コオトニイ・タウン

 彼がコオトニイ行きを決心したのは、ダンスの教師と逃げた妻から感嘆詞まみれの謝罪の絵葉書が届いた朝のことだった。コオトニイは彼の母親の故郷であり、祖父母の住んでいた家がある。つい二年前に祖父が、半年前に祖母が鬼籍に入ったが、家には買い手がつかず更地にしようという話になっていた。ところが、老人二人が六十年に渡って溜め込んだお宝、といっても金銭的価値はままごと遊びのカップアンドソーサーみたいにかわいらしい、のが小さな家いっぱいに詰まっているということがわかり、整理に二の足を踏んでそのままになっている。この際いい機会だから、遺品の整理がてら少し社会生活を休もう。そう考えて会社に休暇届を出す間も彼は自分の背中で、同僚たちがこの寝取られ男に嘲笑を送っているような気がしてならなかった。
 上司は、所定の形式にきっちり沿った休暇届けをくだらない詩でも眺めているような目で眺め、ちらっと目線をあげた。
「休暇?」
「はい。祖父母の遺品整理で。もう家も古くて、これ以上放置すると、危険が……」
「ああ、はい。休暇ね。はい」
 閑散期だったこともありあっさりと届出は受理された。二週間の夏の休暇だった。
 ともかくも、懐かしきコオトニイ! とはいえ彼にはここに来た記憶はほとんどないし、祖父母も陰気な変り者二人、という印象しかなかった。祖父母は従兄妹同士の結婚で、実際他人とは思えないくらいに似通っていた。変化を嫌い外出を嫌い、孫にも滅多に会いに来なかった。来いと言われたこともなかった。なので駅からバスを乗り継いで行った記憶もほとんどなく、バスを降りたところで少しもたついたのは仕方がない。何せ、右に行けばいいのか左に行けばいいのかもわからなかったのだ。左右にただ伸びた道と、雑草を見てしばし呆然としていると、後ろから誰かがぶつかってきた。振り返ると背の高い男が彼をうさんくさそうな目で睨んでいた。男は、彼と彼の思わず取り落とした荷物を探るような目つきで睨め回し、失礼、とも言わずに立ち去った。堂々とした骨格の男だったが、頭が小さく、細身で、不思議と威圧感がない。やや猫背気味の背中を見送っていると、「あれは屠殺屋だよ」と誰かが言った。見ると、ペンキのはげかけたベンチに老人が座り、彼に向かって帽子をとって白い毛がぽわぽわまばらに生えている頭を見せた。
「コオトニイへようこそ」
 にんまり、笑った老人の口、そこもやはり白く、まばら、歯が生えている。

 

 祖父母の家は彼らの死んでいた年数分のほこりがたまり、入った途端にくしゃみがでた。どの部屋も、窓辺に置いたこまごました置物や、花瓶なんかを入れた紙の箱で雑然としている。一番日当たりの悪い部屋は、壁紙が黴で黒くなっていて、最も日当たりのいい南東の踊り場は、壁紙が破れてなかの漆喰がぽろぽろ崩れていた。その小花柄の壁紙に、見覚えがあるような気がしたが、ひょっとしたらカタログやドラマで見たのかもしれない。そういう無個性さがかわいらしい、色褪せた壁紙だった。
 遺品の整理は、部屋ごとに順繰りにやっていけば、なんとか休暇中には終わりそうだった。彼は手帳に簡単な見取り図を書いて、片付けの段取りをつけた。人形や壊れた中国ふうの置き時時計、ソーサーやポットの蓋がどこかへいってしまっているティーセット。それらを仕分けし、処分を決める。たいていはスクラップかごみ捨て場、よくてリサイクルショップだった。必要なものはほとんどなかった。この処分の代金だけでも相当な額になりそうで、彼はうんざりした。
 それにしても、この遺品たちのなんとたわいのないことか! おそらく彼らはものを捨てられない性格だったのだろう。祖父母の家の遺品は、たいていが何の役にも立たないし、アンティークとしての価値もない。コレクション、というには統一性がなさすぎる。もしも価値のありそうなものがあったら、専門家に見てもらおうか、と淡く期待していたのだが、この分ではそれもなさそうだ。彼は置物を窓辺からゴミ袋へ放り込み、部屋の隅の紙箱を開けて、何が入っているのかを確認する。母のものらしいぬいぐるみに彩色の積み木セット、布の端切れがいっぱいにつまっているの、ティーセットはいくつめかわからない。箱のなかにお菓子か何かのきれいな空き箱が入っていたこともあった。何が出てくるのかわからないが、出てきたものはたいていくだらない、驚きのないびっくり箱みたいだった。祖母のものらしい小さな靴が出てきたとき、彼は少し躊躇したが、結局捨てることにした。
「精が出ますね」
と、ゴミを出しに外へ出た彼に、散歩中だろうか、仲むつまじげに腕を組んだ老夫婦が、というか妻の方が、声をかけた。夫の方はむっつり黙っていたが、被っていたキャスケットを小さく持ち上げた。「ああ、どうも」彼は挨拶を返し、役に立たないがらくたが箱ごと入っているゴミ袋を所定のゴミ捨て場に置いて、口元を覆ったタオルをはずすと、玄関にぐったりと腰を下ろした。デスクワークに最適化された体は、ほんの半日の肉体労働に音をあげた。タオルで防いでいるが、ほこりがひどくてくしゃみが止まらない。目もかゆい。帰りたい。
「あなた、これ、よろしかったら」
 さっきの老夫婦の妻が、今度は反対方向から戻ってきて、彼にパンの包みを渡した。「よろしいんですか」「いいのよ、お疲れ様」老夫婦の夫は寡黙らしく頷くだけだったが、その腕にパンの入った大きな紙袋を抱えている。
「ありがとうございます」
 包みを開けると、皮のかたい、丸い形に十字の切れ目があるだけのシンプルなパンと、アルミ色の包み紙入りのバターが入っていた。パンはまだ暖かかった。パンを割り、口に入れると素朴で力強い味がした。塩味の、シンプルなパンだったが、噛むほどに小麦の香りが口の中に広がるようだった。
 パンを平らげて、丸めた包み紙を片手に握りしめながら、彼は大きく伸びをした。祖父母の家とよく似通った小さな家が並び、家の前には花を植えた鉢植えが並べてある。遠くの方には、バス停のある丘が見えた。日は傾いていたが、最後のバスまでにはまだ時間がある。彼はタオルを口にあて、祖父母の家に戻った。
 しばらくして、ぎゃっという悲鳴が聞こえた。泡を食って玄関からつんのめるように逃げ出した彼の足元を、ネズミの一家がちょろちょろと駆け抜けた。

 

 驚いたことにあの老夫婦はそれなりにコオトニイに馴染んでいたらしい。最初はうさんくさそうに見られたが、あそこに住んでいた何某の孫だということが広まると、コオトニイの住人はおおむね好意的な態度になった。もっとも、祖父母の家は崩れかかってとても住めるような状態ではなかったから、片付けてくれる人足として歓迎されたのかもしれなかった。
 彼はコオトニイからバスで三十分ほどいったところにある街の、駅近くのホテルに宿をとっていた。バスは朝と昼と夕方の三回しか出ないから、最後のバスが出る一時間くらい前に切り上げてコオトニイを散策し、ホテルに帰るのが日課になった。
「どこへ行くの」
「ホテルに帰ります」
「ああ、そうだったねえ」
 夕暮れのコオトニイを歩いている彼に向かって、老人たちはそう尋ねる。決まって別々の老人だったが、みな穏やかで、彼を客人として扱った。時々は彼と並んで歩きながら、街の途中まで、あるいはバス停まで、たわいもないおしゃべりをする。
 祖父母のお隣さんのデールマン夫妻は一日目にパンをくれた夫婦だった。娘が孫とその恋人と一緒に出戻って来たというミセス・ホワイト、ビングリーさんは足が悪くて、といつも嘆いている。コオトニイは古い町だったが、幾つかの家は新しい白い壁をしていて、それが夕日に当たると古い町並みと奇妙なコントラストを生んで美しかった。何年か前、勘当されたどこかの息子がリフォーム業者になって帰ってきて、その時いっせいに古い家が建て替えられたという。そういうことを聞かされるくらいに、彼はもう町の中に混じっていた。
 肉屋のベイツもまた、彼をあたたかく歓迎したのだが、それははじめ、彼を戸惑わせた。ベイツの肉屋は町の入り口を入ったところにあり、毎日朝と夕にそこを通る。ベイツはその度に彼に声をかけ、「ベイツのソーセージハウス」というゴシック体とデフォルメされた豚がダンスしている看板の下から手を振る。うちのソーセージ買わないか、ホテルのカフェテリアじゃ飽きるだろ? と。
 彼はいつもよくわからない理由をつけてソーセージを買わなかったのだが、ベイツは気を悪くすることなく、肉の入ったケースに長身を折るように肘を置いて体重をあずけ、にこにこと手を振った。彼こそ、コオトニイについた一日目、バスから降りた彼をひとにらみして去った屠殺屋だった。もともとは大きな屠畜場で働いていたが、マネージャーを任されるに至り、そこを辞して実家の肉屋を継いだという。
「ベイツの肉屋、って名前だったんだが、それじゃ味気ないからソーセージハウスに変えたんだ。看板も、いかしてるだろ、なんというか、都会的で」
 看板を自慢するベイツの隣で、同じようなにこにこ顔の老人が頷いた。老人はベイツの父親で、顔はそっくりだったが、体型は上から常に押さえつけられているようにずんぐりとしている。小男のベイツ・シニア氏に合わせて作ったので、店の備品はたいていベイツにとっては小さかった。長身だった妻はベイツがまだ小さいころに出て行っちまった、とベイツ・シニア氏は豪快に笑った。
「俺もこいつも屠殺場で働いたがね、こいつの方がずっと優秀なんだ。俺は辞めるまで豚ばっかり剥いてたが、こいつは、牛をリンゴみたいに剥いてたっていうんだから、まあ、血だよ、母ちゃんは勇敢な人だった」
 ベイツは一瞬照れ笑いを浮かべた。屠畜場にいたころは、ナイフ一本で牛を鼻の先から尻の穴までぐるんと剥いたんだ、と控えめに、しかし誇らしげに言う。二の腕ほどの反りのある皮を剥くためのナイフを握っていたというベイツの手は、傷跡のある甲の部分も指も、みな一定の比率の縦長で、短く切った爪だけが丸い。
 バスが来るから、と店先を辞した。バス停は小高い丘の上にあり、土の道が一本、弱々しく蛇行しながら伸びている。その道のりを、彼はいつもポケットの中に固く小さな違和感を感じつつ歩いていた。それは逃げた妻からの絵葉書で、字の部分が見えないように小さく折りたたまれている。彼は、それを破り捨てる場所を探していたのだが、どこに捨ててもコオトニイの町の人間に見つかり、彼の敗残が町の端から端まで、バス停のベンチに日がな座っているあの老人にまで広まってしまうような気がして、ちょうどよさそうな焼却炉やドブ溝を見つけては思い直すということを繰り返していた。つまりは、彼は未だに妻の不倫の証書を肌身離さず持っていたのである。
 隣町へ行くバスの座席に揺られながら、彼はコオトニイの町を眺める。茶色や灰色の町並みに、白い壁の混じるコオトニイの町は、遠くから見ると、草原に砂糖くずを撒いたように見えた。

 

 妻はいつも、赤っ茶けた髪の毛を気にしていた。年をとると、艶がなくなってよけいに赤っぽくなったといって繰り返し嘆いた。そんなことはない、とても魅力的だよと言い聞かせても、彼女は嘆くのをやめなかった。だから、ダンス教室に通いはじめて、嘆くのをやめたときは本当によかったと思った。彼女には自信と、それから筋肉がついた。ベッドの中で触れる彼女の肉体は明らかに重く、かたくなっていった。もう髪の毛のことはいいのかい、と尋ねると、彼女はそういうのはもういいの、とあっさり言ってのけた。他に言うことはない、と尋ねられて体型が少し変わったと言うと、そうかもしれない、と、口元だけを動かすような奇妙な微笑を浮かべた。その時は何とも思わなかったが、今になって思えば馬鹿にされていたのだ。もうその頃には、すでにダンス教師と関係を持っていたのだろうか?彼は何も知らなかった。妻がしばしば、居間やキッチンでかけていた音楽。あるいは音楽はかけずに軽く口ずさみながら、くるんと軽く腰を回して、つま先で踊ってみせる。音楽の中で妻の背筋は伸びやかに反った。あの音楽と振付は、何といったのだったか。妻が音楽に合わせて体を揺らしながら、微笑んで手を伸ばす。
 彼はくしゃみをする。すると夕暮れ時のコオトニイにいる。彼はまだ、妻からの絵葉書を捨てられないでいる。ズボンを着替えるたびに律儀に尻ポケットに移して、毎日コオトニイへ持って行く。
 今日も絵葉書を捨てられなかった。彼は尻ポケットを抑え、そこに紙の感触があるのを確かめる。やれやれ、ところで、ここはどこだ? うろついているうちに、どこか知らないところを歩いていた。どうやらあまり使われていない裏道らしく、ほとんどが草に覆われ、真ん中だけ、細い筋のように、切れ切れに地面が見えている。道の片側は板塀で、彼の目線よりほんの少し背が低く、コオトニイの住人たちの裏庭や裏口が見えた。この辺りには、白っぽけた壁の家はなく、経年で黒くくすんんだ家並みが続いている。
 しばらく歩いていると、バス停のある丘の、見慣れた地形が見えはじめる。どうやら間に合いそうだ。ほっとした瞬間、何か奇妙な臭いがして、彼は立ち止まる。誰かが煙草を喫んでいる。彼のいるより少し先にある板塀は、一部板がなく、開いていた。はじめからそうなっていたのか、それとも壊れたのをそのままにしているのか。彼は煙に誘われるように板塀に近づき、中を覗いた。中はごく普通の中庭だったが、植物は育てておらず、芝生のない、土の剥き出しの地面に、三メートルほどの、棒を三本組み合わせて錐のような形にしたものと、丸木を半分に切ってくり抜いたような桶がある。その奥には古ぼけた漆喰の壁の家があり、裏口の扉が開いて、男が一人煙草の煙を吐いていた。煙と、かすかな生臭さの混じった臭いが鼻をツンと刺した。
 男はベイツだった。なるほど、位置的にはベイツの家はこの辺りのはずだった。それにしても、表の愛想のよさに比べて、なんと殺風景な家だろう。彼は礼儀を忘れてベイツと、彼の家をじろじろ眺めた。ベイツは扉の木枠にもたれかかり、ややあごを突き出すようにして煙草を吸っている。そうしていると衣服の腹のところがたるんで、痩身が目立った。
 かすかに音楽が聞こえた。店でラジオでもかけているのか、ベイツは煙を吐く合間に、首を表のほうに傾けて、目を閉じた。体をちいさく揺らす。幾分スローな曲のようだった。煙草をもたないほうの手がとん、とんと軽く腿を叩いた。どちらかといえば痩せ型であるが、腰周りはしっかりとしていて、袖を肘までめくり上げた長袖のシャツから覗く腕は太い。肉のうえに薄く脂肪がのっているような柔らかな輪郭をしていた。
 ふとベイツが顔を上げた。彼が何か挨拶ごとを言う前に、ベイツは彼をぎろりと睨むと、煙草を吐き出して踏みにじり、裏口のドアをぴしゃりと閉めた。

 

 バス停についた瞬間からこれはもうだめだと思った。最後のバスは出てしまった。あの老人もいなかった。彼はと ぼとぼと丘を下り、祖父母の家に戻った。ボロ屋だが雨風をしのぐくらいならできるだろう。毛布やシーツ類は、あるにあったが、ベッドに乗る分ひと組きりで、それもひどくほこりをかぶっていた。あれほどものの多い家なのに、布団はそれだけしかないのを意外に思い、それから、きゅうと変なふうに喉が鳴った。彼は立ち上がり、祖父母の品をあらためた。雑然と、どの部屋にも、物置からはみだしたように二、三隅にころがっている箱のことを片付けられないからだと思っていたが、違うのだ。彼らは彼らなりに、自分たちの生活の堆積物を片付けようとしていたのだ。
 月明かりがよくさしこむ二階の寝室で、彼は一つ、箱を開けてみた。中には、段ボールの詰め物と、その間に、人形だろう、何かが緩衝材に包まれた頭だけを出して並んでいる。彼は一つ手にとって、緩衝材を開いた。入っていたのは陶器の人形で、天使の彩色をほどこされていた。頭の輪は髪の毛のところに直に描かれてある。彼は陶器の人形たちを引っ張り出して、床に並べる。大工のヨセフ、直立して舌をだしたトナカイ、サンタクロース、東方の三博士は三人いっしょにくっついてイエス・キリストの方をみている。トナカイとサンタクロースは彩色のタッチが違っているのだが、この二つは別のシリーズなのだ。彼は思い出した。クリスマスの時期にコオトニイに遊びにくると、この陶器の人形が置いてあった。サンタクロースはないの、と彼が何気なく言った翌日、サンタとトナカイが増えた。だが、肝心の、イエスを抱くマリア像がなかった。彼が割ってしまったのだろうけれど、覚えていなかった。
 ふいに、階下から音がした。ドアがきしむような音だ。隙間風でも入ったのだろうか。踊り場まで来たところで、彼は足を止めた。誰かががさがさと、家の中をあさっている。泥棒? まさか! この家には価値のあるものなんてないのに。
 きいとドアが開いた。彼はとっさに踊り場の陰に身を隠した。どかどかと、あまり優雅でない足音がした。そっと覗くと、ずんぐりした陰が、何かを脇に抱えて出ていった。
しばらく息を殺して、あの陰が帰ってこないことを確認すると、彼はそっと階段を下りた。男のいた部屋を開けてみる。部屋はひどくは荒らされたていなかったが、幾つか箱の配置が変わり、一つは空になっていた。中身はたまたま覚えていた。中国ふうの置き時計だった。

 

 翌朝、彼はまっすぐに肉屋へ足を運んだ。昨日、階段の上からみたずんぐりした影は、ベイツの父親に違いないと思ったからだった。
 ベイツはいつものように愛想よく手をふってから、おや、という顔をした。「ずいぶん早いね」それに、いつもと方向が逆じゃないか。ベイツは不思議そうに言うのだが、その後ろ、店の奥の棚には、中国ふうの置き時計が飾ってあった。彼はそれを指さし、なるべく重おもしく響くように言った。
「すまないが、あれはどうしたんだ」
「あれ? さあ、そういえば朝店を開けたらあったんだ。親父じゃないかな」
 ベイツは、顔色が悪いくせに目だけを赤くしている彼の様子には無頓着に父親を呼んだ。店の奥に、ベイツの大声が吸い込まれる。ほどなくして、ベイツの父親の、ずんぐりむっくりした姿が店さきに現れた。
「なんだ、どうしたよ」
「なんか聞きたいことがあるって」
「あれを」
と彼は、置き時計を指差した。
「返していただきたい」
 彼はそれだけを言って口をぎゅっと引き結んだ。鼻の穴がわずかにふくらむ。ベイツは一瞬あっけにとられたが、すぐに彼と同じ表情になった。
「どういう意味だ」
「そのままの意味だ。我が祖父母の家から持って行ったその時計を、返してもらいたい」
「親父が泥棒したっていうのか!」
「残念ながらそういうことになる。昨夜君の父上が無断でそれを持っていくのを見たんだ」
「あそこに泊まったのか? わざわざ確かめるために? 最初から疑ってたのか?」
「そうだ!」
 勢いにまかせてそう言った。しまった、と頭のどこかで声がしたが、怒りにかき消される。ベイツが歯をむき出しにして彼の胸ぐらをつかんだ。父親があわてて割って入った。
「ご、誤解だ! 誤解だ」
「何が誤解なもんか! こいつは最初から泥棒よばわりしたんだぞ!」
 いいから離せ、とベイツの父親が言った。ベイツは父親にもつかみかかりそうになったが、父親にわからんのか、と一喝されて、しぶしぶ手を離した。ベイツの父親は、息子の胸をついて、店の隅においやると、彼に穏やかそうな、しかし探るような目を向ける。
「なあ、あんた。確認してもいいかい」
「何なりと」
「あんたの家のドアに貼ってあるのは、あれはあんたのじゃないのかい?」
「ドアに? 何の話です」
 ベイツの父親が、申し訳なさそうな顔で彼の家の方を指差した。そちらの方はここからは見えないのだが、彼は律儀に指差されたほうを向く。
「あんたの家のドアに、なんでもご自由にどうぞ、って貼り紙があったんだが」
「えっ」
「あんたじゃないのか」
「知りません!」
 彼は叫ぶと、祖父母の家に向かって走り出した。のんびり散歩をしていたコオトニイの老年年金受給者たちが、驚いて彼の方を振り向く。彼は祖父母の家に向かって全力で走る。今まででたぶん一番走った(ここ数十年、運動不足だったせいで、五十メートルもいかないうちにほとんど歩くみたいなスピードになっていたのだが、体感としては、まあそのくらいだ)。
 祖父母の家に近くにつれて嫌な予感がした。なんとなく、いつもより人が多い気がするし、みんな祖父母の家に向かっているような気がするし、何より走る彼をみて「あら、ありがとう」などとにこにこ声をかけるご婦人に三人は遭遇した。
 通りを曲がって、彼は呆然と立ち止まる。祖父母の家の玄関は人でいっぱいだった。おそらく結婚パーティ以来の人出であろうが、玄関から出る人々は皆、一様に紙箱や花瓶や置物を抱えている。
「おやあ、祭りみたいだなあ」
と声がして隣を見ると、ベイツが横にたち、腰に手を当てた姿勢で祖父母の家を眺めていた。ベイツも驚いているらしく、ぽかんとした顔で、ままごとみたいな小さな家から次々にがらくたが運び出されている様子を見ている。彼の視線に気づくと、ベイツは右ねじの法則の形にした親指を、祖父母の家の方へ向けた。
「あれ、追いはらうかい」
「いや……」
 彼は首を横にふって、もときた道をふらふらと帰りはじめた。ベイツが目をぱちくりさせながら後ろをついて歩く。紙袋を抱えたご婦人が、にこにこしながら「ありがとうね」と彼に声をかける。彼は上の空だったのでベイツが代わりに返事をした。
 ベイツのソーセージハウスの前では、ベイツの父親が心配そうに立っていた。
「大丈夫かい」
「ええ……」
「あれ、返そうか」
「いいえ、そんな」
 持っていてください、と彼は言った。不思議なもので、口に出してみるとそっちの方が断然いいような気がしていた。
「チャールズ、じゃない、あんたのじいさん、がらくたばっかり集めちゃ人におしつけるのが好きでねえ。いらねえっていうんだけど、たまに役に立つもんがあるからさ」
 そうだ、この店もラジオもあいつにもらったやつだよ、とベイツの父親は店の奥を指差した。ラジオのスイッチは入れっぱなしらしく、店の奥から派手な音楽が聞こえる。
「そうだったんですか……」
「うん、だから、あんたがやったんだと思ってたけど。いたずらかねえ」
 知らなかった。彼にとって祖父母は変わり者で、娘夫妻とその子どもにもあまり打ち解けていないようだったから、てっきりひとぎらいだと思っていた。けれども、それは彼ら夫婦のほんの一面にしかすぎなかったのだ。
 ベイツがやれやれといった感じで店の中に戻る。彼ははっと気づいて、「失礼なことを申し上げて、すみませんでした」と頭を下げた。ベイツの父親は、妙に恐縮して、いいよ、勘違いだったんだろ、としきりに手をぱたぱたと振った。
 すみません、ともう一度頭を下げたときに、ふと店先に並ぶソーセージが目に入った。
「あの、これ包んでもらっていいですか」
 ベイツの父親は一瞬、きょとんとしてから、ああ、はいよ、と言ってベイツにソーセージを二本包ませた。二本分の代金と引き換えにソーセージを受け取りながら、彼は早くも後悔していた。およそ、ソーセージを買うのに、考えうるかぎりで最悪のタイミングだと思った。
 帰りのバスで、ソーセージの包みから立ちのぼる肉の匂いを嗅ぎながら、彼は今日の怒りについて考えていた。寒さで寝不足だったとはいえ、あんなふうに怒ることは、彼としては珍しかった。あんなふうに、頭に血がのぼったのは、祖父母の形見を持って行かれたと思ったからだった。彼は遺品を整理しながら、どこかに彼らの愛情のしるしを探していたのだ。彼らが、自分を愛してくれていた証拠が、あのがらくたの中にあるはずだと、心のどこか深いところで期待をしていたのだ。祖父母の家の前で、がらくたたちがはこびだされていくのを見るうちに、そのことに気がついた。ただ愛された証拠がほしくて、あの時計に、それがあるかもしれない、と思うと、ただただ許せなくなったのだ。彼らをまともに愛したこともなかったのに。
「はずかしい」
 彼はつぶやいた。そうやって声に出すだけで、とてつもない疲労感がおそってきて、彼は目を閉じた。

 

 結果的に言って、ソーセージを買ったのはほんとうに最悪のタイミングだった。寒い家で一晩を過ごしたのと、寝不足とで、彼は風邪をひいてしまった。ソーセージは、たしかにうまかったが、半分食べただけでもう気持ちが悪くなってしまって、結局、捨てるしかなかった。彼は休暇の残り数日を、ホテルのベッドでうんうん唸りながら過ごした。
 コオトニイへ戻った日も、少し熱っぽかった。そのまま帰ってしまいたかったが、祖父母の家に軍手やメジャーや、荷物を置いているので、それを取りに行かねばならなかった。
 祖父母の家はいきなりなくなったりはせず、やはりそこにあった。玄関には、「ご自由にお持ち帰りください」と、太く丸っこい字で書かれた貼り紙があった。はがれかけたそれをひっぺがし、中に入る。祖父母の家は、丸めた包み紙や空の空き箱や人のいた気配で雑然としていた。たしかにものは減ったような気がするが、結局がらくたばかりだったから、なくなったりはせず、ただ散らかっただけのようだった。彼は、しばらく、部屋を片付けようとこころみていたのだが、やめた。半分片付いて、半分は散らかったままの部屋を見て、小さく笑う。貼り紙を広げて、光にすかしたり、斜めから見たりしてみた。ひょっとして、祖父の筆跡なのではないか、と思ったのだけれど、彼には判断がつかず、もとのように丸めてゴミ袋に入れた。
 荷物を詰めたキャンバスバッグを肩にかけて玄関を開けると、お隣のミセス・デールマンが立っていた。ちょうど扉を開けようとしていたところらしく、引っ込めた手をリスみたいに胸にたたんで、びっくり顔をしている。
「ああ、びっくりした」
「すみません。……今から帰るのですが、何かご用ですか」
「あら! 本当にタイミングがよかったわ。ねえ、これ、よかったら持っていてくださらないかしら」
 ミセス・デールマンが差し出したのは、陶器のマリア人形だった。赤子のイエス・キリストを抱いている。マリアの光輪も、髪の毛のところに黄色い帯で直接描かれていた。
「私の母が作ったの」
「そうだったんですか……」
 がしゃん、と陶器の割れる音を聞いた気がした。マリア像ではない。家にあった皿で、たぶん引っ越し祝いにもらった揃いの一枚だった。皿を割ってしまった、と、妻が泣いていた。それが直接の原因ではなく、溜まりに溜まっていたものが、その時爆発したのだった。
 気に入ってたのに、というのでまた新しいのを買いに行こうと言うと、妻は彼を睨みつけた(また睨まれている。自分はよく、こんな風に睨まれる、と彼は思う)。あなたはそれでいいかもしれないけれど、私はそうじゃないの。そんなに気に入ってもなかったくせに、と思いながら彼はあやまった。妻は、その時不安定だったから、受け止めてやるのが自分のやることだと信じていた。彼女が不安定でつねにいらいらしていたのは、再就職がうまくいかなかったからだった。彼女は小さな会社でポスターデザインをやっていた。気に入っていた仕事だったが、結婚してしばらくして辞めてしまった。子どもが欲しい、と、夫婦で思ったからだったが、比較的遅い結婚だったからか、それとも他に原因があったのか、結局できないまま疲弊して、妻はそのままずるずると家にいることになった。今更復帰しようとしても、デザインの業界は、妻がいたころとセンスも道具も大きく変わっていて、もう彼女が入り込める隙間はなくなっていた。なんとか入り込めたのはローカル情報誌の編集部門で、出資は鉄道会社がやっていた。そこはどちらかといえば、「紙面デザインもできる記者」として彼女を雇ったのだ。彼女は、子供向けの豆知識コーナーの執筆を担当し、いつも図書館に通ってはあたらしい話のたねを探していた。それはそれで楽しそうだと彼は思ったが、彼女は、どうしてこんな仕事をやらなくちゃならないのかしら、と、タイピングをする手をとめてはどこか遠くを見ていた。
 希望の就職先が決まらないのを、妻は自分の赤毛のせいにした。赤毛を嫌うひとが多いから。女はそういうところが不利だから、というのを、彼は心の隅で、そんなはずはないだろう、そんなのは甘えている、と小さくつぶやきながら聞いていた。聞きながら、そうだね、でも君を必要とするところはきっとあるよ、と優しく言った。きっと、そんなことは、本気でないのなら言うべきではなかったのだ。
「どうかしら」
 老女の声で、彼はふと、自分が今コオトニイの祖父母の家にいることに気づいた。
「ありがとう」
 彼は荷物を下ろすと、中から箱を取り出した。箱を開けると、陶器の人形が入っていた。まあ、とミセス・デールマンが声をあげた。彼は緩衝材のかわりに自分のハンカチでマリア像を包み、箱の空白におさめた。
 バス停へ向かうために、彼は表通りをよけて、裏道を通った。いつか、ベイツが煙草を吸うのを見たあの道だ。相変わらず誰も使っていないのか、雑草が道のほとんどを覆っている。
 ベイツの家の裏まで来る。板塀のところは開いていた。どうも扉自体がないか、外されているらしかった。この間見たのと同じ、錐形のオブジェと桶が転がっている。これは何なのだろう、と彼はしばらく考え、それから、期待をしてもベイツはいるわけではないのだ、と自分に言い聞かせた。
 彼が板塀の空き間から離れて数歩行ったところで、扉が開く音がした。慌てて戻り、覗いてみると、ベイツの長身が裏口の木枠から出てくるところだった。ベイツは、板塀からのぞいている彼の姿を見て、体を乗り出すようにして目を細めると、「ああ、あんたか!」と破顔した。その仕草を見て、彼は、ひょっとしてベイツは目が悪いのかもしれない、と思った。
「誰かと思ったよ。なんでこんなところにいるんだ」
「帰るんだ。バスに乗る」
「いや、こんなところ、誰も通らないからさ」
 ベイツは彼を手招きした。彼は庭に入り、オブジェを避けると、裏口のところまで行った。ベイツが煙草の箱を差し出した。
「やるかい?」
「……いただこう」
 ベイツはまず、彼のくわえた煙草に火をつけ、それから自分のにも火をともした。火を覆う手は大きく、骨ばっていて、指の先の爪だけがそれらすべての造形に反するように丸い。
 裏口を挟んで、家の壁に並んでもたれながら、彼ら二人はしばし煙草をふかした。遠くから音楽が聞こえる。甘いかすれ声のボーカルが入っている。並んで、あるいは向かい合わせで、すりつけあうように体をくねらせるために、ちょうどあるようなリズム。なんだろう。ルンバか、タンゴか、と考えていたが、彼はその二つしか、ダンスの音楽を知らない。彼は片方の足に体重をあずけ、もう片方のかかとを壁にひっかけるような姿勢で、体を音楽の方に傾ける。
「これ」
「ん?」
「何の音楽?」
「さあ」
 そこで会話が終わったが、ベイツは「親父のラジオだと思う」と付け加え、さらにちらちらと彼を見て、「あれ、何だかわかるか」と、庭のオブジェをさした。オブジェには、よくみると、三本の棒が組み合わさったところから短い鎖が伸びていた。
「何だろう。ブランコ……じゃ、ないよな」
 ベイツが笑った。口の端から煙がぷっと出る。
「はずれ。あれは、血抜き用の枠だよ。あれに豚を逆さに吊るして血を抜くんだ」
「あれが?」
 ずいぶんと簡素だ。あれに動物をつるしたら、くちゃっと壊れてしまうのではないだろうか。
「昔はここでも肉をさばいてた。十三の時だったかな、最初に豚をさばいたのは。それからずっと、これ一本さ。つい最近までは、たまに、鹿だったり、猟で撃ったのを、こっちに持ってくる人がいたんだが」
「鹿まで? そんな大きなものまで、君はさばけるのかい」
「牛よりは小さいよ」
 ベイツはおかしそうに笑った。すっとんきょうな質問をしたのがなんだか恥ずかしくなって、彼はやたらに煙草をふかした。
「今はもうそういうこともないから……」
 その先の言葉を言わずに、ベイツは煙草を吸い込んで、吐き出した。吐き出す時、形のいい顎が少しだけ上を向いて、喉仏を無防備にさらす。低く唸るような声で、彼はラジオに合わせてハミングをしている。ゆらゆらと体が小さく揺れるのを、彼は煙草を人差し指と中指の間にはさんだまま横目で見ている。それにしても、この曲は、何と言ったんだったか……、ベイツが姿勢を変えて、片足のかかとを壁につき、もう片方の足に体重をかける。この時、彼らはドアを挟んで線対称の姿勢でいることに、彼は気づく。
 ベイツが先に吸い終わった。彼はハミングをやめ、煙草を裏口の踏石の上に落として踏みつぶす。それから、彼の顔をじっと見つめると、奇妙な微笑みを浮かべた。
「何だい」
「あの貼り紙、書いたのは親父だ」
「えっ」
 彼はびっくりして、思わず煙草をとり落としそうになった。
「何でまた」
「字が親父のだった。ま、寂しかったんだろ」
 へえ、と空気の抜けたような声で返事をして、彼は惰性で煙草を吸った。煙草のけむりがほわほわと口から漂っている間抜け顔に向かって、ベイツはにやにや笑いを浮かべながら、「どうする? 訴えるか?」と言う。
「いや……いいよ。どうせがらくたばっかりだし」
 ベイツはにやにや笑いをくずしてひっひと笑い声を立てた。それにつられて、彼もぎこちない微笑みを浮かべる。そうさ。欲しいという人がいるなら、もらってもらうのが一番いい。それでも、彼らの生きた証について、きちんと向き合えなかったことに小さな寂しさを感じた。ベイツが頷きながら、「助かるよ」と言った。
「じゃあな。火だけ気をつけてくれ」
 ベイツは彼の肩を、いささか強すぎる力でぽんと叩くと、店の方へ消えていった。
 それからほどなくして、彼も煙草を吸い終わった。吸殻を踏んで火を消したけれど、なんとなく不安で、ぺたんこになった吸殻を拾い上げた。ベイツのもついでに拾っておこうかと思ったが、踏石にはいくつも吸殻が落ちて、茶色くこびりついていたので、彼は仕方なく自分のだけを拾い、手に持って歩いた。
 バスで隣町へ行き、ホテルを引き払った。吸殻は、捨てるタイミングがつかめず、客室の灰皿においてきた。ホテルに置きっぱなしになっていた荷物が一緒になると、とたんにずっしりと肩にこたえた。人形はおいてくればよかったと、彼は少しだけ後悔した。
 駅にたどり着き、彼はまずベンチにどっかりと腰を下ろした。小さな駅で、客は彼しかいなかった。ペンキのはげて錆の浮いたベンチにしばらく座り込んでいたが、ふと思い出したように、荷物をおいたまま立ち上がる。少し離れたところのゴミ箱の前まで行くと、尻ポケットからポストカードを取り出した。絵の面が見えるように四つに折りたたまれている。それを広げると、懐かしい妻の筆跡が現れた。ねえごめんなさい、許してなんて言わない、私を恨んでいい。でも忘れないで、私だって辛かった。私はぱんぱんに空気を詰めた羊の胃袋みたいなもので、それで限界が来てしまった。だから少し、距離を置かせて。
 彼はそれをしばらく眺めると、またもとのように折りたたんで、ゴミ箱に捨てた。それからベンチに戻り、また座りこんだ。目的の電車が来るまでは、あと三十分あった。
  
  
屠殺屋とをどるCha-cha-cháや夏の果  かかり真魚

「ノーパン神父」『庫内灯』1号、2015

 

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