砂漠は閉じている

 砂漠は深いところまで閉じている。
 そう言ったのはいつの人間だったでしょうか。人にねずみに犬にロボ、とにかく生き物の多い都会では、常に誰かが地面を踏みしめていて、これではあっちとこっちの蝶番も緩むというもの、何かの拍子にひょっこり向こうがわが漏れ出す。町に行くと皆幽霊の話をしています。どこそこの爺さんが葬式の後に歩いてたとか、悲恋の末に死んだ娘の泣き声とか、酒場や街角で、猥談に自慢、選挙に野球に噂話、話の繋ぎに幽霊話はもってこいだ。人も多い分、目撃する目も多いのでしょう。
 けれども砂漠は、人はいなくて、ただ広い。
 だからここでは、幽霊に出会うことは滅多にありません。前の住人は、ここが海だった頃の幽霊を見たことあるって言ってましたっけね。あそこの、とおーくの方に、魚がたくさん泳いでいたと。小さいのも鯨くらい大きいのも、鎧みたいな鱗をしたのや、ギザギザの牙の恐ろしいのや、とにかく見たことのない魚が、月明かりの中をすいすい泳いでいた。人や馬やラクダ、ロボットなんかもいたから、ここで死んだものたちがまとめて化けて出て来たのかもしれません。音はしなかったけれど、にぎやかで、それはそれは気持ちよさそうでした。まあ、酔っ払いの見た夢でしょう。何せ飲んだくれだったから。
 その飲んだくれからここを引き継いで十年、この家で暮らしています。見ての通り、家の外にも中にも何もない。と言っても、ちょっと行ったら町ですから、夜には町の明かりも見えますよ。水や燃料を買いに行くと、砂漠の変わり者が来たって皆歓迎してくれます。で、幽霊話もしてくれる。人だけじゃなく、動物の幽霊も意外に多い。特に多いのは馬です。切り殺された馬が血を撒き散らしながら毎晩通りを走ってる、なんてね。生者は死者の噂話で持ちきりだ。死者もひょっとしたら、あっちへ行くまでの暇つぶしに生者の話をしているのかしら。そんなことを考えながら車を走らせて、帰った家には何もない。明かりももったいないから、寝るしかない。
 ところが、です。
 出るようになったんですよ。幽霊が。
 ひと月ほど前だったでしょうか。私が夜、寝ようとすると、トントンと音がする。誰かが扉を叩いているんです。こんな時間に誰だろう、と扉を開けると誰もいない。そういえば、エンジンの音もしなかった。ここへ来るには車が必要です。馬でもいいですけれど、音を立てずに来るのは不可能だ。気のせいか、石か何かが当たったのを勘違いしたのか、とにかくその日は、いつもよりもちょっと遅れて床に就いた。
 そして次の日。やっぱり夜でした。トントンと扉を叩く音がする。こんな時間に誰だろう? 念のため護身用のバットを手に扉を開ける。やっぱり外には誰もいない。トントンという音以外、何の音もしなかったのも前の夜の通りです。酔っ払いの夢じゃない。酒は十年前にやめましたから。ドラッグも感覚拡張もなし。私はアナログ時計で生活してる、古い時代の人間なんです。内臓は取っ替えましたよ、でも、だからこそ、生まれ変わったら規則正しい生活をするって決めたんです。その日も私は、時計の通り、少し遅れて床に就きました。
 で、さらに次の日も、やっぱり誰かが来ました。そしてノックをする。トントンと、小さく二回、扉を開けると誰もいない。一度扉を開けて待ってみました。その時もノックの音がしました。音がしたっきりでした。
 毎日、毎晩、同じ時間にノックの音だけがする。トントンと二回、ノックをするだけの幽霊が出る。最初は何か事件でもあったのかと思いましたよ。例えば、私が出かけている間に、旅人が誰かが、襲われるか迷うかして、私の家に助けを求めて……なんてね。でも、そんなことがあったらとっくに大騒ぎになっているでしょう。ミルクホールでここひと月分の新聞を隅から隅まで眺めたけど、それらしい事件はありませんでした。
 たぶん、こういうことじゃないかな、と思います。
 私と飲んだくれ、要は人間が、合わせて十年以上もこの場所で生活をしている。狭い家ですから、通る場所なんかも決まってくる。内臓を取っ替えて生まれ変わったと思ったけど、やっぱり同一人物なんでしょうね。床がそこだけ、ほんのちょっと凹んでいるのがわかりますか。砂が溜まっているでしょう。何年も何年も、同じ場所を踏み締めて、ほんの少しずつ、あっちとこっちの蝶番が緩んでいった。それでついに、向こうがわのお客さんが来るようになった。一秒にも満たないような、ほんの短い時間だけ。
 砂漠は相変わらず、深いところまで閉じています。でも、ここだけは、ほんの少し開いている。きっと幽霊はモダンな人でしょう。毎日きっかり、同じ時間にノックをしに来るんだから。
 今ではそれが就寝の合図ですよ。

 

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