六月の花の頃

 人が住まなくなったというのにカラマーゾフの家はいつも清潔だった。息子たちは二人とも家を出て居つかず、従僕の夫妻が家を管理していた。毎日庭を手入れし、時々は窓を開けて空気を入れ替え、埃をはらい、額や扉や窓ガラスを磨く。調度品に埃除けの布が被せられている以外はまったく汚れも蜘蛛の巣もなく、そのためにかえって不気味だった。家の中は絶えて明かりがつかず、人の気配もない。それなのに家ばかりぴかぴかで、まるで等身大の人形の家か、住民が突然消えたみたいに見えるから、夕暮れとか、あるいは逆に、抜けるような晴れの朝などにそっちの方に目をやるとぎょっとしたものだ。母屋の傍に立つ召使小屋からは毎日煮炊きの煙が上がる。明かりもつけば人の声もした。それを見て人々はようやく安心する。なあんだ、やっぱり。人が暮らしているじゃないか。
 人々の噂を知ってか知らずか、従僕の夫妻は毎日判で捺したような毎日を送っていた。朝、目が覚めてすぐ、妻のマルファ・イグナーチエヴナはかまどに火を入れ、夫のグリゴーリイ・ワシーリエヴィチが薪を割る間に朝食の準備をする。メニューは決まって黒パンと卵か酢漬けの野菜で、たまにコーヒーがつく。たまにもう少しいいもの、たとえば肉をつけたって困らないくらいの給金をもらっていたが、夫妻はそれ以上のぜいたくをあまり好まなかった。身に合わないぜいたくは、楽しみや喜びよりも困惑をもたらす。味わうというよりは一つの作業のように、二人は朝食を手早く済ませて立ち上がる。
 二人はまず母屋へ行く。裏口から入り、一階の居間から順に風を入れる。埃を掃き出し、蜘蛛の巣を払い、窓ガラスの曇りを拭く。最後に玄関の扉を開けた。隅々まで磨かれた無人の家は清潔だった。彼らの主人の息子たちがこの家の処遇を決めるまで、この家を維持するのが彼らの仕事だった。
 母屋が終われば庭に行く。庭の手入れは骨が折れた。母屋の周りは努めて綺麗にするようにしたが、奥の方は手入れが行き届かず、時々近所の悪童が入ってきて、遊んだり、鳥やキノコを採っているらしかったが、夫妻は特に怒るでもなくほったらかしている。召使小屋のそばには二人分の食卓を養う畑があった。主人の息子からは、畑を増やしてもいいし、隣家のように誰かに貸し出してもいいと言われていた。隣家の住人はすでに家を引き払い、次の住人はもう畑を貸し出していなかったので、借り手はすぐに見つかっただろうが、二人はそうしなかった。もういい年だし、新しいことをしようと野心を出す性格でもなかった。
 一通りやることが終わってしまうと退屈になる。彼らは近所に出かけ、掃除や洗濯や繕い物や、家具や屋根の修理を手伝った。グリゴーリイは友人の家で養蜂用の巣箱を作り、マルファは同じく友人の家で刺繍を教えた。女中奉公をしていた頃、若い頃は伯爵夫人の侍女だったという老婆に可愛がってもらったのだが、教えるのはこの老婆から教わったフランス風の刺繍だった。二、三の絵柄しか知らなかったが、皆これを組み合わせて思い思いの図案を作った。刺繍したハンカチは、市場や近隣の町に持って行けば多少なりとも金銭になって、娘たちやその家族の、春の支度の足しになる。それもない時は、眼鏡をかけて読書をした。本は人から借りることもあったが、たいていはグリゴーリイが凝っていた聖人伝で、もう何度も読んでいたし、グリゴーリイの読み方は訥々としていて決して上手くはないのだが、夫妻は決まって同じところで感じ入って時に涙した。人のうらやむような悠々自適の生活だった—— 主人が突然殺されたのでなければ。
 カラマーゾフの家は、少々古いが手入れは行き届いていて趣味も悪くない。それでも買い手がつかないのは、そこの家の主人がまさにそこで殺されたからだ、という話がある。フョードルの死後、カラマーゾフの息子たちの信託を請けてやってきた財産管理人はかなりのやり手で、フョードル・パーヴロヴィチの事業をあっという間に整理した。フョードル・パーヴロヴィチのやっていたレストランは他人に売り払うことになり、その他にも色々と財産を扱いやすい形に変えて、そうやって最後まで残ったのがこの屋敷だった。血のついた文鎮は警察に証拠品として押収されたし、絨毯も敷き替えたが、殺人現場には変わりない。おまけに下手人は長男だった。不吉な(あるいはいくぶんか不謹慎な)噂が幽霊のようにつきまとう屋敷を誰も買いたがらないのだという。
 が、それよりは主人の息子たちに商売っ気がないせいだという方が正確であろうとここらに住む人は思っている。末っ子のアレクセイ・フョードロヴィチは修道士上がりで、売るよりはもらう方が向いているような気質だったし、長男の裁判が終わるとさっさとここを離れてしまった。次男であり実質的な二代目であるところのイワン・フョードロヴィチは、父と息子の板挟みになった挙句、長男が父殺しを犯したショックで裁判の最中に錯乱して、それっきり人事不省の状態だった。起き上がれるようになった後も、何度も熱にうなされ、何か一人だけ夢の中にいるような、話の噛み合わない状態だったという。
 イワン・フョードロヴィチが療養しているカテリーナ・イワーノヴナのお屋敷には、ロシアどころかヨーロッパ中の名医が出入りしていた。頭が良すぎたんだ、と皆言い合った。頭が良すぎて不幸になったから、神様がそれをお取り上げなさったんだ、と。ところがしばらくして、イワン・フョードロヴィチがカタツムリを飼い始めたという話が流れて来た。どうしてカタツムリを? 「フョードルの旦那みたいになにか事業でもするつもりなのかね?」フランスではカタツムリを食べる。イワン・フョードロヴィチもそのつもりなのだろうか、と思ったがどうもそういうつもりもないらしい。ともかく息子の二人とも今は俗世の活計に興味がなく、したがって家の売却もとんと話が進まない。ひょっとしたら従僕夫妻が亡くなるかなにか、そういうことがあってようやく屋敷に目を向けるのでは、と思われた。
 そんな風だったので、復活祭を控えたある日、マルファが畑の手入れを終えて表に回ったところ、門のそばのベンチにイワン・フョードロヴィチがぽつねんと座っているのを見た時には驚いた。来るという話は聞いていない。もちろん屋敷は彼の持ち物だからいつ来てもおかしくはない。が、それまで管財人の事務的な手紙以外ほとんど連絡がない中で、その訪問はあまりにも急だったし、奇妙だった。
 イワン・フョードロヴィチは、誰も連れずに一人でいた。馬車も見当たらなかった。裾は泥だらけで、どうやら歩いて来たらしい。カテリーナ・イワーノヴナの屋敷からここへは、歩いて行けない距離ではないがそれなりに遠い。おまけに—— これが一番夫妻を驚かせたことだったのだが—— イワン・フョードロヴィチはひどく痩せていた。病からは回復したと聞いたが、頬はこけて、上着が体に余っている。脂気のない髪は、きちんと梳かしてはいるようだが、ぞんざいに撫で付けただけで、耳のあたりも後頭部のあたりもぼさぼさしていた。ほつれた髪がばらばらとかかる顔は、最後に見たときよりも一層青ざめていた。それでいて目はぎらぎらとして、落ちくぼんだ目の奥から母屋と庭を見回した。
「まあ、イワン・フョードロヴィチ」
 マルファは前掛けで手についた土を拭いながら言った。
「今日はどのようなご用件で?」
 イワン・フョードロヴィチは、ぼそぼそした口調でまとまりのつかない話をした。総合すると、特に用はないのだが立ち寄ってみたのだということだった。立ち寄るにはずいぶん遠い距離を来たものだと思ったが、この辺りに知己がいるという話は聞いていない。イワン・フョードロヴィチの目は、話をする間ずっとマルファとグリゴーリイと母屋とを順ぐりに行き来した。話が終わると、長距離を歩いてきたのもあってすっかりへとへとになっていて、夫妻は致し方なく召使小屋の方へ案内した。母屋は綺麗にしてはいるが、調度品は全て埃除けがかかっているし、細々したものは仕舞い込んであるから人がゆったりお茶のできるような状態ではない。召使小屋の方がまだ人間的に一息つける。彼らはかまどの近くの煤を払い、家の中で一番ましな椅子をしつらえてイワン・フョードロヴィチを座らせ、お茶を出した。イワン・フョードロヴィチがお茶を飲む間、近所の子供に小遣いを渡し、カテリーナ・イワーノヴナの屋敷にやって迎えを寄越させた。
 次に来たのは五月のフォマー週間が終わってすぐの頃だった。今度は女中の娘が着いてきた。マーシャという名のその娘は十四、五歳で健康そうな丸い頬をしていて、とにかくよくしゃべる。イワン・フョードロヴィチが庭を見て回る間、マルファはマーシャの甥と姪を含めた家族全員の名前と父称と、それぞれの好きなものと、昨日あった喧嘩の顛末と、マーシャの一番いい思い出と「一番最悪」な思い出とをつぶさに知ることになった。とはいえ無駄口を叩いているわけではなく、おしゃべりで作業を邪魔するようなことはなかったし、よく気の回る娘で、マルファの畑仕事の間、雑草を正確に引っこ抜いて畑の端にきちんと積み、虫をつまみ殺し、崩れた垣を修理した。その間のべつしゃべるから、グリゴーリイは閉口して逃げてしまったが、マルファの方は、弟妹たちがこうやってしきりにおしゃべりしていたものだ、こんなに賑やかなのは、まだ子供の頃、奉公に上がる前以来だと懐かしくなった。弟妹たちももう大きくなって、今は子供や孫がいる。
 イワン・フョードロヴィチはなかなか戻ってこなかった。一通り仕事も終えて、召使小屋で二人でクワスを飲む。マーシャが「旦那様、また倒れちゃったのかしら」と言ってマルファを慌てさせたちょうどその時、当の本人がとぼとぼと庭の奥から戻ってきた。
 母屋の周りはともかく、庭の奥の方は手入れが行き届いていない。まだ春先とはいえ、庭の草は野放図に生い茂っている。イワン・フョードロヴィチは、どこかで転びでもしたのか、上着やズボンの裾に葉っぱや土をつけていた。マルファは上着を脱がせてばさばさと振り、腕にかけてこまかい汚れを手で払う。
「ご用はお済みで?」
と葉っぱを払いながら尋ねたマルファの言葉には頷き、
「何かご用だったんですか?」
と、払いきれない葉っぱをつまんで捨てながら尋ねたマーシャの言葉には首を横に振った。
「じゃ、なんでお庭を見に行ったんですか?」
とマーシャがずけずけ尋ねるので驚いたが、イワン・フョードロヴィチは気を悪くしたふうでもなく、ちょっと見てみたかっただけだというようなことをぼそぼそ話した。表情は相変わらずどこかぼんやりとしていて、ともすれば子供のようにも見えた。
「ああ、お庭に秘密基地をたくさんお持ちでしたものね」と上着を着せながらマルファが言うと、マーシャが「そうなんですか?」と、これはイワン・フョードロヴィチに尋ねた。秘密基地があるなら案内してほしいというようなそわそわした顔だったが、イワン・フョードロヴィチは覚えていないらしく、首を傾げるばかりだった。マルファはふと、この主人の息子がほんの子供の頃にあったあるエピソードを思い出した。イワン・フョードロヴィチは子供の頃、母親に似て内気でおとなしい性格だったが、何かにへそを曲げると家を飛び出して庭に隠れてしまうことがあった。ある日、夜になっても見つからないので、パーヴェルを探しにやったらあっさり出てきた。どこにいたのかは、二人とも決して言わなかった……。
「なあ」
と迎えの馬車に乗って帰る二人を見送った後で、グリゴーリイがぽつりと言った。
「イワン・フョードロヴィチは、どうなさるおつもりなんだろうなあ」
「どうって、何が」
 マーシャのおしゃべりから逃げてほとんど姿を見せなかった夫に非難の目線を送りながらマルファは言った。
「だって、何回も来ているじゃないか」
「何回もって、たった二回じゃないの」
 グリゴーリイはマルファの言葉を無視して、お前は何か聞いていないか、と尋ねる。何も、とマルファは答える。
「今日はお庭をご覧になっていましたよ。特に用件はないようだったけれど」
と言うと、夫はそれ見たことかという顔をする。
「それは、ほら、アレだ。視察じゃないのか」
「しさつ?」
「下見だよ、ここをどうするかの……」
 まさか、とマルファは言ったが、笑い飛ばすほどの勢いはなかった。イワン・フョードロヴィチは何も言っていなかったし、特にそういうそぶりも見せなかったが、ないと言えるような確証もない。
 小さな疑惑の種を、日々の作業の中に紛らわせるようにして二週間ほど過ごした。春のニコラも過ぎ、目に見えて夜が短くなった。夏至が近づきつつあったある日に手紙が届いた。カテリーナ・イワーノヴナから、イワン・フョードロヴィチと共にカラマーゾフ邸を訪問する旨を知らせる手紙だった。それを読んだ時、夫妻は顔を見合わせた。いよいよなんだろうか? そうなんだろうか?
 聖霊降臨祭を間近に控えた木曜の朝、マルファは目覚めてすぐにかまどに火を入れ、朝食の準備をした。料理はあまり上手くなく、今日も卵を焦がしたが、夫は文句一つ言わずに平らげた。結婚してからこの方、叱られたことはたくさんあるが、料理に文句をつけられたことは一度もない。おかしな人だ。マルファはそう思いながらも黙っていた。普段からそう話すわけではないが、今日は話し込む時間もない。いつものように、味わうというよりは毎朝の作業の一環のように、夫婦は朝食を済ませて立ち上がる。
 母屋の方は昨日までに綺麗に掃除をして、居間にも書斎にも、寝室までたっぷりと風を入れたが、どことなく埃くさい臭いは誤魔化しきれない。部屋ではなく家全体、壁紙の継ぎ目や天井と壁の接木にまでその臭いが染み付いているようだった。どれほど綺麗に保とうとも、人の住まない家はすぐに古びて朽ちていく。イワン・フョードロヴィチには、テラスでお茶を飲んでもらうしかないだろう。今日は晴れている。テラスはグリゴーリイがこまめに手入れをしていて、傷みもほとんどない。ここからなら庭の花もよく見える。マルファは椅子とテーブルをテラスに運び、綺麗に洗ってアイロンをかけたテーブルクロスをかけた。
 食器は昨日のうちに磨き、ナプキンも洗ってある。紅茶はいつもフョードル・パーヴロヴィチが飲んでいた上質なものを用意した。長年染み付いた職の習慣は恐ろしく、使用人としての仕事は久しぶりのはずなのに、まるで階段を登るように、一つ一つ、万事抜かりなくきちんと準備されている。それでもマルファとグリゴーリイの夫妻は、どこかそわそわとして、ふと気づくと修道院の方へ目を向けていて、連れ合いが自分の方を見ているのに気づくと、誤魔化すように首を振って目の前の仕事に戻った。夫妻が落ち着かないのは、ひとえに今日という日のためだった。
 聖霊降臨祭を日曜日に控えた木曜日の今日はセミークだった。この日は来るべき夏と、不幸な死者のためにあった。
 洗礼を受ける前に死んだ者は不幸な死者であった。水遊びの最中に溺れ死んだ子供も不幸な死者であった。最近では少なくなったが、客死した巡礼者も不幸な死者だった。喧嘩で首を切られて死んだもの、昨日まで元気だったのに突然心臓が止まってしまったもの、お産で血が出過ぎて、神父様を呼ぶ間もなく死んだ女たち、そして自殺者……。不幸な死者たちは、そのために大地から拒まれ、最後の懺悔を行わないために教会から破門され、埋葬を拒否される。セミークは、そうした不幸な者たちを埋葬し、慰めるためにあった。
 自らの死を死ねなかった不幸な死者は、そのまま埋葬すると霜の夏をもたらすと言われ、この日まで《貧者の家》に安置される。野原に生える雑木林の中に作られた、一種の氷室だったが、この町では、セミークの正午に修道院に集まり、《貧者の家》まで、司祭と一緒に行列を作って行進をする習慣があった。参加は強制されてはいなかったが、それなりの数の人間が参列した。マルファとグリゴーリイの夫妻も、結婚した翌年から二人で参加していたのだが……。
 約束の時間のはるか前に準備は終わった。手持ち無沙汰に主人の息子を待っていると、
「なあ」
とグリゴーリイが言う。
「イワン・フョードロヴィチは、どういうおつもりだろうか」
 この問は今朝から三回目だった。マルファは「知りませんよ」と、これも三回目になる答えを返す。
「どうする。ここを売り払うということになったら……。俺たちはどうなるんだろうなあ」
 グリゴーリイはそのことを想像して、目に見えてしょんぼりとした様子になった。最初は努めて励ましていたマルファも、さすがに呆れた声を出す。
「言ったって仕方ないじゃありませんか。全てはイワン・フョードロヴィチのお考え次第だって昨日は言ってたくせに」
 グリゴーリイは何か言いかけた口をぱくんと閉じた。夫の気持ちはわからないでもない。彼にとって主人といえばフョードル・パーヴロヴィチだった。神様の思し召しの通りの、順番通りの代替わりならともかく、突然あんなことになって、しかもほとんど姿を現さなかった彼の息子が今は彼らの主人だということに、グリゴーリイはいまだに納得がいかないのだった。本当に頑固な人なのだ。それで泣いたこともあるし、嬉しかったこともある。長年連れ添っていれば、いいことも悪いことも同じだけ起こる。悪いことがあったら、それを考えるのよ、と結婚した日に年嵩の友人から言われたことを、マルファは今も忠実に守っている。
 表から馬車の音が聞こえた。グリゴーリイとマルファは顔を上げ、表門に向かう。開け放された門から立派な馬車が入ってきた。どことなく優美なそれは、カテリーナ・イワーノヴナのものだった。彼らは主人の息子を迎えるために並ぶ。カテリーナ・イワーノヴナに続いて馬車から降りたイワン・フョードロヴィチは、きちんとした身なりをしていて、髪も綺麗に整えていたが、ひどく青い顔をして、まるっきり病気に逆戻りしたようだった。
 二人は黙って頭を下げ、ミツバチが飛び回る庭を回ってテラスへと案内した。テラスに設えた椅子に腰掛けながら、イワン・フョードロヴィチは「お茶はいい」と言った。「今日は手短に済ませるつもりだったから」
 かしこまりました、と言ったがそうもいかない。サモワールは沸かしてしまったし、茶も茶菓子も準備している。フョードル・パーヴロヴィチは酒が好きだったが、長旅の後などは茶を飲むのを好んだ。主人の息子が来ていて、召使がこの家の習慣を守らないなどありえないことだった。マルファとグリゴーリイは手早く茶の準備をする。
 テーブルを挟んで、二人は庭の方を向いて座っていた。ちょうどロマーシカが花盛りで、ミツバチがやってきては白い花を揺らして蜜を集めている。カテリーナ・イワーノヴナは、イワン・フョードロヴィチに何か指差して話し、イワン・フョードロヴィチが小さく頷いた。マルファには、それがかつてのソフィア・イワーノヴナに重なった。アレクセイ・フョードロヴィチが生まれる前、二人はよくテラスに出て何をするでもなく庭を眺めていた。イワン・フョードロヴィチは母親の隣に座り、生真面目な顔をして、覚えたばかりの花や虫の名前を、ソフィア・イワーノヴナに一つ一つ指差しては口に出して数え上げた。
 机の上に茶の用意がすっかり整えられると、あとは自分たちでするから、とイワンはマルファを下がらせた。カテリーナの屋敷でも、使用人を下がらせて二人で過ごすことがよくあった。最初はいもしない誰かに怯えるイワンのためだったが、今はただの習慣になりつつある。よく晴れた天気とは裏腹にイワンの口数は少なく、合間合間に沈黙が落ちた。その度にだんだんイワンの表情が暗くなる。カテリーナは努めて明るい声を出した。
「あのカタツムリみたいに何か育てていたの?」
「蝶々を育てたことはあったかな……こんな小さな卵から、こんな小さな芋虫が孵って、それがどんどん大きくなってサナギになった。父さんに捨てられたけど」
「それは……お気の毒だったわね」
 カテリーナが言って口を閉じた。無意識のうちに、指でカップのふちの模様をなぞる。カラマーゾフ邸に行きたいと言い出したのはイワンだったが、何のためなのかカテリーナは知らされていなかった。ここしばらく、イワンはカテリーナの元に来たドミートリイの手紙を繰り返し読んでいた。起きると居間へ行き、グルーシェンカが書き、カテリーナが朗読した兄の手紙を、椅子に腰掛けてじっと見つめている。だから何か関係があるのかとも思ったが、ただ本当に来たかっただけなのかもしれない。自分も行きたいと言ったら特に反対はしなかったので着いて来たが、邪魔だっただろうか。カテリーナの内心を知ってか知らずか、イワンが倒木を指差して唐突に言った。
「雪が溶けたら冬眠していたカエルを探して掘り起こしたりしたのを思い出したよ。ああいう木の下にはよくいるんだ。気の毒と言うならあのカエルだろうね」
「そんなことをしていたの?」
「うん。幻滅しただろう」
 イワンは急に鋭い笑い声を立てた。カテリーナはやや面くらいながら答える。
「そうね……ううん、少し違うわ。あなたも子供みたいなことをしていたのね」
「そりゃ……子供だったもの」
 二人ともぽつぽつ喋る合間にちびちびとカップに口をつけるから、お茶はあまりすすまなかった。カップに半分ほど残ったお茶は、初夏の風に吹かれてどんどん冷めていく。イワンはふと陰気な顔になってぼそりと言った。
「僕の小さい頃の話なんてつまらないだろう……」
「どうして? そんなことないわ。いい天気だし」
 カップに口をつけかけたカテリーナが「まあ!」と素っ頓狂な声を上げた。カップに残った紅茶にミツバチが落ちてもがいていた。カテリーナは匙でミツバチを掬うと、テーブルクロスの上にそっと置いた。
「大丈夫かしら? 火傷していないかしら」
「冷めているから大丈夫だと思うけど……」
 カテリーナの置いたカップを触ってイワンが言う。カテリーナは息を詰めてミツバチを見つめている。ミツバチは二、三度その場でくるくると回ると、すぐに体勢を立て直し、羽を震わせるとぱっと飛び立った。カテリーナはほっと息をつき、テーブルクロスに残る紅茶のしみを指して、「見て、足跡がついてるわ!」と言った。丸いしみの近くに、小さな斑点が並んでついている。
「あんなに小さいのに強いのね」
 カテリーナを見るイワンの目が、一瞬きらりと閃いた。イワンは残った茶を飲み干すと、カップを置いて立ち上がる。
「行きましょう、カテリーナ・イワーノヴナ」
「もういいの?」
「ええ」
 イワン・フョードロヴィチの差し出した腕をカテリーナ・イワーノヴナが取る。どちらかと言えば、イワン・フョードロヴィチの方が支えられているようだった。マルファとグリゴーリイが召使小屋から出てくる。イワンは彼らのもてなしと、屋敷の管理に対し礼を述べ、今日はもう行かなければならないからこれで、と言った。夫妻は恐縮しながらも、どこか釈然としない表情で顔を見合わせた。
「あのう」
と、馬車へ向かいかけたイワンにグリゴーリイが声をかけた。
「他にご用は?」
「いや、もう済んだ」
「では、もう何もございませんので?」
「特にない。もう行かなければ。……この後修道院に行くから」
 夫妻が怪訝そうな顔をしたのも無理はなかった。カテリーナ・イワーノヴナまで訝しげな顔をした。イワン・フョードロヴィチの無神論は、この町ではすっかり語り草になっていた。財産もすっかり整理した今、まだ修道院に仲裁してもらうべき諍いもあると思われない。困惑する三人に向かってイワンは突然にやりと笑った。
「今日はセミークだろう!」
 三人はますます不可解そうな顔をしたが、真っ先にはっとしたのはマルファだった。
「イワン・フョードロヴィチ—— 」
「パーヴェルに最後に会ったのは僕です」
 イワンが決然とした口調で言った。マルファが息を呑む。
「だからここに来た。ここでは修道院から行列を作って墓地まで歩くんだろう、そういう習慣になっているんでしたね? あなたは帰っていただいて結構ですよ、カテリーナ・イワーノヴナ。あとで迎えを寄越してもらえれば。大丈夫です、途中で倒れたりしませんから! もちろん信仰に対する僕の立ち位置を考えればこれは奇妙かもしれないが、僕はニヒリストじゃない。何も全ての慣習を否定しようというわけでは……」
 誰も何も言わなかった。イワンはだんだんと早口になっていったが、そこで凍りついたような空気に気づいた。カテリーナもマルファも、グリゴーリイも最初呆気に取られ、それから悟った。彼は病に倒れていた。裁判の直後から発した熱病から回復した後も、一人だけ夢の中にいるような具合で、自分の心の中に閉じこもり、少し回復したと思ったら熱を出した。カタツムリを拾ってからは倒れるようなことも減ったのだが、何ということだろう! 彼の魂はまだここに全て帰って来てはいなかったのだ。
 パーヴェルの埋葬はとっくに済んでいた。一年前のセミークの日、彼は他の不幸な死者たちと共に埋葬された。そのはずだ……。夫妻はこの年のセミークに行かなかった。
 イワンは呆然と三人を見つめていたが、さっと顔を青ざめさせ、口を手で覆った。唸るような甲高い声がその間から漏れた。目がきらりと光る。後退り、頭を掻きむしりながら首を横に振った。血の気の引いた唇が神経質に震えた瞬間、マルファはたまらずイワンに飛びついた。
「祈ってください!」
 顔の間近で鋭く囁く。涙を溜めたイワンの目がマルファを見下ろしたが、まるで何も見えていないみたいに焦点が合わなかった。その時マルファは、この主人の息子が、母親そっくりだということに気づいた。ソフィア・イワーノヴナもよくこういう表情をしていた。ここへ来たすぐは少女のようだったソフィア・イワーノヴナの表情は、結婚生活が続けば続くほど硬くなっていった。イワンの表情は、それと同じにどんどん硬く張り詰めていった。
「おい!」
とグリゴーリイがマルファの肩を掴んだ。マルファは、自分がイワン・フョードロヴィチの胸ぐらに両手で掴みかかっているのに気づいて、慌てて手を離した。
「失礼いたしました」
 夫が頭を下げるのに合わせてマルファも頭を下げた。夫はマルファの肩を抱いたまま言った。
「あいつはどうしようもないばか者だ」
「グリーシャ」
 グリゴーリイはイワンに向かってうなだれた。去年のセミークの日、家の中にこもって時鐘を聞いていた、あの時と同じように。マルファの再三の懇願にも、グリゴーリイは頑として首を縦に振らなかった。文字通り腕を取って引っ張ってもだめだった。そのくせずっと悄然として、鐘の音がするたびに目を閉じて祈るのだった。
「坊っちゃんのお祈りに値しません。救われないばか者なんです……」
 イワンはその場で棒立ちになっていたが、それを聞くとぴくりと肩を振るわせた。カテリーナが駆け寄る。彼女に触れられたイワンは、まるで痙攣したみたいに見えた。彼は首を横に振った。少しずつ後退りながら、何度も何度も首を振った。荒い呼吸が聞こえる。カテリーナ・イワーノヴナがそばに寄り添い、腕に触れる。
 その時、修道院の時鐘が鳴った。皆はっとして顔を上げる。
「もう行かなければ」
 イワンはその言葉を繰り返した。「行かなければ」顔は青白かったが、さっきまでの強張りはとれていた。イワンがカテリーナに腕を差し出す。
「いや……もう無意味なのかな? しかし、行きますよ。僕は行きます」
 イワンは独り言のように言った。カテリーナがそれに頷き返し、二人で馬車へと向かった。

 

 イワンとカテリーナは修道院へ馬車を走らせた。御者席にも余裕があることだし、マルファだけでも馬車に乗って行ってはどうかと言われたが、断った。急げば間に合いそうだったし、仮に出発に間に合わなくても、道はいつも同じだった。追いつけるはずだったし、実際追いついた。
 ちょうど野原を通る一本道に差し掛かるところだった。イワンは最後尾にいて、カテリーナと二人で歩いていた。老人や子供も含まれるこの行列は、比較的ゆっくり進んでいたが、それよりも更にゆっくりした速度で、そのくせ顔の汗をしきりに拭いていた。
 マルファとグリゴーリイは、イワンの後ろに着いていたが、やがて追い抜かした。というよりイワンが遅れてしまった。前の方で歌われる讃美歌が遠く聞こえる。イワンは懸命に歩いているにもかかわらず、じわじわと遅れていった。「大丈夫なの?」と言うカテリーナの言葉に、イワンがいらいらした口調で「大丈夫だ」と返す。
「だいたい君は先に帰ってもいいと言ったのに」
「あら、だからいるのよ。私は私のしたいようにしているの」
「……あのう」
 グリゴーリイが振り向いて言う。「今はおやめなさいよ」とマルファがたしなめたが、グリゴーリイは構わずイワンに話しかけた。
「お屋敷のことですが」
「え?」
「あの……あそこは処分なさるので?」
「あー……」
 イワンは暑さと疲労でぐったりなりながらも、必死で頭を働かせた。あの家については何も聞いていない。何かすぐしなければならないこともなかった。ないはずだ。
「いや……あー、いや、特にそういう話は」
とイワンは息を切らせながら言った。
「ない……アリョーシャからも聞いていない。ないよな?」
「ええ」
 グリゴーリイは、「では私たちはこのままでよろしいのですか」と重ねて尋ねる。イワンは反射的に頷いた。
「ありがとうございます! ああ、ありがとうございます、ありがとうございます……」
 マルファも振り向いて深々とお辞儀をする。イワン・フョードロヴィチは、額に吹き出た汗を拭きながらそれに合わせて頷いた。頷きながらじりじりと遅れていく。どうやら追いつくのを諦めたらしかった。
 マルファは夫と並んで歩きながら、讃美歌に耳を澄ませた。大人も子供もみんな一緒に歌う中で、一際高く聞こえる子供の声は、あれはセリョージャだろう、あの子は歌うのが好きだから……。調子っぱずれの歌はお世辞にも上手とは言えないし、気が弱くて、いくつになってもからかいの対象になって小さくなっていたが、この日だけは堂々と歌う。
 ワーリャとターニャの姉妹は仲が悪く、追善のメニューから畝の右と左、どっちから種を撒くかということまで、いつでも争いの種を見つけていがみあっていた。おかげで間に入る子供たちをいつもうんざりさせていたが、今日だけは並んで腕を組み、一緒に歩く。二人とも子供を亡くしている。何年も前の話で、その時はマルファも他の女たちと同じく彼女たちの元へ駆けつけた。最初にターニャの坊や、それから二年後にワーリャのもう十になりそうだった娘。どちらのそばにも、一方の姉妹が一緒に悲しみを堪えるために座っていた。
 赤子はよく死んだ。子供も、最後まで育たないこともよくあった。持て余した親が手にかける話はどこでも聞いた。ただ男女の間に産み落とされて、それだけのものとして扱われる子供たちも少なくなかった。
 癇癪持ちのセーニャも今日は神妙な顔をして歩いている。女房のユーラは目の周りにあざをつくっていた。悪たれのサーシャとコースチャはめいめい友達とつるんでいる。ゴーリャは歌うセリョージャの方を鬱陶しそうに見ているが、いつもみたいに脅して止めようとはしなかった。春先に負った怪我がまだ痛むのか、足を引きずっている。ポーリャは弟のニーカがまとわりつくのを軽く小突いて「友達の方に行きなさいよ」とぶつぶつ言っている。二人の面倒を見ていた長兄のルカは去年、傷害事件を起こして行方をくらませて以来、消息を聞かない。
 行列に並ぶ子供たちは時々、道を外れて野原に入り、花をちぎって蜜を吸った。少し年嵩らしい娘が追いかけて、牧羊犬のように追い立てて道に戻し、ふざけてくるくる回る子供の頭を叩いて語気鋭く何か言う。叩かれた方は屁でもないようで、他の子供たちを引き連れて反対側の野原に逃げる。
 野原を通る道はゆるやかに曲がる。先頭で掲げられた十字架が夏の一番最初の陽光に照らされて輝いた。馬車が通れる程度の広さはあったが、後ろへ行けば行くほど各々勝手なペースで歩くものだから、行列は、途切れたり膨らんだりしながら、長く長く伸びている。たった二年ぶりのはずなのに、マルファは、それが十年も二十年も経って再び出会った光景のように思った。
 不幸な死者たちの中でも、誰よりも不幸で呪われた存在が自殺者だった。ゾシマ長老のいた修道院を有し、信心深いものの多いこの町にあっても、この不幸な死者がいなくなるわけではなかった。パーヴェルもその一人だった。
 隣を歩く夫を窺う。夫は帽子を深くかぶり、ひさしでできた影の中から先頭の方を見ている。表情が暗く見えるのは、影のせいばかりではないだろう。
 去年この列に並ぶことができなかったのを、マルファは夫のせいにはしなかった。夫の気持ちは痛いほどわかっていた。パーシャが死んだ—— 自らを滅ぼした! その二つは夫を打ちのめした。救われないばか者。そして彼らの子供。スメルジャーシチャヤと神様から預かった、彼らの子供だった。
 パーヴェルは気難しい子供だった。しゃっくり一つするのにも、このみっともなくて滑稽なものが喉から出るのが決して許せない、と言うような顔をする。物心ついた頃には、彼はおよそ信心というものを持ち合わせていないように見えた。聖書に対して益体もない罰当たりを言って、夫が叱りつけたこともある。子供のうちはそういう生意気を言うものだと思いもしたが、長じるにつれてその傾向はひどくなった。
 マルファには、どうしてそれほどまでに彼が神の恩寵を拒絶するのか分からなかった。夫に代わって何度かマルファも聖書の講釈を試みたが、冷笑しないかわりに彼はますます頑なになるばかりだった。彼は頑固だった。顔や体にあざを作って帰ってきた日、マルファは泣きじゃくる彼をなぐさめた。誰にされたのかは、知らない、言いたくない、と言うばかりだった。しまいには「誰だってこうするんです、誰だって同じことです!」と言って黙り込んだ。マルファは尋ねるのを諦めて、彼の傷を治療した。といっても、冷やしたり、手製の湿布を貼るくらいだったが。彼はその頃からずっと痩せっぽちだった。
 子供たちはパーヴェルに家畜の糞やゴミをぶつけ、手の届かない場所からはやしたてた。たいていは何かの腹いせだった。子供の間では王様みたいに振る舞っていても、大人の前では無力だ。どんな悪たれも簡単にぶたれた。変わった子や特別に貧乏な家の子は、子供たちの履け口にされる。癲狂病みの母親の父なし子など、格好の餌食だった。そのくせにお屋敷勤めの両親がいるということが、子供達をなおさら刺激するらしかった。
 マルファを見ると、子供たちはその場から逃げ去った。うずくまるパーヴェルに走り寄ると、彼まで逃げたそうな、屈辱を抱えた目でマルファを睨んだ。手を引いて帰る道すがら、パーヴェルはどうして自分は生まれたのか、とマルファに尋ねた。神様がそうお望みになったから、と、たぶん自分はそう答えただろう。正直にしていなさい、そうすれば神様が見ていてくださる、と言うと、パーヴェルは納得しがたいような顔をした。
「あなたはさっき、もし復活の日が来たとしても、子供たちだけは赦す必要はないとおっしゃいました。苦しみと悲しみの中で死んだ子供たちのために、それを与えた者を赦すような権利は誰にもないと。だけど私に言わせれば、そんな日は来ませんよ。神も不死もありません。だから赦しを与える日も決して、決して来やしません」
 以前、パーヴェルがそんなふうに言うのを聞いたことがある。イワン・フョードロヴィチが成人して帰ってきて、あの家に滞在していた時の話だ。彼らはしばしば、二人だけで話していることがあったが、内容までは知らなかった。その時は、裏庭を回って召使小屋の近くまで、歩きながら話をしていた。それで内容が耳に入ったので、前後でどういう話があったのかは知らない。ただ、その時のパーヴェルの声は、自分たちといるときと違っておそろしく澄んで鋭かった。
「まあ、マルファ! それにグリゴーリイ、来たのね、あなたたちも来たのねえ」
 素っ頓狂な声が聞こえて、マルファははっと顔を上げた。隣をひどく年老いた老婆が歩いている。腰は深く曲がり、小さく縮んで、張り付くような白髪を無理やり結い上げた頭はマルファの腰あたりにあった。トーニャ婆さん、と呼ばれている。マルファが嫁いだ時にはすでに老婆だった。隣を孫娘のソーニャが歩いている。無口で働き者の娘だった。太く濃い眉は形よく弓形を描いていて、口はきゅっと引き結ばれていた。トーニャの足取りはおぼつかない。おそらく列から遅れてしまったのだろう。トーニャ婆さんは、マルファの手をとってきつく握りしめた。黄色く固くなった爪がマルファの手に食い込む。
「ねえ、あの子はいい子だったわねえ。本当にいい子だったわねえ……」
 トーニャ婆さんは歯のない口でしきりにそう言いながら、握ったマルファの手の甲をしみだらけの手で叩いた。実のところ、トーニャ婆さんは、誰に対してもそう言った。婆さんは町で一番の年寄りで、彼女にかかればみんな子供だった。数日力なく泣いただけで天に召された子供も、意地悪で町中誰からも嫌われていたポクロワおばさんも、女房の喉を切って自分も死んだワーシャも、全ての死者をトーニャ婆さんは「いい子」と呼んだ。ボケているんだ、と皆んなが言った。あの人はもうボケちまってて、誰が誰でも区別がつかないんだ、と。実際トーニャ婆さんは、娘と孫の区別も、よその子供との区別もついていなかったし、よく名前を呼び間違えた。ごくたまにしゃんとして、昔の思い出や事件を、かなり詳細に渡って話すこともある。そんな時は、いつもなら白っぽく濁った目まで澄んで見えた。とはいえ近頃では、日がな日向ぼっこをしてうとうとしていることの方が多かった。
「ああ、マルファ。大丈夫。大丈夫よ……」
 トーニャ婆さんがそう言うのを聞いて、マルファは自分が泣いているのに気づいた。マルファは涙を手のひらでぬぐい、婆さんの手を握り返した。グリゴーリイが足を止め、婆さんに向かって帽子をとって胸に当てる。あの子はもういない。ここにいない。どうしていないのだろう、と二人は思う。
「マルファ、グリゴーリイ。大丈夫よ、神様はちゃあんと見ていてくださいますからねえ……」
 マルファは頷いた。トーニャ婆さんの目がふと遠い場所を見つめる。にこにこと微笑みながら、マルファの手をまるで病人のそれのように撫でた。誰と間違えているのか、「体を大切にするのよ。そうすればすぐですからね」と言って手を一層強く握りしめた。
 トーニャ婆さんがマルファの手を離し、立ち止まる。喉からひゅうひゅうと息が漏れている。ソーニャがその場にしゃがみ込み、婆さんを背負うと力強い足取りで歩き始めた。
 イワン・フョードロヴィチとカテリーナ・イワーノヴナが追いついたのは、もう行列が《貧者の家》にたどりつき、皆が祈り始めた時分だった。風に乗って腐臭がした。カテリーナ・イワーノヴナは少し顔を青くしたが、そのまま歩き続けた。イワン・フョードロヴィチは、今にも倒れそうな顔色だったが、足取りは案外しっかりしている。会衆の胡散臭げな視線にも一向に頓着しない。と思うと、少し離れた道の上にはたと立ち止まり、帽子を取った。目は《貧者の家》、というよりは、その前に広がる光景を、じっと見つめている。
 《貧者の家》の前には、いくつもの棺が並べられていた。おそらく皆で金を出し合って設えたらしい、白木を組んだだけの簡素な棺だった。その中に、死者が一人ずつ横たわっている。死者たちは皆、白い、清潔な布に包まれて棺に眠っていた。棺はどれも同じ大きさで、大柄な者は膝や背中を曲げていたし、小柄な者や、おそらく子供であろう死者の棺は頭や足の空間が余っている。ハエが集っている者もいれば、もうすでに乾ききっているのか、まったく静かに横たわっている者もいた。誰かが摘んだらしい野の花が、ほんの数本ずつ、全ての死者の胸の上に置かれてある。棺には灯明が捧げられていた。
「イワン・フョードロヴィチ……」
 こちらへ、とグリゴーリイがイワンのそばへ寄り、会衆の後ろに連れて行った。染みついた垢と脂の臭いに混じって香の匂いがした。神父が棺の前に立ち、死者に向かって祈りの言葉を唱えている。棺の前で、死者の縁者らしき人々が、膝をついて十字を切っている。「主よ、憐れみたまえ……」神父の祈りに合わせて、会衆が呟く。少なくない人数がその場に居合わせているのに、その言葉はため息のように低く響いた。「憐れみたまえ!……」祈りの言葉には時々すすり泣きが混じった。赤子がふにゃふにゃ泣き出し、しーっという若い女の声が聞こえた。背中にくくりつけられて、ゆらゆら揺すられていた赤子が振り向いて、丸い目で会衆を眺める。イワンは会衆の一番後ろに立ち、息を潜めるようにして、一部始終を見つめている。かすかに、おそらくほとんど無意識のうちに、小さく口が動く。
「アーメン」
 人々が唱和し、棺の蓋が閉じられる。人足が棺をかつぎ、雑木林のそばの穴に埋めていく。穴は死者の棺ごとに一つずつ掘られている。その中に棺が降ろされ、土をかけられる。途中で若い女が会衆の中から飛び出して、棺に取りすがった。慌てて周りのものが追いかけ、女を立たせて引き戻そうとする。女は彼らの腕からしきりに逃れようともがいた。神父が近寄り、女に何事かをささやいた。女はぴたりともがくのをやめ、空を見つめたかと思うと、その場で顔を覆って泣き始める。女を縛めていた腕は抱きしめる腕に変わり、女の周囲を人々が取り囲む。男も女もいたし、老人もいた。ひねくれた顔をした少年が女の肩を抱いて会衆の中に連れ戻した。
 棺が全て埋められると、真新しい土の上に人々は花を置いたり、膝をついてキスをしたりした。役目を終えた神父がイワンの元に近づいてくる。
「お久しぶりです、イワン・フョードロヴィチ。お体のお加減はよろしいのですか」
「ええ……失礼ですが、どちら様でしょうか。どうも色々なことを忘れているようで」
 神父は気を悪くした風もなく、パイーシイと名乗った。確かフョードルの葬儀を取り仕切った司祭だったろうか。アリョーシャのいた修道院の神父だった。
「あの子は……いえ、失礼、もう成人でしたね。アレクセイ・フョードロヴィチはお元気ですか」
「ええ、元気にやっているようです。あいつはここにも手紙を寄越さないんですか」
 熱中癖のためか、アリョーシャはしばしば筆無精になった。イワンのところにも、世話になった修道院にも、ろくに連絡を取っていないらしい。
「いいのですよ、アリョーシャは……そう呼ばせていただいてもよろしいですね、もうあの子はあそこから出たのですから。自分の足で立って歩いているのですから」
 神父はイワンを見上げ、眩しげな表情で微笑んだ。夏の日は傾きかけて、しかし暮れにはまだ遠く、雲を真っ白に照らしている。
「やはり似ておられますな」
「そうでしょうか。あまり言われたことはありませんが」
「似ているわ」
「似ていないったら」
 イワンはなぜかむきになって否定した。
 神父様、と会衆の一人が呼ぶ。パイーシイ神父は、振り返ってその人に頷き、イワンに深々とお辞儀をしてそちらへ歩み寄る。その他の人々はてんでばらばらに固まって、帰りかけていた。
「イワン」
 カテリーナがそっと名前を呼んだ。イワンは頷きながら、突然ひどい疲れを自覚した。ここから少なくとも野原を抜けるまでは歩かなければならない。うんざりするけれど、とにかく歩かなければ。そうすればいつかは辿り着くだろう。イワンは手に持っていた帽子を被る。帰途に向かいかけた時、人々がイワンの横を通り過ぎた。
「ブリヌイがあるわ」
「憐れみたまえ!」
「お腹空いた」
「もうありゃデキてるね、間違いない」
「ふざけんじゃねえや、金玉抜かれたヤギみてえな顔しやがって」
「いい子だったわねえ」
「もう会えないの?」
「うるせえな」
「ふざけてんのはあんたの方だよ」
「喧嘩ならよそでおやりなさいよ」
「赦したまえ!」
「今年はうまく芽が出たよ、アニーシカの言う通りだね!」
「子牛が生まれるってさ!」
「鮭も用意したのよ、卵もね」
「あんたあの人とどうなのよ」
「やだあ」
「それで旦那様はカンカン」
「ぶっとばすぞ!」
「もう生き残ってんのはあたしだけになっちまったよ」
「どうすんのよ、これ」
「うちにおいでよ、追善だもん」
「まってえ」
「バーカ」
「お父ちゃんってば」
「喧嘩するんじゃないって言ってんだろ!」
「ねえ、もう会えないの?」
「酸っぱかろうが葡萄酒は葡萄酒だあ」
「だから言ってやったのよ、あんたが何でも別にいいって」
「おお、アーメン!」
「兄ちゃん!」
 イワンは帰りかけた姿勢のまま、真新しい墓の方を向いてただ棒立ちになっていた。カテリーナが声をかけるより早く、イワンはその場にくずおれた。さっきカラマーゾフ邸で聞いた、甲高い声が聞こえた。手が夏草をかきむしり、握り込む。不幸な死者たちの足元で、大地に額をすりつけながら、イワンは子供のように泣いていた。

 

 まだ空は明るかったが、空の色は夕暮れに近づいている。イワンとカテリーナは、向かい合って座りながら馬車に揺られていた。二人とも無言だった。
 突然泣き崩れた貴族の旦那に対して、集まった人々はそれほど驚かなかった。感激症の貴族の令息や令嬢が、農家や行事ごとに来て倒れてしまうのは珍しい話ではない。ついでに言えば、そういう者が自分の罪だの何だの言い始めるのもよくあることなので、この旦那が同じことを言い始めた時にも、人々は大して注意を払っていなかった。彼らは集まって、泣きじゃくるイワンをぱたぱたあおぎ、首のところを緩めろと言ってみたり日陰に連れて行けと言ってみたりした。一人が近くの農家から水を分けてもらい、イワンに飲ませた。そうして用が済むとさっさと帰ってしまった。カテリーナとマルファがそばにつき、グリゴーリイが馬車を呼んだ。人の良いパイーシイ神父も残ろうとしたが、二人がついているし、お勤めがあるでしょうと言って帰した。馬車を待つ間、イワンは、マルファに何か言おうとしていたが、何度も断念した。どうやらパーヴェルのことらしかったが、取り止めもなく言葉を継いで、何か抽象的な論を挟んだ挙句、しどろもどろに舌をもつれさせながら、やっと「私のような者の祈りでも、祈りになり得るのでしょうか?」と尋ねた。
「神様は見ていて下さいますよ」
とマルファは答えた。
 カテリーナは、馬車から通り過ぎる風景を眺めながら、幼い頃のことを思い出していた。昔、わがままを言って、アガーフィアのおばあさまの家に着いていったことがあった。養蜂をしているというのを姉から聞いて、自分もどうしても行ってみたくなった。蜂は怖い生き物だ、刺されたら死んでしまうこともある、といくら言われても意志を曲げず、歩いて行かなければならないと言われても、一緒に歩くと言って聞かなかった。自分を置いて行くならお父様に言いつける、と言われて困り果てたアガーフィアは、ほんの少しだけですよ、と言って自分を連れて行った。
 蜂の巣箱を目の前にして、小さなカーチャは、さっきまで一切耳を貸さなかった脅し文句をようやく思い出した。どうも自分は酷い顔をしていたらしい。おばあさまが気づいて、ミツバチは賢い生き物だから、こちらが驚かさなければ刺したりしませんよ、と言った。刺されたことがあるのかと尋ねたら、あると言う。たくさんあります、でもそれはこちらが何かしたのだし、蜜を取るために一緒に暮らしているのだから仕方がないことなんです、と、養蜂用の分厚い手袋を取って刺された跡のある手を見せてくれた。
 取った蜜を舐めさせてもらったところでカテリーナの冒険は終わった。口止めをしたのに、子守が父親に告げ口をしたのだった。迎えが来て、カテリーナは家に連れ戻された。父からは、「子供の気まぐれ」で姉や周りの大人を振り回したことを叱責された。自分の冒険を気まぐれと言われたのが気に食わなくて謝らなかったら、父の書斎に連れて行かれて、隅の壁に向かって立たされた。召使たちや父の客人が出入りして、こちらを伺っているのが気配で分かったが、絶対に謝らなかった。お腹が空いて倒れるまでそうしていた。
 どうしてだか、今日はそんなことを思い出す。ミツバチを見たせいかもしれない。ここでも養蜂は盛んなようで、今日は至る所で花の蜜を探しに来る蜂を見る。
 カテリーナの向かいで、イワンは目を閉じていた。眠ってはいなかった。今日一日外を歩いたせいか、目の奥が鈍く痛んだ。瞼を通して届く光には死者たちの面影が浮かぶ。しかし決してはっきりした像を結ばない。
 彼とはあんなに話したはずなのに、思い出すのは横顔や後ろ姿、あるいは遠くから見た顔や、白いカフスや香水の匂いばかりだった。あの香水の匂いも気に入らなかった、とイワンは思う。安物で面白みのない匂いだ。後ろ姿はよく見かけた。裏の道を、食材を抱えて歩いているのは何度も見た。向こうはイワンに気づいていない。どことなく緊張した背筋と、綺麗に整えた襟足が記憶に残っている。結局、そのような形でしか彼を見ていなかった。
 チェルマシニャへ行くと言ったとき、全部終わりになっちまえばいいと思った。卑怯な自分は、そう思った自分ごとこの町を置き去りにして、それで何もかもなくなったつもりでいた。目を逸らせばそれでなくなると思っていたわけだ。その一方で、そんなことは起こるはずはないとも思っていた。臆病な自分にとって、それはどこまで行っても単なる可能性、—— 時々それを取り出しては眺めて溜飲を下げるための可能性だった。だが、パーヴェルは……。たぶん彼には、それしかなかった。それは賭けだった。自分が去り、「天使の接吻」を受けたドミートリイが去った後の庭で、彼はその扉を開けることを選んだ。ここから出て別の場所へ行くための扉は、彼にとってはそこにしかなかった……。
 わからない。
 仮定は無意味だった。それでもイワンは、手の中の壊れたおもちゃみたいに何度も事件の日に戻っては、益もない問いを繰り返す。夏の事件は、十一月のある日に繋がっていた。あの日は数日前からずっと熱っぽかった。いつもなら何でもない寒さが妙に気持ち悪かった。雪が降っていて、酔っ払いが歌っている。

 

 ワーニカはピーテルに行っちゃった!

 

 彼の魂は何度でもあの冬の日に引き戻される。雪の匂い、暖炉の匂い、あの部屋のむっとするような暑さ、三千ルーブリ、お別れでございますね、というあの声。何度繰り返しても、自分は振り返ることなくその部屋を後にした。そしてふと気がつくと、あの冬の日は、一日、一日と離れていく。この救われないばか者の手には決して届かない場所にあの日はあり、手が届かないとわかっていても、彼の魂はあの夜に戻る。
 馬車は平坦な道をゆっくり走る。体は疲れ切っていた。左右に揺られながら、イワンは次第に眠りの方へと引き込まれる。
 彼は子供だった。六歳かそこら。家から逃げて裏庭に隠れる。木のうろに隠れてじっとしている。誰かが隠れ家の中を覗き込み、手を差し出す。同じくらいの子供で、彼の後ろには夜空が見える。

 

 聖ヨハネ祭の頃、友人が来てカタツムリを連れて行った。彼は飼育箱にいたく感動して、これも一緒に持って行くことになった。
 カタツムリのいなくなった家で、イワンは今も死者の夢を見ている。

 

 

 

 

 

 マリア、やっぱり私、あの人好きじゃないわ。いつも不機嫌だし、あまり感じが良くないんだもの。どうしてあんな人と付き合うの?
 違うのよ、繊細な人なの。
 あなたの気持ちは尊重するわ。だけど、私が心配していることも分かってね。だって、あの人……。
 分かってる、でもそうじゃないの……。確かにあの人は不機嫌なことが多いけど、本当はとても優しい人なの。私に優しくしてくれることもあるわ。感じがいいだけで中身が空っぽな人だっているじゃない。あの人はそうじゃないの……。
 友達に一生懸命に説明しながら、マリア・コンドラーチエヴナは、自分の言葉がいかにも空虚に響くことに気づいている。彼女の言うことはよくわかるからだ。だってあの人、子供や動物に酷いじゃない。だってあの人、いつも周りを馬鹿にしてるわ。だってあの人、あなたのことだってそんなに好きじゃないじゃない。だってあの人、の後ろに続く言葉は、マリアにだってわかる。
 だけど、「だってあの人、みなし子じゃない」だった時には、マリアは激怒した。大げんかして、絶交した。「あなたなんかあの人の爪の先くらいの価値だってありゃしないわ」と言ったのは、言い過ぎだったかもしれない、と後で反省する。だけどもう取り返しがつかない。何でも言ってしまう前によく考えなさいといつも言われていたのに。
 マリアは自分がそれほど賢い人間ではないのをよく分かっていたし、周りにそう思われているのも知っていた。あの人だけじゃない。みんな私を馬鹿にしている。
 そして、あの人は賢い人が好き。
 でも友達だった。
 フォマー週間が終わってすぐのある日、マリアは、引き払って以来初めて、前に住んでいた家に戻った。もう別の人の手に渡っていて、マリアが住んでいた頃とはすっかり様変わりしている。でも、別にいい。目的はこの家じゃない。そのお隣の、カラマーゾフ邸だ。
 別に何か目的があったわけではなかった。あの人が亡くなってから、ずっと泣き暮らして、どこかへ出かけるような気持ちになれなかった。好きだった綺麗な服も着なくなって、ずっとしまいこんでいた。心配したお友達が訪ねてきてくれたけれど、何だかお互いぎこちなかった。
 あの人が亡くなってからも、マリアの暮らしぶりは大して変わらなかった。家を売った金と、裁縫だので得られるわずかばかりの金、それから隣家からの施しで口を糊した。いよいよ金も尽きるという段になって母親が手紙を書き、遠くの親戚を頼ってこの町を出ることになった。だから、……どうしようと言うんだろう。もうあの人もいないのに。そう思いながらも、マリアはこっそりカラマーゾフ邸の裏庭に入った。あまり手入れがなされていないらしく、雪で折れた木の枝がそこここに落ちていて、若木がまばらに生えている。どこかから外遊びの歌が聞こえる。フォマー週間の過ぎた今は恋の季節でもあったが、マリアはちっとも楽しくなかった。何となくふらふら歩いていると、うっすらと道のようなものができているのに気づく。誰か来ているのかしら。カラマーゾフ邸にはマルファ・イグナーチエヴナとグリゴーリイ・ワシーリエヴィチがまだ住んでいる。もし鉢合わせになったら謝ろう。マリアは、元ご近所のよしみで、そんなふうに考えて裏庭を歩き続ける。
 だから、人影が見えたときは、そんなに深く考えずに近づいた。誰なのか気づいてあっと声を上げた。それで向こうも気づいてマリアの方を見た。しまった、と思ったけれど、顔を見たら急に憎らしくなって、マリアはその人に突進した。
「あなた、よくも……!」
 胸を軽く押しただけなのに、彼はよろけて尻餅をついた。マリアは一瞬ひるんだが、言葉の勢いは止まらなかった。
「あなた、あの方が……パーヴェル・フョードロヴィチが犯人だなんてよくも言えたわね! この恥知らず! 嘘つき!」
 見上げた顔は記憶にあるよりもずいぶんと痩せていて、マリアは今度こそ言葉を止めた。気の毒だなんて思わない。でも、病人をいじめているみたいで居心地が悪い。
「パーヴェル・フョードロヴィチ……」
「何ですの」
「いいえ。あいつもフョードロヴィチでしたね、そういえば」
 イワン・フョードロヴィチは尻餅をついたまま、立ち上がるのを諦めたようにため息をつくと、その場にあぐらをかいた。マリアは、イワンが「あいつ」などと言う呼び方をしたことにカッカしながら彼を見下ろす。
「Madomoiselle《お嬢さん》。失礼ながらお名前を失念しておりましてね。私はいろんなことを忘れているんです、お許しを」
「あなたに名前を呼ばれたくありませんからそのままで結構です」
「なるほど」
 イワンは自嘲するような笑みを浮かべ、マリアを見上げた。その目がぞっとするほど暗いのに気づいて、マリアは無意識に後退った。
「私が恥知らずなのは間違いありません。ですが、嘘つきではありません」
「嘘だわ」
「いいえ。法廷では正直に—— 少々錯乱していましたが。とにかく証言は誤りでも嘘でもありません。あの三千ルーブリはスメルジャコフから受け取ったものです。最後に会ったときにね。あいつは僕の言葉なんぞを真に受けたんです。それで……」
「あの人をそんなふうに呼ばないで」
 マリアが言うと、イワンは虚をつかれたような顔をした。マリアは、去年の冬、イワンが最後に訪問したときのことを思い出した。まるで死神みたいな青白い顔で玄関先に立っていた。そして今も、そこにいる。マリアは逃げ出したいのを我慢して、イワンを見返した。ドレスの下で足が震えている。それを気づかれないことを祈りながらイワンに問う。
「あなたはあの方に何をしたの」
「聞かない方がいいでしょう。どうせ信じないのだし」
「あなたがお決めになることではないわ」
 イワンはちらりとマリアを見上げた。
「それなら言いますが、彼は私に全てを告白しましたよ。三千ルーブリと一緒に、全部」
「そのお金はあなたが自分で出したものよ」
「裁判ではそういうことになっていますね」
「犯人だってあなたのお兄様です」
「そのような判決でしたね」
 冷たい物言いにマリアは怯んだ。怯みながらも怒りを抱いていた。感情が昂ったせいで涙が込み上げるのを必死に抑える。
「病気で弱っているあの方を、お前が犯人だって責め立てたんですか」
 イワンは不愉快そうにマリアを見上げた。
「彼は確かに病み上がりではありましたが、頭の方はしっかりしていましたよ。意思もね……。彼はただ可哀想な人間じゃない、意志薄弱で臆病な人間でもない」
「そんなこと知っています!」
 マリアは言葉を切った。こんなときに、きちんとした言葉が出てこない。どう言えばいいのか分からない。肝心なときに涙が込み上げてきて、言葉を嗚咽が飲み込んでしまう。イワンは黙ってマリアを見ている。嫌な目つき! マリアは思う。
「あなたはやっぱり嘘つきだわ。それに卑怯よ。下種よ。あの方は高潔な方よ。そんなことをするはずがない」
「私の兄も自分は高潔だと主張していましたね」
「あなたのお兄様は口でそう言ってるだけ。あの方はそうじゃないわ」
「それは彼の父が私の父親であるという噂が理由ですか?」
 それを聞いた瞬間、マリアは身を乗り出してイワンの横っ面をひっぱたいた。そうして今度もああしまったと思った。やってしまった。何をされても文句は言えない。ところがイワンは、呆然とした顔でマリアを見ていたかと思うと、突然にやりと笑った。それがまるで、おとぎ話に出てくる悪魔みたいに見えて、マリアは弾かれたようにイワンから離れ、後退る。
「私は……あなたの言うとおり下種な人間なんです。それに恥知らずです。あなたにはすまないことをしました。つまりあなたをわざと怒らせたんですよ……そうすれば私を指弾してくれますからね。私はそうすることでお目溢しをもらおうとしているんです、自分の良心に対してのお目溢しです」
 イワンは突然立ち上がると、地面に指先のつくような深々としたお辞儀をした。「お許しを」
「あなたが謝るのは私に対してではないわ。あの方です」
 嫌悪感を滲ませながらマリアがそう言うと、イワンの瞳が揺れた。かすかに頬に残っていた冷笑が消えて、生真面目な顔になる。そうすると、どうしてだか、何とも悲しげな顔に見えた。
「わかっています」
「神様がお許しになっても、私はあなたを許さない」
「私は神を信じていません。だから、許されるつもりもありません」
「だからって嘘をお言いになるの?」
 そう言うとイワンは苦しげな顔になった。それから慎重な、低い声で言う。
「私はこのことに関して嘘をつくわけにはいきません。裁判で言った通り、彼が殺し、私が殺しをそそのかしました」
 マリアはイワンから二、三歩離れた。
「あなたの言い方では、まるで自分が命令してあの方にやらせたというみたいに聞こえるわ」
「命令はしていません。だけど彼は私の言葉に従いました」
「どういう意味ですの……」
 マリアはまた一歩後退った。膝が震える。今すぐにでもこの男の前から逃げ出したかったが、あの人のことを知りたいという気持ちがその場に足を止めた。
「私にはただ抽象的な観念で……言葉の上での仮定にすぎなかったものが、彼にとってはそうではなかったんです。私の言葉は彼の苦痛の無意味さを示すことで、ここを見限るための理論的支柱を与えました」
「よくわかりませんわ」
「私には文章にすぎなかったことが、彼にとっては現実だったんです。私にとって二足す二は四というような数学的な記述とそう変わらないものが、彼にとっては彼の苦しみそのものだった。私はばか者で、それに気づいていませんでした」
「だからあの方があなたの『言葉に従った』と言うのですか」
 イワンは返事をせず、目を伏せた。その顔に苦痛の色が滲み出す。
「あなたはやっぱりお加減が悪いんですわ。お兄様の有罪が認められなくてそんな物語を考え出したんです」
「いいえ。私は至って正気です」
「あの人だってそうよ!」
 マリアはたまらず大声を上げた。伏せたままのイワンの左目が神経質に震える。マリアの周りでは、もう誰もパーヴェル・フョードロヴィチの話をしなかった。母親でさえ、もうやめなさいと言った。もうあの方はいないのだから、いつまでも話していては気の毒だ、と。
「彼はどこかへ行きたかった」
 唐突にイワンが言った。
「だから亡くなったと言いたいの?」
「いいえ……」
 イワンが押し出すように言った。「いいえ……そうではありません。どこかと言ったのは……どこかというのは地上の、地上のどこかです! このスコトプリゴニエフスクとは別の……どこかはわかりません、モスクワとか、ペテルブルグとか、スイスとかフランスとか、とにかく地上のどこかです。ただそんなふうに思ったんです。そう思ったので、言いました。そう、地上の切符です、彼が欲しがったのは地上の切符で、天国のじゃない! ああ! そうなんだ! でも……」
 イワンはしどろもどろになって視線を左右にさまよわせた。あんまりしどろもどろなせいか、マリアは息苦しいような気持ちになった。イワンが顔を上げ、マリアと目が合う。彼はそこで急に言葉を切った。
「私に何を言う資格もありません。余計なことを言ったようです」
 イワンは口をつぐんだ。マリアは呆気に取られた。それから、何だか猛然と腹が立ってきた。
「あなた……あなたとても傲慢だわ!」
 どうしてこんな人に近づいたんだろう! こんなところに来なければよかった。今までたくさんばかなことをしてきたけれど、これもその類の一つだ。
「私、あなたの言うことなんか信じない。あなたのことも信じない。あなたはちっぽけで卑怯な人間だわ。おまけに嘘つきよ。あなたみたいな人、あの方の爪の先ほどの価値もない。そんな人のせいで死んだりしない。私、勘違いをしていたわ。あなたなんか、あなたなんか!」
 マリアはそう言い捨てると、踵を返して元来た道を早足で戻る。一度だけ振り返ると、イワンは服についた土を払っていた。
 マリア、私あの人好きじゃないわ……。
 私は好きよ。マリアは頭の中で響く友達の声に反論する。
 いつも不機嫌だし……。
 不機嫌なんじゃない。苦しいことが苦しいの……。
 どうしてあんな人と付き合うの?
「だって、あの人……」
 マリアは人知れずつぶやいた。いつの間にか目に涙が浮かび、次々に溢れていた。マリアは袖で涙をぬぐい、曇った目で自分の家だった、平屋の田舎家を見つめる。未練はない。だけど思い出はあった。あの家の一階の、西側の窓は小さいが張り出し窓になっていて、貧乏くさい田舎家の中で唯一のマリアのお気に入りの場所だった。家事の合間にあそこに座り、片膝を上げて空想をするのが好きだった。母親は行儀が悪いと言って嫌がったから、一人でいるときにだけ、見つからないようにこっそりとやった。時々見つかった。母親はカンカンになってマリアを叱った。窓の内側からの時は観念するしかないが、外側から見つかった時には、マリアは慌てて窓から降りて家の外に逃げた。お母さんが家に入るまでに逃げられたら勝ち。玄関で鉢合わせて、すり抜けて逃げる娘の袖を、母親がつかもうと手を伸ばす。この時に持っていたものは、食器も、上等のコートも、安っぽいブローチも、最後まで手放さなかったきれいなドレスも、ほとんど売ってしまった。
 本はそんなにたくさん持っていなかった。聖書と、教科書以外にはほとんどない。お気に入りの詩集が一冊あって、モスクワにも、どこに行くにも、決して手放さなかった。晴れた日は外に持って行って表紙が擦り切れるくらい読んだ。綴じ糸が切れてページがばらばらになったあとは、持ち歩きはしなかったけれど、あの窓辺で何度も読んだ。内容はそらで言えるくらいに覚えているのに、ページをめくるたびに胸が高鳴った。
 詩集の表紙をめくったところに、マリアは自分でも詩を書いた。町の学校で上級生向けの文学を習いはじめたくらいの頃だった。字も脚韻も下手くそだったけれど、自分ではお気に入りだった。何より大好きな詩人の仲間入りをできたみたいで嬉しかった。
 この詩を見せて笑わなかったのは、パーヴェル・フョードロヴィチだけだった。彼は詩はあまり好きではないし、良し悪しもわからない、と言っていたけれど、読むだけでいいんです、と言ったら本当にその通りにして、マリアに返した。お前なんか詩人になれるわけがないとも、こんなことよりも他の教科に身を入れなさいとも、まあ素敵ね、ところで……とも言わなかった。とっても真面目な顔をして、一行一行をゆっくり読んで、それから糸の切れたマリアの詩集をばらばらにしないように、慎重に閉じて、マリアに返した。
「読みました」
 それだけでよかった。ただそれだけで、好きになってしまった。

 

 

 

 

【参考文献・サイト】

小此木啓吾『フロイト思想のキーワード』講談社、二〇〇二

木村敏『心の病理を考える』岩波書店、一九九四

杉里直人『詳注版 カラマーゾフの兄弟 別冊注・解説・年譜編』、水声社、二〇二〇

ロシア・フォークロアの会 なろうど編著『ロシアの歳時記』東洋書店新社、二〇一八

ジャック・オックマン著、阿部惠一郎訳『精神医学の歴史』白水社、二〇〇七

チェルヌィシェーフスキイ著、金子幸彦訳『何をなすべきか』岩波書店、一九七八

エリザベス・トーヴァ・ベイリー著、高見浩訳『カタツムリが食べる音』飛鳥新社、二〇一四

«Из усердия разбирали голыми руками тела» https://www.kommersant.ru/doc/4670651

Скудельница https://ru.wikipedia.org/wiki/Скудельница

※ロシア語記事については、翻訳に機械翻訳を使用した上で、一部の訳について杉里直人氏よりご助言いただきました。なお、記述の解釈については正井に文責があります。

聖書の引用は日本聖書教会『聖書 新共同訳』マタイによる福音書第二六章十〜十三節

 

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