とはに人語を解さざる仔を飼ふことの火を手なづけてひとの点す火 川野芽生『Lilith』
イワン・フョードロヴィチが内心では神様を愛していることは、スメルジャコフにはすぐにわかった。だけどそんなことは関係なかった。自分の中の神様を殺そうともがくイワンの言葉は聞いていて心地よかった。神様を殺すのはずいぶんと骨の折れる作業みたいで、イワンはほとんど躍起になって神様の首を絞め続ける。その様子を見ながらスメルジャコフは自分の殺した子猫たちを思い出していた。小さくて弱い子猫でも、死ぬまでは思ったよりもずっと時間がかかる。子猫はスメルジャコフの手に爪や牙を立てて死に抗った。爪は深く食いこんで手に穴をあける。一度手が化膿しかけたことがあって、それ以来布で手を守るようになった。全部子供の頃の話だ。今ならもっと簡単にできるだろうが、そんな子供っぽいことはもうしない。けれどもイワンの声を聞いていると、猫の抵抗する時の、命そのものが跳ねるような硬く強張った感触を思い出した。
自分にくれればもっと上手く殺すのに。スメルジャコフはそう思う。でも自分でやらなくては意味がないのかもしれない。イワンは神様を殺す代わりに物語を作った。物語の中では、聖書と違って神も神の子もずっと沈黙している。さっさと神の子を火にくべてしまえばいいのにまだその決心がつかないらしく、物語の主人公は彼を燃やせと言ったきりで、まだ続きは聞かされていない。
また一つ、紙がぐしゃっと丸められた。イワンがイライラした動きで紙を持った手を二、三度踊らせるように振り、床に捨てる。拾おうと屈んだら、イワンの手が口元を払った。骨のぶつかる鈍い音がして、唇に痛みが走る。イワンがはっとした顔でスメルジャコフを見た。いたのか、と呟く。
「こちらは捨ててもよろしいですか」
「え? ああ……そうしてくれ」
イワンはばつの悪そうな顔をしている。機嫌が悪ければ小突いたり襟首を掴んだりするくせに、意図しない暴力は決まりが悪いらしい。スメルジャコフは口の中に広がる血の味を舐め取り、飲み込み、イワンの部屋のゴミを集め、乾いた水差しを取り替える。
「何か他に」と尋ねると、また血の味がした。唾液と混じって口中に広がる。「ご用は」
「ない」
イワンの片目が神経質に震えた。
部屋を出てからこっそり紙を広げると、何かの計算式が書かれてあった。スメルジャコフは台所にそれを持っていって、夕食のための火口にした。火をつけてかまどに放り込むと、紙はあっという間に炎に巻かれて灰になった。代わりに薪に火が燃え移り、ささくれだった表面を伝って火が燃え広がっていく。
唇はまだ少し腫れていて、舌先で触ると内側の柔らかい肉が切れている。手の甲の、骨の出ているところがちょうど当たったのだ。イワン・フョードロヴィチの手。ドアを開けて、どうぞと言うようにひらめかせて自分を誘い入れた手。時々窓から手を出してこちらへ来いと招く。呼ばれればすぐに駆けつけた。それが仕事だった。呼ばれればすぐに駆けつけて、彼の言いつけ通りにするのが。
「それは?」
と窓から身を乗り出してイワン・フョードロヴィチが尋ねる。まだ彼がこの家に帰ってきたばかりの頃で、スメルジャコフは熟した果実を収穫したところだった。手をかけているわけではないので虫食いだらけだったが、放っておくと落ちて腐ってしまうし、そうなると匂いで色んな動物が寄ってくる。
「アンズですが……」
前掛けを広げて果実を見せると、そう、と言ってイワンは手を差し出した。スメルジャコフは、幼い子供からおもちゃを隠すように、前掛けを閉じてアンズをイワンの目から隠した。
「あまり美味しくありません」
「構わない」
ひらひらと振る手に促されて一つ、なるべく綺麗でよく熟しているのを選んでシャツで拭き、イワンの掌に乗せる。イワンは一口かじって「本当に美味しくない」と眉根を寄せる。
「それなら捨ててください」
「うん」
と言いながらイワンは結局全部平らげてしまった。べたべたになった手をハンカチで拭う。スメルジャコフは急いで井戸へ行って果実を地面に転がした。水でハンカチを濡らして持っていったら喜ばれた。神様の話をしたのは確かこの頃のことだった。
呼ばれて部屋に入ると、イワン・フョードロヴィチは組んだ足の上に本を乗せて、片手でページを押さえながら、小さく声に出してその一節を読んでいる。それは聖書だった。——「人々に憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せされるとき、あなたがたは幸いである。」——教会に行かされるたびに聞いているから嫌でもわかる。しかし、それが自分にとって何の意味があるのかは、何度説教を聞いてもわからなかった。イワンならわかるのだろうか。静かに聖書を読む彼の片目にはろうそくの炎が映っていた。
「鍵は……」
とイワンは尋ねかけて、何かを振り払うように頭を振った。あの時はよく分からなかった。今なら分かる。召使いに対して鍵はかけない。そんなことは気にかけもしない。彼が予期していたのは自分ではなく、また神様でもなかった。
イワンの信仰はもろかったが、不信もまた、強固なようでいてその土台は常に揺れ動いていた。彼は動揺しやすかった。ろうそくの炎みたいだった。聖書を読むイワンの横顔は、柔和な表情を湛えている。朗読の声は低く、しっかりと落ち着いていた。スメルジャコフがいるのに気づくと読むのをやめて、目を逸らすと、苛立たしげに聖書を閉じた。
一度、二人で話しているのをドミートリイが見たらしく、何か余計なことを言っていないかと後でわざわざ確かめに来たことがあった。ドミートリイはひどく興奮していて、彼の不利益になるようなことは何もないということも、なかなか納得しなかった。ようやく納得した後も、何か一言皮肉でも言わないと気が済まない気分だったのか、「それにしても随分お前には懐いているんだな、あのお嬢さんは」と言い、自分のねぐらに帰って行った。
「兄貴は何て?」
とイワンが尋ねる。窓からこっそり見ていたらしい。
「特に何も。いつもの勘違いのようでした」
そう答えると、イワンはふんと鼻を鳴らして、ドミートリイのいなくなった方を、いつまでも、じっと眺めていた。
夜、庭にイワンが立っていると家の明かりに照らされて影が二つに分かれる。彼の足元から一つ、離れていったのを捕まえて伏せた桶に入れて飼う。大人しい影だった。台所の脇に置いていたら、イワンが見とがめて、それはどうしたのかと問う。
「ツグミです。ゆうべの強風で、どこかにぶつかったみたいで、今朝そこに落ちていたんですよ」
イワンは、かわいそうだから放しておやりと言う。傷が癒えたらとスメルジャコフは答える。
本文中の引用元
川野芽生『Lilith』書肆侃侃房、二〇二〇年
聖書の引用は日本聖書教会『聖書 新共同訳』ルカによる福音書第六章第二十二節より