お手紙ありがとうございます。こちらは変わりなく過ごしています。あの人も、この間少し熱が出たけれど、それくらいでずっと変わりないわ。あなたがあの人について手紙で再三頼んでいることだけれど、ご心配には及びません。私はイワンの一番の親友になるつもり
そこまで書いて、カテリーナは片手で便箋をグシャリと丸めた。半分衝動だった。ぐしゃぐしゃにしてから、なんてつまらないことをしてしまったんだろうと後悔した。カテリーナはペンを置いてインク瓶の蓋を閉めると、立ち上がって伸びをした。疲れている時に手紙なんか書くものではない—— 疲れていない時なんかないにしても。
カテリーナは机の上に広げていた手紙をたたみ、封筒に元通りに入れた。筆跡は女のもので、差出人も女の名前だ。ドミートリイの手紙は、全て彼を追ってシベリアへ行った女実業家・アグラフェーナ・アレクサンドロヴナを介しての伝言という形で伝えられていた。彼はいつも家族と元婚約者の息災を祈り、家族に何か変わりないか尋ねる。手紙には、まれにドミートリイの走り書きが混じった。どの手紙も、優しく真摯な言葉で溢れている。自分を責める言葉なんて一言もなかった。あの日、カテリーナが出してきた書き付けのせいで彼は有罪になったようなものなのに、ドミートリイはそんなことも忘れたみたいに何通も手紙を寄越す。カテリーナは勝手に責められているような気持ちになった。返事を出すべきだと分かっているのに筆が進まないまま、何日も、手紙を引っ張り出しては広げて、また畳み直している。誰も恨んでいない、と手紙の中で彼は言う。恨んでいないなんて、とカテリーナは思う。それは彼女が何より欲しかった言葉のはずなのに、なぜか反射的に反発を覚える。グルーシェンカのこともドミートリイのことも、信じていないわけではなかった。ただひたすら、遠かった。
手箱を開けて手紙を一番上に置く。中には何通も手紙が入っている。差し当たり返事を書いてしまわなければならないものは一通り書いたはずだ。カテリーナは自分の書いた手紙を数える。社交のための数通の手紙と、医師と、財産管理人への手紙。イワンのそばにいると決めたとき、何を言われても構わないと思っていた。現実には周囲が放っておかなかった。カテリーナ自身も、「元婚約者の弟を献身的に世話する令嬢」の皮をかぶっていた方が何かと都合がいいことに気づいた。今はその虚像を維持するために、社交界との繋がりは絶やさないようにしている。悪女に誘惑された哀れな男。その男へ義理立てして、病に倒れた弟の面倒を見るうちに愛が芽生えた。今やイワンとの関係はそういうことになっている。その評判を聞きつけて、勝手なメロドラマを想像して涙する人々に戸惑ったのも最初のことで、今は裁判で何を見ていたのだか、とくさくさした気持ちになることが多い。結果的にグルーシェンカが悪評をかぶることになったが、彼女は彼女の社交界で、別種の評判を得ているらしい。何だか癪だが、それはお互い様かもしれない。
カテリーナは、書き上げた手紙に封をして机の上に並べる。明日朝一番でこれを郵便馬車に預けて、仕事は終わりだ。そして馬車はまた新しい手紙を持ってくる。自然とため息が出た。頭が重い。女学院を出たばかりの頃の、子供らしさの最後の名残だった頬の丸みは削げていたが、それは彼女に病的な印象よりも鋭い美しさを与えていた。
ふいに扉がノックされた。カテリーナは窓に目をやる。均等にひだを折って開け放たれたカーテンの向こう、窓の外は早くも暮れ始めている。
「旦那様がお帰りになりました」
まだほんの子供のような、赤い頬の少女が入って言う。マーシャといって、今年の冬から雇い始めた女中だったが、今はイワンの世話も含め、カテリーナの身の回りのほとんどの雑用を引き受けている。カテリーナは頷いて立ち上がった。居間に向かう途中で指についたインクに気づいて腹立たしげにこする。インクは当然ちっとも取れず、指の上にくろぐろとした引っ掻き傷のように残った。
イワン・フョードロヴィチは、居間の一人掛けのソファにゆったり座って、腿の上で手を組み、まどろむように目を閉じていた。外出用の外套は脱いでいるはずなのに、何か場違いに見える。痩せた体に無理に重ねるように着ている上着がだぶついて浮いているせいだ。もし肩がかすかに上下しているのに気づかなければ、死人と間違えそうだった。肌は水気も血の気もなく、かさかさと、土気色で、脂の抜けた髪はかろうじて撫で付けているものの、あちこちばらばらと崩れている。こめかみの少し上のあたりの髪はほとんど抜けて、肌が見えていた。イワンが目を開けて、カテリーナを見る。
「また仕事ですか、カテリーナ・イワーノヴナ」
「ええ」
今日は晴れの日だ。カテリーナは胸の中でそう呟きながら返事をする。ほんのひと時の晴れ間に過ぎないとしても。
イワンの体調には波があり、機嫌はそれに合わせて日々変わった。穏やかな日もあったが、荒れてイライラとしているか、どんよりと陰鬱に黙り込んでいるかのどちらかが多かった。嵐と曇り。カテリーナはひそかにイワンの様子を天候の比喩で呼び、日記にもそう書いていた。誰かが読んでも何のことかわからなかっただろう。しかしカテリーナは、日付の横の曇り、嵐、を見るたびに、その時のイワンの様子や、投げつけられた言葉を思い出す。応えたのは、あなたは僕を閉じ込めている、と責められたことだ。「僕は恥晒しな人間ですからね……だからあなたは僕を外へ出したがらないんです。そうでしょうが?」このような恥晒しの人間は滅びるままにさせておくのがいい、その方があなたも楽でしょう、とイワンは言い募った。カテリーナは傷つき、腹を立て、腹を立てた自分にまた傷ついた。思い出したくもないはずなのに、カテリーナはまるで自傷のように、日記を開いては日付を遡るのだった。それでも書くことができるものはまだいい。
穏やかで物静かな日、イワンは夢の中を泳ぐ。明晰な口調で話しながら紅茶を飲み、立ち上がって辞去しようとする。そして一瞬凍りついた空気や、戸惑う顔を敏感に察知して、自分が今どこにいるのかを思い出した。父親が殺され、兄が流刑になった故郷にいることに気づいたとき、彼は座って顔を覆い、長い間その姿勢のままでいた。それから顔を上げ、すべての罪は自分にある、というのだった。あなたのせいではないのだと言ってもイワンは聞き入れなかった。カテリーナの前に膝をつき、信じてくれという。「どうか信じてください、カテリーナ・イワーノヴナ! すべての罪は僕にあるんです!……」
イワンはよく眠った。昼も夜もなかった。夜中に起き出した時は、部屋で何かを呟いていることがあった。まるで誰かと話をしているようだった。そのうちに、彼の死んだ父親が尋ねてくるのだという噂が立った。噂の出所となった看護人は解雇した。血まみれの男を見たと、真っ青になって訴えてきた従僕にも暇を出した。その時にはすでに噂は町中に広まっていて、募集を出してもなかなか次の使用人が集まらない。結局、カテリーナが子供の頃からいた使用人とマーシャだけが残った。幽霊なんか怖くないです、見たことないものをどうやって怖がればいいんですか、と彼女は笑って、フョードル・カラマーゾフの幽霊の噂には取り合わなかった。まだ若くて怖いもの知らずなのか、単にそういう気質なのか、さっぱりとしていて、そんな少々ぞんざいに思えるような言い方も不思議と気にならなかった。むしろ幽霊に取り憑かれているのは自分なのかもしれない、とカテリーナは思う。
「焦ってはいけません、奥様」
と、先日の診察を終えた後、イワンの主治医である尊敬すべきG—— 医師は言った。この医師は、まだ比較的年若く、四十前後くらいに見えたが、外国で最新の教育を受けてロシアに帰って来たとかで、学会でも一目置かれているという評判だった。医師にありがちな偉ぶった態度も、外国留学経験者のツンとしたところもない、親しみやすく、ともすれば侮られてしまうのではないかというくらい、温和な人物だった。
「何か気掛かりなことがあるでしょう、するとそこにこだわって、どうかするといつもの調子が出ない、悪いことばかりに想像が向いてしまう……誰にでもあることです。そこまではね。ところが、気掛かりが大きすぎると病巣が中枢に落ち着いてしまう。それで神経の調子を狂わせてしまうのです」
病巣、とカテリーナは繰り返す。イボか何かのように取ることのできるもののようにカテリーナは想像した。G—— 医師は首を横に振った。
「病巣というのは少し比喩的な表現だったかもしれません。目に見えるものではないし、表に出ているものが必ずしも病巣そのものを反映しているわけでもない。何か大きな衝撃がある時、それを和らげようとして、人間は様々な幻を生み出すのです。特に、その時には向き合えないくらいに大きな衝撃だった時には、心が完全に壊れてしまわないよう、そこから目を逸らそうとします。それはある意味で健全な反応です。生きていくためにはそうしなければならないのですから。イワン・フョードロヴィチの……その、散歩もそのようなものでしょう。そうすることで心を守っているのですよ。一見そうは見えなくてもね」
「では、私はどうすれば?」
「精神が動いて、次の段階に行くのを待つことです。何か気がかりの元から気をそらすものがあればなお良いでしょう。あとは規則正しい生活です」
「結局そればかりですのね」
カテリーナは医師から顔を背けてイライラと言った。医師は、そんなことは言われ慣れているといった様子で、落ち着いて返す。
「すでにイワン・フョードロヴィチは、次の段階にいるのですよ、奥様。混濁からは脱したのですから。あの方は今も治癒の過程にいらっしゃるのです」
医師の言葉にカテリーナはしぶしぶ頷いた。忍耐が重要だということは、イワンが倒れてから何度も聞かされたことだった。裁判の前は、イワンとは惹かれ合いながらも暖かな関係とは言いがたく、怒鳴り合いの喧嘩をしたことだって一度や二度ではない。だから平気だと思った。自分なら彼を救える、—— 今度こそ救えると思った。どんなことでも耐えられると。けれども、それは誤りだったのだ、と今なら思う。自分には何もできない。無力な子供にすぎなかった。自分が何をしても、イワンの心には何一つ届かず、時々晴れ間が見えるように会話を交わすものの、彼はいつも夢に気を取られてしまう。
「いいですか。あの方は今、治癒の最中なのです。そのことを決して、決して忘れてはいけません」
医師は何度も念押しして帰って行った。
結局、今のイワンに一番いいのは、夢の中でたゆたい、過去の亡霊が来るままにさせることのようだった。無理に夢から引き剥がそうとすると、混乱し、暴れ、そうでなければ世界の全てを拒絶するように何日も寝室で横になって起き上がれない。だから、イワンが茶を飲み、辞去する際には、カテリーナもそれに合わせるようになった。しばらく周囲を歩けば満足して帰ってくると分かったからだ。けれどもカテリーナは、これが今のイワンにとって最善なのだという自分の判断の奥底に、ある恐ろしい気持ちが隠れているのに気づかないわけにはいかなかった。イワンはこのまま夢の中にいるのが幸せなのかもしれない。そうしていればイワンは恐ろしい事件に向き合う必要はなくなる。夢の中にいる間、彼は事件のなかった、あるいは父親との反目すらなかった、この町のどこにも存在しなかった時間にいたのかもしれなかった。それくらいに、イワンの顔は穏やかだった。夢の中を生きる彼と二人、穏やかに過ごすことができれば……カテリーナは、そこにある己の利己心に気づき、「下種だわ!」と吐き捨てた。それでもその考えは、カテリーナから完全に去ることはなく、イワンと茶を飲んでいるときや、一人で自室にいるときにそっと頭をもたげた。
マーシャが来てからは、イワンが外を出る際には彼女をつけるようになった。特に何をするでもなく、少し後ろからついていくだけだったが、彼の中でどう理由をつけたものか、イワンはマーシャを拒まず、彼女の歩調に合わせて歩いているふしすらあった。外が荒れて吹雪くときは、玄関でマーシャを振り返り、そのまま自室へと戻ったこともあった。
三月も半ばを過ぎて、スコトプリゴニエフスクにも春の気配が忍び寄っている。地面は時折ぬかるむようになり、泥はねがマーシャの服の裾についた。イワンの散歩も少しずつ遠くへ行くようになっている。迷って動けなくなってしまい、マーシャの伝言を携えた百姓が裏口の戸を叩く日もあった。
散歩をして外の空気を吸い、少しでも日の光に当たるのは、イワンの健康にいいからと主治医も勧めている。それでも、それが本当にいいことなのか、カテリーナには判断がつきかねた。イワンはそうすることで夢の世界を外に広げた。道を歩いていて目に止まった人に、—— 百姓や量り売り、お使いの少年少女や老人、あるいはロバや山羊にふらりと近寄ると、彼は告白をするのだった。
「以前ここで殺人事件がありましたね、ご存じありませんか。地主のフョードル・カラマーゾフが殺された事件ですよ。あれは僕の父親でしてね……。あの事件の犯人は逮捕されたそうですね? 長男ですって? ああ、ロシアは日々進歩しています! しかし嘆かわしいことに、科学の曙光はまだここの隅々までを照らしていないようですね。僕は以前モスクワにいたのですが、その時にこんな記事を読みましたよ。科学的捜査というやつは、証人がいなくても誰が殺したのか特定できるそうです。もちろん良い条件が揃えばですがね。それにまだまだ発展が必要です……。だからここは相変わらずのお役所仕事なんですな! いや、それはどうでもいい、そんな話をしたいわけではないんです。実はあなたに聞いてもらいたいのは、他ならぬあの事件の真犯人のことなんですよ。あのフョードル殺しですよ……。あの事件の犯人は、他ならぬ僕なんです。ええ、僕です! ところが僕はこうして逃げおおせている。ちゃあんと僕だと言っているのに、証人がいなきゃ立証できないらしくてね。お役所主義というのは厄介ですね。どうかこのことはご内密に願いますよ。いいえ、触れ回っていただいて結構です。警察署長の家はそこでしたか? さあ、お行きなさい、行って呼んでおいでなさい! ははは! 驚いていますね、では!」
イワンの告白はこんな調子だった。あの事件はそう古いものではなかったし、犯人は長男であることも、裁判で使用人が犯人だという説が出て否定されたことも、イワンが裁判中に錯乱したことも、この町に暮らす人々で知らない者はいなかった。初めは面食らっていた住民たちも、最近ではカラマーゾフの若旦那の悪癖には慣れっこになっていて、秘密めかしたり、驚いたり、調子を合わせてイワンをからかった。それはある種、罪のないからかいだったが、彼らが「貴方様にも神の御慈悲を!」と言いながらイワンに帽子をとってみせるところをマーシャから聞き、カテリーナは顔を耳の先まで赤くして憤った。イワンにも、カテリーナの屋敷の周りにも、恥知らずの噂話がまとわりついたが、それでも散歩をやめさせることはできなかった。
イワンは相変わらず穏やかな顔で、腿の上で手を組んでいる。なぜか手袋をしたままだった。カテリーナはイワンに茶を勧めた。外から帰ってきてから、イワンは椅子に腰掛けてじっとしている。このままでは、また体が冷えて熱をだしてしまう。カテリーナはカップに注がれた茶に砂糖を溶かした。少しでも何か温まるものを口に入れてほしかった。
「どうぞ、遠慮しないで」
「そうしたいのはやまやまなのですが」
イワンが組んだ手をほどいた。手のひらをカテリーナに差し出す。カテリーナはその中を促されるままに覗き込み、次の瞬間悲鳴を上げてソファから立ち上がった。
ちょうど入ってきたマーシャがカテリーナの悲鳴に飛び上がった。それからイワンとカテリーナを戸惑ったように交互に眺める。
「箱は用意してくれたかい」
「はい、あの。あの、奥様……」
「大丈夫。大丈夫よ。ちょっとびっくりしただけ」
マーシャは一礼して、おそるおそるといった具合に二人に近づくと、イワンに箱を渡した。紅茶か何かが入っていた木箱のようで、底に古新聞が敷いてある。イワンはそこに、手のひらの上のものをそっと置いた。
「道を歩いていて見つけたのですが、このままでは死んでしまうと旦那様が」
マーシャが箱を指しながら、そっとカテリーナに報告した。
「そう……」
カテリーナはまだ立ち上がったままの姿勢で頷いた。ここからは箱の中は見えない。が、イワンの手の中にあったものは、今も目に焼き付いている。それは小さなカタツムリだった。正確にはその殻だ。生きているのか死んでいるのか、頭は引っ込んだまま、殻はイワンの薄い手のひらのくぼみの中にちんまりと収まっていた。まさかそんなところにそんなものがあると思わず、思わず大声を上げてしまった。
「あなたのあんな声は、初めて聞きましたよ」
そう言うとイワンは、声を上げて笑った。ここしばらく聞いたことのなかったような快活な笑い声だった。
真っ白な便箋を前に、イワンはペンを握ったままぼんやりしていた。書かなければならないことはたくさんあったはずだし、今もあるはずなのに、言葉のまとまりがつかない。イワンは隣に置いた封筒を開け、便箋を引っ張り出した。そこには旧友の筆跡が並んでいる。久闊を叙し、体調を尋ね、本題に入る。君のお尋ねのそれだが、特徴から判断するにヨーロッパで見られる一般的なカタツムリ、その辺りでは見られない種のはずだが、冬眠をしていたやつが何かの荷物に紛れてきたのかもしれない(冬眠中はまるで墓石みたいになるから)、特別な配慮はいらない、食べ物は植物性のものと卵の殻を与えると良い、等々。末尾には署名。そう、あいつの名前だ。まずは宛名から。イワンはとっくに乾き切っていたペン先にインクを継ぎ足し、真っ白な便箋の上に持っていく。友人の署名の下、便箋の隅には外観と解剖図のスケッチも添えられている。そういえばあいつは絵がうまかったっけ、とまたぼんやりと眺める。
「……あっ」
インクが滴って、真新しい便箋の端にしみを作っていた。反射的に手で払い、便箋と手の両方を汚す。イワンはペンを投げ出して、便箋をつまみ、明かりに透かす。
モスクワにいた頃、大学生活の前半をイワンは屋根裏で過ごした。預ける時の事務手続きの不備で、遺産は受け取れるのかどうかすら分からなかった。かと言って養家にこれ以上の援助を頼むのも嫌だった。彼らは親切だった。頼めば援助などいくらでもしてくれただろう。しかしイワンは、だからこそ、これ以上他人のかかりになるのを拒んだ。苦しいことばかりではなかった。薄い茶とスープと黒パンだけの食事が何日も続いたとしても、彼は自由だった。
下宿のおかみのところの使用人は大柄の女で、階段を登るのを億劫がって、階上の世話はもっぱら娘にやらせていた。娘の年は知らないが、十かそこらの子供だったように思う。父親はいなかった。逃げたらしいという話を同じ下宿の住人から聞いた。娘は身の丈に合わない箒や、水の入ったバケツを持って上がり、部屋や廊下を掃除して降りていく。食事を上げ下げするのもこの娘だった。屋根裏に居を決めて以来、母親の方を見るのは滅多になかった。
イワンはこの娘に何かと話しかけたり、家庭教師先でもらった菓子をあげたりしていた。菓子は彼が記者業に専念するとなくなったが、娘はその後もずっとイワンのことをとても親切な人だと一途に思っていたらしく、母親の方から「あまりあの子を甘やかさないでください」と不審げに言われたこともあった。
ある日、イワンが買い求めたばかりの新品の便箋を広げて、方々に礼状やら売り込みの手紙やらを書いていると、娘が掃除に入ってきた。その頃イワンの持ち物はあまりなかったし、部屋も古くはあるが大して汚れていなかったが、娘はこまめにやってきて、あちこち磨き上げて帰っていく。その日も床を綺麗に掃き上げていた。表通りに面した唯一の窓とその前の机はイワンが占有していたから、掃除ができなかった。イワンとしては別にそれでも構わなかったのだが、娘はいつまでもぐずぐずとそこにいる。どうやら彼の手元を盗み見ているらしい。書いているものが気になるのかと思ったが、尋ねてみると、気になっていたのは内容ではなく便箋の方だった。そもそも彼女は字が読めなかった。
「真っ白だから」
と娘は、イワンの問いに真っ赤になりながらそれだけ言った。それなら、とイワンは新品の便箋に綺麗な折り目をつけてたたみ、同じく新品の封筒に入れて彼女に進呈した。ちょうど遺産の受け取りの目処が立って、そろそろこの屋根裏も引き払うつもりだった。それなりに質の良いものとはいえただの便箋に、彼女は大袈裟なくらいに喜んで、天使の羽根でも拾ったみたいに大事そうに胸に抱え、何度も礼を言いながら階段を降りていった。
しばらくして、次の記事の材料探しも兼ねて散歩に出かけようと階下へ行くと、突然怒鳴り声が聞こえてきた。中庭を通って裏へ回ると、子供の泣き声が大きくなった。裏口が開いていて、使用人の女が顔を真っ赤にして娘を打っていた。
「このろくでなし! どこでこんなもの!」
女の片手には、イワンがさっき娘にあげた封筒が握られていた。イワンはとっさに裏口から中へ入り、それは自分が娘に贈ったものだと言った。
「あんたが? こんな子供に?」
女は何を考えているんだ、という顔でイワンを見た。そこでイワンは食い違いに気づいた。
「それはただの便箋と封筒です。白紙ですよ。気に入ったようだったので、一組差し上げたんです」
イワンの言葉は、この場では殊更嫌味に響いたらしい。女の顔から血の気が引き、また上った。「だからなんだって言うのさ」と吐き捨てる。
「そんなもの、この子には不釣り合いだよ。字も読めないのに持ってたってどうしようもないじゃないか! あんたも余計なことはしないでください。この子は怠け者なんですよ。甘やかすとつけ上がってすぐダメになっちまうんだから!」
女は握りしめすぎてくしゃくしゃになった封筒をイワンに投げつけ、イワンを追い出すと裏口の戸をバタンと音を立てて閉めた。娘はずっと俯いていて、母親の、目に怒りを溜めた顔ばかりが印象に残った。あの子もかわいそうにね、あの女は癇癪持ちだから、何かあったらいつもああだよ、と、庭師のじいさんがタバコをふかしながら言った。その後すぐに財産管理人から連絡が来て、イワンは屋根屋部屋を引き払い、遺産を受け取ったのだった。
不釣り合いだと女は言ったが、イワンにはそうは思えなかった。あれは彼女にこそふさわしかった。便箋が入った真新しい封筒を胸に抱えて、頬を真っ赤にしていた娘の顔を思うと、なおさら強くそう思った。あの子以上に、あれに値する人間などこの世にいなかった。
父親の家で過ごしていた頃、イワンの話を、スメルジャコフはよくおとなしい顔で聞いていた。しかしその時は、話が終わるとふと冷たい微笑を浮かべて言った。
「いいえ、やっぱりそれはあなたが持っているべきでしたよ。何せそいつはそれを買うお金なんかなかったけど、あなたはちゃんとお持ちだったんですからね」
イワンはインクを継いで、便箋にくるくると渦巻きを描いた。窓辺に置いたテーブルから、密やかな音がする。イワンの連れて帰ったカタツムリは、しばらくうんともすんとも言わず、やはり死んだかと思われたが、部屋の暖かさのせいか冬眠から覚めて、もぞもぞ動き出した。今は紅茶の木箱の上に網を張って作った即席の飼育箱にいる。春になったら元々の生息地に戻すつもりだったから、本格的な飼育箱は用意しなかった。活発に動くものではないし、鳴いたりもしないから静かだろうと思っていたが、飼育箱からは、絶えず多彩な音がする。動くと下に敷いた古新聞がごそごそ言うし、殻を壁にぶつけたりもする。どこから出ているのか、きゅう、という小さな音も聞いた。まさか鳴き声ではあるまい。それとも本当に鳴き声だろうか? 小さなささめくような音がする時は、食事をしている時だ。夜も昼も聞こえる。夜中に目が覚めた時、イワンは死者の声の代わりに、その音に耳を澄ませる。
イワンの描く渦巻きはいつしか群れになっている。何にもならないという冷たい徒労感が胸の中に広がって心臓を浸す。イワンはペンを置き、顔を背けながら立ち上がった。よろけた拍子に机にぶつかって、インク瓶が倒れた。机にインクが広がって、便箋を黒く染める。イワンは瓶もインクもそのままにしてベッドに服のまま横になった。
次に目が覚めると、カーテンは閉められていた。靴は脱がされて、体の上に毛布がかけられている。机の上は片付けられていて、インクの染みだけが、まるで影のように残っていた。食事用のテーブルには粥(カーシャ)が用意されていて、五十前後の紳士がそれを食べている。紳士はスプーンを置き、言った。
「なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。この人はわたしの体に香油を注いで、わたしを葬る準備をしてくれた。はっきり言っておく。世界中どこでも、この福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう」
突然飛び起きたイワンを、カテリーナが驚いたような顔で見ている。側に座るカテリーナの膝の上には聖書が広げられている。イワンは自室の肘掛け椅子にいて、起きた時に跳ね飛ばされた毛布が足元に落ちている。目の前の机には空になった皿が置かれている。
「どうしてそんなものを」
とイワンが聖書をつかもうとすると、カテリーナは怯えたような目をして本を押さえた。
「あなたが読むようにと……」
「僕が? 違う、僕じゃない! あいつだ!」
イワンは皿の向こう側を指差した。
「あいつが言ったんだ! 君まであいつの言いなりなのか⁉︎」
「いいえ……でも、そうね、もうやめましょう」
カテリーナは素早く言って、イワンの手をそっと外し、聖書を閉じた。使用人が呼ばれ、カーシャの皿が片付けられる。イワンはふらふらと立ち上がり、書き物机の方に行った。机の上には黒いしみが残っている。が、古いもののようだった。少なくともさっきついたものではない。置いてあったはずの手紙も片付けられている。
「あいつへの手紙は……?」
「アリョーシャのこと? それならこの間出したところだけど」
「違う、こいつの」
イワンは苛立ちながらカタツムリの飼育箱を指差した。
「あの方へのお礼でしたら、今朝出したところよ」
イワンは字が書けなかった。何か読み書きをしようと思っても、うまく言葉が出てこないらしく、白紙の前でいつまでもペンを握り、やっと二、三文字書いたところで、耐えきれずにペンを置いてしまう。だから、博物学の道へ進んだ同級生への問い合わせとその返答に対する礼状のどちらもカテリーナが代筆した。内容はイワンにも確認したが、今のイワンはそのことがどうしても飲み込めないらしかった。
「どうしてそんなことをなさったんです? まだ書かなければいけないことがあったのに」
「それは……」
「お得意の監督責任ですか、僕には何もできないと思っているんでしょう」
イワンは憎しみを込めてカテリーナを睨みつけ、なじった。そうやって侮辱するのはやめていただきたい、あなたにはうんざりしている、あなたも僕にうんざりしているはずだ。視界の端には召使いの少女が立っている。二人とも悲しい目をしていた。もしくは、呆れたような目だ。自分が何をしているのか、イワンにはよく分かっているつもりだったが、どうしてもなじる言葉を止められなかった。
「こいつは」
とイワンが机を叩く。振動に反応してカタツムリは殻の中に引っ込んだ。ころんとかすかな音がして、殻が転がる。小さなカタツムリで、殻は二巻きと少ししかなかった。深い焦茶色の殻は、一見すると透けているように見えたが、改めて見ると不透明で、細かな縞が走っている。表面はつるりとしていて、木を削り出して磨いたように見える。殻はしばらく、それこそ墓石のように沈黙していたが、やがて中からそろりと灰色の小さな頭が出てきた。イワンはそばに立ち、それをじっと見つめていた。
「こいつが食事をすると、すごく小さな音がするんです……すごく小さいけど、確かに音があるんです……俺はあいつにそのことを書かなければと思ってたんだ。でもできなかった……」
できなかった、としきりに呟きながら、イワンは呆然とした表情で床に座り込み、そのうちに泣き始めた。カテリーナが背中にそっと手を置いた。そのうちに、イワンは泣きつかれたように眠ってしまった。
裁判の前にあれほど頻繁に訪れた悪魔も死者たちも、今は一人も来ない。ただ夢の中に現れては帰っていく。起きるときはいつでも頭が重く、死者の面影と後味の悪い気分だけが残っている。眠ればうなされるが、少し動くだけで疲れてしまって起きていられない。殻の中にこもるみたいに、彼はよく眠った。体がようやく眠りを覚えたのだった。昼も夜もなく、眠り、うなされて起きた。起きてもここがどこか、今はいつか、いつも定かではなかった。寝床にいつ入ったのかも覚えていない。イワンは頬を拭うと寝床から出て、裸足のままで窓辺に行った。カーテンを開けると夕方か朝かわからない、どんよりと曇った空が見える。イワンは書き物机の上に目をやり、それから飛び上がった。
カタツムリがいない! 網の端が破れている。小さいやつだから油断していた。自分で破って逃げ出したのだ……。イワンは慌てて足を片方ずつ持ち上げた。よろけて尻もちをついて、おろおろと膝立ちになる。潰してしまったらどうしよう! しかし幸いにも近くにカタツムリはいないようだった。イワンは椅子をそっと引いて、まずは椅子にくっついていないか探した。カタツムリは軟体の足でどこでも這う。クッションは、椅子からどかして、裏返しにして特に念入りに探したが、いなかった。次に机の下を探した。机の裏側も見たが、やはりいない。カーテンの影。調度品の裏側。どこを探してもカタツムリはいない。飼育箱の中には、しなびた野菜が入っている。イワンはふいに、カタツムリなど実際にはいなくて、自分の幻なのではないかと思ってぞっとした。
嫌な汗をかきながらあちこち探していると、ふと気配を感じ、飼育箱の裏を覗いた。壁と飼育箱のわずかな隙間に、あのカタツムリがいた。目玉を振り立てて、何かを探しているように頭を揺らしている。
「はは」
イワンは笑った。「こんなところにいたのか……」イワンは殻を掴み、そっとカタツムリを机から引き剥がして箱の中に入れた。
居間に行って飼育箱を膝に乗せたまましばらくぼんやりしていると、カテリーナが入ってきた。網の破れた飼育箱を見ると、まあ、と驚いた。
「これはこの子がやったの? このおちびちゃんが? 新しいのを用意しなくてはね。きちんとしたのを作ってもらいましょうよ……。春までだとしても、きちんとしたお家の方がいいわ。ほんの短い間だったとしてもね。そうでしょ、おちびちゃん、小さなお客様? せっかくうちに来たんですもの。イワン、あなた笑っているの?」
イワンは隣に座って飼育箱を覗き込むカテリーナを見つめた。胸元の飼育箱から湿った土のような匂いがした。土などどこにもないから、きっとカタツムリが連れてきた匂いなのだろうと思った。
「ええ。ところでカテリーナ、今日は何日ですか?」
「あたしの姉ちゃん」とマーシャは今日も口を開く。溶けかけた雪を踏んで、靴が湿った音を立てる。「あたしの姉ちゃん、子供が三人いて、三人とも丈夫に育って、産むのも育てるのも上手な嫁だって評判だったんですけど、こないだ四人目を産んだときにお産でものすごーく苦しんで、生まれた子供も死んじゃって、それでちょっとおかしくなっちゃって、今はずっと寝たきりなんです」マーシャの話はいつも「だからあたしが働かなきゃ」と続く。
「もっと暖かくなったらじき良くなるさ」
と、行きずりのじいさんが言った。イワンは振り返り、マーシャを見つめる。
「あっ、うるさかったですか」
「君には姉さんが何人いるの?」
「三人です。うち女ばっかりなの。一番目と二番目はもう片付いてて、三番目もたぶんもうすぐ。今言った姉ちゃんは一番目で、ずっとしっかりしてたから母ちゃんも困ってるんです。あっ、あと弟が一人います」
そう、とイワンは言った。「ご家族によろしく」と付け加える。
「はい!」
春の散歩は賑やかだった。真っ先に帰って来たミヤマガラスが木の枝や百姓屋の屋根の上で鳴く。すると風が吹いて、木の枝から溶け残りの雪が落ちてぱらぱら音がする。雪の残る道はぎしぎし言ったし、雪の溶けた道は泥になってぐしゃぐしゃ言った。イワンが道を歩くと、通行人が「神のご加護を!」と帽子を取って挨拶をする。それ聞くとイワンは怯んだ。裁判で自分がどんな醜態を晒したか覚えていたし、その後熱病から覚めた自分が町中をうろつきながら何を口走っていたかも記憶にあった。しかし、大抵は挨拶以上のことはなく、マーシャはのべつ何かをおしゃべりしていて、今日みたいに、行きずりの人間がなぜか会話に加わることもあった。
「カラマーゾフの若旦那! とマーシャ! この先はひどくぬかるんでるからやめといた方がいいですよ!」
向かいから荷を積んだロバを引いてきた男が言った。男の足もロバの脚も泥だらけだった。
「引き返しましょう、旦那様」とマーシャが言い、イワンはそれに従った。
「わしはこのまま行きますよ、引き返せやせんからね、この先に家があるんだ」
行きずりのじいさんはそのまままっすぐ進んでいく。マーシャはじいさんがいなくなった後もおしゃべりを続けている。
モスクワにいたとき、しばしばこういう人間に行き当たった。彼らは街角や酒屋にいて、自分の人生の全てを物語っているのかというくらい、のべつしゃべりまくる。どこで聞いたのやら、イワンを見つけると走り寄って、「記者さん」に自分の物語を何コペイカかで売ろうとした。壮大な物語が始まるのを遮って、「ものにならないよ。第一それも飲んじまうんだろ」と断ると案外あっさり引き下がる。が、中にはイワンの住む屋根裏を訪ねてくる者もいた。たぶんそれが唯一残った財産であろう、古いがこざっぱりした服を着た女だった。ものにならないとイワンが制止するのも聞かず、それまで自分がいかに辛酸を舐めて来たかを語った。この辺りではありふれた物語だった。地方から家族で移り住み、父親が何かの理由で働けなくなって、繕いやらなにやらを引き受けながら糊口をしのいでいたが、今や家財はほとんど売り払い、このままでは路頭に迷うしかない。不思議なことに、生粋のモスクワっ子はイワンに近づかない。彼らは彼らで、何か伝手があるのだろう。一方のイワンは、十三歳からモスクワで生活しているが、そのうち大半は寮生活で、寮を出て本当に「モスクワ」の中で生活し始めたのは一年ほど前の話だ。
女は、イワンがそれはものにならないのだと、最初に言った説明を繰り返すと、「じゃ、どうすればいいのよ!」と足を踏み鳴らし、しばらく呆然とその場に佇んでいたが、その時初めてそこが狭苦しい屋根裏部屋であるのに気づいたようだった。その顔から表情が消えた。彼女は部屋を出て、階段を降りていった。イワンは苛々しながらその日受け取った原稿料を握りしめて女を追いかけ、その手に押し付けて部屋に戻った。
マーシャはまだ話し続けている。話して話して、溶け残る雪をぎしぎしと踏みながら、息を切らせて話し続けている。何もかも話す必要はないのに、とイワンは思う。
だがもちろん、マーシャは何もかもなんて話していなかった。彼女が話しているのは、十四年の人生の中で彼女と彼女の周囲に去来したほんの一部に過ぎなかったし、旦那様や他の人に聞かれてまずいようなことは無意識に外していた。例えば一番上の姉は時々飛び起きて喚いたり汚い言葉で罵ったりするようになって、それで婚家から放逐されかけてマーシャの家で寝ているのだとか、三番目の姉は行商人とこっそりいい仲だったが、それがばれて、親は焦って片付けようとしているとか、そういう細かすぎる事情は話さない。
今の仕事はいいな、とマーシャは思っている。幽霊の噂は怖かったし、幽霊がいなくてもヘンテコだけど、殴られたりしない。触られたりとかもない。マーシャも姉たちも、生活のためにあちこちに働きに出たが、中でも子守奉公は最悪だというのが一致した意見だった。子供は大した働きができないから、と子守を任される。それなのに子守以外の色んな仕事、掃除とか水汲みとかじゃがいもの皮剥きとか、あれもこれもやれという。へとへとになった最後に赤ん坊を寝かしつけなければならない。可愛くもなんともないし、延々泣いて寝ない子供を、眠気をこらえてあやしていると、いっそ窓から放り投げてやろうかと思う。それはできないから、寝床の下の暗がりを指して、「お前なんかあそこのお化けに食わせてやるから」と赤ん坊にささやいた。どんなに働いても賃金は大人の半分で、その上商人は支払いがしぶい。男ばかりの家に嫁に行った二番目の姉は、それでもやっぱり子供の頃は良かった、と言うけれど。
それに比べれば今の旦那様は全然手がかからない。よく物をひっくり返しては中身をこぼすから掃除は大変だし、体格がいいので寝床に運ぶのは一苦労だったけど(みんな忙しいから、奥様の「お気に入り」を自主的に手伝ってくれる人はいない)、お給金は悪くない。旦那様はよく子供みたいになって、ひたすらしゃべり散らしたり、泣きじゃくったりわめいたりするけど、最近はしゃんとしている時間が増えた。暖かくなったら良くなるさ、というさっきのマレイじいさんの言葉は、あながち出任せではないのかもしれない。だとしたら、オーリャ姉ちゃんももうすぐ寝床から出て、マーシャたちとおしゃべりをしながら薬草を摘み、花輪飾りを作ってくれるかもしれない。オーリャ姉ちゃんは、ただの草っ原から役に立つ草を探し出すのが上手だった。
マーシャはおしゃべりな子供だった。家でも絶えず何かを話している。あんまりおしゃべりだから、うるさがった親からひっぱたかれた。そうすると余計におしゃべりをしたくなる。マーシャにはああなりたいとかこうなりたいとかいう欲求はなかったけれど、何だかもうどこか遠くに行ってしまいたいような気持ちになることがある。ひっぱたかれたり、ひもじかったりすると特にそういう気持ちになる。マーシャはそれをうまく言い表せなかった。誰にも言いたくないという気もした。だからその代わりに、手近にある出来事を何でもしゃべった。仕事の時は我慢した—— なるべく我慢した。でも、外に出ると口がむずむずしておしゃべりしてしまう。旦那様は、たまにいきなりものすごく話すけれど、基本的には無口だ。冬の間は寂しい道をたった二人で歩くのが怖くておしゃべりをした。今は春だからおしゃべりをしている。
家族には会いたい。でも、会いたくない。父ちゃんは仕事を休みがちで、母ちゃんは怠け病だという。オーリャも父ちゃんも怠け病だ。父ちゃんは馬の扱いがうまくて、昔は大きなお屋敷に勤めていた。オーリャ姉ちゃんが小さい時は、冬、モスクワの方に辻馬橇を引いて出稼ぎに行ったりもしたらしい。でも、その時に稼ぎをちょろまかして飲む酒の味を覚えた。今は手が震えて馬の世話ができない。両親が喧嘩をする。オーリャ姉ちゃんは起き上がれない。またむずむずとおしゃべりをする。ずっとここで働けたらいいけれど、旦那様が元気になったら自分はお払い箱だろう。
前から子供が走ってくる。「マーシャ、お屋敷にカタツムリを連れてきたら買ってくれるってほんと?」マーシャは首を横に振る。
「いらないよ。鳥か魚なら考えてもいいよ」
イワンは机に向かい、ペンと紙を用意する。最初に日付を書き、渦巻模様を書く。窓の外は晴れているが、遠くには薄く灰色の雲が見える。窓枠に切り取られるように、外の木の枝がここまで伸びていて、先端の若葉が、透けるような緑に開きかけている。
イワンは近頃カタツムリの記録を取り始めた。といっても、日付と天気くらいの簡単なものだ。カタツムリが眠っていたら日付の横に渦巻きを描く。起きていたら、渦巻きに頭とツノを書き足す。時々食べたものだとかを記録する。気分も良くて調子のいい時には、カタツムリの様子を書き足した。
新しく作り直させたカタツムリの飼育箱は、高さはあまりなくて横に広く、書物机に乗せると机上が狭くなるので、新しく机を運ばせて、その上に置いた。留め金付きの蓋は、中央を大きく四角にくり抜いて、丈夫な網を張ってある。金物だししっかり固定したから破れません、と、製作者である園丁の息子が請け合った。
イワンは、渦巻きに頭とツノを描き足して観察日記を中断し、立ち上がる。陽気のせいか、どこもかしこも落ち着かないような気分だ。イワンはコートを羽織り、外へ出る。どこかで子供たちが遊ぶ声がする。何か羽目を外したのか、大人の怒鳴り声と、一層大きくあがった子供たちの声が遠ざかる。
「このクソガキども! さっさと行っちまえ!」
スメルジャコフが拳を振り上げて怒鳴っている。彼はイワンたちの前ではうやうやしい態度だったが、町の中ではしばしばそんな言葉遣いをした。前方を子供たちがわいわい言いながら駆けていった。ずいぶんおかんむりだな、と言うとスメルジャコフは顔をしかめ、ご覧なさい、と手に持っていたヤマドリを見せる。尾羽はほとんどむしられて、折れたのだけが残っている。皮膚の見えた尻には乾いた血がついていた。
「あの子供らから買ったものですがね、ご覧なさい、ずいぶん痛めつけられてるじゃないですか。これじゃ半値しか出せないと言ったら口汚く罵るんですからね。あなたにお聞かせしたかったですよ」
そう言いながらも、スメルジャコフは、そんな言葉を聞いたらこの坊っちゃんはひっくり返ってしまうのではないかとでも言いたげな顔つきだった。それに類する罵言を、彼の通っていた中学校でも子供たちは(つまりイワンたちは)口にしたし、モスクワ時代には街中で頻繁に耳にしたのだが、スメルジャコフは彼を綿で包みたがった。
「あなたは子供をやけに気にかけますがね、子供くらい残酷なものはないですよ。いじめていいとなったら加減なしにやりますからね」
その前の晩、彼らはモスクワで流行りのある思想について話し合っていた。彼らは人間の行動の動機を利益に求める。人間は自分の利益のために合理的に行動し、それが全体の幸福に繋がる、という。
「ばかばかしいが、そのばかばかしさはある意味的を射ている」
とイワンは言った。
「つまり、理由が与えられなければ人間は思い切ったことは何もできないということだ……彼らはそういう理由を与えてもらうことで、自分の利己心に理由をつけて安心したいのさ」
「それならば逆もまた然り、と?」
「そう」
スメルジャコフが言い、イワンは頷いた。
「善行の理由、悪行をしてはいけない理由が無に帰した時、人間は何でもするだろう。つまりは神だ。神がいなければ、人間に歯止めをかける存在はいなくなる……許されざるものなどない。何もかもが許されることになる。彼らは僕の理論を否定するだろうし、実際そうも言われたがね。お前の理論は人間性を失って陰惨すぎる、だそうだ」
イワンは、何かを思い出したように苦笑した。
「人間は意志を与えられたが、それをうまく使いこなせない。だから自分の行動を狭め、正当化するためのあらゆる理由を考え出す。僕の理論を陰惨だと言ったやつは、善行は自分にとって心地よいという利益があるのだと言っていたっけ。良心にしたがって行動することは気持ちがいいし、周囲から高潔な人だと尊敬される、自分たちの使う利益という言葉にはそういう意味も含まれる、利益という言葉を世間は狭く捉え過ぎなんだと。ふん、大した詭弁だよ。奴らは自分が矛盾するのがよっぽど怖いらしい。矛盾なくいられるのはその余裕のある者だけだ……もしくはそれに気づかないでいられるおめでたいばか者か。利益だの何だの、善行にすらいちいち理由をつけなければ動けないなら、人間は何とも不自由な存在だな!」
イワンはふとスメルジャコフの方を見て尋ねた。
「君はどう思う?」
「どうとは」
「人間の意志と自由について……いや、不自由かな」
スメルジャコフは言葉に詰まったようだった。イワンはスメルジャコフの返答を待たずに話し始めた。
「人間が利益によって動くのなら、子供を殴ったりうんこを顔に塗りたくって寒い便所に閉じ込めることにどんな利益がある? 恐怖と痛みを与えることにどんな意味があるというんだ? あいつは、そういう人間は教育の効果が浸透しておらず、理性の働きが弱いのだと言っていたがね」
「人が」
スメルジャコフが唐突に言った。イワンが見つめると、スメルジャコフは顔を赤くして黙ってしまった。続けて、と言うようにイワンは首を傾げる。
「いえ……。人が意志をうまく使いこなせないなら、悪行もまたうまくできないこともあるのではないかと思いまして……」
スメルジャコフが恐る恐る言うと、イワンは嬉しそうに微笑んだ。
「そうかもしれない。神がいなければ、それはそれで案外何もできずに固まってしまうものかもしれないな。しかし、いずれは動かなければならないだろう。行動を選択する時が来る。その時は……」
イワンは少し虚空を見つめてから、「まあ、続きは考えておこう」と言い、その日の会話はそこで終わった。
「子供を殴るのに意味なんかございませんよ」
と、この日もスメルジャコフは唐突に言った。彼は、イワンの言葉に対してすぐに返事をせず、遅れて答えを出すことがよくあった。そういう時は前置きもなく突然その話をする。最初は戸惑ったが、そういうものかとすぐに慣れた。
「とりあえず殴っておいて、後から理由を考えるんです。むしゃくしゃしたとか、そいつが言うことを聞かなかったからとか、顔つきが気に入らないとかね。そうやって……あなた流に言えば安心するのでしょう。意味もありませんが、意志もないかもしれません。ただそこにいたのが悪いんです」
スメルジャコフの言うことは、ひねくれていたが要点を突いている気がした。特に行動してから理由をつけるというところがイワンの気に入った。だから、「それはお前の経験からか?」と尋ねた。つまり聖書の時のように自然に考えついたのか、観察から得たのかということを尋ねたかったのだが、スメルジャコフは、それを聞いてさっと顔を青ざめさせた。
「イワン・フョードロヴィチ!」
鋭く甲高い声が目の前から聞こえた。子供が二人、イワンの前に立ち塞がっている。
「イワン・フョードロヴィチ! ねえ、カタツムリを持って行ったらお屋敷で買ってくれるって本当ですか? カタツムリを見つけたら買ってくれますか?」
子供たちは小鳥のように揉み合いながら口々に言う。一人はかなり大きな子供で、背丈はイワンより頭ひとつ分小さい程度だったが、顔つきはまだあどけなかった。成長に服が間に合っていないのか、裾から手首と足首が見えている。イワンは、もう一人の子供が持っている花に興味を引かれた。ぼろぼろの、穴の空いた灰色の手袋に、小さな白い花が握られている。下向きに咲いた花弁は、まるでそこだけ浮かび上がるように白かった。手を伸ばすと、「これですか?」と子供が花を差し出した。ずっと握りしめていたのか、花は萎れかけている。イワンは、カタツムリがこれを食べるのかふと気になったのだった。
子供はイワンに花を手渡した。イワンはしばらく手の中のものを眺めていたが、はっと気づいてポケットの中を探った。小銭でもないかと思ったが、ハンカチと、いつから入っていたのかわからない小石しかなかった。その時には子供たちはもう駆け出していて、
「いいんですよ! また探すから! それじゃイワン・フョードロヴィチ、カタツムリを持って行ったら買ってくださいね!」
と笑いながら、先を争うように駆けて行った。
イワンはぼんやりとその場に立っていた。どこかで水の滴るような音がする。雪解け水のようだったが、イワンはさっき窓の外に見た、若葉のこぼれ落ちるような薄緑を連想した。よく晴れた日だった。空は明るく、底が抜けたみたいで、ぼんやりと見上げると、ゆっくりと形を変えながら流れる雲を横切って、甲高い鳴き声を立てながらヒバリが飛んでいく。今日は暖かいからか、どこかから早くも外遊びの歌が聞こえてくる。イワンは急に苦しくなった。この春の、今この場所の全てのものが、無意味で、自分とはまったく無縁であるような気がした。イワンはそこから逃げるようにがむしゃらに歩いた。どこをどう歩いたものか、靴が泥だらけだった。
カテリーナの屋敷の前には、マーシャが立ってキョロキョロしていた。「旦那様!」イワンを見て走り寄る。
「お散歩は? もういいのですか?」
「うん。帰ってきたよ……靴が泥だらけなんだ」
「ああ、ではおやすみしましょう、旦那様、部屋に戻りましょう」
マーシャはしきりに言ってイワンの部屋へ行こうとする。イワンは居間の方へ行きたかったのに、寝室に行かせようとする。
「これを部屋に置いてくれ、そうだな、コップにでも挿して……」
もうほとんど萎れかけている白い花を渡すと、「わかりました。ではお部屋でお待ちになってください」と言った。
「いや、部屋には行かない……カーチャはどこだ?」
「奥様は……ご用事で」
「誰か来ているんだね?」
「旦那様」
マーシャは固い声で言ってイワンを追いかけた。強くひきとめるわけにもいかず、うろうろと周りを歩く。
「旦那様、お願いですからおやすみになってください、奥様は今来客中ですから、あとできっといらっしゃいますから」
「マーシャ」
イワンは立ち止まり、マーシャの肩に手を置いた。
「いいんだよ。……花を頼むよ」
応接間に入ると、カテリーナが来客のことも忘れて立ち上がった。客は二人で、どちらもイワンより二、三歳下の青年だった。うち一人は、イワンを見て、カテリーナに負けず劣らずギョッとしたようだった。
「こんな格好で失礼します……先程まで出掛けていたもので。失礼ですが、お名前を伺っても?」
青年が立ち上がり、イワンの差し出した手を握った。
「ラキーチンです。ミハイル・オーシポヴィチ。アリョーシャの同窓でね。こちらは僕の個人的な知り合いで、エヴゲーニイ・ペトローヴィチ・K—— 」
今度はもう一人の青年が手を握った。全体的に痩せ型だったが、細く筋の通った、先の尖った鼻も、肉付きの薄い額も、ひ弱というよりは頑とした生真面目さを思い起こさせた。彼は「どうも」とだけ言って口をつぐんだ。きゅっと引き結んだ薄い唇が、綺麗に整えた口髭の下に引っ込んだ。
「アリョーシャのことを伝えに来てくれたのよ」
カテリーナが割り込むように言った。
「そうでしたか」
イワンはカテリーナの隣に腰を下ろした。言われてみれば、確かに青年の一人には見覚えがあった。
「アリョーシャは元気ですか。二度手間でなければお聞きしても?」
「ああ、構いませんよ」
ラキーチンは頷いた。彼がアリョーシャの現在をかいつまんで話す間に、イワンのための茶が運ばれる。イワンはそれに手を伸ばしたが、ちょっと口をつけただけで、あとは冷めるままにしていた。
「まあ、とにかく、がむしゃらに働いているみたいですよ。仔山羊みたいに生き生きしていますね。しばらくはああでしょうね。本人が満足するまでやめないでしょう」
イワンの弟、アレクセイ・カラマーゾフは、裁判が終わってしばらくしてから突然この町を発った。どうやら還俗した時からずっと考えていたことらしく、自分は修道院と、養家と、通っていた学校と、この町以外のほとんどどこも知らないから、外の世界を見てみたい、ぜひとも見に行きたいのだと言って周りが止めるのも聞かず、ろくな準備もしないまま出て行った。今は初等学校の先生をしているという。
「と言っても半分遊び相手ですけどね。雪の深い間だけ分校を手伝ってくれって坊さん仲間に紹介されたそうで」
ただ、子供たちの集まりは悪いらしい。道が悪いのもあるが、家の手伝いがあるからと全く来ない子供もいる。アリョーシャは、そういう子供の家を訪ねて、家族を説得して回っているという。
「教科書はお手製か貸し出し、年齢も進み具合もバラバラだから、ペチカの周りに集まって皆てんでばらばらにやってるのを見てるんだそうで。それまで世話をしてた人はもう歳で、子供の相手が難しくなって来たから、若い人を探していたそうですよ」
ただ、アリョーシャも長く続ける気はないらしく、春になったら旅立つつもりのようだという。代わりになってくれそうな人はいないかと、人伝てにラキーチンに問い合わせが来て初めて彼が教師の真似事をやっているのを知った。
「働く必要もないのに、まったく呑気なものですよ。貴族連中っていうのは皆ああなんですかね」
とラキーチンは、目の前に当の貴族連中がいるのも忘れていらいらした口調で言った。
ラキーチンは現在、モスクワの出版社に職を得ていて、挨拶がてらアリョーシャに仕事を持っていったのだった。何かの伝手で依頼された文筆の仕事を譲った形だったのだが、書き上がった原稿を受け取りに行って見てみたら、てんで形になっていなかった、という。
「文法とかスペルの問題じゃないですよ。そいつに関しては二、三の間違い以外まあ綺麗なものでした。ただね、内容が……なんというか、感情先行というんですか、言いたいことがたくさんあるみたいで筆が走って走って、内容がさっぱりわかりゃしない。これじゃ載せられないから直してくれと言ったら、うんと言ったきり、原稿はその場に置きっぱなしなんだから」
ラキーチンは、その時のことを思い出したのか、だんだんブスッとした表情になってきた。イワンは弟の様子を思い浮かべて、柔らかな笑みを浮かべる。
「アレクセイの書いたものは読めますか」
「いつかはね、先になるでしょうけど。掲載されたら送りましょう。住所はここでいいですね? あいつはそういうことはしないでしょうからね」
ラキーチンは、何かしら積もり積もったものがあるのか、刺々しい口調で言ったが、弟の性質を考えればその通りだと思っているイワンは、ただ微笑を浮かべるだけだった。
「ところで、イワン・フョードロヴィチ」
挨拶以来、一言も発さず、相槌も打たずにラキーチンの隣に座っていた青年が突然口を開いた。
「あなたは以前文筆をものされていましたね。硬軟どの話題もお書きになっていらっしゃったと記憶していますが」
「ええ、その通りです」
カテリーナがカップを持つ手をこわばらせた。ラキーチンも咎めるような目で青年を見ている。
「もうお書きにならないのですか」
「……ええ」
「なぜ?」
「それは……」
「あなたはお書きになるべきですよ。口述でもいい。私もその心得はありますし、もっと優秀な者がよければその伝手もあります。インタビューでもいいですね、私が記事にします。したいんです。あなたと仕事が」
エヴゲーニイ・ペトローヴィチは早口で言った。イワンは呆気に取られて彼の顔を見ている。それを承諾と受け取ったのか、彼はなおも言い募った。
「いえ、以前からあなたの記事を拝見しておりまして。あなたの着眼点はいつもすばらしい、特にルポは一級品です! だからあなたのご意見をお聞きしたい、というのはですね、新しい裁判制度についてです。私は何も保守派というわけではありません、その逆です。このロシアが新しい時代の光に照らされるのは喜ばしいことです。しかしあまりにも拙速にすぎるのではないかと思っているのです。イワン・フョードロヴィチ、あなたは科学者であり、経験豊かなジャーナリストであり、また裁判制度の当事者でもあります! この制度は素晴らしいが欠陥もある、特に—— 」
「エヴゲーニイ・ペトローヴィチ! どうかその辺で—— 」
「いいえ奥様!」
エヴゲーニイは今度はカテリーナの方を向いた。
「そうだ、カテリーナ・イワーノヴナ、あなたにもぜひお聞きしたい。あの弁護士はあなたがお招きになったそうですね。あの方は確かに評判がいい! モスクワで随一との評価を得ております。しかし、あの弁護をお聞きになって、あなたはご満足なさいましたか? 内容ではありません、判決でもなく、あなたの良心にかけてです! あの弁護士の弁論は、あなたの良心を満足させたでしょうか、いかがですか? むしろ試練になったのではございませんか?」
「エヴゲーニイ、よせ、今はやめろ!」
「というのもですね」
エヴゲーニイは止めに入ったラキーチンを振り解いて言った。
「弁護士連中は—— これはもちろん一部、と言いたいところですが、悲しいかな少なくない数が、いわゆる詭弁家だからです。法はよろしい、秩序もよろしい、しかし法と秩序の間に生活が、生きた人間がいなければ、法も秩序も人間を縛り上げ、血を抜いてただの傀儡にしてしまいます。ご存じですか? 悲しむべき事態が進んでいるのです。ここに二人の人間がいます。一人は妻に先立たれて十年もつつましく生きてきた老人、もう一人は高利貸しです。この老人が高利貸しに財産をふんだくられて、明日をも知れぬ身となった時に、何が起こったと思いますか? 高利貸しが老人を訴えたのです! 債務不履行というわけです。弁護士と名乗る連中は、法律書を繰ってはこれこれの法律のこれこれの条文にこう書いてある、だから高利貸しの言うことは法に照らし合わせて適切であると言うのですが、もうすでに何もかも巻き上げておいて、その上老人をですよ、何年もつつましく生きてきた人を、債務監獄に入れてどんな利益があります。これこそ血の通わぬ、冷たい論理ではありませんか!」
「エヴゲーニイ—— 」
「イワン・フョードロヴィチ!」
彼はイワンの方へ身を乗り出しながら、ほとんど声を枯らすようにして言った。
「法には血が必要なのです! 温かく、脈打って人を生かす血が—— それには弁論の力が必要なのです。ここへ来る前に仄聞いたしましたが、イワン・フョードロヴィチ、あなたは何か告白なさりたいことがおありとか?(カテリーナが悲鳴を上げた)どうか私に力をお貸しください! 新制度の経験者として、また洗練された文筆家として、あなたがあの裁判で何を感じたか私に告白してくださいませんか。法は今や冷たく血を抜かれた標本となってモスクワの大通りに横たわっております。これに再び血を通わせ、生きたものにしなければなりません、血を通わせなければならないのです!」
イワンは相変わらず、驚いたように青年の顔を見つめていたが、血の話が出た途端に顔色が変わった。頬は紅潮し、目が光って唇が震え出した。カテリーナが気づいて何か言う前に、イワンは椅子から飛び上がると、手をぱちんと打ち合わせて顔を覆い、ぶるぶると震えて床に倒れ伏した。
「ああ!」
真っ先に動いたのはラキーチンだった。彼はイワンが取り落としたカップを跨いで彼のそばに膝をつくと、「ああ、やっぱり!」と叫んだ。
「あいつと一緒だ、こうなると思ってた! あいつもよくこうやって倒れてたんだ! ああ、何てこった、気絶してる! 水を、水を持ってきてください!」
カテリーナが水差しを掴んで渡すと、ラキーチンは水差しをひっくり返してイワンの額めがけて水をぶちまけた。水差しの中にはそれほど水は残っていなかったが、効果はあった。硬直していたイワンの体が一層固くなり、それから緩む。荒い息をついて床に倒れ伏しているイワンのそばに膝をつき、手を握りしめたカテリーナが、ふと顔を上げて二人を睨みつけた。
「出ていきなさい」
「カテリーナ・イワーノヴナ」
「わたくしはここの主人です。あるじとして命じますわ。出ていきなさい」
ラキーチンは立ち上がり、おろおろしているエヴゲーニイの肩を叩いた。「だから時期尚早だと言ったろ」と囁く。カテリーナが聞き咎めてもう一度「出ていきなさい」と言った。
「記事にでも何でもするがいいわ!」
ラキーチンはむっとした顔をした。「ええ、好きにしますよ! でもそれはあなたから許可をいただいたからじゃない、僕らには元来あなたの許可なんか必要ない、それが理由です!」
ラキーチンは、なおもおろおろと友人とイワンを交互に見ているエヴゲーニイの腕を掴んで引っ張り、応接室を出て行った。出て行く前に、「見送りは結構!」と言うのを忘れなかった。
カテリーナは、床にへたり込んだままイワンの手を握りしめていた。固く強張った手だった。ドレスの膝に紅茶と水差しの水が染みていった。
イワンは眠っていた。夢を見ていた。目が覚めると、頭が重くて鼻が詰まっている。頬を拭って、しばらく天蓋のあるはずの暗闇を眺めていた。いつまでそうしていただろう。外で鳴く小鳥の声に気づいて体を起こすと、ずっしりと重かった。上半身を起こしたまま寝床でぼんやりしていると、暗いのに目が慣れたのか、視界の隅に白いものがあるのに気がついた。昼間に子供たちが譲ってくれた待雪草だった。
花は小さな濃い色の瓶に生けられて、寝床のそばのテーブルに飾られていた。指先で花びらに触れると、冷たくみずみずしかった。
遠慮がちに扉が叩かれる。扉を開けて入ってきたのはカテリーナだった。簡素なドレスを着て、何も持たずに一人でいた。
「起きたの? 起きて大丈夫なの? ええ、カーテンを開けるわね、でも一つだけよ。あんまり明るすぎるのもよくないわ……」
カテリーナは首を横に振った。「これじゃあなたの番人みたいね」そしてカーテンを開ける。窓の外は薄赤く光った雲がゆっくり流れている。明け方だろうとイワンは思った。待雪草の方を見ると、濃い青色の瓶の中で、花弁も葉もぴんと先まで伸びている。萎れかけていた花は、水に生けられてまた生命を取り戻したようだった。
「何か食べる?」
「いや、まだいい……水をもらえる?」
「いいわ」
カテリーナは、食事用の机の上に置かれた水差しを取った。ガラスのコップに水を注ぎ、イワンの元へ持ってくる。水はぬるくなっているのだろうが体温よりはずっと冷たく、その冷たさのおかげでイワンは夢を見る前にあったことを思い出した。
「僕は倒れたようだね」
「ええ。……もう大丈夫なの?」
「うん。よくあることなんだ。アリョーシャも……母もよくこんなふうになったけど、大抵一晩寝たらケロッとしてたよ」
母親は短期間に発作を繰り返し、最後は衰弱して亡くなったことは伏せた。あるいはカテリーナは察しているのかもしれないが、黙っていた。
「もう少し休む?」
「いや……」
イワンはしばし瞑目した。カテリーナは息を殺している。カタツムリは寝ているのか、遠すぎるのか、何も聞こえない。
「そばにいて。君に聞いてほしいことがあるから」
いいわ、と頷いて、カテリーナは、待雪草の隣、寝床の隅に腰掛けるイワンのそばに腰を下ろした。カテリーナがイワンを見つめる。額を朝焼けのバラ色の光がほのかに照らしている。
イワンは長い間黙っていた。その間、カテリーナは一言も話さずに待っていた。もう一度目を閉じると眼裏を光の名残りのように色の粒が流れていく。風に吹き散らされる雪のようにも見えた。それは夢の名残りでもあった。
「君は裁判の前に、彼に会いに行ったと言っていたね」
「彼というのはあの召使いのこと?」
「そうだ」
カテリーナは怪訝そうな顔で頷いた。それがどうかしたのかというような、それを尋ねるのを恐れているような顔だった。
「彼は……どうだった? どう言っていた?」
「……」
「……」
「……何も」
「何も?」
「ええ。あの男は恐縮するばかりで、私には挨拶以外、ろくに口もきけなかったわ。あんな臆病な男にあんな事件なんか起こせるわけないと私も思った」
カテリーナは、目を一度伏せて、また上げた。今度はイワンの方ではなく、待雪草を見ているようだった。下向きに雫のように垂れた花弁は、雪のような色をしていた。あるいは、何も書かれていない、まっさらの便箋のような色だった。
いいえ、と彼は言った。「いいえ、やっぱりそれはあなたが持つべきでしたよ。何せそいつはそれを買うお金なんかなかったけど、あなたはお持ちだったんですからね。……何も持たない人間は、ここでは何一つ持てやしないんです。イワン・フョードロヴィチ、ここはそういう場所でしょう。そうでしょう……」いつに話したことだったろう。彼とはたくさん話したはずなのに、断片的にしか思い出せない。いずれにせよそれは、夏の間のことだった。
「裁判の前の日に、僕は彼に会いに行った。意味がわかるね、カーチャ」
カテリーナが身じろぎをした。かすかな衣擦れの音が聞こえた。
「彼はすべて話した。裁判で言った通りだ。だけど聞いてほしいのはそんなことではなくて……」
何度も見る夢がある。同じ夢を、繰り返し。暗い雪の道を歩いている。雪は激しく降っていて、吹き上げられた氷の粒がイワンの周りを渦巻いた。白いトンネルのようになった視界のずっと遠くに見える暗い場所を目指してイワンは歩く。お別れでございますね、と背後から声がする。戻れ、戻れと念じているのに、イワンは言うことを聞かず、雪の向こうの暗い場所へ進んでいく。
母の親戚に連れられてこの町を出て以来、初めてあの家に帰ったのは夏のことだった。庭ではジャスミンが花盛りで、強い香りがして好きになれなかった。イワンが帰ってきてすぐ、グリゴーリイとスメルジャコフが飼っていた豚を屠った。豚を屠った日はひどい悪臭がしたが、それは同時に懐かしい匂いでもあった。少なくとも、好みではないジャスミンよりは、こう言ってよければ親しみがあった。屠殺の現場をイワンは見ていない。小さい頃の記憶にもないのに、その匂いにははっきりと覚えがあった。食卓にはソテーやソーセージの皿がいくつも並んだ。イワンはそれを食べた。
夏の日はよく晴れていたが崩れやすく、時々雷が鳴って大雨が降った。大雨の中を彼が慌てて走るのを、イワンは窓から見ていた。雨が上がると、それまでどこにいたのか羽虫や蝶々が飛び回る。滞在は長引いた。夏は盛りを迎え、ベリーが熟れ、リンゴが熟れ、雨の後にキノコが生えた。そして秋が過ぎ、冬になった。鳥が渡った後の森に雪が降る。雪は積もり、夜になる。
「僕はあいつを置いてきた」
イワンは言った。窓の外の空は赤みが増し、次第に暗くなっている。イワンが朝焼けだと思っていたものは本当は夕暮れで、地平線はいつまでも薄赤く、日が完全に没するまで、長く長く暮れ残る。
「僕はあいつを置いてきた……あの場所に」
こつりと小さな音がする。カタツムリの殻が飼育箱を叩いている。
「寒い場所に置いてきたんだ」
「……」
「置いてきたんだよ」
「……」