毎週ではない。気まぐれな間隔ではあったが、決まって金曜日、イワン・フョードロヴィチは街へ出かける。いつもは部屋にこもってだらしない格好でごろごろしているが、この日ばかりは綺麗に髭をあたって清潔なシャツを着、伸ばした髪に櫛を入れて見苦しくないように地味な色味のリボンで結ぶ。タイを締め、コートのボタンもきちんとかける。そうするといっぱしの旦那のように見えるのか、いつもこの辺りをブラブラしている飲んだくれのワーシカが手揉みしながら金をせびりにやってくる。それを無視して大通りに出、埃の立つ道をまっすぐ歩いて郵便局に向かう。
郵便局の扉を開けると、イワンの姿を認めて馴染みの局員が頷いた。もう壮年の男で、いつも穏やかな顔つきをしていた。ふさふさした髪にも口元に残した髭にも白いものが混じっている。きちんとアイロンをかけた深緑の制服を翻すようにカウンターの奥の仕分け棚を撫でる。イワンが窓口に行く頃にはもう手元に手紙が用意されている。
「これだけかね?」
「ええ、いつもの通り」
いつもの通り。局員はそれがまるでいいことのようににこやかに言って頷いた。イワンの方もそれに合わせて穏やかに微笑む。そして受け取った手紙は開かずその場で短い私信を書き、局員に託した。宛名はさっき受け取った手紙の差出人だ。届くかどうかはわからない。差出人の住所はほとんど毎回違う場所で、自分の手紙が届いているのかどうか、イワンは確かめたことはなかったし、頓着しようともしなかった。
手紙は弟からのものだった。アレクセイ・フョードロヴィチ・カラマーゾフ、同じ父の息子。同じ母の息子でもあったが、イワンにはどうしても彼がそれほど近しい兄弟のように思われない。それよりは差出人のフョードロヴィチの方に目が向く。あの父親の息子でありながら、いつまでも清らかな弟に対する微かな憎しみを、イワンはこの差出人の名前を見ると思い出す。
「よろしく頼むよ」
局員は、業務上必要な愛想の良さと、偽りない職業的な誇りを顔に浮かべて頷いた。差出人にも宛名にもフョードルの名を含む手紙は、局員の手から直接仕分け箱に入れられる。イワンはそれを見送って郵便局を後にした。
弟からの手紙はフロックコートの内ポケットに仕舞っている。どこに入れてもそれはカサカサと小さく存在を主張した。だがこれは自分の方の問題だ……この手紙をわずらわしく思っているからそう感じるにすぎない。イワンは弟の手紙を抱えたまま街を歩いた。他の多くの遊歩者たちと同じように、ただ散歩をしているだけ、あるいは誰かと会うとか芝居に行くとか、何か用事があってそこへ向かっているような顔をして。服装とは不思議なもので、身の丈と流行に則っていれば中身の方はどうとでも誤魔化せる。昼の世界を行くための切符のようなものだ。適切な服装は人を透明にする。群衆の中に入ればなお一層存在が薄くなっていく。薄くした自分を群衆の中に紛れさせ、イワンはモスクワの幽霊のように街を歩く。
手紙を抱えたまま夕方までそぞろ歩いて、たどり着くのはたいてい橋の上だった。橋はいつも賑やかだ。こちらからあちらへ渡る人はいつもひっきりなしで、人々の話し声や蹄の音、馬車の車輪の騒々しいわめきは途切れない。イワンはその喧騒の全てに背を向け、欄干にもたれて濁った水面を眺める。そしておもむろにポケットに手をやり、手紙を取り出した。震える手で引き裂くように封筒を開けて中を覗く。債券や小切手は入っていない。イワンは便箋を引っ張り出して広げ、隅々まで目を通してから元の通りに畳む。それから封筒と便箋を重ね、ゆっくりと引き裂いた。数度重ねて引き裂き、厚くて破れなくなったら三つに分けて一つずつ破く。そうして細切れになったのを橋の上からばらまいた。手紙だったものは砂色の川面に落ちて、苛立たしいほどにゆっくりと流れていく。
弟からの手紙を家の外で処分するようになったのは、口うるさい家主のせいだった。弟の友人であるニコライ・クラソートキンは弟の崇拝者でもあった。居候してすぐの頃、弟からの手紙を燃やしていると、めざとく見つけてきゃんきゃんと説教をしてきた。家族の手紙だから何だと言うのだろう。適当にあしらっていたらえらく憤慨して、頭から湯気でも立てかねない有様だった。もっとも、その時はイワンのほうもずいぶんと激しく言い返した。おそらくそれが、彼らの間で初めて起こった口論だった。
「あなたは感受性をなくしてしまいましたね!」
怒りが頂点に達した家主の捨て台詞を思い出すと、イワンは今も奇妙な笑みを浮かべてしまう。まるでどこかの小説の引き写しじゃないか……あの小僧っ子はそんな台詞も照れずに口にする。弟の可愛い友人、年若い家長……。彼で情欲を満たすのはいい暇つぶしになったし、どうやら向こうもそれがお気に召したらしい。くっ、と喉から声が漏れ、イワンの笑みが引き攣り、歪んだ。
弟がこれを知ったら何と言うだろう? いや、おそらく何も言うまい。何せ監督を怠ったのは向こうの方なのだから。目を離すと何をするかわからないのは重々承知のはずなのに。
ルーレテンブルグでの放蕩に明け暮れた後、イワンは失踪した。最初から姿を隠すつもりだったわけではなく単に金がなくなったのだった。それで人のところを渡り歩いて、面倒を見てもらったり小金を融通してもらったり、居候仕事をして数ヶ月凌いだ。そこは副業で高利貸しをやっている商人とか愛人稼業の男女とか、投機屋とか、いわば裏の社交界、表から放逐され入ることのできない、あるいはそれに尻を向けた人々の社交界で、そこでのイワンはよく吠えて可愛い狆みたいな存在だった。「地主貴族の次男坊」と言えば憎悪や不審の目が向く。「カラマーゾフの次男坊」というとぶしつけな好奇心の色が加わる。「財産をルーレテンブルグで蕩尽した」と言えば、転落劇を予感して目が爛々と輝いた。フョードル・カラマーゾフの遺産はゴシップを含めた報道合戦の間に天文学的な数字になっていた。それを一晩でだって! まるでイカロスの墜落じゃないか! 実際にはもちろん、何週間も勝ったり負けたり借りたりして意地汚く悪あがきをしたわけだが、彼らが求めているのはそういう散文的な現実ではなかった。イワンは居候先の客人たちが求めるままにその類いの物語を聞かせてやった。創作も脚色もお手のものだった。ずっとそうやって生きてきた。
しかしいかに刺激の強い話でも、何度も聞けば飽きてくる。かつてのイワンの位置は今やほんものの狆、お手だのちんちんだのができるほんものの可愛い狆が占め、イワンは体よく追い出された。致し方なく別の社会を頼り、また放逐され、ついには小金を作るために秘書の仕事までやった。ペテルブルグの法律事務所だった。雇い主はなかなかイワンを気に入っていたらしいのだが、給料を街の(一応は上品な部類に入る)賭博場ですったことを知ると解雇した。そういう者は信用しないことにしている、金のためにどういう行動をするかわからないから——というのがその理由だった。しかし君の今までの働きには満足している、全く文句のつけようもなかった、これはせめてもの礼であるといって給料に少々色をつけた金額を最後に渡された。善良な男だった。追い出す時には扉のところまで見送ったし、敷居をまたぐイワンに向かって「君に祝福がありますように」と十字を切った。イワンは男の金を手に街を放浪し、気がつけばヴャーゼムスキー館で寝起きしていた。
ヴャーゼムスキー館はペテルブルグ中の食い詰め者が集まる場所だ。売春宿と安酒場があって、常に誰かしらわめく声が聞こえている。ゴミは何もかも一緒くたに中庭に捨てられるから、いつもすさまじい臭いがしていた。個室はあるが、その金がなければないで寝起きする場所はいくらでもあった。幅広の廊下の突き当たりとか、破れ壁の部屋とか、踊り場だとかで、人間たちが、肩を擦りあわさんばかりの距離でボロ服を脱いだり着たりする。着替えのためではなく、食べ物と交換するためだった。ほとんどボロ雑巾に近いそれも、ここでは通貨になる。そこは一種の世界の果てで、何もかも失ったどん底の存在が流れ着く場所だった。そこにイワンもたどり着いた。
だから今のイワンにとって、家主の愛人になっていることなど、何でもないのだ。
弟がようやくのことでイワンを探し出した時、彼は窓際で横になっていた。窓といってもガラスは大昔に割れたまま、埃のこびりついた窓枠だけが残っている。ただその場所は夕暮れ近くのある時間帯には日が斜めに差し込むので暖かく具合が良かった。その時のイワンは、もう何日も食べていなかった。金はとっくに尽きていたが、それでも何とかしようと思えば何とかなった。けれどもその気力の湧かないまま、まあいいかという捨て鉢な気分で、窓のそばに捨てられたテーブルの残骸の上でとろとろとまどろんでいた。捨て鉢ではあるが妙に明るい気分で、それは目を開けると自分の体に斜めに降り注ぐ陽光が見えたから、それだけのことだったのかもしれない。目に陽光が入るのを避けて顔だけを陰に入れていた。窓に背中を向けて横向きに眠っていたから、前にだらんと投げ出した両手は体の陰に入っていた。少し動かして手を体の陰から出すと、指先に斜めに差す陽が当たる。それはあるいは幻だったのかもしれないが、イワンは指先に、見えないくらいに微かな、やわらかな火の灯る温もりを感じていた。このままでいればやがて死ぬだろう。明日は雨になるだろうというのと同じにイワンはそう思った。
弟が現れたのはまさしくその時だった。弟は何週間もほうぼうを尋ね歩き、兄の放浪の足跡を追って探し回った末に、それらしき人かげを見たという噂を頼りにこの掃き溜めまでやってきた。そうして一つ一つ、窓という窓、部屋という部屋を覗き込んで兄を見つけた。
——兄さん、
伸ばされた弟の手をイワンは拒まなかった。それどころか自ら手を伸ばした。服はあの男の家を出た時のままずっと着替えていなかった。ボタンは全て食べ物や酒と交換してしまって、汚れたタイで隠しながら拾った針金を細工して体裁を整えていた。痩せこけて薄汚く伸びた爪ばかり目立つ手、何日も、ひょっとしたら何十日も洗っていない手を弟は両手で捧げ持つように抱えて口元に持っていき、口付けた。弟に対する消えない憎悪が燃え出したのはその時だった。
——そのくせ手紙は受け取るんだね。
イワンは手のひらを見る。左の手のひらの真ん中に、封筒の切れ端がくっついている。消印の押された紙片をつまんで捨てる。紙片はやたらと指にくっついて、なかなか離れなかったが、焦れたイワンが乱暴に指を振ると、あえなく離れて他の手紙たちと同じ運命を辿った。
例の「感受性」事件で家主の弟への崇拝ぶりに嫌気のさしたイワンは、自分宛の手紙を局留めにすることを思いついた。企みは奏功してしばらくは平穏な日が続いた。イワンはいつも届いた手紙を一度だけ読んで捨てていたが、ある日手紙を開けると中に小切手が入っていた。額面は確か数十ルーブリ、ひょっとしたら八十もあったかもしれないが、百はない。まとまった額だが、派手に遊べばすぐになくなってしまう程度の金額だった。当面の生活費として寄越したものらしかった。寄居先に持って帰れば有意義な使い方でその金を役立ててくれるだろう、冬になれば何かと物入りだし、それでなくてもイワンの生活費は彼らが用立てているはずだ……いや、おそらくあの善良な母子はそれはイワンに届いたものだからと受け取らないのではあるまいか。そこまで考えて、イワンはふと弟に試されているような気になった。
イワンは目についた酒場へ入り、その場でどんちゃん騒ぎを始めた。金をむき身のままカウンターに置いてその場にいた全員に酒をおごり、流しのアコーディオン弾きを呼んで歌わせ、シャンパンを買いに行かせた給仕の女にチップを渡した。「まあ!」「おや!」「神の恵みを!」官吏らしき男が気取った仕草で盃を持ち上げ飲み干す。赤ら顔の職人二人組が争って盃を空ける。給仕の女がシャンパンを飲み干して陽気に笑う。ひょろっとした主人と丸々としたおかみという組み合わせの店主夫妻にもシャンパンをご馳走した。「一杯だけ頂きますよ、仕事がありますからね!」二人は笑って一つのグラスを二人で分け合った。誰もが陽気に笑っていた。音楽は途切れなかった。皆次々に乾杯し、イワンが金は尽きたと言っても止まらなかった。アコーディオン弾きがリズムも音程もめちゃくちゃなマズルカを弾き、卑猥な歌が歌われ、男女がその場でくるくる回る。相手がいないものはその場でめちゃくちゃに手足を動かして、最後にはひっくり返った。「ええい、構うもんか、今日が盛りだあ!」そう言ってさっきの官吏がポケットの金を酒に変える。それを見て皆次々とポケットの金を取り出し、机やカウンターに置くと争うように酒瓶を手にした。グラスは乾く暇もなく、次々酒で満たされていく。酢漬けのキャベツやウハーの皿がひっくり返る。あちこちで怒号が飛び交い、皿やグラスの割れる音がそこここで聞こえた。酒とスープと吐瀉物でまだらになった床を男たちが転がり、殴り合う。「もうないよ、酒なんかないったら! 出てっとくれ、出てっとくれ!」おかみが怒鳴ってほうきを振り回した。
ついに巡査がやってきて酔っ払いどもを全員叩き出すまで、イワンはその一部始終を眺めながら、たとえようもない快楽を感じていた。
弟の金は間をあけて不規則に届いた。大抵は目についた酒場に入って使ってしまうか、でなければスハレフカの市場に行って、二束三文にしかならないような、見た目だけは立派な古書とか陶器の置物なんかを相手の言い値で買ってしまう。これはモスクワにあって数少ないイワンのお気に入りの場所で、盗人と好事家と、その日をしのぐ数カペイカのために「最後の品」を売りに来た貧乏人とで日曜日ごとにごった返す青空市場だった。家主から逃げて身を隠すには格好の場所だったし、上から下まで全ての身分が集い、掘り出し物を探して一種の「勝負」をするときの、どこか浮かれたような雰囲気は、あのルーレテンブルグを思い出して心地良くもあった。そうしてまだ金が残っていれば、女を買うか、つけを払うか、教会の前にいる物乞いにひょいとやって、それでおしまい。
そういうわけで、イワンの手元に残る金はいくらもない。突き返すか断るかすればいいのに、それもしない。ただ右から左へ流すように金を受け取り、使っている。金を使うのは憂さ晴らしではあったが、気の晴れるのは金を受け取った瞬間と、使い切ったその時だけで、あとは何か、背中から追い立てられるような、焦りにも似た憂鬱に囚われる。そうなるとわかっていてイワンは手紙を開ける。けれども手紙の内容まで確認する理由は——
カテリーナ。
その名がないか、イワンは今も探してしまう。彼女とはもう何年も前に別れた。喧嘩別れなどというものではない。イワンが一方的に傷つけるだけの関係だった。非のないことで責められて、それでもあの人は許そうとした。そのことにまたイワンは恐ろしく腹を立て、ついに疲れ切った彼女は離れていった。しかし弟のことは、今も友人として思っているはずだった。ここへ来る前に一度だけ、弟がカテリーナの名を出したことがあった。何か伝言を言いかけたのを遮って、その名前は聞きたくないと突き放した。それなのに今、イワンはその名前を弟の手紙の中に探している。今まで一度も見たことはなく、手紙を開けるたびに失望し、もう見ない方がいいとわかっていても、何度も。本当を言うと、待っているのはカテリーナからの手紙だったのかもしれない。弟の手紙を開き、無意識にカテリーナの名前を探しながら、イワンは彼女の最後に見た姿を思い浮かべる。肖像画に描かれる時のように椅子の背もたれに手を置き、斜めに立ってこっちを見ていた。泣いていたのか、怒っていたのか、その両方か、黒いまつ毛が小刻みに揺れていて、お互いの目が合うだろうその瞬間にふいと体を逸らし、そのまま部屋を出て行った。
手紙など来ないのはわかっている。詫びの手紙すら出していないのだから当たり前だ。何度か手紙を出そうと考えたことはあった。絶交の言葉でもいい、何か返ってくれば……しかしおそらく、返事は来ない。それがわかってしまったら、おそらく自分はいよいよ終わりなのではないか。破産し、恋人も友人も失い、生ぬるい泥の中を這う生き物のように生きてなお、まだ終わる余地があると思っていることをイワンは笑う。少し前の自分、裁判の前の自分なら、迷わず手紙を出して絶交していただろうに、今はそれが怖くて仕方がなかった。
そもそも、とイワンは川面を見つめながら思った。自分は死ぬべき機会すら取り逃がしてきたというのに。
こんなふうに生きるということを、若いイワンは考えていなかった。三十から先はもう自分はこの世にいないはずだった。別に何か信念があったわけでも、きっかけがあったのでもない。何度もあったその機会を取り逃し、そのままずるずると生きている。手紙とその中の金をいつまでもずるずると隠しているのと同じように……親父が居候をしていたのはもっと若い頃だったか……あの家にいた頃、酔って上機嫌になったフョードル・カラマーゾフから、イワンはその話を聞かされたことがあった。フョードルは何やら卑猥な手真似をしながらひひひと笑った。家庭教師? そんな上品なもんじゃあないさ、無論そこの家の連中には色々と教えこんだがな……自然の摂理ってやつをな、お前のとは違うやつをさ……おい、そんなに怒るなよ、誰だってやっていることさね、ただ脱ぎ着するものが違うだけさ! ……父と息子は同じことをやっていて、息子の方がなお悪かった。
――あともう少しさ。手紙をご覧よ。
イワンは手紙の流れていく川面を見つめた。欄干を掴む手に力がこもる。あとほんの少し腕に力を入れればいい。そうすればこの欄干は容易く乗り越えられる。身を乗り出すと澱んだ水が見えた。底の見えない、緑がかった砂色の水。頭から落ちるのが鉄則だ……足から落ちると浮いて流される。流された先には水音を聞いて竿を手に手に家を飛び出してきた近隣住民がいて、たちまち助け出されてしまう。モスクワでも、ペテルブルクでも、自殺志願者は毎日のように湧いて出て、皆飛び込みには慣れっこなのだ。だが顔からまともに水面に落ちると、どちらが上かわからないまま水を飲み、その場で沈む。衝動ではなく意思で飛び込む人間は、皆決まって頭から落ちる。
「なあんだ、何にもいやしねえじゃねえか!」
隣から素っ頓狂な声が聞こえてイワンはハッと顔を上げた。ずるりと手が滑り、咄嗟に欄干にしがみつく。イワンの耳に往来する人々の声が届く。跳ねる心臓を宥めながら隣を見たが、声の主はもう背を向けて歩き出し、あっという間もなく橋を行き交う群衆に紛れてしまった。水音が聞こえて、イワンは川に目を戻した。哀れな魚が暗い水面に顔を出して、喘ぐように口をぱくぱくさせている。魚はその姿勢のまま泳いでいたが、やがてとぷんと水に沈んだ。
日はいよいよ傾いて、引き裂いてばら撒いた手紙の最後の一片ももう見えなくなっていた。ふっ、と唇から、笑いのようなため息のような声が漏れる。こんなに遅くなるまで何をやっているのだろう。石の欄干にもたれていたせいで、肩まですっかり冷えている。イワンは欄干から手を離して歩き出し——どきりとして立ち止まる。向かいから年若い青年が歩いてくる。二十歳をいくつか過ぎたくらいで、黒い巻き毛を綺麗に撫でつけて、前髪は膨らませている。白い額の下に並んだ二つの黒い目は、深い不信の色をたたえてイワンのことを——あるいはこの世の全てを見つめている。ああ、よせ、とイワンは二、三歩後退った。それから笑い出しそうになった。手を伸ばせば捕まえられそうなくらいに近づいたその青年は、スメルジャコフとは似ても似つかなかった。実際イワンは笑い出した。そばを通り過ぎた青年がぎょっとした顔でイワンを振り返る。それを置き去りにしてイワンは歩き出した。さっき青年を見た時ちらりと頭をかすめた想念——俺のことがそんなに憎いなら、俺を殺せばよかったのに——を思い出してますます笑った。大通りの人間たちは、ゲラゲラ笑いながら歩くイワンを避けて通った。イワンの周りに紡錘形の空間ができる。
行きつけの居酒屋を出た時にはもう夜中近かった。フロックコートのボタンが一つ、どこかに飛んでいたし、カフスボタンは飲み代として置いてきた。ふらつく足で踏み入れた通りには、まだ飲んだくれのワーシカがいた。イワンはその場に立ち止まり、ボタンの飛んだフロックコートのポケットをまさぐって小銭を掴み出した。ビリッとした痛みを感じて手のひらを見ると浅く擦りむけて血が固まっている。いつの傷だったっけと訝しみながらイワンは小銭をワーシカにやった。全部やった。
「あんまり飲みすぎるもんじゃあないぜ!」
「旦那こそ!」
ワーシカがにやりと笑った。唇の間からのぞいた歯が虫歯で黒くなっている。ワーシカは二年前、妻と二歳になる娘を流行感冒で亡くしていた。以来ずっと、弔いと称して飲んだくれていた。元から飲んだくれじゃあったがね、あれじゃ長くはあるまいよ、と言いながら、近所の人間が何くれと世話を焼いていたが、二年も経つとさすがに辟易としてきた。お弔いも二年も経てば十分だろう、というわけだ。元いた家は追い出されて、気の毒に思った料理女の婆さんの慈悲で、台所の隅を囲ったところで寝かされているらしい。通りを歩く人間を捕まえては金をせびり、その金で贖ったウォトカを一口、また一口と自分という墓穴に注いでその土を湿している(これはワーシカの表現だった)。「へ、へ、へ、こりゃしめたな、今夜はもうおしまいかと思ってましたよ! 靴下まで飲んじまったんでね、旦那、靴下まで飲んじまったんでさあ! この通りの角に行きゃあ量り売りで売ってくれる酒屋があるんで、そこにこの小瓶を持ってったら、小銭の分、旦那にもらった小銭の分だけ注いでくれるんですよ、旦那、この小銭の分だけね! あたしはそれをちびちびやりますよ、明日一日はそれで持つってもんですよ。しめたしめた……こりゃうまいぞ、と、あたしがウォトカを飲んでるとお思いになっちゃいけませんよ、こりゃなんとも苦いんです、苦くて苦くてたまらないんですよ、何せ追善のためなんですからね、小さなリーザとその母親を亡くした時に、泣いて泣いてカァーッとなった胸の火が、まだおさまらないんでさあ。へ、へ、へ!」
ワーシカは呂律の怪しい舌でそんなことを言うと、歯の隙間に息を通すようにして口笛を吹きながら、ふらふらと酒屋のある方角へ歩いて行った。吹いているのは子供のよくやる手遊び歌で、酔っ払いの常の、あのおそろしく調子っぱずれの掠れた歌だった。イワンはしばらくその場に立ち止まって彼の背中を見送っていたが、やがて通りに並ぶ建物の一つに入り、クラソートキンたちの暮らす家へと階段を上っていった。