花が咲くたびイワン・フョードロヴィチは「そろそろ無花果の季節になったか」と尋ねる。何の花でもいい。バラでもライラックでもなんでも、咲いたらそう聞く。そのくせ本当に無花果の季節になったら、実際に食べるのはほんのちょっぴりで、一口かじってもういい、と言う。だから多くの実は鳥や動物に食べられたり、地面に落ちて腐っていくのだった。
落ちる前に収穫して、イワンの食べなかった実はジャムやコンポートにする。デザートで出すこともあるが、ほとんどは隣家に譲り渡される。
「あら、悪いわね、毎年」
と隣家の女主人は平板な口調で言って受け取る。喜んでいるのか迷惑に思われているのか、どちらか知らないが、いらないと言われたことはない。
「イワン・フョードロヴィチはお元気?」
「はい、奥様」
「よろしくと伝えて頂戴」
「かしこまりました、奥様」
家に帰るとまた無花果を収穫する。無花果の木には蜘蛛の巣がかかっている。それを払いのけて、二、三個実をもぐ。蜘蛛が逃げて無花果の木に飛び移る。今日壊した巣も、明日には元に戻っている。
収穫した実を、今日はソースにする。実を潰して鍋で煮て、砂糖と塩胡椒と酢で味を整え、表面をこんがり焼いてから酒で蒸し焼きにした肉にかける。生のままだとあまり食べないイワンも、こうすると食が進む。
給仕をしているとフョードル・パーヴロヴィチが食堂に入ってくる。夜遅く、時には明け方近くまで起きているから、次に目が覚めるのは昼近い。フョードルはナイトガウンのままで食卓に着き、自分の分を食べ始める。酒はまだ食前酒の一杯だけだ。それでもう馴れ馴れしくなって、自分の息子に猫撫で声で話しかける。
「なあ、イワン、頼むよ。ちょっと行くだけじゃないか」
「嫌ですよ。それについてはもうお話したじゃないですか」
「大した距離じゃないんだよ、ちょっと行って話をつけてくるだけじゃないか。三、四日、いや二、三日で済むだろ」
「嫌ですね。そんならお父さんが行けばいいじゃないですか」
どうも林の伐採権を買おうという相手が出てきたのだが、その交渉にイワンをやろうという腹づもりらしい。が、イワンは承諾せず、ここ最近はずっとこんな調子の言い合いをしている。本当はそのつもりもなく、行かないのをお互いに確認しているのだ、とスメルジャコフは思っている。
食事が終わると、「もう失礼しますよ」とイワンが席を立った。食事はほんの一口ずつ口をつけたきり、大半が残っている。そのまま一時間ほど昼寝をするのが彼の日課だった。フョードルは、食事が終わればスメルジャコフに食器を下げさせて、あとは手酌で酒を飲む。手のかからない旦那様だった。
スメルジャコフは台所に下がり、机に突っ伏して、組んだ腕を枕がわりに少し眠る。ほんの短い間だ。イワンが目覚めて自分を呼ぶ前に目が覚める。
昼寝から目覚めると、イワンは新聞を読んで記事を切り抜く。可哀想な子供たちの記事が多かったが、最近はそれも減った。話題の旬が過ぎたのだ。イワンは代わりに政談とかコラムとか相場とかを切り抜いている。料理のレシピ本の広告まである。無造作に切り抜くので見出しや頭文字が切れていることもよくある。ゴミがたくさん出るからスメルジャコフが片付けに行く。何が悲しいのか、イワンは切り抜きを作りながら、時々しくしく泣いている。
郵便馬車が来る。領地の管理人や商売相手の他にドミートリイ・フョードロヴィチからの手紙が混じっている。スメルジャコフはドミートリイからの手紙だけ上着のポケットに入れて、残りはフョードルのところへ持っていく。フョードルは珍しく起きていて、スメルジャコフに、チェルマシニャへ行ってくれないかと言う。
「私がですか?」
「そう。手紙を書いたからな、向こうの神父に渡してくれ。それだけでいい。あとは向こうがなんとかするから」
「でも」
「渡して帰ってくるだけだから、二日もあれば十分だろう。何、留守の間は酒とザクースカがあればそれでいいよ。町に出てもいいしな、どこかの婆さんに食事の世話を頼んでもいい。二日くらいだから、まあ、なんとでもなるわな」
「でも」
「しつこいぞ」
行けったら行け、とフョードルは会話を切り上げ、スメルジャコフを追い出した。
スメルジャコフは、イワンの部屋に行き、チェルマシニャに行くことになったから数日留守にすると告げた。イワンは、不可解そうな顔をしてスメルジャコフを見ていたが、そうか、とだけ言った。
「それから、お手紙です。ドミートリイ・フョードロヴィチから」
「兄さんから? また何の用事だろう……」
イワンは兄の手紙を開ける。手紙には検閲済みの印が押されている。シベリアからはるばる旅をしてきたからか、何度も検閲されたからか、単に紙質が悪いのか、手紙は薄汚れている。
イワンは手紙に目を落としていたが、スメルジャコフが控えているのに気づくと、「もういい。あとで呼ぶ」と言って下がらせる。
台所に下がったスメルジャコフは、まず食料庫を確認した。日持ちのしないのは今日明日中に使い切らなくてはならない。何か作っておいても旦那様がたはどこに何があるかご存知でない。町の食堂へ行くなり何なり、自分たちで何とかしてもらう方がいいかもしれない。考えながらも、なんだかそわそわと落ち着かない。もうすぐに行って用事を済ませてしまいたいような気がした。
次に自室に行って荷造りをする。でも大した荷物はない。旦那様から預かった手紙と旅費、あとは替えの下着と靴下くらい。少し迷って、スメルジャコフは香水を荷物の中に入れた。一番小さい瓶で、残りも少なくなっている。下着で包んで割れないようにする。
荷造りをしていると、誰かが召使小屋の戸をノックした。こんなところ誰も来ないし、来たってノックなんかしないから、最初は気づかなかった。もう一度、今度は強めに戸が叩かれてようやく気づく。戸を開けると、イワンが立っていた。自分もチェルマシニャに行くと言う。
「でもイワン様、あんなに嫌がってたじゃありませんか」
「気が変わった。僕も行く」
「旦那様がお許しになりませんよ」
「僕も行くんだ」
スメルジャコフはため息をついた。
「いきなり行くとおっしゃってもね、イワン様、何の準備もないのにいきなり行けるわけないじゃないですか。最後に外にお出かけになったのはいつですか。何があったか覚えておいででないんですか」
と言うと、イワンは目に見えてしゅんとした。今まで引きこもっていたくせに、何でいきなりそんなことを言い出したのやら。ドミートリイからの手紙のせいだろうか。今までこんなことなかったのに。考えを巡らせている間、イワンはずっとしょんぼりしていて、さすがに気の毒になる。
「まあ、そうですね、何かいい方法を考えましょう、出発まではまだ少しありますし……」
と、言ったところでおおい、と声が聞こえる。フョードルがスメルジャコフを呼んでいる。イワンがぎょっとしたように振り返る。声は母屋の方から、おおい、おおいと何度もする。
「ああ、旦那様に見つかったらまずいことになりますよ。早く出発しないと」
スメルジャコフの口からその言葉はとても自然に、するりと出てきた。出発までしばらくあるはずだったが、いざそう口にしてしまうと、そっちの方が真実な気がした。早く出てしまわなければ。でなければ旦那様に捕まってしまう。イワンも顔を青くしている。スメルジャコフは部屋を見回し、部屋の隅に転がっていた箱に目を止める。少し無理をすれば、大人なら片手で持てそうな木の箱だ。それほど汚れていないし、変なにおいもしない。スメルジャコフは、さっと埃を払って、その中にハンカチを敷いた。
「イワン様、この中に入って下さいまし」
イワンはしばらく箱の中をじっと見ていたが、もぞもぞと動いて中に入り、ハンカチの上に尻をつけて座った。「閉めますよ」と言って蓋をそっと閉める。この間にもおおいおおいの声は続いている。
「イワン様。窮屈ではないですか。苦しくありませんか」
箱に向かって尋ねると、コツコツと蓋を叩く音がした。それから、大丈夫だ、とくぐもった声が聞こえた。良かった。スメルジャコフは大急ぎで召使小屋の中をひっくり返し、古いスカーフを見つけて、それで箱を包む。蓋がある程度見えるように上の方は空けておいて、縛り方を工夫して手にも提げられるようにしたが、カバンを肩にかけたままだと、両手で抱えて行く方が具合がいい。転ばないようにしないと、とスメルジャコフは思う。
召使小屋をそっと出る。おおいおおいは今は止んでいる。でもまた始まるかもしれない。スメルジャコフはこっそり庭を突っ切って、裏口から出る。道を歩いていると、「ねえ」と言われて飛び上がりかける。隣家の女主人が垣根越しに話しかけていた。
「どこかへお出かけ?」
「はい。旦那様のお使いで」
と言ってからしまったと思うが、女主人は気づかぬふうで会話を続ける。
「そう。あの方もお気の毒にね。小さい頃にお母様を亡くされて、久しぶりに帰ったと思ったら、今度はお父様まで。しかも殺されてしまうなんて。極め付けにお兄様が犯人だなんて、本当にどう言っていいのか……。あの方が閉じこもってしまうのも仕方がないわね」
「……」
「だけどあまり閉じこもっているのは体に毒よ。気が向いたらうちにでもお茶にいらしてと伝えて頂戴」
「はい、奥様」
「少し景色を変えるだけでも気分転換になるものよ」
「おっしゃる通りです、奥様」
スメルジャコフは、隣家の女主人に暇を告げて歩き出す。イワンは今の会話を聞いただろうか。箱の中は静かでこそりとも物音がしない。眠っているのかもしれない。箱の中は暗いから。そっちの方がいい。前に外へ出た時は、全部に怯えて大変だった。道ゆく人にも、子供にも、その辺を歩いている野良猫まで怖がって、顔を覆ってしゃがみこんでしまった。皆んなが僕の罪を知っている、と言ってその場から動かない。あれには難儀した。今だってあんなに小さくなってしまっている。
表通りに出て、駅までの道を歩いていると、運良く藁を積んだ荷馬車に行きあった。駅はちょうど目的地の途中だから乗せてくれることになった。スメルジャコフは荷馬車の後ろに座り、横にイワンの入った箱を置いて、落ちたりしないようにしっかり押さえる。馬車が出発してから、そっと箱に耳をくっつけたら、車輪のガタガタ言う音に混じって、イワンの呼吸音が聞こえる。と、ふわあ、とあくび。スメルジャコフは微笑んで箱から耳を離し、ほんの少しだけ蓋をずらした。イワンが中で眩しがっている気配がする。スカーフをかけて影を作ってやり、馬車が揺れるごとに遠ざかって行く村の屋根を眺める。
ああ、それにしても、町を出るなんて、何年ぶりだろう。