イワン・フョードロヴィチの元には今もひっきりなしにお客が来る。医師、弟、代理人、死んだ父親に母親、それに悪魔。アメリカに逃亡した兄からは、偽名を記した手紙だけが来る。医師は回復のためにはとにかく規則正しい生活と日光を浴びることが肝要だ、と言い、そのためにイワンは夕食が終わるとすぐ寝かされる。
日中、天気のいい昼下がりには窓辺やテラスに椅子を出して日光浴をする。日光浴というとのどかな感じがするが、カテリーナと医師からの、ほとんど厳命にもとづく義務だった。午前中はどんより曇っていても、午後に少しでも晴れ間があれば、毛布に包まれて日に当てられる。カテリーナは、そうすることでイワンがまた元の通りに戻るとかたく信じているようだった。というよりむしろ、そうした決まった習慣から外れてしまうことが不安のようだった。
日光浴はとかく退屈だったけれど、他に何ができるわけでもない。だから来客はありがたかった。今日も庭のいちじくの影から、黒い影が下草を踏んでやってくる。黒髪の痩せた男で、髪と同じ色の口髭を生やしていた。一見すると教師のようだったが、目は少年っぽく輝いている。
「よう、イワン、久しぶりだな」
「久しぶり、アナトーリイ」
アナトーリイはイワンの中学時代の同級生だった。その頃からひょろひょろと痩せていた。他の子供達より頭一つ分大きく、したがって教師の目にもつきやすかったのだが、少し目を離した隙にその場から手品みたいに消え失せて、カエル爆弾だの何だの、いろんなイタズラをやってのけた。成績は良好で、たしか故郷に帰って医者になったはずだ。
アナトーリイは、そばのベンチに斜めに腰掛け、イワンの方に体を向け、ない顎ひげをひねるようにしながらイワンを見つめる。一瞬の沈黙があって「ずいぶんと痩せたようだね」と言った。
「そのようだね、君にそう言われるところを見ると!」
「違いない!」
二人は学生の頃のようにぷっと吹き出して大笑いをした。
「しかし実際、苦労したんだな! あの時も君は痩せっぽちだったけど。覚えているか、僕らの『樫の木』のことを?」
「覚えてる」
中学校にいた頃、イワンは同級生数人と、それから上級生を一人巻き込んで回覧雑誌を作った。粗末な紙に手書きの詩やエッセイを書いて紐で綴じた、簡素なものだったが、絵の上手い同級生が表紙がわりの色画用紙に見事な樫の木を添えて、その日から回覧雑誌は『樫の木』と呼ばれた。一度先生に見つかったが、優しいS—— 先生だったので、一晩で返って来た。一つ一つの原稿に、丁寧な添削と励ましのコメントが書かれ、最後のページには本当に楽しい読書だった、という一言が添えられていた。
「こいつが一つ、うちで見つかってね。せっかくだから活版にして我らが同人に配ろうと思って、こうやって同級生を渡り歩いているわけだ」
「そう……皆は元気か?」
「おおむね。元気なやつもいるし、元気じゃないやつもいる。子供が生まれたやつも、亡くしたやつもいる。神の御許に召されたやつも」
アナトーリイが十字を切るのに合わせて、イワンもごく自然に、自分の胸元に十字を描いた。そのことに他ならぬイワン自身が一番驚いた。
「宗旨替えかい? 無神論者さん」
「……友人の弔いだもの」
言葉を濁すと、アナトーリイは少し寂しそうに微笑んだ。
「君の信念は分かってる。僕だって時々、どうしてこんなことがと思うよ。どうしてこんなことを神様はお許しになるのだろうとね。まあ、診療所はおかげさまで繁盛しててね、普段は考える暇もないんだ。僕はただ患者を治療するだけさ。ちょっと咳をしたからと呼ばれて診療所から一歩出るだろう、すると誰も彼も死にそうなんだ、殴られて、水に落ちて、肺病で、梅毒で……。だが金がない。それなら患者になる資格はないんだ、ってね……いや、そんなこと言われたことはないよ、僕の僻みだ。この間は刃傷沙汰でほんの子供が担ぎ込まれてきたよ。本当に子供なんだ。僕らがまだリンゴを齧ってたような歳の頃でね。喧嘩になって、それでぶすりといかれたらしい。お互いに引けなかったようでね。刺した方も刺された方も血まみれで、僕のとこに来た時にはもう……君、子供の自殺者を見たことがあるか。僕は子供がそんなことをするなんて、全く思ってもみなかったんだ。十かそこらの子供だった。ポケットに干し葡萄が入っていたよ。死ぬ前に食べたんだ。ポケットいっぱいになるまで買ってさ。それが一粒残っていた……」
アナトーリイはふとイワンに気づいて首を振った。「すまない……やめよう。僕の愚痴なんか聞かせるべきじゃなかった」
「いいんだ。聞かせてくれ」
「しかし顔色が悪いよ」
「今に始まったことじゃないし、それに……いいんだ。僕も苦しみたいんだから」
それが、以前に弟の言った言葉だったことにイワンは気づいていなかった。
「いや……ほどほどにしよう。もう遅い時間だし、君に風邪でも引かせたら医者の名が廃る。さあ、帰りなさい」
そこでイワンは目が覚めた。
日は傾きかけていたが、まだ夕暮れには遠かった。そばのベンチには誰もおらず、朽ちて割れた木目の上を、甲虫が這っている。ここいらではよく見かける虫だが、名前が出てこない。甲虫は何かを探すように触角を動かしながら、まっすぐ進んでベンチに積もった落ち葉の上にのぼり、そこに身を落ち着けた。
「帰りましょう」と肩に手が置かれる。カテリーナが立っている。彼女はいつも、何か特別の用事でもない限り、イワンのそばに座って、本を読んだり刺繍をしたりしている。刺繍は美しい花の模様で、イワンは見るたびに一つほしいと思うのに、いつも頼むのを忘れてしまう。
テラスから家の中に入ると、よく暖められた、居心地のいい居間に通される。暖かい部屋と食事、規則正しい生活を司る時計の音。それが今のイワンの世界の全てだった。
アナトーリイは、イワンの同級生だった。モスクワの学校を修了してから医学の道に進み、死んだ。医者にはならなかった。まだ医学生だった。
医学生になって二年目の冬、寒くなり始めた頃に、彼は熱病にかかった。十分に健康だったら乗り切っただろう。だが、彼の父は、彼が医師になるのを望まなかった。彼は援助のないまま進学し、自分の身をすり減らすように生活していた。それである日、擦り切れ、くたびれきってしまった。そういうことを、イワンはアナトーリイの葬儀で知った。喪主である父親は、型通りの挨拶だけを口にして、それ以外は全く表に見せなかった。それ以上のものを死んだ子供にかけるのを惜しんでいるようだった。それでも棺を運ぶ段になって声を詰まらせた。すぐに持ち直したが、目の端には涙が光っていた。
「そりゃそうだ。アナトーリイは今やあの人にとって最も従順な子供だ……」
誰かがそう皮肉な口調で囁いた。振り返ると、同級生と目が合った。『樫の木』の中でも皮肉な詩ばかり書いていた奴だった。
夢でアナトーリイが言ったことは、実際には居酒屋で聞いたことだった。記事にするための見聞を求めてモスクワの町を回遊していた頃、見知らぬ医師が同僚にくだを巻いているのを隣の席で聞いていた。飲んだくれの、中年の医者の、おそらくは青年の頃の、無数にある傷のうちの一つだった。
おはようございます、旦那様、と声がする。そちらに目を向けると煤けた壁があって、破れた壁紙の上を蜘蛛が這っている。巣を作らない小さな蜘蛛だ。蜘蛛は皆糸で巣を作るものだと思われているが、実際には、巣を作らないものも多い。
故郷へ帰ってからもイワンの意識は容易にモスクワへと飛んだ。大学に入った頃に暮らしていた、アパートの屋根裏みたいな小さな部屋だった。換気がうまく機能していないのか、廊下の窓を開けていても煮炊きや煙草の煙が絶えず流れ込んでくる。冬場はまだいいが、夏はたまらない。一日中部屋の窓を開け放しているのに、いつの間にか煙がこもってしまう。アパートはいつも喧嘩や諍いが絶えなかった。煙はむっと生ぬるく、階下にひしめき合う人々の気配が混じっている気がした。イワンはそんなことを思い出しながら破れた壁紙の下の、剥き出しになった土壁を見ていた。このろくでなし、と壁から怒声がした。
かと思えば、眺めているのは暖かい部屋の植物模様の壁紙だった。イワンが腰掛けているのは、よく磨かれてつやつやした書物机の前の、クッションのきいた肘掛け椅子で、机の上には真っ白い便箋が置かれている。けれどもペンがない。すると、背後から手が伸びてきて、イワンの手にしっかりと削ったペンを握らせた。「落としていたよ」と悪魔が言う。「だめじゃないか、大事なものなんだろう」
悪魔はいつもと同じジャケットにいつもの柄付き眼鏡を持っていた。メガネに結んだリボンは、色が抜けてくたびれ、端の方からほつれかけている。あまりにも見慣れた姿に危うく安堵しそうになった。悪魔はまだイワンの手をペンごと握っていて、年相応の—— この場合外見通りという意味の—— 皮膚の乾きと、不似合いな温もりを持っている。と、悪魔がすっと手を引いた。振り向くと誰もいない。
机の上には便箋とペンが残されている。しかし肝心のインクがなかった。
「あいつめ、投げつけられるのを嫌がって……」とイワンは呟き、無理やり笑った。それから便箋もペンもそのままにして、立ち上がる。
部屋を出るとカテリーナがいて、女中にあれこれと指図している。すっかり女主人の役目が板についていた。いまだ少女のような体つきでありながら、奥様然としたカテリーナの姿を見るとイワンは安心した。彼女はこの家の秩序そのものだった。綺麗に結われた髪と、時宜に沿った衣装は、イワンにとっては窮屈さではなく癒しだった。
カテリーナはイワンを居間の椅子に座らせ、今日は弟さんから手紙が来たわ、と言う。
「読んでくれる?」
「あなたの望みなら」
カテリーナはナイフで封を切り、アリョーシャからの手紙を読む。アリョーシャの手紙はまるで日記のようだ。リーズと出かけたとか、誰かに会ったとか、仕事を始めたとか、そんなことを簡潔に書いて寄越してくる。
「兄さん、こちらはあまり空気は良くないけれど、夏には別荘に出かけます。知り合いの人が貸してくれるそうです。今年は外国へ行くから、住んでくれる人を探しているとのこと。兄さんの体さえ回復したら、一緒に出かけませんか。温室育ちではない、野生の花を見に行きましょう」
カテリーナの声で読まれるアリョーシャの手紙は、イワンの心に染み入ってなんとも言えない平穏をもたらした。
「あなたの朗読は本当に素敵だね」
「そうかしら」
と言いながらカテリーナは嬉しそうだ。手紙を畳んで元の通りにする。イワンに来た手紙は、暖炉の上の専用の手箱に入れることになっている。まるでいつでも燃やせるみたいに。その考えを振り払って、イワンはカテリーナにおずおずとした口調で尋ねる。
「どう思う? アリョーシャの言ったことは……」
「そうね。お医者さまに相談してみましょう」
カテリーナは用心深く答える。午後にはちょうど医師の診察があって、アリョーシャの手紙を見せながら説明をする。
医師は首を傾げて難しい顔をしながらカテリーナの話を聞いている。どうでしょうか、と促されると、非常に慎重な口調ではあるが、このまま順調に治療が進めば、気候のいい時期にほんの少し遠出するくらいなら、許可できるでしょう、と言った。イワンにはそれは「ほとんど不可能」と言っているように聞こえたが、カテリーナはさっそく行くものと決めてしまって、アリョーシャに手紙を書く準備をした。
「君は待ち遠しいだろう、大切な弟だ。それに、あの子がいれば僕を追い払えるかもしれないしね」
と悪魔が背後で言っている。
「弟じゃあるが、それだけだよ。僕は今や、自分の味方は世界で君だけだという気がするんだ」
「つまりは自分だけしか頼りにならないということかい?」
それとも、と悪魔は言った。イワンは無視してカテリーナに微笑みかける。
夜、イワンは眠る時、寝室にも窓にも鍵をかけない。カーチャや召使の誰かが鍵をかけて出て行ったら、寝床から出て鍵を開ける。
そうして待っていた。
夏、イワン・フョードロヴィチはカテリーナとともにモスクワ郊外の別荘にいた。医師はしぶりにしぶって、結局カテリーナの懇願を容れる形で旅行の許可を出した。だけど、あまり刺激になるようなことはしないで、ここと同じ生活を続けてください。羽目をはずすのはだめ、夜更かしもだめ、酒なんでもってのほか、紅茶にほんの少し落とすのもだめです。医師の言うのをカテリーナは何度も頷いて聞いていた。
アリョーシャから紹介された別荘は、こじんまりとしていたが、よく手入れがされていて過ごしやすそうだった。使用人は暇を出されるか、主人一家とともに海外へ出かけていたので、カテリーナの自宅の使用人を数人連れて行った。料理人は地元の者を雇うことにした。市場や旬のものは、土地の人間が一番詳しいというのがその理由だった。あとはアリョーシャがリーズと来るはずだったが、待てど暮らせど一向に来ない。そのうち郵便配達人がやってきて、アリョーシャからの手紙を持ってきた。急用があって来られるのは翌日以降になるという手紙だった。
「残念だったね」
と悪魔が言った。本当に、心の底から残念がっているような口調だった。仕方がないさ、というように、イワンは小さく首を横に振った。
モスクワの夏の日は長く、うすら明るい黄昏れがいつまでも続くけれど、イワンは、というよりカテリーナは、いつも通りの時間に食事をとり、いつも通りの時間に眠る。医師の処方箋を、本人以上に守るのがカテリーナという女性だった。イワンはカテリーナの言うことを素直に聞いて、いつもの時間に違う寝床に入る。シーツは綺麗に洗濯されていて、別荘の主人の心尽くしか、部屋には香りの少ない花が控えめに飾られている。
部屋の鍵はベッドの横の小さな机の上に置かれていた。だからイワンは、今日も鍵を開けて眠る。窓の掛け金を外して薄く窓を開くと、昔住んでいたアパートで嗅いだ、人の生活の気配がむせるほどに香る煙のにおいがした。
翌日もアリョーシャは来なかった。何か用事が立て込んでいるらしい。手紙は簡潔で詳しい内容はわからなかった。リーズだけでも先に来ればいいのに、と思ったが、彼女がアリョーシャから離れたがらないのかもしれない。以前、彼女があの町にいたころ、イワンは彼女を相応に扱わなかった。そんな相手のところに一人で行くのは嫌だろう。と言ってリザヴェータ・ホフラコーワは臆病ではない。むしろその逆だ。わざわざこっちに来て無用な衝突が起こるのを避けているのかもしれない、とイワンは思う。
「あの子には悪いことをしたな」
テラスの椅子に腰掛けて、咲いた花々の間を飛び回るミツバチを眺めながらイワンが呟いた。思っても見ないくせに。悪魔に先回りしてイワンは心の中で呟いた。
あの少女の心の中には、醜い獣が巣食っている。誰かが虐げられ、恥辱と恐怖の中で引き裂かれる時の底のない絶望を覗き込み、その深淵から立ちのぼる悲鳴の気配を嗅ぐのが大好きな獣。そいつの方が本性なのだと、あの時リーズはそう信じ込んでいた。それでイワンに近づいたのだ。あなたの事件—— 彼女はその時、そんな表現を使った—— を、私は心底気に入っている、と彼女は言った。
「父親殺しというのがいいわ。そこが一番気に入っているんです」
その時リーズは、ほとんど怒りに燃えて、挑みかかるような目をしていた。イワンはそれを不愉快そうに見下ろした。
「そうですか」
「世間みんなが気に入っています。新聞を読めばわかりますわ。でも私が一番最初にそれを好きになりました」
「なぜ?」
「素敵だから」
「父親殺しが?」
「だって誰でも父親は殺したいものでしょう?」
くだらない、と言いかけたイワンを遮ってリーズは切りつけるようにそう言った。その一言は、何よりもイワンを狼狽させた。そう、あの時自分は狼狽えたのだ。そしてそれを悟られないように、彼女を精一杯軽蔑して見せ、そのまま退室したのだった。その時に言った自分の言葉も覚えている。
「あなたの頭の中はどうやら夢想でいっぱいのようですね。あなたは夢想家ですよ、お嬢さん。それもとびっきりのロマンチックな妄想の大好きな夢想家だ。残酷な想像なんてあなたくらいの年頃の子供なら誰でもやるものですよ。それでは」
そう言いながら、頭の中は、狼狽と、痩せっぽちの十六かそこらの子供に狼狽させられたことへの怒りでいっぱいだった。
「それで、何を言うつもりだい? 侮辱への謝罪か?」
「……それと、賛辞を」
「何?」
「彼女は聡明だ」
悪魔が背後で腹を抱えて笑っている。「今更そんな媚を売ったところであの子は許すまいよ!」と悪魔が言った。いや、あるいはイワンが言ったのかもしれない。ぶんぶんと唸るミツバチの羽音がうるさくて、頭の中にまで染み入っていくみたいだ。
「カーチャ」
とイワンはすぐそばにいるはずの女を呼ぶ。
「頭が痛いんだ……少し休むよ」
カテリーナはすぐに立ち上がって寝所の用意をさせる。何も胃に入れないのはかえって毒だから、とイワンに温めたミルクを飲ませ、空になったカップを持って部屋を出ていく。イワンは頭痛を抱えながら起き上がり、部屋の全ての窓の掛け金を外し、扉の鍵を開ける。
次の日もアリョーシャは来なかった。カテリーナの読むアリョーシャの手紙は、顔を出せないことを切々と詫びている。「もう荷造りもしているのに」とカテリーナの唇が言う。「すっかり閉じ込められて、この家から出られません。兄さん、いつまでいらっしゃいますか。兄さんが帰る日までに時間を作って必ず行きます。僕に期限を教えて下さい」
その日の午後は、料理人が何か菓子を作るとかで、甘いにおいが庭まで漂って来ていた。リキュール入りのもの以外なら、食べすぎないようにするなら構わない、今は太ることも必要だからと甘いものは制限されていなかった。ジャムとスパイスの香りの中で、カテリーナはアリョーシャへの手紙を書き、朗読してみせ、これでいいかしら、と尋ねる。
「うん。それで出してくれるかい」
カテリーナは、召使いを呼ぶ代わりに、立ち上がって自分で郵便を出しに行った。この家では、決まった時間に配達人がやってくるので、手紙はその時にまとめて渡されることになっていた。出したいものを玄関先のトレイに置いておけば、あとは配達人が勝手に持っていく。
「なかなか弟に会えないね」
と、カテリーナのいない窓辺で悪魔が言う。悪魔の影が窓ガラスに反射していて、イワンはぞっとしながら答える。
「仕方がないさ。向こうも忙しいんだろう……あいつは修道院を出たんだから」
「会えないのはどうしてだろう?」
「どういう意味だ?」
「そのままの意味さ。どうして君は弟に会えないんだろう?」
カテリーナはまだ戻ってこない。それを幸いと悪魔は話し続ける。
「君も彼も随分と再会を楽しみにしていたのに、どうして君たちは会うことができないんだろう。ああ、いや、答えを知りたがっているんじゃないよ、修辞だよ、ただの修辞だ。と言って責めてるんじゃない。僕はただ君が気の毒なのさ。弟に会えば君は何か答えが得られるだろうに、それがいつまでも先延ばしになってしまっているんだからね。おまけに僕なんかにうるさく付きまとわれてさ」
「……お前は最近」
「何かな」
「最近随分と自虐的だな」
悪魔はイワンの正面に回り、微笑みかけた。
「言っただろう? 僕はただ君が気の毒なんだ。君は今とても痩せて、僕にインク瓶を投げつける元気もないじゃないか。千兆キロどころか、たった三歩歩く間だって耐えられない。いいかい、ひょっとしたら君は天国の門までたった三歩の場所にいるのかもしれない。それなのに、そこから一歩も動くことができないんだ。まるで千兆キロ歩いたみたいに、足の裏を血まみれにしてさ。誰のためにそんなことをしてるんだい? ああ、そうそう、君は今裸足なんだ。弱い生き物のくせに、そんなことをしちゃダメじゃないか?」
後ろからカテリーナの鋭い悲鳴が聞こえた。振り返ると、カテリーナがテラスを降りて走ってくる。いつの間にかイワンは庭に出ている。足元を見ると裸足で、指の間を黒い土が汚している。裸足だと気づくと急に足の裏に当たる石がちくちくと痛い。カテリーナはすぐにイワンに追いついて、抱きつく直前ではっとしたように立ち止まり、両手を取ってきつく握りしめた。
「大丈夫……怪我なんかしてないよ。足も無事だよ。ただ少し……ねえ、ここはミツバチがたくさん来るだろう? だから見てみたくなったんだ、そっと近づかなくちゃ彼らは逃げてしまう。だから靴を脱いだんだ。靴下まで脱いでしまうことはなかったかもしれないね。でもカーチャ、ミツバチはとても美しい生き物だよ。羽の形も、足の数も、巣も、体の色も、全部完璧な生き物だ」
カテリーナはその夜、別荘の主人の書斎にイワンを連れていった。大きな書見台に図鑑を置いて、二人で並んでそれをめくる。図鑑はカテリーナの上半身を隠すくらい大きくて、どのページも生き物の精妙な絵が描かれている。蜂はミツバチだけではなく、スズメバチ、アシナガバチ、クマバチ、カリウドバチ、マユバチ、……とにかくたくさんいたし、成虫だけでなく、卵も幼虫も蛹も描かれていた。カテリーナはこわごわとページをめくり、彩色された蜂の胴体にそっと触れる。カテリーナのそんな様子を見て、イワンは紙の上の絵図でしかないそれらに命が吹き込まれたような気がした。
だから、その日の夜、イワンは寝室の鍵を開ける代わりに、部屋を出て階下へ降りていった。アリョーシャの手紙を確かめなければならなかった。
手紙は全てカテリーナが読んで聞かせていた。返事を書くのもカテリーナだった。内容はイワンが確認することになっていたが、実際に見たわけではない。内容は全て、カテリーナの声を通してしか知らない。
彼女を疑っているわけではなかった。もう彼女に寄りかかるのをやめる頃合いだと思った。世界と自分との間に彼女を置いて、柔らかく、優しいものだけを受け取るのは、もうやめなければならない。もうそろそろ、そのための力が戻って来ているはずだった。
イワンは足を忍ばせて、階下の居間へそっと入る。時計が秒を刻む規則正しい音が聞こえる。暖炉の上にある手箱の中が、イワン宛の手紙の定位置だった。いつでも読むことのできるように、そこに置くことに決めた。月の晩で、カーテンを開けると部屋の中まで月明かりが届く。部屋に持ち帰らなくても、この場で読むことができるだろう。イワンは手箱を開け、手紙を一通ずつ取り出す。ほとんどはアリョーシャの筆跡だ。女の手らしいのはドミートリイからで、アグラフェーナ・アレクサンドロヴナによる代筆だった。それから知り合いからの手紙がいくつか……。
「……違う。間違ってる」
イワンは呟いた。ここはあの家ではない。手箱は置いてきたはずだ。では、これは? イワンは握りしめた手紙をもう一度月明かりにさらす。まるでそれがきっかけだったみたいに、さっきまで手紙だったものはただの白紙になっている。イワンの喉がひゅっと鳴った。これは一体何だ?
「やっと出て来てくれたね」
背後でそう聞こえて、イワンは弾かれるように振り向いた。居間の扉は開け放されていて、その奥の廊下が見えている。月明かりの届かない廊下は、ほとんどが黒々とした影に沈んでいて、壁紙と、壁の装飾の凹凸が、ほんのわずかな幅の中にかろうじて見えている。
待ちくたびれたよ、と、おそらくは誰も言わなかった。それはイワンの中で響いた幻の声だった。
廊下には、彼が立っていた。
首を吊って死んだと聞いていたが、生きていた頃と同じような服で、同じような髪型で、そこに立っている。スメルジャコフは、生前と同じように一礼をして部屋に入って来た。靴底が床を、絨毯を踏む。思わず後退ると、背後で悪魔が言った。
「もったいないじゃないか。せっかく待っていたんだろう。部屋の鍵を全部開けてさ」
スメルジャコフはイワンの正面まで来ると、暖炉の前に設られた布ばりの肘掛け椅子を眺めて言った。
「おかけなさいまし」
イワンはその通りにした。
イワンは自分の向かいの椅子に腰掛けたスメルジャコフを、穴の開くほど見つめていた。彼は椅子に浅く腰掛けて、火のない暖炉を見つめている。暖炉の前に二つ、斜めに置かれた椅子は、別荘の主人の指示が行き届いているのか、崩れ落ちるように座っても埃一つ立たなかった。イワンは無意識に、肘掛けの縫い目に爪を引っ掛けた。
「話さなくていいのかい。聞きたいことがあるんじゃないのか?」
イワンの背後で悪魔の声がする。スメルジャコフは、それには反応を示さなかった。その代わりに、ふと夢想から覚めた人みたいに、顔を上げて「イワン・フョードロヴィチ」と呼んだ。
「……何だ」
「その後お変わりなく?」
「見ての通りだ」
イワンは、そこにいるのが幻だとわかっていながらそう返事をした。幻覚に返事をした男はどうなったんだっけ。昔にどこかで読んだ怪談話は、このからっぽになった頭の底に引っかかっていて思い出せない。
「それはようございました。旦那様もこちらで息災でございますよ」
イワンがぎょっとすると、スメルジャコフはくすっと笑った。「冗談でございますよ。何もそこまで驚かなくてもいいでしょうに」
「そっちは僕が面倒みているからね」
イワンは茶々を入れる悪魔にうるさそうに手を振った。スメルジャコフがそれを怪訝そうな顔で見ている。
「あの後どうなさったんです」
「あの後?」
「私がお別れを言った後でございます」
イワンはしばし考えた。彼との最後の対面が終わった後のことは、イワンはほとんど覚えておらず、大半はカテリーナやアリョーシャからの伝聞で知っていた。ただ断片的に、自分が法廷で醜態を晒した記憶はある。イワンは迷った末、事の経緯だけを簡潔に話すことにした。
「兄貴は有罪になった。僕はお前のことも話したけれど、信じてくれなかった。あの時僕は、……症状が進んでいたからな。お前も気づいていただろう。兄貴の逃亡のために準備した金が仇になって、あの金は……お前の持っていた三千ルーブリは、そこから出したものだろうと思われたらしい」
スメルジャコフは、要所要所で頷きながらその話を聞いていた。
「それで、どうなりました」
「何がだ?」
「旦那様の三千ルーブリは」
「さあ……裁判の最中に倒れてしまったから、あれを出したあとどうなったか記憶にない。僕のところに戻されたか、証拠品として保管されているのか、没収されて公金に入ったか……」
「まあ、構いませんや。どちらでも同じことですよ」
スメルジャコフは至極投げやりに言い、口をつぐんだ。イワンはなぜか、彼と沈黙の中にいるのがとてつもなく恐ろしくなって、慌てて「兄貴は逃がした。悪く思うなよ」と言った。
「別に構いません。同じことです」
「三千ルーブリもその時に一緒に使われたかもしれない」
「そうでございますか。構いませんよ」
「お前が犯人だと言った」
「でも誰も信じなかったでしょう?」
「そうだ」
「だからやったんですよ。あなたのために」
イワンは、喉の奥に布切れを突っ込まれたみたいに息を詰まらせた。
「この言葉を聞くのが恐ろしかったんでしょう」
スメルジャコフは自嘲するように言って椅子から立ち上がり、イワンの前に立つ。
「イワン・フョードロヴィチ、私はあの時あなたのことを神様みたいに期待をかけていたんです。ひよこみたいにあなたを追っかけてた。あなたはそれに気づいていなくってもね。私はこの世が嫌いです。この世の皆死ねばいいと思っていますよ。大人だろうがまだ罪を犯していない赤ん坊だろうが、全員死ねばいい。それは無理だったから自分の方を殺しましたけどね。でも、そうですね、あなたのことは、この世の全ての人間の中では一番ましな方だと思っていました。イワン・フョードロヴィチ、お願いだから聞いてくださいよ。あなたの兄さんはもう逃げて安全な場所にいるんだし、弟だってモスクワのどこかで元気でいるんでしょう? だから今夜は私の話を聞いてくださいね、どこかに気をそらせたりしないで、私の方を見てください」
言われなくても、イワンは化石したみたいに、布ばりの椅子の肘掛けを固く握りしめて、スメルジャコフの方を凝視していた。彼の顔は薄暗い影の中に沈んでいた。白目だけがかろうじて弱い明かりを反射して、薄青く浮かんでいるみたいに見えた。
「お金はもう、いいです。ドミートリイ・フョードロヴィチのことだってどうでもいい。でも、これだけは聞かせてください。私はあなたに忠実に生きたでしょう? 旦那様の死を望むあなたを私は裏切りませんでしたよね? あなたの望む通りに私は行動したでしょう?」
スメルジャコフはイワンの方に手を差し伸べた。日々の仕事で荒れた両手には、べったりと血がついていたが、もうすでに乾きかけてねばねばとしている。手の平のしわにも、爪の間にも血が詰まって、どす黒く汚れていた。袖は肘のあたりまで折って捲り上げている。イワンは思わず腰を引いた。背もたれにきつく自分の体を押し付ける。
「どうしたんだい?」
と、悪魔が両手をイワンの肩に置き、耳元でささやいた。
「返事をしておあげよ。せっかくここまで訪ねて来たのに気の毒だよ。彼の言う通りじゃないか。黙ってちゃかわいそうだろう?」
イワンは血で汚れた手のひらと、スメルジャコフの顔とを交互に見た。月が翳ってしまったのか、顔にはさっきよりも濃い影が落ちて、彼がどんな表情をしているのか見えない。彼は微動だにしなかった。一言も話さなかった。静かな、それでいて、どこか抑え難く跳ね上がるような息遣いを、影の奥から感じた。
「彼は期待を裏切らなかった」
悪魔がもう一度ささやいた。
「彼は君の期待を裏切らなかった。そうだろう?」
「……違う」
イワンはスメルジャコフの手を掴む。血で汚れた手。乾きかけた血でべとついた両手をイワンはきつく握りしめて、自分の方に引き寄せた。生臭いにおいが鼻先を打つ。それから羽虫のたかる排泄物と、血を吸って湿った土と、生ぬるくなった水のにおい。イワンはそのにおいで息を詰まらせんばかりになりながら、あえぐように言った。
「これは父さんの血じゃない」
……目を開くと、あたりは眩しい光に満ちていた。痛みを感じて、イワンは思わず目をきつく閉じる。瞼の裏に、万華鏡のような模様がくるくると踊っている。どきどきと胸が脈打って息苦しかった。まるで息がうまく吸えなくて、イワンは胸の痛みを抱えたまま、眼裏の万華鏡が消えるのを待った。どれほど経ったろうか、胸の痛みと万華鏡が薄らいだ頃におそるおそる目を開ける。まだ眩しかったけれど、目を開けていられないほどではない。目が慣れてくると、天蓋に施された刺繍が見分けられるようになった。どうやらまた眠っていたらしかった。その時ようやく、誰かが部屋にいる気配に気づいた。小さく口の中で何やら歌っている。声の感じからして少女のようだった。動き回り、カーテンを開けたり火を足したりしているらしいが、よくわからない。
「おはようございます、旦那様」
おはよう、と言おうとしたのに声が出ない。喉が首の骨に張り付いてしまったみたいだ。もう一度、今度は半ば無理やりにおはよう、と言った。その時にはイワンの寝床のそばまで来て、横で何か仕事をしていた少女が、弾かれたように顔を上げた。丸い頬を真っ赤にさせた少女は、目を丸くしてイワンの顔をまじまじと覗き込むと、あっと言うように口を開けて、「奥様!」と叫んで駆け出した。
部屋の戸は開きっぱなしらしく、外から風が入り込んでくる。そよそよと顔を撫でる風がくすぐったくて、顔を払いたいのに、手が動かない。それどころか体全体が重い。イワンは代わりに、深く呼吸をした。暖められた部屋の空気と、廊下の少し冷たい空気。いくら清潔にしていても、常にわずかに積もっていく埃のにおいが混じっている。
部屋の外が騒がしくなる。誰かが走ってくる。息せき切って部屋に駆け込んだその人は、さらさらと衣擦れを鳴らして寝床に近づいた。もうその頃にはそれが誰か見当がついていたイワンは、こんな時にまで優雅な物音を立てることに、場違いに感心していた。だから笑おうとしたのだけれど、それすらもうまくいかなかった。
「イワン!」
変に歪んでいるであろう顔を、冷たくほっそりとした手が包み込む。鼻先と頬を赤くしたカテリーナが、今にも泣きそうな顔をして、こっちを見ていた。