「残念ですけれど、坊ちゃん」
今しがた出て来た部屋の戸をそっと閉めたマルファが言った。そこには弟が寝かされているはずだった。
「イワン坊ちゃんには今はお会いできません。お熱がありますから」
「熱が下がったらいい? まだ見せてない秘密の場所があるんだ。あ、でもマルファには言えない。秘密だから」
マルファは何かを言いかけて、どう言ったらいいものか、困ったように口を閉じる。
「いいですか、ドミートリイ坊ちゃん」とマルファがかがみ込んで言った。
「イワン坊ちゃんが元気になったらまたお会いできます。でも、元気になっても木登りさせちゃいけません」
「ダメなの?」
「いけません。落ちたらお怪我をしてしまいます」
「わかった」
「それから、川に行くのもいけません」
「ダメなの⁉︎」
「水が冷たいですから、暑くなったらグリゴーリイと行きましょう」
「わかった……」
「それと」
と言いかけたところで、赤子の泣き声が聞こえた。マルファが焦ったように窓の外を見る。あの声はたぶんパーシャだ。去年にリザヴェータ・スメルジャーシチャヤが産んだ男の子で、母親が死んでしまったのでマルファが面倒を見ている。マルファは、「とにかく今までみたいな遊び方はいけません。森に行ったり動物を追いかけ回したり、危ないんですから」と口早に言う。
「ロバは?」
「ロバもいけませんよ」
「でも追いかけないよ。見るだけだよ」
それじゃ遊べない、と不満を漏らすと、マルファはため息をついた。
「イワン坊ちゃんはまだお小さいのですから、ドミートリイ坊ちゃんの遊び相手は疲れすぎてしまうのですよ」
とにかく危ないのはだめだし、あちこち連れていくのもいけません、好きに遊ぶのはがまんして下さい、お兄様なんですから、とマルファは口早に言ってその場を離れる。赤ん坊の声はますます大きくなっている。が、ドミートリイの耳には、赤ん坊の泣き声も聞こえていなかった。つまり今、弟が寝込んでいるのは自分のせいなのだ! 怪我はさせなかった……転んだり手切り茅の葉で指を切ったり、少しはしたけど、イワンは平気だと言った。暗くなる前に帰るようにしたし、お腹が空いても帰るようにしたし、走るのも弟の速さに合わせた。
「でも、ダメなんだって」
ミーチャは枕をぽすん、と拳で叩きながら言った。今日はソフィアは起きていて、窓辺の椅子に深く腰掛けて、アリョーシャを抱いている。
「僕がやりたいようにイワンと遊んだらダメって言われた」
またぽすん、と枕を拳で叩く。自分の枕を叩かれているのに、ソフィアは怒りもしないでじっとミーチャを見つめている。ソフィアは継母で、自分と十歳ちょっとしか変わらない。ミーチャは叱られた時などにソフィアの部屋を訪ねては、しばらくおしゃべりをして帰っていく。この二番目の母親は無口で、いつもおとなしげな微笑みを浮かべながらミーチャの話を聞いていたが、最近はぼんやりしていることが増えた。でも今日は元気な方のソフィアだ。元気な時も、発作の時以外はすごく静かだけれど。父親は仕事で数日家を空けていたから、家の中はほとんど空き家みたいにしんとしている。柱時計の振り子の音まで控えめで、何だか家中がいない人間の残した影に怯えて息を潜めているみたいだった。
「ねえ、なんでイワンと遊んじゃダメなんだと思う?」
ミーチャはソフィアのベッドから降りて、絨毯の模様の青いところだけ踏みながら歩く。ソフィアはアリョーシャをあやしながら、しばらく窓の外を眺めていたが、「あなたはわかってるでしょう?」と言った。
「……疲れさせるから?」
「そう。でも、そんなことが聞きたいんじゃないんでしょ」
ねえ、とアリョーシャにソフィアが言う。アリョーシャは半分うとうとしていて、訳もわからず母の問いかけに頷いている。ソフィアはそれ以上は何も言わずに立ち上がると、まるでミーチャがこの部屋にいないみたいにまっすぐベッドに進んで、アリョーシャをあやしながら自分のベッドに寝かせた。ミーチャはソフィアと入れ替わるようにして、さっきまで彼女が座っていた椅子に腰掛ける。
「イワンはさあ」
ソフィアがかけていた椅子は、綿入りでふかふかしていて、ミーチャにはまだ大きい。深く座ってもずるずる腰から滑っていく。
「嫌だったのかな? 僕と遊ぶの」
ソフィアはアリョーシャの額を撫でながら、「聞いてみたら?」と言った。
「会えないって」
「夕方には熱は下がるわ。そうしたら会える。……あの子はいつもそうなの」
果たしてソフィアの言った通りになった。夕食の後でイワンに会ってもいいことになって、ミーチャは彼の寝かされている部屋に入る。部屋の中は薬湯と汗と、かすかな吐瀉物の臭いがこもっていて、ミーチャは入り口で足を止めてしまう。
「ドミートリイ坊ちゃん?」と後ろでマルファが言った。「イワン坊ちゃんはそちらにいらっしゃいますよ」
マルファの指差す寝床を見たけれど、最初は何があるのかよく分からなかった。イワンは枕と掛け布団の間に埋もれて、ほとんどそこにいないみたいに見えた。マルファに促されて枕元にそっと近寄ると、真っ赤になった小さな顔が見える。ミーチャはその場に膝をついて、顔を掛け布団の継ぎの縫い目に押し付ける。
「……ごめんなあ」
全部見せたかった。庭の樫の木の上から見える景色も、春の川の水がどれだけ透き通っているかも、そこに泳ぐ魚や川虫も。アオガラの巣も、瑠璃色の蝶々とか甲虫とか、やたらに足の長い気持ち悪い虫も。リス。毛虫。テン。木の幹に階段みたいになって生えているきのこ。つるつるの石がたくさん落ちている秘密の場所。茂みの中の、落ち葉がふかふかに積もっている秘密の場所。木苺のいっぱいなっている秘密の場所。木苺は気づいた時には色付いていて、いつも小鳥とかリスに取られてしまう。虫食いになっているのも多かった。でも人間は、たぶん誰も知らない。ワフルーシンさんのとこのロバはミーチャが赤子の頃からおじいさんだったけれど、イワンが生まれてからもっとおじいさんになった。そういう全部を見せたかったし、見てもらいたかった。
その日一日、熱のせいで半覚醒を繰り返しながら眠り続けていたイワンは、その時もふと目を覚ました。寝過ぎたせいか、まだしつこく残る微熱のせいか、目がちかちかするのに、見えるのはもう見飽きた煤けた天井で、イワンはがっかりした。一人で寝るのはつまらない。さみしい。早く熱が下がればいいのに、と思いながら、イワンはまた浅い眠りに落ちた。