最上少年の事件簿

「最上、お前今日が誕生日なのか?」
と尋ねた瞬間田添は後悔した。去年担任を持っていた生徒である。当然、誕生日だって知っている。ただ忘れていたのだ。生まれたのがいつかなんて、成績などに比べて重要な情報ではない。が、本人にとってもそうとは限らない。
 しかし最上は、田添の胸の内を知ってか知らずか、いつも通りの平板な顔で隣を歩きながら、はい、と頷いた。
「早いんだったな。誕生日」
と田添は焦りを隠すように言った。「そうですかね」と最上は首を傾げる。本当にぴんと来ていないらしく、のほほんとした顔だ。その顔が急に曇る。
「あ、お腹空いてますか? ちょっと学校から遠いし……あの、さっきもらったあんぱん」
「いらんいらんいらん。違う!」
 最上がカバンからあんぱんを出そうとしているのを慌てて止める。
「そうですか?」
「いい。腹は減ってない。第一それは友達からもらったんだろ。大事にしろ」
 そうですか、でも我慢できなくなったら言ってくださいね、と言いながら最上はあからさまに嬉しそうな顔になった。あんぱんはさっき校門を出たところで同級生らしき生徒が寄越したものだ。その時の、よお17歳、という野次で、今日が彼の誕生日だったのを知ったのだった。17歳。その頃の自分はいつでも腹を空かせていた。こいつも育ち盛りだったな、と思う。
「今日は帰りに何かご馳走してやろうか。と言ってもそばくらいしか知らんが」
「いえ……今日はお母さんがちらし寿司を作ってくれるので」
 最上がそこで、初めてはにかんだような微笑みを浮かべた。
 そうか、と田添は思う。確か最上家は母一人子一人だった。グレたりひねたりするのも珍しくない年頃なのに、最上はこの歳にしてはびっくりするくらい素直だ。母親は若いがしっかりした人で、よく笑い、よく話す。あの明るい笑いがこの生徒を育てたのだ、と思うと田添は何だかたまらない気持ちになった。
「それなら早く帰れ。あとは俺一人で十分だから……」
「だめです」
 最上が途端に真顔になって断言した。きた。田添は内心顔をしかめる。
「先生では無理です。僕がいた方がいいと思います」
「でもなあ」
「大丈夫ですよ。すぐ終わらせてすぐ帰ればいいんですから」
 最上はきっぱりと言い切った。こうなったらテコでも動かない。
「でもなあ……」
 田添は口の中でもごもご言う。最上は、またあの平板な表情でじっと田添を見つめている。夕暮れ時の静かな住宅街には猫一匹通らない。間が持たなくて、つい「いないだろ。何も」と言ってしまう。
「それを確かめに行くんじゃないですか」
「確かめに行くも何も。一般的な現象だぞ」
 ひだる神、と言う。
 山道を歩いていると、急に力が抜けて動けなくなってしまう。それは「ひだる神」という妖怪に取り憑かれたのだと言われている。が、
「低血糖の症状だ」
「知ってますよ。さっき教えてくれたじゃないですか」
「お前にじゃないがな」
 放課後、田添のいる理科室にはしばしば奇妙な依頼が持ち込まれる。旧校舎から不気味な声がする、とか、どこそこの教室の決まった席に座ると頭痛がする、とか。この学校は赴任した時からその手の噂が絶えず、田添は妙な噂が流行するたび科学的な説明を加え、時には実験までしてそれらがただの自然現象であることを——オカルトでも何でもないことを証明した。理科教師のプライドというのもあるが、不可解なものも無闇な恐れもそれに漬け込む連中も大嫌いなのだ。
 だがその結果、「不思議なことが起こったら田添先生が解決してくれる」という評判が立つことになり、職員室の田添の席はにわかにオカルト相談室と化した。彼のオカルト嫌いを知っている同僚たちがニヤニヤするので、理科室に引っ込まざるを得なかった。不名誉だ。誠に不名誉だ。
 極め付けは、この最上啓示という生徒だった。彼は中学の頃から、あるいはその前から「霊感少年」として有名だった。去年その噂を聞いた時には、人を怖がらせて耳目を集めようとする目立ちたがり屋だと思っていたが、予想とは全く逆の地味でおとなしい生徒だった。彼が吹聴しているのではない。周囲が放っておかないのだ。何かおかしなことがあったら最上君に相談すればいい、という評判は入学してほどなく学校中を駆け巡った。最上と田添の道が交わるのは時間の問題だった。
 今では、なぜか名コンビのように扱われている。田添だけが入り浸っていた理科室には、いつの間にか最上も出入りするようになった。それもしばしば「依頼人」を伴って。
今日最上が連れて来たのは、一学年上の三年生だった。裏の公園を歩いていると、体がずーんと重くなり、動けなくなった。何か悪いものに憑かれたのではないか。そういえば肩も重い。どうしよう、と泣きそうになるその生徒に、最上が言ったのは「さあ」の一言だった。
「え?」
「わかりません。その現場を見ていないので。だけど今あなたには何も憑いていませんよ。ただの肩こりでは」
 ぽかんとする生徒につらつらと言う最上を慌てて止め、「俺たちで確かめてくるから! 今日はもう帰りなさい。家でゆっくりするんだよ」と言い、念のため、低血糖でそういう症状になることもある、と説明したのだった。生徒はややぽかんとしたまま帰って行った。
 最上は、なんというか、素直すぎるのだ。思ったことをストレートに口に出す。きついことは言わないものの、相手の気持ちとか心の準備なんかを考慮せずにずけずけ物を言ってしまう。相談に来た生徒を泣かせてしまったのも一度や二度ではない。最上は動揺するし向こうは泣くか怒るかでなだめるのが大変だし、間に挟まれたり騒ぎを聞きつけた主任に怒られたり散々だった。今はそうなる前に止めるようにしている。
 でも、まだ17歳だもんなあ、と、横を歩く少年を盗み見る。あんぱんが嬉しくてお母さんのちらし寿司を楽しみにしている子供だ。おっとりして優しい性格なのは去年一年でよく知っているし、いずれ本人も分かっていくだろう。
 と、最上が足を止めた。静かな住宅街のどん詰まり、少し先に例の公園がある。元々あった公共の施設を壊して空き地にしたと言う。木が少ない割に暗いように見えるのは気のせいだろうか。田添は、気付きたくないものから目を逸らしている自分を自覚する。ここは静かすぎる。この時間帯なら、ねぐらへ帰る鳥が囀っていてもおかしくないのに、何の鳴き声もしない。「ああ、先生」と最上が言った。
「やっぱり正解でしたね。僕と一緒に来たのは」

 

 

 その後のことはよくわからなかった。
 先生はここにいてください、と言われて、公園の入り口で待っていた。危ないことはしないように、と注意すると、はあいと気の抜けた返事をして最上は公園に入っていった。それからは別段これといって特別なこともない。最上が公園をぐるっと一周した。ところどころで立ち止まって、木の幹を叩いたり、地面に何か書いたり、また木の幹を叩いたりしていた。一周するころには、さっきの嫌な感じがなくなっていた。
「終わりました」
 最上が言った。田添は、自分が息を詰めていたのに気づいて慌てて何でもない顔をする。これではここに何かがいると言っているようなものではないか! 気のせいだ、気のせい。何か嫌な感じのする場所というのは確かにある。古くて見通しが悪いとか、空気が澱んでいるとか。そういう場所は往々にして事故の種があるものだし、犯罪が起こりやすい場所でもある。空気が澱んでいれば何かしら体に良くないものもあるだろう。
「あ。鳥だ」
 いつの間にか、けたたましい鳴き声を立てて鳥が集まってきた。さっきまで小鳥の声一つしなかったのに。田添は公園を見る。何の変哲もない公園だ。木は多いが遊具は少なめで、おそらく走ったりできる広場を多めにとっている。さっきまで妙に暗く見えたのは、たぶん……一時的に空が曇っていたのだろう。そうに決まっている。だが、確かに、最上が「終わりました」と言った後は、嫌な感じが薄れている、というのも事実だった。それは経験上否定できない。
 田添の心中を知ってか知らずか、最上は呑気に鳥を見上げている。
「ムクドリだ。でしたっけ?」
 最上が振り向いて笑った。ああそうか。去年、授業でそういう話もしたっけ。
「残念。ありゃヒヨドリだ」
「ありゃ。でも先生、化学専門じゃなかったでしたっけ?」
「教師舐めんな。そんくらい見分けがつくよ」
「そっかあ」
 最上が言った瞬間、ぐうと腹が鳴る。
「腹、減ってんのか」
「えっと、へへ……。ちょっと今日は疲れました。あの、やっぱおそば、食べたいです」
「任せとけ。ちょうどこの近所だ」
 そば屋に入ると、最上はさっそく天ぷらそばを注文し、あっという間に平らげた。まだ物足りない顔をしているので、何か追加したらどうだと言うと、いなり寿司を頼み、これまたあっという間に食べた。月見そばで手一杯の田添を尻目に、まるで飲むがごとき食欲である。その上彼にとってはこんなもの、おやつくらいにしかならない。帰ったら母親のちらし寿司を食べ、食後のおやつにさっきのあんぱんまで食べる。十代の食欲とはそういうものだ。
 田添が十代の頃は、いつも腹を空かせていた。せっかく中学校に進んだのに、勤労動員とかで授業はなく、軍需工場で一日中働いた。大学生の兄は文科だったから徴兵され、戦争が終わっても帰らなかった。敗戦後もなかなか食糧が手に入らず、兄を悼む余裕もなかった。
 いっぱしの軍国少年だった自分は、いつか自分もお国のために勇壮に戦って死ぬんだと信じて疑わなかった。学校にいる間、地震でぐらっと来たときは、お国のために一人でも多くの敵を殺して死ぬはずだのに、こんなところで死んでしまっては死んでも死に切れないと悔し涙を滲ませた。自分たちは優れた民族で、蒙を啓かれぬ他の民族を教え導く義務があり、敵は非道で滅びるべきだ、なんて、今振り返ればどうしてそれを正しいと信じていたのかと思う。ろくな戦争じゃなかったし、国のために殺したがり、死にたがるように子供に教える国はろくな国じゃない。だが、今もどこかにぽっかりと穴がある。何か大きなもののために生きるのだということは、それが死ぬことと同義だとしても、飢えや不満に意義を与える。こう言ってよければ気分が良かった。それは間違いだと知った今でも、そうやって生きてきたということまでは否定できない。だが拠り所には決してできない。だから穴がある。
 だが、今腹一杯(半分くらいかもしれないが)食べてニコニコしている最上を見ていると、それでいいじゃないかと思う。穴は穴で抱えて生きていけばいい。満たそうとする必要はない。それくらいがちょうどいいのかもしれない。それくらいの違和感があった方が、間違いは間違いだったといつでも確かめることができる。そうでもしなければ、人間というのは忘れっぽい生き物だから。
「ごちそうさまでした」
 会計を済ませて出ると、最上がぺこりと頭を下げた。そのまま連れ立って歩く。
「お粗末さまでした。ま、今日も解決ご苦労さん」
と言うと、最上は何だか考え込んだ表情をした。
「どうした? 何か気になるのか?」
「解決……したのかな、と思って」
「何だ? さっき終わったって言ってたじゃないか。お前の分野じゃなかったってことか?」
「いえ……」
 最上はちょっと黙って、口を開いた。
「あそこにあったのは鳥よけの呪いでした。結構年季が入ってましたね。あ、先生信じてませんね」
「気にするな」
 オカルトを聞くと反射的に口がへの字に曲がってしまう。最上はくすりと笑って先を続けた。
「元々地形自体があまり良くないです。嫌なものが溜まりやすい。住宅地にするために、色々と無理に土地をならしたりしたようです。その怨念も染み付いている。元の呪い自体は大きなものではありませんでしたが、土地と合わさって、ただの呪いが過剰な力を持ってしまった。それは珍しいことではないんですが……」
 最上はちょっと後ろを振り返る。もう見えないが、公園の方角だ。
「大きな木があるから鳥がねぐらにする。だけどそうなるとうるさいし、糞を落として行くこともある。鳥よけはそのせいでしょう。だから、元に戻ったらまた同じことになるのか……あるいは」
「あるいは?」
「木が切られちゃうのかな」
 最上はさびしげに言った。
「でも……しょうがないんじゃないか? 生活に支障が出てしまうなら。木なら山のほうにいけばいっぱいあるんだし、今までもどっかで暮らしてたんだろ?」
「でも、あの辺りにはもうあの公園にしか大きい木はないんです。群れみんなで住めるような木は。切れば鳥は来なくなって、静かになるでしょう。でも……」
 最上は憂わしげに言った。そうか、と田添は思う。最上はまだ十代の学生だ。でも、だからと言って、何も考えていないわけでも何も知らないわけでもない。視野は狭いかもしれないが、その分純粋で、遠くを見通すことだってある。むしろ大人の方が、生活にかまけて目先のことばかり考えてしまうのかもしれない。
「そっか」
「先生?」
「大人として言わせてもらえば、すぐどうこうするってわけでもないだろう。木を切るにも手続きってもんがあるし。ただ十年先がどうなるか俺にもわからん。だから……」
 田添は最上を見て、にっと笑った。
「適度に気にして考えろ」
「何ですか、それ」
 最上はぷっと噴き出した。
「何も考えないのはよくない。解決にならん。だが、気にしすぎるのもよくないぞ。眠れなくなる。睡眠は大事だ! 睡眠不足だとバカになる。しっかり寝て、しっかり考えるんだ。そうすることが未来につながる。……どうだ、教師っぽい説教だろ」
 最上は頷いた。最後の照れ隠しにではなく、田添の言葉に。
「はい。あ、僕はこっちです。先生、今日はごちそうさまでした」
「おう。親御さんにもよろしく伝えてくれ」
「はーい」
 最上はまたぺこっと頭を下げて、スタスタ歩き去った。誕生日おめでとう、と、田添はその背中に向けて小さく呟いた。
「ま、ちょっと調べてみるかあ」
 オリンピックの次は万博だ。開発の波は止まらず、町も道路もどんどん整備されていく。今度はそういう時代になる。だがその時、鳥たちはどうなる? 最上にああ言った手前、自分が怠けるわけにはいかない。最上が十年先のことを考えるなら、自分は今だ。今やれることはやる。それが大人というものだ。
「でもその前に、一眠りだな」
 田添は大きなあくびをした。仕事は山積みで、明日も何かトラブルが起こる。仕事を片づけ、生徒と学び、保護者に頭を下げ、主任に頭を下げ、管理職に頭を下げているうちに一日が終わる。今日が明日でも同じような、終わりのない積み重ねの先に、ほんのちょっとだけ、何かが動いたような手応えがある。だが人生とはそういうものだ。そうやって生きていくことを選んだ。
 だから、眠って、明日も頑張ろう。