この世で最も難しい仕事

 エージェントだろうが何だろうが、クリスマスの休暇はある。が、当然のことながら、急な呼び出しもあるし、待機だってある。頼むから世界の危機とか悪党どもの悪巧みとか、この時期は避けてくれとは思うものの、大抵はうまくいかない。みんな元気だ。
 というわけで、マーリンは新年早々、エージェント及びスタッフのシフト調整に追われていた。表向きの方、つまり仕立て屋はカレンダー通りの休みにできるからいいとして、本業の方は、急な出勤に伴う代休やら傷病休暇やらでシフトがぐちゃぐちゃになっていた。
(だいたい、なんでこれを「マーリン」がやるんだ)
と心のなかでぼやく。理由はわかっている。前任マーリンが調整用のプログラムを組んでいるからだ。が、人数が変わったからかどこかに問題があるのか、はたまたそもそも人手が足りていないのか、プログラムは何度やってもエラーを吐き続けている。頭がおかしくなりそうだ。去年までは、自分はいわゆる試用期間で、調整についてはさわりを教わっただけで、大部分は前任者がやっていた。
 彼に尋ねるか? いやしかし、現在前任者は悠々自適のリタイア生活、今も地球のどこかで休暇を満喫しているはずだ。それを邪魔するのは気がひけるし、何より悔しい。
 いやしかし、とマーリンはまた逆接を重ねる。どうして自分がこんなことをしなければならないのだろうか? 普通は管理職がやるものじゃないか? 確かに自分はコードネームを持ってはいるが、実態としては何でも屋みたいなものだ。下っ端よりもなお悪い。まったくどうして、悪人も休暇くらいはあるだろうに。とは言うものの、地球上のどこもかしこも同じ暦を使っているわけではないし、同じ宗教に帰依しているわけでもない。休暇が被らないのは致し方ない。
 などと考えながら、マーリンは、モニターの前でマグカップ片手に呆然としていた。実際のところ、やることが多すぎてフリーズしていた、という方が正確だ。そこへノックの音がした。
「どうぞ」
「マーリン、失礼。実は――」
と入って来たのはハリー・ハート、コードネームはガラハッドの、最も若いエージェントである。よりによってこいつかよ、とマーリンは思う。腕っぷしは強いし思い切りもいいが、とにかく問題行動が多い。備品を壊すペースも、歴代のエージェントの中で一番だ。
 というマーリンの心の声が漏れていたのであろうか。ガラハッド卿は珍しく空気を読んだ。何しろ若いながら何度も死線をくぐり抜けて来たエージェントである。殺気には敏感なのだ。
「すまない、取り込み中だったか。何でもない」
「何でもないわけないでしょうが。言ってください、どうぞ」
「いや、いい、急ぎじゃないんだ」
「そうですか」
と答えて、マーリンはまたシフト表に向き直る。
「……何があったか聞いても? もちろん嫌だったら答えなくていいが」
「シフトの組み直しが終わらないだけです」
 シフトの組み直しが終わらなければ帰れないし、明日からの仕事に混乱をきたすし、渡ろうとした信号は全部赤になるしトーストはバターを塗った面を下にして落ちるし毎朝出勤するたびに黒猫が目の前を横切る、とマーリンは悲観的な気持ちで内心付け加える。
「シフト?」
「休暇中に色々あったでしょう。その調整でね」
 いつの間にか隣に来てシフト表を覗き込んでいたハリーに言う。
「私なら別に、どこに入れてもらってもいいが」
「あなたはダメです。申請していた休暇を二度任務で潰しました」
「まだ元気だ。怪我もないし」
「あんたが良くても労働基準法が許さないんです」
 ハリーが理解できない、と言う目でマーリンを見る。法というなら、そもそもここの運営自体が違法であるし、エージェントの活動も持ち物も、大部分が抵触するだろう。
「言いたいことはわかります。でもそれとこれとは別です。こっちを破ってるんだからあっちもいいだろう、というわけにはいきません。労働者の権利は守らなくては」
などと言っている自分が一番守られていないのだが。マーリンは話しながら悲しくなった。手に持ったマグカップを口に運ぶと、中はとっくに空になっていて、底にカピカピになったミルクティーの残り滓がへばりついている。
「おい、どうした。泣くなよ」
「泣きもしますよ。なんでこんなことになってるんだろう。ああくそ、にっちもさっちも行かないとはこういうことだ!」
 マーリンは、マグカップを机に叩きつけた。
「わかった。少し待て」
 ハリーはマーリンに言うと、部屋を出ていった。一人残されたマーリンは、おいおいと泣いていたが、突然ぴたっと泣き止んで顔をあげ、「……よし」とつぶやいた。
 何もよくはない。が、気は済んだ。とりあえず前任者に連絡を取ってエラーの原因を尋ねてみよう。それから出勤可能なスタッフをもう一度洗い直す。臨時雇いのものを増やせればいいが、仕事が仕事なのでそうもいかない。
 やることをメモに書き出して、モニターの上に貼る。やることは山積みだが、目で見えるようになれば、まあなんとなくマシに思えて来た。上から一つずつ潰せばいい、という気持ちになる。
 まずは前任者に電話。
「……つながらないな」
 リストの一つ目から頓挫した。いよいよ心が挫けかけたその時、二度目のノックの音がした。
「どうぞ」
「入るぞ」
「失礼します」
 入って来たのはハリーと、もう一人。誰だったか、と思ってそうだ、と思い至る。表のスタッフの一人だ。たしか縫製部門の中堅職員。いつもはワイシャツに揃いのエプロンをつけているが、今日はどうやら出勤したそのままの軽装だった。
「どうも、エージェント・マーリン。まずあなたはこれ食べて」
と彼女が言うと、ハリーが進み出て、ベイクドビーンズと卵とトースト、スープ、湯気を立てているミルクティーのなみなみと注がれたカップの置かれた盆を、机の上にどんと置いた。皿にはキングスマンのマーク。どうやら社員食堂から持って来たらしい。
「で、これがシフト表?」
「そうらしい」
「あー、なるほど……」
 何? とハリーを目で尋ねると、「スーパーの店長の経験があると言っていたから、何かわかるかと……」と言う。隣で元店長現仕立て屋スタッフという異色の経歴の彼女は、任せて、とウィンクを寄越す。
 マーリンはありがたく食事を取ることにした。ビーンズを口にいれた瞬間、これだ、と思った。とにかく自分は、あそこから離れたかったのだ。何度やってもエラーを返すプログラム、入り組んだ人々の予定、変更、調整、変更の繰り返し。あっちを立てればこっちが立たずの袋小路ばかりの迷宮から、逃げ出したかったのだ。
 しばし温かい食事を楽しんだ。何も耳に入らなかった。「あー」「何これ」「無理じゃない?」「無理だわ」という声が聞こえるが知らない。自分は食事中だ。目の前にあるこの食事以外、この宇宙には存在していない。
 ミルクティーと、そのそばに添えられたショートブレッドの最後の一欠片まで楽しんで、マーリンは腹を括って食事を終えた。元店長に向き直る。
「これは……」
「無理ね。とりあえず仕立て屋は臨時休業で閉めて、そっちのをこっちに回しましょ。せっかく銃火器扱える人雇ってるんだし」
「いいんですか?」
「いいんじゃない? 金持ちなんかほっとけば」
 今すぐ閉めるというわけにはいかないが、数日後から一週間ほど臨時休業にすれば、何とか回せそうだ。やっと希望が見えてきた。
「ひとまず今年はそれで回すとして。毎年こうだと面倒だから、人は増やさせましょ。ガラハッド、あなた協力してよ」
「私が?」
「あなたがストライキしたら効くでしょ。悔しいけど」
と彼女は言う。なるほど、わかった、とハリーは頷いた。
「これで一件落着?」
「そのようです」
「それはよかった。マーリン、君も休暇を取れよ」
「ええ」
 ああやれやれ、という雰囲気で解散しかけて、ふと何かがひっかかった。何だろう。そういえば、どうしてガラハッドはここへ来た?
「ハリー、待って」
「何だ?」
「私に何か用事があったのでは?」
 ドアから半分外に出ていたハリーは、あ、という顔をして、部屋の中に戻る。
「実は備品のことで」
「……続けて」
「昨日の任務で、その、支給の車を潰してしまったんだが」
「潰したとは」
「……大破した」
 この野郎。と言う言葉を飲み込んだ。が、はあ、とため息をが漏れた。「あなたねえ」と、ドアの外から元店長が戻ってくる。
「そういうことは早く言わないと。換えがあるかもわからないし、作り直すにしても部品を注文するところから入らないといけないこともあるのよ。壊したから変えてください、ってボールペンみたいに簡単にいかないの」
 くどくどと説教されて、ハリーは「はい」「そうなんですか」と神妙にしている。珍しく小さくなっている歳若きエージェントを見ながら、来年からは、ハリーの説教係も増員できないだろうか、とマーリンは思った。