踊らない子供たち

 台所の隅の小さな樽に詰まった野菜くずにはすでに虫が湧き始めている。半分にも満たないそれを、パーシャは持ち上げて召使い小屋の裏手に持って行った。いっぱいになると、重くて持ち上げるのに苦労するし、体全体で抱えるように持たなければならない。裏手には鶏小屋があって、パーシャの気配で小屋の中の鶏たちが騒ぎ始める。餌箱に野菜くずを落とし、小屋の戸を開けると、すぐさま鶏たちが飛び出してきてしきりにつつき始める。パーシャは手頃な棒を拾って塊をほぐし、中に混じっていた卵の殻を砕くと一羽の鶏の前に寄せた。茶色い羽根に、絵の具筆を落としたみたいに不規則に白い斑の混じる雌鶏だった。お前ももう七つになったのだから、一度自分で世話をしてみるといい、と、先日養父から任されたものだった。老いて卵を産まなくなった雌鶏を潰して、その入れ替わりに買ったもので、選んだのはパーシャだ。
 自分で産んだ卵の殻を雌鶏がつつく。これくらいの野菜くずなら、豚がいればすぐになくなるだろうが、鶏たちだけでは残る。残った分は庭の隅に積んで、畑に埋めて肥料にする。パーシャはしゃがみこんでしばらく鶏の食事を見ていたが、やがて立ち上がった。
 ぐるりと小屋を巡りながら、鶏小屋の周りの獣除けの柵を棒で叩いて、壊れたところがないか確かめる。棒を庭に捨て、水を換え、鶏小屋を掃除して樽を台所に戻し、井戸端で手を洗う。水はさっき鶏にやったのの残りだ。野菜くずや卵の殻の入っていた樽は、掴むとぬるぬるしている。なんとなく気持ち悪くていつも手を洗ってしまう。井戸の水はしばらく置いていたはずなのにまだ冷たくて荒れた手に沁みたが、そのままでいるよりはずっといい。
 と、背後から肩を叩かれた。手を洗うついでに口をゆすごうと、水を口に含んでいたパーシャは、その勢いで振り向きざまに地面にぺっと水を吐いてしまう。水は後ろにいた人物の靴のそばにビシャっと落ち、紐をきっちり結えた靴が後退る。わざとじゃない。そんな近くにいるのが悪い。心の中で言い訳しながら、どうかしましたか、と尋ねる。同じ年頃の少年が、手に持った何かを差し出した。
「これが? ええと、何ですか?」
 パーシャは困惑して尋ねる。少年は黙ったまま、首を傾げて手に持った十字架をずいっと目の前に突き出した。
 ――つい先日、この家の奥様が亡くなった。母親の葬儀が終わった後、アレクセイとイワン、二人の坊ちゃんはほどなくして召使い小屋に引き取られた。主人のフョードルは完全に彼らのことを忘れていたし、母屋は母親を亡くしたばかりの子供二人が過ごすにはあまり安全とも適切とも言えない状況になっていたからである。二人はほとんど身一つでやって来て、文句も言わずに藁くずを敷いた硬いベッドに潜り込み、自分たちと同じ食事をとり、同じ場所で排泄した。
 寝床を取られたパーシャは大いに不満だったが、坊ちゃん方に逆らうわけにもいかない。マルファ・イグナーチエヴナと一緒に寝なければいけないのも、坊ちゃんたちが食事をする間立って待っていなければならないのも、今だけだ。そう言い聞かせて強いていつも通りの生活を続けていたが、数日経ってようやく、上のイワン坊ちゃんが一言も話さないのに気づいた。母親の死の衝撃か、それとも何か意図があってのことか、イワンは葬儀から今までずっと口をつぐんでいる。道理で文句の一つも聞こえないはずだ。弟と遊んでいる最中に、小さな、枯れ葉の落ちるような笑い声を立てることはあったが、ここへ来てから今までのほとんど全ての時間をイワンは沈黙したままで過ごしていた。悲しみのせいに違いない、と養父母は言い、いずれ医師に見せなければと言い合ったがその時はまだ来ていない。
 それはともかく、困るのはこういう時だ。話してくれなくては、何をどうすればいいのか分からない。イワンの持つ小ぶりの十字架は銀製らしく、表面は黒ずんでいた。千切れた紐に、木のビーズがいくつか残っている。イワンは紐をゆらゆらさせて、裏庭のシダの茂みを指差し、何かを尋ねるように首を傾げる。
「えっと……俺のじゃないです。多分マルファさんのでもグリゴーリイさんのでもないです。誰かが落としてったんじゃないですか」
 女たちの誰かが、と言いそうになってパーシャは口を閉じた。あるいは……亡くなった奥様とか。しかしイワンに見覚えがないのなら、違うのかもしれない。イワンは十字架を手元にひっこめ、じっと見つめていたが、くるっと踵を返すと、弟のいる召使小屋に帰って行った。
 パーシャは桶に残った水を畑に撒いて、母屋の方を振り返る。二階は奥様の部屋があった。あそこから思いっきり投げたら、あの茂みの中に落ちる。ソフィア奥様のじゃないとしたら、前の奥様の? フョードルに前妻がいて、子供もいたことは養父母から聞いたことがあった。でもたぶん、単なる落とし物だ。客人か誰かのものだろう。
 イワンが拾った十字架は、ほどなくして下の坊ちゃんのアレクセイのおもちゃになった。黒ずんでいた表面は綺麗に磨かれ、紐は端切れか何かを縫い合わせたものに付け替えられている。アレクセイ坊ちゃんは十字架をすぐ口の中に入れるから、その度にイワン坊ちゃんが、だめだよ、と言うみたいに手首をつかんで口から吐き出させた。アレクセイは、分かっているのかいないのか、むずがりながら今度は自分の指をしゃぶっている。
 兄が言葉を話さなくなったと思ったら、弟の方は赤ちゃん返りを起こして何でも口に入れるようになった。おもちゃがわりの胡桃の殻とかつるつるした石とか、晩ご飯の鶏の骨とか、兄の髪の毛とか、土や葉っぱまで口の中に入れて唾液でべとべとにし、生えそろったばかりの歯で噛む。パーシャも一度服を食べられかけたことがある。びっくりして服を引っ張ったら、おしゃぶりを奪われたアレクセイはその場に尻餅をついて泣きはじめた。マルファが慌ててやって来て、アレクセイ坊ちゃんを立たせて召使い小屋に連れて行った。後で一体何したの、と言われたが、転んだみたいだと答えると、今度から気をつけるようにと小言をもらっただけで済んだ。
 葬儀が終わってすぐの頃、イワンは門口に立って外を見ていることがあった。二、三歩出ていくこともあるが、すぐに戻ってくる。アレクセイの方が思い切りがよく、少し大人が目を離した隙に門から走り出てしまった。アレクセイ坊ちゃんの姿が見えない、と気づいた時には、子供の足では相当遠くへ行っていたが、たまたま通りがかった百姓に捕まえられて連れ戻された。それっきり、表の門は固く閉ざされている。閉ざされた門を見上げているイワンを見ながら、外に行きたいならさっさと行けばいいのに、とパーシャは思う。彼は表の門は使わない。裏口を出て町のどこにでも行く。
 アレクセイが何でも口に入れるようになったのは、ひょっとしたらこの頃からかもなのかもしれない。どこへも行けない代わりに、明らかに食べ物ではないと分かっていて、アレクセイは石や十字架を口に入れる。そのくせ庭に生えているハーブ類やベリーのたぐいは、持ってきてやっても気味悪そうに眺めるだけで、調理されたのを皿の上で見るまでは手をつけようとしない。
 ある日パーシャは、時々やるように母屋から小さくなった石鹸をくすねた。井戸端で、桶にはった水に溶かし、藁で吹いてシャボン玉を作る。アレクセイはシャボン玉に手を伸ばして捕まえようとするが、触れるそばから壊れてしまう。パーシャは手のひらの窪みににシャボン液を溜めて、藁を挿してふうっと吹く。手のひらの上でいくつも膨らんだシャボン玉に、アレクセイがそろそろとした動きで手を伸ばした。虹色の羽のトンボを捕まえる時と同じ動き。でもアレクセイはパーシャと違ってトンボだってまだ一度も捕まえられたことがなくて、今度も触るそばからパチンと泡が弾けてしまう。パーシャはアレクセイ坊ちゃんの手のひらにシャボン液を少し注ぎ、藁で吹いてやる。アレクセイはブクブク膨らんだ泡を目を輝かせて眺め、ぱくん、と口に入れる。泡は弾け、シャボン液を食べることになったアレクセイは泣く。
「ああ、食べちゃダメですよ」とパーシャは井戸から水を汲んで桶から直接手ですくい、アレクセイに飲ませ、涙でべしょべしょの顔を洗う。「からいのは分かってるでしょうに」
 パーシャはハンカチを出して石鹸水につけて濡らし、指をしゃぶりながらめそめそしているアレクセイの首や手を拭う。くすぐったがって逃げようとするのを捕まえて、垢の浮いた肌を拭いた。それは、パーシャが使用人でアレクセイが主人の子だからというよりは、単純に自分の方が年上だったからだった。
 坊ちゃんたちの着てきた服は、三週間もするとだんだん垢じみて、今ではボタンが取れたりしている。アレクセイもイワンも、虫に刺されて身体中にいくつも赤い斑点を作っている。アレクセイは我慢しきれず掻きむしったりするから、体のあちこちに、腫れた赤い斑点の中心に、凹んだかさぶたのある、小さな山みたいな傷ができていた。パーシャはアレクセイの袖や裾をめくって傷に溜まった膿や汚れを拭き取る。腕のしわに溜まった垢を拭いていると、アレクセイがハンカチを奪い取り、見よう見まねで体や顔を拭く。
 一連の出来事を、イワンはそばの地面に腰を下ろしてじっと眺めている。

 

 

 パーシャは今日も餌を鶏小屋に持っていく。今日は野菜くずだけじゃなくて穀物もたっぷりある。餌箱にそれをぶちまける時に中を確認した。今日もある。昨日はなかったけど、一昨日はあった。
 いつの頃からか、餌箱の中に虫が置かれるようになった。置かれている、と言うのは、虫はたいてい死んでいて、念入りにバラバラにされているからだった。小さな甲虫や、芋虫や、時々ミミズや蝶々。どれも皆脚や羽をもがれたり、体をぶつ切りにされていて、一定の法則性に従って綺麗に並べられていた。今日は蛾で、一つ一つ分解された羽や足や頭や胴体が餌箱に縦一列に並んでいる。パーシャはそれらを「お供え」と呼んでいた。「お供え」は、ある時もあったし、ない時もあったが、とにかくほぼ毎日、餌箱の中に死んだ虫が入れられている。餌箱をのぞいたマルファは、こんな残酷なことをして、とこっちに向かって顔をしかめてみせた。本当はパーシャがやったのではないけれど、自分がやったともやらないとも言わなかった。
 ほんの一時のことだったはずの坊ちゃんたちの召使い小屋生活は、三月目に入っていた。イワンは相変わらず黙りこくっていて、アレクセイの方は少しましになったが、今度はいたずらが増えて、コップでもなんでも触ろうとするし、家のあちこちに虫の羽だの石ころだのを隠すし、髪まで泥だらけにして遊んだり戸棚の上によじ登ったり、マルファがきりきり舞いしている。
 うう、と猫のうなるような声がした。振り向くと、アレクセイがむくれて立っている。
「そんな顔したってダメだからな。お前が寝坊するのが悪いんだぞ」
 パーシャはぞんざいな口調で言った。グリゴーリイがいればただでは済まないが、彼は今薪割りをしている。薪を置いているのは小屋の反対側だから、ここで話していることはまず聞こえない。
 召使い小屋の中で遊ぶのも一通り飽きたアレクセイは、今度はパーシャの仕事に興味を持ったらしい。というよりは、鶏小屋に。何が面白いのか、鶏がコッココッコと鳴いては地面を突くのを日がな一日見ている。そのうちパーシャの後をついて、棒を拾って野菜クズをつついて柵を叩き、鶏の世話の真似事をするようになった。一度目を離した隙に柵の中に入ってしまい、雄鶏に蹴られそうになっているのを庇ってやったら、三歳児なりに何かしら思うところがあったのか、鶏に関してはパーシャの言うことをよく聞く。柵の内側は絶対入っちゃいけないと言えば決して入らないし、世話の方法を解説すると、わかっているのかどうかはともかく、大きな目をさらに大きくみはって真剣に耳を傾けている。
 アレクセイがむくれているのは、自分も鶏に餌をやりたかったのに、ということだった。この役目をパーシャは決してアレクセイに譲らなかった。その鶏は、自分の鶏だった。それなのに、マルファがアレクセイ坊ちゃんにも少しは餌やりを譲ってあげたら、というものだから、アレクセイはやってみたくてやってみたくて仕方がないのだ。それで坊ちゃんに、自分よりも早く起きられたら一緒に餌やりをしてもいいですよ、と言ってやったら、大喜びで張り切っていたが、一週間経っても二週間経っても、パーシャより早く起きられたためしがない。パーシャも最初からできるはずがないと思ってそう言ったのだった。最初はしぶしぶながら納得していたアレクセイだったが、最近は愚図るようになってきた。
「ないのやだ!」
と餌箱を指差してアレクセイが地団駄を踏み、パーシャの手から餌の入っていた籠を奪い、めちゃくちゃに振り回した。
「でももう餌はやっちゃったよ」
「やーだー!」
「また明日な」
 パーシャは籠をひょいと取り上げた。アレクセイは地面に突っ伏してわんわん泣いたが、誰も出てこない。そのうち疲れて泣き止むのがわかっているからだ。来た頃には丁重に扱われた坊ちゃん方も、だんだん慣れが出てきてどことなくぞんざいに扱われるようになった。もちろん面と向かってないがしろにするようなことはなく、小屋の中では依然として彼らが主人だったが、多少手が回らないような時には致し方なく放っておかれる。
 しかし今日は、パーシャの方に慈悲心が出た。パーシャは鶏小屋に戻ると、籠を捧げもってアレクセイの前に膝をついた。
「アレクセイ坊ちゃん、卵をとってくださいますか?」
 アレクセイは涙と鼻水でべしょべしょになった顔を上げた。パーシャは籠をアレクセイに持たせ、餌箱を囮にして鶏を小屋から引き離し、柵で囲った。空になった鶏小屋の入り口にアレクセイを呼ぶ。「あれですよ」と敷き藁の中の卵を指さすと、アレクセイの目が輝いた。地面に膝をついて、小屋の中に体を突っ込み、両手で卵をつかむ。落とさないように慎重に体を小屋から出して、そっと籠の中に置いた。卵は籠の中で、つやつやと輝いている。うっとりと卵を眺めるアレクセイを尻目に、パーシャは敷き藁の中をさぐった。もう一つ卵が見つかったので、それも籠の中に入れる。それ以上には見つからない。最近、鶏の生む卵が少ない。また別の雌鶏を買ってこなければならないかもしれない。
 アレクセイに籠を持たせると、落とさないようにそろそろと歩くので、すぐ近くの炊事場の入り口に行くのにも随分かかった。坊ちゃんの持ってきた卵を、マルファは苦笑いしながら受け取り、慇懃に礼を言った。朝食の最中、アレクセイは椅子のうえに立ち上がり、皿の上の炒り卵を指しては自分が取ってきたのだと興奮した。イワンが無言でアレクセイの裾を引っ張ってたしなめる。アレクセイはおとなしく座り、それでもしきりと兄に話しかけていた。
 朝の仕事を一通り終えてから鶏小屋のそばに仕掛けたネズミ取りを点検していたら、アレクセイがまたまとわりついてきたので母屋の方に逃げる。彼らが召使い小屋に来てから季節は春から夏になったが、アレクセイもイワンも、戻りたいとも言わない。むしろ、母屋に近づくのを忌避しているようだった。
 旦那様はあまり早起きではないし、朝の掃除が終わってから旦那様が起きるまでの間、母屋の方はあんまりすることがない。今は火入れもないから、せいぜい枯れた植物や空気の入れ替えぐらいだ。だから、旦那様が寝ている間、母屋は格好の隠れ場所だった。ふきんでも持って何か掃除でもしているような顔で母屋を歩き回る。時々、飾った花やタオルや石鹸の点検をする。使用人の子供が、洗面台や食堂の隅をうろうろしていても誰も気にしない。奥様がいたころから、パーシャはしばしば刺繍針を探してほしいとか温かいミルクがほしいとかの用事を言いつかって出入りしていたし、旦那様が呼ぶ女たちは、彼がいても気にせず平気で下着姿で歩き回り、時々ちょっかいをかけてきた。旦那様が起きてくれば、寝室の掃除だとか、リネンやチャンバーポットの交換だとかで忙しくなる。そうなる前に母屋を抜け出す。裏口に植えられたラベンダーが花盛りで、パーシャはその花穂を片手で撫でて一本一本しならせながら庭の方に抜ける。
 シダの茂みを抜けたところで、坊ちゃんたちが遊んでいるのに出くわした。イワンが小さなスコップで木の根っこを掘り返しているのを、アレクセイがしゃがんで見ている。しまった、と思いながら帽子をとって挨拶をする。アレクセイが立ち上がり、パーシャの手を引っ張ってその場に座らせ、たまご、と言う。
「え? ああ、今朝はアレクセイ坊ちゃんがとって下さったんでしたね」
と言うと、イワンが顔を上げた。アレクセイの方を見て、そうなの、と言うように首を傾げる。アレクセイは、ようやく兄に伝わったのが嬉しいのか、にこにこしながら洟をすすっている。
 変な兄弟だな。
 パーシャは思う。アレクセイは、兄にどこか遠慮しているようだった。マルファや自分にはわがまま放題で、いたずらだってよくやるのに、兄に対してはあまり癇癪を起こさず、そばに座って茂みに石を投げたり地面に絵を描いたり、ぴかぴかした木の実だの緑の葉っぱのついた振り回しやすい棒だの、宝探しをしたりしているようだった。アレクセイがうとうとし始めるとイワンの方が召使い小屋に連れて帰って昼寝をさせた。眠ったのを確認したらまた元の場所に戻るが、時々、アレクセイと一緒に、つぎ当てだらけのシーツにくるまって眠っている。
 イワンは、庭にいくつか基地というか、縄張りみたいなものを確保していた。さっきの木の根っこのとことか、蝶の幼虫がたくさんいる木とか、いくつか巡回する場所があって、雨の日以外は大抵そこを回って召使い小屋に戻ってくる。時々、見たことのない本を抱えているところを見ると、こっそり母屋にも出入りしているようだった。
 イワンの丸まった背と、指をしゃぶるアレクセイの髪や頬と、パーシャの足の先に木漏れ日が落ちて、風が吹くのに合わせて揺れる。遊びの上手くない子供たちだった。その場に三人もいて、石蹴りとか陣地取りとかが始まる様子もないし、この年代の子供が集まれば自然発生的に出てくるようなじゃれあいだってなかった。遊びどころか、跳ねることも、踊ることも、誰も何一つ知らないみたいに、三人で並んで座っている。
 パーシャは少し居眠りをすることにした。手近な木にもたれて目を閉じる。最近はアレクセイを出し抜くためにずっと早起きをしていたから、どうにも眠かった。ここなら告げ口をされる心配はない。見られたら怒られるかもしれないが、坊ちゃんの前ならそれほどひどく怒られることはないだろう。
 眠っていたのはたぶんほんの短い間のことだったろう。起きても地面に落ちる木漏れ日の感じは変わっていなかった。イワンは相変わらず木の根元を掘り返していて、アレクセイは誰も相手をしてくれないので、つまらなさそうに人差し指をくわえて地面に投げ出した足をぱたりぱたりと動かしている。パーシャはまだ覚めきらない目でその様子を見ている。
 アレクセイのそばに、小さな甲虫が止まっていた。この季節にはよく見るありふれた虫だった。茶色い、ずんぐりした体で、背中はつやつやしている。ちっとも動かないからひょっとしたら死んでいるのかもしれない。アレクセイは、相変わらず足をぱたぱたと動かしていたが、甲虫に気づくと、ひょいと手を伸ばして捕まえた。暴れる様子もないところを見ると、やっぱり死んでいるみたいだった。パーシャは欠伸をした。まだ召使い小屋に戻るつもりはなく、もう少し休んでから立ち上がるつもりだった。
 脚を固く縮めて動かない甲虫を、アレクセイは指につまんでしげしげと見ていた。いつもは捕まえようとしても逃げられてしまうから、捕まえられたこと自体が珍しくて嬉しいのかもしれなかった。アレクセイは、目を数度、ぱちぱちと瞬かせる。と、ひょいと手を口元へ持っていき、甲虫を口の中に入れてしまった。
 あーあ、という気持ちの方が強かった。最近はましになって来てたのに。驚きよりも面倒臭さの方が先に立って、どうしたものかとアレクセイの方を見ていると、その奥のイワンの様子に気づいた。イワンは、アレクセイが甲虫を口の中で転がし、ふっくらした顎が上下に動くのを、じっと食い入るようにして見ている。彼がよくやっていたように、手首を掴んで止めることもないし、口の中から虫を出させることもない。明らかにイワンは弟が虫を食べる様子を、それとわかって見つめていた。アレクセイの口元を見つめるイワンの目は、暗い色を帯びながらもどこか底の方がぎらぎらとしていた。
 パーシャは、眠気も忘れてイワンのことを見つめていた。アレクセイのことも、この瞬間はたぶん忘れていた。イワンの目はあまりにも暗く、胸が痛くなるくらいに真剣で、パーシャはそれを息の詰まる思いで見ていた。
「うえ……」
 アレクセイが地面に何かを吐き出した。きらきらと糸を引く唾液の中に、尖ったものや細長いものが混じっている。イワンがはっと気づいた瞬間、パーシャと目が合った。途端にイワンの顔がパッと紅潮した。恥じいるように俯いて、パーシャを睨む。
「水を……」
と言いながらパーシャは立ち上がった。「持ってきます」
 召使い小屋の方に走りながら、パーシャは胸の中で気づかれた、と繰り返していた。見ていたのを気づかれた。びっくりした。だから見ていた。それだけだった。
 井戸から水を汲んだ桶に、台所から持ってきたコップを突っ込む。冷たい井戸の水は荒れた手にひどく滲みた。
 泣いているアレクセイのところにコップを持っていく。イワンはパーシャと目を合わせないままコップを受け取り、アレクセイの口に含ませて、うがいをさせた。イワンの顔の赤みはほとんど引いていて、ただ耳の先にだけがまだ腫れたように赤い。
 パーシャはしばらくそこに立っていた。コップを受け取らなければならなかったから。だけどイワンは決してこちらを見ようとしないから、召使い小屋に戻った。
 亡くなった奥様の親戚だという老婦人がやってきたのは、それからしばらく経ってからだった。
「お前」
と老婦人はパーシャを呼んだ。パーシャはその時、マルファに言われて菜園から夕食に使うハーブをとっていたのだが、表から聞こえるただならぬ物音に気づき、様子を見にきたのだった。手にはハーブを摘んだ籠をそのまま持っていた。
「お前、聞こえていないの」
 老婦人は傲然と言った。パーシャは慌てて、はい、奥様と返事をする。
「あの子たちはどこ」
 パーシャはそれで事情を了解した。裏庭に走って坊ちゃんたちを呼ぶ。アレクセイは鶏小屋の前で、イワンは裏庭のウマゴヤシの群生地で見つけた。
「お客様がお呼びです」
 アレクセイは不安そうに兄とパーシャを交互に見ていた。イワンは黙ってアレクセイの手を握り、表の方に歩いて行く。パーシャも後ろからついて行った。
 パーシャがイワンとアレクセイを呼びに行く短い間に、老婦人はすでに一悶着起こしているようだった。彼らが表の方へ向かっていると、遠目に玄関から老婦人が憤然として出てくるのが見えた。その後ろをフョードルが着いていく。明らかに酔っ払っていて、老婦人に何やら馴れ馴れしく話しかけようとしたところにビンタを喰らわされていた。老婦人はそれでも怒りが収まらないというように、もう一度ビンタを喰らわせ、前髪を掴んで地面に引きおろした。フョードルが、歓喜ともつかない悲鳴をあげて転がる。アレクセイは怯えて足を止めてしまい、召使い小屋に隠れようとした。ぐずぐずと涙の気配が見え始めたのを、イワンとパーシャの二人がかりでなだめる。老婦人はずかずかと歩みよって、三人の前に足を止めたかと思うと、いきなり振り向いて付き従っていたグリゴーリイの頬をしたたかに打った。思わずすげえ、とパーシャは呟いた。
 老婦人は、子供は二人とも引き取ります、と宣言し、くるりと踵を返して馬車の方へ向かった。途中で子供たちが着いて来ないのに気づいて、またくるりと踵を返し、「何をしているの、早く来なさい」と命じた。それ以外のことは許さないし、またあってはならないとでも言うような、断固たる口調だった。声の鋭さに押されるようにイワンが立ち上がり、アレクセイもそれにおずおずと着いていく。アレクセイは時々、歩きながらパーシャを振り返った。パーシャも後ろからなんとなく着いていったけれど、老婦人の歩くのは早くて、距離はどんどん広がるばかりだった。フョードルは馬車のそばで真っ白なハンカチを顔に当てておいおいと声をあげていた。フョードルの後ろにはグリゴーリイとマルファが並んで立っていて、パーシャは彼らの隣に立った。それより先は越えられない見えない柵があるみたいだった。フョードルが、芝居がかった口調でこの情けない父から生まれた哀れな子らをよろしく頼みます、と涙ながらに訴えるのを一瞥し、老婦人は子供達に向かって言う。
「お前が上の子ね。こっちが下。お前たちのことは話には聞いていましたよ。無論あの不幸な子からではないけれどね。あの子は手紙一つよこさなかったわ。よこしても読まなかったでしょうけれどね……さ、名前は?」
 きびきびした、軽やかな鞭のような言葉が飛んだ。イワンが小さく口を開いた。ひゅうひゅうと声にならない吐息が漏れる。
「名前は。口がきけないの?」
 イワン、と小さくかすれた、乾いた木を擦り合わせたような声が聞こえた。弟を指し、アレクセイ、と言う。それが、彼が召使い小屋に来て発した最初で最後の言葉だった。老婦人は馬車から毛織の膝掛けを持って来させると、それで坊ちゃんたち二人を包んだ。高価な膝掛けを、垢まみれの、シラミのたかった子供二人の肩に手ずからかけてやりながら、老婦人は、「堂々となさい。あの男の子供であることはお前たちの罪ではないのですから」と静かな口調で語りかけた。馬車は坊ちゃん二人と老婦人を乗せてそのまま出発し、それっきりだった。翌日、鶏小屋の近くで籠が落ちているのを見つけた。ハーブを入れていた籠だった。せっかく摘んだハーブは、慌てているうちに全部どこかへばら撒いてしまったらしく、籠の中には萎れた葉っぱが一枚貼り付いているだけだった。
 パーシャの寝床は元の場所に戻った。食事は誰を待つこともなく三人でする。鶏小屋の世話を邪魔されることもない。餌箱の中の「お供え」は、あの日以来ぱったりと止んでいる。あれをやっていたのは、やはりイワンだったのだ。どうしてそういうことをする気になったのか、パーシャは興味がなかった。ただ、彼らが去ってしまう前、甲虫を食べるアレクセイを見つめていたイワンの暗くぎらついた瞳を思い出す。あの瞳の色はたぶんパーシャもよく知っている感情だった。だから驚いたし……かわいそうだとも思った。たぶん。もう何日も前のことだから、ちゃんと覚えていない。
 パーシャは門の外に立って、馬車の消えた方を眺めてみた。もう今頃は奥様のお屋敷についているだろうに、どうしてだか、彼らを乗せた馬車が、今もこの道のずっとずっと先をまっすぐ走っているような気がするのだった。
 だけどそれは全部夢想だった。パーシャはもう七歳で、分別があった。この道をずっと行っても町はずれの池にたどり着くだけでどこにもつながっていないのは知っていたし、自分の雌鶏は本当は旦那様のもので、時がくればパーシャの意思など関係なしに潰されるのもわかっていた。大人たちが告げる、自分に関する噂話の意味も、もうそろそろ理解しつつあった。