すさまじい雨の音で目が覚める。洗濯物、と飛び起きて、雨の予報を見て夕方のうちに取り込んでおいたのを思い出す。スマホを点けると午前二時、明日も早いのに、と布団に身を投げ出すと、何かがピンと弾けて床を転がるコロコロ軽い音がする。
明かりをつけないまま眺める天井は青白く見えた。数度瞬きをして、目を閉じる。手と足を軽く開いて力を抜く。数を数えながらゆっくり呼吸をする。いち、にい、さん……。でも、だめだ。目の奥にごろごろと、丸めた紙でも詰まっているような違和感があり、気がつけば目をぎゅっと閉じている。夜中に目が覚めたのは雨のせいではない。最近はずっと眠れていない。昼間眠くてぼーっとしているのに夜、ベッドに入ると眠れない。どうしてかは分からない。仕事はいつも通りだし、人間関係も悪くない。長く続く感染症の流行は、確かにストレスと言えばストレスだけど、今更、という気もする。
たぶん何かをかけ違ってしまったのだ。朝着替えるとき? 出勤の時? 帰って玄関の鍵を開けて、暗い部屋の中にお化けがいるのを想像する。お化けは私の鼻先まで来ているけれど、明かりをつけるといなくなる。誰もいない、暗い部屋でしか存在できないお化けは、今は私が部屋の中にいるからこの世のどこにもいない。私は身を縮めて、二の腕やふくらはぎをマッサージする。不眠が続くと意外にも筋肉痛になるのだ。たぶん、体が変なふうに緊張しているからだと思う。
あのひとは、うらぶれてやぶのなか。
私はマッサージをやめて、寝返りをうつ。またピンと何かが跳んで床を転がる。どうせ眠れないので、明日の仕事の段取りを頭の中で確認する。外からはまだすごい雨の音が聞こえている。もう十二月なのにね。冬にこんな雨が降るのはめずらしい。これはきみがいつだったか言っていたことだけれど、眠りは昼間の記憶を整理して、いらないものは捨てて、重要なものを定着させる機能がある。睡眠不足が続くと、集中力が下がるだけでなく記憶にも障害が出る。物覚えが悪くなったり、覚えていたことをすぐには思い出せなくなる。その時私は、へえ、確かにと頷いた。でもあんまり実感はしてなかった。今ならよくわかる。ここ数日ろくに眠れていないので、床には私が落とした記憶がいっぱい転がっている。
やうやうばなしに花の咲く。
スマホの画面を見るのも健全な眠りを妨げるって。でも、点けてしまう。二時三八分、こんな時間になったなら、健全も何もない。SNSを開いてみんなが寝静まっているのを確かめたり、アプリにおすすめされた漫画を読んだりする。あ、と思い出して麻婆茄子を検索する。会社で誰かが言ってたレシピ。サイトの名前が思い出せなくて、覚えているキーワードを検索窓に入れる。かんたん。時短。楽。たぶん、これ? というのを見つけたけど自信がない。これのような気もするけど、これじゃないかもしれない。スクショを撮っておくんだった。たぶん麻婆茄子の記憶も、ピンと跳ねてコロコロ床を転がっている。
あのひとは、うらぶれてやぶのなか。
やうやうばなしに花の咲く。
麻婆茄子のレシピすら忘れてしまうのに、こんなことだけ覚えている。いや、覚えている、と言えるだろうか。きみが歌っていた鼻歌、こんな変な歌詞だったかな。検索をしてみたけれど、ヒットしない。たぶん私が間違えて覚えてるんだろう。それかきみの方が間違えて覚えていたのかもしれない。もしくは私の聞き間違い。きみはよく鼻歌を歌っていたけれど、私は真剣に聞いたことはなかった。
一度だけ、それ何の歌? って聞いた。私ときみで、電車に乗って、隣の市まで遊びに行った時だ。目当てのカフェは混んでいて、でもこの辺は面白そうだからって探索をしたのだ。ここ、って私ときみが入ったのは、角にある文房具屋さんで、緑に塗られた木枠に、角度によっては虹色に見えるガラスが嵌まった玄関が角を斜めに断ち切っていた。ヤマスミとかヤマズミとかいう屋号だった。ヤマスミの中には万年筆がたくさんあった。万年筆と、インクと、それらを使って何か書くための紙だけでお店のほとんどが埋まっていた。
……あっかん。
ときみは言った。それから赤や黄や深緑の、丸く太った万年筆を手に取っては棚に戻す。私も、お店の中をゆっくり歩き、万年筆を眺めた。私ときみはばらばらにお店の中を歩いてた。そしたらきみが、歌い出した。
それ、なんて歌?
って私は振り返った。全然鼻歌なんてどうでもよかった。静かでおしゃれなお店できみがふんふん歌っているのが恥ずかしかった。きみは振り返って、……だよ、と言った。それから? 覚えていない。万年筆のお店で何を見たのかも。学生だったから、こんな高いペン買えない、って思ったのは覚えている。そんなことばかり、覚えている。
(スウッ)
と息を吸って目が覚めた。いつの間にか眠っていた。雨音もしなくなっている。寝返りをうつと、私の動きを察知したアプリが震えて音を鳴らす。私はスヌーズを切ってしばらくスマホを握りしめる。麻婆茄子のレシピをもう一度見る。やっぱり覚えてない。起き上がってベッドから出ると床に落ちた記憶たちを足の裏に感じる。ぷつぷつ小さい。私は記憶を踏んで洗面所へ行き、朝の支度をする。
たぶん、病院へ行った方がいいのだろう。私は最近、仕事でもぼんやりしていてミスが多くなっている。それでチームに迷惑をかけていて、申し訳ない気持ちなのに、その気持ちすらどこか遠くにある。記憶もたくさん落としてしまった。きみの名前も思い出せない。
私は玄関を開けて外へ出る。鍵をかける。私のいなくなった部屋にお化けが現れて、床に落ちた記憶の上を動き回る。