悪い言葉

屠殺屋とをどるcha-cha-cháや夏の果  かかり真魚

 

 性悪な豚だった。最初から不貞腐れて餌は撒き散らすし、歯を剥き出しにして鶏を脅そうとする。実際に何度か噛んだこともある。雌鶏は卵を産まなくなった。餌を持って行ったマルファ・イグナーチエヴナをしたたかに噛んで、それ以来そいつの世話はもっぱらスメルジャコフの仕事になった。こんなやつ掴ませやがって、と市場に来ていた豚飼いの顔を脳裏に描く。こいつも飼っている豚にそっくりのひねくれた顔をしていた。
 しかし味はいいはずだ。解体した豚の肉は柔らかく、内臓も健康そうだった。肉は一部を残して塩漬けにし、内臓は腸詰とスープにする。肉や腸詰は近所の家に持って行けばバターや卵や缶詰と交換できるだろう。余るようなら市場で売ってもいい。もちろんあの豚飼い以外に……。スメルジャコフは屋敷の壁にもたれかかって座りながら、豚の分配の算段をする。そこには平たい石があって、座って一休みするのにちょうどよかった。高さがないので足を投げ出すようにして座っている。布で軽く拭っただけの手は、まだ豚の血で汚れている。
 あの豚は性悪だったからしめるのにも一苦労だった。落とし穴に落として弱るのを待つのも考えたが、それだと肉の味が落ちてしまう。グリゴーリイと二人がかりでなんとかしめた。おかげで捌くのにも時間がかかってしまった。解体している最中に雲が晴れてきて、暑い最中にやったものだから、余計に疲れた。
 スメルジャコフはため息をついて両手を擦り合わせる。乾きかけた豚の血が手のひらの間でねばついた。普段から短く切っている爪の間にも、手のしわにも血がこびりついている。手を洗いたかったが、桶に準備していた新しい水は養父が使ってしまった。血で汚れた桶にどうしても手を突っ込むのが嫌だった。養父は手を血で汚したままグズグズしているスメルジャコフを怪訝そうな顔で見て、それから理解不能だと言うように頭を振って肉の仕込みのために召使小屋へ入った。どうせ同じことだって? そんなのは分かっている。意味のない潔癖ついでに、今は新しい水を井戸から汲むのにつるべ縄を汚したくなくて、豚の血が乾くのを待っている。
 羽虫が唸りながらスメルジャコフの手に止まる。ピシャリと打って殺す。羽虫は豚の残骸や、血の落ちたところにも群がって、鳴き声めいた羽音を立てている。爪の間にも血が入り込んでいて、その上を羽虫が這う。こんなところの血まで見つけるなんて。そっと指を閉じて羽虫を潰そうとする。が、もうすぐ指が閉じるという時に気づかれて逃げられてしまう。
「ああ、くそ」
とスメルジャコフは羽虫ごとこの世を罵倒した。
「門から入ったわけでもないくせに、ひねくれ蝿め」  
 すると、「ふ!」という笑い声が頭上から降って来た。驚いて振り向くと、窓からイワン・フョードロヴィチがこちらを見下ろしている。最近帰ってきたフョードルの次男だ。最後に見た時は七つかそこらの、痩せっぽちの子供で、自分よりも背が低いくらいだったのに、今やすっかり立派な若旦那だ。失礼しました、と立ちあがったスメルジャコフの肩をイワンが押さえ、元の通りに座らせる。
「いい、そのままで。別に用事があったわけじゃない」
 イワンの声には笑いが混じっている。スメルジャコフは顔を赤くして手を見つめた。こんなもの、さっさと洗ってしまえばよかった。
「なかなか面白いことを言うじゃないか」
「お聞き苦しいところを……」
「面白いと言っただろ。僕は本気で言ったんだ」
 イワンはもうほとんど片付けられた屠殺の跡を眺めながら言った。窓から入ってくる血のにおいは、悪臭ではあったが同時に懐かしさを感じさせた。幼い頃にも、しばしばこの家でこのにおいを嗅いだ。それは今までよそよそしい顔しか見せていなかった父の家が、確かに生家だったと思い出した瞬間であったが、自分の意思とは関係なく家に対する懐かしさや愛着が湧いてくることに、イワンは不快感を覚えてもいた。
 イワンはスメルジャコフを見下ろす。顔は見えないが、戸惑いながら、緊張して窓の下の石に腰掛けているのは、肩のこわばりで分かった。血のにおいに混じって汗か何かの、酸っぱい乳のようなにおいがする。
「今夜も夜食を頼む」
「かしこまりました」
 イワンの足音が離れる。返事をしながらスメルジャコフは少しほっとしていた。構われるのは居心地が悪い。もし、とスメルジャコフは思う。イワン・フョードロヴィチの滞在が伸びるようなら、豚は余らないかもしれない。
 イワンは自室へ戻りながら、無意識のうちに記事を組み立てていた。さっきスメルジャコフに「面白い」と言ったのは確かに本気だった。「目撃者」として生計を立てていた時分から、イワンはこうした言い回しを町で聞いてはストックしていた。そこから話を膨らませ、何もネタがない時の埋め草にするのだ。もうあくせく稼がなくてもいいようになった今も、その癖が抜けないでいた。それは金がなかった頃に生活に迫られて身につけた、ある意味屈辱的な癖ではあったが、自分の才覚の証明でもあったので、容易に投げ捨てることができなかった。それは実のところ、もっと幼い頃からの癖でもあった。生家を出され、出された先の召使小屋から連れて行かれ、さらに寄居先も何度か変わっていたイワンにとって、一度手に入れたもの、しかも他人からは容易に奪えないようなものは、不要だとわかっていても執着してしまう。金を湯水のように、あるいは自然と湧いてくる魔法のカードのように使ってしまう兄と違い、イワンはかなり堅実な使い方をしていたが、そのことも彼にとっては自己嫌悪の対象となるのだった。
 モスクワにいる間、イワンは橋を渡るのが好きだった。町は建物も道も入り組んでいて、見通しが悪い。貧しい地域になればなるほど道は細く、狭く、入り組んでいく。そうしてできた大小様々な影に秘密が隠されていて、イワンのような「目撃者」が飯のたねにするわけだが、橋の上ではそうした一切が開けて、ほんの一瞬、ずっとどこまでも見通せるような気がする。橋のどこかでは毎日のように身投げがあったし、川が蛇行すればもうそこで視界が塞がってしまうのは分かっていたが、ほんの一瞬だけ、そこは完璧な場所として立ち現れた。イワンはそのたった一瞬の幻影を愛していた。この辺りには橋と呼べるものはなかったが、家の裏に流れている汚い小川には渡し板がかかっていて、イワンはそこを通るのを好んでいた。小川は悪臭がしたが、モスクワの川も似たようなものだったし、それに、渡ってしまえば終わるのだからあまり気にはならなかった。
 そうしたたぐいのことを、イワンは注意深く書き残さなかった。「目撃者」として書いていた間、例えば靴下も履かずに歩いている小さな女の子などを見て、記者の感傷めいたものを入れたこともあったが、それは一種のスパイス代わりにでっち上げた感傷で、本心は絶対に書かなかった。そうしたものを入れた方が、編集者の評価も読者のうけもよかった。「常に冷静で公平な『目撃者』の、ほんの隙間に垣間見えた柔らかな心」に対して、編集部にお褒めの言葉を送ってきた読者もいた。
 小川にかかる板を渡るイワンを、スメルジャコフは何度か目にしていた。心の片隅を、面倒臭い、という言葉が掠めて過ぎる。裏の道は近所に住む召使いとか百姓が、近道のために利用する道で、あまり人に会う心配もなかった。若旦那がいるなら召使いとしてそれなりの礼を尽くさなければならない。小川の渡し板は、実はあまり利用されていなかった。表の通りからここへ入って屋敷の裏に行く途中、何箇所か川幅が狭くなっているところがあって、渡る必要がある時は大抵そこを飛び越えてしまう。イワンとは一度だけすれ違った。他の日は、こっそり隣の家の庭に隠れていた。
 昼にしめた豚は、当日の食卓には上らない。一日ほど置いた方が身が柔らかくなる。だからその日の夕食は豚ではなく子牛の冷肉だった。夜食は冷たいスープと、ザクースカをいくつか、それにパンを一切れ。眠りにつく前に旦那様の次男坊の部屋へ持っていく。扉をノックし、イワンの部屋へ入り、夜食を机の上に置けばそれで今日の仕事は終わる。あとはいつものように玄関の長櫃の上で眠る。
 いつものように、スメルジャコフは静かに部屋に入った。イワンはその日、暇つぶしがてら友人からひきうけた翻訳を進めていた。フランスの通俗小説で、御涙頂戴式のメロドラマだったが、これをロシア風に翻案して連載小説にするらしい。孤児の少女と屈強な探偵、出生の秘密、暴君の主人といったこの手の物語にお決まりの要素を、刺激的な筋に配置する。つまりはよく見るタイプの物語だ。以前にも似たようなのを訳したことがあるが、例えば一回分をそいつと入れ替えたとしても、誰も気づかないだろう。
 背後で皿とカトラリーを並べる小さな音が聞こえる。イワンは書き物机が汚れるのを嫌って、自室に書物机の他にもう一つ机を持ち込ませ、そこで夜食を取るようにしていた。用意が整うとスメルジャコフは部屋を下がるが、たいていはその後、書き物や読書が一段落してから一人で夜食をとる。温かいものの場合は冷めていることもしばしばあったが、イワンはあまり気にせずに平らげた。
 探偵がパリの裏路地を歩いている場面を訳していると、視界の隅に真っ白なカフスが見えた。そちらへ目を向ける。スメルジャコフが、窓際に手を伸ばし、蜂の死骸をつまみあげる。昼間血で汚れていた手は洗い清められ、服も清潔なものと取り替えたようだった。踵を返した時に香水が香る。いや、香水の匂いしかしない。昼間に嗅いだ汗のにおいどころか、人の匂いすら洗い落とされているかのようだった。まるで消えたいみたいだ、という考えがふと胸中をよぎる。
 イワンは、ここへ来てから初めて振り向いた。スメルジャコフは慇懃に頭を下げ、扉を閉じるところだった。

     *

 スメルジャコフはイワンの部屋に花を飾る。庭に生えていたバラの花だ。夏に咲く野生種だった。香りはほとんどなかったが、いかにも花といった感じの、色の濃い、八重咲きの花が咲く。フョードルもしばしば室内に花を飾らせたが、大抵は女のための温室育ちの花だった。庭の花は、十数年前に亡くなった奥様が植えさせたもので、彼女が亡くなってからはきちんと世話をするものもなく、生き残った花だけが野放図に咲く。家の周りはマルファ・イグナーチエヴナが手入れをしていたし、しばしば庭師も入れたが、庭の奥の方は、野生の花と園芸種の花が入り混じって、それぞれ陣地を確保しながら好き勝手に咲いていた。イワンのための花々は、大抵そこから摘んでくる。
 日当たりが悪いのか、夏でもどことなく嘘寒い空気のせいか、花瓶に挿した花は数日で傷みはじめて花びらをぽろぽろとこぼす。イワンは書物机の上に散った花びらを、一枚一枚集めて花瓶の脇に寄せておく。だが花を飾るのをやめろとは言わなかった。バラが開ききったところで花を取り替える。香りもない花なのに、どこからか蜂が入り込んで、花の中に潜り込んでいる。
 カラマーゾフ家の息子たちのことは、すっかり町中の噂になっていた。長男と父親が女を取り合い、次男は長男の婚約者に横恋慕している。無垢なる三男は修道院に引きこもり、長老の寵愛を受けている。誇張を交えつつ、彼らはそこまで知っていた。男たちは長男と父親の反目に、女たちは二つの三角関係の行方にもっぱら注目していた。もちろん表立っては話されない。それは裏道や垣根ごしに、町中に伝わった。上流階級の人々がいくら隠そうとしても、召使いたちの口に戸は立てられない。
 そしてスメルジャコフは、町中に流れるその噂の、中心点のような役目を演ずるはめになってしまった。つまり、「パーヴェル・フョードロヴィチ、どこそこのお屋敷のミハイルからこんな話を聞いたが、それは本当なのかい?」と皆がこっそり話を持ちかけてくるのだ。それも、そろいもそろって「自分だけの話」を聞きたがる。今まで散々無視するか、腹いせに殴るか、からかうかのどれかだったくせに、それを忘れてやけに親密そうな態度で、彼だけが握る秘密がないか探りにくる。そして、
「言わねえならこうだぞ!」
と拳を振りかぶり、思わず身をすくめたスメルジャコフを笑った。スメルジャコフはそのにやついた顔に向かって、さあ、私には何がなんだか、皆さんが知っている以上のことは知りませんよと言ってやる。相手は一瞬むっとした顔をしたが、どうせばかにはわかりっこないか、と捨て台詞を吐いて立ち去った。スメルジャコフは相手の背中を睨んだ。発作から回復した直後は、しばしば頭がぼんやりしてしまうことがあり、そういう時には何か受け答えも変に食い違ってしまうことがあるのだが、その時のことをいつも言い立てられるのを、スメルジャコフは心の底から憎んでいた。
 あるいはフョードルに義理立てしているのだと思われて、悪いことは言わない、あの人をかばってもいいことはないよと忠告をくれる者もいたが、実際彼は町の噂以上のことは知らなかった。それだけ彼らの噂が正確だとも言えるし、カラマーゾフの召使いたちは概して主人たちの行いに無関心だとも言える。だから、
「なあ、パーヴェル・フョードロヴィチ、あんたとこは大丈夫かい? あの息子は何か起こすだろうよ、もうじきさ!」
と言う、食料品店の店主の予言めいた言葉にも、そうですか、とうなずくだけだった。何かは起こすに決まっている。今も長男のドミートリイは、のべつ父親を罵り、あのイソップ爺を殺してやると町中で喚き散らしている。いつかは何かが起こるだろう。
「いや、いや。違うよ」
と店主が言う。
「私が言ってるのはもう一人の方さね。軍人さんの方じゃなくて、あの人の家に泊まりこんでる方だよ。なにせ—— 」
 店主は声を潜めて言う。誰にも聞かれないように。しかし店にはスメルジャコフと店主以外誰もいなかったし、わざわざ声をひそめなくても、おそらく召使いたちのほとんどが知っていることでもあった。スメルジャコフが知らなかっただけで。
 もう一人の方ことイワンとは、こう言ってよければ近頃すっかり親しくなっていた。イワンは自分が聖書に疑義を呈したこと、それも「誰かから入れ知恵されたわけではなく、ごく自然に、果実の中に種があるみたいに」出てきたことに大いに関心を抱いたらしかった。どうやらグリゴーリイが何かの拍子にそのことを話したらしい。その口ぶりは容易に想像がついた。「あの不信心の、大ばか者が」と、養父はしばしば使用人仲間や、フョードルにまで愚痴っていた。
 イワンは夜食を持ってきたスメルジャコフを引き留めて自分の向かいに座らせ、その種の議論をふっかけるようになった。つまり、聖書の疑問点だとか、無神論についての議論である。最初の方は警戒してはぐらかしていたスメルジャコフも、イワンが辛抱強く尋ねるうちに、だんだんと口数が多くなって、今ではほとんど夢中になって十二歳の頃に抱いたような疑いを彼の前で話すようになっていた。イワンは、決定的な答えは口にしなかったし、時折スメルジャコフが興奮するのに戸惑っているようなそぶりも見せたが、概して彼の言葉を馬鹿にしたり遮ったりすることはなく、ごく真面目に受け止めた。
 こういった話を、彼らは夜中にごく低い声で話し合っていたため、スメルジャコフは、いつの段階からか向かいの席ではなく、イワンの席の隣り合う辺に、斜めに掛けるようになっていた。イワンがそこに椅子を置いたのだ。スメルジャコフは、初め戸惑い、すぐに慣れた。イワンの声はますます低く、聞き取りにくくなった。彼らは時々、たわいのないことで、声をあげて笑うことすらあった。
 その日の夜もイワンの部屋へ夜食を持って行った。近頃では夜食はほとんど口実のようなもので、持って行ってもイワンの食が進むことはあまりなかった。それでなくとも、長男と父親の確執はのっぴきならないところまで行っていたし、長男の婚約者との関係も膠着状態だった。イワンはこの頃、常に不機嫌で憂鬱そうだった。部屋に入るとしばしば酒の匂いがする。夜食時には時々酒を言いつけることがあったが、それ以外にも自分で持ち込んで飲んでいるらしい。テーブルクロスの上に酒を溢した跡がついていることもあった。
 イワンの部屋に入ると、スメルジャコフはちらっとベッドの下に目を走らせた。何度も掃除に入っているから、そこに彼のトランクがあるのは知っていた。中身までは知らない。そこに関心を抱いたことはない。だが、それが今、にわかに彼の注意を惹いた。昼間に食料品店の店主から言われたことが引っかかっていたのは言うまでもない。イワンはいつものように、夜食を受け取ると、スメルジャコフに着席を勧めた。今日はかなり上の空で、しばらくは物も言わずに夜食をむしゃむしゃと食べていた。
「どうだろう?」
 夜食を半分ほど食べ進めたところで、イワンが出し抜けに言った。
「親父と兄貴はどうするつもりかな……」
 それはほとんど独り言に近かった。当初イワンは、兄の依頼もあってここへ遺産問題の調停に来たはずだったが、女が絡んですっかりこじれてしまった後は、ほとんどお手上げ状態だった。妥協点は見つからない。兄も父も譲る気はさらさらないようだった。それはイワンにとって、遺産問題の解決がますます遠ざかっていくことを意味していた。面倒な兄の依頼を聞き入れたのは、それが彼にとっても関心事だったからだ。すなわち、父親の財産はどれくらいあるのか、あるとしたら、そもそも残すつもりがあるのかどうか。果たして父親は、財産を息子に残すつもりはないようだった。
「アリョーシャはあれだし、それにお前なら、自分の才覚でいくらでも稼げるわな」
 父親は、夕食後に酒を飲みながらこんなことを言った。父親はその時上機嫌で、どうやら口を滑らせたらしかった。酔いが足の先から抜けるように一気に引いたのを感じて、イワンはすぐさま席を立ち、自室に閉じこもった。父親は、自分を怒らせるためにわざとそう言っているのではないかとすら思った。そうやって自分の本意を隠しながら相手の腹を探っているのだ。そんなことを考えていると、腹立ちで余計に眠れず、うたた寝を繰り返した。
「それにしてもあの父親も」
と、父親の家から逃げて入った料理屋で、イワンの後ろに座る誰かが言った。ろれつの怪しいところを見るとどうやら酔っ払いらしかった。そこは衝立で仕切られていて、お互いの姿は見えない。酔っ払いは続ける。
「息子と女を取り合うなんて、昔に比べりゃあ随分と丸くなったもんだな!」
 違いない、と相手が受けて二人はどっと笑う。給仕が注文を取りに来たが、イワンは黙って席を立ち、料理屋を出た。
 カラマーゾフ家の騒動に対する町の人々の態度は、おおむね三種類に分かれていた。一つは道徳的な人々のグループで、日々耳に入ってくる醜聞に顔をしかめている。もう一つは物見高く成り行きを見守っている人々だった。これはさらに二つに分かれる。かつてのフョードルを知る人々と、この種の「恥知らずな騒ぎ」が初めての、主に若い人たちだった。先ほどの酔漢は、このグループの、昔を知る人々に属する。彼らはまるで根っこでつながっている植物みたいだった。一人が見たもの、聞いたものは、瞬く間に全体に伝播する。どこへ行ったとか何を買ったとか、朝にやったことは夕方にはもうそのネットワークで皆が知るところとなっていた。そこには多かれ少なかれ誇張が混じっているが、彼らもそれを承知で楽しんでいる。三つ目は、噂にも事件にも無関心な人々で、幼いとか精進の身の上だとか、さまざまな理由があったが、たいてい町のどんな物事に対しても無関心だった。第三のグループ以外、実際には新しいニュースを心待ちにしていた。表立ってその好奇心を露わにするか、心の奥底に秘めておくかの違いにすぎない。イワンは内心そう決めつけて、町を歩くたびにどこかから臭ってくる獣の糞尿の臭いみたいに、嫌悪感が鼻先を掠めるのに内心顔をしかめていた。
 その日イワンは、入ってきたスメルジャコフに習慣的に席を勧め、話し始めたが、何を話しているかはほとんど意識していなかった。その時に心に引っかかっていたことをそのまま口に出していたが、頭では全然別のことを考えていた。まったく散漫な状態だったが、そのせいでむしろ、対話相手が何か別のものに気を取られているのに気づいた。
「どうした? 何が……ああ」
 不思議なことに、イワンは話し相手が何も言わないまま、何があったかを悟った。料理屋でのことが、彼を噂と視線に敏感にさせていたのかもしれない。イワンは口の端に冷笑を上らせて席を立ち、ベッドの下からトランクを引き出して蓋を開けた。中から小さな箱を取り出す。
「これのことか」
 音を立てて小箱を机に置き、掛け金を外して蓋を開ける。イワンはちょっと箱の位置を調整した。ちょうどスメルジャコフの真向かいになるように—— よく見ろと言うように。
 箱の中に入っていたのは一丁の銃だった。箱の内張のびろうどが、何か場違いで滑稽なものに見えるくらい、何の飾りもない、素っ気ない銃だった。昼間に食料品店の店主が言っていたのはこれだった。—— あの次男は、モスクワから銃を取り寄せたらしい、と。
「何か言われたか? 大方僕が何か騒ぎを起こすらしいとでも? そうだろう」
 イワンは低く声を抑えながら言った。そうでもしないと、笑い出してしまいそうだった。実際イワンは、最後の一言を言うと同時に大きな声を上げて笑い出した。笑いの発作は長く続き、スメルジャコフは、彼の体に引っ掛けられてひっくり返ってしまわないように、夜食の皿をさりげなく引いた。
「全く、馬鹿げてる。これは何でもない、ただの護身用だよ。ここに来る前に取り寄せてたんだが、最初に用意したのが不良品だったとかで到着が遅れてね。下宿のおかみさんが気をきかせてこっちに送ってくれたんだ」
 イワンは、目の前の相手ではなく、銃の方に視線を向けながらしゃべった。まるでそっちの方から相槌が聞こえてきているかのような、親しげな口調だった。声にはまだ震えが残っていて、口元に拳を当てて笑いをこらえているように見える。イワンは、小箱の蓋をぱたんと閉じると、仕切り直すようにふっと息を吐き、顔を上げてスメルジャコフの方を見た。
「これが終わったら少しロシアを出て旅行をする予定なんだ。そのためのもので、別にこっちで使うつもりじゃない」
 イワンはそう言ったが、まるで言い訳めいて聞こえた。いや、彼が旅行をするつもりだというのはどこかで聞いた。これが護身用というのも、本当にそのつもりで買ったのだろう……。しかしなぜ、こうまで自分は彼の言葉を信じようとしているのだろうか? スメルジャコフは、ふいに魔が差したみたいに、「そうでしょうか?」と口にした。
「どういう意味だ?」
「いえ、別に。ここだって近頃は物騒でございますからね。それの出番もあるかもしれない、とふと思ったまででして」
 スメルジャコフは、さっきの言葉をはぐらかしながら、口調にははっきりとした憎悪を滲ませて言った。この時彼は、イワンのことを激しく憎んでいた。ロシアを出る、というイワンの一言がその引き金だった。そう言ったイワンのことが憎くてたまらなかったし、銃に関して言い訳を述べたてるのも気に入らなかった。
「お前も俺が何かしでかすと思っているのか?」
 イワンが用心深い口調で、しかし婉曲表現を挟むことなく尋ねた。
「いいえ。でも、もし何かが起こっても、全ては許されるのではないのですか。なら同じことでしょう」
 イワンの頬が神経質に震えた。この時彼らはいつの間にか、いつも以上に声を潜めていて、お互いに何か重大な秘密を話し合うみたいに、額のくっつきそうな距離まで近づいていた。だから、彼の表情の動きは、ろうそくの薄暗い明かりの中でもよく見えた。次の瞬間、イワンは噴き出して、体を二つに折って笑い出した。今度は声のない、喉の奥を震わせるような痙攣的な笑いで、さっきのよりも長かった。
「よく覚えてるじゃないか!」
 イワンは顔を上げてささやくように言うと、唐突にスメルジャコフの唇に接吻した。
「まあ、しかし、何も起こるまいよ。小説じゃないんだ、どちらかはみじめなことになるだろうが、それだけだよ……どっちにしろ頭の痛い話だ……」
 イワンはぶつぶつぼやきながら、銃の入った小箱をトランクに仕舞った。

     *

 裏の道をスメルジャコフは早足に進む。向かいからマリア・コンドラーチエヴナが歩いてくるのが見えて、すれ違うずっと手前で小川を跳び越す。パーヴェル・フョードロヴィチ、どこへ? という質問には手だけ振って応える。小麦粉の袋が傷んでいて、ちょっと引っ張った拍子に破れてしまったのだ。当然粉の大半はだめになった。御用聞きはしばらくは来ないし、店にあるなら今行って注文した方が早い。後でお寄りになって、とマリア・コンドラーチエヴナが言う。
 ちょうど荷を積んだ馬車が通ったので、店のある通りまで乗せてもらう。あんたとこもだいぶ賑やかだね、という御者の爺さんの言葉には返事をしないが、爺さんの方は気にしていない。この若者が不機嫌そうに黙っているのはいつものことだし、そもそも相槌があろうがなかろうが、その日の天気だの馬の調子だのガチョウの太り具合だの、その時に目についたものについて喋り倒すのがこの爺さんのくせだった。そよ風とか木のざわめきみたいに爺さんの言葉を聞きながしながら、スメルジャコフは息を整える。前からは馬のにおい、後ろからは積荷の木箱のかびくさいにおいがする。ついでに爺さんからは酒のにおいがぷんとした。
 馬車が店のある通りに差し掛かる。スメルジャコフは爺さんに挨拶をして、馬車から降りて歩く。老人は上機嫌で、また話を聞かせておくれよ! と叫んだ。スメルジャコフは振り向いて、老人の隣に置かれた酒瓶を見つめる。深い青色の綺麗な瓶だった。
 粉屋に入ると、そこの丁稚がすかさず駆け寄ってくる。カラマーゾフさんとこの、と、彼はここではそう呼ばれている。何かご入用で? いつもの小麦の袋を一つ、明日にも届けてほしい、と言うと丁稚は怪訝そうな顔をする。この間も買ったばかりなのに、と顔に出ている。いちいち説明する義務はないので、ツケはいつものように、旦那様もご承知だからとだけ言って店を出る。帰りは歩きだ。行きのようにちょうどいい馬車が捕まえられればいいが、幸運は何度も続かない。
 ここ数週間というもの、井戸端から夜会の壁際まで、町のありとあらゆる社交界を賑わせてきたカラマーゾフの父と息子の対立は、いよいよ抜き差しならないところまで来ていた。つい先日、父親の使いの男が訪問した際、息子の方がその顎髭を掴んで引き回したという話は、半日ほどで速やかに町中に伝えられた。
「あの家はとにかくやることが派手だねえ!」
「ああ、派手好きなんだよ、奥様方が嫁いできた時もえらい騒ぎだったもんなあ。ああいう派手なのが好きなんだよ」
「それにスメルジャーシチャヤ!……」
 フョードルの醜聞はそのうちスメルジャコフに結びついた。しかし今は、口さがない巷の雀たちの的になっているのは彼だけではなかった。婚約者を捨てて商人の妾に走ったドミートリイ、イワンは上流社会でどう言われているのかは知らないが、父親を我慢しているのは遺産目当てだというのが大方の見方だった。末っ子だって、父親がああなら分からないぞ、修道院の中で一体何をしているんだか。彼らの噂の中で、カラマーゾフの子供たちは皆、今や恥辱を塗りつけられている。この見習い僧の末っ子は、しばしば町中や屋敷で見かけていたが、どうも好きになれなかった。誰に対しても柔和な態度で、フョードルですら彼をからかうのは控えている。しかしスメルジャコフは、すれ違ったりそばを通ったりする時にこちらに投げかけられる、この末の息子の恐ろしく透明なまなざしが気に食わなかった。嫌悪や憎悪のない代わりに、壁紙の模様とか調度品でも見るような、一方的なまなざしに思えてならなかった。
 もつれにもつれた家族の問題については、この末っ子の師にあたるゾシマ長老を仲裁に立てる形で、近々修道院で会合を開くことになっていたが、それもまた、ピリッと刺激のある話題として、酒やお茶の席で好んで口にされているようだった。
 下校の時間なのか、学生鞄を肩から下げた子供たちが向かいから走って来る。子供というのは、どうしてあんなにも無駄な動きが多いのだろうか。わざわざ跳ねたり蛇行したり、後ろ向きで歩いたり、しかもその間、片時も黙っておらず、争うように大声でおしゃべりをしている。スメルジャコフは彼らからなるべく距離を取ってすれ違った。へちま、という声が聞こえて振り返る。
 へちまというのは、先日長男のドミートリイ・カラマーゾフに顎髭を掴まれ引き回されたという、フョードルの使いの男に子供たちがつけたあだ名だった。確か退役大尉か何かだ。町で何度か見かけたことがあるが、わざとそうしているのかというくらい、気に障るほどへりくだって話す男だった。痩せこけて髭も髪もパサパサなのに、着ているものはどことなく垢じみて脂っぽい。思い出しながらスメルジャコフは不快げに顔を歪めた。
 歩きながらポケットからハンカチを取り出して顔の汗を拭う。商店のある中心部を抜けると、家もまばらになって日陰がない。早足で歩いていると、額やこめかみや脇の下にじわじわと汗が滲み出てくる。朝に振った香水は、もう匂いが消えてしまっているような気がした。それでなくても薄汚れた仕事着だ。古くなった油や煙の臭いが、もうどうしようもなくしみついてしまっている。普段スメルジャコフはそれについて考えないようにしていた。時々我慢ならないような気持ちになるが、わざわざ仕立てた服を汚すことはない、と考えて無理やりおさめる。
 もう目的は果たしたので、帰りは急ぐ必要はない。夕食の準備に間に合うように帰ればいい。スメルジャコフは歩調を緩めた。軽く石を蹴って、靴に乾いた泥がついているのを見つけ、ハンカチで払う。彼が美しい装いをしていると、年寄り連中は、わしらがそんなものを着てどうするんだ、と彼の服装を笑ったし、そうでない者は、臭いにおいのする男が着飾ってらと笑う。勝手に笑っていればいい。スメルジャコフは、自分の服装が自分によく似合っているのを知っていたし、仕立ての価値も知っていた。お仕着せなんかじゃない、自分のための服だ。人間は誰でも皆、相手の一番目立つところをつつこうとする。貴族も平民も変わらない。イワンだって機嫌が悪いとその手の罵倒が出る。それをしないのは、隣家の二人とマルファ・イグナーチエヴナ、それにフョードルだけだったが、そもそもこの名を与えたのはフョードルだ。名前のことを考える時、スメルジャコフは何か、ぼんやりと果てしない思いに囚われることがあった。ひどく許せないと思うのに、何から憎めばいいのか分からないような、諦念にも似た気持ちに囚われて、それ以上に心が動かないのだった。彼の感情は誰にとっても何の意味も持たなかった。今までずっとそうだった。
 道の両脇には、まだ摘まれたり家畜に食べられたりしていない、夏の花が咲いている。庭にも咲いている花だった。マリア・コンドラーチエヴナとその母親は、しばしばフョードルの家の庭の花を綺麗だと褒めた。自分の家の庭も、かつてはたくさん花が咲いていたけれど、今は畑にしてしまったから、と。スメルジャコフは時々隣家にパンや花を手土産に持っていくことがあったが、何を持って行ってもかれらは喜んだ。家のある通りに入り、裏道に入ったとき、ちらりと手土産のことを考えたが、戻った時に家のものに捕まると面倒だ。結局そのまま手ぶらで訪ねることにした。
 隣家の裏庭には誰もいなかった。それ自体は珍しくない。スメルジャコフはいつものように裏庭を突っ切って、母屋の裏口に向かう。台所や居間で、マリア・コンドラーチエヴナの母親の昔話を聞きながらお茶を飲むのが、近頃ではお定まりのパターンだった。
 歩いていると、誰かが近寄ってくる足音がした。振り返ったところで強い力で腕を掴まれる。「おい」と血走った目が睨む。酒のにおいがぷんとした。着崩した衣服は、スメルジャコフの持つ一番いい服よりも数段質のいいものだったが、血なのか料理の汁なのか、よくわからない汚れがシャツに飛んでいる。
「親父はどうしてる? あの女はどこにいるんだ?」
 ドミートリイ・カラマーゾフはひどく興奮していた。怒鳴りつけるようにそう言うと、腕から手を離し、胸ぐらを掴む。さっきまで掴まれていた腕がじんと痺れた。その痛みと、怒鳴り声の衝撃でぼんやりしていたスメルジャコフに焦れて、ドミートリイが襟首を締めつける。
「だんまりか? それでやり過ごせると思うなよ。俺をだますつもりならお前も殺してやる。親父ごとお前も絞め殺してやるからな……!」
 マリア・コンドラーチエヴナが裏口から出てきて悲鳴を上げた。ドミートリイが手を離す。スメルジャコフは地面に落とされるように膝をつき、咳き込んだ。視界にちかちかと光点が飛んでいる。貪るように空気を吸い込む。吐き気が迫り上がって、えずきながらもう一度激しく咳き込む。マリア・コンドラーチエヴナの庭の、雑草に咲いた小さな花に、自分のよだれが糸を引いてひっかかる。
 遠くで声がしている。騒ぎを謝る男の声だった。慌ててはいるが、さっきまで自分を怒鳴りつけていたと思えないくらい、穏やかな声だった。その声が途切れて、草を踏む足音が近づいて来る。顔を上げると、男のブーツが見えた。スメルジャコフの前で止まり、片足を引く。蹴り飛ばされる、とスメルジャコフは咄嗟にその足に縋りついた。
「殺さないでください、なんでもしますから……!」
 泣き声混じりの命乞いが口から転がり出る。心臓が強く脈打っていて、視界が白っぽい。胃のあたりが痙攣しているようだった。発作が起きるかもしれないと思ったが、ただ嗚咽が出ただけだった。
「何もそこまで怖がることないだろ、泣いてるのか、え?」
ドミートリイはしゃがみ込み、スメルジャコフを起こす。
「悪かったよ、俺も興奮しててな、少し頼みがあるだけなんだ。お前は親父に信頼されてるだろ。だからちょっと聞きたいことがあっただけなんだ……それだけだよ……」
 無論ドミートリイの要求はそれだけではなかったし、スメルジャコフから、フョードルが未来の花嫁のために用意した三千ルーブリの話を聞くと、もしも嘘だったらお前を「蝿みたいに」捻り潰す、と念入りに脅し、これからもその類いの情報を持って来ることを約束させた。ドミートリイが帰ったあと、マリア・コンドラーチエヴナがコップに水を汲んで持ってきたが、スメルジャコフはそれを断って家に戻り、庭の井戸で水を汲み、口をゆすいだ。次々流れてくる涙を顔ごと洗う。そうしていると食事の準備の時間になった。スメルジャコフは髪を整え、台所へ行く。仕事をしなければならなかった。腫れた目蓋も掴まれた腕の痛みも、全部そのままだったが、食事の用意も主人たちへの給仕も、いつも通りに進んでいった。まるで何事もなかったみたいに……そして実際、何もなかったのだ。彼らにとってはいつも通りの日だったし、自分もまた、明日になればいつも通りに仕事をしながら、ドミートリイの言いつけを果たそうとするだろう。彼の要求を拒む術をスメルジャコフは知らなかった。彼は忠実で、従順だった。
 その日の夜、イワンは夜食を望まなかった。後片付けをして、いつも通りに寝床へ向かう途中、イワンが二階の自室から出てきて階段を降りてくるのを見た。イワンは半分くらいまで階段を降りると、ふと立ち止まってスメルジャコフを見下ろした。目が合った瞬間、イワンの瞳に同情の色が閃いた。スメルジャコフの顔がさっと紅潮し、みるみるうちに青ざめた。イワンは一瞬自分を刺し貫いた憎悪の視線にたじろいたように見えたが、ただ「水を」とだけ言って部屋に戻った。
「かしこまりました」
 スメルジャコフはそう言って、水差しを用意するために台所へと戻った。

 

【引用】
かかり真魚「ノーパン神父」『庫内灯』1号、2015、18〜19ページ