迷子の話

 あれ、おかしいな、と最上は思う。目的地に向かって歩いているはずなのになかなか辿りつかない。また迷ったかなあ。地下街は苦手だ。昼なのか夜なのかわからないし、どこへ行っても似たような景色で、近づいているのか、離れているのか、わからない。
ひとまず案内板を探す。少しあたりを見回すとすぐに見つかった。案内板の前に行き、目的地を探そうとするが、ない。
「あ」
 案内板には「*****」と書かれてあった。道理で目的地に着かないはずだ。またやってしまった。最上は出口を探す。改めて見ると地下街はどこか、どころかどこもかしこも完全におかしかった。看板の文字は読めないし、よく見ると歩いているのは人間ではなく人間型の真っ青な風船のようなものだった。ペンなんかで突いたらあれ、どうなるんだろうか。好奇心がむくむくと頭をもたげるのを最上はいかんいかんと打ち消す。普段は何かが視界に入ってきても無視しているし、霊に積極的には関わらないようにしている。その分、こういうところに迷い込むとついちょっかいをかけたくなってしまう。
人型風船たちは最上のことはあまり気にしていない様子で、てんで勝手に歩いている。時折びょんと頭や手足が跳ねる。健康診断で膝をトンカチで叩かれた時の動きに似ている。意思があるのだかないのだかわからない。人型風船を避けながら、最上は地下街を歩く。
 少し歩くと出られそうな階段が見つかった。他の階段は、石で埋まっていたり、生臭い風が吹いてきたり、あまりいい感じがしなかったが、その階段は違った。コンクリート作りの階段で、壁に金属の手すりがついている。手すりのペンキはところどころはげていて、階段にはガムが踏まれて黒くこびりついている。要するに、普通の階段だった。これなら大丈夫、と一段目に足をかける。人型風船が一斉に最上の方を振り向いた。最上はそれに頓着なく、一段、また一段と上がっていく。最上の姿が見えなくなると、人型風船はまた元のように歩き出した。
 階段は長かった。上を見ると踊り場がある。階段を登り、踊り場に着いて見上げるとまた踊り場がある。その踊り場に着いて見上げるとやっぱり踊り場がある。しかし最上は焦らない。そういうものだと知っている。けれども何度目かの踊り場に差し掛かったとき、最上はどきりとして足を止めた。
 踊り場の奥に誰かいた。誰か、と言っていいものかどうか。最上の位置からでも肩から上が見えているが、かろうじて人の形をしているだけで、人間ではない。藁を束ねた人形に近いけれども頭頂部に当たる部分から生える髪は黒々としている。顔の部分には目と口に当たるところに切れ込みがあった。
最上は一度止めた足を進める。階段を一段、一段登るたびに緊張で足を踏み外しそうになる。踊り場の人は顔を最上に向けているような気がする。顔、と言っても藁束に切れ目をいれたようなのだからはっきりとはわからない。
 それの目の前を通り過ぎ、背を向ける。背中で気配を探りながら同じペースで階段を登る。どうやらそれは動かないらしかった。次の踊り場を折り返す時、そっちの方を見たいのを我慢する。あれは最上の生きる場所とは異なる場に住むものだ。余計なものを見るものではない。
次の踊り場はなかった。壁が四角く切れて、光が差し込んでいる。最上は手のひらでひさしを作った。青空と、道を行く人の頭が往来するのが見える。出口だ。階段を登り、外に出る。ここもまた変な場所だったらどうしよう、とちらりと思ったが、出てみればごく普通の都市の風景だった。
今度も脱出成功だ、と最上は思う。そもそも迷わなければいいのだがそのことは頭から抜けている。

 

 

 最上はよく迷う。迷うと言っても道に迷うのではなかった。アチラ側、異界、隔世、呼び方はなんでもいいが、そういう場所にしばしば迷い込む。中学生くらいのころからずっとこうだったから慣れている。迷っているのがどうもおかしな場所らしい、と気づいたのが中学の頃だから、もっと前から迷っていたのかもしれない。
それにしても、アチラ側も時代に合わせて変化するらしい。最上は感心する。地下街なんて、最上の子供の頃にはなかったパターンだ。アチラ側でどんな風にああいうものができているのかは知らない。少なくともこっちと同じように工事があるわけではあるまい。やはりあそこは人間の営みと多少なりとも関わりのある場所なのだろう。
今回はラッキーだった。すぐに出られたし、目的地にちょっとだけ近い場所に出られた。約束の時間にも、少し遅れたくらいで辿り着けた。そうではない場合には何日も何年も迷ってしまうことがあるらしい。それが時に神隠しと呼ばれる。
 アチラ側とどこでどう繋がってしまうのかは最上にもわからない。幽霊のように気配を感じ取れるわけではないからだ。しかし、繋がりやすい場所というのはあって、森だとか複雑なビルだとか、見通しが悪くてものとものとの隙間の多いところは迷い込みやすかった。地下街もこれに該当する。
霊が見えるから迷いやすいのか、迷いやすいから霊が見えるのかはわからない。ただ確実に言えるのは、最上自身がそれをあまり気に病んでいないということだ。気に病んでいないから普段からほいほい繋がりやすそうな場所に行ってしまうし、そういう場所をふらふら歩いてしまう。そうしているうちに変な場所に迷い込む。
 テレビ局も結構迷いやすいよな、と最上は廊下を歩きながら思う。増改築を繰り返して内部は複雑になっている。大道具が廊下に置かれていたりするし、スタジオやら非常階段やら倉庫やら、出入り口はたくさんある。扉の多くは中が見えないようになっているし、閉ざされていることも多い。条件が揃っているからといって常にアチラ側へ迷い込むわけではなく、最上自身テレビ局では一度も迷い込んだことはなかったが、気をつけなければ、と思う。迷い込んで遅刻したりしたら仕事がなくなってしまう。
 と、ばたばたと正面からスタッフが駆けて来た。以前仕事をしたことのある人で、西原と言う。音響を担当している人だったが、どうも様子がおかしい。切羽詰まった様子で、誰かの名前を呼んでいる。
「西原さん。どうかしたんですか」
「ああ、最上さん。すみません、実はスタジオ見学に来た小学生が一人、いなくなっちゃって」
 西原は額に吹き出した汗を腕で拭い、事情をかいつまんで説明する。社会見学の一環で、近所に住む小学生がやって来た。四年生で、全部で三クラスあり、班ごとに分かれて見学をしていた。彼らがスタジオに来た時、西原は、仕事の解説を引き受けた。ちょうど手が空いているし、もともと子供好きなのもあった。撮影開始前の、すでにセットの組まれたスタジオを一周して、機材や道具の役割を説明する。事前にセットが壊れやすいことを説明していたので、走り回ったり、むやみにものに触れたりする子供もいなかった。
 それなのに、解説が終わり、次のところへ行こうとしたところで、女の子が一人いないのに気づいた。西原も、班員の子たちも、その子がいついなくなったのかわからなかった。さっきまでそこにいたのに、と戸惑うばかりだった。班長がしっかりしていて、すぐに先生を呼びに行った。西原はその間、セットの間をくまなく探したが、その子は見つからなかったと言う。
「中にいないのなら外に出たのかな、と思ったのですが……」
 周辺にもいない。呼んでも返事がない。
「どうしよう。どこかで事故にあっていたら」
 西原の顔は青かった。自分の責任問題であるという以上に、その子のことが心配なのだろう。探すのを手伝いましょう、と、最上は西原から子供の消えたスタジオを聞き出した。お願いします、と言い西原はいなくなった小学生を探しに行った。
 スタジオは西原と出会った場所からそう遠くないところにあった。最上が行くと、テレビ関係者らしいスーツの男性と、教師らしい若い女性、それに子供たちがスタジオの前に固まっている。スーツの男性がいち早く最上に気づいた。
「どうかしましたか」
「西原さんに聞いて、何か手伝えることはないかと」
「手伝いですか……」
 スーツの男がうさんくさそうに最上を見た。首から下げている社員証には広報部長、とある。仕事ではあまり関係しないが、向こうは最上を知っているのだろう。まさか霊能力でか、と目が言っている。最上は構わず教師の方に話しかけた。
「初めまして、最上と申します。女の子が一人、迷子になったとか」
「ええ、そうなんです。集合場所にもどこにもいなくて……」
 教師は落ち着かない様子で目を伏せた。それからはっと気づいて「失礼しました。この子たちの担任の村上と申します」と頭を下げる。それにつられてか、村上の周りでやりとりを見ていた子供たちも頭を下げた。男の子が三人、女の子が一人。最上も「はじめまして。最上と言います」と挨拶をする。知ってる、と男の子の一人が小さく言った。どうも、と最上も小さな声で応じる。
「消えた子供についてお聞きしてもいいですか」
「はい……」
 消えたのは瀬戸ミナミと言い、副班長だと言う。副班長を任されるくらいだから、ふらふらとどこかへ行ったり、勝手な行動をとったりするような子ではない。今回も、先頭を班長に任せ、自分は一番後ろからついて行くようにしていたらしい。
「瀬戸さんの前を歩いていたのは誰かな」
 最上が尋ねると、女の子がおずおずと手を挙げた。すでに泣きそうになっている。最上は中腰になって視線を合わせ、なるべく優しい口調で話しかける。
「こんにちは。お名前を聞いてもいいですか」
「中村唯子です」
「中村さん。瀬戸さんがいなくなったのに気づいたのはいつですか」
「最後です。スタジオの出口のところ」
「瀬戸さんが確かに後ろにいたよ、って思うのは、どのあたりまでかな」
 中村唯子はスタジオの中を指差す。スタジオ内は子供向けの教養番組のセットが組まれている。デフォルメされた森と、カラフルな床。床には原色の椅子が三つ置かれている。座ってもいいよ、と西原に言われ、全員が交互に座った。その時にはいた、と言う。
「ありがとう。ところで、誰か瀬戸さんの持ち物を持っていませんか」
 これ、と男子児童の一人が薄い冊子を差し出した。表紙には「社会見学のしおり」と書いてある。最上は「借りてもいいかな」と尋ね、しおりを受け取る。表紙には、小学生のしおりにしては大人っぽい、図形を組み合わせた抽象的なイラストが印刷されており、一つ一つの図形には色鉛筆でていねいに色が塗られている。
「ありがとう。君は?」
「松田裕太です」
「松田くん、これはどこで見つけましたか?」
「落ちてました。そこに」
 松田裕太はスタジオの入り口付近を指差した。
「スタジオの中に落ちてたんだね?」
「はい」
 松田裕太はこくんとうなずいた。
「少しこちら、お借りします。我々も探してみますので、ええと……」
 最上はスーツの男性に視線を向ける。今まですっかり蚊帳の外だった上に、何やら怪しげなことをしそうな最上に苦り切った顔をしている。が、そこはプロで、すぐさま表情を切り替えて村上たちの方に向きなおる。
「最上さんのおっしゃる通り、我々も探しておりますので、皆様は少し休まれて下さい」
「でも……」
「何かあったらご連絡しますので。さあ」
とやや強引にどこかへ連れて行った。応接室か、楽屋だろう。
 さて。
 最上はスタジオに入り、周りを見回す。
「瀬戸さーん」
と呼ぶと、最上の声がスタジオにこだました。最上はしおりを眺める。表紙のイラストの下部には名前を書く欄があり、これまたていねいな字で大きく「四年一組、瀬戸ミナミ」と書かれている。最上はその字に神経を集中させる。貧血の時のようにふうっと目の前が暗くなり、暗がりの中で背を丸めている瀬戸ミナミの姿が見えた。周りは茫洋としてよく見えない。もっと見ようとすると接続が切れたテレビのようにふっつりと瀬戸ミナミの姿が見えなくなる。
「やっぱり」
 最上はスタジオを歩き回る。森を模したセットに機材と機材の狭い隙間、出入り口はたくさんある。少しうろついてから、最上はひょいとセットの間に体を押し込めた。
 それから、スタジオは無人になった。

 

 

 どうやらうまくいったらしい。
 最上はおそるおそる周りを見回して思う。テレビスタジオのようだが、どうも様子がおかしい。森を模したセットは、ほんものの植物になっている。蘇鉄に似ているが葉の色は暗い赤色をしている。非常口を示す緑のランプはあるが、「非常口」の文字が読めない。意図してアチラ側に来るのは初めてだったが、どうにかなったらしい。
 あとは瀬戸ミナミを探すだけだ。が、最上はいきなりつまづいた。もう一度霊視をしようとしたがうまく行かない。最上の霊視を何かが邪魔しようとしているような感じ――というよりは、霧の日に遠くを見ようとしてうまくいかないような感じがする。ここがアチラ側だからだろうか。
「瀬戸さーん」
と呼んでみる。しばらく待ったが返事はない。念のためスタジオの中を回って見てみたが、人影はない。ただちょろちょろと植物の上を小さな影が走っている。影には実体がない。影だけがその辺を走り回っている。
「うーん。移動しちゃったのかな」
 最上はスタジオの外に出る。スタジオの外にも人はいなかった。床や壁に大小の影が落ちてゆらゆらと動き回っている。窓の外は曇りともなんともつかない天気だった。
「瀬戸さーん」
と呼ぶとざざざっと影が遠くへ逃げる。しばらくするとまた現れる。見たところ、特に危害を加えたりするような様子はない。瀬戸ミナミも、さっき霊視した限りでは無事のようだが、どこかに怯えて隠れているようだった。見たところ、間取りはこちら側、つまりは現実のテレビ局と同じようだった。ただテレビ局は広い。全て探し出すのはどれくらいかかるか分からない。それまでに、瀬戸ミナミが疲弊してしまいかねない。
 最上はあたりをきょろきょろ見回す。セットの影や、非常階段の扉、使っていない応接室。子供の隠れられそうな場所はいくらでもある。瀬戸さーん、と名前を呼びながら、非常階段の扉を開ける。
「わっ」
 慌てて閉める。非常階段には誰かいた。影の本体だろうか、それとも別のものだろうか、大小いくつもの人らしきものが階段に何人も並んで立っている。ただし、大きさはまちまちで、猫くらいのから天井に頭をこすっているのまでいた。
 どん、と非常扉が向こう側から叩かれる。最上はうわ、と呟いて扉を押さえた。扉は何度も緩慢にどん、どん、と叩かれたが、やがて何も聞こえなくなった。最上はそっと体を離し、念のため扉の前にセットや椅子を引きずってきてバリケードを築く。
 どうしよう、あんなのと瀬戸さんが出会ったら。いや、もう出会っていたら? 最上は非常出口から足早に離れながら、声を低めて瀬戸ミナミの名前を呼んだ。もしスタジオの中に隠れていたら。自分が見逃してしまっていたら。嫌な汗がじっとりと噴き出す。早く見つけなければ、本当に危険が及ぶ可能性がある。
 しおりを見つめ、もう一度霊視をする。やはりだめだ。ここではうまくいかない。手のひらの汗でじっとりとしおりの表紙がふやけていく。几帳面に塗られた表紙のイラスト、瀬戸ミナミ、の文字。
「……そうか」
 最上は呟いて、しおりを開いた。

 

 

 瀬戸ミナミは優等生だった。
 親の言うことをよく聞いて口答えなんかしたことがない。勉強も、言われずとも自主的にやった。勉強が好きというよりは、単純に、学校で教わった通りのことをやれば、算数でも、国語でも、ちゃんと結果がついてくるのが面白かった。それに、いい成績を取れば両親が喜んでくれるのが嬉しかった。家の手伝いだってするし、三つ下の弟の面倒もよく見たし、学校ではしっかり者として頼られている。
 三つ下の弟はやんちゃで聞かん坊だった。それでも瀬戸ミナミにとってはかわいい弟だった。蹴られても、癇癪を起こした弟におもちゃで殴られても、瀬戸ミナミはやり返したり腹を立てたりせずに、やめてよ、と泣くだけだった。すると親に見つかって叱られ、弟はしばらくはぶすくれている。けれども頭が冷えると、必ずミナミのところに謝りに来る。そういう弟のことを、ミナミは心から愛していた。少し嫌だなと思うときもあるけれど、そういうのはね、お互い様よ、と祖母に言われて以来、あまり気にならなくなった。
 弟はよく迷子になった。おもちゃでも動物でも、興味をひかれればそっちの方へふらふらと行ってしまう。癇癪を起こして逃げることもある。きちんと手を繋いでいたはずなのに、目を離した隙にもういない。それで、はっと気づいてあちこち探し回ると、親切な人に相手をしてもらってニコニコしている。親と一緒の時も、姉のミナミと一緒の時も、弟は構わずあちこちに行ってしまう。
 瀬戸ミナミは弟と違って親からむやみに離れたりしなかった。学校でもそうだ。遠足でも社会見学でも、列を外れたり、先生から離れたり、よそ見をしたり、そんなことは一度もしなかった。
 それなのに、なぜだか今は迷子になっている。
 社会見学のコースを外れたりしなかった。ちゃんとしおりに書いてある通りに歩いたし、スタジオ見学の時も、前を歩く中村唯子について行ったはずだ。よそ見はしなかった――ほとんどしなかった。
 スタジオ見学は面白かった。西原さん、という人が、セットのこと、機材のこと、仕事のこと、たくさん話してくれた。本当はだめなんだけど、秘密だよ、と言って機材に触らせてくれたりもした。
 スタジオのセットは幼児番組のもので、なんだか懐かしい気がした。ミナミが昔見ていたものとは違うけれど、原色の色使いや、椅子の小ささが、昔に見た番組を思い出させる。昔は自分も、あの番組に出られるのだと思っていた。同じ年くらいの子供が出ていたから。きっと、誰か運のいい子供が、ある日呼ばれてあの椅子に座る。自分もいつか呼ばれるだろう。玄関のチャイムを誰かが鳴らす。出るとミナミをあの場所へ連れていく。そんな風に思っていた。
 大きくなって、それは勘違いだったと分かったけれど、スタジオのセットの椅子に座らせてもらって、その時の甘やかな憧れを思い出したのだった。
 だから振り向いた。スタジオ見学が終わりそうだ、という時に、なんだか名残惜しくなって、最後に見ておこうと思って、立ち止まってスタジオのセットの方を振り向いた。そして、また前を向いたら、周りにはだあれもいなかった。
 最初は置いていかれたのかと思った。瀬戸ミナミは優等生だったが、運動神経はよくなかった。歩くのが人より遅くて、自分でもそのつもりもなく遅れてしまうことがしばしばあった。
 けれども、スタジオの外に出てみて、なんだかおかしい、と気づいた。外には誰もいなかった。自分の班の子たちも、他の班の子たちも、テレビ局の人も、誰もいなかった。何かの間違いじゃないか、とスタジオの中をのぞいて見ると、今度はセットが違っていた。あの幼児番組のセットではなかった。
 ミナミはおそるおそる班員の子たちの名前を呼んだ。中村さん。松田くん。飯田くん。水谷くん。返事はない。何か影のようなものがサーッと動くのが見えた。
 その時点で瀬戸ミナミは泣きそうだったが、さらに心細いのは、しおりをどこかに落としてしまったことだった。スタジオの中にあるのかもしれなかったが、今更戻る勇気はなかった。瀬戸ミナミは少し迷って歩き出した。大丈夫、と持ち前の気丈さで、どうにか涙を押し込める。しおりは何度も読んだし、大事なことは確認したもの。ちゃんとあそこにたどり着ける。

 

 

「瀬戸さーん……」
 最上はそっと名前を呼びながらテレビ局の廊下を歩く。しおりの中の見取り図と、記憶のテレビ局、それに今歩いている場所を照らし合わせる。どうやら、建物の形が変わっていたり、何かが増えていたり、ということはなさそうだ。構造は完全に現実のテレビ局と同じだ。ただし、あちこちおかしい。
 案内板の文字は当然のように妙な文字に変わっていて読めなくなっていたし、自動販売機に売られている缶入りの飲料は、缶がぐにゃりと歪み、あるいは輪郭が溶けている。台本が落ちていたが、これも中身は読めない。影は相変わらずその辺をゆらゆら動いている。ベンチにはまるで誰かがちょっと中座したように、空の缶が置かれている。
 非常出口にいた人型の何かには今のところ出くわしていない。非常出口に出くわした時は、念のため中を確認するが、瀬戸ミナミはいないようだった。代わりにあの人型の何かがいた。中を確認してすぐに閉めるからか、今のところ、先ほどのように戸を叩いたりだとかの積極的な反応はない。それでも一応、非常出口を塞ぐようにしている。
 最上はしおりの見学順路を逆に辿っていた。もし瀬戸ミナミがスタジオにいないなら、まずは元の場所に戻ろうとするだろう。しおりには、「班の人とはぐれた場合には、集合場所に行きましょう。もし迷ってしまったら、テレビ局の人に集合場所を尋ねましょう。その時には、失礼のないように注意しましょう。」と書いてある。見学順路は、集合場所の玄関ロビーから出発して、ぐるっと一回りし、また同じ場所に戻るというものだった。新しい場所に行くよりは、来た道を戻るのではないか。一種の賭けではあるが、やみくもに探すよりは、可能性の高いところから見て行く方がいい、と最上は焦る自分に言い聞かせる。
 しおりの表紙をめくる。瀬戸ミナミのしおりは、たくさんの書き込みがしてあった。学校で説明会でもあったのだろう、持ち物や見学時の注意点には線が引かれている。しおりの後ろにはメモをとれるように罫線のページが二ページほど設けられているが、八割がた埋まっている。
 どんな子なんだろう。担任の村上もしっかりした子だ、と言っていた。霊視で見た彼女は小さく縮こまっていた。今も移動していないのなら、どこかにいるはずだ。
「瀬戸さーん。いますか。私は最上と言います。君を探しに来ました」
 最上はスタジオや倉庫を順番におそるおそるのぞきこみながら、瀬戸ミナミを探し続ける。

 

 

 瀬戸ミナミは震えていた。
 ここはおかしい。スタジオから離れて歩き始めた時から、もうおかしかった。本当は、へんだな、とずっと思っていたけれど、心のどこかがそれを認めるのを拒否していた。
でも、もう、ごまかせない。
 瀬戸ミナミはぎゅうっと身を縮こめる。ここはおかしい。位置をたしかめようと思って案内板を見たら、見たこともない文字が書かれてあった。スタジオの中も、機材をよく見たら、コードがぬめぬめとしていて、機械ではなくてなんだか生き物みたいだった。ドキ、ドキ、という音が聞こえたのは、自分の心臓だったのか、あるいはスタジオの中にいた機械ではない機械の立てた音だったのか。かすかに呼吸をするように動いていたのは、自分の錯覚だったのか。
 思い返すそばから自分の記憶に自信がなくなってくる。なんだか夢を見ているような気分だ。でも、あれは――ミナミはそこまで考えて、震えが大きくなるのを感じた。カタカタと小さく音がする。ぎゅっと身を引き寄せているから、服のボタンが擦れて音を立てているのだ。ダメだ。見つかってしまう。ミナミは恐慌状態になりながら、自分の身をさらに固く抱きしめ、身を縮こめた。隠れている場所からは外はあまりよく見えない。何かが来ても、近くに来るまではわからない。自分がうまく隠れられている自信もない。
 どうして、とミナミは思う。どうしてこんなことになったんだろう。自分は何か、悪いことをしたのだろうか。弟のことを時々たまらなく嫌いになって、死んじゃえ、と思う時があるからだろうか。それとも、お手伝いも勉強も、時々面倒臭くなってサボったりしているから? ミナミはいい子ね、とお父さんもお母さんも言うけれど、自分はそんなにいい子じゃない。それなのに、ごまかしていたからバチが当たったのだろうか。
 家族のことを考えると、途端にきゅうっと胸のあたりが縮こまるような気がした。帰れるのかしら。そんな考えが頭をよぎる。集合場所に辿りつければ解決すると思っていたけれど、本当にそうなのだろうか。ここはテレビ局だけれどテレビ局じゃない。そうだとしたら、どうやって帰ればいいの?
 今まで押し殺していた心細さが一気にミナミを襲った。誰もいない。どこかもわからない。ミナミは今、完全にひとりぼっちだった。涙が目からあふれ、しゃくりあげそうになるのを袖を噛んで必死に押し殺す。音を立てたら見つかってしまうかもしれない。
 ふと、押し殺した自分の嗚咽の向こうから、自分を呼ぶ声が聞こえた気がした。気のせいかもしれないけれど、と耳を澄ますと、やはり聞こえる。瀬戸さん、と呼んでいる。でも、誰だろう。村上先生ではない。男の人の声だ。隣のクラスの担任の相川先生とも違う。もっと若い。返事をしようと思ったが、罠かもしれないという考えが頭をかすめ、ミナミは身を硬くした。
「瀬戸さーん」
 声が近づく。ミナミのいる場所のすぐそばを通る。ミナミからは足しか見えない。男の人の足だ。少なくとも、人間の足に見える。
 ミナミは迷った。もし、罠だったら? 前に図書室でうっかり読んでしまった怖い昔話を思い出す。詳しい筋は忘れてしまったけれど、危険は去った、もう安心、と外へ飛び出した男を恐ろしい怨霊が食い殺してしまった、という結末だった。あれのように、自分を安心させる罠だったら。
「瀬戸さーん。いたら、返事をして下さい」
 ミナミを呼ぶ声はいかにも優しい。どこかで聞いたことがあるような気もする。でも、誰だかわからない。
「瀬戸さーん」
 がちゃ、とドアの開く音がする。中を探しているらしく、声がくぐもって聞こえる。しばらくごそごそと音がしていたが、やがてドアの閉まる音がする。
「瀬戸さーん」
 声が遠ざかっていく。
 どうしよう。
 誰なんだろう。
 罠、だったら。出て来た瞬間にあいつが立っていたら?
ふと弟の顔が思い浮かんだ。お姉ちゃん、と言ってミナミの手をぎゅっと握りしめる。弟の手はふやふやと温かくて、きゅっと握りしめると弟も握り返してくれる。ミナミはぎゅっと拳を握りしめ、意を決して 隠れ場所のソファの下から飛び出した。
「ここです!」
 廊下の奥に人影があった。ミナミはそれに手を振ろうとし、そして固まる。
 ミナミの見ている前で、人影の頭がぐうんと伸びて、天井にぶつかるとぱっかりと三つに割れた。

 

 

 女の子の悲鳴を聞いて最上はそれまで探索していたスタジオから飛び出した。
 飛び出してすぐ、立ちすくんでいる十歳くらいの少女を見つける。あの子が瀬戸ミナミか、と見当をつけ、最上はそちらへ走り寄る。
「瀬戸さん! 瀬戸ミナミさんだね?」
 最上が尋ねると、真っ青な顔をした少女が最上の方を見た。恐怖で焦点の合わない目をしている。全力疾走した後のように呼吸が速い。ヒュッ、ヒュッ、と小刻みに息を吸い込んでいる。最上は屈み込むと、少女に目線の高さを合わせ、両肩に手を置いた。ビクッと少女の肩が跳ねる。
「瀬戸さん。僕は最上と言います。君を探しに来たんです」
 最上が話しかけると、少女の目の焦点が最上に合う。最上は「深呼吸をして。私の真似をしてください」と話しかけ、すう、と息を吸い、少女の反応を見ながらゆっくり息を吐く。少女も最上に合わせて息を吸い、吐いた。相変わらず青い顔をしているが、呼吸は落ち着いて来た。
「あの……」
「はい」
「あれ……」
 少女が最上の背後を指差した。振り向くと、廊下の奥に人らしきものが立っている。人らしき、というのは、大きさも服をきているのも普通の人間と同じだが、頭の部分は花の茎のように三叉になっていて、天井まで伸びているからだ。それはまっすぐな姿勢で立って、ゆらゆらと軽く茎の部分を揺らしている。
「うーん……危害を加えるつもりはないみたいだけど、離れた方がいいかな。行きましょう。歩けますか」
 少女がこっくりと頷いた。足が軽く震えていたが、二歩三歩と歩くうちに震えが治まって来た。
「えっと、瀬戸さん、でいいんだよね」
 少女がまたこっくりと頷いた。はい、瀬戸ミナミです、と小さな声で付け加える。
「ああ、よかった。これ、落し物。君のですね」
 はい、と瀬戸ミナミがまたこっくりと頷いてしおりを受け取る。カバンを開け、折れないようにまっすぐにしてきちんと仕舞う。
 最上に並んで歩きながら、瀬戸ミナミはあの、と尋ねる。
「最上さんは、どこから来たんですか」
「君のいたスタジオからです。今から帰るからね。まずは出口を探さないと」
 最上は少女の歩調に合わせてゆっくりと歩く。まだショック状態から抜け切れていないらしく、顔は青ざめていたが、表情はしっかりとしている。廊下の奥の人影が見えない位置まで来て、ミナミはようやくはあ、と大きく息をついた。隣を歩く最上を不思議そうに見上げる。
「最上さんは、テレビの最上さん?」
「はい、最上啓示です。テレビでは霊能者と呼ばれているね」
「ここはどこなんですか」
「僕にもよくわからない。アチラ側、と呼んでいるけれど。人の住む世界に似ているけれど、人の住む場所じゃない。そういう場所みたいだね」
 ミナミはきょろきょろと周りを見回した。今や影もなく、案内板の文字がおかしい以外は完全に無人の廊下に見える。最上は歩く道々、ドアや廊下に並べられたセットの影をひょいと覗いている。
「何をしているんですか?」
「出口を探しているんです」
「出口はこの建物の出口じゃないんですか?」
「この世界の出口です。アチラ側からこちら側――僕らの世界に行くための。この辺にあるはずなんだけどな」
 最上はまるで置き忘れた眼鏡でも探しているような気安い調子であっちこっちのドアを開ける。ミナミは最上のスーツの袖をぎゅっと握った。
「どうしましたか?」
「最上さん……最上さんは、幽霊が見えるんですよね」
「そうですね」
「幽霊も、退治できる?」
「できます」
「じゃあ……化け物は?」
 化け物、と最上は尋ね返す。というよりは、口の中で呟いていた。小学四年生の語彙にしては聞きなれない。
「大きくて怖い化け物。退治できる?」
 ミナミの声が掠れて裏返る。目が大きく見開かれ、顔が青ざめている。最上のスーツを握る指は、力が入りすぎて真っ白になっている。
「瀬戸さん、君は何を見たんだ」
 あ、とミナミが喉の奥から小さく声を上げた。最上は振り返る。
 そこには化け物がいた。
 一見廊下の奥が暗くなっているように見える。けれどもそれは、そこに何かがいるからだった。廊下いっぱいに、いびつな形に膨らんだ何かが、ずるずると近づいて来ている。距離があるので詳細がわからないが、そちらの方が幸いだったかもしれない。廊下の空間を埋め尽くすその体からいくつもの人の手足が生えていることがシルエットからわかった。いくつかは関節の数や位置がおかしい。明らかに折れて中の骨が飛び出しているのもある。それが床をぺたぺたと踏み、壁や天井を突っ張って、壁に据え付けられた非常栓につっかえながら這い進んでくる。化け物、としか言いようがないものが、こっちに向かっている。最上はうなじのあたりがぞっとするのを感じた。
「走って!」
 最上は瀬戸ミナミの手を掴んで走り出す。後ろでびたびたと音がするのは、あれが動いているからだ。いくつも生えた手のひらで廊下を叩きながら這い進んでいる。最上は廊下を曲がり、狭い通路に入る。びたびたという音はそこにもついてきた。うそだろう、あの巨体でどうやって入って来ているんだ。瀬戸ミナミが恐怖に押されて振り返ろうとするのを「見るな!」と制止した。
「前を向いて走るんだ!」
 最上の目が廊下の隅の緑のランプを捉える。非常口、と書いてある。最上はつまづきながら走る瀬戸ミナミをほとんど引きずるようにしてそこに走り寄り、扉を開くと、少女を押し込んで自分も身を滑らせ、扉を閉めた。
 びたん、と扉が叩かれる。最上は扉を押さえる。びたん、びたん、と音がしたが、やがて聞こえなくなった。最上は気配が遠のくのを確認してから扉から手を離す。それから、振り返り、呼吸を整えながら前を睨みつける。瀬戸ミナミは最上のそばで完全に腰を抜かしていた。
 非常階段には、いくつもの人型の何かが並んでいた。大きさはまちまちで、手足も長すぎたり短すぎたりする。それらが、目鼻のない顔を一斉にこちらの方に向けている。
「瀬戸さん、立てますか」
 瀬戸ミナミは最上の差し出した手にすがり、立ち上がった。膝ががくがくと震えている。
「今から出口に行くからね」
と最上が言うと、声もなく何度も頷いた。が、最上が一歩階段の方に踏み出すと、手を引いて止めようとする。瀬戸さん、と呼ぶと、黙ってぶるぶると首を横に振った。度重なる怪異に怯えた心に、非常階段の人々はとどめを刺してしまったらしかった。
「瀬戸さん。ここを通れば出口があります。それは約束します。少し怖そうなものがいるけれど、気味が悪いだけで、あなたに危害を加えるつもりはありません。もし、そうなりそうなら僕が退治します。それも約束します。だから、歩いて、一緒に帰りましょう」
 瀬戸ミナミは目に涙をいっぱいに溜めて最上を見つめていたが、何かを決心したように立ち上がった。最上の手を握りしめながら、一歩ずつ歩き出す。膝が震えるのを懸命に押さえつけ、最上の腕にすがるようにして歩く。それをあの人型たちが顔を巡らせて追っている。
 人型を避けて非常階段を一歩ずつ降りる。いっぱいに壁に張り付いても、袖や肩が触れそうになることもあった。瀬戸ミナミは唇をぎゅっと引き結んでいた。最上は階段を降りるごとに瀬戸ミナミを振り返り、小さく頷いた。瀬戸ミナミも青い顔で頷き返す。一段一段、降りるごとに人型は減って行った。それがわかってか、瀬戸ミナミの足取りもしっかりしてきた。やがて人型の一つもない階段にたどり着いた。
「もうすぐだからね」
と声をかけ、最上はそっと上を向く。手すりから人型たちが乗り出し、顔を向けている。来るな、と最上はそれを押し返した。
 もう一階ぶん、階段を降りる。踊り場を折り返すと、瀬戸ミナミの足が止まった。
 踊り場の奥に何かがいる。人の形に似ているが、人ではない。藁人形を束ねたような姿をしている。頭頂部からは長い髪が生えていて、顔の部分には目と口の位置に切れ込みが入っている。
「大丈夫」
 最上は瀬戸ミナミの手をぎゅっと握った。それの視線から彼女を守るようにして、階段を降りる。瀬戸ミナミは最上のスーツの袖を握りしめて着いて来た。踊り場を通り過ぎ、さらに階段を降りる。下に着かないうちに喧騒が聞こえてきた。
「出口だ。よく頑張ったね」
 最上は非常出口の扉を開けて、瀬戸ミナミと一緒に外へ出る。そこは一階のロビーに近い廊下だった。ガラスをふんだんに使った玄関口から外の自然光を採光した明るいロビーは新進気鋭の建築家の作品で、局のシンボルでもある。三階まで吹き抜けになった広い空間を、スーツをかっちり着込んだ男とトレーナーに短パンのラフな格好の人間が行き交い、おそろいのネームタグをつけた見学者の集団がマスコットキャラクターのパネルの前で説明を受けている。あれどうなっただの、今度の企画の話だの、マスコットの由来だの、あっちこっちでてんで勝手に活発な会話が交わされている。
 瀬戸ミナミは後ろを見、最上を見上げる。
 それから、大声を上げて泣き始めた。

 

 

 実際のところ、最上が消えていたのは時間にして二十分ほどだった。アチラ側とこっちでは時間の進みが違う。今回は運がよかった。二人とも迷って戻った頃には何日、いや何年も経っている可能性もあった。
 瀬戸ミナミはあの後すぐに担任へと預けられた。社会見学をしていてはぐれ、見学コースとは別の場所に迷い込んでしまった、ということになっている。周囲にもそう説明しているし、瀬戸ミナミの中でもそういうことになっている。西原だけが首を傾げている。
 アチラ側へ行った人の多くは、そこで体験した出来事の大半を忘れる。あるいは、おぼろげにしか覚えていないか、こちら側の理屈で説明がつくように記憶を書き換える。瀬戸ミナミもそうだった。彼女はアチラ側での出来事を忘れ、テレビ局の、見学コースではない場所に迷い込んだと思っている。よかった、と最上は思う。あんなに怖がっていたのだ。覚えていない方がいい。
「最上さん、ありがとうございます」
 楽屋へ戻ろうとすると、瀬戸ミナミが走って来てぺこりと頭を下げた。目のふちがまだうっすら赤かったが、顔色はよく、恐怖の色は残っていない。どういたしまして、と最上もぺこりと頭を下げた。
 テレビ局の廊下を歩いていると、また正面からスタッフが走って来た。顔馴染みのスタッフだったが、様子がおかしい。必死の形相で駆けて来る。スタッフは最上に目を止めると、ぶんぶんと腕を振ってこっちへ来い、と合図する。
「最上さん、どこ行ってたんですか! 本番ですよ!」
「あっ……」
 しまった。もうそんな時間だったか、と最上は局の時計を確認する。
「す、すみません。ちょっと色々あって」
「もう、しょうがないな。早く来て! 走ってください!」
 スタッフは最上について来い、と合図をすると踵を返して走り出した。最上もそれを慌てて追いかけた。

     *

 なるほど、と最上は思う。最上がいるのは地下道だったが、人はおらず、不定形のアメーバのようなものがその辺を漂っている。案内板の文字はどの国の言葉でもない。
 死して後に世界を見ると、アチラ側とこちら側の境目などはないに等しかった。そこに立てば、薄い紙を二枚重ねて模様を透かすように、向こう側がそこにあるのが見える。見える、というよりただ分かる。そっちに行きたいのであればそこに足を踏み入れるだけでいい。紙の上にえんぴつで書いた文字がその下に重ねた紙に移らないのと同じように、肉体がある時にはその行き来は難しい。肉体を捨てた今は、その境目自体が意味を無くしていた。
 アチラ側はつねに同じ場所にあるわけではなかった。昨日地下道にあったかと思えば今日はもうない。かと思えば、新しいショッピング・ビルの中にあったりする。いや、それらが同じものであるかも怪しい。雨上がりにきのこが生えてはいつの間にか腐ってなくなっているのと同じで、それもある日突然できては消えてゆくものなのかもしれなかった。それが証拠に、アチラ側の中にいるものはいつも同じではなかった。
 ずれた世界。ペンで書いた文字を乾かないうちに触ってかすれてしまうように、何かのきっかけで世界にできた引っかき傷。そんな風に最上は思う。いずれにせよ、アチラ側はこちら側の模倣だ。地下道には食事のできる店が並んでいたが、不定形のアメーバたちは、その中で椅子や机の上でぶよぶよとうごめいている。
 最上が地下道を歩いていると、ふと視線を感じた。振り返ると、地下道の出口に続く階段があり、その下から一段目に、人のようなものが立っていた。生きた人間ではない。藁を束ねたような体に、顔にあたる部分には目と口の切れ込みが入っている。頭頂部には短い黒い髪の毛のようなものが生えている。切れ込みの目であるのに、最上はそれがこっちをまっすぐ見ているのを悟った。それは顔をまるで頷くように動かし、それから左に傾げる。口の部分の切れ込みが開く。
「おかえりなさい」
と、それは言った。