宇宙にいくとき、人類はおなかのなかを空っぽにする。食べ物とはつまるところ死んだものでできている。宇宙航行は長旅だ。目的地に着くまでほとんど仮死状態で過ごすことになる。動きを極限まで抑えた「冬眠」状態の内臓に、食べ物が——死んだ素材が少しでも残っていると、どうなるか。そこから腐敗し、目的地に着いたときには取り返しのつかない大惨事になる。だから宇宙へ行く前は内臓を徹底的に、唇の先から肛門のしわまで全て空っぽにしなければならない。
ここで一口話をしよう。とある宇宙船が、地球から遠く離れた小惑星に降りたった。クルーが目覚めて一人ずつ休眠ポッドから起き上がる。クルーの人数はバリエーションによってまちまちで、三人ということもあれば十人以上の場合もある。最大で二十五人。もちろん一昔前のSF小説みたいに、全員がシスジェンダー男性ということはないし、白人だけで構成されているわけでもない。いずれのバリエーションでも、クルーたちは空っぽのおなかを抱えて立ち上がり、寝起きの頭を振りふり、食糧の貯蔵庫へ向かい、そこでこの宇宙船には食糧がないことが判明する。積み忘れたのか、航行中の事故で失われたのか、腐ってしまったのか、ともかくこの船には食べるものがない。クルーたちは船を大捜索する。しかしクッキーのかけらすら見当たらない。クルーたちはお互いに顔を見合わせる。ぐう、と腹が鳴る。
このままでは餓死するだろう。クルーたちは宇宙服を身につけて宇宙船の外へ出る。リーダーを先頭にして一列になって歩く。大気を含む環境分析の結果は歩くごとに更新される。それによれば、ガスも敵対的な生物もない、安全な大地だ。宇宙服に組み込まれた擬似カナリアはうんともすんとも鳴かない。危険はないが、食べるものもありそうにない。周りはゴツゴツした岩ばかり、草一本生えていない。腹がぐうぐうと鳴る音が、擬似カナリアの沈黙する宇宙服の中にむなしく響く。
想像してみてほしい。宇宙服一枚を隔てたすぐ先は無窮の宇宙だ。その中に浮かぶ小さな岩塊をてくてく歩く。岩だらけの地平線の向こうは、右を向いても左を向いても、上を向いても、黒い紙に穴を開けて透かしたように星が散らばっている。変わり映えしない景色のせいか空腹のせいか、ヘルメットに覆われた頭がふらふらし出す。前を歩くやつがなんだかふらふらしているなと思ったら、実は自分がふらふらしていて、相手もふらふらしていて、実はみんなふらふらしている。様々なシルエットの宇宙服が、一列に並んで、回転数の落ちたコマみたいにふらつきながら岩の大地を進んでいく。誰が一番早いんだろうか、という疑問がクルーたちの頭をよぎる。
大きな岩の丘を越えたところでクルーたちは奇妙なものを見つける。うっすらとオレンジがかった光。あれは……窓から漏れる部屋の明かり? そこには玄関をこちらへ向けて、三角屋根の家がポツンと立っている。ここにあるのでさえなければ、どこにでもあるタイプの、何の変哲もないただの民家だ。
まるでヘンゼルとグレーテル。クルーたちはその家を訪れる。まるで知人の家に着いた時のようにドアをノックする。人どころか生物の気配は一切ないが、褪せたペンキの色といい、角のすっかり丸くなった玄関ポーチの階段といい、思い出の染みついた手ずれのする古さのある家だ。
試しに玄関ドアを開けてみよう。するとキイ、と音がしたかどうかは分からないが扉が開く。鍵はかかっていない。無人の場所では確かに鍵はいらない。クルーたちは中に入る。使い古された玄関マット、小花模様の壁紙に模造のモネのかかる廊下。砂も埃もなく、綺麗に掃除されている。奥の部屋の戸は開け放たれていて、深い色のカーテンがかかっているのが見える。カーテンは開いていて、窓の向こうには、一面の岩と瞬かない星の並ぶ真っ黒な宇宙がある。
そろそろと部屋に入ったクルーたちはぎょっとする。食卓が用意されている。食卓には今しも並べられたかのように、ローストされた肉類や各種のパン、具入りの卵焼き、蒸した魚、米、麺、チゲ、ファラフェル、野菜の肉詰め焼き、サグパニールなどが湯気を立てている。食卓の中央にはオクラのピクルスが、つやつや濡れてガラスの器に盛られている。そして食卓を囲む椅子と、ナプキンと、カトラリーは、ちょうどクルーの人数分。
それを見た瞬間、クルーたちの髪の毛がざあっと逆立った。と同時に、口のなかによだれがあふれた。その料理はとっても美味しそうだった。パンはふかふか、お米も麺もぴかぴかで、こんがり、ほかほか、大小形も様々な真っ白な皿の上に並んでいる。怖い、なのに美味しそう。全身粟立ち手がぶるぶる震えているのに、喉がごくん、腹はぐうぐう、ぐうぐうぐう。
このクルーたちが食卓のものを食べたかどうかは分からない。食べて助かったという話もあれば次々溢れる生唾に溺れ死んだというバリエーションも伝わっている。ものの資料によれば、山で迷った者の前に無人の家が現れ、迷い人を歓待するという話は日本の「迷ひ家」などに類話がある。しかしなぜ、宇宙の果てにそれがあるのか?
このように考えたことはないだろうか。この宇宙は前々からそのように存在していたのか、それとも私が観測したからそれが生じたのか、と。私が見るまでそれが本当にあったかどうか、私には知りようがない。見るものが存在してはじめて、見られるものが生じるのではないと、誰が言い切れるのか?
「怪を語れば怪至る」という。ゴーストストーリーを語っていると、実際にゴーストがやってくるという意味のことわざである。しかしこれは因果が逆で、怪異とは語るものに寄生して発生する現象なのだ。そのために怪談のない場所では、語られるべき怪がいわば先回りして存在する。つまりホモ・サピエンスならぬホモ・ロクエンス、「しゃべるヒト」の至る先、あらゆる場所に怪談があるのだ。
