隣の部署の杉山さんは石しか食べない。というか食べられない。最初からそうだったのではなくて、五年くらい前にずっと飼っていた猫を亡くして、泣いて泣いて、泣き尽くして起きた翌朝、コーヒーを口が受け付けなかった。パンもだめだった。ヨーグルトもスプーンを口に運んだら何かに当たって入らなかった。
「何か?」
「わからないの。ぐにゃっとして弾力があるものだった。固くないけど、絶対に入らなくて、スプーンを押し返した」
杉山さんは家中をひっくり返して色々試した。プリンもえのきもお土産の韓国のりも袋麺も備蓄の缶詰も食べられなかった。液体は水だけなら入った。調味料は塩も砂糖もナンプラーもチリソースもだめだった。水に砂糖を溶かしたらもう飲めなくなった。杉山さんはパニックになって、それから段々イライラしてきた。なんでだめなんだろう。こんなに色々試しているのに。台所の引き出しを開けたらトマトの形の陶器の箸置きがあった。杉山さんはやけになってそれを口に入れた。
するん、と箸置きは口に入って杉山さんの体の中に落ちていった。
「変な言い方だと思うけど……」
「いえ」
わかります、と言っていいのかわからないけど言った。杉山さんは今お弁当箱の中に入れた園芸用の小石を口に運んでいる。小石は杉山さんの唇に触れたとたん、吸い込まれるように消える。咀嚼もしていないし、嚥下の気配もない。杉山さんは、触っても熱くない二重構造のガラスのコップに入れたお湯を一口飲む。ごくり、と今度は嚥下の気配。
「変なお昼でごめんなさいね」
「いえ。私もあんまり、人とご飯食べるの得意じゃなくて……」
「ああ、じゃあランチミーティングなんか誘っちゃって」
「いえ。あの……大丈夫です」
杉山さんは私がジュースだけ飲んでいても余計な詮索をしない。それにミーティングの部屋はがやがやしていなくて、こっちの方が落ち着く。でも杉山さんは申し訳なさそうだ。
「ごめんなさいね。今年昇格したばっかりで、勝手がわからなくて」
そういうことは言わない方がいいんじゃないかなあと思いながら頷いた。「大丈夫です。ミーティング、進めましょう」
「そうね」
資料を並べて二人してああでもないこうでもないと言う。時々杉山さんが石をお弁当箱の中から取って口に運ぶ。石同士が当たってカチカチという。
赤い石を摘んだ時、杉山さんはしばらく手元に持ち、指の腹で撫でさすり、じっと眺めてから口に運んだ。
「赤い石、好きなんですか?」
「え? ああ、色がね……」
「あの、聞いていいかわからないんですけど」
「何でしょう」
「味とかって変わるんですか?」
杉山さんは首を横に振った。前に感じていたような意味での味は感じない。けれど、感触は違う。手の中で温めた石は柔らかい感じがする。陶器は温かい感触が長く続く。色はあまり関係がないけれど、見ていて楽しいものは口に運んでも楽しい。
「宝石も食べてみたんだけど」
「え、ご馳走的な感じで?」
「そうなるかなと思ったんだけど、別に他の石と変わらなかったなあ。好きな感触とそうでないのがある、というだけでね。ああ、高いものではないの、傷入りのものや透明度の落ちるものだと安く買えたりするらしくて」
杉山さんのパートナーの人が買ってプレゼントしてくれたらしい。だけど肩透かしだったかもね、と杉山さんは言った。
私に食べられるものと食べられないものがあるように、杉山さんにも食べられる石と食べられない石がある。杉山さんがパートナーと一緒に買った宝石の中で、琥珀だけは食べられなかった。琥珀は樹脂が元になった有機鉱物だ。きっと化石も食べられないでしょうねと杉山さんは言った。その時の琥珀は今も杉山さんの家にあって、猫の遺骨と一緒に並べてある、と言う。
「私の同居人は」
と、杉山さんはパートナーのことをそう呼ぶ。杉山さんとその伴侶には法的な保障がまだない。この会社は、申請すればどんなカップルにも法的な婚姻関係と同じ制度を適用することにしていて、だからここに転職したという。
「私の中に穴が空いていて、きっとそれが塞がるまでは石を飲まなければならないのだろうって。……だけど、考えれみれば不思議だね。喪失感を『胸に穴が空いた』なんて言うのは比喩表現のはずなのに」
杉山さんが石を飲む。石は虚空に吸い込まれる。
私は杉山さんが石の時間に引かれていくことを恐れている。杉山さんはゆっくりと時間感覚をなくしている。このランチミーティングも実は二日続いている。
口に運ばれてきた食べ物やスプーンを拒んだのは、杉山さんの舌ではないかと、私は思っている。