さて、今回も『文体の舵をとれ ル=グウィンの小説教室』(アーシュラ・K・ル=グウィン著、大久保ゆう訳)の練習問題を進めていく。例によって解説付きである。今回はリメイクもしてみた。
練習問題①問2
一段落くらいで、動きのある出来事をひとつ、もしくは強烈な感情(喜び・恐れ・悲しみなど)を抱いている人物をひとり描写してみよう。文章のリズムや流れで、自分が書いているもののリアリティを演出して体現させてみること。(p.33)
こつん、と何かがぶつかった音がしたと思ったら、換気のために少し開けていた窓からみみみみみみ! とセミが飛び込んできた。窓際一列目の小野田が合唱部の声量と肺活量でぎゃあっと叫んで立ち上がる。騒然となる教室を横切り、セミは反対側の窓から逃げる、と思いきや窓枠にぶつかってみみみみっ! と弧を描きながら(「うわ」「やだ」「セミセミセミ!」)教室の真ん中に落下し仰向けでみみみっ! と羽をばたつかせる。「ううっわ……」と柴田が椅子から転がり出るようにして逃げた。隣の大貫はガッ、と机ごと横移動する。生徒たちがセミを見、それから俺の顔を見た。え? 俺? これどうにかすんの? と思いつつ俺は余っていたプリントを丸めて教壇から降りる。「もうやだ」「セミとか」「まじ無理」「うける」うけねえ。セミの羽がブルルッと床を打つたび胴体が四分の一ずつ回転する。俺はプリントを差し出してセミを捕まらせる。セミがプリントを抱えたところで持ち上げて教室の外へ、出そうと思ったらぼとんと落ちた。はあっ!? と叫んで佐藤が逃げる。逃げるなお前は。お前ゴキが出た時は平気で潰してただろ。セミは今度はうまい具合にうつ伏せになった。丸めたプリントを前に差し出したが、まるで目に入らないみたいに床の上で落ち着いている。「せんせえ」と中津川がちりとりを持ってくる。ナイス中津川。ちりとりを前に出して、プリントで尻を優しく叩くとセミは細い足をのこ、のこと動かしてちりとりの上に乗った。大急ぎで窓際に行き、全開にした窓からセミをぽいっと捨てる。セミはみみみ〜と羽ばたいて大きくCの字を描きながら落下し、下の教室にすぽっと入った。ぎゃあーっという悲鳴が上がった。
【解説】
あまりうまくいかなかった、という気がしている。多分セミと語り手と周囲の反応、三種類の描写が入っているからで、そのため散漫な印象を受けるのではないか。内容的にも長さ的にも複数段落に分けるのが妥当だと思う。動きの描写、苦手なんですよ……。
泣き言を言っていても仕方がないのでもう一度問題を確認する。「一段落くらいで、動きのある出来事をひとつ、もしくは強烈な感情(喜び・恐れ・悲しみなど)を抱いている人物をひとり描写してみよう。」動きや感情のうねりや盛り上がりを描写する問題である。ドストエフスキーがよくやっているやつだ。というわけでちょっと分析してみよう。以下使用テキストは江川卓訳の中公文庫版『カラマーゾフの兄弟』第二篇「場ちがいな会合」にする。小説の最初の方であるが、ネタバレが嫌だという人は飛ばしてください。いきなりドストエフスキーの話が出て面食らっている人もいるかと思うが、私はドストエフスキーのオタクなので今後も何かと話題に出るのではないかと思う。
さて、第二篇「場ちがいな会合」である。女性と遺産を巡って反目しあう父フョードルと長男ドミートリイを何とか和解……までは行かなくとも建設的な話し合いの場を設けようと、三男アレクセイの師であるゾシマ長老の庵室で顔合わせ、その後僧院長と食事会という段取りになっていた。が、結局うまく行かず、話し合いは破局する。この破局の中心となっているのは父フョードルの道化しぐさなのだが、長老の庵室での話し合いを引っ掻き回し、それを理由に一旦帰るかに思われたフョードルが、食事会に戻って来た上でもう一悶着という二段構えになっている。この戻ってくることを決心した一段落が面白い。
初め、フョードルは自分の言葉通りそのまま帰るつもりだった。しかし「宿泊所の玄関先に自分のがたぴし馬車がまわされてきたとたん、もう片足を馬車にかけたところで、彼はふいに足をとめた。」(p.204)そこでフョードルは自身の発言を思い出す。以下に引用する。
私は人前に出ますと、いつも自分はだれよりもいやしい男だ、みなから道化扱いされているような男だ、という気がしております、そこで、よし、それならいっそほんものの道化になってやれ、だいたいおまえたちからして、一人残らず、おれさまより愚かな、いやしい連中ばかりじゃないか!(同)
フョードルはこれをきっかけに「自分自身の醜悪な行為の意趣返し」をしたくなる。さらに以前に同様のことを尋ねられ、自分が相手に破廉恥行為をしたからこそ、それが元で相手が憎くなるのだ、と答えたことを思い出す。フョードルは「一瞬、思いに沈み」、「毒々しい笑い」を漏らし、目はぎらぎらと光り、唇は震え出す。そして毒くらわば皿まで、とばかりに自分の「醜悪な行為」の総決算に向かうのである。
この段落の面白ポイントは、
①最初は穏やかに、概説的な描写で始める。
②転換点は明確に——「もう片足を馬車にかけたところ」というピンポイントの描写。
③そこからは「雪玉が斜面を転がり落ちるように」。フョードルは自分の破廉恥行為を自身の言葉という形で重ねて回想する。つまり自分の怒りを自分で掻き立てている状態であるが、その後何があるかということを段階を踏んで読者に予感させているわけである。さらに外見描写、「一瞬、思いに沈み」——単なる愉快犯ではなく、彼なりに傷つきがあることが暗示されている。また芝居じみたフョードルの二つのセリフの後、ぐっとテンションを抑えて緩急をつける役割もある。そして決心する。『ままよ、はじめた以上は、行きつくところまで行ってやれ』
ああ嫌すぎる! ややこしい性格のややこしいお父さんが帰ってくる! この場面の前に性格づけをしっかりしていたのもあるが、その後のすったもんだや破局の大きさを思わせる嫌な段落である。
なおこの段落は分量にしておよそ2ページ分、字数では約1360字ということで文舵スタンダードからすれば長めだろうか。ドストエフスキーの場合、一段落が数ページに渡ったりすることもあるわけだし、長さについてはちょっと飛び出してもいいのではないか、と一瞬思ったのだが、外れ値を参考にするのは自分にどでかい逃げ道を作っているだけのこと。というわけでとりあえずセミを中心にして書き直してみる。
ふいん、と彼は教室に入った。そのままならコツンとぶつかって方向転換するはずの窓が、今日は換気のために少し開けられていたのである。その十センチほどの隙間をうまく——あるいは運悪く潜り抜けてしまった。まあ、入ったところで彼としてはどうということはない。何せ彼は単なるセミ、より詳しく言えばオスのセミ、どこにいようが飛んで、止まって、鳴くだけだ。が、たまらないのは部屋の住人たちである。あるものは立ち上がり、あるものは悲鳴をあげ、あるものは頭を抱えて机の下に退避する。総勢三十四名、同じ制服に違う髪型と顔形の十代の子供たちが思い思いに逃げまどう、その上空を彼はみみみと旋回する。実を言うとオスのセミは飛ぶのが不得手である。メスを呼ぶあの鳴き声を出すため、大きく膨らんだ腹は空洞になっており、そのために重心が不安定、体に比して小さめの羽は長距離を飛ぶのに適しておらず滞空時間はせいぜい一分、つまりはその間にどこか止まる場所を探さなくてはならない。彼はすでに落ちつつあり、落ちながら掴まる場所を探していた。これぞと思う止まり木は奇妙な呼び声をあげて逃げた。体が大きく左に傾ぐ。羽をばたつかせるが右に左に体が振れて、すわ墜落! 彼は最後の力を振り絞り、悲鳴でいっぱいの教室の空気を突っ切って真正面へと突進し——
「……おやまあ」
教室の正面、黒板の前のおじいちゃん先生のネクタイにぴたりと止まった。
【追記】
①最初は穏やかに、概説的な描写で始める。:冒頭部分はややゆっくりとした描写を心がけた。
②転換点は明確に。:ここは弱いかもしれないが、転換点は内容によりけりかとも思う。上述の「場ちがいな会合」ではフョードルの心変わりが段落全体のポイントでもあるので、やはりアクセントがついているとその後の描写がより劇的に響く。この文章であえて転換点を指定するなら4文目「何せ彼は単なるセミ」あたりか。冒頭の散文と比較して、ここから文章にリズムがついている。
③そこからは「雪玉が斜面を転がり落ちるように」。:問1①で心がけたことを反復しつつ、文の長短で緩急をつけた。
段落が二つに分かれているが、一段落目で十分課題に答えたことになろうからよしとする。
参考
ドストエフスキー著、江川卓訳『カラマーゾフの兄弟 1』(中公文庫)中央公論新社、2025年
Kumahiko & Michaera「セミの飛行能力:生態と物理学が織りなす進化の戦略」
https://note.com/lucid_peony1998/n/n56b9c09e9162
井の中の社畜「セミはなぜ人に向かって飛ぶのか?」
https://note.com/inonakashachiku/n/nec2a76b43218