、私は債務監獄行きになったような人間なんだから、そういうことなんです!」
「債務監獄なんて!」ニコライはたまらず言った。「イワン・フョードロヴィチ、間違いは誰にでもあります。肝心なのはその後ではないですか」
 イワンはニコライに向かって憐れむような冷笑を浮かべた。ニコライに両手を伸ばし、頬を包むように、——あるいは首に手をかけるように、耳の下に手を添える。
「ニコライ・イワノフ、三千ルーブリを覚えていますか? 私の父の事件ですがね。あなたは子供だったけれど、覚えているでしょう、兄が奪い取ったというあの三千ルーブリですよ……私は賭博で財産を使い果たしたのみならず、借金までしましてね! 本当に何もかもすってしまって、身につけているもの以外は何一つ持っていませんでした。その上、着ているものも履いているものも、賭博の代を作るためにその辺の貧乏官吏と交換したような、一言で言っておぞましい代物でした! それでも私は引き返せませんでした。こうなってくるとただもう落ちていくばかりですよ。頭の中はただルーレットのことばかりです。ぜひともルーレット台の前に行って取り戻さなければ、と、そんなことばかり考えていました。一体何を取り戻せばいいのか、自分でもよくわかっていないのに、そうするための金がないどころか、借金を返すあてもなく、債務監獄が目の前に迫ってきます。その時に、こう思ったんです。あの三千ルーブリがここにあればって……」
 イワンはどこかうっとりしたような口調で言い、「ねえ、わかったでしょう、あなた。私がどんな人間か」と付け加えた。ニコライは全く声が出せなくなったみたいにイワンを見つめていた。
「いや、わかっていないな……あなたは幾度となく私に心の底から腹を立てているのに、見限ろうとしないんだから。だからあなたはオプティミストだと言うんですよ」
 イワンは吐き捨てるように言うと、両腕をニコライの体に回した。腰から背中へと撫であげる。ゆっくり這い上がる手のひらが肩甲骨のあたりに触れた時、ニコライがイワンを突き退けるようにして離れた。
「何をなさるんです」
「何をですって? あなたはご存知でしょうに」
 ニコライはその言葉を聞いて耳まで真っ赤になった。それはニコライとイワンの間にあって、ニコライが他のどんなものよりもつつかれたくない弱点だった。イワン・フョードロヴィチとは、一月ほど前に一度だけ関係を持っていた。そうなった経緯は思い出したくもない。イワンに挑発されたと言えばそれまでだが、そう言いたくない程度には、ニコライは自分に対して潔癖な性格だった。だから、ただ魔が差したのだとしか言いようがなかったし、後にも先にもそれ一回きりになるはずだった。
「あれは……間違いでした」
「ええ、そうでしたね」
「あれは一度きりで、二度と繰り返さなければいいと、あなたが」
 イワンはニコライに向かってせせら笑う。
「だったら今回もそうすればいい。今回も一度きりで、二度と繰り返さなければいいんですよ」
 イワンは壁際に置いたベッドに腰掛けた。カーテンの隙間から入る月明かりが、イワンの輪郭をほの明るく見せている。そうしているとまるで石でできているようだった。
「無理強いはしません。気が向かなければ出てお休みになってください。そうして忘れておしまいなさい。どうせ私は酔っているのですからね……あなたが寝直すなら私も寝ますよ、もう今日は酒場へ行く気分でもないし……少し眠いかもしれませんしね」
 イワンはニコライを見上げて言った。ニコライは後退りした。床に落ちた本につまづいてドアに体をぶつける。イワンの方を向いたまま、手探りでドアノブに手をかける。
 それから手を離し、つかつかと部屋を横切ってイワンの前に立つと、ベッドに膝をついてかがみこんだ。イワンは微笑んでニコライの首に腕を回し、自分からベッドに倒れ込む。汗混じりの香水の匂いでくらくらした。息を殺しながら小さく笑うイワンの口に、ニコライは人差し指を滑りこませ、そっと舌を押さえた。

 

 

 翌朝、目が覚めたコーリャは、二、三度目を瞬かせ、そこが居心地のいいベッドであることに安堵しながら目を閉じ——そしてがばりと起き上がった。ここはどこだ。というか、今何時だ?
「あなたときたら、まったく骨の髄までお役人なんですねえ!」
 隣から呆れたような声がした。見ると、シャツの上からガウンを羽織ったイワン・フョードロヴィチがソファに腰掛け、懐中時計を開いて針を読んでいた。
「あなた……ええと、いえ、今何時……いや、一晩中起きていたんですか?」
「まだ六時前ですよ。少しは寝ました。この時期にはよくあることでね、あまりよく眠れないんです」
 イワン・フョードロヴィチは猫のように目を細めた。「よく眠れましたか?」
「ええ……その、はい。よく眠れました」
 コーリャはしどろもどろになりながら、イワンの言葉を鸚鵡返しする。
「それはよかった。たまにはそこで寝てはいかがです。どうせ私は眠れないことも多いですし、ちょっと横になるならこいつで十分ですからね」
「いえ……その」
 イワンは面白そうにコーリャを眺めている。だんだんと目が覚めてくると、何だか腹が立ってきた。ニコライは「結構です」と言って立ち上がり、床やベッドに落ちていた寝巻きを拾い上げ、例の小部屋に入った。一人になると、一度きりの関係をまたやってしまったという後悔がぐるぐると頭の中をよぎる。だが、今度は「魔が差した」わけではなかった。自分はイワンとそのつもりで寝た。お互いの体を暴いてまさぐる間、イワン・フョードロヴィチはごく大人しく、皮肉も言わずにコーリャに顔を押し付けていた。
 色々と思い出しそうになるのを無理やり押さえつけ、代わりに帳簿の数字を頭の中に思い浮かべた。今日も一日書類や同僚とにらめっくらだ。面白くも何ともないが、コーリャは結構この仕事のことを気に入っていた。手順や雛形が決まっているのがいい。秩序だっていて落ち着く。
 それに比べて、と、着替えを終えて小部屋から出て思う。イワン・フョードロヴィチは全くの無秩序だった。その部屋も、言動も支離滅裂で、謎だった。ソファに腰掛けて、斜めに座って窓の方を見ていたイワンは、ふと視線に気づいたように振り向いた。
「……朝食は結構です。食欲がないのでね。昼食まで一眠りするつもりです」
「そうですか」
 コーリャは寝椅子のそばに行き、背に手を置いた。イワンはその手にちらりと視線を走らせる。
「まだ何か?」
「いいえ……あまり部屋を散らかさないでください」
「努力はしましょう」
 イワンがけだるげな笑いを浮かべて言った。
「それから」
「何でしょう?」
 イワンはニコライを見上げる。アレクセイ・フョードロヴィチとよく似た色の目をしていたが、ごく薄い曇り空のような、世に向かって明るく開かれているような弟と異なり、イワン・フョードロヴィチの目は、色褪せた金属に似た硬質な光を含んでいる。
「何でもありません。失礼します」
 もうイワン・フョードロヴィチは何も言わなかった。椅子から立ち上がり、窓を開ける。マッチを擦って煙草に火をつけ、朝のモスクワに向かって、ふうっと煙を吐き出した。