塞ぐ手

 氷を当てた耳たぶはもう冷たさを通り越して感覚がなかった。「良さそうですね」と言うが早いか、パーヴェルはイワンの耳からサッと氷を取り払い、何か当てたかと思うとバチンと鳴らした。じーんと耳が痺れ、熱が戻ると共に疼痛が生まれる。
「触っちゃいけませんよ」
 耳に通されたばかりのピアスを触ろうとするのをパーヴェルが止めた。立ち上がってイワンの右側に移動し、さっきと同じように氷を取ろうとする。イワンが氷を押さえる手を離さないのでちょっと片眉を上げた。
「片耳だけになさいますか?」
「……いい。やってくれ」
 手を離す。すぐさまピアッサーが耳元で働くバチン、という音がした。パーヴェルは立ち上がり、イワンを正面から見る。うんともふうんともつかない声を出して小さく頷いた。どうやら及第点らしい。頷くパーヴェルの耳には、耳たぶと言わず耳介のでこぼこしたところにも、いくつもの穴が開いてピアスが刺さったり刺さっていなかったりしている。シルバーが多いが、色や石がついているのも混じっている。
「何か淹れましょう。触っちゃいけませんよ」
 パーヴェルは、慌てて耳たぶから手を離したイワンを軽く睨み、手早く机の上に広げられていたものを片付けた。耳にしるしをつけるのに使ったペンはペン立てへ、消毒液とガーゼは救急箱へ。ゴミは台所の隅に置いたゴミ箱に分別して入れる。
「コーヒーになさいますか。それとも紅茶を?」
「……コーヒーで」
「かしこまりました」
 パーヴェルは呆れ顔なのを隠さない。ということは、自分はよっぽど情けない顔をしているらしい。言いたいことはわかっている。前にも開けたくせになんで怖いんだとか何とか、そういうことだろう。けれど、十七になるかならないかで兄のドミートリイに開けてもらった時は、「開けてみたい」という好奇心だけだったから、初めてピアッサーを当てられた時も恐れはあったが漠然としていた。もう片方も驚いているうちに終わっていた。何が起こるか知っている時の方がむしろ怖いことがある……いや、やめよう。言い訳にしかならない。
 最初に開けたピアスホールも、忙しさにかまけているうちに二年足らずでいつの間にかふさがっていた。どうせ同じことになるだろうとそのままにしていたのを、今回また開け直すことにしたのは、パーヴェルがふと、開けないんですか、と漏らしたからだった。
「ピアスの跡、ほとんど消えてますね」
と言いながら、パーヴェルは薄い皮膚を破るのを恐れるようにそっと耳の下端に触れた。
「……気になるか?」
 イワンが言うとパーヴェルはパッと手を離してしまった。「いいえ。綺麗にふさがっておりますよ」
「少し惜しかったかな。せっかく痛い思いをしたのに」
「何かお気に召さなかったので?」
「いや……ほったらかしにしていたらピアスが入らなくなった」
 パーヴェルは隣で忍び笑いを漏らした。そしてひっそりと「もう開けるおつもりはないのですか」と尋ねた。どちらでも良かったから、開けてもいいかな、と言った。
 そうしたらあれよあれよと段取りが整えられた。パーヴェルはその場でピアスを開ける道具一式を注文すると、お届け予定日に合わせてイワンの予定を押さえ、さらにはピアスホールが安定した後の「イワン・フョードロヴィチにぴったりの」「上品で洗練された」ピアスまで提案してきた。いずれも素材はシルバーで、なるほどイワンの気に入りそうなものばかりだったが、あまりに展開が早くてイワンは怯んだ。とは言えパーヴェルは珍しくウキウキしているのを隠さなかったから、心の準備が、などとはとてもではないが言い出せなかった。ピアッサーに備え付けのピアスが野暮ったいとかでどうしても気に入らないらしく、パーヴェルはニードルを使いたがったが、それだけは何とか説得してやめさせた。
「そんならこちらは私が使いますよ」
 パーヴェルはしぶい顔をして、段ボール箱の中に入っていたニードルのパッケージを指差した。また増やすのかと言ったら「そうしたい時に」と澄ました顔で言った。
 湯がわいた。パーヴェルがコーヒーフィルターに細く湯を落とすと香りが立つ。湯気が顔にかかり、伏せた目の表情をおぼろげに遠ざける。
 パーヴェルは、自分がピアスを開ける時はニードルを使っていた。そちらの方が綺麗に開くし、負担も少ないのだと説明されたが、ぷつりと肉に針を刺すということそれ自体がどうしてもイワンを怖気付かせた。パーヴェルがニードルを使ってピアスを開けているのは一度見たことがあった。彼の手は震えもせずに耳を支え、まっすぐ針を刺した。その癖顔は至極憂鬱そうに、痛そうにしかめられて、唇は震えてさえいる。……しかし、あれなら開けてもらっても良かったのかもしれない。あの躊躇いのなさなら。もう一つ開ける時には、と思いかけてイワンは首を振る。口が裂けても言えない。ちらっと仮の話としてでも口にした瞬間にまた同じことになる。だがイワンは、自分の耳を摘んで引っ張り、刺すべき場所へ針を立て、ぷすりと刺し通すパーヴェルの指の想像にだんだん自分が深く囚われていくのを感じていた。
「どうぞ」
 イワンの前にコーヒーカップと、チョコレートのかけらの乗った小皿が置かれる。パーヴェルは同じものを持って向かいに座るとコーヒーを一口飲んだ。イワンも同じようにして、コーヒーを口に含む。香りが鼻に抜けていく。小皿の上のチョコレートには、キルシュ漬けのチェリーとナッツが入っている。イワンのお気に入りのチョコレートで、おそらく今日に合わせて買ってきたものだ。
「触っちゃいけませんったら」
 パーヴェルが身を乗り出してイワンの袖を軽く引いた。また無意識にピアスに触っていたらしい。
「痛みますか?」
「気になるだけだ」
 強がりととったのか、それとも初めからそうするつもりだったのか、パーヴェルは唇にほんの少し笑みを乗せて、「そんならお好きなお菓子を作って差し上げましょうかね」と言った。
「何でもいいのか」
「何でもいいですよ、面倒なのでもバターたっぷりなのでも、何でもおっしゃってくださいまし」
 いつもならパーヴェルはイワンの健康のためにと言って、砂糖や油脂の多い菓子はなかなか作ってくれないし、買い食いをしたのがばれると傍目にそうとわかるくらいに機嫌を損ねる。けれどもイワンの目が光ったのは、彼の思っているように普段食べられないものを作ってもらえるから、ではなかった。イワンはパーヴェルの手が好きだった。本人としては、料理で荒れがちなのにいまいち納得していないらしいので口に出して言ったことはない。メイクでも料理でも、彼の手は自在に動く。彼の手に触れられると、全てのものがそうあるべきようになっていく。
 好きなものを作ってもらえるなら、なるべく手を複雑に動かすものにしよう。イワンは最近こっそりと料理の動画を見るようになっていた。料理の紹介ではなく作る方だ。誰も彼もイワンには到底理解できない工程を踏んで、生の肉や卵や野菜や粉を、温かなシチューやパイや名前も覚えられないような料理に仕立てていたが、パーヴェルには敵わなかった。あの中から選ぼう。そして彼の手が動くのを見るのだ。
「考えておく」
とイワンは言った。