幻視
騒がしいので何かと思ったら、使用人たちが屋根裏に行くのは誰かで揉めているのだった。幽霊が出る、あんた行ってよ、と三人ほど寄り集まって主張しあっている。いずれも臨時雇いの者だった。マルファかグリゴーリイがいれば即座に辞めさせられただろう。屋根裏には先だって亡くなった母の遺品があった。
結局一番小柄な一人が屋根裏に登った。半べそになりながら、梯子をかけ、箱を持って登り、手ぶらで降りてくる。イワンはそれを物陰からじっと見ている。誰もいなくなってから、さっき見た通りの手順で梯子をかけて屋根裏に登る。梯子を持ち上げようとしたがうまくいかなかったのでそのままにする。梯子がかけられているのを見ても、自分がいるとはすぐにわかるまい。それに、自分の家なのだから、屋根裏だってどこだっていてもいいはずだ。
イワンはそんな理屈をつけながら屋根裏部屋を見渡した。埃っぽくて薄暗い。雑多に置かれた調度品や行李の類には色褪せた布がかけられている。さっき登った使用人の足跡が床の上の埃に残っている。箱は無造作に床に置かれていた。イワンは手近なところから布を一つずつめくり、母の遺品の入った長櫃を探す。一番新しいからすぐわかる。思った通り、ほどなくして蓋に花の彫刻の入った長櫃が布の下から現れた。葬儀の前に見た、母のために作られた箱だった。蓋を持ち上げようとしたが、鍵がかかっていた。
イワンはめくった布の中に入り、長櫃の上に横たわった。蓋に施された花からは真新しい木の匂いがした。この中に、母のドレスと、アクセサリーと、寝具や気に入りの膝掛けなんかが入っている。聖書は母と一緒に棺に入れて埋葬した。屋根裏も、箱も、思ったよりも暖かい。花の彫刻に頬をくっつけて、耳の奥に流れる雑音を聞いていると、いつの間にかうとうとしていた。
ふと目を覚ますと、屋根裏部屋はずいぶん暗くなっている。早く戻らなくちゃ、と体を起こしかけて、誰かが傍に座っているのに気づいた。イワンに背を向けて、長櫃に腰掛けている。使用人にしては馴れ馴れしい距離感だ。布ごしだから誰かわからない。薄暗い中で、ぼんやりと浮かび上がるシルエットは女のものだった。
女がゆっくりと振り向いた。顔は見えなかったが、ほっそりとした、柔らかな輪郭をしている。髪はうなじの少し上に、こじんまりとまとめている。女は手を伸ばし、イワンの頭を撫でる。骨張った熱い手だった。熱が出ている時のような、乾いた、内にこもる熱さだった。
「お母さん……?」
誰かの呼ぶ声で目を覚ました。イワンは起き上がり、布を剥ぎ取る。屋根裏部屋は埃くさく薄暗く、かびの臭いがして、自分以外の誰もいない。「ああ! ここでしたか」ひょっこり屋根裏の床からグリゴーリイが顔を覗かせる。「何か、持って行かれますか」グリゴーリイが母の遺品に目を向けながら言った。何も、とイワンは答えた。
ドミートリイ・カラマーゾフの水霊退治
我が友、ドミートリイ・カラマーゾフ君は中学の頃から勇猛果敢で鳴らした—— 好意的に言えば。悪く言えば無鉄砲、乱暴者、考えるより先に手が出る。私だって彼とは何度もやり合ったものさ。だが何とも気持ちのいい男でね、君とは金輪際一切関わり合いにならない、と断固たる口調で宣言した翌日には、あれは自分が悪かった、君の友情がないなんて生きている意味がないと泣いて謝りに来るような男だった。一番一緒に悪さしたのも彼だったな。いや、中学生がやるようないたずらや度胸試しだよ、可愛いものさ、あなたの耳に入れられるものじゃない。
そんなドミートリイ君だが、ある日びしょ濡れになって教室に入って来たことがあってね。僕らはびっくり、先生はカンカン。おまけに遅刻だったもんだから、その日一日こってりしぼられて、書き取りだかなんだかをやらされてたな。僕らはドミートリイ君が毛布にくるまって懲罰部屋で机に向かっているのをくすくす笑いながら見物しに行ったもんさ。しかし、なんでまたそんなことになったんだろう? 彼に尋ねると、こう答えた。
「ああ、T—— ! よく聞いてくれた、ここへ来る途中に池があるだろう、落ち葉がいっぱいに浮いてる小さな池がさ! そこで子供が溺れてたんだよ、小さな子供だよ、君の末の弟より小さい子だ。しかも変なんだ、溺れているというよりは何かに引っ張られているような感じで、ひょこひょこ顔が沈むんだ。こりゃおかしいぞと飛び込んだんだ。靴と上着は脱いだよ! 俺だってそんなに無鉄砲じゃないからな。靴と上着は水を吸うと重くなるもの。
そう、それで、俺は子供のところに泳いで行ったんだ。近くまで行って、子供を捕まえる前に一旦潜って足元を見たんだ。そうしたら—— 君は信じるかしら? 笑わない? 黒い影、ううん、よくわからないんだ。あそこの池はさっきも言った通り落ち葉がいっぱい落ちていて暗いし、水の中も濁っていてよく見えなかった。何か黒い影—— そんなに大きくなかったな。そいつが子供の足を引っ張ってるんだ! 俺は夢中で殴りつけた。一発、二発、三発! それでそいつは逃げてった。
子供は近所のおかみさんに預けたよ。わんわん泣いてたけど、大丈夫だろう、あったかくして、風邪をひきさえしなきゃ。なあ、T—— 、君は信じる? 信じてくれるかい? あれは何だったんだろう。まさか、ヴォジャノーイだろうか? それともカワウソだろうか。木切れか何かを見間違えたのかな? どう思う、T—— 」
ドミートリイ君は話すうちに自信がなくなって来たらしく、だんだん夢見るような口調になっていた。だが私は、今なら言える、彼が退治したのはヴォジャノーイ—— 水の精だ。この啓蒙のご時世に妖怪や魑魅魍魎の類とは、とあなたは笑うだろうね。だが、そういうことだって彼なら不思議じゃない。彼ならありうる、と思うんだ。
……もちろん、ドミートリイ君が父親殺しで有罪になった、というのは、大変残念だ。彼は一途なところがあるからね、一途だが頑固だから—— いや、よそう。とにかく、ドミートリイ君がどこにいようが、私がかつて感じた友情は一切変わらない、とここに宣言する。断固たる意志でね。
見てはいけない
アレクセイ・カラマーゾフはおとなしい子供で、積み木を与えられれば一日中四角や三角の木を積んだり崩したりして遊び、画用紙を与えられればお茶に呼ばれるまで床に腹這いになって四つ足や二本足の何かを描いているような子供だったが、時折ぶつぶつ独り言を言ったり、突然部屋の隅を指さしてきゃっきゃと笑いだしたりする。
三つ上の兄イワン・カラマーゾフの観察によると、どうも右隣の虚空に向かって話しかけているらしかった。「アリョーシャ」と兄イワンは画用紙に向かって懸命に何か描き殴る弟に尋ねる。
「誰とお話ししているの?」
「おともだち」
とアレクセイ・カラマーゾフは、画用紙から顔を上げ、にっこり笑って答える。
実のところ、アレクセイ・フョードロヴィチの「友達」は使用人連中の間でも有名だった。普通の子供なら気味悪がられるところ、彼に関してはなぜか皆受け入れて、「アレクセイ坊ちゃん、今日もいつものお友達とご一緒で?」などと話しかける。お茶の時間におやつを二人分用意してやることすらあった。アレクセイ・フョードロヴィチの、大人しく明るい瞳や、まん丸な頬をもっとまん丸にして笑う様子は、不気味なはずの「お友達」を、幼い子供のたわいない空想に変えて、周囲の大人たちを微笑ませた。
けれども、兄だけは違った。
「アリョーシャ」
イワンは弟の顔を両手で包みこみ、額が触れんばかりに顔を近づけ目の中を覗き込んだ。
「それは見てはいけないよ」
弟はきょとんと兄の瞳を見返す。その端にも、彼の友人が映り込んでいる。
「神様はそれをお認めにならない。それはそこには存在しない」
と兄は言う。弟は右隣に視線をやりかけ、兄の厳しい瞳に出会って断念する。イワンは一つ、納得したように頷いて弟から体を離し、何事もなかったかのように言った。
「お前ももう六つになるんだから、空想上の友達なんぞ卒業しなければいけないよ」
いいかい、と弟の頭を撫でると、床に落ちていた画用紙を拾い上げた。弟は頷き、右隣にちらっと目を走らせはしたが、それっきり見ようとしなかった。
「手を出して」
兄は画用紙を折って脇に挟むと、ハンカチを出して弟の木炭で黒く汚れた手を拭いてやった。
その後、イワン・フョードロヴィチは、使用人たちに対して、子供のたわいない遊びとは言え、ありもしない妄想を肯定するようなことは、弟の心身に深刻かつ重大な影響を与え健全な成長を妨げかねない、と言って(実際、イワン・フョードロヴィチは、こういう子供らしからぬ言い回しを使ったらしい)アレクセイ・フョードロヴィチの「おともだち」遊びに付き合うことを厳重に禁じた。のみならず、寄寓先の一家に対しても、弟の「おともだち」遊びに付き合わないように、と丁寧だが断固たる口調でお願いをしに行った。大人しく、勉強道具以外はほとんど要求らしい要求もしないイワン・カラマーゾフのお願いはすぐさま聞き入れられたし、何と弟思いの兄であろうと感心されもした。
ところで、その頃彼らの暮らしていたお屋敷にはこんな話が伝わっている。とある使用人の子が、二階から足を滑らせて死んでしまった。たまたま落ちたところに石があって、頭がぱっくり割れたと言う。不運な子供は坊ちゃん方に無理を言われて屋根にかかった小鳥の巣を盗みに行ったとも聞くが、定かではない。
まあ、何しろ全部ただの噂、根拠のない風聞、戯言にすぎない。それで、イワン・カラマーゾフは弟の描いた絵をこっそり焼却炉に突っ込む。単純な線で描かれた人間らしきものが二体、うち一体は頭の左側にぱっくり亀裂が入っているように見えるのを、引き裂いて、丸めて、焼却炉に積まれた落ち葉の中に入念に隠す。
ぶらんこ
ブランコは坊ちゃん方のためにグリゴーリイが作ったものだったが、彼らはもうここにはいない。彼らの母親の親戚だというご婦人が、坊ちゃん方を連れて行ってしまった。スメルジャコフはブランコにちょこなんと座り、足をぶらぶらと揺らす。ブランコは前後に揺れることなく、その場でもがくように動くばかりで、まったく不恰好だ。
ブランコに乗りながら振り返ると、風呂小屋が見える。母親が自分を産み落とした場所だった。体の小さかったスメルジャーシチャヤは、自分を産んだ時に血が出過ぎて死んでしまった。それでグリゴーリイとマルファが彼を引き取った。母親の父、つまり自分の祖父にあたる人物は呑んだくれのろくでなしだ。自分が生まれる前に死んだらしいが、そうでなければ金をせびりに来ただろう。
父親は分からない。この家の主人のフョードルだとも脱獄囚だとも言われている。「どっちも同じだ」と養父は言う。
「みなしごはみんな神様の子供だからな」
だったらなぜ、町の人たちは、ろくでなしと癲狂病みの系譜をひっかぶせながら自分を見るのだろう?
神に祈るのは嫌いだった。ついた膝が痛くて冷たいから。養父は自分に祈る言葉を教えた。養母は自分の幸せを神に祈ってくれた。お前は言葉が出るのが早かった、と養母は言った。お前はきっと賢い。お祈りの言葉もすぐに覚えた、と。ただ教えられたことをその通りに繰り返しただけだ。お祈りの言葉は難しくて何を言っているのかわからない。長じれば意味はわかったけれど、それだけだった。
ブランコは相変わらず動かない。「パーシャ!」と、いつかのイワンが自分を呼ぶ。
「お前も乗れよ!」
イワンはブランコに自分を乗せる。さっきまでブランコでさんざん遊んでいたアレクセイは、目を回して木の根元にへたり込んでいる。ブランコに座ってぼんやりしていると、イワンが背中を押す。
「何してるんだ、漕ぐんだよ! 僕の動きに合わせて、足を動かせ! 違う、伸ばして!」
ブランコは最初、罠にかかった小鳥そっくりに前後左右に不恰好に揺れた。イワンの背中を押す力がどんどん強くなるから咳き込みそうになる。ブランコはなおももがいていたが、そのうち諦めたように、前後に弧を描き始める。「いいぞ!」とイワンが手を叩いて笑う声が、風呂小屋のある背中側から聞こえる。
ブランコの弧はどんどん大きくなる。イワンの手も、いつのまにか背中からなくなっている。降りたかったが、止め方が分からない。イワンは笑うばかりで止めてくれない。意を決して飛び降りるとシダの茂みに突っ込んだ。イワンが何事かを叫び、こっちに駆け寄ってくる。手のひらと膝を擦りむいている。ズボンも破れてしまった。召使小屋に帰ると、仕事をさぼったのと服を破いたのとでどやされた。
その日のお祈りは、膝を擦りむいたものだからいつもの倍、膝が痛かった。だのに何故か笑いそうになって、俯いて組んだ手を口に当てていた。
一人のブランコは、相変わらず不恰好にもがくばかりで弧を描かない。スメルジャコフは枝を見上げる。大きく張り出した木の枝に縄が食い込み、苔が剥げている。
その時、ぱちんと頭の中で光が爆ぜた。スメルジャコフはその場で弓形に体を反らせる。ブランコから落ちて地面に頭をぶつける寸前、木の枝にブランコ以外のものがぶら下がっているのを見る。男か。女か。人が手足を突っ張って、ぶら下がって揺れている。俯いた顔の濁った目が自分を見下ろす。
この町は自殺者が多いという。先週も誰か木にぶら下がっていたっけ。ちらっと頭に浮かんだ言葉も全て光が飲み込んでいく。