スタヴローギンに話すなよ

「ヴェルホーヴェンスキー、次は何をやるんだ?」
 授業が終わり、寮に向かっていると同級生がこっそり近づいてそう囁いた。たしか名前はヴィルギンスキーとか何とか。ピョートルは肩を小さくすくめる。
「さてね。ま、しばらくは大人しくしていよう。あんまり矢継ぎ早にやると効果が薄いし、何より馬鹿みたいだぜ」
 面白くなさそうな顔をした同級生を見て、ピョートルは頭の中のリストの彼の名前に取り消し線を入れた。こいつは騒ぎを起こしたいだけの阿呆だ。自分はもっと大きなことをしたいのだ。集団カンニングや禁書の読書会はその小手調べにすぎない。
 十六歳のピョートルにとって、学校は退屈だったが実験場としてはおあつらえ向きの場所だった。ここには道を見失った子羊がうようよしている。この子羊たちは、首を北に向けてやれば北に、西に向けてやれば西に走っていくような連中だったが、自分自身としては多少なりとも目端のきく、賢い人間だと思いこんでいた。そういう人間に大義名分を与えてやれば、まるで自分が思いついたかのような顔をして秩序への反抗を口にする。市民的不服従とか破壊的創造行為とか、それらしい単語でくるんでやれば、犯罪行為にまで手を染める彼らを、ピョートルはしかし軽蔑はしなかった。ただ手駒として軽視していた。同じように、少しいい顔をしていれば簡単に自分を信用する教師のことも軽視していた。ピョートルは、彼らを操って、目をつけた教師や上級生を何人か辞職や退学に追い込んでいた。気に入らなかったのではない。彼らには何の思い入れもない。自分が張った網の目に、これなら自分の思い通りの展開になるだろうという人間が引っかかったので、本当に思い通りになるかどうか試したらその通りになった。それだけだった。
 しかしそろそろ活動を抑えなければ本当に目をつけられる。もちろんやめるつもりはない。卒業までに下地を整えておくのだ。自分が卒業してから爆発するような、特別なのを。そのために必要なのは、ヴィルギンスキーのような単純な馬鹿ではない。彼は手駒として優秀だったが、特別ではない。
 特別というのはああいうのを言うのだ。
 ピョートルは先を歩く少年の背中を盗み見る。背の高い、体格に恵まれた少年だったが、人というよりは大きな人形みたいな異質な感じがした。あまりに整いすぎ、あまりに姿勢が良すぎる。同年代の子供たちもその異質さを感じ取っているのか、彼の周りには人がおらず、丸く空間ができていた。まるでそこだけ見えない磁場があって、周りにあるものを弾いているようだった。
「おい、スタヴローギンはやめておけよ」
「どういう意味だ?」
「あいつは……やばいんだよ」
 ピョートルは返事をせずヴィルギンスキーの顔を眺めた。それをどう取ったのか、彼は「あいつは本当にまずい。何をするか分からないんだよ。お前も知ってるだろ、ガガーノフ先生の鼻先を掴んで引きずりまわしたの……上級生にだって喧嘩をふっかけて決闘するようなやつなんだぜ。しかも相手を再起不能にしちゃったんだから……。まだ退学になってないのは親が有力者だからだ。先生たちにも目をつけられてる」と言い募った。
「それを僕が知らないとでも?」
「いや、そんな……そんなはずはないって分かってるよ、君は当然知っているだろう……これはただの確認だよ」
「なら確認は終わったということでいいかな? ああヴィルギンスキー君、何かやろうと思えばリスクはつきものだ。それが既存の秩序の破壊ともなれば尚更だ。だろう?」
 なおも不安そうな同級生に辟易して、ピョートルは早足で彼から離れた。なんてつまらないやつなんだろう! それに引き換え、とピョートルは前を歩く背中に追いついた。恵まれた体躯、美しい横顔。青白く鼻筋の通った鼻先がまっすぐ前を向いている。それに引き込まれるように、ピョートルは「ねえ」と声をかけていた。声をかけてから自分で自分い驚いた。スタヴローギンに声をかけるのは、もう少し先の計画だったのに。
「君、同級生だろう。だけど一度もしゃべったことはなかったなと思って。僕はヴェルホーヴェンスキーだ、ピョートル・ステパノヴィチ。君は?」
 スタヴローギンはガラスをはめたような目を動かしてピョートルを見た。顔全体にどこか煩わしそうな、神経質な震えが走った。
「どうせ知っているだろ」
「君は有名だからってことかい? でも僕は君と近づきになりたいんだよ。だから君の口から君の名前を聞きたいんだ……わかる?」
 ピョートルは言いながら、自分の心が高揚していくのを感じた。彼に声をかけて正解だ。彼が口を開いた瞬間、周りにピリッと静電気が走ったような緊張した空気が流れた。彼は恐れられている。異質で、避けられていて、それでいて目が離せない。彼を手中に収められれば一体何ができるだろう? きっとどんなことだってできるだろう。
 スタヴローギンは少し目をみはった。どうやら驚いたらしかった。それから目を伏せ、また上げる。
「スタヴローギン。ニコライ・フセヴォロドヴィチ」
「よろしく、スタヴローギン!」
 ピョートルはほとんど有頂天になって言った。握手さえ求めた。彼にとっては予想外の心の動きだったが、この時はそれに身を委ねるのが心地よいような気がした。
 スタヴローギンは、気難しげな顔でピョートルの差し出した手を見ていたが、彼の手を握りかえした。ピョートルはにっこり笑い――その顔が次の瞬間歪む。
 悲鳴を上げたピョートルを、何事かと周囲の子供達が振り返った。
「はは! よろしくな、ヴェルホーヴェンスキー!」
 スタヴローギンは握りつぶさんばかりにしていたピョートルの手を離し、スタスタと寮の方へ歩いていった。
「おい、大丈夫か?」
 まとわりつくヴィルギンスキーに上の空で返事をしながら、ピョートルはスタヴローギンの背中を貪るように見つめていた。とにかく彼はよろしくと言ったのだ。自分によろしくと! 手の血管が脈打ち、ずきずきと痛んだ。ピョートルは、両の手のひらをこすり合わせて自分の口を覆い、ふうっと息を吹きかけた。