イワンがめずらしくそわそわした様子で帰ってきた。今日は記事の売り込みに外出していたはずだが、うまくいったのだろうか。イワンは帰ってきてすぐ上着も脱がずに窓を開けた。「さっき聞いた。今日は―― 」という言葉を遮るように、破裂音が聞こえる。
「花火が打ち上がるそうでございますね」
「知っていたのか」
つまらなそうに口を尖らせながら、イワンは窓から身を乗り出す。
「……ここからじゃ見えないな。廊下からなら見えるだろうか」
「同じではないですか」
「上に行けば少しは違うんじゃないか」
扉を開けて廊下に出る。階段を少女が数人、何かおしゃべりしながら連れ立って駆け上がっていくのが見えた。大家の娘とその友人だろう。イワンは黙って部屋に戻り、扉を閉じた。窓辺に椅子を置いて、身を低くして窓から空を覗いている。スメルジャコフは向かいに椅子を置いて同じように窓の外を見た。破裂音がして、遠くの屋根の上がパッと明るくなる。屋根に上がろうとする人々の姿が一瞬浮かびあがり、また薄闇に沈む。
以前、モスクワにいた時、今日みたいに花火が上がった日があった。その時も皆、屋根にのぼったり、少しでも高い場所に上がろうとしていた。外の道を走り、見晴らしのいい場所を探す人々を、スメルジャコフは自分の部屋の窓から見ていた。そのことを話すと、イワンは「モスクワにいたのか」と言った。
「ええ。十六歳ごろでしたか。ご存知なかったので」
「ああ、いや」
彼には何でも話した。モスクワに料理修行に出されたことも何かの折に言ったはずだ。イワンは、覚えているのかいないのか、「……そうだった」と呟いてスメルジャコフを見つめる。瞳が花火に照らされて強く輝き、また薄闇に沈む。
「あなたもご覧になったのでは?」
「僕は見なかった。許可なく部屋の外に出るのは禁じられていたからな。それでも皆どうにかして見ようとしていたっけ。勇気ある者たちは光明を見て、それから罰を受けた。僕はそんな子供っぽいものには興味がないって顔をして、部屋で音だけを聞いていた。臆病者だったから」
自嘲するような言葉の響きとは裏腹の、柔らかな表情が一瞬の明かりに照らされる。花火の打ち上がる音の合間に、人々の歓声の隙間を縫うように、イワンが深く息を吸って吐くのが聞こえた。火薬の匂いがしたのだ、ということを、その時スメルジャコフはふと思い出した。モスクワで見た花火は、風向きのせいか、遠かったのに火薬の匂いが彼の暮らす部屋まで漂ってきた。
彼の脳裏に、花火の音が遠く鳴る部屋で、息を殺して机に向かう少年の姿が浮かんだ。すぐ向かいに座るイワンは、窓辺に肘をつき、外の人々を見ている。彼らが窓から身を乗り出し、屋根に登って歓声を上げ、拍手をするのをじっと眺めている。上の方から少女たちの笑い声が聞こえ、イワンは微笑む。
スメルジャコフは部屋の中に目をやった。外を見たって花火なんかろくに見えなかった。光が上がるたび、部屋のなかがふっと明るくなり、遅れて低い破裂音が聞こえる。絨毯すらない板敷の床に、窓の格子の影が落ちて、また闇に溶ける。まるで旅をしているようだ、とスメルジャコフは思う。どこかから逃げるためではなく、ただただ遠くに行くために、夜を旅しているように、花火の上がる一瞬だけ、そんな錯覚を抱いた。
初夏の花火万遍なく了る