私の名前は鈴の音

※犬が無事ではない
 
 彼は自身を幸運な男だと思っている。しかしそれは、故郷の町の最下層に生まれ、いわゆるスラムで育ち、男ならばジャンキーか売人かその両方かになるしかないような境遇から抜け出せたからではない。また暴力の才能に恵まれながら格闘家として大成するなどという道ははなから選択肢がなく、一チンピラか良くて鉄砲玉として死ぬところを生き延びたからでもない。もちろん女にもてるからでも、金があるからでも、豪邸とは言わずとも上等の家があるからでも、血統のいい飛び切りの番犬がいるからでも、その犬が家を守っており、万一賊が侵入したとて、吠え、噛みつき、勇敢に応戦し、たとえ首だけになっても賊の喉笛を食いちぎるほどの忠誠を見せているからでもない。
 仕えるべき運命に出会ったからだ。
 人は運命の奴隷ではないという。意思の力で己の道を切り拓くことができると、彼もつい数年前までそう信じていた。彼が自分の暴力性で道を切り拓いていた時は。今ならわかる。それはまだ運命に出会うことができていなかった時のたわごとだったと。
 彼の運命はジャンキーでも売人でも、格闘家でもなかった(どれも才能があると言われたが)。彼の運命は人の姿をしていて、不完全な体を呪いながら災厄を撒き散らしていた。彼の歩いた後には内臓を抜き取られた死体が累々と並ぶ。平和で安全な世の中のためにはいない方がいいような男。それが彼の運命であった。この男に仕え、その呪いの成就のために奔走するために彼の生はある。
 運命は運命らしく、自分の代わりに暴力と恐怖を撒き散らす部下には無関心だった。目を向けるのは仕事だけ。やった仕事と、これからやる仕事。運命は人間くさく我が身のことしか眼中にない。
 それで良い。
 ひょっとしたら自分の上司は、自分の名前すら知らないのではないかと思われることがある。だが、彼にとってはそれで良かった。見返りや寵愛を期待して働いているのではないのだから。すでに自分は運命をこの手に握っているのだから。
 だから名前なんて覚えられていなくて、それでいい。おいでも何でも呼べばいい。犬のように手を叩いて呼べばいい。あるいは使用人を呼ぶための鉄の鈴を振ればいい。ただ指を振るだけでもいい。指を曲げて爪の先でコツコツと机を鳴らせばいい。いずれにしても自分は彼の前に現れて彼のために動くだろう。
 
 
 しかし、上司であるこの男は、部下の服従の中のこうした崇拝にも似た思いを嗅ぎ取ると、臭いものでも嗅いだように、わずかに顔を痙攣させた。それは求められた時に差し出せばいいのであって、そうでない時に向けるのならば、それは悪臭と同じだった。男自身、気が向けば戯れに、毛皮を舐め合うオオカミのように、部下の体に触れ、微笑みを向け、愛を確かめるのにも似た危うい言葉をかけることがあった。しかしそれはあくまでも彼が求めた時でなくてはならない。それ以外の時には、ただ望み通りの動きをしていればいいのだ。望みとは例えば、誘拐や脅迫、拷問や時に殺しのような物騒な形を取るが、とにかく求めた結果が出力されればそれで良い。そこに陶酔はいらない。それは余計な臭みになる。そしてこの男は、薬漬けで鼻も効かないだろうに、そうした臭みに敏感だった。
 彼はかすかに目の端を引き攣らせながら部下を見た。いつもなら用が済めばすぐ下がらせるが、その日は鼻先を漂う欲望の臭みのせいで、すでに抱いていた苛立ちをあえて掻き立てるという行動に出た。彼は自身の痩せた体に合わせて作らせた高価な椅子に悠然と座り、立ったまま微動だにしない部下を見上げて微笑んだ。
「犬は元気か?」
 彼ははいと答える。犬というのは、一年ほど前、「業務提携」の契約を結んださる団体のボスから親愛の証として贈られた牡の子犬であった。シェパードと何かの雑種で、一族の犬たちは皆忠誠心に富み、勇敢だった。創業者の愛犬の子孫であり、それを贈られることは、彼らのコミュニティではボスの寵愛と組織内での地位の高さを示すことになる。部外者に自らの手であり足であるその犬を贈ることは、契約の証であり今後も「友好」な関係を築いていくという意思表示であった。彼は特別なお客様で、それに相応しく一族の中でもとびきりの、焦茶の体毛も艶やかな最も優秀な子犬が贈られた。
 が、この男は、生き物は不潔だと言って犬を一瞥するなり部下に押し付けたのだった。
「犬ね。……番犬にはちょうど似合いだろう」
 彼はまたはいと答える。おそらく答えを求めているのではないと声のトーンから推察したが、かと言って無視をするわけにもいかない。男は彼を見上げ、「用は済んだか? なら同類のところへ帰れ」と言った。彼はその通りにした。しかし実を言うと犬はもういなかった。
 贈られた時には子犬だったその犬は、みるみる成長し、一年ほどで成犬と変わらないサイズになった。ほとんど家にいない主人を主人と嗅ぎ分け、たとえ世話係と遊んでいても、彼が帰る気配を察知すれば玄関に伏せて主人を待った。まだ子犬から抜け出たところで遊びたい盛りであっても、番をしろと言いつければ目の前をリスが走ろうが雷が落ちようが、持ち場を離れず三角の耳をピンと立て、やめろと言われるまで警戒を怠らなかった。
 端末に侵入者を示す警報が入った日、彼は出荷品の選定を行なっていた。選定を終えて帰ったときには、犬はとっくに事切れていた。事前の触れ込み通り、犬は勇猛果敢だった。忠実だった。武装した三人の男が敷地に入るや弾丸のように走り出て、吠え、噛みつき、振り回し、プロテクターのわずかな隙間から見える肉を全て破壊してあっという間に二人を再起不能にした。残りの一人とは少し長い間揉み合いになったらしい。プロテクターを掻き分けて獲物の喉笛に噛み付いた犬は、抵抗する侵入者からナイフで腹や首をめちゃくちゃに刺されても決して牙を緩めなかった。プロテクターのおかげでやや命脈を保った侵入者は、犬を引き剥がそうとしたのか、毛皮に覆われた首にナイフを何度も突き刺し、鋸のように引いた。
 彼らが共倒れになった後、犬は世話係の手によって侵入者から引き剥がされ、子犬の頃からその上で寝転び、噛みつき遊びをしていた、大好きな小熊柄の毛布の上に横たえられた。彼は帰宅してまっすぐ犬の元へ行き、毛布の上に片膝をついて、その冷たい頭を撫でてやった。犬の首のあたりはズタズタで、ほとんど体から取れかけていた。まだ牝犬を知らない犬だった。いい犬だったのに、と、人々はあたら命を惜しがった。