カラマーゾフ家の子供たち

カラマーゾフ家の子供たち

 イワン・カラマーゾフが故郷へ帰ってきたのは、スメルジャコフがモスクワからここへ呼び戻されて半年ほど経った頃だった。モスクワへは料理修行に行っていた。行かせたのは主人のフョードルであったから、彼には是も非もなかった。また元の主人の家に戻るのは気が進まなかったが、戻ってみるとモスクワもあまり好きでなかったような気がした。それは酸っぱいブドウなのかもしれないが、台所を自分の好きに使えるのは、下っ端だったモスクワと比べれば悪くない。台所の設備はモスクワのそれと比べて古かったが、使い慣れていたし、彼のいない間も綺麗に掃除されていた。
 イワン・カラマーゾフは、久しぶりに帰った場所の持つ幻想も解けて、この家の全てがただの薄汚れて古びた表面を露わにした頃にやって来た。彼もまたモスクワにいたらしい。大学で自然科学を修めたこの家の次男は、怪訝そうに眉をひそめながら、この家の壁紙や調度品や、かつて暮らした召使い小屋を見ていた。
 イワンのことをスメルジャコフはほとんど覚えていなかった。彼が親戚に引き取られた頃、スメルジャコフは三歳かそこらだったはずだ。慌ただしく馬車に乗せられ、親戚の女の毛皮に包まれて去っていったという光景は、見たような気がするけれども、養父母に繰り返し聞かされて出来上がった幻と区別が付かなかった。それよりも前、一緒に召使い小屋に暮らしていた頃に、彼に手を引かれたような記憶は朧げにあるが、どこへなのかは分からない。ともかくも、イワンはグリゴーリイからスメルジャコフを紹介されると、目を向けて「そう」と言った。怪訝そうな色の代わりに、懐かしさが浮かんでいたように思ったのは、ただの願望だろうか。「あのときの……」とイワンが言う。
 スメルジャコフには一つ噂がまとわりついていて、それは彼がフョードルの私生児なのではないかというものだった。母親がここで彼を産んだのと、フョードロヴィチという父称と、フョードル自身が吹聴していた下種な考えのせいだった。スメルジャコフ自身は、煩わしいとは思うが噂の真偽には無頓着だった。
 けれどもにわかに、その噂が彼を打ったのだった。もしそうならば、イワンは久しぶりに帰ってきた若旦那ではなく自分の兄だ。この場合ドミートリイもアリョーシャも兄になるが、それは考えの埒外にあった。ドミートリイは乱暴で嫌いだったし、アリョーシャは自身が善人であることを疑わないのが気に食わない。青白い顔をしたこの兄一人を、スメルジャコフはいちずに愛した。というよりは彼だけが自分にとっての兄だった。とはいえ表面上は、主人に対する召使いの態度を崩さなかった。
 踏み込んできたのはイワンの方だった。グリゴーリーから昔の話を聞いたらしく、「聖書に疑問を呈したらしいな」と、面白そうに言って来た。
「子供の頃の話でございます」とスメルジャコフは言った。そう無難に答えておいた方がいいことは、養父から嫌というほど教えられていた。フョードルは聖書を冒涜しようが何も言わないが、その息子がどうするかは分からないと思ったからだ。しかしイワンは、「悪くはないさ、くだらないが」と冷たく笑いながら言った。
「そう隠すな!」と言うイワンの瞳を見た時、スメルジャコフは、どうして二番目の若旦那に対して、あれほどまでの繋がりを感じたのかを理解した。彼の目には不信の色が浮かんでいた。この世への疑い、恐れ――それはおそらく、自分の目にも浮かんでいる。彼らは同じ疑心を抱いていた。それはまるで、血の繋がりのように、どうしようもなく体の奥底に根を張っている。それだから、とスメルジャコフは思う。私たちはこの家の子供なのだ。

 

信じる

 実のところ、イワン・フョードロヴィチの書き付けをスメルジャコフは読めなかった。彼の流麗な筆記体、しかも所々乱雑に走り書きされた書体は、養父から文字を習ったきりのスメルジャコフには判読が難しい。部屋に溜め込んだ反故紙を広げ、単語や文字や文を拾い読みしながら、彼はイワンの言葉を夢想する。
 それは夢想に過ぎないのだが、一方でそれで十分でもあった。スメルジャコフはイワンから、イワンの唇から紡がれた言葉を聞いていたし、それらは他ならぬ自分に宛てて語られたものだった。イワンの書き付けは彼のよすがだったが、ただのよすがに過ぎないとも言える。ほんとうの言葉はもうあった。彼ら二人の間にすでにあった。だからイワンの言葉も物語詩も、そこにあると思えばあったのだ。
 スメルジャコフは何度となく読んだ書き付けを広げる。神の子に向かい自らの意志でお前を焼き払う、と宣言する異端審問官は、イワン・カラマーゾフの声をしている。

 

 

悪筆

 イワン・カラマーゾフは何につけても優秀であったが字だけはだめで、習字はいつも落第ギリギリだった。本人はそれほど悪くないと思っているようだったが、婉曲に言えば味のある字、率直に言えば紛れもない悪筆である。そしてイワンとは婉曲表現を使うような間柄でもなかったので、何だこれは、ペンの代わりに死にかけのミミズでも使ったのかいなどと字のまずさをからかったりしたものだった。イワンはその度にむくれて部屋の隅の自習机に陣取って、しばらくは口もきいてくれなかった。イワンはイワンで辛辣で、特に理数科目に関しては、これでよく進級できたね、授業の間君の魂はどこを漂っていたんだい、などとずけずけ言うのだった。それで今度は自分の方がむくれてしまうのだが、しばらくすると、どうしたことか、イワンと一緒に廊下や庭を並んで歩いているし、こっそり学校を抜け出して菓子を買い食いしている。
 一つまずかったのは、字だけでなく、字の練習をしているのをからかったことだった。イワンも思うところがあったらしい。字の上手い上級生に、どうやったら綺麗に書けるのか、尋ねて回って見本をもらい、それで練習をしていたのを、わざわざ後ろから覗き込んで余計なことを言ったのだ。死んだミミズとか手をくじいているほうがましじゃないかとか、そういう類のことを。イワンは赤くなって俯いた。それっきり、卒業まで口をきかなかった。
 そのことを思い出したのは、彼の姓を新聞で見たからだった。前代未聞の父親殺し、次男と父親が女を取り合って殺人に発展したという。まさか彼が、と思ったが、続報を見るに彼とは別の兄弟のようだった。それでも大事件に巻き込まれていることには代わりない。迷いに迷った末に、見舞い状を送った。定型のお悔やみだけにするつもりだったが、我慢しきれずに、君の字のことでは後悔している、と書いて送った。
 半年経ち、一年経ち、じりじりすりような後悔の念もくすぶり切って、もう許してはもらえないのだという諦念になった頃にイワンから返事が届いた。定型のお悔やみに対する定型の返事で、イワンではなくおそらく別の人が代筆したであろう、繊細な文字だったが、末尾に一言、いいんだ、と書き加えてあった。それはあの、紛れもないイワン・カラマーゾフの悪筆であり、数年どころか、数十年、人生以上の長さを会わぬ友に再会したような懐かしさと、大きな安堵に襲われて、少し泣いた。

 

 

ある幽霊の独白

「イワン坊ちゃんあんたは愛されることに躊躇がなかったねと言うと意外に聞こえるかもしれないがあんたはそうだった父親はあんたを忘れたけど肝心の時には助けてくれる人がいたからかもしれないしあんたが小さな頃はあんたの心の中にも神様がおわしてずっとあんたを見守っていたからかもしれない信じることのできる人は幸せだよ神様を自分で身を立てたということを理論の正しさを信じることができるのはイワン坊ちゃんあんたは俺が考えることができないと信じていたね確信であんたの世界は強固にできていた俺はロバの耳の代わりであんたの確信でできた世界の一部だったあんたはあんたの確信を愛し俺はその一部として愛されたって言ってもいいだろうあんたにとっちゃ同じことだ俺の口数が多いのが意外かい何しろ俺も脳がなくなるとこんなにも考えられるとは考えを止めなくていいとは思ってもみなかったそれにしても俺はあんたの悪魔のふりをできるのにあんたはもうそれを必要としていないなんて残念だ」

 

 

癇癪

 イワンはあまり癇癪を起こしたことがない。少なくとも物心ついた頃にはなかった。というのも、何かそういう状況になった時、弟の方が一呼吸早く癇癪玉を破裂させるからだ。弟の癇癪はものすごく、叫び声をあげ、地団駄を踏んで、そこが泥だろうと砂利だろうとお構いなしに地面に突っ伏して大泣きする。そうなるともうイワンの方は毒気を抜かれてしまって、アリョーシャが泣き止むまで、そばにしゃがみ込んで待っているのだった。
 アリョーシャの癇癪はこのように、なるほど怒りとはこうやって示すのか、というような、まるでお手本みたいな激しいものであったが、彼の気が済めば割にあっさりと終わる。だんだん泣き声が小さくなったと思うと、ある時点でぴたっと止まり、起き上がる。その後はほてほて一人で歩き出すこともあるし、側でしゃがんでいるイワンに抱きついて、何やらむにゃむにゃ訴えていることもある。涙と洟に加えて土でどろどろになった顔を拭いてやると、額や鼻の頭を擦りむいていて、痛くないのかと尋ねても、弟は泣き疲れて眠そうにして、イワンが傷の泥を払うのを煩わしそうにして立っている。
 あまりにもうるさいので、一度フョードルが来たことがあったが、脅しても怒鳴っても、なだめすかしても、アリョーシャは一切引かず、抱き上げられそうになったらその場で体をそらして暴れた。さしものフョードルもお手上げと言う様子で母屋へ帰って行った。イワンの方へは少しも目をやることはなかった。ずっと前にグリゴーリイやマルファもアリョーシャをなだめようとして、どうにもならなかったことがあって、それ以来、アリョーシャの癇癪はとりあえず放っておかれることになった。
 弟の怒りは誰にも受け止められることはない。それなのに彼は全身で怒り続ける。泣き止んだアリョーシャが起き上がって兄にまとわりつく。彼は息切れしていて、今日も顔を擦りむいている。心臓がドキドキと脈打っていて、それが落ち着く頃には、アリョーシャはもうまぶたが重くなっている。こんなすさまじい怒りを、この小さな体のどこに隠していたのだろう、とイワンは思う。あるいは隠しきれないで溢れ出てくるのだろうか。
 イワンの怒りは、悲しみと諦念になって心の中に降り積もる。イワンもかつてこんなふうに怒りを露わにしたことがあったけれど、誰もが素通りして行った。どうしてこんなに悲しいのか、自分が上手く言い表すことができないので誰も理解してくれないのだと、イワンは諦め、黙り込む。やり過ごせば怒りも悲しみも風化していったし、大きくなれば感情に付き合うのも上手になる。世の中の何もかも、自分を苛立たせるには十分だったが、わざわざ怒ってみせるほどのものでもない。苛立ちを冷笑や俗物への軽蔑に変えて、彼はこの世界をやり過ごしていく。
 イワンはずっと気づいていなかったのだけれど、心は一つしかないのだ。怒りも悲しみも、喜びも、憎しみも、全部同じ場所にあって、それを抱え続けることは、本当に容易なことではない。自分の中の全ての感情が破裂し溢れ出して自分の身を揺すぶった時、イワンはそれを知ったのだが、もうどうしようもなかった。

 

 

カラマーゾフの白い幽霊

 フョードル・カラマーゾフは死んだ。だがすぐそれとは気づかないで、お気に入りのガウンを着たまま、屋敷の中をうろうろしていた。家の中には大勢が出入りして騒がしい。大半は警吏か役人だ。息子たちは家に寄り付かなくなったし、マルファとグリゴーリイもしばらく家を離れていた。
 俺の家に、とフョードルは思う。よそ者が出入りしている。俺が自分の才覚で手に入れた俺の家なのに。フョードルは不機嫌になるが、その不機嫌さを誰に見られる心配もない。彼は感情を剥き出しにするのを、それを誰かに見られるのを嫌った。だから常に嘲笑的アクセントや下種な調子をそこに纏わせ、聖なるものを俗に引きずり下ろし、単純化し、相手をからかった。こちらが道化に徹すれば徹するほど相手は怒る。こちらの思惑、粘つくような憎悪や怒りを彼らに見せずに済む。そう、フョードルは今の自分が死者であることを半ば自覚している。それでいてまだそれにはっきり目を向けたくなくて、家の中を彷徨する。
 彼の家は彼の望んだ通りに飾り付けられている。そのうちグリゴーリイとマルファが戻ってきて、役人たちが散らかした家を片付ける。それから、調度品一つ一つに、埃除けの白い布を被せていく。彼の気に入りの家具が、玄関から近い順に古ぼけた白い布で覆われていく。書斎の机にグリゴーリイが布を被せる。その前に立っていたフョードルにも布が被され、――何の余韻もなく素通りしていく。布は、彼の後ろの、布張りの椅子に被せられている。そこに座り、帳簿を点検し、手紙を仕分けて返事を書いた椅子だ。グリゴーリイがカーテンを引き、部屋の戸を閉める。暗い中に調度品が家の幽霊のように並んでいる。
 フョードルは書斎を出て家の中をうろつき回る。誰も帰って来ない家で、白い布を被せられた家具は、大きな犬の子みたいに見えた。白い犬の子。母親の乳を求めて這い回る、生まれたばかりの子犬たち。
「……死にたくなかったなあ」とフョードルは言った。人がいてもいなくても、それを見る者はいなかった。

 

 

時鐘

 結局、パーシャの子守はイワンが引き受ける形になった。マルファもグリゴーリイも、もちろんこの養い子に目をかけ、世話をしていたのだが、奥様の葬儀と旦那様の世話とで何かと気忙しく、好奇心と体力とをつけ始めてウロウロ歩き回る、三つかそこらの子に、いつもつきっきりというわけにも行かない。
 葬儀の準備の間、イワンは手持ち無沙汰で、かと言って勉強とか遊びとかをする気にもなれず、パーシャの遊び相手をして気を紛らわせているうちに、坂道に置いた石が少しずつ転がって平地に辿り着くように、弟ともう一人の子供の手を引いて歩くようになった。召使小屋で生活するようになってからは、なおさらそれが当たり前になった。この頃、アリョーシャはイワンから離れようとしなかった。パーシャはパーシャであまり活動的でなく、茫洋とした顔でイワンに手を引かれるままについて行く。
 母親が亡くなったのは夏の盛りで、緑の一番濃い時期の、蜜蜂の唸りの聞こえる庭を三人で散歩した。時々お菓子を持たされたけれど、庭から外へは出てはいけないと言われていたので、毎日同じ場所を、同じようにぐるぐる歩く。時々雨が降って、次の日は地面が柔らかくなる。きのこが生えてしぼむ。花が咲いていて、しかしそれが昨日の花と同じものなのか、イワンには分からない。小鳥の声は毎日うるさい。庭の奥に少し開けた場所があって、そこでしばらく座って、一日の何時間かをやり過ごす。
 散歩の間、アリョーシャはずっとイワンの裾を握りしめて離さない。パーシャは時々小鳥や黄金虫に気を取られるけれど、目で追いかけるだけで、駆け出したりはしなかった。イワンは膝を抱えて、視界を蝶が通り過ぎるのを眺めている。時々アリョーシャが草むらに向かって小石を投げる。石は軽い音を立てて葉にぶつかり、木立の中へ消えていく。パーシャも真似をして石や小枝を投げるけれど、大抵は届かない。眠くなるとアリョーシャはイワンの膝に寄りかかって眠る。パーシャも真似をしてイワンにもたれかかり、そうするうちに眠っている。木陰とはいえ、二人に挟まれていると暑くて汗が出てくる。二人が起きたらモルスを飲ませ、自分も飲む。
 今は何時だろう。顔をあげて空をぼんやり見ていたら、アリョーシャとパーシャも同じように顔を上げて、ぽかんと空を見上げている。あれはなあに、と尋ねるのはその時ちょうど聞こえ始めた鐘の音のことだろうか。
「修道院の鐘だよ。時間を知らせてくれるんだ……修道院は分かるだろう、アリョーシャ。お母様と行ったから……」
 それが母のことなのか、母の棺のことなのか、イワンにも分からない。「お母様のためにお祈りをして、アリョーシャ」と言って手を祈りの形にすると、アリョーシャも真似をする。おそらく意味はよく分かっていないのだろうが、母と兄に教えられた通りにお祈りの文句を唱える。隣を見ると、パーシャも真似をしていて、イワンは微笑んだ。
「お前もお祈りをしてくれる? お母様に……それか、お前のお母様のために」
 パーシャはうん、と頷いた。鐘の音は、空に長く尾を引いて、まるでいつまでも続くみたいに聞こえる。

 

 

泣き虫ワーニャ

 相変わらず泣き虫だね、君は、と、悪魔は呼んでもいないのにやってきて聞いてもいないことを言う。相変わらずと言うけれど、彼を見るようになってから泣いたことはない。見る前だって随分長い間泣かなかった。「そうだったっけ? 僕も焼きが回ったかな!」ととぼけるのが憎らしい。
 同じことをドミートリイも言った。悪魔の前か後かは覚えていないが、その時自分は瞬時に苛立ち、火の玉みたいな視線をミーチャに投げた。泣いてなどいないのに、こっちが感情を昂らせるとドミートリイはからかうつもりでそう言うのだ。仲裁を頼まれた父との遺産問題は、女が絡んでいよいよこじれにこじれていた。ドミートリイには彼なりの論理があり、本人としてはそれに忠実に動いているようのだが、その論理自体が自分本位で他人には通用しないということをどうしても理解しない。この話の通じない男が兄で、年上で、小さい頃は面倒を見られた記憶があるのにイワンは常々腹を立てていた。
 裁判が終わり、悪魔もミーチャも身の周りにいなくなったこの頃、イワンは確かに前よりもよく泣く。寝室の窓から外を見ると眩しくて涙が出るし、何かの拍子に気持ちが昂って泣いてしまう。うまく言葉が出て来ないとか悲しい記事を読んだとか、そういうことがあった時もなかった時も、目頭がつんと痛くなって、涙が出る。目の奥にある涙を溜めて置く場所が、ちょっとしたことで傾いてしまうし、一度傾いたら戻らない。そんな感じだった。小さい頃は年相応に泣いていた、と、近頃回想録を書くようになったイワンは思う。
 日記や、昔やっていた論文やエッセイのようなのはうまく書けなかったが、昔のことは思い出せた。どうせ思い出だから理路整然と書く必要もないし、たった一言でも構わない。思い出したことを思い出した順に書く。イワンの回想録は、だから場所も年齢もあちこちに飛んでいる。六歳、スコトプリゴニエフスク。二十二歳、モスクワ。十六歳、スタラヤ・ルーサ……。たかだか二十数年の人生だというのに、書くことは、途切れ途切れだが枯渇することなく湧いてくる。転んで前歯を折ったこととか、どこから見たかも覚えていない朝日のこと。春に土の腐るにおいや、弟のアリョーシャのこと。いくつかの大きな事件を除いては、ほとんどはどうでもいいような、小さなことばかりだった。思い出しても書きたくないことは書かなかった。
 短い書き付けだけ残して自死した召使いのことは、まだ書けなかった。彼もノートを一冊持っていた。フランス語の単語を練習していたと言う。イワンの書いた反故紙もいくつかノートに挟んであって、短いメモが残されていたらしい。それ以外には、何も残さなかった。書けなかったのか、書かなかったのか。書いても燃やしてしまったのかもしれない。彼が台所の薪の前で、焚き付けに火をつけていたのを思い出す。ねじって蝋燭の形にした紙についた火は、ほんの一瞬彼の横顔を照らして、すぐに火にくべられる。
 数ヶ月に一度、シベリアからドミートリイの手紙が届く。大抵は金の無心だが、それが終わると残りの余白いっぱいに、監獄であったことが書かれている。聖誕節に囚人たちで劇をやったことや、政治犯のおかみさんたちが白パンを差し入れてくれたこと。劇は笑劇で、囚人の一人が脚本を作ったと言う。紙なんかもらえないから、セリフは口伝えで覚えた。
 その他にも囚人たちの独特の言い回しがメモしてあって、訳の分からないのも多いが、勢いがあって思わず笑ってしまう。「ヤギの疫病神め!」とか「目の玉でも売ってるのか?」とか、どういう状況だったか短い説明が添えられていることもあるが、ないことも多いし、あってもよくわからない。カーチャもこれは楽しみにしていて、そのことを返事に書くと、今度はどっさりその手のメモが送られて来る。「こんなのが毎日あるんだ。毎日、毎日飛び出して来る!」とドミートリイは書く。「お前が笑うなら、お前のために覚えておくよ。お前もカーチャも、悲しみの多い人だから」ともミーチャは書いてあって、ふいを突かれたようになってイワンは泣く。ぼろぼろと流れた涙の後に言葉が追いついて来る。悲しみの多いのは、兄さん、僕じゃないだろう。あんたはそれを知ってるはずだ。僕に童の話をしたじゃないか……。
 それを今すぐ、面と向かってミーチャに言えないのがもどかしい。イワンはカーチャを心配させないために、流れた涙を拭う。お前は相変わらず泣き虫だな、とドミートリイが言ったのを思い出す。それは口論の最中に言われたはずなのに、今思い出すと、嘲笑よりも苦笑の、兄らしい困惑の響きを帯びている。

 

 

青い鳥

 足のない鳥の話を教えてくれたのは、昔駐屯していた町の宿屋のおかみさんだった。ミーチャよりも七つか八つ年上で、夫はそれよりもずっと年上だった。男の方は二度目の結婚で、女のことをいつも見張っているつもりの間抜けだった。何度目だったか、夫の目を盗んで会いに来た時に、女はその話を教えてくれた。
「青い色の、小さな鳥なの。とても軽くて空の高いところを飛ぶのよ。足がなくってね、生まれてからずっと飛び続けて、地面に降りるのは死ぬ時だけなんですって」女はミーチャの髪を手で梳きながら、半ば上の空で言った。女の口ぶりから、夫ではない別の男からそれを聞いたのだろうと思った。
「なんだかとても純粋な感じがしない? 純粋な生き物だと思うわ」
と女はうっとりした調子で言ったが、ミーチャはそれに頷かなかった。それは純粋と言うよりも、とても寂しく恐ろしいことのような気がした。それに、そんなふうな生き方で、どうやって番うのだろう! どうやって伴侶を探し、卵を抱くのだろう。ミーチャがそう言うと、女は声をあげて笑った。
「もちろんそこでするのよ、何もかも。それにね、ひょっとしたら彼らはそんなもの全然いらないのかもしれないわ」女は言った。ミーチャは納得しがたかったが、女は取り合わなかった。「ただのおとぎ話でしょ」と女は、手で何とはなしにいじっていたハンカチを放り出すように言った。
 町を去る日は、朝から冷たい雨が降っていたが、女は宿屋の入り口に立って彼らを見送った。手を二、三回振ったところで、夫が出てきて女の腕を掴んだ。女は夫の腕を振り払い、何か激しい調子で言うと、夫について中に入って行った。扉の中に入る瞬間、女はこちらを見た。確かに目が合った、と思う。音がするようにはっきりと、女はミーチャの方を見た。
 それは全く火のような憎悪だった。女の目に浮かんでいたのは憎しみだった。彼女はミーチャが去ることを憎んでいた。今すぐミーチャごとこの町を焼き払えるのなら、焼き払ってしまいたい、と言うような目つきだった。ミーチャはそれに戸惑って目をそらした。彼女ともその町ともそれっきりだった。
 あれはミーチャが去ることよりも、去ることができるということ、あの町から出られるということを憎んでいたのだ。数年経って、そういうことが理解できるようになった今も、ミーチャはいまだに、広々とした、抜けるような青い空を飛び続ける小さな鳥のことが、怖い。

 

 

絶交

 まだ七つだというのに、イワンの頑固さと言ったらなかった。一度へそを曲げたらテコでも動かないし、納得しがたいことは自分で得心が行くまでとことん試そうとする。靴がきついとか前の週に嫌なことがあったとかがあれば、たとえミサであろうと絶対に行かない。靴が嫌なら裸足で行けよ、と言ったら、ムッとした顔をして本当に靴と靴下を脱いで行こうとした。その頃から体の大きくなり始めていたミーチャは、慌てて暴れるイワンを担いで家に戻し、靴下だけでも履いてくれと半ば懇願半ば脅してどうにかこうにか服を整えた。このすったもんだの間、アリョーシャは兄を追いかけて、家を出たり入ったりしていた。
 神様だってこの頑固さには手を焼くだろう、と神父様から苦笑まじりに言われたイワンが、ただ母親が違うと言うだけで、ミーチャ一人が親戚の家に引き取られて行くのを納得するはずはなかった。なんで自分達も行けないのか、という問いには百万遍答えたが、今日も百万一回目の質問が飛んでくる。ミーチャは数少ない私物を荷造りしながら、お母様が違うからだよ、あのおじさんはおれのお母様の身内なんだよとお定まりの答えを返すが、もちろんイワンが大人しく頷くはずがない。ミーチャの方ももういい加減嫌になって、迎えの来る時間になるまで、イワンが登れない召使小屋の屋根に登って過ごす。
 その日は晴れていた。イワンのいいところは泣き喚かないところで、兄がいなくなっても他の子みたいにわあわあ泣いて探したりしない。屋根の上でたっぷり昼寝したミーチャは、自分を呼ぶグリゴーリイの声に目覚め、いそいそ屋根を降りて荷物をつかみ、おじさんの寄越した馬車の前に立つ。「また屋根に登りましたね」というお説教も今日までだ。父は最初体裁だけ取り繕って見送りの列に並んでいたが、迎えにきたのがミウーソフ氏ではないを悟ると屋敷に帰って行った。
 見送りにはマルファとグリゴーリイに弟達、ヘルツェンシュトゥーベ先生も来てくれた。一人一人に挨拶をして、弟の方を見ると、イワンはマルファのそばに、頬を真っ赤にさせて立っている。ミーチャはと胸をつかれて弟の前に膝をついた。
「ごめん、ごめんよイワン! お前を置いてくんじゃなかった。なんでおれは屋根なんか登ったんだ! なあワーニャ、手紙を書くよ、ミウーソフさんにも頼んでみるよ!」
 ミーチャは、いよいよ出発するという段になってようやく、弟と離れるとはどう言うことかを自覚したのだった。涙がぽろぽろ溢れたが、イワンは擦り過ぎた頬をさらに擦って赤くして、むっつり黙り込んでいた。周りの大人たちは、ミウーソフさんとこの御者の爺さんまで一人残らず泣いていたが、イワンは絶対に涙を見せなかった。ミーチャの乗った馬車が動き始めた時に初めて、「にいちゃんの、バカ!」と叫び、その場に突っ伏してわあわあ泣いた。
 かくしてミーチャは親戚の家に引き取られることになったが、肝心のミウーソフさんは不在だった。弟も一緒に暮らせるようにお願いするのだと意気込んでいたミーチャは肩透かしを食らってしまった。預けられた先はそもそもミウーソフさんの家ですらないらしく、そこの奥方にお願いしてみても、「さあ、私にはわからないわ」と繰り返すだけだった。それでも奥方は親切に、ミウーソフ氏に手紙を出して尋ねてあげる、と言ってくれ、ミーチャの手紙と一緒に同封して送ってくれたのだが、返事は一向に来なかった。
 ミーチャは仕方なく、弟に手紙を書いた。そのまんまは書けなかった。お願いはしたが、ミウーソフさんはお忙しくて、まだ自分達のことを適切に対処する(これは例の奥方から学んだ言い回しであった)余裕がないのだ、もう少し待ってくれ、と書いて送った。送ってからとんでもない誤魔化しをやってしまった羞恥で苦しんだ。しかし今度は弟からの返事が来ない。同じような内容の手紙をもう一度送ってみたが同じことだった。まるで故郷の町がふっつり消えてしまったみたいだった。ミウーソフさんからは、一段落ついたら帰るとの返事があり、ミーチャは大いに期待したのだが、その日は来なかった。
 そのうちミーチャは学校に入ることになった。もし弟からの返事が来たら知らせてくれと頼んだが、その日も来なかった。もう許してくれないのだな、と思った瞬間、ミーチャは弟のことを諦めた。そして忘れた。
 後で聞いた話では、ミーチャが引き取られた直後、ソフィア母さんの親戚の人がやって来て、イワンとアリョーシャを連れていってしまったらしい。それで手紙がイワンに届かなかったらしい。監獄でイワンからの手紙を読みながら、ミーチャは、あの時のことをイワンは覚えているだろうか、と思う。頭のいい弟のことだから覚えているかもしれないし、小さな頃のことだから忘れているか、他の記憶に埋もれてしまっているかもしれない。覚えていてもミーチャにはそうとは言わないかもしれない。それは分からないけれど、もしイワンが忘れてしまっていても、許しても、許してくれなくても、あの時の、真っ赤な頬をして立っているイワンを思い出すと、どうにも切なくなって、やり切れないのだった。

 

 

アレクセイの告白

 小さい頃は兄も自分もよく泣いていた、と思う。母と同じに、ぽろぽろと涙を流していた。どういう時に泣いたのだったか、あんまり泣き虫だったから覚えていない。自分が物心ついた時には、もう七つか八つだった兄は、わあわあ声を上げて泣くことはなく、その場でじっと地面を見つめて静かに泣いた。
 何がきっかけだったのか、朝食の席でイワンが泣き出したことがあった。その時も兄は行儀よく椅子に腰掛けて、じっとテーブル掛けを見据えて涙を流していた。「まあ、坊ちゃん」と子守がたしなめた。「お兄様なのにそんなに泣いては恥ずかしいですよ」ねえ、と子守が突然こっちに向かって言うから、びっくりして机の下に隠れた。
 大きくなったらイワンは全然泣かなくなった。代わりにいつも怒っているような気難しい顔をしていた。もっともイワンはモスクワの寄宿学校に入ったから、顔を合わせることも少なくなった。十六歳の時、修道院に入るという手紙を出したら、体に気をつけるようにという至極あっさりした手紙が返ってきた。
 父さんとミーチャが遺産のことで揉めた時、スコトプリゴニエフスクに戻って来たイワンは、やっぱりどこかずっと怒っているように見えたし、自分には冷淡な態度をとっていたから、何だか近寄りがたかった。しかし、ひょっとしたら、兄さんに本当の意味で近づいたことなんてなかったのかもしれない。
「いつから兄さんは地獄を抱えていたんでしょうね?」
と、アレクセイ・フョードロヴィチは自問するように言った。
「一度僕は、そんな人間は救われない、死刑だとイワンに言ったことがあるんです。言わされたんですよ、兄さんがあんまり追い詰めるから! それを聞いた兄さんは快哉をあげていたけれど、だからと言って……ねえ、今になって思うんです。僕はそんなことを言うべきではなかったのかもしれない。あるいは……あの時は兄さんが僕を試していると思ったけれど、本当はそうではなかったのかもしれない。イワンはただその話をしたかっただけなのかもしれない。あんなに顔を真っ青にして! 僕がいたからイワンの中から言葉が溢れて来たんです。でなければどうやってあんな話し方ができるでしょう! どうしてだかね、あの時イワンが泣いていた気がするんです。僕が死刑だと言った時、そんなはずはなかったのに、今思い出すとイワンは泣いているんです。僕が死刑だと叫んだ時に……僕はね、覚えていますよ。ナスターシャ(それが子守の名だった)が泣くなんておかしいと言った日、僕はイワンに泣いてもいいよと言いたかったんです。イワンはいつだってその権利があったのに、僕はそう言う代わりに机の下なんかに隠れてしまった。きっと僕は兄さんに言わなければならなかったことがたくさんあります。本当はこんなところでおしゃべりするよりもすぐにイワンのところへ行って伝えなければならない。だけど……」
 アレクセイ・フョードロヴィチはそこで口をつぐみ、微笑んだ。どれほど多くのことを言わずに通り過ごして来たか、それを確かめるのが恐ろしいのだと、後から私に寄越した手紙の中で告白した。

 

 

「青い鳥」中の「足のない鳥」の話については、テネシー・ウィリアムズ著、広田敦郎訳『テネシー・ウィリアムズⅡ  地獄のオルフェウス』(早川書房、二〇一五年)を参考にしています。