文体の舵をとりたい!練習問題②

 句読点は偉大だ。
 文とは「単語または文節の一個または連続で、叙述・判断・疑問・詠嘆・命令など話し手の立場からの思想の一つの完結をなすもの」と定義される(精選版日本国語大辞典)。そしてこの「思想の一つの完結」点を視覚的に示すのが句点すなわちマルである。
 ただのぽっちりと侮るなかれ。上の定義にあるように、句点とは単に文末を示すだけではなく、思想の完結点を示す。ここでの思想とは情報と置き換えてもいいだろう。というかすみません、ちょっとこの話長くなりそうなんで興味ない方は練習問題②まで飛ばしていただいて大丈夫です。
 さて、話を戻すが、句点は「思想の一つの完結」を視覚的に示す。言語とは、音声なり文字なり、口や手の形なり位置なり、何らか形と意味を持った「何か」を連ねて、もっと大きな「何か」=一定量の情報を示すものである。しかし、全ての情報をいっぺんに出されてもそれを即座に受け取れるわけではない。音や文字や口や手の形を示されたら、それらを単語へ、単語を文節へ、文節を文へ、より大きな単位へと繋げ、意味を把握し、それまでの文脈の中に位置付ける——「理解」するプロセスが必要だ。文という単位は、発信者側から見れば「思想の完結」つまり「とりあえずこれ一個でなんかいい感じにアレするようにまとめといたから」という塊であり、句点は受信者側から見て「なんかいい感じにアレする」ポイント、つまり「理解」のための情報の処理ポイントを示す。これがあるとないとでは、処理にかかる負荷が全然違う。
 以前SNSで話題になったオモコロの記事「『山月記』を読めなかった男が1年半ぶりにもう一度読む日」で、中島敦『山月記』に再挑戦したみくのしん氏がこんなことを言っている。

 

ゲームで処理落ちしてる道を走ってるみたいだね。なんとか「。」までたどり着くと、ロードされて途端に景色が描画される感じなんだよな

 

 文章を読み慣れ活字中毒などと自虐(自賛)する我々のような人間は、ともすると句点などは単に文末に習慣的についているものであまり意味らしい意味はない、と思いがちだが、それは文化的マチズモというものだ。句点はそれ以上の意味、というか機能がある。句点はエラいのだ。
 さてお次は読点である。この話まだ続きますよ。「文末につける」というルールの明確な句点に比べて、読点すなわちテンは使い方がいまいちはっきりしない。ないよりはあったほうが断然読みやすいが、さりとてありすぎたり変なところに挿入されているとそれはそれで読みにくい。一応おおざっぱなルールはあるものの、あってもなくてもいいようなケースもあり、最終的に執筆者の裁量に任される。実際、構文がしっかりしていればなくても十分読めるというケースも少なくない。
 では読点はいらないのか、あるいは重要性が低いのか、というと全くそんなことはない。先に「構文がしっかりしていれば」と条件をつけた。読点が輝くのはまさにここ、しっかりした規範的な構文をはみ出してほとばしる、破格の文である。
 例えば太宰治「走れメロス」ではこんな一文がある。妹に結婚式を挙げさせ、人質になった(した)友を救うため復路をひた走るメロスを山賊が襲い、なんとか撃退はしたもののすっかり疲れて気持ちが折れてしまう場面。

 

ああ、あ、濁流を泳ぎ切り、山賊を三人も撃ち倒し韋駄天、ここまで突破して来たメロスよ。真の勇者、メロスよ。今、ここで、疲れ切って動けなくなるとは情無い。

 

 冒頭の詠嘆に注目してほしい。「ああ」でも「あああ」でもなく「ああ、あ」! 疲労困憊、ふらふらと膝をつき、自己叱咤も虚しくへこたれていくメロスのよろめきが見えるようではないか。このたった一個挿入されたテンが「走れメロス」の大きな山場、メロスの挫折の発端を形作っている。この後に続く文章はそれまでと同じくリズムがよく歯切れの良い文章であるが、ここで一旦リズムを乱すことで、勇ましかったメロスが同じ勢いで雪崩れるように崩れていく、その描写へと効果的に繋がるのである。読点は決して「あってもなくてもいい」ものなんかではない。それがなくては「物語」は成り立たない、それくらい重要なものなのだ。
 人間の発話の中の息継ぎやポーズと、文章を書いたときに読点が挿入されるのが望ましい部分というのはズレることがある。文体の舵と言ったときの文体とは「物語る」文体である。モノを語る際のグルーヴやリズムを表現するのにこれほど頼りになるものはない。例えば谷崎潤一郎「春琴抄」はあえて句読点を極力排した文体になっているが、それゆえに時々挟まれるテンはつらつらと春琴の伝記を語る語り手の息遣いを演出している。文字は自ら語らない。読まれて初めて語り出す。語らぬ文字に語る身体のうねりを与える、読点はスゴいのだ。
 その他、小説には各種のカッコだったり、リーダ(…)、ダッシュ(—)といった「間」を示す符号だったりが使われる。カッコは発話や心の中で思ったことを地の文から区別する。リーダやダッシュは、発話や描写の言い淀みや言葉の省略、発話の間を示して、文字で構築された——すなわち何かを表すためには語らねばならない——小説世界において語りの空白、すなわち「沈黙」を表現するという革命をもたらした。いずれも本来は別の用法で使われていたものが小説に転用され、作品世界を生き生きと描くために用いられている(Parkes, 1993)。
 現代を生きる私たちの文体にとって、句読点はなくてはならないものなのである!

 

 

練習問題②
一段落〜一ページ(三〇〇〜七〇〇字)で、句読点のない語りを執筆すること(段落などほかの区切りも使用禁止)。(ル=グウィン『文体の舵をとれ!』p.49)

 

火事を見たことがあります小学三年の冬遊び疲れて滑り台の上で休んでいた時でした滑り台はお椀を伏せた形で私の他にもう一人女の子が座って指編みをしていましたぼんやり前を眺めていると視界で何かがちらついてあれはプールの光と思った瞬間向かいの団地のベランダから炎があがりました隣の女の子もすぐに気づいて火と叫びました子供達は皆上を見上げてめらめらと燃え上がる炎を見ていました炎はベランダの天井を舐めて上の階にも到達しそう私はそれを眺めながらきっとあれに違いないと思いました昨日の夜遠くから聞こえてきた怒声罵倒何かの倒れる音食器の割れる音きっとあれのせいです声は男と女で男か女かのどちらかがどちらかの胸を刺しあるいは突き飛ばして頭を壁にぶつけ動かなくなった相手を浴室に隠し血のついたシャツテーブルクロス汚れた台布巾をあそこで燃やしているのです乾燥した日だから炎が強くなりすぎて皆が知るところとなりましたそれは死んだ男もしくは女の復讐でしたお前のせいでいい加減にしてよそんなこと言ってない言った言ってない覚えてないの言ってないって言っただろ男と女の言い争いの声はいつしか両親の声に変わり炎はひときわ明るく燃え上がったあと急に小さくしぼみました背後からサイレンの音が近づいてきました

 

【解説】
 句読点、というか段落を含め区切りになるものを使わないという課題だったので、マルがなくても文末がわかりやすい「ですます」口調にした。
 句読点、特にマルがないというのは文の完結点が明示されないということである。そこでこの「完結点」を揺さぶることにした。後半の「昨日の夜遠くから聞こえてきた怒声罵倒何かの倒れる音食器の割れる音きっとあれのせいです」は、「食器の割れる音。きっとあれのせいです」としてもいいし、「食器の割れる音、きっとあれのせいです」としてもいい。どこで切れるかどっちつかずの表現は、語り手の視点が情景描写から妄想へとドリフトしていく発端となっている。
 またここを含めて数箇所、物やセリフを並列させているところがあるが、これらは同様のドリフト効果を狙いつつ区切りの代わりに使用している。つまり、これを段落とか句読点とかの代わりに使い、情景から妄想、あるいはその逆を行き来する際のクッションにした。
 言語は情報だ。情報を限りなく詳細に伝達しようとすれば、理論上はできなくはない。その逆に切り詰めることも可能である。言葉を要約したり省略したりするのも一つの手だが、文と文を並べるだけでも達成できる。文が二つ並んでいれば、その間に文脈ができる。というか読んでいるこっちが勝手に読み取ってしまう。その間にあったはずのあらゆる物事は、説明してもいいし、しなくてもいい。しなくても文脈が繋いでくれる。断絶がむしろ繋がりを生み出すのである。切ることで繋がる、言葉というのはなんとも不思議である。例えば志賀直哉「城の崎にて」の冒頭。

 

 山の手線の電車に跳飛ばされて怪我をした、その後養生に、一人で但馬の城崎温泉へ出かけた。背中の傷が脊椎カリエスになれば致命傷になりかねないが、そんなことはあるまいと医者にいわれた。二、三年で出なければ後は心配はいらない、とにかく要心は肝心だからといわれて、それで来た。(志賀直哉『小僧の神様 他十篇』、p.108)

 

 「城崎温泉へ来た」ことを伝える一文目と、医者の言葉を伝える二文目とは時間的・空間的に離れており、実際には連続していない。しかし私たちはこの二文の間に文脈を見出し、語り手が城崎温泉に来る前の時点でそういうことを医者に言われたんだろうな、と読む。
 これは文だけでなく、句や節、要は「、」で繋いだ場合も同様だ。三文目の「とにかく要心は肝心だからといわれて、それで来た。」についても、「いわれて」と「それで来た」の間には色々あったはずである。医者に言われて素直に来たのかもしれないし、不本意だが熟考の末に来たのかもしれない。死ぬかと思った〜生きててラッキー! と思ったかもしれないし、医者はああ言っているが脊椎カリエスになるのではいやきっとなるはずだなるに違いないと絶望していたかもしれないし、温泉かあ……行ってもええけど準備が面倒いなあ……と思いつつ渋々来たのかもしれない。言われて来るまで半日かもしれないし半年かもしれないし十年経ってようやく来たのかもしれない。「それで来た」と言うが、来るには温泉宿の予約をし、切符を買い、荷造りをして駅に行き汽車に乗って来なければならず、出発の朝には朝食を食べたり食べなかったりするし駅で催してよせばいいのに線路端で立ち小便をしたりするかもしれないし汽車の中で暇つぶしに新聞でも、と思ったものの自分の手前で呼び売りが引き返してしまい手持ち無沙汰、なんてこともあったかもしれない。その間の事情は明らかにされず、「いわれて」「、」「それで来た」と書く。そうすれば「いわれて」と「来た」の間に文脈ができる――文脈を読むようになる。
 もしこの部分が「山の手線の電車に跳ね飛ばされてけがをした、その後養生に、一人で但馬の城崎温泉へ出かけた。一人の下人が、羅生門の下で雨やみを待っていた。」となっていても、多少あれっと思うかもしれないが、城崎温泉に着いたら雨で、どっかの門の下で誰か雨宿りしてるのかなあ、なんて情景を思い浮かべつつそれほど違和感なく読んでしまうのではないか。「山の手線の電車に跳ね飛ばされてけがをした、その後養生に、一人で但馬の城崎温泉へ出かけた。必ず、かの邪智暴虐の王を除かなければならぬと決意した。」であれば、語り手と「かの邪智暴虐の王」の間に因縁を感じるし、城崎温泉に来てから王の弑虐を決意するまでの物語の幕開けを想像するのではないだろうか。これらの例文に違和感があるのは元の文が有名であるということも多分に関係している。こんな極端な例でなくとも、文や行、あるいはページを読み飛ばしても気づかずしばらく読んでいた、という経験はないだろうか? それはあなたがぼんやりしているからではない。断絶があっても、いやあるからこそ、我々はそこを繋いで読んでしまうのだ。
 言い切ればそこにものはある。二つ文を並べれば文脈が生じる。そして句読点だったり段落だったりは、そこにある断絶を視覚的に示して「ある」と「生じる」をほんのちょっと助けてくれる。区切り符号がないというのは、こうした断絶による文脈の生成という手を使えない、あるいは使いにくいということだ。これはぬるっと情景から幻想へ移行する、という種類の文章と相性がいいようでいてそうでもない。「この語り手はどこかで角を曲がって幻想横丁に入った」ということがわからないと混乱するだけであんまり面白くない。そこで、妄想と描写、質の違う二つの文の間に並列の表現を挟んで区切りのかわりにした。
 個人的には、描写もなく単にものや要素を並列させるのは、報道や説明文ならともかく物語では剥き出しというか、過剰というか、描写の中に溶け込ませて提示すべきものがそのまま置かれているように見える。皿の上に置かれるべきお豆腐が机の上に直接置かれている、みたいな感じだ。今回は語り手の頭の中の想像が情景描写を侵食して溢れ出すような描写がしたかったので、並列表現を使うことにした。

 

参考
かまど、みくのしん「『山月記』を読めなかった男が1年半ぶりにもう一度読む日」オモコロ https://omocoro.jp/kiji/462699/
小学館国語辞典編集部編『精選版 日本国語大辞典』(物書堂アプリ版)
Parkes, M. B. (1993). Pause and Effect. University of California Press.
芥川龍之介「羅生門」https://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/127_15260.html
志賀直哉「城の崎にて」『小僧の神様 他十篇』(岩波文庫改版)、岩波書店、2002
太宰治「走れメロス」https://www.aozora.gr.jp/cards/000035/files/1567_14913.html
谷崎潤一郎「春琴抄」https://www.aozora.gr.jp/cards/001383/files/56866_58169.html