さまよえるベガ

 ベガへ行くにはいろんな方法があったが、最も一般的だったのは旧式のエンジンで、古き良き冷凍睡眠の霜に覆われながら、数十年の旅をするという方法だ。ただし、これは迂遠だし、冷凍睡眠というのは不安定な技術だから、惑星に着くまでのつもりが永遠の眠りになってしまうことも少なくなかった。だから今は第二や第三の、第四の、あるいは第九あたりの方法が用いられている。
 そのうちの一つに奇妙な方法があり、いや惑星間航行に奇妙でない方法などないのは承知しているが、それはエンジンを信頼して任せてしまう、という方法なのだった。そう、技術ではない。方法である。最新式にチューンしたエンジンを積んで、ここへ行きたいんだ、よろしくたのむよ、ってな具合に、実際にはもう少し複雑かつ機械的な手段をふむのだが、とにかく行き先を伝え、あとはエンジンに任せておく。すると、地球基準で、平均して三、四ヶ月後、ふと気がつくと目的地周辺に着いている。こう言うと画期的かつ航行者の負担の少ない素晴らしい方法のように思えるが、他の方法と同じくいくつかの欠点があり、主なものをあげると①エンジン側の可能性には限界がある、つまりこの方法が使用可能な航路が限定される(だいたいエンジン一つにつき一つか二つ)こと、②この方法を行使可能な航行技師が限られていること、の二点である。つまり応用がきかないので、主に急がなくていい大型貨物船の航行に用いられている。
 エンジンをその気にさせられる人間というのが限られているので、基本的には、技師は遺伝的にクローニングされる。ある技師が航行不可能な年齢になったり、不慮の事故で亡くなったときには、その年若いクローンが後を継いだ。その際には、操船技術も含めたエンジンの動かし方もまた、記憶として引き継がれる。だが生体の不都合な部分(近眼だとか右足首をひねりやすいとか)はその都度調整されていたし、引き継ぐ記憶もほんの一部だったから、クローンと言えど別人と言って差し支えなかろう。エンジンの方だってチューンを繰り返して最初とは似ても似つかぬものになっている。
 その日も、何代目かの技師がベガへ向けて航行していた。と言ってもがんばるのは彼ではなくエンジンである。エンジンへ、あまり期待をかけすぎないように、しかし放置するのではなく、お前なら安心して任せられるよ、という気配を出しつつ、四ヶ月ほど生活してきた。いつも通りなら、そろそろ着いているころだなあと、七時間の睡眠を終えて歯を磨きながら、ひょいと外の景色を表示させると、そこには画面いっぱいに、マーブル模様が映っている。ベガの隣、一つ外側にある惑星表面だ。どうやら、エンジンは期待通りに仕事を終えたらしい。
 航行を終えた船は、まっすぐベガに行くのではなく、その隣の、マーブル模様の惑星の衛星軌道上を数周し、減速してからベガへと向かう。その間に、渡航に必要な書類の処理や技師の健康状態の検査をし、むずかしい一仕事を終えて興奮しているエンジンをなだめる。彼はずらりと並ぶエンジンのスイッチを、サブから順に、そっと切って行く。メインにはまだ仕事があるので、スイッチは切らず、代わりに出力を最小にした。航行速度が落ちたのを確認し、彼はくわえっぱなしの歯ブラシを洗うため手洗い場へ向かう。
 口をすすいだ後、彼は四ヶ月ぶりにコンソールへ座った。船を衛星軌道上にのせるためだ。長らく触っていなかったが、彼ではなく彼に引き継がれた記憶が正確に船を操作した。軌道に乗るとどこからともなく衛星管制塔が飛んできて、アームで船を引き寄せて繋ぐ。船体そのものと、それから通信を。
「ようこそ、ベガへ」
 柔らかな声が告げる。まだベガではなかったが、ベガは目前だ。この惑星はベガへの入り口だった。管制塔はベガへ近付く船を補足し、この惑星へと誘導して衛星軌道上でドッキングする。管制塔がある理由は、惑星をめぐるあいだ、乗組員の負担を減らすためだとも言われるし、今や時代遅れの、不要な機能だが、処分するにはあまりにもコストがかかるのでそのままにしているのだとも聞く。どちらにしろ、老朽化すれば勝手に惑星に落ちてくれる。
 管制塔のアームに船体が、完全にからめとられてしまったのを確認して、彼はメインエンジンのスイッチを切った。
「何かお困りのことはありますか」
 いいえ。ありません。
 彼は答えながら、首を横に振っていた。相手はプログラムだと分かっている。しかも、相当に原始的な。それでも反射的に、対人用の反応が出てしまう。
 ある記憶。
 彼ではなく彼の数世代前の、いや数十かもしれない、かなり昔の航行技師の記憶だ。その頃には、この管制塔にまだ生身の人間が暮らしていて、船を誘導していた。ようこそ、ベガへ。何かお困りのことはありませんか。
 管制官の人となりが、どんな風だったのかはわからない。それに関しては不要の記憶として分類され、破棄され、引き継がれていない。なぜか、その、ようこそ、という柔らかな声と、そしてそれが生身の人間であったこと、そして、その後、
「特に困っているわけではないのですが」
と技師が前置きし、管制官とお茶を飲んだという、その記憶だけが引き継がれている。なぜこれらが航行に必要であると判断されたのかはわからないが、もしかすると、管制官が生身の人間であった時の対処法として残されたのかもしれない。
 彼らが何を話したのかはわからない。その時の航行技師は死に、管制官も死んだ。ただ彼らの、前者の記憶は一部、代々同じ遺伝情報を持った子孫たちに引き継がれ、後者の記憶は管制塔の音声情報として残されている。その声は彼の魂の表面をそっとなぜた。ここへ来るたび、どうして胸の奥がぞわっとするのか、彼にはわからない。
「何かありましたら、すぐに報告をしてください」
 柔らかな声には、しかし何か、薄い石片をいくつも重ねたような、ちいさな違和感がある。声は続ける。「動悸・めまい・息切れ・腹痛・頭痛などの症状が見られる場合は宇宙酔いの疑いがあります。寝室で数時間安静にして、それでも治らない場合はより重篤あるいは未知の病の可能性がありますので、速やかに該当区画を遮断した上で検査キットを使用してください。見覚えのない部品が体に増えていることはありませんか。あなたは正常だと思っても、念のため自分のIDにアクセスして航行前の身体情報と照合してください。身体的あるいは精神的疲労の症状として幻覚・幻聴・幻肢痛などが見られる場合があります。あなたの乗組員の中で不審な行動をとっているものはいませんか? 一人で塞いでいたり、妙に楽しそうでいるものは? あるいはその乗組員は本物ですか? 最初からあなた一人ではありませんか? 不安になったら乗組員名簿をたしかめ——」彼は通信を切った。管制塔から同じ注意事項が書面で送られてくる。
 それから数日の間、彼は管制塔に送る定期報告以外、ほとんど無音の日々を、惑星表面のマーブル模様を眺めて過ごした。四ヶ月ともにあったエンジンのふるえとも無縁だ。エンジンは深く眠り、次に目覚めた時には、自分がほとんど不可能な航行をしてきたことなど忘れている。すっかり無機物らしくなったエンジンを操って、彼はいよいよベガへと向かう。
「さようなら。よい旅を」
 その言葉を最後に、管制塔は船体を手放した。
 数日見慣れた惑星の、まだら模様が離れて行く。あの星には名前がない。識別のための番号はついているが、「地球」や「火星」や「ベガ」のような、名前らしい名前はない。あの星はおよそ生物が暮らすには向いておらず、ただ船体を休ませ向きを変え、スクラップ同然の管制塔を衛星としてその周りに漂わせておくだけの役目しか持たない。
 数日後、彼はベガへつつがなく降り立ち、依頼人へ積荷を引き渡した。依頼人が端末にサインし、それと同時に彼の口座へまとまった金額が振り込まれる。彼は契約書通りの金額が口座に記録されたのを確認して、その足で大通りへ行き、大型の書店に入った。地図のコーナーで、共用語で書かれた世界全図を探し、ていねいに精査する。それから書店をぐるりと一周して、気になった本を手に取る。本のジャンルにはまとまりがない。名所絶景の写真集、楽譜、文学全集、建築関係の資格ハウツー、ポルノグラフィ。そして彼はもう一度地図のコーナーへ戻り、一枚ものの、世界全図を買って出た。
 船に戻り、自分の部屋でファイルを開く。電子的なそれではなく、紙を綴じ込むタイプのものだ。中には地図が綴じ込まれており、古いものから新しいものへ、それぞれ違った形の大陸が、山脈が、内海が、国境線が現れる。しかしいずれも、地図の端に記載されたロゴマークにおいては、ベガ全図を謳っている。
 ベガは来るたびに変化する。変化が速いのではなく、いつも彼の前に、どこかが違う別な惑星として現れる。前に来たベガと今日来たベガは、地形も歴史もファッションセンスも別物だった。しばしば、住人の外見的特徴が全く変わっている場合もある。どういうわけか、どう変わっても書店だけはたいてい存在していた。これは代々の技師たちも経験してきたことらしい。らしい、というのは、「ベガは変わる」という経験の記述だけが引き継がれて、その内容は破棄されるからだ。おそらく、そうするには記憶が膨大すぎるのだろう。
 あのベガと、このベガと、感覚や記憶の中ではたしかに別物なのである。しかし、あのベガもこのベガも、ベガなのだ。
 住人たちや依頼人はそう言っている。同じベガだと。依頼をこなせば彼の口座には相場通りの金額が振り込まれるし、それで惑星間経済も、ベガも回っているようなのだ。であれば、彼にできることはエンジンを信用することだけだろう。

 

 数週間後、今度は彼は、ベガから地球への荷を積んで飛び立った。なじみぶかいエンジンのふるえが彼の体を包む。船はベガを暫定の基準として、目印のない宇宙空間を進み、マーブル模様の惑星と、声だけとなった男のすむ、管制塔を通り過ぎる。あの二つだけは、いつ来ても同じだ。おなじようにまだらで、おなじように静かであり、いつ聞いてもおなじように心があわだった。同じという感覚が、どこまで信用できるのか、とまで考えたところで、彼は頭を切り替える。今から地球へ向かうのだから。
 地球へ向かうにはいくつかの方法があったが、その方法というのが奇妙なもので、いや惑星間航行に奇妙でない方法などないのは承知しているが………

 

 

 

エンジンの冷却のためこの星があるのですよと静かなるこゑ   石川美南

『歌集 離れ島』木阿弥書店、2011

 

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