少し片付けるものがあるけれど昼には帰るからと大学へ行ったイワンは、昼になっても、お茶の時間になっても帰ってこなかった。パーヴェルは自分の作った弁当からいくつかつまんで遅い昼食にする。本当ならそれは、科学アカデミーの植物園で桜を見に行った後公園に寄って食べることになっていた。もちろん一人ではなく、イワンと。しかし今日はもう出番もないだろう。パーヴェルは弁当箱に詰めた食材を保存容器に移し替え、冷蔵庫に入れる。
不思議と腹は立たない。イワンが出かけたときからこうなる予感はしていた。遅れると連絡を寄越すだけまだマシだ。メッセージアプリには、少し遅れる、まだ終わらない、すまないがまだ帰れそうにない、というメッセージが時間をおいて並んでいる。間に挟まるPCのトラブルが云々というところは読み飛ばし、パーヴェルはそれら全てに
「かしこまりました」
とだけ返信をした。
イワンがようやく帰ってきたのは夕方になってからだった。玄関の開く音がしたかと思うと、ばつの悪そうな顔のイワンが居間に入って来た。
「今日は」
「お食事のご用意ができておりますよ」
イワンが何か言いかけたのをパーヴェルは遮った。イワンが面食らったような顔をする。何か言おうとするのに被せて「冷めないうちにお召し上がりなさいまし」と言う。食卓に並んでいるのはメインを準備するまでのつなぎのザクースカなので冷めるもへったくれもない。イワンは一瞬ムッとした顔をしたが、すぐそれを引っ込めて「怒っているよな」とパーヴェルの方へ手を伸ばした。その手が頬に触れそうになったのをパーヴェルはさっと避ける。
「そうやってスキンシップで誤魔化そうとするのがあなたの悪い癖でございますよ」
と言い捨ててキッチンへ入る。前言撤回、腹が立たないはずがない。今日のために食材だって用意してレシピも春向きにアレンジしたし、ピクニックにちょうど良い場所も見つけた。服も靴もメイクも今日のために選んで前の晩から用意しておいたのに。
イワンが追いかけてキッチンに入ってくるのをパーヴェルは不愉快な気持ちで眺めた。自分の領域に他者が入ってくるのを彼は好まない。それがこの、あれほど念を押したにもかかわらず約束をすっぽかした朴念仁であればなおさらだ。
「お前」
「本当のことでございましょう」
「それはお前が謝らせてくれないから!」
「おや、私のせいでございますか。先に約束を破ったのはあなたの方でございますよ。いえ、いりません、事情の説明なんてものは。食材も無駄になりましたし来週には花も散っていることでしょうが、まあどうでもいいことです。食材は食べればいいし花だって来年にはまた咲きますからね、どうにでもなりますよ。だから謝らなくて結構です、もう終わったことではございませんか?」
イワンに口を挟む隙を与えず一気に言うと、パーヴェルは「出てください」と言った。言葉を失って青くなったり赤くなったりしているイワンに重ねて「いつも申し上げておりますが、ここにお入りにならないでくださいまし」と言う。イワンはまだ何か言いたそうにしていたが、無視してメインの仕上げに取り掛かると、小さく唸り声をあげて食卓に戻った。
不機嫌な顔でザクースカを噛んでいるイワンの顔を眺めながら鮭のソテーを仕上げる。ソテーの皿を置き、向かいに座るとイワンがぴくりと引き攣ったように肩を動かした。これも無視してソテーに取り掛かる。なかなか上手く仕上がっている。仕入れた鮭も新鮮で脂がのっているし、ふっくらとした身にシンプルなバターのソースがよく絡む。レモンを絞ればさらに香りがたって美味しい。こんなに美味しい料理を自業自得で気まずい思いをしながら食べるはめになっている同居人の顔をこっそり肴にしながら酒を飲む。ぼんやりするのが好きではなく、いつもは仕事のあるうちに飲まない。そうすると普段は酒をほとんど口にしないことになるのだが、今日はもういい。食前酒用のごく弱い酒だったが、久々のアルコールは喉に沁みた。
後片付けを済ませて、茶でも淹れようか、それとももうメイクも落として寝てしまおうかと思案していると、イワンが自室から出て来た。食事を終えてすぐ引っ込んだので今日は自分が寝るまで閉じこもったままだろうと思っていたが、何の用だろう。イワンはどこか迷うような歩調でふらふらと居間を通り過ぎ、洗面所の方へ行く。と思うとまた戻ってきて死にかけた蜂みたいな軌道を描いて居間をうろつく。本当に何の用なんだろう。パーヴェルは「お茶になさいますか」と尋ねる。イワンは顔を上げ、首を横に振って、パーヴェルの方に向き合うと、おずおずとした調子で「この後時間はあるか」と尋ねた。
「何かこの後ご用事でも?」
「その……花見に行かないかと思って」
パーヴェルは片眉を上げた。科学アカデミーの植物園はとっくに閉まっている。モスクワの他の植物園もそうだ。
「今からでございますか?」
「そう」
「もう夜でございますが」
「見られる場所があるんだ」
パーヴェルは今度こそ首を傾げた。モスクワに住んで数年経つが、そういう場所に心当たりはない。もちろん生粋のモスクワっ子というわけではないから確たることは言えないが、大学の敷地と家との往復でここでのほぼ全ての年月を過ごしているイワンよりは詳しいはずだ。パーヴェルの沈黙を拒絶と取ったのか、イワンは目を伏せて「やっぱりよそう……夜も遅いし」と言った。
「かまいませんよ」
「えっ」
「近場なんでしょうね?」
一瞬遅れてイワンの顔が輝いた。こくこく頷いて、上着をとってくる、と部屋に戻った。
イワンに連れて来られたのはモスクワ大学だった。おなじみの、とつけたほうがいいかもしれない。弁当や菓子や上着や傘を届けにパーヴェルも何度となく行った場所だ。こんなに遅い時間に行くのは初めてで、昼間と違って学生の姿はまばらだったが、建物にはまだ明かりのついている部屋がいくつもあった。構内は静かで、保温ポットに詰めた茶がカバンの中でちゃぷちゃぷ言う音が聞こえる。と言って全く誰もいないわけではなく、むしろ人の気配はするのに皆じっと身を潜めているような緊張した雰囲気が漂っていた。
「ここに植物園があるのは知ってるよな。研究施設だが誰でも見られるようになってる。もちろん今の時間は閉まっているが、昼間は人でいっぱいだよ。今の時期は人が多いから俺たちはあんまりそっちには寄りつかないんだ。大学院に行くようなガリ勉連中は花見なんか興味がないと思われがちだけど、そうでもない。ただわざわざ人が多いところに行かないってだけだ、ほとんど住んでるみたいになってるんだから、ここへ束の間来たお客さんの知らない場所だってたくさん知ってる。……いや、えっと、とにかく植物園は有名だけど、別に花も植物もそこだけにしかないってわけじゃあない。植物園の桜は有名だけど……ほら」
イワンが連れてきたのは、大学の敷地にあるだだっ広い芝生の一角だった。ぽつんと一本だけ植えられた木に、まとわりつく煙のように薄い色の花が咲いている。薄暗くてよく分からないが、近寄ると確かに桜の花だった。少し離れたところに立つ街灯の明かりにぼうっと浮かび上がるように、薄っぺらな花弁がおぼろに光を透かしていた。
花の向こうには大学の尖塔の影が見える。月は満月、目が慣れると花弁に差した赤い色や細かに走る血管のような模様まで見分けられる。触れると冷たく、頼りないほど薄かった。
「数は足りないかもしれないけど……」
隣に立つイワンが言った。パーヴェルは上の空で頷く。桜はいくぶんか散って若葉が顔を出している。パーヴェルの小指の先ほどしかない若葉は、ギザギザの葉先から枝から生える付け根のところまで瑞々しい緑だ。花にも葉にも、灰色がかった枝にも、夜の色の薄青いヴェールのかかったような陰影が刻まれている。
「今日は悪かった」
「……」
「本当にすまないと思っている」
「……」
「……僕だって楽しみにしてたんだ」
そこで初めてパーヴェルは桜から顔を上げて隣に立つ人の方を見た。イワンはおずおずとした表情でパーヴェルの方をうかがっている。パーヴェルは顔をそらし、ふっ、と吹き出した。
「おい」
「あなたにしては気がきいているのではないですか」
「それは気に入ったということか?」
「まあ、そう取っていただいて結構ですよ」
イワンは破顔した。「綺麗だろう」とまるで自分の手柄みたいに誇らしげに言う。花が綺麗なのは花のおかげだが、まあ確かに、ここに木があるのは知っていたけれど、花の咲く木とは知らなかった。花の季節でなければ素通りしてしまう。ここを毎日行く人でなければ知らないだろう。毎日青い顔で、朝晩ここを往復しているような人でなければ……。
イワンがそっと手を絡めてきた。いつでも振り払えるような弱い力で、パーヴェルの小指と薬指をまとめて握る。自分の手の方が温かいのはさっき酒を口にしたからだろう。お茶にいたしますか、さっき来たところにベンチがありましたから、お菓子も用意しておりますよ、という言葉が胸を去来するが口には出さず、イワンの手を握り返す。そのまま、春の夜の冷たい空気に、滲むように咲いた白い花を見つめていた。