掌編集

旧Twitterに投稿していた掌編です。CP及びその有無、設定は色々です。クロスオーバーや女女のスメイワなども含みます。

 

掌編集その1

ネズミの巣穴

 イワン坊ちゃんとパーシャの乳歯はほとんど同時に抜けた。パーシャの方がほんの少し早かったが、坊ちゃんの方も根本がだいぶぐらついていて、数日中に抜けるのは明らかだった。マルファはパーシャの乳歯をとっておいて、坊ちゃんの歯が抜けるとそれを渡して言った。
「ネズミの巣を探して、そこに捨てておいで」
 そうするとネズミのように丈夫な歯になるのだという。パーシャはあからさまに面倒そうな顔をしたが、仕事をサボれるので黙って坊ちゃんを森に連れて行った。イワン坊ちゃんは抜けた歯を握りしめてとぼとぼついてくる。さっき抜けたところだから、手には乾いた血がついている。
 ネズミの巣穴を探すが、気の入らないせいか、なかなか見つからない。もう適当な窪みに捨てていってしまおうか、とパーシャは思う。と、その矢先、木の根元にそれらしい穴を発見した。パーシャはポケットからからからに干からびた乳歯を出してぽいと巣穴に放った。ほとんど見もしなかった。
「坊ちゃん、ここに捨てて下さいまし」と言ってイワンを振り返る。イワンは暗い顔をして、乳歯を握った手を見つめている。「また生えてきますよ。丈夫な歯になるそうですよ」とおざなりに声をかけるが、イワンは黙っている。もうほったらかして帰ってやろうかという気分になった頃に、イワンが言った。
「どうせ迷信なのに」手を開き、血のついた乳歯を指で転がす。「お母様だって良くならなかった」先だってイワンの母親はこの世を去っていた。医者も呼んだし、呪いかお祈りか、何やかやとやっていたなと思い出す。パーシャはふんと鼻を鳴らし、イワンから乳歯を取り上げた。あっと言ってイワンが顔を上げる。
「そうでございますよ。ネズミの巣穴に歯を捨てるだけでいいんなら、こんな楽な話もありませんや。別にやったってやんなくったっていいんです」
 それからニヤッと笑った。パーシャはこの時すでに、大人の喋り方を身につけていた。早口の、ませた喋り方にもイワンは目を丸くしていた。
「捨てていいの?」
 舌ったらずな調子でイワンが言った。
「構いませんとも。川に捨てたって森の奥にぶん投げたって別にどうということもありませんよ」
「じゃあ、そうする」
 イワンはゆっくり言うと、パーシャの手から乳歯を取って、ぽいと投げた。軽い乳歯は目の前の羊歯の間に落ちて見えなくなった。イワンはパーシャの方を向いて、少し青ざめた顔でにっこり笑った。前歯にぽっかり穴が空いてまったく間が抜けている。自分もこうなんだから様にならねえや、とパーシャは内心ごちて、「帰りましょう」とイワンの手を引いた。時々イワンは森の方を振り返っていた。捨てた歯を後悔しているのかもしれないが、もう遅いのだ。
 それからしばらくして、坊ちゃんたちは親戚の、嵐みたいな女に引き取られていった。その後もパーシャの歯は抜け続け、マルファはネズミの巣穴に捨てておいで、と彼を森へ送り出す。歯を適当な場所に捨てて、木陰でぼんやりサボりながら、あの坊ちゃんはネズミの巣穴なんか探せるのかなと思う。

 

 

どん詰まり

 潮時だ、潮時だ、潮時だ。ミーチャは頭の中でその言葉を呟きながら、女のドレスの肩口に鼻先を擦りつける。あ、ドレスが汚れる、と言いながらも女はこの客の好きにさせている。女がミーチャの頭を抱くと、柔らかい腕の肉が頬に吸い付くようで、安物のドレスのごわごわした感触と、腕の柔らかさと、ミーチャは何よりもそれらの感触に官能を覚える。
 ミーチャはその時グルーシェニカという女にのめり込んでいたが、彼女はほとんどミーチャを相手にしなかった。婚約者からは金を盗み、父親は殺したいほど憎んでいる。連日の飲み食い、その金もつきかけているらしいとようやく気づいたのが今朝の話。潮時とは一体どれを指すのか、ミーチャにもわからない。おまけに首からは、恥辱の証がぶら下がっている! 服もほとんど脱がずにいたのは、それを見られるのを恐れたからだ。もちろん盗まれることではなく、金を取り分けたことを知られるのを恥じてのことだった。ミーチャはどん詰まりにいた。ここから抜け出そうともがいていたはずなのに、いつの間にかそうなっていた、と思うそばから涙が溢れだす。
 ろくに服も脱がずいきなりおっ始めたと思ったら、終わったら終わったで突然泣き出したこの客を、女は呆れながらも、かわいそうに、あの商人のとこのクソ女にもてあそばれたばっかりに、との、グルーシェニカへの反感の裏返しの同情も湧いてきて、隣に座らせて、あれこれ文字通り慰めてやる。客が自分は下種だとか高潔だとか言ってめそめそ泣いているのを、いいんだよ人間みんなどっか汚いところがあるんだしとか適当に言い、背中を撫でてやりながら、こんな手がかかるんなら手間賃の一つもいただきたいねとぼやいたら、帰りにその分だと弾んでくれて、何でも言ってみるものだと女は思う。

 

 

秋雨と天人

 イワン・フョードロヴィチの一番古い記憶は、窓辺に寝かされながら、蜘蛛が巣から糸を伸ばして降りていくのを見ているところだ。曇りの日なのか部屋に入り込む光は鈍い明るさで、蜘蛛の糸が冷たく暗い色に光っていた。二番目はやはり薄暗い部屋の中で、母親の胸に抱かれているところだった。部屋の窓はほとんどカーテンが引かれていたが、一つだけ細く開いていて、そこから昼間の光が帯のように差し込み、広がっている。部屋は暗かったが母の表情は見えるくらいで、しかしその時イワンは、母親の胸に耳をくっつけるようにして抱かれている。母親は低く何かのメロディを口の中で呟いている。
 母親の息遣いとハミングは、胸腔の響きとなって直接イワンの耳や頬を震わせる。母親は前後に小さく上半身を揺すっており、イワンはうとうととまどろんでいる。その頃イワンはまだ母屋で暮らしていて、母親は少々体は弱かったが、完全に健康を損ねていたわけではなかった。散歩や絵や、時には乗馬もした。
「なんだ! ……真っ暗じゃないかい、え」という声がして誰かが入ってくる。母親が体を固くする。イワンは驚いて起きてしまうが、眠りの名残りがまだ身体中を覆っていて、瞼を上げることができない。
「お前のちびはまだ寝てるのか? ああ、わかってるよ、手は出さないさ、犬みたいに唸んなさんな!」
 一通り騒いでフョードルは引き下がる。これが珍しいことなのかどうか、断片的な記憶しかないイワンには分からない。それからしばらく経って、母親の腹が膨らんで、イワンを抱いて歌うことはなくなる。弟か妹が生まれるのだと言われても、イワンにはよく分からない。「この子のために祈ってくれる?」という母の言葉にイワンは頷く。
 おそらくそれが、他者のためにした初めての祈りだった。不思議なもので、神様にお祈りをしたら、新しいきょうだいが生まれるのだという実感が湧いた。母親の腹に耳を当てると、何の気配もなく、低くサアサアという音が聞こえる。成長したイワンには、それが自分の耳の中を血が流れる音だとわかる。けれどもその時は母親の腹の中に雨が降っているのだと思った。秋の冷たい雨だった。
「ほとんど動かないのよ。ずうっと眠っているみたい。おねむさんなのは、ワーニャ、お前と同じね」
 イワンは母親の腹に——後に弟だとわかるきょうだいのいる場所に耳を当てたまま、目を閉じる。部屋は寒くて、それ以上深くは眠れない。
 数年後、アリョーシャの背中に耳を当てた時、イワンは母親の傍らで過ごした一連の記憶を思い出した。弟の痩せた背中、ゴツゴツした骨と熱い皮膚の向こうから聞こえてくるのは、母親とそっくりの息遣いだった。イワンはほんの少しの間、そこにきつく耳を押し当てて、ぎゅっと目をつぶると、また開いた。
「アリョーシャ」
 弟は駆け出そうとした時のまま、——棺を運ぶ行列の前に飛び出しそうになったのをイワンが飛びついて止めた時のまま、棒立ちになって正面を見つめている。
「アリョーシャ!」
 もう一度呼ぶと、弟はイワンの方を振り向いた。その顔がぐしゃっと歪んで、口からか細い泣き声が漏れる。
 母親が亡くなってから二月ほど経っていた。葬儀の時には、まだあまり事態を理解していなかったのか、泣きもせずぼんやりと大人たちが泣いたり怒ったりするのを見ていたアリョーシャは、最近になって急に不安定になった。葬儀や、それでなくとも何かの行列を見ると、しばし硬直してから突然駆け出す。馬車の前に飛び出しかけたこともあった。そうでない時は目をみはってじっと道を見つめている。
 この子には天使が見えているのだ、そう言った人がいた。それならどれほどいいだろう。ひい、ともひう、とも聞こえる弟の泣き声を聞きながら、イワンは思う。一度泣き始めたら、へとへとに疲れるまでアリョーシャは泣いた。体の中の全ての悲しみを絞り出すみたいに、喉をひゅうひゅう細く鳴らして泣く。泣き止む頃には汗まみれで、すっかり寝こけていることもあった。起きるとけろりとしているのだが、また何かのきっかけで泣き出すのだった。

 

 

私はあなたの凍える窓

 細かな雪の混じる風が吹く日、イワンはかつての冴え冴えとした認識を取り戻すことがあった。空気中の水分も全て凍りつくような、肌の切れるほどの寒さが、常に熱を持った彼の頭を芯まで冷やすらしかった。締め切った窓の外で、風がひゅうひゅう鳴るたびに思い出すのはあの召使いのことだった。最後に話したのが、こんな天気の日だったからに違いない。そのくせ彼と何を話したのだったか、興奮しすぎていたからだろうか、正確には思い出せない。ただ最後に、あの召使いはさようなら、と言ったのだった。さようなら、お別れでございますね。イワンが帰るのに、まるで自分の方が去るみたいに。
 三十になれば盃を叩きつける、という話を、彼にしただろうか。今イワンはその年を過ぎようとしていたが、まだ盃につけた唇を離せないでいた。もう叩きつける気力すらないのだ。熱が出ては下がるたび、彼の体からカラマーゾフらしさが流れ出していく。イワンはそれを、止める術もないまま見ている。あるいはもう、とっくに盃の中身などないのかもしれなかった。
 右耳の下から左耳の下まで、頸を撫でる。熱のこもった手は、青白く骨が浮くほど痩せているのに、感覚が遠くてぶよぶよしたものが周りについている気がする。頸に巻いた縄は、もっと固く、冷たいものだろう。かさかさと乾いているところは同じかもしれない。いずれにせよ、イワンの手は彼自身を傷つけない。
 盃を叩きつけるのにどんな方法を取るか、イワンは考えたことがなかった。その時になれば思いつくだろうと思っていた。それは今思えば、随分呑気な態度だった。あの召使いは、いつからそのことを考えていたのだろうか。イワンが帰った後、たった一人で、あの男は壁から突き出した釘に縄を巻いたのだ。
 ところで、盃の話は、カテリーナにしたことはない。言えばあの人は、泣いてしまうだろうから。

 

 

イワンの夢

 悪魔の来なくなったイワン・カラマーゾフの夢のなかで、ドミートリイはいつも犬の姿をしている。アリョーシャは小鳩で、パーシャは蜘蛛だ。ロシアの大地を縦横に巡るイワンにとって鉄道は重要な移動手段だったが、ミーチャはたびたび同乗を断られた。アリョーシャは屋根や連結部に乗った。
 パーシャはいつもイワンの肩にちょこんと止まっている。コンパートメントに同乗者がいるときは、驚かせないように帽子の中に隠れる。駅に着くと、どうやったのか、ドミートリイが先回りをして待っている。

 

 

泥の男と子供たち

 裁判が終わって最初にドミートリイを打ちのめしたのは、人々の視線だった。彼らは疑いもなくドミートリイを「父親殺し」として見た。眉をひそめ、目の奥から斜めに、冷たい針のような視線をドミートリイに投げかけた。誰も彼を真っ直ぐ見ようとしなかった。それに値しない罪人——その癖に見たがる。
 それに加えて堪えたのは、その視線の中に同情が混じることだった。あの弁護士のせいだ。あの舌先だけの似非紳士は、法廷でドミートリイを父親の愛から見放された、哀れな子供として描いた。それも見事に! 確かにフョードルはひどい男だった。哀れなミーチカ、打ち捨てられた子供、というわけだ。
 ドミートリイには、憎悪していた父親と自分を結びつけられるよりも「父親に見放された子供」と見られる方が我慢がならなかった。何と言ってもフョードルは死んでしまった……そのことは時々ミーチャに奇妙な寂寥感を抱かせたけれども、今は人々の同情の方が数倍耐えがたかったし、みじめですらあった。
 彼らは、このみっともなくて恐ろしい事件の、分かりやすい絵図を求めているのだ。放蕩者の長男の哀れな子供時代は、事件に一風変わった彩りを添えながら、うまく構図を収めるための、うってつけの素材だった。人々の同情は、蔑みよりもひょっとしたら善意からのものであったのかもしれないが、ミーチャはまるで自分が人形みたいにこねくり回されているように思った。それは取調べで犯人扱いされても、法廷で、イッポリート検事の物語やフェチュコーヴィチの反論が話されていた際にも、感じたことのない居心地の悪さだった。それに、この町にだって、こんなにたくさんの子供がいるのに!
 子供の声は牢獄にも聞こえた。子供の声を聞くと、ミーチャの胸は締め付けられる。泣き声の方が、やっぱりずっと強く締め付けられるのだけれど、楽しそうな、心の底からの笑い声であっても、胸の奥底に、冷たい水が染んでいくような切なさを感じるのだった。

 

 

夏の絵

 母はおよそ趣味というものを持たない人だったらしいが、時々小さなノートを開けて何か描いていたのを覚えている。窓から見える景色や、花や、食卓の上の果物。母が描くのはそういう動かないものばかりだった。時々村の子供を庭へ呼んで、スケッチをすることがあったが、子供が飽き始めると、小銭や菓子を握らせて、すぐに帰してしまう。だから絵が完成することはなかったと思う。思う、というのは、イワンはそういう母の姿を記憶しているだけで、絵を見たことがなかったからだ。ノートはイワンがそばに来るとすぐに閉じられた。これ何、と尋ねた後、母がどうしたのか、記憶にない。
「ああ、奥様の」
と、イワンから尋ねられたマルファが言う。
「覚えておりますよ。お好きでしたもの」
 マルファによれば、ここへ来てすぐはよくイーゼルを立てて絵を描いていたらしい。水彩画。やはり庭木や風景のような、動かないものを、何時間も飽きずに描いていた、という。
 母が水彩画をやるというのは初めて聞いた。屋根裏にしまってあるかも、と言うことだったが、結局どこにも残っていなかった。誰かにあげてしまったのかもしれないし、ネズミや虫に食べられて、そうと知らずに捨てられてしまったのかもしれない。交流のあまり広くない人だったから、後者だろう。
 服が汚れないようにエプロンをして、日差しを避ける大きな帽子を被って、母はある夏の日に大きな絵を描いた。フョードルはその趣味を気に入らなかったらしいが、それでも母は一日中庭に立ち続けた。手を絵の具で色とりどりに汚して、日焼けで赤くなったほおも気にしないで、母は絵を描いていた。

 

 

浅い夢

 十数年ぶりに故郷へ帰ってきたこの家の息子は、よそよそしく打ち解けない態度を隠そうとしなかった。家にいた頃は父親にすっかり忘れられていたし、帰ってきたのは家族のごたごたの仲裁のためであるから、それも無理のないことではあったが、青白く、硬い表情の横顔は、まるで幽霊みたいだった。時々自室以外の、テラスや居間でぼんやりしている姿を見ることがあった。気配もなく物静かに座っていて、マルファが行きあって悲鳴を上げることもあった。「本当に心臓が止まるかと思った」とマルファは夫に漏らす。「奥様そっくりに見えるんだもの」
 実のところ、イワン・カラマーゾフが本当に母親似なのか、誰もわからなかった。この家の二番目の奥方であったソフィアは早くに亡くなって、絵姿なども残っていない。わずかに残された遺品も、いつのまにかなくなっていた。おかしなことに、彼女の正確な髪色すら、グリゴーリーにもわからないのだった。
 彼女の一番目の息子のイワン・カラマーゾフが、今度は庭先のベンチでうとうとしている。旦那用ではない、いつからあるのか分からない古いベンチである。時々訪ねてきた御者や行商人が一休みをする。夕暮れ近くで肌寒かった。もう子供ではないとはいえ、このままほったらかしにして、風邪でもひかれたらことだ。スメルジャコフは、軽く身を屈めて耳元でイワンを呼んだ。それでも起きないので、少し声を高めて呼んだ。
「イワン坊ちゃん。起きてくださいまし」
 それでイワンの目が覚める。もともとそう深い眠りでもなかっただろうが、イワンはまだ夢から覚めないような、子供みたいな柔らかで透明な瞳でスメルジャコフを見た。
「それは、久しぶりだな」
 密かではあるが確かな微笑みが、イワンの唇にひっそりと上って消えた。イワンはもう立ち上がって、玄関へと向かっていた。久しぶり、というのが何のことか分からなかったし、スメルジャコフ自身もすぐ忘れてしまっていたのだが、呼び名のことかと気づいたのは数日後だった。
 グリゴーリーは礼儀に則ってイワン・フョードロヴィチと彼を呼ぶ。妻のマルファもそれに従う。召使い小屋で暮らしていたころは、旦那様の息子二人は坊ちゃんと呼ばれていたのだろう。だろう、というのは、スメルジャコフ自身は覚えていないからだった。思えば、イワンに直接話しかけたのはあれが初めてだった。
 イワン・フョードロヴィチは、相も変わらず幽霊のように青ざめた顔をして、家のあちこちにある椅子に、物静かに腰を下ろしている。皆それには慣れて、今更どうこう言わない。彼が打ち解けないでいても、周囲も、家も、勝手に向こうの方から馴染んでいく。彼は今や、すっかり「カラマーゾフ家の息子」となっていた。

 

 

メヌエット

「ねえ君、ピアノを弾いてあげようか? 気晴らしになるだろう」
と言って悪魔は頼んでもいないのにピアノを弾く。何という曲だったか、ポレノフ氏のところで奥様が弾いていた曲だ。子供のための練習曲。アリョーシャはこの曲が好きで、これが流れている間ずっと目を見開いて鍵盤を見つめていた。お茶の最中でも、ピタリと飲むのをやめたし、名前を呼んでも返事もしなかった。イワンはその曲のためにピアノを弾いてみたいと思ったが、できなかった。ピアノは触れても怒られたりはしなかったけれど、イワンが触れてみても簡単で直線的な音が鳴るだけで、奥様のような、優しく柔らかな音にはならなかった。
 悪魔の奏でるピアノは、あの時のように柔らかく優しい。「それはそうさ」と悪魔が言う。「芸術は時には僕らがもたらすものなのだから」
 ふと目を覚ますと、一人で部屋の隅の椅子に腰掛けていた。ピアノはなかった。かつてはあったのかもしれない。悪魔の弾いた曲が何だったか、もう一音も覚えていない。
 開け放した扉の外で、せわしなく行き来する人々の姿が見える。父の家の片付けは粛々と進んでいく。あの曲が何だったか、アリョーシャなら、ひょっとしたら覚えているかもしれなかったが、寒くて体が重くて、弟にそれを確かめるのが億劫だった。

 

 

熊と眠る

 ドミートリイ・カラマーゾフがふと漏らしたところによれば、連隊所属中に「熊と添い寝」する事態になったことがあるという。詳しい話は聞かなかったが、野営だったか訓練中の出来事か、大きな熊がやってきて、彼らのすぐそばで寝入ってしまった。赤みがかった茶色の熊で、うつ伏せで腕を枕の代わりにしていた。さすがに生きた心地もしなかったけれど、熊がいびきをかくたびに白い息が顔の周りを曇らせるのは、少し一緒にいると慣れてしまって、それにあまりにも突拍子もない出来事だから、だんだん皆笑いが込み上げてきて、我慢するのがたいへんだった。熊は夜明けとともに起きてどこかへ行ってしまった。
 ドミートリイがスメルジャコフに語ったのはだいたいこのような話だった。熊の話は、語り出しと同じくらい唐突に終わり、ドミートリイは例の女性の見張りに出かけた。スメルジャコフを「嘘や偽りがあれば必ず殺す」と念入りに脅した後で。口付けた彼のブーツは泥の臭いがしたが、きちんと手入れをされていた。
 今のところ、台所は彼の居場所だった。グリゴーリーは、自分で腹が減った時に来る以外は寄り付かなかったし、マルファも頼まれてお茶を淹れに来るくらいだった。彼は外の井戸で念入りに手を洗い、口をすすいでから台所に入った。その時ふと、熊がここに入ってきたら、という馬鹿げた考えが頭に浮かんだ。
 そのような考えが浮かんだのは、今朝がた調理した豚のせいであるに違いなかった。年寄りの豚で、ひねこびたやつだった。肉までひねこびていて、煮ても煮ても獣の臭いがとれなかった。外から台所に入ると、その臭いが鼻の穴に籠るようだった。脂じみた、まとわりつくような臭いだ。熊の吐息の臭いだ。
 スメルジャコフはしばしば台所で眠る。誰にも仕事を追い立てれていない時、ここでまるまって昼寝をする。今日ここで眠れば、熊の夢を見るだろうか。熊の吐く白い息の、生臭さまでも嗅ぎ取れるほど近くに、熊と共に眠る夢。ふと、自分の背後に、大きな、茶色い熊が、台所いっぱいに寝そべっているような気がした。スメルジャコフは台所の戸を開けて、自分の熊を追い出した。

 

 

柔和なイワン

 もうお前には僕の言葉は必要ないだろうに、というのが彼の口癖だった。たしかにその通りで、イワン・カラマーゾフの考えも、その奥行きも、語り方、間合い、どこにポーズを入れてどこで水を飲むのかも、その行間に潜む神を捨てきれない未練がましさも、スメルジャコフは最初の数年で全て分かっていた。
 それでも彼を手放さなかったのは、ひとえに熱病のせいだ。熱で朦朧としたイワンを、こっそり別荘に連れて来たのはいいが、何かあるとすぐに熱を出す。別荘はフョードルがどこぞの女のために買っていたもので、坊ちゃん方は知らない。それを知った時も、イワンは怒りと嫌悪のあまり熱を出して寝込んだ。
 おかげでずっと彼を手放せないでいる。とにかく危なっかしくて仕方がない。彼を生かすついでに自分の命も捨て損なった。腹が立つので三十になったイワンが盃を割りたがった時も、決して許しはしなかった。まず私を殺せばいい、と言うと、意気地のないこの男は、しばし自分の両手に目を落とし、諦めた。
 時間はたっぷりあった。何だってできるくらいに、たっぷりと。ついでにフョードルの遺産もある。スメルジャコフは、時間をかけて、イワン・フョードロヴィチから神様のこと以外の話を全部させた。フランス語は学んだ。詩作はいらない。幾何は面白かった。チョークで袖口を汚すのを気にせずにイワンが話し続けるのは幾何だけだった。だけど、あとは何があるだろう? イワンは、スメルジャコフからは何も学ばない。その仕事は視界にない。スメルジャコフは彼のために鶏を締め、コーヒーを淹れる。
 毎朝、スメルジャコフは新聞を読むイワンに朝食を給仕する。その日の新聞の見出しの文字は、脇に控えるスメルジャコフにもはっきり読めるくらいに、大きく、黒々と印刷されていた。朝刊ではなく号外だった。それを持ってきた隣人は、すでに広場へ向かっただろう。そこに集まる人々は、同じ号外を手に、大声で、小声で、泣きながら、怒りながら、混乱しながら、一つの事件のことを口にしているだろう。しかしここは静かだった。サモワールの沸く音や、新聞をめくる音や、すっかり冷めた朝食をナイフで切り分ける音だけがする。朝食が冷めてしまうのもよくあることだ。イワンは指で机を軽く叩いてスメルジャコフを呼び、果物を剥かせる。
 向かいに座ると新聞の見出しがよく見えた。容疑者の名も本文も読める。首都で起こった、大きな、このロシアの地を揺るがすような事件だ。「いいのですか?」とスメルジャコフは言った。「ここにいて」怒るだろう、と思ったが、イワンは新聞をたたみ、折り目をテーブルのへりに平行にして置いた。
「いいんだ。ここ以外に、今更どこに行こう?」
 イワン・カラマーゾフの目は、優しく穏やかだった。それは皇帝暗殺を報じる新聞の見出しと、皿の上で切り刻まれた朝食とを行き来して、今しもきれいに櫛形に切られて真新しい皿に並べられたリンゴに向かう。それは穏やかではあったが、無関心でもあった。
「朝食を片付けましょうか」
「いいや。もう少し食べる」
 イワンが言って、朝食をほんのちょっぴり乗せたフォークを口に運ぶ。リンゴは少しずつ茶色く酸化していく。外が次第に騒がしくなる。出払っていた住人たちが帰ってきたのだ。それでもイワンの朝食は終わらなかった。

 

 

掌編集その2

ピクニック

 台所に入る前から言い争う声がしていた。面倒を押し付けられるのはごめんだ、と思って入らずに待っていると、扉が開いてイヴァンナお嬢様が出て来た。お嬢様は「あんたでいいや」と言って提げていた籠をスメルジャコワに押し付けると、「来て」と言って振り向きもせずに歩き出した。
「あの……」
「一緒に来て!」
 マルファ・イグナーチエヴナの方を見ると、仕方がないといった表情で頷いたから、スメルジャコワはその日の夕食の仕込みを放り出してお嬢様を追いかける。お嬢様は、道行く人の好奇の目線も物ともせず、ずんずん歩いて、屋敷も教会も通り過ぎ、町外れの何もない場所に立ってきょろきょろしている。女学校を主席で卒業した秀才らしいが、道を覚えるのは苦手なのだろうか。
「あの、どこへいらっしゃるんですか」
「わからない」
「え?」
「散歩しようと思ったんだけど、マルファが一人で歩いてはいけないと言うから」
 イヴァンナはスメルジャコワの持つ籠に手を突っ込んで、瓶を引っ張り出す。旦那様の食前酒だった。しかも高い方。彼女は涼しい顔で瓶を振って「これを飲むのにちょうどいい場所を知らない?」と尋ねる。さすがに呆気に取られてしまったが、お嬢様が瓶を手に提げたまま待っているのに気づき、ひとまずそばの丘に向かうことにする。たぶんあそこならどこかに座れる岩か何かがあるだろう。ピクニックなどしたこともないが。
 だがたどり着いた丘は水捌けが悪いのか、地面が湿って座れそうなところなんかなかった。おまけに枯れかけてチクチクする草が生えているばかりで、ピクニック向きの岩や木陰も一つもない。
「すみません。ここ……」
と振り向くと、イヴァンナは手に持った瓶から酒をラッパ飲みしている。
「ここでいい。誰もいない方が都合がいいから」
 持ってて、とスメルジャコワに瓶を預け、籠からスモモを出して齧る。籠の中にはチーズやパンが無造作に入っている。台所から適当に持ってきたらしく、固くなったので別の料理に使うつもりだった古いパンまで入っている。なんてお嬢様だ。思わずため息をつく。それをどう取ったのか、「ここはモスクワじゃないって思っている?」とイヴァンナが言った。いいえ、と正直に答えたが、彼女は構わずに続ける。
「モスクワでもこんなこと推奨されていないわ。一人歩きも、食べ歩きも。進学もね。推奨、推奨って何だろうね。誰が勧めたり許したりするって言うんだろう。私たちに」
 イヴァンナはスメルジャコワの手から酒を奪うと、瓶を左右に振る。
「あんたも飲んだら」
「仕事があります」
 あんたのおもりっていう仕事がね、お嬢様、と心の中で付け加える。イヴァンナは真顔で二、三口酒を飲み、「誰も見てない」と言った。
「神様が見ておいでです」
 イヴァンナは、スモモを齧りながら、何か尻尾をつかんだとでも言うようにニヤッと笑った。
「そんな証拠どこにあるの?」
「お嬢様」
 スメルジャコワは言葉を咎めた。信仰心からではない。かつて同じことを言って養父に殴られた。頬に幻の熱が走り、咄嗟に周りを見回した。周囲は草ばかりが広がっている。イヴァンナは果実の残骸を草原に放り捨てた。
「ここには私たちしかいない。何をして何が許されるかは、私たちが決めるのよ」
 さあ、とイヴァンナは酒の瓶を差し出した。スメルジャコワが受け取らないので、その手に押し付ける。瓶の口からは甘い、いい匂いがした。熟れた果実も開き切った花も、こんな匂いはしない。スメルジャコワは瓶に口をつけ、ぐっと一口飲み下した。

 

 

あなたに似た人

 移送されて来た囚人は、親殺しの殺人犯だった。何か事情があってこっちへやられたらしい。元々収監されていた場所で大喧嘩をして殺されかけたとか殺しかけたとか、物騒な噂が流れていたが、本人はいたって平気そうに、監獄に寝起きしている。
 他の囚人と同じく、くたびれて、落ち窪んだ目をしているが、時々その目が遠くを睨んでキラキラ輝くのに、ラスコーリニコフは気づいていたが黙っていた。彼は他の囚人ともあまり打ち解けなかった。彼が打ち解けるのはソーニャだけで、それも時には気難しく黙り込んでしまう。ドゥーニャたちの手紙を読み聞かせるソーニャは、そんなラスコーリニコフを見て、よく寂しげな微笑みを浮かべた。
 この移送された囚人は、大人しいのは最初の二、三日だけで、あとは随分と賑やかになった。囚人のうち平民は旦那連を憎んでいるが、この連中とは、半月ほどでほぼ一通り満遍なく衝突した。といっても表立って衝突をしたのは最初の日だけで、あとは言葉や、地面に唾を吐く、というような行為で止まっている。貴族出身の囚人とは、お互い気が合わないらしく、二、三言葉を交わしただけであとは無関心を貫いていたが、時折何かしら腹に据えかねることがあるのか、大きな声であてこすりを言う。大抵はカラマーゾフが先に怒りを露わにし、もう一人がすました顔で無視を決め込んでいる。
 彼は時々、波が引くようにピタリと静かになる。低く聖書の文句を唱え、十字を切る。食事の前や始業の前によくお祈りをしていて、日に二、三時間は坊主にみてえになるんだから、調子が狂うよ、とは囚人たちの、いわば頭にいる男の言だった。カラマーゾフは一日目に早速この囚人とやり合いかけたのだった。その時は周囲が止めたものの、あの、大立ち回りをやって殺しかけたか殺されかけたとの噂はどうやら嘘ではないらしい、と言うようなすごい目つきだった。痩せた体のどこにそんな力があるのか、彼は頭の男の襟首を掴んで、もうちょっとで投げるところだった、とは、見ていた者の証言である。
 ラスコーリニコフはそういう現場には近づかない。囚人たちともあまり話さない。それなのに、移送されたこの囚人、名をカラマーゾフというのだが、彼はラスコーリニコフに興味を持ったらしい。というよりは、ソーニャに、と言うべきだろうか。「いい人だな! 君を追いかけてきたのか!」と彼は言う。この「いい人」というのは、彼について来たことよりは、彼女の町での働きぶりとか、敬虔さとか、時々交わす一言だとか、落ち着いた声に対して言われているらしかった。彼の意見には同意するものの、ラスコーリニコフはその表明は控えていた。カラマーゾフがそばにいるので、他の囚人はいよいよ寄り付かなくなった。
 カラマーゾフは、その体力と時間がある時には何でも喋った。そうすることで自分を支えているみたいだった。自分の見た夢、聖歌や十字架、家族の話——生まれた時からばらばらだった家族たち。「君に家族はいるかい?」川岸の作業場からの帰り、彼は長く過酷な労働でへしゃげたようになった声で尋ねる。そうされると、ラスコーリニコフも邪険には出来ないのだった。
「ええ、います、妹が一人。友人と結婚しました。だからあいつも家族かな。父はずっと前に亡くなって、母も数年前に」ラスコーリニコフはここで言葉を切った。「とても……とてもいい人なんです、みんなとてもいい人なんだ! 僕の全てをかき集めたって、あの人たちの小指の先にも値しない!」
 ラスコーリニコフは、突然激情で胸が突かれたようになってその場に崩れそうになった。それをカラマーゾフが横から支える。「わかるさ、でも歩かなきゃ」何事かと振り向いた見張りに何でもないと合図して、彼らは歩き続ける。
「小さな女の子がいるんです。もう小さくないかもしれないけど、知り合いの子供です。その子が僕のために祈ってくれているんです。毎日のお祈りで、唱えてくれてるんです、しもべロジオンをも、って」ラスコーリニコフは、熱に浮かされたようにつっかえながら言った。「きっと今もそうしてくれています」
「君は幸せな人だな!」とカラマーゾフが言った。揶揄も羨みもなく、ただ事実を告げるような口調だった。ラスコーリニコフは、肯定の返事の代わりにこう言った。
「カラマーゾフさん、あなたの名前はドミートリイと言うんですね。僕の友人もドミートリイと言う名前なんです。妹と結婚したんです。あなたに少し似ているかもしれない」
 ラスコーリニコフは、言い終わると急に恥ずかしくなった。その上まだカラマーゾフに支えられている。もう大丈夫、一人で歩けると言ったのに、カラマーゾフは、この手を離したらラスコーリニコフが瓦解してしまうとでも思っているのか、腕をしっかり掴んで離さない。
「そんなに似ている?」
「そんなには。少しだけ……名前が同じだからかも」
「そうか!」
 カラマーゾフは泣きそうな顔で笑って、俺も君に似ている人を知っているよ、とつぶやいた。

 

 

ひかりのくに

 夕日が教会の屋根に接したと思ったら、みるみる見えなくなって行くのをイワンは焦燥を覚えながら眺める。弟はもう泥のように眠っていて、揺すっても名前を呼んでも、ぷう、と口の端から息を吐くだけで全然反応がない。三つ下とは言え弟を抱えて歩くのは、やはり子供のイワンには無理な仕事だった。
 日が沈むと急にこの辺りは暗くなる。早く帰らなければと思うのに、弟のせいでうまく行かない。もうここに置いて行こうかと思う。最初からそうすれば良かった。それで大人を呼んでくれば良かった。こう暗くては置いて行くわけにもいかない。イワンは痺れて冷たい腕で、弟を抱え直す。
「イワン様!」
 前から灯りと共に誰かが走って来る。父の従僕のグリゴーリーだった。夕闇が一歩ごとに深くなる中で灯りが近づいてくるのを、イワンはほとんど泣きそうになりながら見た。グリゴーリイはイワンの痺れた腕からアリョーシャを受け取ると片手で抱え上げ、もう片方の手で灯りを持った。
「それは僕が持つ?」
イワンが尋ねると、グリゴーリーは微笑んだ。
「では、お願いいたします」
 イワンは灯りを受け取り、胸の高さに持ち上げた。そうしないと、グリゴーリーの足元まで灯りが届かなかった。灯りは少々重かったが暖かで、何かの生き物みたいだった。もう大丈夫だ、とイワンは思う。
 安心すると、急に母のことがひたひたと押し寄せて心の中を満たした。先だって母親が亡くなっていた。衰弱していたところに発作を起こして、そのまま帰らぬ人となった。グリゴーリーたちは隠そうとしていたけれど、イワンは母親の命がそう長くないことを知っていた。「お前の母親も、そろそろだなあ」……母の元に医者が診察に来た日、父がそんなことを漏らした。医師に尋ねると、ただ、いい子にしていなさい、と言った。いい子にしていなさい、毎日お祈りをして、弟の面倒をよく見て、お母様に心配をかけないようにしなさい。その通りにしたけれど、母は亡くなった。夜中のことだった。医師の代わりに神父様が呼ばれ、母のために祈りを捧げた。
 イワンは灯りを掲げ、明かりのなかに照らされる道に目を凝らす。ただすぐ目の前の、光の行く先に心を傾けようとしたけれど、自分をどこかに繋ぎ止めていたはずの糸が、本当はとっくに切れていたと知ってしまったような心細さはどうしようもなかった。たぶんこれから先の人生は、こんなふうな、つまり、暗がりをずっと歩いていき、その中にほんの一瞬光が灯る、そんなものであるかもしれないと、イワンはその時予感していた。
 急いでいるのか、癖なのか、グリゴーリーの足取りはイワンには少し速く、ともすれば置いて行かれそうになる。片手で灯りを持ち、グリゴーリーの服の裾をつかむ。アリョーシャは何も知らずに、グリゴーリーの腕の中で眠っている。さっき置いて行こうと考えたのを、イワンは罪悪感と共に思い出す。
「イワン様」とグリゴーリーが手を差し出した。「やっぱりそれは私がお持ちしましょう。代わりに裾を握ってて下さい……離さないように……」
 灯りはあっさりイワンの手を離れた。イワンはぎゅっと彼の服の裾を握りしめる。グリゴーリイの手の中で、灯りは眩しく揺れている。

 

 

くらやみのくに

 アレクセイ・フョードロヴィチは、子供にしては珍しく暗闇を怖がらない子供だった。兄とは別に子供部屋を与えられていたが、一人で寝ることになってもごねたりしない。最初は引き取られたばかりで遠慮しているのかと思ったが、翌朝起こしに行っても、泣いたりしたような気配はなかった。むしろ灯りを消す時には、安心したような顔で目を閉じている。窓の外やベッドの下にお化けがいると言って泣くこともない。良い子、と言うよりはちょっと変わった子なのじゃないかしら、と思っていた。と言うのも、坊ちゃんは暗いのが怖くないんですかと尋ねたら、「ワーニャがいるの」と答えたからだ。
「ワーニャ? イワン坊ちゃんですか?」
と尋ねたが、アレクセイ坊ちゃんは黙って首を横に振るばかりだった。想像の中のお友達だろうか。幼子にはまれにそういう子供もいると聞くが……。イワン坊ちゃんに尋ねても知らないと言う。アレクセイ坊ちゃんは、大人の心配を知ってか知らずか、夏の庭で、木漏れ日を捕まえようと駆け回り、飛び跳ねている。
 真相が明らかになったのは、その十数年後のことだった。すでに兄のイワンは成人し、弟アレクセイは修道院に入っていた。遠縁の元へ身を寄せる旅路の途中で立ち寄った元子守を、アレクセイ・フョードロヴィチは快く迎えた。修道院の中には入れないので、外を散歩しながらおしゃべりをする。木陰の涼しい素敵な並木道だ。濃い緑の葉は今が盛りで、枝がしなるほど。姿は見えないけれど、小鳥の声が方々から聞こえる。
 かつての小さなアレクセイ坊ちゃんは、もう「坊ちゃん」なんて呼べないくらい立派に成長している。暗闇も何も、怖いものはないだろう——と言って、軍人のようなものものしい強さではなく、むしろ柔和な、優しい顔立ちをしていた。それでいて弱々しさはない。窮屈そうな僧服も、彼が着ているとまるでそんな感じはせず、軽くて温かい春の外套みたいに見える。
 アレクセイ・フョードロヴィチは自分の話をするよりも子守の話を聞きたがった。二人の坊ちゃんと別れた後、別のお屋敷で子守りをしていたこと、短い結婚生活、これから身を寄せる遠縁の家のこと。お互いの近況をしばらくおしゃべりしてから、幼い頃の「ワーニャがいる」の話題を出すと、アレクセイ・フョードロヴィチはばつの悪そうな顔をした。
「あれは実を言うと……その、本当に兄さんがいたんです」
「まあ」
「絶対に言うなと言われていて……」
 彼によれば、大人がいなくなった後に兄が毎晩こっそりやって来て、寝物語をしてくれたらしい。
「兄さんはあの時もう文字が読めましたからね。自分が読んだ本を、物語にして話してくれました。聖人伝とか聖書、御伽噺だとか、地理や歴史の話も少し。僕のベッドで、シーツを二人して被ってひそひそ話で話すんです! 兄さんはとてもお話が上手なんですよ。でもひどいんだ、時々話を忘れちゃうから。そうしたら適当に自分で話を作るんだけど、クスクス笑いながら話すから、どこまで話したか分からなくなってしまって。イワンが話した通りに、勘違いしたまま覚えていた話もありました。途中で寝てしまって続きが分からない話もありますよ。イワンは話してくれなかったんです、今日は新しい話だよって」
 あらまあ、と言ったその先が出てこない。あの子供達がそんなことをしていたなんて! しかも今の今まで大人に知られないままだったなんて! イワン・フョードロヴィチの気難しそうな顔を思い出す。大人しい子だったが、家人には明らかに遠慮していた。彼らのために雇った子守だと言うのに、ちっとも我が儘を言ってくれなかった。あの子にとったら、さぞかし大きな冒険だったことだろう。アレクセイ・フョードロヴィチは、喋りすぎたかも、とさらにばつの悪そうな顔になった。その顔と、イワン・フョードロヴィチの気難しそうな顔が重なって、彼女は弾けるように笑い出した。暗闇の中、二人っきりでお話をしている兄弟を想像すると、今度はなんだか涙が出て来て、笑いながら涙を拭いた。
「僕を許してくれる? 僕ら二人を?」
「もちろんですとも!」
「嘘をついたことも?」
「ええ、いいんです。いいんですよ」
 アレクセイ・フョードロヴィチは老いた子守の手を両手で握り、ありがとう、と言った。修道院の生活で荒れた手を、彼女は寂しさと誇らしさがないまぜになった気持ちで握り返す。
「じき兄さんが帰ってくるんです」
 淡い期待の混じった眼差しをアレクセイ・フョードロヴィチは向ける。彼女は首を横に振った。余裕のない旅だ。長居はできない。「どうかあなた方ご兄弟に神様の祝福がありますように。……お兄様にお会いできるのが楽しみですわね」はい、と彼ははにかんだように頷いた。

 

 

美しい馬

 ドミートリイ・カラマーゾフが無罪になることを彼女は一心に願った。だってそうじゃないと、彼に罰を与えるのが自分ではなくなってしまう! 彼女はその時までドミートリイのことを忘れていた。強いて忘れようとして、それにいつの間にか成功していた。それなのに、彼が殺人なんかするから!
 ドミートリイは、彼女の住んでいた町に駐屯していた部隊の中尉だった。将校なんて十代の娘は多かれ少なかれ夢中になる。誰も皆それぞれに夢中になる相手がいた。彼女は遠巻きに見ていたけれど、ドミートリイはそれを引っ張り出して情熱に火をつけた。暗闇で彼は何て言った? どんなふうに囁いた?
 あの男だけはやめておきなさい、ちょっと遊ぶのには丁度いいけど、楽しいのはそこまでよ。皆そう言っていたのに彼女は本気になってしまった。その途端にあの男は身を引いた。こたえたのは彼がプロポーズに来なかったからじゃない(それも悲しかったけれど)、彼女を徹底的に無視したことだ。せめて振りに来てくれればよかった。君とはただの遊びだったんだよと言いに来てくれれば、傷つけられた女としてあの男を正面から睨みつけることができたのに。彼にとって自分とのことは何でもなかった。それを突きつけられるのが苦しかった。半年近く、彼は自分を何でもないもののように扱い、その間に何人もの女と遊んでいた。
 夫は優しい。殴ったりしないし、彼女のすることに一々口出しをしない。屋敷の内側のことは、女主人である君に任せるよ、と言ってくれる。これからは女にも学がなければ、と、屋敷の中にあるものは何でも読んでいいことになっていた。選んで購入するのは夫の仕事だったけれど。
「もしこの人に私が侮辱されたら、決闘を申し込んで下さる?」
 カラマーゾフ事件の記事を読んでいた夫に、ある日そう尋ねた。夫はしばらく考えて「この男にはその価値もないよ! それに決闘というのは今は刑事罰になるからね」と言った。彼女はそうね、と頷いて失望した。どうして私は決闘を申し込むことすらできないのだろう! 廊下を歩きながら窓の外を眺める。昨日の夜に降った雨は今は止んで晴れている。草原が時々水面みたいに光るのは風が吹くからだ。乗馬を習おう、と彼女は思う。女学校に入る前はよく馬に乗っていたのに、どうして辞めてしまったんだろう。どんな馬でも乗れるようになろう。どんな速い馬もたくましい馬も。そうすれば、どこまでも行けるような気がした。
 彼女は乗馬を再開させると共に、園芸を習い始めた。花壇を一つ、腕を広げたくらいの広さのを、彼女の場所にした。最新の記事の載った雑誌を取り寄せ、庭師の夫婦から、土や植物との接し方を教えてもらった。夫は、家でできる趣味を持つのはいい事だと言いながら、妻が土まみれになるのを歓迎していないようだったが無視した。園芸はなかなか奥が深いし、何より体を動かすのは好きだ——本当は小さい頃から好きだった。始めたばかりの頃は、体のあちこちが痛くなったけれど、それも楽しかった。腕、背中、腰、太もも。動かすごとに自分の体の形を思い出していく。
「園芸は創造的な営みなのよ、あなた」
と言って、なおも渋る夫に微笑む。都会から来た絵描きや音楽家に入れ込みがちな夫は、「創造的」という言葉に弱い。それに、と、彼女は心の中で付け加えた。園芸道具は結構、武器になる。

 

 

ミーチカ、ワーニカ

 どうしてあんなに腹が立ったのか分からない。どういう話の流れだったか、ドミートリイが、お前は俺の弟だからと言った瞬間、カッと頭に血がのぼった。一緒にするなとかそうは思わないとか、とにかく何か言い返したらしい。ミーチャはきょとんとしていて、してみると特に意味のない会話だったのだろう。お天気の話と同じ、何かと何かの間に挟むしおりみたいなもの。それに噛みつかれたのだからミーチャもわけが分からない。分からなくてもとりあえず売られた喧嘩は買う性分で、あとは言い合いになった。「お前も同じ毒蛇だろう!」と腹を立てたミーチャが、毒々しい笑みを浮かべながら言った。
 イワンは、牢獄から出た瞬間はまだカッカしていたのを覚えているが、帰り道にはもう冷静になっていた。なぜあんなに腹が立ったのか、確かにドミートリイには嫌悪感を抱いてはいるが、あれほどまでにムキになることはなかった。話さなければならないことは途中でうやむやになってしまった。まあ、しかし、大枠は伝えたのでもういいだろう——と、イワンは疲労感の中で思った。もう一度話に行くのは億劫だった。念のためカテリーナにも、自分の計画を伝えておくことにした。ついでに金も彼女のもとに置いておけば安心だ。
 この時イワンは、何の気なしにふとそう思ったのだが、先日医師に言われたことを思い出し、ぞっとしながらも笑みを浮かべた。随分とお加減が良くない、と、彼は言葉を選びながらも、イワンのせん妄症がかなり進行していることを告げた。そうだろうとは思っていたので衝撃はなかった。ただそうなっていく己を見つめている自分は一体何なのだろうと思った。
 訪問の挨拶もそこそこに、ドミートリイの脱走計画について金と計画書を委ねられたカテリーナは、一瞬困惑の表情を見せたが、すぐに頷いた。彼女はドミートリイの様子を知りたがった。イワンは、牢獄での彼の様子を聞かれるままに話してやったが、例の言葉に差し掛かると、急に恥ずかしくなった。弟と言われて腹を立て、喧嘩別れになっただなんて、どうしてこの人に言えるだろう。イワンは代わりに、ミーチャの講釈を話すことにした。看守の間でも有名だった。かたくなに無実を主張しながら、自分は罪があるとか何とか、ミーチカの奴は行者にでもなったつもりなのさ、と檻の外でも評判である。
「哀れな子供なんだ」いや、違う。「なぜ童はかわいそうなんだ……」そうだ。ドミートリイは、牢獄の外の子供たちの声を聞いてそう言っていた。楽しげに騒ぐ声だったのに、妙なことを言う、と思ったことまで、イワンは思い出した。理の通らない、愚かな男。それがイワンにとってのミーチャだった。
 なのに今、ドミートリイの言葉をなぞりながら、イワンは不思議と胸が詰まるのを感じた。「もう二度と、子供が泣かずにすむように、誰の目にも涙がまったくなくなるように、どんなことでも、いますぐに、それをやりとげたい」
 ……ドミートリイがそれを話している時、イワンはまったくうんざりしていた。なぜこの男は関係のない話ばかりをするのだろう? この訳のわからない話はいつ終わるのだろう? そう思っていた。今カーチャがそうしているように、冷笑すら浮かべていたかもしれない。
「黒い干からびた母親たちが泣かずにすむように、みんなのためにどんなことでもやりたい——そう言っていたんだよ」
 声をうわずらせながらイワンは言った。どっと目から涙があふれた。どうしてあんなにも泣いたのか、自分でも分からない。——倒れている間、ミーチャが旅立ってしまった今も、それはずっと謎だった。彼の言葉の真意も分からずじまいだった。いつか尋ねようと思って、まだできないでいる。
「どうしてだと思う? どうしてあんなに腹が立ったんだろう」
と、イワンはカーチャに尋ねる。カーチャは、隣に座って、イワンの手を握りながら話を聞いている。ドミートリイの童の話をするのは裁判の前の日以来、二度目だったが、イワンの話す間、カーチャの手はだんだんと熱を持ってイワンの手を温めた。前はほっそりと、冷たい手をしていたけれど、今はいくぶんか肉がついて温かい。けれどもそれは、イワンが痩せたせいかもしれなかった。
「わからないわ、あなたと兄さんのことだもの」カーチャは、ドミートリイでもあの人でもなく、その時だけ兄さん、と言った。「でも私も、アガーフィアに癇癪を起こしたことがあるわ。何が理由だったか全然覚えていないの。でもとても腹が立って、どうして腹が立つのかも分からなくて、アガーフィアに噛み付いた」
「君が?」
「そうよ」
 驚いてまじまじと見つめていると、カテリーナは、恥ずかしそうに目を伏せて微笑んだ。
「落ち着いてから姉に謝ったわ。姉は許してくれた。何があったのって聞かれたけれど答えられなかった。……本当にどうして、あんなに腹が立ったのかしらね。ねえ、私は甘やかされたお嬢さんだってわかっているのよ。腹を立てるようなことなんて何もないくらいに恵まれていたのは、あの時だって分かっていたのに、姉はどうして許してくれたのかしら」
 カテリーナは、じっと自分を見つめるイワンの瞳を見つめ返していたが、急に「ああ!」と小さく叫んで彼を抱きしめた。
「カーチャ……?」
「なんでもないわ。なんでもないのよ」
 カーチャは素早く体を離し、ずれてしまったイワンの膝掛けを整えた。「疲れていない? もう休みましょう」と早口に言い、微笑む。悲しいくらいに完璧な微笑みの中で、瞳だけが、隠すことのできない嵐のような光を閃かせていた。

 

 

凪の船

 母親の腹から出てきた生き物はふにゃふにゃと頼りなく、そのくせずっしりと重くてすぐにも手を離してしまいたかった。それなのに周りの大人たちは誰も自分に手を貸してくれない。「イワン坊ちゃま、おめでとうございます。お兄様になられたんですよ」とマルファが言った。母は黙って感情に乏しい微笑みを浮かべていた。
 弟だというその生き物からは酸っぱい匂いがした。母の腹の中の匂いなのだろうか。疲れた母とそっくりの、大きくてからっぽな目をしていた。と、みるみるその目が潤んでくしゃりとなったかと思うと、大声で泣き出して、イワンはようやく解放された。マルファがしきりに赤ん坊を抱いてあやすのに背中を向けて母の部屋から逃げ出した。しばらくは、赤子を抱いた腕にその時の重さと湿り気を帯びた体温が残って、痺れてしまったみたいだった。
 弟は体が弱く、すぐに熱を出した。その度にグリゴーリーが町に医者を呼びに行く。医師の診察の間、マルファと自分は神様にお祈りをする。弟が身をよじって泣いている声が聖像の前まで聞こえる。体の中身を全て振り絞るような声だった。弟というよりも、誰かが彼の小さな体を引き絞っているように思った。あの時何を祈ったのだったか。弟が丈夫になるように? 弟の体を引き絞る悪魔が去るように? ただマルファのお祈りの言葉を聞いていたように思う。母はその時も黙って笑みを浮かべていた。いや、これは記憶が混乱している。母は祈りの場にいることもあったし、いないこともあった。へたり込むように座り、呆然と聖像を見上げていた横顔を今も思い出す。
 あの独特の透明な微笑みがイワンの頭の中に、目の奥の残像のように焼き付いている。彼女はすっかり疲れていたのだ、ということを理解したのは、もうずっと後になってからだった。弟は立てるようになったあたりからみるみる丈夫になり、どんなに寒い冬でも風邪ひとつひかなくなった。
 十数年ぶりに帰った故郷の家は、記憶にある通りで、使用人たちも十数年分歳をとった姿でイワンを迎えた。
「あの時は、イワン様がしきりにアレクセイ様を抱かせてくれと言うので難儀しましたよ」
と、マルファは、弟の生まれた時のことを、そんなふうに言う。
「……そうだったか?」
「ええ、おっことすんじゃないかと気が気でなくて。でも決してお離しになりませんでした」
 そうだったか。イワンの記憶は混乱している。そうだったさ、と悪魔の声がする。「そうだったのか?」そうさ。俺はお前のことは何でも見ている。俺はお前の中にいる。覚えていない。そんな昔のことなんて。人間は不完全で間違う生き物だ。誰かが記憶を取り違えている。あるいは、全員が。自室にこもり、イワンは弟を抱いた時の重く湿った感触を思い出そうとする。
 窓の外では風がしきりに吹いている。葉ずれの音が波のように聞こえる。窓の外の暗闇を見ていると、なんだか眩暈がしてくる。カーテンを閉め切ると、蝋燭の照らす場所だけが存在しているみたいに思える。まるで船室だ、と思うものの、イワン・カラマーゾフはまだ船旅をしたことがない。

 

 

パーシャのバラ

 屋敷のすぐそばの、日当たりのいい花壇にフョードルが植えさせた苗だったが、調和がイマイチだとかすぐに花が欲しいとかで、結局そこには一年草か何かを植えることになり、それは抜かれることになった。バラの苗らしい。まとめて捨てるはずだったが、スメルジャコフはそれを取っておいて庭の片隅に植えなおすことにした。
 それは軽い悪戯心だったかもしれないし、反抗心だったかもしれない。ともかくも自分だけしか知らない秘密を持つというのは、なかなかに愉快だった。その苗は元は野生種で、綺麗に咲かせるにはこまめな手入れが必要だったが、咲かせるだけならそれほど手をかける必要はなく、虫にも寒さにも強かった。
 一年目は葉が虫に食われてボロボロになった。枯れるかと思ったが冬を越し、背を伸ばして、三年目に濃い色の花をつけた。花も虫に食われてボロボロになった。スメルジャコフはその間、気まぐれに見に行っては世話をした。花をつけていない間、バラはひょろひょろと頼りない枝を日向に向かって伸ばす、名もない庭木と変わらない。スメルジャコフはそれでも自分のバラを見失うことなく、家の用事の合間合間に世話をした。
 何年経ってもバラはみすぼらしく、花はすぐに虫に食われたが、逞しいのかすでに根付いているのか、枯れることもなく花をつけ続けている。マルファもグリゴーリーも、フョードルでさえ、バラの植わっている場所を通りすぎたりするのに、それも花の季節にもそこを通るのに、自分たちの捨てた花だとは気づかないのだった。それはただの庭木の一つに過ぎず、しかも隅の方だったから、調和だの好みだのの注意を向けられることはなかった。鳥やリスが運んでくるのか、庭にはしばしば植えたはずのない植物が生える。よっぽど気に入らなければ引っこ抜くが、特に気にならないなら大抵はそのままだ。スメルジャコフのバラも、おそらくそのようなものだと捨て置かれたのだろう。
 その後、彼はいなくなり、屋敷には誰も寄り付かなくなった。そうなった後も、バラは季節になれば新芽を伸ばし、花を咲かせている。

 

 

掌編集その3

いつかたった一つの最高のシャツで

 「料理人」として得た給料で、パーヴェルはまずシャツを仕立てた。お仕着せの服は、かなり生地が柔らかくなってはいるものの、全然擦り切れていなかったし、何か新しいものを仕立てるような時期でもなかったので、養父母は不可解そうな顔をして小言を言ったが、この養い子は聞く耳を持たなかった。仕着せのシャツは形が野暮ったいし、まだ背が伸びるかもしれないという理由で少し大きめに作られていた。お陰で袖を捲ってもだんだんずれてくるし、何より彼の体に全く合わない。まるで脱皮した皮を着直しているみたいだ。朝、袖を通すたび、彼はこの与えられたシャツを憎悪した。
 仕立てたシャツは彼の身にぴったりと沿った。生地はまだ少し固かったが、着ているうちに柔らかくなっていくだろう。最高級というわけではないが、生地は決して悪くないし、形も流行の、それでいて自分に似合うものにした。概して上等のシャツと言えた。朝、袖を通すたび、彼は満足感を覚えた。
 けれどもそのうちに、彼は何か、満たされないものを感じ始めた。朝、袖を通しても何とも思わないようになった。仕事をするうちにシャツが汚れてしまったからではない——いや、そうかもしれない。これじゃなかったのかもしれない、とパーヴェルは思う。何がこれなのかは分からないけれど。
 給料のほとんどを服飾品に注ぎ込んでしまうのを、養父母は意味のない行為、無駄で、背徳的ですらある行為と見做した。主人は無関心だった。町の連中は、「臭いにおいのする男」が何を着ても同じだ、と陰口を叩く。隣家のマリア・コンドラーチエヴナだけは彼の垢抜けた格好を気に入った。まるで都会の紳士みたい。だけどそれは、「まるで」で「みたい」なのだ、あくまでも。
 パーヴェルの部屋にはものが少しずつ増えていく。多分とても好きなものたちや、今も時たま彼の心のどこかを埋めてくれるものたち。だけどそれらがなければひょっとしたら……何ができただろう? 夢を見るためではなく、ただ眠るためだけでも、目の前の空虚を飛び越えるのは、こんなに難しいのに。

 

 

父の家

 父が死んでいなくなった家は、それでも嫌になるほど「父の家」だった。彼の選んだ調度品には、そこに誰かが住んでいた年月に相応した傷や凹みがあった。なるほどフョードルは趣味が良かった。商人に全てを任せたのかもしれないが、家の中はあの道化が住んでいたと思えないほど品よく落ち着いている。
 モスクワから帰ってきたイワンは、食堂の前を通り過ぎて二階へと向かいながら、父の気配を探っている自分に慄然とした。あの男はとっくに死んだのだ、自分が向こうで用事を済ませている間に……。用事と言っても大したことはなかった。友人たちを訪問して、彼らの親戚や知人の名士に繋いでもらったのだ。父の生きている間はどうしても自力で身を立てなければならない。そのための訪問だったが、それももう心配しなくてよくなったわけだ。あとはこの家と、マルファとグリゴーリイのことを考えなければならない。あの二人はずっとここで仕えていてくれたわけだから、相応の礼をしなければならない。
「イワン」
と呼ばれて振り向いた。食堂の扉が開いていた。フョードルがその前に立って、イワンを見上げている。一瞬、あの連絡は間違いだったのか、と思った。しかしその後に、ああこれはいつものやつだぞ、と思い直した。思えばモスクワから汽車と馬車を乗り継ぎぶっ通しで移動していた。疲れて当たり前だ。
 めまいがして手すりにつかまる。頭を二、三度振ってもう一度見ると、食堂の扉はさっき通り過ぎた時と同じに閉じている。開く音も、閉じる音もしなかった。イワンは磨かれたガラス窓から陽の入る明るい踊り場を通り過ぎ、階段を上がる。ねじも巻かれていないのか、家の中は時計の動くの音すらしない。
「……くそ」
 イワンは目元をこすった。苛立った表情で指を眺め、また目元をこする。拭っても拭っても涙が溢れてくる。イワンはよろよろと階段を上がり、一番上の段に座りこんだ。フロックコートの袖口からシャツのカフスを引っ張り出し、口に当てる。ぐっと噛んで嗚咽をこらえた。
 父は死んだ。そのことはちっとも悲しくない。つい最近までほとんど没交渉だった父親の死など、悲しくなくても不思議ではない。しかしイワンは、無感情を越えて、父に対して激しい憎悪を抱いていた。父親が大嫌いだった。人を苛立たせるとわかってわざと演じている道化芝居も、見た目も、時々道化であるのをたまらなく悲しんで息子に甘えるのも、酒臭い息も、何もかもを憎んでいた。それに、金だ。あの男は金持ちだった。それがイワンの憎しみの根源だった。さっき父親の幻を見た時に頭をよぎったのは、なんだミーチャのやつ、失敗したのか、という冷徹な感情だった。
 自分の中の醜く下種なもの! イワンはそのことに、それを抱いている自分をつぶさに見せられたことに、深い屈辱と羞恥を感じた。イワンは子供のように、座ったままで体を前後に揺らす。涙はまだ止まらなかった。濡れた視界の中で、踊り場の窓ガラスがきらきらと光り、虹色の光を落とす。
「……ちくしょう」

 

 

きりかぶ

 スメルジャコフは自分と同い年なのにもう刃物を握らせてもらっている。家畜を捌くグリゴーリイの傍らで、革の包丁研ぎでナイフを研いでいる。グリゴーリイが手を出すと、柄の方を向けて渡す。刃の長さがスメルジャコフの腕くらいありそうなやつで、刃先が頬や目をかすめそうでヒヤッとするのに、スメルジャコフは全然刃を恐れない。そのくせ普段は臆病で、イワンが後ろをついて歩くと、ちらちらと後ろをうかがいながら早足になり、そのうち走り出すのだ。
 今日もやっぱり逃げ出した。走って追いかけて突きとばす。草むらに倒れたスメルジャコフはしばらく空を眺めて、それからのろのろと肘をついて身を起こした。いつの間にか追いかけて来たアリョーシャが兄の真似をして、スメルジャコフはまた草むらに倒れこむ。
「やめて下さい」
と、彼は弱々しく言う。立ち上がるのは諦めて、草の中に座り込んでいる。「服を汚したら叱られます」シャツにはところどころに草の汁がついている。イワンは手を差し出した。相手が怪訝な顔でいつまでも手の平を眺めているので、ひらひらと手を揺らす。スメルジャコフが恐る恐る手を掴んだのを、引っ張って立たせる。握った手のひらは肉刺ができていてあちこちかたい。よく見たら切り傷もある。
「何かご用ですか」
 イワンが手を握ったまま離さないので、スメルジャコフが尋ねる。
「何で逃げるの?」
「坊ちゃんが追いかけるからじゃないですか」
「お前が逃げるから追いかけるんだ」
「追いかけなければ逃げませんよ」
「本当かなあ」
「じゃ何で追いかけるんです」
と手を繋いで話しながら、母家に向かって歩き出す。アリョーシャは、兄たちを追い抜かしたり立ち止まったり、周りをうろちょろして、時々しゃがんで木の実や石や蝶々の羽を拾っている。
「暇なら勉強してはいかがです」
「飽きた!」
 もう母屋がすぐそこというところで、アリョーシャが動かなくなった。トカゲでもいたのか苔の具合が面白いのか、彼にしか知り得ない理由で、切り株の前に座り込んでしまい、梃子でも動かない。「ねえ、アリョーシャ」イワンが弟の隣にしゃがむ。「もう帰ろうよ。宝物もいっぱい見つかっただろ」兄の言葉はまるで耳に入らないようで、アリョーシャは黙り込んで、魅了されたような目で切り株を見ている。
 スメルジャコフは、地面にしゃがみ込む兄弟を後ろからじっと眺めている。無防備な後ろ姿。今思いっきり背中を押したら二人とも簡単に地面に転がるだろう。アリョーシャの服は泥だらけになるし、イワンは切り株に顔をぶつける。歯を折ってしまうかもしれない。それにはほんのちょっとの力でいい。もちろん、しないけれど。
 気が済んだのか飽きたのか、アリョーシャが突然立ち上がった。両足でぴょんぴょん跳ねるようにして母屋に向かう。何なんだ、と言いながらイワンが立ち上がる。
「行こう」
「はい、坊ちゃん」

 

 

いつまでも汚れた手

 鉈を振るうミーチャを最初は皆恐れた。父親殺しのドミートリイ・カラマーゾフは、自分が父親の頭を割ったのも忘れてしまったみたいに、本当に腹の立つ親父だったが、まあ死んじまったのは本当に気の毒だよ、と言い、葬式に参列できなかったのを悔いる。何を考えているのか分からない、不気味なやつだった。しかし、それ以外はごく普通の地主の息子だった。周りも慣れてくると、時々横流しを頼むようになった。木を切り倒した後で枝を払うのは、今やすっかりミーチャの役割になっていたが、見張りから見えにくいところに落としてほしいという。
 枝と言っても太いのは若木くらいの太さだ。監獄で使う薪や材木は、囚人たちに調達させることになっていた。囚人たちはその一部をより分けて、近隣の住民にこっそり売って小遣い稼ぎをしていた。それを元手に煙草や酒の密売をするのである。その一部はミーチャの元にも届けられた。こういう「謝礼」については多いことも少ないこともあったし、一つもないこともある。一つもないときは、看守に見つかって全員没収されたのである。そうするとしばらくは止むのだが、ほとぼりが冷めるとまた始まる。
 親父もそんな風に叩いたんですかい? と、木に鉈を振り下ろすミーチャに囚人の一人が尋ねる。もうすぐクリスマスだった。囚人たちの間にどことなく開放的な空気が漂っていて、こういう、垣根を越えるような軽口も飛び出す。
「いいや」とミーチャは答える。「俺は親父を殺してないよ。殺したいと思ったし、今もそう思ってるが」
 ミーチャの答えはいつも決まっていて、この言葉を聞きたいがために囚人たちはミーチャに尋ねる。
 近頃ではミーチャは小遣い稼ぎに協力する代償として、密輸品の横流しではなく、手紙を所望するようになった。手紙は枝と一緒に住民に渡され、郵便馬車と共にシベリアを出て、時間をかけて配達される。手紙が返ってくるのはもっと時間がかかる。グルーシェンカはまめに手紙を寄越した。弟たちからは来たり来なかったり。カーチャからは一度も返ってきたことがなかったが、ある日、アガーフィアから手紙が届く。
 アガーフィア・イワーノヴナ、カーチャの姉さんの、素朴な娘。手紙は「あなたが有罪になって良かった」という一文から始まっている。
「あなたが有罪になって良かった。これであなたに長い間会わずに済みますから。私はあなたをずっと許せないのです。あなたが妹を捨てたからではありません。あなたが私に妹を寄越させたから、最敬礼で妹を見送ったからです。あなたは私たちを好きにできたし、実際に好きにしたのです。これが私があなたを憎む理由です。あの子が私から無理やりあなたの伝言を聞き出した時、私は密かにそれを望んでいたのかもしれません。あんな子、どうなってもいいと思っていたのではないかしら、と何度も思いました。でも、あの子が帰ってきて、あなたの行いを聞いたとき、私も、あなたも許せなくなった。
 あなたにはこのことが分からないかもしれません。分かっても分からなくても私のところに来ないで下さい。手紙も寄越さないで下さい。あなたが私の前で膝をつき、許しを請えば、私はあなたを許してしまうでしょう。返事が来たら読んでしまうかも。でも、そうしたくは無いのです。分かって下さいますね?
 あなたはいつか罪を許されて、牢獄から出るでしょう。神様はあなたの罪をお許しになるでしょう、だけど私にだけは許されないでいて下さい。罪で汚れたままでいて下さい。お願いね。」
 アガーフィアとは、カーチャと婚約してすぐの頃に会ったのが最後で、もう随分長い間顔も見ていなかった。手紙の文字は端正だったが、お手本めいていて幾分か堅苦しい。こんな文字を書く人だったのかとミーチャは驚いた。何も知らなかった。快活で、昔ながらのロシア美人と言った感じのアガーフィア。何度も手紙を読み返して、点呼の時間になってようやく仕舞う。自分がめちゃくちゃにしてしまった友情は、あっけなく折り畳まれて手の中に隠された。

 

 

火を囲む

 夏は夜が明ける頃に起きて台所に入り、窓から入る薄い朝の光を頼りに火を起こす。スメルジャコフは調理に取り掛かる前に黒パンを切って、昨日こっそり取り分けておいたザクースカを挟んだ。モスクワから帰って調理の一切を任されるようになって以来ずっとこうしている。朝食は別に準備するが、それだけではとても足りない。
 即席サンドウィッチをかじりながら野菜を切っていると、台所の扉がガタガタと鳴って、イワンが入って来た。やけに疲れた顔をしている。昨日のシャツにナイトガウンを引っ掛けている所を見ると、寝ていないのかもしれない。「何かないか」と言いながらイワンは勝手に台所へつかつかと入った。スメルジャコフが返事をする前に、テーブルに出していた黒パンをつかみ、ナイフで切ってそのまま口に運ぶ。立ったままもさもさとパンを食べている坊ちゃんを、あっけに取られて眺めながら、スメルジャコフは「何か作りましょうか」とやっと言った。
「いや……」
とイワンは首を横に振る。椅子をすすめると、素直にすとんと腰を下ろした。椅子と言っても作業用に使っている、四角い板に脚がついただけの、背もたれもない小さな台だった。イワンの体重を受け止めて、古い椅子がきいと鳴った。
 黒パンを持つ手はインクで汚れている。全体的に何となく汗じみて薄汚れていて、見ていて落ち着かない。スメルジャコフは、片手鍋を出し、ワインとスパイスを入れて遠火にかける。そのそばからイワンは勝手に黒パンをもう一枚切って、煮炊きの火を眺めながらもぐもぐ食べている。口に水分がないからいつまでも咀嚼している。何か考え事でもしているのか、単なる寝不足か、目の焦点が合わないのが不気味だ。
 温めたワインをコップに注いで出す。余った分は自分のコップに入れて飲んだ。調理用だからあまりいいワインではない。スパイスを入れたのは味を誤魔化すためだ。イワンは黙って安ワインを飲み、手に持っていた黒パンの残りを流し込んだ。「朝食まで少し眠る」と言って出て行く。台所仕事はいつもの軌道に戻る。スメルジャコフは、サンドウィッチを齧りながら朝食を仕込む。
 イワンがスメルジャコフの「朝食」に気づいたのは、台所に通って三日目だった。「お作りしましょうか」と言うと「いい、胃が重くなるのは嫌いなんだ」と断る。その声の響きは、どことなくわがままな、少年のような強情さを含んでいた。

 

 

小鳥と墓

 あまり見かけない顔だった。年は十七、八くらいで、気の強そうな顔立ちを、頬に散るそばかすが幼く見せている。その墓に時折花が供えられているのをイワンも見たことがあった。花の主にはまだ会ったことがない。外出ができるようになったのも、ここまで長く散歩するようになったのも最近のことだった。
 奇妙なことに、その少年は墓の前に立って小鳥に餌をやりながら、まるで仇を前にしたような厳しい顔をしていた。少年の周りには、小鳥たちが輪を描いて、彼のまいた粟粒をつついている。それなのに、彼は小鳥にはまるで上の空で、墓をじっと見つめている。飛来する鳥が墓や周囲の地面に糞を落とす。
「あの子はね」と、いつのまにか近くに来ていた男が言った。服装からして修道院の関係者ではなく、墓守のようだった。
「感心な子なんですよ。母親を楽にさせてやりたいって自分で奨学金を取りに行って、それで今はモスクワで勉強をしているんですが、休暇の折にはああやって帰ってきてね。あの墓はあの子の友達のものなんですよ。本当にいい子でした。ほんの子供の時に亡くなって……肺の病でね。それで、あの子はああやって餌を撒いてるんです……友達が寂しくないようにって!」
 墓守は話しながら、少し涙ぐんでいるようだった。イワンは、それならなぜ、彼はあんなにも険しい顔をしているのだろうと思った。だが口には出さず、挨拶をして散歩に戻った。
 帰りに再び墓の前を通ったが、少年はいなかった。さっきあれほどたくさんいた小鳥たちも、今はもう一羽もいない。小鳥の糞で汚れた墓は綺麗にされていて、リボンできちんと結えた白い花が置かれている。いつもの花と違い、どこか潔癖で寄せ付けない雰囲気を持っていた。あの少年が備えたのだろう、とイワンは思う。それから少年の険しい横顔を思い出して、なぜか胸が締め付けられる。
 少年はかつてのコーリャ、ニコライ・クラソートキンだった。イリューシャの死から数年が経ち、彼も幾分か大人になっていた。数年の歳月は、彼の才気走った高慢さを幾分か和らげ、慎重で思慮深い性格にしていた。だが、内側の鋭さはより研ぎ澄まされ、密かに自分のためだけの思想の種を育てていた。もし彼が、あの時のコーリャ、もうすぐ十四歳になるコーリャだったなら、アレクセイ・カラマーゾフにこう言ったに違いない。
「ねえ、どうして僕は小鳥に餌なんかやってるんでしょうね? 墓を汚すと分かっていて……イリューシャがそう言ったから? だけどイリューシャはもういないじゃないですか。カラマーゾフさん、僕はなんて馬鹿な子供だったのでしょうね。イリューシャと和解したのはあいつが死ぬほんの数日前だった。もっと早くに行っていればよかったと、そう思いますよ。掛け値なくそう思います。完璧なところを見せてやりたかったんです。ええ、僕が完璧なところをね……! ジューチカのことなんか本当はどうでもよかったのに。カラマーゾフさん、不死も神もあるということは証明はされていないけれど、それは案外、僕のような愚か者のためにあるのかもしれません。僕のような愚か者の後悔を、ほんの一時慰めるためにあるのかもしれません……」
 けれども、この時クラソートキンはもう十四歳ではなかった。アレクセイ・カラマーゾフとは付き合いを続けていたが、お互い前とは違っていた。だからクラソートキンは、そのことを誰にも言わずに、ただ黙々と、彼の友人の墓の周りをほんの短い間、小鳥で満たすのだった。

 

 

カラマーゾフ兄弟

 会ったことのない兄がいる、とは聞いていたのだが、どんな人間かはほとんど知らなかった。父の前妻の子で、軍関係に進んだ。それ以外のことをイワンは進んで知ろうとせず、人に家族のことを話さなければならないような時、長い間兄弟はアレクセイ一人だった。それもずっと会わない、疎遠な弟だった。
 兄から手紙が届いた時に、礼儀に則った文章と飾り気のない筆跡に、少しだけ希望を持った。初めて会った時は、大股の歩き方と時々馬鹿みたいに大声を上げるのに、鈍感な粗暴さを嗅ぎつけて距離を置いた。この時はどうやら向こうも猫をかぶっていたらしい。今やすっかり胸襟を開いている。できればもう少し取り繕ってほしいのだがとイワンは思う。思うだけでなく言ってみたのだ。もう少し、父親に対してただ反発するのではなく、いわば搦め手、懐柔策で行ってはどうか、条件をつけるにしろこれでは話し合いにならないと。すると兄はいたく怒り、自分の金なのになぜ下手に出るんだと怒鳴った。
 その頃はイワンもまだこの新しい兄弟に対してはある意味遠慮していて、同情も多少なりともあって宥めてやったのだが、兄のこだわる誇りやらはさっぱり理解できなかった。頑固で面倒臭い。カテリーナは「純粋な」人だというが、ただ周りが見えていないだけではなかろうか、と思う。
 帰郷後、父の家に滞在していたイワンは、吝嗇で嘲笑的で、わざわざ品のないやり方で人を揶揄うこの父親を、ある程度コントロールできていることに、密かな満足感を覚えていた。腹の立つ男だが、話が通じないわけではない。むしろ実務的で切れる。何かしら利益を示せば交渉の余地はありそうだった。だから感情的に通す兄のやり方に余計に苛立った。
 それで今は、逃げ遅れた。馬鹿なことをしたと思う。なぜこんな面倒なことを引き受けたのだろう? 激しやすく直情径行の兄と、馬鹿のふりをしてのらくら交わしている父、いつの間にか金から女に争いの重心が変わっていた。粗野ではあるが礼儀はわきまえていた兄は頭に血がのぼって身を持ち崩し、のらくらかわしていたはずの父親は本気で兄と対立している。交渉とか調停のつもりで来たのに、今は全く身動きが取れない。
「ああ、イワン」とドミートリイは弟の肩でおいおい泣きながら言った。肩に染みる涙が気持ち悪いので、すぐにも席を立って逃げたかったが、兄にがっちりと腕を捕まえられているので逃げようにも逃げられない。「なんでこんなことになったんだろうな?」それはこっちが聞きたい、と思いつつ黙っている。応答すれば兄の嘆きが長引くのは、今までの経験から学んでいた。だからじっと耐えている。
「俺たち報われないよな、親父はもういいよ、あの人には最初から期待してなかったからな。けど愛する女がこっちを向いてくれないのは、どうにも堪えるんだよ……!」
と兄は泣く。同じにするなとイワンは思う。思いながら、兄の腕を振り解けないでいる。おそらく今、この時だけは、イワンは同情が欲しかった。カテリーナへの情熱は、イワンにとっては真摯で悲劇であったが、はたからみれば全く滑稽な「カラマーゾフ劇場」でしかないのも自覚していた。今この時、イワンのことを心の底から憐れんでくれるのは、世界中でこの大嫌いな兄しかいない。出会って二ヶ月の兄は阿呆だったが、涙に嘘はないのはもう十分に知っている。

 

 

落日

 七歳になったスメルジャコフが任されたのは、下の坊ちゃんの子守だった。大人しい子供ではあったが少々神経質で、何かに驚いたり気持ちが高ぶったりするとひきつった悲鳴を上げて倒れる。兄のイワンは、弟の面倒をそれなりに見てはいたが、気の向かない時や他にやりたいことがある時には置いていく。イワンも七つで、もう兄弟べったりの時期は過ぎたのだ。それでスメルジャコフに弟の方の世話が回って来た。旦那様の三人目の子供で奥様の二人目の子供。奥様は、彼を産んでからいよいよ床に臥せりがちになって、寝室から出てこない。だから一日に一度、奥様のところへアレクセイ坊ちゃんを連れて行く。
 奥様のいる寝室のある母屋にも旦那様は平気でいかがわしい女たちを連れ込んだし、酔っ払って騒ぐ声は常に廊下まで響いていた。時々出てくる悪い病気だ。そうやって家の中をめちゃくちゃにしないと気が済まないような時が、旦那様にはあるらしい。養父がいれば早々に追い出されただろうが、今は買い物か何かで出払っている。スメルジャコフはお構いなしにアレクセイ坊ちゃんの手を引いて、静かになることのない廊下を歩く。廊下には服が落ちているが、平気で踏んでいく。絹やレースに二つの靴跡がつく。
 奥様の部屋をノックして扉を開く。なぜか恥ずかしがって入口でもじもじしているアレクセイ坊ちゃんの背中を押して中に入れる。奥様は臥せってはいるが眠っていることは滅多になく、せいぜいうとうとするくらいだ。子供のノックでも目の覚める短い浅い眠りを繰り返している。「パーシャ」と体を起こしながら奥様が呼ぶ。「あなたも入って、早く扉を閉めて」震える声で言う。
 スメルジャコフが扉を閉めると、奥様はほうと息をついた。痩せた肩が下がる。騒ぐ声は扉越しにも聞こえていたが、人が部屋に何人もいる方がまだ響かない——そう思っているみたいだった。奥様はアレクセイ坊ちゃんを抱こうとしたが、ベッドの上に持ち上げることができない。スメルジャコフが抱き上げ、奥様の寝台に座らせる。
 奥様はアレクセイ坊ちゃんを胸に抱きしめて、何か話しかけるでもなく、ただ髪を撫でている。坊ちゃんは指をしゃぶりながら、されるがままになっている。
「ワーニャは元気かしら」と奥様が呟く。尋ねられているのだと気づかずにそばに立っていると、奥様がもう一度言う。
「ねえ、パーシャ。ワーニャは元気かしら」
「はい」
とスメルジャコフは慌てて言う。イワンは変わらない。健康で賢い子供だ。そう、と奥様は呟き、アレクセイ坊ちゃんを見つめたまま、スメルジャコフに手を伸ばした。手探りで捕まえると、引き寄せて、アレクセイ坊ちゃんと一緒に胸に抱く。掠れたような、薬くさい呼吸が間近に聞こえる。
 がちゃん、と何かが割れる音と共に、どっと笑い声が上がる。奥様がぎくりと身を震わせ、息を飲んだ。スメルジャコフが奥様の手から逃れた瞬間、坊ちゃんの方がひきつった悲鳴をあげて体を強張らせる。奥様は奥様で、目を見開いて一点を見つめている。発作を起こす前兆だった。スメルジャコフは、養母の名前を呼びながら部屋を飛び出した。階段を降りたところで、落ちていた服を踏んづけて滑って転ぶ。「やだ、坊や」と部屋から出て来た半裸の女が言う。「大丈夫? 怪我ない?」スメルジャコフは女を無視して立ち上がる。顔には嫌悪と侮蔑の表情が浮かんでいる。
 騒ぎを聞きつけた養母が召使い小屋から飛び出してくる。買い物から帰ってきた養父が女たちを追い出す声を聞きながら、養母と共に、倒れた母子を介抱する。「アレクセイ坊ちゃんを連れて出て」発作から回復した坊ちゃんをスメルジャコフに背負わせ、養母はなおも体をこわばらせる奥様に、気つけやらマッサージやらを施している。
 階段を降りる間、アレクセイ坊ちゃんはぐずって背中の上で暴れ、スメルジャコフの髪を引っ張った。追い出される女たちの間をすり抜けて母屋を出ると雨が降っている。「坊ちゃん、暴れないで下さい」泥の上に落としてやろうかと思いながら坊ちゃんを召使い小屋に入れてシーツで包み、寝床に突っ込むようにして寝かせる。
 イワン坊ちゃんは、いつからそこにいたのか、部屋の隅に背中をくっつけてしゃがみ込み、本を読んでいる。表紙は擦り切れて、綴糸も外れかけている。本当はもうとっくに覚えた本だった。坊ちゃん、と呼ぶと、イワンが本から顔を上げた。ちょっとつついただけで割れそうな、薄いガラスみたいな瞳がスメルジャコフを見つめる。
 母屋の方からまた何かが壊れる音がした。イワンのガラスみたいな瞳が揺れる。スメルジャコフは、鼻を一つ鳴らすと、イワンのすぐそば、体が触れるくらいのすぐそばに腰を下ろした。壊れかけた本を、すがりつくみたいに両手で握りしめながら、泣き出す寸前のような荒い呼吸をイワンが繰り返している間、スメルジャコフはそばにじっと座っていた。

掌編集その4

兄弟、近づきになる

「はじめまして。あなたがイワン・フョードロヴィチ? ああ、やっぱり、思っていた通りですよ! 思っていたそのものじゃないけど、やっぱりその通りだった。おっと失礼、僕がドミートリイです。手紙を受け取りましたよ、色々尽力してくれてありがとう。それにしても何か奇妙な感じですね!」
 初めて会った兄だというその男は、せわしなく立ち上がり握手を求め、その間もひっきりなしに話し続けていたが、そこまで言うとふつりと突然黙り込んだ。興奮に駆られて一日の出来事を事細かにおしゃべりしていた子供が、ふと来客か何かに気づいて黙り込んだみたいに、閉じた口元からはにかんだような微笑みが広がった。
 確かに奇妙には違いなかった。会ったことのない兄の依頼で彼の婚約者に会い、連れ出されてから一度も帰ったことのない故郷に戻った。兄とはこまめに手紙をやり取りしており、初めて会ったという気はしないものの、かと言って手紙と目の前の男が一致するとは言い難い。手紙の印象では、どちらかと言うと口数の少ない、物静かな男を想像していたのだが。イワンは男の言葉に頷く代わりに、
「フョードロヴィチはやめましょう。ただのイワンで結構です」と言った。ドミートリイの微笑みは大きな笑いに変わり、「ではイワン、よろしく」と快活に言ってもう一度握手をすると、ようやく着席を勧めた。それから彼ら二人は、差し向かいでずいぶん長いこと話し合った。主に手紙で書いたことの確認と、その他書き漏らしていた細々した情報の共有だったが、今の暮らしだとかモスクワでのこととか、雑談も交えて周囲が薄暗くなるまで話し込んだ。開いた窓から入る風がかなり涼しくなったことに気づくと、ドミートリイは話を中断してイワンを夕食に誘った。イワンは、ドミートリイの言うことが断片的で確証がないのに不安を覚えはじめていたが、その誘いを受けることにした。イワンは実家に居を定めていたが、父はああだし、召使いたちはよそよそしいのに、例えばイワンの好物だとか、幼い頃のお気に入りの部屋の装飾だとか、そういう瑣末な部分については妙に馴れ馴れしく、あらゆる点で気詰まりだった。
 遅くまでやっているという食堂へ行く道すがら、ドミートリイはしばらく最初に言葉を交わした時のように、気恥ずかしげに黙り込んでいたが、突然「弟がいるというのはどういう感じなんですか?」と尋ねた。あまりにも唐突だったので、最初の方を聞き逃したイワンは不躾にも「何ですって?」と聞き返した。
「その、弟がいるのは……つまり小さい頃から弟がいて一緒に暮らしているというのは、どういう感じなのかと思って」とドミートリイは言った。その質問があまりに脈絡がないので、イワンはしばらく頭の中で吟味していた。どういう感じと言われても、アリョーシャとは十年近く前に離れている。すぐには思い出せず、結果として、イワンはドミートリイの言葉に重い沈黙で答えた。それをどう取ったのか、ドミートリイは「ああいや、同級生に弟のいる奴がいましてね! 休みになるとそいつの家に遊びに行ったもんです、中学の頃の話ですが……母親は違うらしいんですが、仲のいい兄弟で、僕たちが遊びに行こうとすると弟がそいつの後ろをついてくるんです。そいつは弟のことは時々邪険にしてましたし、喧嘩もよくやってましたが、僕は羨ましくて、そんなことを思い出したものですから」と、腕を振り回しながら言った。
「そうですね」とイワンは言った。「私はあなたのご学友の気持ちが理解ができますね……兄弟とは言え他人ですから、いつも一緒にいるとなると鬱陶しく思うこともありましたよ」
 言いながら、イワンはしばらく思い出さなかったアリョーシャの、ごく小さい頃のことを思い出していた。大人しく、その癖わがままで頑固で、時々母そっくりの発作を起こして周りを慌てさせた。自分の発作のせいでピクニックに行けなくなったのに、それに納得できず、荷造りをして子供部屋を抜け出したこともあった。アリョーシャが神に仕える道を選んだと知ってから、この弟はイワンにとってすっかり向こう側の、つまり信仰側の人間ということになっていて、昔のことも忘れていたのだったが、にわかにそういう、小さな頃の些細な出来事、喧嘩とか、好物とか、一緒に寝ていておねしょをされたことだとかを思い出した。
「そういうものかな」
「そうでしょう! 兄さんだって、僕たちとずっと一緒にいたらきっとうんざりしたと思いますよ」
 考え事をしながらだったせいか、兄さん、という言葉がするりと出てきたことに、他ならぬイワンが一番驚いた。ドミートリイは、「それでも俺は羨ましかったよ!」と嬉しそうに言った。
「わがままで生意気ですよ。年下だからあなたが加減してやらなきゃいけませんし。それが四六時中ついて回るんです」
「わがままで生意気でも……ああ、着いた。ここかな、よければ昔の話を聞かせてくれませんか、食事をしながら……何しろ今、僕はあなたたちのことなら何でも知りたい気分なんだ!」

 

 

とりかへばや

 運命のいたずら、と言うならこんなにひどいいたずらもない。同じ町の二人の女にドミートリイ・カラマーゾフの出した二通の手紙は、取り違えて届けられた。つまり、元婚約者のもとには恋人宛の手紙が、恋人のもとには元婚約者への手紙が。こんないたずらをする運命とやらはどんな意地悪な顔をしているか知らないが、とにかく口を引き裂かれるがいい! すっかり開封した手紙を手に、ドミートリイの元婚約者、カテリーナ・イワーノヴナは唇を噛む。
 グルーシェンカへの手紙は、ほとんど丸っきり恋文だった。監獄で、時間に追われて書いたらしい乱れた筆跡は、切実な慕情を告白している。カテリーナは怒りが湧いてくるのをぐっと喉に力を入れてこらえた。ドミートリイに対してではない。シベリアからの手紙と聞いてろくに宛名も確かめずに開けた自分、最初の数行で宛名違いだと気づいたのに、最後まで読み通してしまった自分にだ! 「下衆だわ!」とカーチャは小さく呟いた。窓ガラスに青ざめた自分の顔が映っている。この手紙をどうしたものか。グルーシェンカへ返さなくてはならないのはわかっている。しかし、開封した手紙をどう説明しよう?
 一方のグルーシェンカは、一目見て宛名が自分ではないのに気づいていたが、あのお嬢さんのところにわざわざ使いをやるのも気が進まず、仕事机の上に置いたまま、まるで手紙なんかないみたいに無視していつも通りの金勘定を進め、夜になって食事も寝る支度も済ませてから、手紙を手に取りおもむろに開封した。
 私じゃなくてあの女にまず手紙を出すなんて! 手紙を置いて無視していたのも、開封したのも、根っこにあったのはドミートリイへの怒りだった。自分も嫉妬深いくせに、私の嫉妬はどうでもいいんだから。やきもち焼きの女がどんなに恐ろしいか、思い知るがいい! 気に入らないことを書いていたら捨ててやる。そうして知らんぷりしてやる、とグルーシェンカは鼻息荒く手紙を読み進めた。ミーチャの手紙は作法にのっとり礼儀正しく書かれていた。といってよそよそしいのではなく、真心のこもった手紙だった。あの人こんなのも書けるんだ。真摯な謝罪の言葉、弟のこと、罪のこと。グルーシェンカは思わず手紙を胸に抱いた。
 返さなくては。でも、開けた手紙をどう言おう? あの女はきっと自分を軽蔑するに違いない。世界中の誰に唾を吐かれるよりも、あの女から見下げられるのが堪える。しかし彼女は長く悩まなかった。いずれにせよ返さねばならないのだから、さっさとやった方がいい。何もしないのは死人と同じだ。
 さて翌朝、カーチャの方は、医師から勧められて日光浴をしているイワンの前に膝をつき、痩せた手を握りしめた。この頃イワンは時々病床から起きるようになっていた。「愛しているわ、ワーニャ」イワンの方は、彼女の瞳に昨日はなかった並々ならぬ覚悟が見えるのに気づいているのかいないのか、いつもように何も言わず、その手を取って指先に接吻した。
 重要な話があるのでそちらを訪問したいという旨のグルーシェンカの手紙が届いたのは、カテリーナが外出の準備をしているところだった。カーチャは下着のままそれを読み、それには及ばず、自分も訪問しようと思っていた、こちらも非常に重要な話があるからという内容の返事を書いて使いに渡した。
 使いから返信を受け取り、客の来るまで、グルーシェンカは自分と我が家を極力磨き上げた。と言ってもごてごて飾り立てるのではなく、すっきりと品よく、そっけなく見える寸前まで、装飾は最低限にした。ドミートリイの手紙を応接間の机の上に置いた時、カテリーナの訪問が告げられた。「来たわ!」グルーシェンカは顔を青ざめさせて鋭く呟いた。
 応接間に通されたカテリーナは、色の失せた唇を引き結んでいたが、机上の手紙を見ると小さくあっと叫んだ。そして隠しから手紙を出すと、物も言わずにその隣に置いた。今度はグルーシェンカがあっと言う番だった。二人の女は瞬時に視線を交わすと、同時に手を伸ばし、お互いの正しい手紙を手に取った。開けて中を確かめたかったが、この女にそれを見られたくない。膠着状態に陥りかけたその時、マクシーモフ老人が口を開いた。この老人は、カテリーナ訪問のかなり前から応接間の椅子にちょこんと腰かけていたのだが、女たちの視界から完全に外れていたのである。
「奥様方、どうですかな。お茶の来る前に中身を確認してみては? サモワールはカンカン沸いてますがね、お茶が来るのはもう少しかかりそうですし、お茶が来てはその暇もないですからね、へ、へ!」
 老人は色艶のよい顔に満面の笑みを浮かべ、ついさっきまで大勢と楽しいおしゃべりをして来たみたいな、陽気な調子で言った。女たちはもう一度目線を交わす。
「そうね」
「そうしましょう」
 同意すると二人は即座に手紙を開け、貪るように読んだ。なんて手紙! ようやく私の元に戻って来た。二人ともお互いのことは忘れ、恋人からの、あるいは友人であり兄である人物からの語りかけに耳を傾けた。後悔、愛情、悲哀に満ちた手紙の末尾、金のことに触れた部分に来ると、二人はため息をついた。
「それで、元通りというわけね?」とグルーシェンカは、この女もよくよく嫉妬深いものだと思い、「ええ、そういうことですわね」とカーチャも、この抜け目ない女でも慌てることはあるのかと思いつつ頷いた。「お茶はいかが?」カーチャが何か言う前に、マクシーモフ老人が「いただきましょう」と頷いた。
 お茶をいただいた後、失礼にならないぎりぎりの短さで、カテリーナは席を立った。辞する時には、グルーシェンカとマクシーモフ老人に礼儀を尽くした挨拶をした。短い訪問の間に、グルーシェンカがすぐにもシベリアに発たないのは、この老人がいるからだ、という町の噂を思い出した。もちろんカテリーナは、噂通りグルーシェンカが老人を慰みにしているとは思わなかったし、それを言った者は自身の心の中の「絶対に信用しないリスト」に付け加えた。彼女はこの老人のことが心配なのだ。本当に、心の底から。
「マクシーモフさん、わたくし今日はあなたとお近づきになれて本当に光栄でしたわ!」
 馬車に乗り込む前、カテリーナはもう一度老人にお辞儀した。
 それからしばらくして、グルーシェンカはシベリアへ発った。と言っても向こうでの事業の下調べと代理人探しで、すぐに戻って来ると言う。マクシーモフ老人は、その間の留守をフェーニャと共に任された。もちろんこれは、あの女が直接話に来たのではなく、人伝てに聞いた話だが。

 

 

箱の悪魔

「あ」と、イワンが椅子から腰を半分浮かせた。
「それはいい。構うな」
 イワンが言うのは、部屋の床に置かれた木の箱だ。それほど大きくはない。大人なら片手で持てる。ほぼ正方形に近い形で、その辺にぽんと投げ出したように、敷物に対して斜めに置かれている。スメルジャコフは怪訝そうな顔をした。どう見てもゴミだ。あるいは大切なものならちゃんとしまっておけ、とでも言いたげな顔だった。
「それはそれでいいんだ。悪いものを入れてある」
「悪いものでございますか」
 スメルジャコフは箱を上から覗き込むようにした。蓋があるから当然中は見えない。
「では余計に捨てた方がよろしくありませんか」
「そのままにするのがいいんだ……そうやってどうでもいいものみたいに置いておくのが。わざわざ捨ててしまうほどでもない、そんな存在感もないみたいに扱うのがいいんだ」
 イワンは箱にちらっと目を走らせる。敷物から半分はみ出した箱は、そのせいでわずかに斜めになっている。
「左様でございますか」
 スメルジャコフは従順だった。ふいと箱から目を逸らすと、もうそこには視線をやらない。かと言って蹴飛ばすわけでもない。箱なんて気にも止めていないのに、すいすいと周りを歩き回って部屋を手際よく片付け、花や水や蝋燭やと足りないものを足していく。「父さんは?」
「今日はお戻りにならないでしょう」
「明日はどうかな」
「明日もお戻りになりません」
 スメルジャコフは退室する前に、ふと気づいたように、「あれがそう扱われるべきなら、さっき話題にしたのは拙かったかもしれませんね、イワン・フョードロヴィチ」「うん?」イワンはスメルジャコフの視線の先を追う。箱が部屋の隅にある。初冬の寒々しい空気がより一層箱をみすぼらしく見せている。
「あんな箱……」
「イワン・フョードロヴィチ?」
「あったかな」
 スメルジャコフはわずかに顔を歪めて後退り——「冗談だ」とイワンが笑った。スメルジャコフはほっと息を吐く。
「悪い冗談ですよ、おふざけはほどほどにして下さいまし」
「ああ、悪かった」
「箱も冗談ですか」
「いいや」
 イワンは首を横に振る。
「冗談ではないよ。僕は真剣だ。あれには怖いものを入れたんだ。だから開けちゃいけないし、構ってもいけない。部屋の隅に転がしておくのが——」「怖いもの?」とスメルジャコフが口を挟む。「悪いものではなく?」
「……そうだった。でもどっちでも同じことだろう」
「そうでございますね」
「どっちでも……部屋の隅に転がしておくんだ、何でもないみたいに」
「そんなふうに扱うのが当然だと教えてやるのですね」
「そう……」
 イワンは頷きかけてスメルジャコフを見る。スメルジャコフは黄ばんだ目で箱を見ている。部屋の角にぴったり置かれた小さな箱を。
「あんな箱で足りますか? もっと大きな箱を用意して差し上げましょうか、イワン・フョードロヴィチ」
 表で馬車の音。父が帰ってきた。いや、父は帰ってこない筈だ。今日も明日も。いつから帰ってこない? スメルジャコフに尋ねればわかる。彼は何でも知っている。玄関が開き、父が屋敷に入ってくる。箱は窓の下にある。窓から昼の光が差し込んでいる、一番明るいところの下の、一番暗い影の中にいる。今は何月だろう。「十一月でございますよ」とスメルジャコフが答える。「もうあれから一年が経ちました」イワンの背後で言う。「そんなこともお分かりにならないので?」分からない。全部箱の中に入れてしまったから。

 

 

花束を贈ればよかった

 花は庭にも家の中にもたくさんあった。庭も家もアガーフィアのものではなく、全部お父様のもので、いずれ彼女のものになるということは決してないのも理解していたけれど、別に良かった。花そのものは誰のためでもなく、季節になれば前の年と同じように咲いたし、見るだけならば誰のものでもなかった。
 それに花ならどこでも咲いている。菓子と冷菜と酒瓶を携えて、ドミートリイ・カラマーゾフと一緒にピクニックと洒落込んだ日、数日前の雨のおかげで野原には、あちこちに花びらをピンとはらせた夏の花が咲いていた。酔っ払って気分をよくしたミーチャが、茎の長い雑草を一本折って、楽隊の指揮者の真似をしてマーチを歌い出した。彼は式典の時みたいにまじめくさった顔をしていて、それがまた面白くてゲラゲラ笑っていたら、つられてミーチャも吹き出した。「ひどいぞ! 最終小節まで行かなかったじゃないか!」と言いながら笑っている。二人で笑い転げていたら、いつの間にか花畑に足を踏み入れていた。夏の、雨上がりの、本当に天気のいい日にだけ現れる花畑。あたり一面が、色とりどりの花でいっぱいになっていた。息苦しいほど賑々しく咲いた花々も、数日もすればしぼんで雑草に飲まれてしまう。
「きれいだな!」ミーチャが切ないくらいに感激した口調で言って、花を摘み始めた。「花束にする。花束が欲しいんだ」
 アガーフィアは酒を飲みながらそれを見ていた。最初はまた何か面白いことが始まった、とにやにや笑いながら見ていたのに、だんだん心配になった。ミーチャは一心不乱に、全く手当たり次第に、時々むしりとるみたいにして花を摘む。彼女は家畜が牧草を幅広の口でくわえ、一心にちぎり取るのをふと思い出した。
「ねえミーチャ、もうその辺にしておきなさいよ」
 ミーチャの肩を叩いて止める。彼は片手につかんでいた花を見て、あっと叫んだ。ドミートリイの摘んだ花は、あんまりきつく握りしめていたので茎が折れていたし、手の熱でくったりしおれていた。タンポポ、ツリフネソウ、ヒナゲシ、スイバ。その他ミーチャが摘んだ花たちは、全て地面に咲いていた時の生命をなくしていた。ミーチャはしょげ返り、花がどうにか甦りはしないかと、右手に持ったり左手に持ちかえたりした。その度にちぎれて緑の汁を滲ませた茎が地面に落ちる。
「俺だけの花束が欲しかったんだ」
「わかってる。帰りましょ」
「それだけなんだ」
 ミーチャはしばらく花束を手に握りしめていたが、結局まとめて地面に捨てた。次の日は二人とも二日酔いでろくに起き上がれなかった。しばらくして会った時にはもうすっかり元気になっていた。ミーチャはいつものようによく笑って遊んでいて、花束のこともけろりと忘れてしまったみたいだった。そうだとしても、やっぱり花束を贈ればよかった。
 妹の婚約者となったドミートリイは、酔っ払ってもいないし、手袋を無くしたりもしておらず、真新しい上着にしっかりボタンをかけて妹の隣で神妙にしている。伯母へ婚約の報告をする妹は、いつにもまして使命感にあふれて美しい。アガーフィアは湧き上がる不安を抑えるように、じっと胸の前で腕を組んで遠くから二人を見ている。
 信じていいのよね、ドミートリイ・フョードロヴィチ。
 あの日のドミートリイの行動について、妹は、良心が最後に全てに打ち勝ったのだと言った。アガーフィアには分からなかった。正直なところ、彼が何を考えているのか、いつだって一つも理解できなかった。本当は何がしたくて、何を欲しているのか。本当に妹のことを愛しているのか。本当は誰に愛されたいのか。
 伯母と妹の話が弾んでいるらしく、ドミートリイは所在なげにしている。すぐそばのテーブルには大きな花瓶が置いてあって、温室育ちのバラが生けられている。ミーチャは手持ち無沙汰にバラの花びらを引っ張って、——次の瞬間にあっさり千切れた。慌てた顔で周囲を見回し、花びらを戻そうとする。当然うまく行かなくて、ミーチャは千切れた花びらをこっそりポケットの中に入れた。その一連の動作を見ていたアガーフィアは、さっきまでの不安を一瞬忘れて、くすっと笑みを漏らした。ミーチャの横顔は緊張していて、アガーフィアにも、彼女の様子にも、ちっとも気づいていなかった。

 

 

帰ってこない

 妻が出奔した日、フョードルは生涯で二度目に息子を抱擁した。生まれたばかりの日に一度抱いたが、それ以来、この一人息子を抱きあげたことはなかった。「ほら、ミーチャ、ごらん」とフョードルが窓の外を指す。「お前の母親がいるぞ。俺たちを捨てて出てった女だ」実際には窓の外には誰もいなかった。アデライーダは朝早くに出ていったが、その頃フョードルは酒を飲んですっかり寝入っていた。隣でマズルカを踊られても気づかなかっただろう。三歳になる息子のドミートリイは、抱き上げられて高い位置にいるのにはしゃいでいるのか、けらけらと笑っている。
「おい、お前の母親だぞ、いいのか? え?」
と揺さぶると、フョードルの真似をして窓の外を指差し、「おかあさん!」と言った。「そうだ、お前のお母さんだ、出て行った女だよ。お前から逃げてった女だ」ミーチャに言うようでいて、実際のところは自分に言い聞かせていた。そうやって自尊心の傷をつっつくのは、ぞくぞくする遊びだった。
「おかあさん、帰る?」
「帰らん」
「さんじに帰る?」
「帰らんと言っただろ」
「おとうさんは帰る!」
「帰るも何も俺の家だぞ」
 分からんやつだな、ああ、重い、とフョードルはミーチャを床に下ろした。ミーチャがすとんとその場にしゃがみ込む。ゴミか何かをつまみ上げて、まんまるの頬をぷっくりさせて笑っている。何かよく分からないことをわめくと、そのゴミを父親に突き出した。途端にバランスを崩し、後ろに転ぶ。後頭部が壁にぶつかってごつんと音がした。ミーチャが驚いたように目をみはる。泣くかと思ったが泣かなかった。きょとんとした顔で元の姿勢に戻る。
「お前、ぶつけたんじゃないのか?」
 しゃがみ込んで息子の後頭部を改めると、ミーチャは新しい遊びが始まったと思ったのか、またきゃっきゃと笑い出した。二度目に触れた子供の髪はどんな女のものよりも細く、指からするすると溢れていく。頭蓋骨も耳も全部相応に小さい。唇をつまんで口を開かせると、そこには真っ白な歯が並んでいる。小さな歯も舌も、大人のものよりずっと小さくて作り物みたいに綺麗だ。フョードルは薄気味悪そうにミーチャから手を離した。ミーチャはまた拾ったゴミで遊び始める。よく見れば、それは指輪だった。自分がアデライーダに贈ったものだ。おそらく出ていく時に捨てたのだろう。
「はは! でかしたぞ、倅や」
とミーチャから指輪を取り上げる。ミーチャはぽかんとした顔で父親を見上げ、次の瞬間に泣き出した。フョードルは思わず両手で耳をふさいだ。グリゴーリイを呼び、離れに連れていかせる。「子供がいるとうるさくていかん」自分の仕事の間は絶対に寄越すな、と言って大泣きする息子を外に出した。それから夜まで仕事をした。夕食の席は、久しぶりに伸び伸びとできた。あれがいないからな、とフョードルは思う。あの女。出て行った女。癇気の強いあの女。何か気に入らないと、夫の髪を掴んで引きずりまわしたあの女。あの、とグリゴーリイが言う。
「坊ちゃんはどういたします」
「坊ちゃん?」
「ドミートリイ坊ちゃんです」
「ああ……」
 そういえば昼間に預けたのだったか。どうにかしなければならないのか、と言う考えがちらっと頭をかすめ、子守を雇うとかどこかへ預けるとか、そういう実際的な像を結ぶ前に消える。「あとで呼ぶ」それっきり、ミウーソフ氏がやってくるまで、フョードルは一度もミーチャを自分の元に呼ばなかった。

 

 

よあけのくに

 朝起きるとパーシャがいなかった。そのこと自体はよくあって、勝手に庭に出てうろうろしては、花や実をむしったり小鳥の巣を探したりしているらしい。朝庭に行くと、時々小鳥の巣が落とされて、割れた卵やその中身が地面に広がっている。ところがその日はイワン坊ちゃんまでいなくなっていた。家中探してもどこにもいない。庭にも姿がない。裏口の戸が開いていて、ここから出たようだ。
 ああ何ということ! 裏口の施錠について口論が持ち上がりかけたが後回し。まずは坊ちゃんたちを探さなくては、まずは旦那様にお知らせをしなければ、ああ人手がいる、近所の人を呼んで来て——というところで、近所に住む百姓女に連れられて二人が帰って来る。寝巻き姿で、百姓女の古ぼけたショールに包まれている。迷っちまったみたいで、朝起きて外出たらそこを歩いてたんです、あまり見かけない子供だもんでびっくりして、おまけに寝巻きだったもんで、と女はつらつらと切れ目なく話す。マルファは女の話を切り上げさせ、ショールを返し、いくばくかの礼を握らせた。
 ショールを剥がれた二人はそれぞれ母屋と召使小屋に連れて行かれる。どこへ行ってた何のつもりだとパーシャは叱責されるが一言も口をきかない。だから手が出たがやっぱり言わない。グリゴーリイの頭にいよいよ血が上った所でマルファが止める。怒りの矛先は裏口の施錠に向かい、派手な喧嘩が持ち上がる。
 どこへ行ってたなんて、神様に尋ねられたって答えられない。夜明け前、大人たちが目を覚ます前、二人は庭にいて、裏口が開いているのを見つけて一緒に出て行った。そしてまだ薄暗い裏道が、だんだんと明るくなる中を、鳥や蝶々が起き出して飛び交う中を、犬が吠えて家畜たちが眼を覚ます中を、自分たちがどこにいるか分からなくなるところまで歩き回った。どこに行こうとか、そんなのどうでもよかった。
 養父母が言い争う召使小屋を出て、パーシャは井戸端に行く。水を汲んでハンカチを濡らし、ぶたれた頬を冷やす。母屋の窓は旦那様の部屋以外、どこもカーテンが下がっている。石を投げると壁にコツンとぶつかる。もう一つ、今度は窓目掛けて投げる。だけど誰も出てこない。みんな滅びたみたいに静かだ。

掌編集その5

くるみのその後

 ミーチカ・カラマーゾフの1フントのくるみの話は、ゴシップ紙の小さなコラムに掲載された。お涙頂戴の埋草として読み捨てられる運命にあったエピソードに、よせばいいのに目を通した彼は、なんて単純な男なのだろうと苛立った。彼はミーチャと同じ連隊の所属だったが、あまり交流はなかった。というよりは、彼が避けていたのだった。気が合わないのは確実だったし、関わり合いになればミーチャよりも先に彼の方が癇癪玉を破裂させるだろうと思ったからだ。ミーチャが決闘騒ぎで降格になって隊を離れる最後の瞬間まで、積極的に口を利こうとしなかった。正解だったと記事を読んだ彼は思った。
 くるみなんぞ、もし通りすがりの医師にもらったとしたら、自分ならきっとみじめな気持ちになるだろう。誰にも顧みられない、かわいそうな子供として哀れまれたことを、おそらく一生許さない。医師ではなく、そうやって哀れまれる自分のことを許せない、と彼は思った。だからカラマーゾフは嫌いなのだ。
 ところで、ミーチャのもらったくるみであるが、彼は結局、それを全部食べなかった。少し食べて満足すると、自分の寝床のそばに置きっぱなしにした。彼は忘れられた子供であったが飢えてはいなかった。父親の従僕は、主人の忘れた子供にもきちんと食べさせていたし、お茶もきちんと出された。
 忘れられたくるみはネズミが食べた。マルファが見つけた時には、すっかり食い荒らされて糞尿にまみれていた。マルファはぶつぶつ言いながらくるみを捨てた。くるみが捨てられるのを見て、ミーチャはしくしく泣いた。「くるみならまた買って差し上げますよ。でもほったらかしにしちゃいけません」マルファが言う。
 ミーチャは首を横に振った。くるみが惜しくて泣いているのではなかった。せっかくもらった親切を台無しにしてしまったのが悲しかった。大切なものを大切にできないで汚してしまう、自分はそんな下種なのだと、幼いながらに、その言葉は知らなかったけれども、そういう自分が恨めしかった。
 だけどミーチャはそのことを説明できず、従僕の買ってきたくるみを拒否して、わがままな坊ちゃんだと呆れられた。しばらくミーチャは落ち込んでいた。数日なのか、数時間なのか、子供のことだから分からないけれど、そのうちにミーチャはまた、ボタンの取れたシャツで走り回るわんぱく坊主に戻った。

 

 

兄の帰還

 イワンがいなくなった後の凪のような三週間を、アリョーシャはまだ覚えている。兄さんはモスクワのえらい学校へ行くのだということは前々から聞かされていたのに、本当に発ってしまうまで、そうなるとはちっとも思っていなかった。町の学校へ行って、帰ってきて、いつもは少し後にイワンが帰ってくる。いつもの時間を過ぎてもイワンはいなくて、アリョーシャは兄の部屋を訪ねる。中は綺麗に片付けられている。食事の時にもイワンは帰って来ない。アリョーシャが学校であったことを話しても、兄の相槌が聞こえない。虚空に話しかけるのにくたびれて、アリョーシャはやがて黙ってしまった。
 次の日からアリョーシャは、屋敷の部屋を上から順に見て回ることにした。兄がいた頃にも、こんなに隅々まで探検したことはない。入ってはいけないと言われていた場所にも入った。だいたい叱られたが、図書室は、アリョーシャにはまだ早いと言われていたけれど、これを機に許されることとなった。読んではいけないものは、高い場所にある鍵付きの棚に仕舞われた。
 台所。庭。地下。厩。アリョーシャの行動範囲は広く、細かくなった。兄がいないから一人遊びをしていると思われたらしく、会えば今日はどこへ行くの、と家の主人は尋ねる。アリョーシャは首を傾げて、わかりません、と答える。いなくなった兄がどこで見つかるか、アリョーシャにも見当がつかなかった。
 木のうろの中には湿気を吸ってぺしゃんこになった羽毛があった。石をひっくり返すとはい虫が泡を食って逃げていく。庭木から小鳥が飛んできて逃げたはい虫を引っさらう。スミレが咲いている。名前の知らない小さな花が蕾をつけている。花の根元の枯れ草の上を走る蟻を追いかける。アリョーシャの兄探しはだんだんただの探検へとずれていった。屋敷の外の木立や裏路地もアリョーシャの行動範囲だった。
 イワンが発ってきっかり三週間目、アリョーシャはようやく、兄はもういないしいつもの時間になっても帰って来ない、と悟った。兄がいなければこの家には子供は自分だけで、一人で遊ぶのは限界があったから、彼は友達と一緒に野山へ行く。ワーニャ兄さんはどうしたのと尋ねられて、モスクワの学校へ行ったのだという話をする。何をしに? 知らない。勉強しに行くんだって。うげーっ、と友達が嫌そうな顔をする。ここでは教えられることに限界があるから、学校を移るのはどうかという話を、ポレノフさんの知人から聞いた時、イワンは少し嬉しそうだったのを思い出す。
 イワンは時々義務のように自分を愛した。忙しい時はちっとも相手をしてくれなかったし、気が向かなければこっちを見ようともしなかった。イワンの喧嘩は声を荒げない。青ざめたままむっつりと黙って、キンキン声でわめく弟を軽蔑の目で見る。アリョーシャの方はイワンを叩いたり噛んだりした。
 まだ二人が同じ町の学校へ通っていた頃、アリョーシャは帰り道でたびたび道草を食った。脚の長い虫や小さな紫の花、変わった形の石や誰かの捨てた皿の欠片。アリョーシャはそんなものにいちいち心を惹かれて立ち止まる。あれは何、と尋ねるとイワンはさあ、とか分からない、と答える。あれは何、これは何、何て名前なの? さあ、わからない、コガネグモだよ。アリョーシャ、もう手が冷たいね。帰らなくては。あとで調べてあげる。花は摘んだらかわいそうだよ。明日また見にくればいいから……。
 アリョーシャはイワンの朗読する声が好きだった。聖書の朗読を頼むと、自分で読みなさいと言いながら、大抵は読んでくれる。祈り方を教えてくれたのもイワンだった。生家から連れ出された日、イワンはアリョーシャの肩をしっかり抱いて離そうとしなかった。アリョーシャの方は、イワンの体が変に熱く汗ばんでいるのが嫌で、しきりと腕から逃げ出そうとしていた。
 イワンも自分も、もう離れないでいいと分かったから、相手をぞんざいに扱ったのだ。何をしても反撃されないと分かっていたから、アリョーシャが思いっきりイワンの手を噛んだみたいに。もう噛んだりしないから、帰ってきてと手紙を書いたらイワンは何て言うだろう? 最後の喧嘩はもうずっと前なのに。イワンは大きくなって、自分と喧嘩もしてくれない。
 長期休みになればイワンは帰ってくると言われていたけれど、アリョーシャは、本当にそうなると思っていなかった。イワンが発ったときと同じように、イワンが帰ってくるその瞬間まで、アリョーシャは兄が帰ってくるなんてちっとも思っていなかった。

 

 

影の中で

 イワン・フョードロヴィチは礼儀正しく触れる。強く掴んだり、噛んだり、髪や指を引っ張ったりしない。むしろ優しいと言ってよく、遠慮しているふうですらある。だからくすぐったくて、パーシャはしばしば笑いを堪える。そうしながら時々猛烈に腹が立った。この人は、と熱を帯びる腹の中で思う。
 俺のことなんか同じ人間だと思っていやしないくせに。彼は人への触れ方を一つしか知らないのだ。だからこの時だけは、誰にでも優しい。寝床を使うでもなく、ただ壁際に追い詰めてするのが優しい、と言えるならば。だけどそれで構わなかった。誰も入ってくる気遣いはないのに、誰かの目を逃れるように、箪笥の影に隠れるみたいに部屋の隅の暗がりへ自分を連れ込んだイワンの臆病さを、彼は密かに愛していた。

 

 

目覚める

 目覚めると意外なほど気分がスッキリしていた。昨日まで随分と加減が悪く、今日の裁判も行くのが億劫だった。どうせ犯人は分かりきっているのに……。しかし、わかりきっていたとしても、定められた手順を踏んだ手続きが必要なのは確かだ。このロシアの社会には、近代的精神がまだ足りない。兄の裁判は、そういうものとして、つまり、法の精神に則った近代的な裁判としても注目されていた。その中でイワンは、犯人の家族としては注目されていたが、証人としてはそれほど重い位置にはいなかった。そもそも事件当日、彼はこの村にすらいなかったのだから。証言は、取調官の捜査取調べで得られた事実関係の確認に終始するだろう。それが必要な手続きなのだ。
 イワンは顔を洗い、服装を整える。髭をあたり、口をゆすぐ。持ち物を確認して、下宿の戸を開ける。出かける前に、世話をしてくれている老婆に今日の食事を断るつもりだったのに、イワンは部屋に戻り、扉を閉じた。何もかもいつも通りに進んでいるはずなのに、何かがおかしかった。
「なんだ、戻ってきたのかい」洗面台の鏡の前に立つイワンのすぐ後ろに悪魔が現れる。それほどまでに悪魔が近づいていることに、イワンは慄然とする。悪魔はイワンの肩に手を置き、片手で彼の口を塞ぐ。染み付いたタバコの臭いと、中年特有のかさついた体温と、どこか塩気を含んだような肌をまざまざと感じてイワンは総毛立つ。そのくせその手をちっとも振り解けない。大人しく鏡の中の悪魔を見つめている。「あのまま出ていけばよかったのに。裁判は今の君には負担だろう」鏡の中で、悪魔は少しくたびれた微笑みを浮かべている。からかいの調子のない、真面目な声が告げる。
「もし君が望むなら、こうしてずっと塞いでいてあげるよ」
 目を覚ますと体が重かった。イワンは上着に腕を通した姿勢のまま、椅子に座り込んでいた。出発の前に腰を下ろした時に、ほんの少し居眠りをしていたらしかった。頭がガンガンと痛み、止む気配がない。イワンは医師から処方された痛み止めを飲み、目を閉じてしばらくじっとしていた。痛みが少しずつ引いて行く。
「行かなければ」イワンはそう口に出して言い、立ち上がる。そして机の上を見てびくりとした。そこには三千ルーブリが置いてあった。幻ではなかった。イワンは机の上の三千ルーブリに手を伸ばす。指先がぶるぶると震えた。言わなければ……昨夜あったことについて、彼と交わした言葉について。やや丸まってくたびれた三千ルーブリを、落とさぬよう両手で持ち、強張る手でどうにか上着のポケットに収めた。

 

 

お前だけ

「ああ、イワン、可哀想に、あの人は義理堅いから俺とのことが一段落するまではお前に見向きもしないぜ!」と、素っ頓狂な声で言った兄を反射的にぶった。頬を張ると案外綺麗に入ったらしく、高い音と共にドミートリイが少しぐらついた。頬を押さえてこちらを見返す目は細められて、怒りではない別の感情で光っている。その目を見て、イワンは兄がわざと自分を怒らせるようなことを言ったのだと思った。いや、兄のことだから本当に思ったままを言ったのかもしれない。が、頬を張られた兄は、なぜか奇妙にも満足しているように見える。
「はは、ひどくやったな! ほっぺたの内側が切れちまったよ。今日一日しみるだろうな……」
ドミートリイは笑おうとして、痛そうに顔をしかめるから変に歪んだ笑いになる。「お前だけだよ! 俺にひどくしてくれるのはな。みんな優しいんだ、アリョーシャもカーチャも……あの女はひどいが俺に関心がない。親父は別だよ、数に入れないよ。あいつはずるい手で俺を騙したんだからな」
 兄はまるで指揮でもするように、一つ一つ、見えない人影を指さして数えながら言った。イワンはと言えば、いくらデリケートさに欠ける発言とはいえ、兄に対して手をあげたのに驚いていたし、腹を立ててもいた。屈辱ですらあった。殴った手がひりひりするのも責め立てられているみたいだった。それでミーチャがペラペラしゃべるのも、いつもみたいにうるさがって遮らないで黙っていた。何度か痛む右手をさすろうとしたのを、ぎゅっと組んで太ももに押し付ける。
「お前だけだ!」ともう一度ドミートリイが言って、笑って、イワンにキスをした。酔っているらしく酒くさいキスだった。

 

 

回れ左

「や、失敬。失礼しますよ、どうぞ皆さん楽しんで、いやはやすみませんね」
と言いながら男はイワンをぐいぐい引っ張った。イワンはそれに無気力についていく。男はここの客で、顔には見覚えがあった。何かにつまづいて酒をイワンの袖にこぼしたのを、大袈裟に騒いで洗面台まで引っ張ってきたのだった。構うものか、どうせ負けの込んだ台だ。イワンはその時ドイツ訛りの紳士と、あからさまに目の鋭い男とでカードの台についていた。最初は調子が良かったが、だんだんと負け越し、気づくと大きな負けになっていた。そうなるとなおさら立つことができず、イワンは密かに冷たい汗をかきながら座り続けていた。
 男が現れたのはそういう時で、実のところイワンはほっとしていた。憑き物が落ちたような、というのか、あれほどじりじりとした気持ちで座っていたのがばかみたいに思える。賭け金のことはあえて頭の中から締め出していた。今日は運に見放されたが、まだ換金できる債券はホテルの部屋に残っていた筈だ。
 イワンが袖を洗っていると、男がのこのこ近寄ってきて隣から洗面台を覗いた。
「やあ、すみませんね。綺麗にとれそうですか?」
「ええ、シャンパンですからね」
「それは良かった。ここは長いのですか?」
「ええ、まあ……二週間ほどですか」
「そうでしたか。私はすっかり長っ尻で、まあここには何でもありますからねえ。ルーレットなんかはいいですね、赤や黒やって、ベルまで鳴らして賑やかなもんです。しかしカードはねえ、皆じっと座って手札と睨めっこだ。何か秘密めかしたものがありますね、そうじゃありませんか?」
 イワンはポケットからハンカチを取り出し、濡れた手と袖を拭きながら頷いた。正直なところ男の話の中身には興味がなく、半分上の空で、頭の中では金の計算ばかりしていた。
「酒は落ちましたかね? ああ綺麗に落ちましたね、こんなら洗濯に出す必要もなさそうだ。良かったですよ。まあお気をつけなさいな」男は歩き出したイワンに着いて歩きながらしゃべっていたが、洗面所を出たところでさりげなくカード台の方へ顎をしゃくった。「あの男たちはイカサマ師ですよ。グルなんです」
 イワンは思わず自分の座っていた台の方へ目をやり、それからさっと顔を赤らめた。つまり自分はカモにされていたわけだ。憑き物の落ちたような、などと言っていたが実際に詐欺師どもに取り憑かれて、それに気づかないで一人躍起になっていたのだ。運に見放されたのではない——単なる世間知らず! うぶなひよこが喰われかけていただけ、というわけだ(ひよこにしてはとうが立ちすぎているが)!
 男はもう出口から外へ出かけていたが、イワンはそれを追いかけた。男の肩に掴みかからん勢いで追いつくと、「つまりあなたは私の救い主というわけですね!」と言った。男は面食らった顔でイワンを見上げ(男は小柄で、イワンよりもほぼ頭一つ分背が低かった)「救い主なんて大袈裟な」と言った。
「いいえ、まさにそうでしょう。詐欺師の網にかかりかけていたぼんぼんを機転をきかせて連れ出したんですから。手際のいいやり方でしたよ、実際ね! 酒はどこから持って来たんです? あの食堂ですか、酒代はお返ししますよ。あなただってここに慈善活動をやりに来ているわけではないんでしょう?」
 顔を青ざめさせて息を切らして言うイワンに、男は唖然としていたが、最後の言葉にはむっとしたようだった。
「あなたは私をからかっていらっしゃるんですか?」
「まさか! あなたは私の救い主ですよ。からかうなんて、そんなことができますか?」イワンはまた救い主という言葉を強調しながら言った。
「あなたは……どうやら酔っ払っておいでのようですね。それか気がたっているようだ。もうお休みになったらいかがです」
「無論そうします、そうしますよ、恩人たるあなたの言うことを聞くのは私の義務ですから(男はまた嫌な顔をした)……賢明な先達の導きに従うのが愚者に残された唯一の道です」
 男はすっかり気味が悪そうにしていて、後悔の色がありありとその顔に浮かんでいた。イワンはそれを見てようやく溜飲が下がった。
「どうも本当に酔っ払っておいでですね」
「ええ、すっかり熱気に当てられちまいましたよ」
 ほっとした男が、もう休めとか何とか言うのを遮るように、イワンは鋭い笑い声を立てた。「失礼! どうもそういう性分なんですよ、こう言う時に回れ左をしてしまうのが! 昔からの性分で、これはもう根っからなんです!」
 そして本当に男の目の前でくるりと回れ左をすると、賭博場の戸をくぐった。今度こそ男は唖然としていたが、やれやれと首を振って自分のホテルか気に入りのカフェへと足を向けた。イワンはちらと感じたその気配をもう忘れて、人々の発する熱気の中を、今度こそ運をつかめる台を探して足早に奥へ奥へと潜り抜けていった。

 

 

囚人貴族

 ドミートリイ・カラマーゾフの後ろを今日も囚人たちがついて行く。場所取りはいつも争いになっていて、収監された頃から彼の従僕みたいに世話を焼いている強盗犯のミトレイが、訳知り顔で仕切っている。はたから見たら唖然とするような、滑稽な行列だろう。強面の囚人たちが順番に並んで、一人の男を追いかけている! だがここには物見高い連中はいやしない。看守どもも見飽きたとばかりにあくびをしてはちらとも見ない。並んでいる連中は至って真剣だ。ミーチカ・カラマーゾフにカモの子みたいにぞろぞろついてきている連中は皆、彼が金を落とすのを今か今かと待っていた。
 彼の愛人は向こうじゃやり手だった女で、ここでも何か商売をしているらしく、たびたび世話を焼きに来る。看守たちも籠絡して、こっそりミーチカと会っては金を渡しているようなのだが、ミーチカと来たらそれを衝動的にその辺の囚人や子供にやってしまうのだった。
 やってしまう、というのは語弊があるかもしれない。手順はこうだ。ミーチカの囚人服には、彼が手ずから縫い付けたポケットがあるのだが、いい加減擦り切れて穴が空いてしまったのを、気づいているのかいないのか、彼は無造作に何でもつっこむ。金も小石も枝も小鳥の羽も手紙も、とにかく自分が手に持ったもの全部。穴から金が落ちたらしめたもの、それを拾ってこの囚人貴族に手渡すと、「ああ、あんたは正直な人だな! いいよ、いいよ、持ってってくれ、神様の恵みがありますように!」と囚人の手に握らせてしまう(ついでに言うと、ミーチカの手は何年も粗食でいるにしては妙に強くて握りつぶされそうだった)。いつしかできたこの手順を無視して金を落としたのをそのまま自分のポケットに入れるのは、囚人同士の義理に反する恥知らずな行いで、他の囚人たちからぶちのめされる。
 金なら手を握りつぶされかけても文句はないが、小石も羽も枝もそっくり同じ感激調だったから、うっかり小石を拾ってしまった囚人は困惑顔で、そのうち誰も拾わなくなった。監獄の床にはミーチカの持ち込んだゴミが落ちて、誰かが底の薄くなった靴でそれを踏んづけ、ぶつぶつ文句を言いながら格子の外や小水桶に投げ捨てた。それでも彼は飽きずにその類のものを拾い、ポケットの中身を、囚人寝床の自分の縄張りのところに溜め込んだ。
 もう狂っているのだと言う。こんなところに何年もいておかしくなってしまったのだと。そもそも彼は収監された時から殺しを否認していて、最初からちょっとおかしかった。そのくせミーチカの奴は自分の使う金勘定はしっかりしていて、彼の使いでお茶を買いに行っても、釣り銭を誤魔化したら大目玉を喰らう。みみっちいんだか気が大きいんだかわからない。
 さて、今日も阿呆のミーチカは、愛人からもらった金をポケットに詰めて歩き回り、穴からぽろぽろ落とした。キラッと光った気がして、睨みをきかせるミトレイをかいくぐって拾ったら、ただの陶器の欠片だった。なあんだと思ったが、妙につるりとしていて綺麗だったからミーチカに渡した。もしもし旦那落としましたよ、と。ミーチカは熊みたいな髭だらけの顔をくしゃくしゃにして、ああなんて親切なんだといつものセリフを言う。そうしていつものように「親切な人」の手にそれを握らせようとするので丁重に辞退した。これでもモスクワではちょっと名の知れた犯罪者、力自慢の素早さ自慢だ。ミーチカの手を避けて逆に握らせる。陶器の欠片なんてどうすればいいのかわからない。
 ミーチカはまた何やら大袈裟に感激して、陶片をいそいそポケットに仕舞った。あんまり嬉しそうなので、ポケットに穴が空いていると言いそうになったくらいだそんなことをすれば監獄中から恨みを買う!)。幸い陶片は一日ポケットの中にいて、無事ミーチカの寝床にたどり着いた。
 あんなものどうするんだろう。ふと興味が湧いて見ていると、ミーチカは何やらぶつぶつ言いながら陶片をつまみ、移動させている。今度は溜め込んだがらくたの山から一つ小石を取って、陶片の横にころんと置いた。その動きには覚えがあった。それで近づいてみたらやっぱり! 彼は聖書の文句を唱えていた。聖書も持っていたはずだが、もうそらで覚えてしまっているらしい。小石の山は十字架の数珠玉の代わりというわけだ。その日以降もミーチカはポケットに物を詰めては落とす。落とした金を囚人が拾う。石や羽には誰も見向きもしないが、ごくたまに、拾ってくれる奴がいる。

 

 

夏の幽霊

 ロシアの夏は朝も冷え込む。いつまでもうっすら明るく、浅い眠りから覚めると鼻の先まで冷え込んでいるような夏の朝はいつものことだったが、その日は格別に冷えて、息を吐くと白く曇った。冬と違って、白い息は吐いたそばから潔く消えていく。庭は生き物たちの、目覚めの直前の息を潜めるような気配に満ちている。
 後ろから密かな笑い声がした。振り返るとイワン・フョードロヴィチが庭に立っていた。シャツに薄い夏物のガウンを引っ掛けて身を縮めている。あんまり寒くて笑ってしまったような無防備な表情で、パーヴェルが振り向いて初めてそこに人がいるのに気づいたのか、驚いた顔をして黙り込んだ。口の端から白い息が漏れて、消える。恐ろしく青白い顔をしていた。まるで幽霊でも見たか、彼が幽霊そのものみたいだった。
 その幽霊坊ちゃんに、パーヴェルはコーヒーはいるか尋ねる。こういう朝はいつも汲みたての水でコーヒーを淹れる。彼は頷いて、パーヴェルに着いてひょいと召使小屋に入って来た。性分で台所は綺麗にしているが、長年染みついた煤や油はどうしようもない。客人は台所の真ん中に座って、机に頬杖をつき、何かを思案しているようだった。窓から入る光と、煮炊きの火とが二重に彼の顔を照らした。パーヴェルは柄にもなく、吸血鬼の話を思い出した。彼らは家に招かれなければ入れない。
 湯をかんかんに沸かして淹れたコーヒーは、自分でもしばらく飲めないくらいに熱かった。とびきり熱いからお気をつけなさいませと言ったのに、客人は無造作に口をつけて、またびっくりしてカップから顔をひっこめた。それだけで幽霊は人に戻った。イワンは顔に湯気を受けながらカップを睨んだ。パーヴェルは密かに笑い、イワンは口を尖らせてコーヒーをすする。起きてきたマルファが台所に入ってきて、ぎょっとして立ちすくんだ。イワンはかしこまるマルファに手を振ると、コーヒーを一気に飲み干して出て行った。カップの底には粉が残っていて、占いでもできそうだ、とまた柄にもなく思う。
 気温は一気に上がりはじめ、いつもと変わらない夏の一日になった。夏の草がしきりに青臭い息を吐き、虫がぶんぶん唸って飛び回る。夏の虫は気をつけないと鍋に飛び込んでくるから厄介だった。いつもの料理と、夏向きのものとを混ぜていくつもの皿をいっぱいにする。食材は余らせない。
 まだイワンが帰って来て一週間も経たない頃だった。彼の思想も、天国の切符のことも、まだ何も知らなかった。
 冬、イワンはあの夏の朝と同じように、幽霊のように真っ青な顔をしてやってきた。窶れて窪んだ瞼の奥から黄色い目がぎらぎらとスメルジャコフを睨む。こう何度も訪ねてくるのは一体どういう訳だろう? パーヴェルはふいに何もかもに嫌気が差した。目の前のイワンのこともすっかり嫌になってしまった。
 いや、最初から嫌いだった、大嫌いだった! イワンは臆病だった。傲慢で、煮え切らなかった。自分がいなければ何もできない癖に、導いてやっているという顔をして、召使に食わせてもらいながら口先の夢物語で生きている。こちらに対する軽蔑を隠しもしないのに、こっちが嫌悪の色を見せると怯えた。彼は哀れで、惨めだった。不幸で幸せな子供だった。父親と同じく欲張りで、それを心密かに恥じていた。度はずれにプライドが高く、ほんのちょっと傷ついただけでも取り乱し、それを無様に取り繕おうとする。ああ、嫌いだ、最初から嫌いだった! たとえ一瞬、ほんの一瞬だけ愛したことがあったとしても、それは頭の中のたった一本の神経が誤って閃いただけのことなのだ(神経と体の中の雷について、パーヴェルはずいぶん前にイワンから聞かされたのだった)。神経、全部神経だ。白夜に昂った夏の朝に幽霊を見るように——全てが馬鹿馬鹿しくなった瞬間、靴下の中の金が生々しく肌に触れた。

掌編集その6

犬の体温

 寒くても平気なんだ、おれは犬の体温を持っているから、と、冬の間、本当にどんなに寒くてもよく働いた青年は、作業中の怪我がもとであっさり死んでしまった。その体温はドミートリイに引き継がれたのか、近頃は、雪の日でも体がよく動く、——と思っているうちに、樅の木の葉先から雪が溶け始める。
 シベリアに遅い春が来ていたのだった。まだ雪は降るし、川も凍っているけれど、それでも春は春だ。切った丸太を運ぶのにも少し汗ばむし、囚人全員で道を歩くと雪がぐずぐずになってしまう。そこだけ地面が暖かいのか日当たりがいいのか、土の汚れの見えた道を見て、付近の農民が春だねと言う。
「ほんのちょびっとでさ」と、ミーチャの前を歩く老囚人が独り言のように言う。「ほんのちびっと、土が見えて……俺の靴底についたんでさ……」重い丸太を運ぶから息を切らしているが、声には張りがあった。見た目よりは若いのかもしれない。こんな丸太も、あの青年、犬の体温を持った青年は率先して引っ張っていった。
 青年はミーチャの聖書を欲しがった。というより、その皮の表紙が欲しかった。弟にもらったものだからだめだと言うとそんならいいや、とあっさり引き下がった。その後ミーチャの枕元から聖書を持ち出そうとしたのを見つかった時も、妙に悪びれることなく、「本当にだめなんだね」と納得したように言う。それからはミーチャのものに手を出そうとはしなかった。それどころか、見張りのようなものも買って出た。彼とドミートリイとは、若くて力が強かったし、ここへ来て日が浅いので、よく二人で仕事をさせられた。外では口を開くことはほとんどなかったが、少し暖かい室内に行くと、時々、思い出したように身の上の話をした。
 ミーチャは「旦那は貴族だもの」と、囚人たちの輪に本当の意味で入ることはなかったが、青年は、なんだか訳がわからないやつとして、やっぱり一人で過ごすことが多かった。両親はいたが、滅多に帰ってこず、帰ってきたらきたでまだほんの子供だった青年を殴りつけた。目つきが気に入らないとか、家を汚したとかそんな理由だった。ほとんど一人で十いくつまで過ごして、それから犬と一緒に逃げたのだと言う。
 どこまで本当の話かわからなかった。犬と一緒に強盗団みたいなのに拾われて、彼らと過ごすうちにたくさん盗みをやった。子供の頃は見張り、体が大きくなると「本格的」に仕事を任された。そうして最後にシベリアに来た。体の丈夫な、よく働く青年だった。犬と逃げた後はあちこちで物乞いや見習いみたいなことをしていて、その延長で強盗もあっさりやってしまったようなところがあった。犬はどうしたんだ、と尋ねると、どこかに行っちゃった、暖かくて具合が良かったのに、と答えた。
 囚人房の中も、春の兆しか厳しい寒さは和らいで、代わりに囚人たちの体臭がきつく籠る。すぐに慣れるが、暖かくなりはじめた時は鼻が慣れていなくて、皆いらいらと、または笑いながら臭い臭いと言っている。いつものくせで聖書の表紙を撫でると、突然涙が出た。
 彼は春を見ることなく死んだ。ミーチャにはそれが悲しくてたまらないことのように思えた。泣いているミーチャに気づいて、囚人が声をかける。子供のように泣きじゃくるので、だんだんとミーチャの周りの囚人の輪は大きくなった。本当に子供みたいにあやされながら、途切れ途切れに、死んだ青年のことを言うと、「ああ、そんなら」と囚人の一人が言った。「旦那みたいな方が祈ってくださるなら、あいつも後世は安楽でしょうよ」それから十字を切った。それが皮切りだったように、ミーチャの周りの他の囚人も十字を切る。ミーチャも一緒に祈りながら、ここへ連れて来られる前、モークロエで見た夢を思い出していた。
 なぜ童はみじめなんだと問う夢。本当に阿呆のように、何度もなぜ、なぜ、と尋ねた。あの時胸を満たした光の強烈さが、今度は遠くに感じる。と言って、遠ざかったわけではなかった。遠くから、次第に満ちる潮のように、ドミートリイの心を浸していく。童はまだ泣いている。春を見ずに死んだ青年も童だ。
(でも)とミーチャはもどかしく己れに問うた。童は彼だけではない。彼だけではなくて……。鉄格子のはまる小さな窓は、まだ暗く、夜明けの気配はなかったが、ドミートリイは、まるでそれを探り続けるように執拗に見つめ続け、ついに見つけて「ああ!」と叫んでその場に額づいた。
 ミーチャのただならぬ様子に、看守を呼ぼうとしたのを止める。青年のことは、あれは運命だったのだから、と言うのを遮る。「違うんだ……違うんです! 俺は知っていた、見ていたんだ……それなのに、見ていなかった! 童はずっとみじめだったのに!」ドミートリイは突っ伏して嗚咽した。
 スメルジャコフ。運命などではなかった。彼への仕打ち、裁判所で自分の言ったこと、全てが激しい後悔と羞恥となってドミートリイの身を焼いた。彼はたった一人で自らを終わらせた。取り返しがつかないのを知りながら、ミーチャは額を床に擦り付けて祈った。

 

 

合一

 アレクセイ・カラマーゾフは幼い頃、なんでも兄と一緒でなければ気がすまなかった。というよりは、兄とは同じなのが当然で、違うという方が不思議なようだった。イワンが本を読んでいれば、自分も絵本や、板切れや刺繍入りのハンカチを目の前に広げた。イワンが白墨を持てば自分も持ちたがった。
 イワンはおとなしい子供だったから、弟の欲しがるものは大抵譲ったが、それだと兄と違ってしまうからアリョーシャには意味がない。兄から譲られたもの、白墨や綺麗な石やお菓子を、アリョーシャは納得のいかないような顔で見つめ、最後は捨ててしまう。イワンは半分にできるものは半分にして、できないものは注意深く隠した。雨や雪で外に行けない日、イワンは座ったり立ったり、頭の後ろに手を組んで寝転がったりする。アリョーシャは不器用に真似てころんと転がる。時々イワンはどこにでも着いてくる弟に癇癪を起こして走って遊びに行く。アリョーシャは、その場に突っ伏して一通り泣いてから一人遊びをする。泣いても慰めてくれる人はどこにもいないのを、アリョーシャはよくわかっていた。
 イワンの乳歯が抜けた時は、自分も抜けないのはどうしてだろう、と不思議そうな顔で、ようやく生え揃った小さな歯を指でぐいぐいと押し、引っ張って抜こうとした。そのうち本当に抜けてしまうのではないかと心配になったくらいだったが、親戚の家に引き取られて別々の部屋を与えられると、兄の真似っこは嘘のように止んだ。
 数年が経ち、召使い小屋での記憶も薄れた頃、アリョーシャは兄の部屋を訪ねた。イワンはもう学校に通っていて、アリョーシャはもうすぐ通い始める。イワンは部屋で学校の宿題をしていた。弟が手の中に隠して持ってきたものを見ると、子守りを呼び、一緒にネズミの巣を探してもらっておいで、と言った。
 アリョーシャが持ってきたのは抜けた乳歯だった。ネズミの巣に落とすと丈夫な歯になると言われていた。イワンは一度部屋に戻ったけれど、ふと、弟が不思議そうな顔で乳歯をぐいぐいと指で押していたのを思い出して、弟を追いかけた。
「まあ、坊ちゃん、ネズミの巣だなんて」と子守り女中は言った。
「枕の下に置くんですよ。そしたらネズミが歯とコインを取り替えてくれるんです」フランス風ですと彼女は付け加えた。
「だって、アリョーシャ。枕の下に入れにいこうか」
 イワンはアリョーシャと手を繋いで、子供部屋に一緒に行く。この家には子供はこの二人しかいなかった。本当によく似た兄弟だった。

 

 

身代わり

 ここ最近イワンはよく食べる。よく、と言っても、ほとんどものが喉を通らなかった間に比べての話だからまだまだ少食だったけれど、カーシャや、具の少ない澄んだスープを、イワンは積極的に口に運んでは飲み下す。皿に盛られたカーシャをイワンは拒絶しない。カテリーナにはそれが嬉しい。
 熱が下がってしばらくした頃、イワンはほとんどの食事を拒絶した。食欲がないと言う。このままでは死んでしまう。カテリーナが懇願して、なだめすかして、ようやく二口食べて、それでもう済んでしまう。粥を口にしたイワンの顔は真っ白で、吐いてしまうこともあった。何か毒でも口にしたのではないかと勘違いするほどだった。
 イワンは全てを拒絶していた。食事だけではなかった。温かい部屋やゆっくりとした休息や、何かを見て笑ったり泣いたりすること。生きるための全てのこと。もうこのまま、眠りに落ちて目覚めなかったらどうしようと、土色の寝顔を見ながらカテリーナは思ったものだった。それが今はきちんと食べる。
 顔色も心なしかよくなった。あの人はよくなっている。生きたがっている。その日カテリーナは、カーシャにバターを少し足させた。温かいカーシャの上で、バターは溶けて新鮮なミルクの匂いを立ち上らせる。いつものようにスプーンを手に取って、一口口に含んだイワンはしかし、口元を手で押さえた。
「どうしたの? 気分が悪いの?」熱は、と額に触れようとしたカテリーナの手をイワンが握った。意外なくらいに強い力だった。
「違うよ、カーチャ……ああ、何て言ったらいいかな。あいつにはこんなものいらないんだ。バターなんて……」
 イワンは悲しい目でスプーンを握る手を見下ろした。手は小刻みに震えていた。カテリーナは、またイワンが吐いて倒れてしまうのではないかと、その手を握った。指先まで作り物みたいに冷えていた。
「あいつにはすぎたごちそうだよ……こんなことしなくていい」そういう唇も震えている。
「あいつって誰のこと?」カテリーナは慎重に尋ねた。
「あいつだよ……! 裁判に来なかった、僕が呼んだのに来なかったあの悪魔の野郎さ!」
 イワンはそう言って、無理にそうするみたいに微笑んだ。カテリーナはぞっとうなじの毛が逆立つのを感じた。では今まで食事をしたと思っていたのは……。悲鳴が口から出そうになるのを、唇を噛んで耐える。医師を呼ばなければと考えるそばから、だけどそんなものが何になるのという自身の真っ黒な声が心を飲み込んでいく。評判の医師は全て呼んだ。入院を勧められたこともあったが断った。でも医師を探すのも聖像の前で祈るのももう……。暗くなっていく視界の中で、ふと、彼の悲しげな瞳と目が合った。吸い込まれそうなくらいに暗い色の瞳の表面は濡れて、午後の光を反射してキラキラ光っていた。カテリーナは、すぐそこまで出かかった悲鳴を飲み込んだ。これは今じゃなくていい。今は何も、決して何も見せない。いつか耐えられなくなったとしても。カテリーナは微笑んだ。社交の場でそうするみたいに。つまりは感情を押さえて、見せたいものだけ見せるように。
「わかったわ。だけどあなたが食べないと、結局無駄になってしまうのよ」
 あなたと語りかけている相手が誰だかわからなかった。イワンは少し首を傾げて、スプーンを手に取って、冷めたカーシャを口に運んだ。カテリーナの背を汗が伝った。イワンはとても時間をかけて、カーシャを二口、三口と口に運ぶ。その様子を見ながら、カテリーナはいまだにイワンが午後の茶を飲まないことや、夜中や夕方にじっと押し黙って遠くを見ているのや、音楽や朗読に興味を示さないのを思い出していた。だけど生きたがっている。この人は生きたがっている。
 カテリーナは悲鳴の代わりに、その言葉を喉の奥で呟いた。

 

 

食べるのが嫌い

「ね、知っている?」とイヴァンナがフォークを置いて言った。
「パリのレストランには、女のシェフがいるそうよ。料理人ではなくてシェフ、使用人ではなくてプロフェッショナル。とても評判がいいんですって。名前はベル、違うな、ブリジット……」イヴァンナは指でトントンと机を叩きながら言う。
 頭が痛いと部屋に籠り、食事を運ばせたお嬢様が、突然ぺらぺらしゃべりだしたのを、スメルジャコワは呆れながら眺めていた。
「バベット」肝心のシェフの名前が出てこないので、スメルジャコワはたまらず口をだした。
「知っていたの?」イヴァンナは面白くなさそうな顔でスメルジャコワを見る。
「有名な方ですから。修行先でも名前を聞きました」
「そう」イヴァンナはようやくフォークを手に取り、小さく切ったソーセージを一切れ口に放り込み、無表情に噛む。いつも食が細く、食事もどちらかといえば機械のようにこなしている。パリのレストランに興味があるとも思えなかった。
「そうなりたくはない?」
「何です?」
 イヴァンナはまたフォークを置いた。「つまり、シェフになりたくはない?」
「考えたこともございません。どうしてまた、そんなことを?」
「そうだった? でもお前、この間、自分だって運命が違えばちょっとしたレストランを開けるはずだって言ってたわ」
 スメルジャコワは顔を赤くした。少し気分が良くて口を滑らしたのだ。このお嬢様は、気位が高くて高慢で気難しい、全く面倒な性格だったが、どうしてか時に人を惹きつけるときがあった。
「戯れを申し上げました。お忘れになってください」
「なぜ? 素敵なのに。戯れなんて言わないで」
 お嬢様の口調が思いの外真剣で、スメルジャコワは顔を上げる。
「運命が違えばと言ったわね。私たちはどうしてこんな運命なのかしら。あなたはとっても腕のいい料理人なのに、片田舎の料理女。私はそこらのぼんくらよりよっぽど頭がいいし勉強が好きだけれど、父の許しがなくてはどこへも行けない。……あるいは夫の許し。結婚したなら」
 イヴァンナはフォークを手に取り、ソーセージを口に入れる。小さな口が動いて豚の肉を噛み砕く。
「女料理人の給料は男の料理人の半分。そして私は、刺繍をするかピアノを弾いて、いつか父の商売のために30も年上の人に嫁がされる。私はこの運命を変えたい。お前は?」
 イヴァンナはスメルジャコワを見つめる。スメルジャコワが黙っていると、イヴァンナはふんと鼻を鳴らして皿の方を向いた。
「いいわ。冗談だから。でも私、お前の料理は好きよ。夏にこんなに食べられたのは久しぶり」
「どうやって?」スメルジャコワは尋ねた。「どうやって変えるんですか?」
 イヴァンナは微笑み、「掛けて」と椅子を勧めた。運命を変える方法とやらを教えてくれるのかと思ったが、お嬢様はもぐもぐと食事を続けている。イヴァンナの食は細く、食べるのも遅かった。温かい料理はいつも冷めてしまう。
「料理」
「なあに?」
「お好きなんですか」
「嫌いよ。食べることが好きじゃない。でもお前のはそんなに苦痛じゃない」

 

 

夢の中の小さなネズミ

 遊びにも飽きた曇りの朝、イワンは本を抱えてこっそりと母屋に入った。本当は「こっそり」入る必要はないはずだ。二ヶ月前まで母と一緒に暮らしていた家だし、そこにいるのは自分の実父なのだから。それでも、イワンはやっぱりこっそりと入る。母屋に近づいてはいけないと言われていた。それは主に、父が呼ぶ客人のせいだったが、今は誰も来ていない。「近づいちゃいけないけど、入っちゃいけないって言われてないもん」イワンはそんな屁理屈をこねて、玄関から家の中に入った。迷いのない足取りで、一階の隅にある書斎へ向かう。今抱えている本を、新しいのと取り替えるためだ。
 イワンはしばしば、密かに母屋に侵入しては、書斎から本を持ち出していた。言葉が難しくて内容の大半は分からなかったが、絵入りの本ならそれを見ているだけでも楽しい。弟のアリョーシャは彩色版が好きだったが、そういうのは大判の本ばかりで、イワンの力で持ち出すのは難しかった。
 書斎の前に行くと、本を一度床に置いた。書斎の扉は重くて、本を抱えたままでは開けられなかった。扉に手をかけて力を込めた時、階段の方から物音がした。イワンはそのままの姿勢で固まった。父親だ。どうしてこんな時に。まだ昼には早い時間だった。父親は大抵朝は寝過ごす。だから早めに来たのに。イワンがパニックになっている間にも、父親の足音は近づいてくる。イワンは身を固くした。本を盗んだこと、勝手に中に入ったこと、全部怒られる。父親は、今まで子供に直接手を上げたことはなかったが、母親には随分と手ひどく接したし、声を荒げて侮辱することも少なくなかった。あれが自分に向かう。そう思うだけで身がすくむ。
 しかし父親は階下まで降りてくると、ため息なのかあくびなのか、くぐもった重たい吐息をつきながら、書斎の前をあっさり通り過ぎた。そっと父の方を伺うと、食堂に入る時にひらめいたガウンの端だけが見えた。イワンは拍子抜けして書斎に入り、本を元の場所に戻すと、前に入った時に目をつけていた挿絵と口絵のついた本を取って家を出た。その間もずっと考えていた。父さんはどうして自分を怒らなかったんだろう。本当はもう、おうちに戻ってもいいんだろうか。召使い小屋の方に歩いていると中からパーシャが出てきた。マルファとグリゴーリイの子で、自分と同い年だ。背格好もよく似ていて、この間身長を測った時につけた柱の傷は、二人とも同じような位置についていた。同じだねというと、彼は何か、はにかんだような、居心地の悪そうな表情を浮かべた。アリョーシャは、自分の印だけイワンに全然届いていないのに癇癪を起こし、その場でひっくり返って泣き出した。
「アリョーシャ、前と比べてたくさん伸びただろ、ほら」
「そうですよ。こんならお兄様にすぐ追いつきますよ」と二人で宥めるのが大変だった。
 パーシャはイワンを見ると、一礼して道を譲った。手に何か箱みたいなものを持っている。何気なくパーシャの方を見て、イワンはあっと声を上げそうになった。
 彼らはよく似ていた。歳の頃も背格好も同じだ。だから、父は自分のことが分からなかったのだ。パーシャはしばしば用事のために母屋に出入りしていた。だから、パーシャだと思って、気にも留めていなかったのだ——たぶんそう。きっとそうだ。イワンは愕然としてパーシャの背中を見つめた。急に腹が立って後ろから彼を押した。パーシャがうわっと言ってつんのめり、踏ん張って、振り向く。手に持った箱が激しく揺れている。
「何ですか?」パーシャは非難の混じった目でイワンを見た。
「別に」
「じゃ押さないで下さいよ。危ないんですから」
 パーシャは手に持った箱を突き出した。それは箱ではなく、針金でできた檻だった。中にはネズミが入っていて、激しく暴れていた。怪我をしたのか、毒でも飲んだのか、口元は血で真っ赤になっている。イワンは怯んで二、三歩後退った。
「それ、何」
「何ってネズミに決まってるでしょう。食べ物を齧ってたのはこいつですよ。やっと捕まえた」
「どうするの?」
「水に沈めるんです。一緒に来ますか?」
 どうせ来ないだろう、と言わんばかりの口調でパーシャは言った。
「……いい。汚い」
 イワンが言うと、パーシャはだったら邪魔をするなと言うように肩をすくめて、何も言わずに裏口の方へ向かった。イワンはしばらくそれを眺めていたが、ふいに顔を青くして召使い小屋に走った。水に沈めるんです、という意味がようやく飲み込めたのだった。イワンはその日の夜、溺れる夢を見た。自分を沈めているのはパーシャではなく父親で、母の隣の寝床から子供部屋に移って以来、ほとんどしたことのなかったおねしょをした。

 

 

しゃっくり

 きゅっ、と小さな音がした。ネズミが踏み潰されるような音。音のした方を見るとイワン坊ちゃんが赤くなって俯いた。きゅっ、と言って肩が跳ねる。イワン坊ちゃんはますます難しい顔をする。パーシャは視線を逸らし、視界の隅で坊ちゃんを観察した。一生懸命我慢しようとしているけど何度も肩が跳ねている。
 今日は珍しく奥様が穏やかだった。旦那様も何かいいことでもあったのか、食事の後で奥様と子供達を呼び、いつもは出さないヴァレニエまで出すように言った。可哀想に、イワン坊ちゃんは見るからに緊張していた。青い顔でスプーンの上のものを飲み込んで、せっかくのヴァレニエの味もわからないだろう。ずっとびくついて、アレクセイ坊ちゃんが上機嫌な叫び声をあげたり、何かひっくり返しそうになるたび飛び上がらんばかりになっている。その挙句に——「きゅっ」今度は一際大きな声が聞こえた。一杯機嫌で下の子にしきりと話しかけていた旦那様も、怪訝な顔をしている。それでますます坊ちゃんは慌てる。
「息を吸って」パーシャは坊ちゃんの後ろに立ってこっそり言った。「息を止めたら、うつむいて。もっと、あごが体につくくらい。そのまま」それから素早く元の位置に戻る。
 旦那様がちらりとこっちを見たが、知らんぷりをしていたら何も言われなかった。アレクセイ坊ちゃんに話しかけ、くだらない手品をやってからかっている。さっきの「きゅっ」はもう聞こえなかった。
 寝る前になってこっそりイワン坊ちゃんが召使小屋にやってきた。パーシャの寝床の側の窓をそっと叩き、「さっきはありがとう」と小さな声で言った。
「別に、何でもありません」パーシャは一種の満足を覚えながら言った。こういうことは初めてではなかった。自分よりも数ヶ月後に生まれ、病弱な弟のために放っておかれている、この小さくて神経質な坊ちゃんはパーシャにとって仕える相手というよりは保護の対象だった。うっかり皿を割ってしまった時も、虫に刺されてひどく腫れた時も、トイレが間に合わなかった時も、パーシャが助けてやった。
 坊ちゃんは神経質なくせに向こうみずで、よく裏庭に遊びに行っては怪我を作って帰ってくる。這い虫とか蜘蛛とか、小さな生き物が好きらしい。パーシャには何がいいのかわからない。ごちゃごちゃして薄気味悪い。坊ちゃんは飽きもせずに見に行って、怪我や何やをして泣いて帰ってくる。パーシャは坊ちゃんの傷や虫刺されに薬を塗ってやりながら、やっぱり俺がいないとダメなんだと思う。坊ちゃんはパーシャの内心を知ってか知らずか、懲りずに遊びにいってはまた帰ってくる。それがぱたりと止んだのは奥様が亡くなってからだ。坊ちゃんたちは屋敷を追い出され、召使小屋に暮らし、またいなくなった。
 それから十数年が経ち、まず下の弟が、それから次兄のイワンが帰ってきた。イワンは体格のいい青年になっていて、かつての坊ちゃんらしい甘えた弱々しさは、どこかに落としてきたみたいに消えていた。スメルジャコフも、子供だけの世界で身につけた自信は失せてすっかりおどおどした青年になっていた。
 お互いに面影のない再会だった。彼らが互いのことを覚えているのか、表面的には分からなかった。彼らは子供のときとは違った形で奇妙な関係を築いた。次兄が教師役で、講義されるのは無神論だった。生徒役は、あるいは誰でもよかったのかもしれないが、彼しかいなかったとも言える。この村で、彼の思想を笑わず、好奇と軽蔑のないまぜになった目で見ないのは、すぐ下の弟を除いてはスメルジャコフだけだったろう。そして弟は、兄の思想を笑いはしないが受け入れなかった。イワンにとって、スメルジャコフはたった一人の対話相手だったが、それに気づいていたのかどうか。
 ひくっ、と喉が鳴った時、スメルジャコフは思わず口元を鼻まで覆った。息を止めたが不随意の運動は止まらない。イワンはスメルジャコフを煩わしそうにちらりと見て、しかし言葉は止めなかった。もう一度息を止める。今度は妙に大きな声が出た。
「今日はやめようか?」イワンは言った。
「いえ」またしゃっくり。「すぐ止めます」
 しかしイワンはすっかり興醒めという顔をしていた。「いや、今日はよそう。もう遅い」
 イワンの言う通り、夜は更けていたが、もっと遅くまで話し込んでいることはよくあった。「片付けてくれ」イワンは顎をしゃくって冷たく言った。スメルジャコフは机の上の食器を片付ける。
「失礼を」ひっく、と声が出る。「……いたしました。おやすみなさいまし」
 おやすみ、といつもは声をかけないイワンが言った。スメルジャコフはイワンの部屋を出てすぐに立ち止まり、息を止めて俯く。顎が胸の骨につくくらい。顔を上げた時には止まっていた。止め方くらい知っていた。知っていたのに。

 

 

パーヴェルのノート

 スメルジャコフのノートには、「私」「あなた」「言う」「何」「とても」「ナイフ」「スプーン」のような単語に混じって、「お元気ですか」「お加減いかが」「こちらはもうすっかり冬の装いにて」などの慣用表現が不器用なブロック体で書きつけてある。古い手紙の例文集から抜いたものらしかった。
「私」
「あなた」
「散歩する」
「小包」
「青い」
「ありがとう」
「たくさん」
「少し」
「会う」
「公園」
「お久しぶり」
「お会いしとうございます」
「ご用立てをお願いしたく」
「手元不如意にて」
「海」
「また会ひませう」
「鳥」
「さようなら」
「島」
 ……脈絡のない単語の間に脈絡なく置かれた例文たちは、それでも印刷された時の文脈を背負いながら、前と後ろの単語を繋ぎ止め、縫い止め、どうにかこうにか、手紙のようなものを浮かび上がらせているのだった。

掌編集その7

新しい靴

 迷った末にパーヴェルが決めたのは、ぴかぴかの先の尖った靴だった。「最新式だけど」靴屋は言う。「歩きにくいよ。慣らさないと」履き古したのをその場で捨てて履き替えた靴は、靴屋の言う通り、窮屈で、革もまだ固く、ちょっと歩いただけで足の指の骨が曲がりそうなくらいだったが、そうなったって構わない。
 靴は石畳の上で鋭いくらいに光っている。下宿先に帰ったらさっそく手入れをしなければ、——と、今の今まで手入れ用の道具を勘定に入れていなかったのに気づいた。ブラシは諦めるしかない。布は古い下着を裂いて作る。靴用のクリームが一つあればいい。しかしもう買う金がなかった。来月までは……。
 金を数えながら歩いていると、折悪しく雨まで降ってきた。パーヴェルは靴を脱いで手に持ち、下宿へ走る。履き古したのを捨てなければよかった? だけどあれはもういい加減小さいのをだましだまし履いていて、右の親指の所には穴まで空いていた。毎晩こんなものもう二度と履きたくない、と思いながら脱いで床に入り、翌朝また履き直す。雨はますます強くなる。靴下が濡れていく。彼は新しい靴を上着の中に入れて庇う。背中を丸めて靴下で泥を跳ね上げながら雨の中を駆ける。
 視界が雨で塞がれていく。濡れた前髪をつたって雨粒が流れ、目の中に入る。濡れた肩から、足先から、体が冷えていくけれども、胸の中は暖かで、どこまでも走れるような気がした。先の尖った、窮屈な、歩きにくい靴は、彼にとってどこへでも行ける靴だった。

 

 

骨の小鳥

 あのイワン・カラマーゾフが厳しいことで有名なセルゲイ・イワーノヴィチに捕まった。どうやら園丁のマレイじいさんが春先の楽しみにと校庭の隅に植えていたらっぱ水仙の球根を掘り返して、代わりに小鳥の死体を埋めるという、悪ふざけというにはいささか度を越したいたずらをやったらしい。
 イワン・カラマーゾフといえば成績優秀で教授陣の覚えもめでたい上に、後見人がここの学長と友人だという、あらゆる意味で近寄りがたい子供だった。それが教師に捕まり、あまつさえ罰を受けているなんて! このニュースは同学年の少年たちの間を速やかに伝わった。それにしても、小鳥の死体とは! イワン・カラマーゾフはよく言えば大人しい、その実何を考えているのかわからない少年で、その日セルゲイ・イワーノヴィチに捕まるまで、「優等生」以外の話題でその名を口にされることはなく、その気持ちを汲んでやる友達もまだいなかったので、小鳥のことは本人が独習室に閉じ込められて書取りだか何だかをさせられている間に色々と取り沙汰された。あいつが殺した小鳥なんだというのもいれば、死んだ小鳥を埋葬してやったんだという意見もあった。
 小鳥の謎はそれから一年ほどして、イワン本人の口から明かされた。この頃にはもうイワンも友達とつるんで先生のカバンに白墨の粉を詰めたり、こっそり寮を抜け出して買ってきた爆竹を破裂させたり、若い教師のつまらない言い間違いをあげつらう、つまりはごく普通の小生意気な中学生になっていた。
「あれか。あれは骨格標本を作ろうと思っていたんだ」
 友人のそういえば、という問いに答えてイワンはあっさり答えた。
「骨格標本? 土に埋めたら腐っちまうんじゃないか?」
「そのために埋めるんだよ。骨を取り出すには肉を剥がさないといけないだろ。骨より肉の方が先に腐る。人間も鳥も一緒だ」
 イワンによれば、その日は西の方からいたく強風が吹き付けてくる天気で、その不幸な小鳥は、飛び上がった瞬間に風に横殴りにされてガラスに叩きつけられてしまったらしい。死んだ小鳥を見て、ふと本で読んだ骨格標本の作り方を試したくなったのだという。水仙の球根のことは全く知らず、ただの地面だと思って掘り返したのだという。
「君さ」イワンの話を聞き終わった学友は呆れて言った。「それ、言えよな」
「言ったって聞く御仁じゃない」
「そうだけどさあ」
 彼はもどかしげに声を上げた。彼にとっては、弁明の相手に自分が入っていなかったのが寂しかったのだった。小鳥事件の時は友達じゃなかったし、彼が何を考えているかなんて、ちっとも知らずに、何かお高く止まって嫌なやつ、だとか思っていたにしても。それに、セルゲイ・イワーノヴィチはともかく、マレイじいさんは、十二才から十八才までの、生意気盛りの全ての少年がちっちゃな子供みたいに見えているらしく、いたずらには人並みに怒りはするものの、先生に言いつけるとか親を呼ぶぞと怒鳴るとか鞭で殴るとか、そういう「子供たち」を無闇に脅しつけるようなことはしないから、きっと言えば分かってくれるだろうに、イワンは仲直りを諦めていた。
「別にいいんだ。言ったって同じだから」
「でも、僕らには言うだろ?」
「標本作りたいの?」
「違うけど」
 イワンは標本の機会をやっぱり一人で狙っているようだった。その機会の来ないままに、季節が巡り、学年が一つずつ上がった。卒業まで、彼がどんないたずらをやらかそうが、どんなに優秀な成績を取ろうが、イワンのパパとママも、後見人のおじさんも、誰も学校にやって来なかった。
 それから数年が経ち、青年となったイワンが思い出すのは、手の中の小鳥の失われていく体温であった。あの強風の日、叩きつける風と一緒に恐ろしい音が聞こえた日、外に出たイワンが見つけたのは、地面に落ちた小鳥だった。小鳥はくちばしから血を吐いていて、数度痙攣したかと思うと動かなくなった。イワンはそれを拾い上げ、校舎の周りを歩き始めた。小鳥はまだ温かかったが、一日歩くごとに冷たくなっていくのがわかった。羽を広げるとまだつやつやとしていて、イワンが手頃な砂地を掘り返しているところを、日課の見回りに出たセルゲイ・イワーノヴィチが見つけたその瞬間まで、小枝のような足先にまでまだほんのり温もりが残っていた。
 ところでこの小鳥の話にはまだ続きがある。イワンが捕まった後、地面に残された小鳥の死骸は、とある理科教師に拾われた。彼はこの学園に二十代の頃から勤める古株で、長く勤めるうちにここの主のようになった老教師だった。かつては長身の美男子だった体躯は肉落ち骨秀で、やや首を曲げる癖もあって、歩いていると鷺を思わせる。老教師は鷺そっくりの細い膝を曲げて小鳥を拾うと、自室へと持ち帰った。
 それは校舎の北側にあって、これまた二十代の頃に学校から割り当てられたものだった。割り当てられて一月もしないうちに部屋は実験道具と標本と資料でいっぱいになり、以来内容は少しずつ入れ替わっているものの体積は一向に減らない。数十年分の荷物の堆積する部屋の片隅から、そのために買った片手鍋を探し出し、厨房係に嫌がられながら薬品で煮て肉を外した。そうして現れた小鳥の骨を、彼は小さな骨片まで黒い紙に並べて部位ごとに番号を振り、スケッチをした。老教師は分厚い眼鏡をかけていて、時々それを外しながら仕事をした。ひょっとしたら、数十年酷使し続けた目にははっきりとは見えていなかったかもしれないが、彼の経験と知識は、彼の目の奥に骨の姿を鮮明に浮かび上がらせた。手根骨、肋骨、細工物のような椎骨。彼は骨を組み立てるつもりだったが叶わなかった。綺麗に並んだ標本は、彼の死後、理科教室の標本棚に飾られているが、そのことをイワンは知らない。

 

 

スコトプリゴニエフスクの女たち

 大丈夫よ、マルファ、と部屋に集まった女たちは言った。子供にはよくあることよ。お医者様ももう安心だとおっしゃっているのだから、心配ないわ。皆違う声だ。ええ、そうね。マルファ・イグナーチエヴナが応じる声がする。衣擦れの音がして、集まった女たちのうちの誰かの、湿ったようなため息が聞こえた。
 この子があの子の、と女の声が言う。スメルジャシチャヤの子。こうやって見てると似てるわね。そうね。そうね、と輪唱のように同意が返る。そうかなあ? と誰かが言う。若い娘の声だった。あんたはあの時小さかったから。どうせ覚えてないでしょ。それはみんな一緒じゃない、スメルジャシチャヤが死んだのだって十年以上前のことなのに。拗ねる娘の声を遮るように、祈りましょう、と声がした。
 ぶつぶつ言う声とともに、虫歯の臭い、体臭、家畜や煙の臭いが漂う。なんてひどい臭いだろう、これじゃあまた病気になっちまう、とパーシャは思う。きっとひどい顔格好の女に違いない。悪魔みたいな面をしているんだ……。目を開けて悪臭の主にあかんべの一つもしてやろうと思うのに、上手く体が動かない。アーメン、と一斉に言って沈黙が落ちる。それから衣擦れ。大丈夫だからね。何かあったら呼んでちょうだい。口々に言う色んな声がして、床板が踏まれる低い音が遠ざかる。
 ようやくまぶたが上がると、マルファ・イグナーチエヴナが背を向けて戸の前に立っているのが見えた。部屋の中はしんと静かで、さっきまでいた女たちは幻だったのかもしれない。腰に手を当て、一つ息を吐くと、マルファは冷えて行く室内を振り返り、外へ出て戸を閉めた。パーシャは誰もいない部屋をしばらく見つめていたが、やがて眠った。

 

 

バラの花びら

 奥様がバラを摘んで指を血まみれにしたことがあり、カラマーゾフ家ではずっとバラは庭には植えずに他の家から分けてもらう。指を傷つけたのは一人目のアデライーダと二人目のソフィアだったが、スメルジャシチャヤも無分別にバラの茎をつかんで怪我をしたことがあった。花の咲く季節ではなく、緑の葉っぱしかない枝をなぜか彼女は懸命に折ろうとしていた。何が嬉しくて棘のある枝をつかんだのか、スメルジャシチャヤはいつも薄着ではあったがあまりその種の怪我をすることもなく、皮膚は汚れてはいたが丈夫で、傷らしい傷はなく、それだから手の怪我は目立った。
 奥様方もスメルジャシチャヤもいない今もカラマーゾフ家でバラの約定が守られているのは単なる惰性で、主のフョードル・パーヴロヴィチにわざわざ植えようという気がないからだ。植えればマルファ・イグナーチエヴナが世話をするだろう。美しい花が咲くはずだったが、その日は来ない。だからスメルジャコフは潰した豚の肉と引き換えにバラをもらう。
 好きに取って行って、ちょうど明日庭師に整えてもらうつもりだったから。
 庭師の妻はそう言ってスメルジャコフに分厚い刃のついた重たい鋏を渡す。「気をつけてね。指なんか簡単に切り落とせるから」バラをもらいに行くたびに庭師の妻はそう言ってスメルジャコフを脅かした。もう十代の子供ではないのに。バラを必要な分取って鋏を返す。棘はそのままで、抱えると服の袖や手のひらを引っ掻く。
 濡れた布で切った端を包んで家に持ち帰り、井戸から水を汲んで桶に入れ、その場で棘を抜く。鋏を茎に滑らせれば簡単に取れるが、うまく力を加えれば素手でも取れた。今日は本数が多いので、鋏で取る。バラの棘が地面にポロポロ落ちる。葉についた虫は葉ごとむしって地面に落とし、靴で踏みにじる。靴を退けると葉と棘と潰れた虫が泥に埋もれている。全て棘を取ったら、居間や居室に飾る。今は旦那様だけでなく坊ちゃんもいるから、飾る場所は一箇所増えた。イワン・フョードロヴィチの寝起きする客間には、一番いいのを選って白磁の花瓶に生ける。バラは一週間もしないうちに開ききり、花びらを落とす。そうなると花瓶から引っこ抜いて捨て、また新しい花が飾られるのだ。何事もなかったみたいに。
 イワン・フョードロヴィチは、書物机の上に散らばった反故紙を整理していて、おやと思う。バラの花びらが二枚、押し花になっている。散った花びらに気づかずに紙を重ねて、さらにその上に本を置いてしまったものらしい。花びらは、そんなぞんざいな扱いにも関わらず、皺にもならず完璧なハート形だ。
「見ろよ」とイワンは上機嫌で振り向いた。はあ、とスメルジャコフがとりあえずと言った感じで、イワンの掲げた花びらを眺める。茶の用意ができたので呼びに来たのだが、それを言いつけたイワンはもう茶への興味を失っている。
「……先月のバラでございますか」と、スメルジャコフは職業人的な記憶でもって答えた。イワンは「それだけか?」とつまらなさそうにする。この標本的な美が分からないとは! やれやれといったふうに首を横に振りながら、イワンはうきうきと真新しい便箋を出して、二枚のバラの花びらをそっと置いた。
 変な人だな、とその様子を見ながらスメルジャコフは思う。小さい女の子みたいに押し花にはしゃぐなんて。お茶の用意ができましたが、ともう一度言うと、イワンは便箋の上に置いたバラの花びらを惚れ惚れと見つめ、「すぐ行く」と言った。たぶんすぐには来ないだろう。「お待ち申し上げております」と言ってスメルジャコフはイワンの部屋の戸を閉める。早く来てくれないと、せっかく温めたポットが冷める。

 

 

自転車に乗って

 イワン・カラマーゾフは、この町に帰ってきた時と同じく唐突に、町の中心にある食堂に現れた。そこは、一昔前の最新式の、ここでは上品な部類に入るレストランで、金や噂や、証文や女や、あらゆるものが交換される交易の中心地だった。壁は煤け、食器には欠けがあったが、料理はまずまずで、何より広い。
 イワンは、よく言えば正統派、意地悪く事実を指摘すれば面白みのない服装でその店の門をくぐった。くぐってすぐ、ラキーチンはそれと気づいた。だから他の人間にこの男が捕まえられないうちに声をかけた。初めまして、アレクセイ君からお噂は常々、とかなんとか、挨拶をしながら席に誘導する。怪訝そうな間が一瞬空いて、そうですか、アレクセイの、と返って来た。第一印象は、前評判よりはぼんやりした男だ、ということ。話している内にどうも何かに気を取られているんじゃないかと思えた。実は私も記事を書いていて、と掲載された雑誌を出すと、彼はそれをほとんどひったくるように手に取り、記事にサッと目を通して返した。「大変興味深いですね。ただ申し訳ありません、行かなければならないので、お話はいずれまた」と言い、相手の返事も待たずに立ち上がった。
 それがつい数日前のことだったものだから、ラキーチンは遠目に道を歩くイワンを見た時に修道院の門の影に隠れてしまった。
(ちぇっ、なんで僕の方が隠れてるんだ!)ラキーチンは歯噛みしつつ門の隙間からイワンを見る。彼はおよそ散歩に似つかわしくない、何か重大な使命でも背負っているかのような、気難しげな顔をしながら門の前を通りすぎた。そっと門から顔を出して見ると、スタスタ歩いていたイワンがふと立ち止まった。見つかったかと思ったが、何かに気を引かれて足を止めたようだった。ラキーチンはもう少し門から顔を覗かせ、あっと声を出しそうになった。そこに止めてあったのは自分の自転車だった。モスクワから取り寄せたもので、まだ真新しい、正真正銘の最新式の自転車だったが、この町の、土を踏み固めただけの舗装道では、ガタガタ跳ねて乗りづらい。だからアリョーシャに見せて遊んでから、そのまま置きっぱなしになっていたのだった。
 何をするつもりだろう、と眺めていると、イワンは自転車にひょいとまたがって走り出した。勢いのいいのはほんの最初で、あとはふらふら危なっかしく左右に振れたと思うと斜めに傾いだ。イワンが片足をついた。勢い余って座席から飛び出し、たたらを踏む。(転べ!)イワンは首を傾げながら、自転車を元の場所に戻した。ラキーチンはそれを見計らって門から飛び出し、まるで散歩に出かけるようなさりげないふうを装ってイワンの目の前に立った。
「どうも、こんにちは」
「ああ……先日の」イワンは悪びれもせず、自転車のハンドルがうまく門に絡まるツタにもたれるように調整している。
「実を言うと」とラキーチンはなるべく威厳を出しつつ言った。「それは私の自転車でしてね」イワンは心持ち赤くなったようだった。
「そうですか……それは失礼をしました。アリョーシャが乗っていたのを見たものですから」
 アリョーシャが? あいつ僕がいない時に使ってるのか? 坊さんのくせに。まあいい。
「へえ、それほど仲のいい兄弟だったとは知りませんでしたよ」
 さすがにこの棘には気づいたようで、イワンは小さく眉を顰めた。
「特別仲がいいわけではありませんが悪いということもありません。ただ近頃は滅多に会いませんでしたからね」
「そうですか? 弟さんのお名前も危うくお忘れだったかと思いましたよ」
 更に言うと、イワンは顔を青くした。怒ったらしい。
「あなたには関係のないことでしょう。とにかく自転車を勝手に使ったことは謝ります。それでは」と口早に言って離れようとするのに、「逃げなくてもいいでしょう!」と追いかける。
「何ですか? 自転車については申し訳ないと言ったでしょう。少し乗ってみたかっただけです。盗む気なんぞ……」
「自転車? 自転車なんてどうでもいいですよ! あなたは私が自転車のことなんか気にしてると思ってらっしゃるんですか?」
 ラキーチンは自分でも予想しなかったくらいにカッとなった。イワンは、怒りよりも何か不気味なものでも見るような顔でこちらを見ている。それを見ているとますます腹が立ってきた。
「イワンさん、あなたの論文を拝読しましたよ! あの神がいなければってやつです、ああ顔をしかめましたね。出来の悪い論文じゃないでしょうに。むしろ上出来ではないですか? 皆あの論文にかかりっきりなんだから。ああ、私は神学生でしてね、先日大学を卒業したところです。生まれた時から神に仕える環境にあった私があの手の論に腹を立てるのはおかしなことではないでしょう? いえ、怒っちゃいません。あなたのくすぐりはお見事でしたよ! ええ、あれがくすぐりだってことはちゃんと分かってます、私にもね、そりゃあなたのような方には私なんぞどうでもいいのでしょうが……」
 最後の一言を口走ってしまった瞬間に後悔した。まるでこれでは、本音を言ってしまったみたいじゃないか! イワンが唖然としているのにも、彼は恐ろしく腹を立てていたが、それ以上に羞恥が優った。
「まあどうでもいいことです。では!」と言い捨てると自転車に飛び乗って走り出した。くそ。あんなこと言うつもりじゃなかったのに。だけどあんな顔しやがるから。ラキーチンは、イワンの子供みたいな驚ききった顔を思い出して、またひとしきり腹を立てた。

 

 

閉じていく夏

 下宿の戸を開いたドミートリイ・フョードロヴィチはかなり苛立っていた。酒を過ごしたらしく、濁った目でうさんくさそうにスメルジャコフを見下ろし、げっぷをする。スメルジャコフは内心顔をしかめながら主人の息子に告げた。
「お休みのところ失礼をいたしまして……。明日の会合について確認に参りましてございます。もうすでにお手紙はお着きのことと存じますが」
 ドミートリイ・フョードロヴィチが煩わしそうに手を振ったのでスメルジャコフは言葉を切った。が、何も言わない。仕方がなしに言葉を続ける。
「……会合のお時間はお手紙に記載の通りで変更はございませ」
「捨てたよ! あんなもの!」
 ふいに大声をあげてドミートリイ・フョードロヴィチが言った。「親父からの手紙なんか取っとくもんか!」と鼻息荒く言う。
「ではご覧にならなかったので?」
「見たさ! お前は俺のことをそんな卑劣漢だと?」
「滅相もございません」
 スメルジャコフは身を縮めた。酒臭い息がここまで臭う。何か気に入らないことでもあったのか、ひどく深酒をしたらしい。もっとも、ここ数日は素面の時の方が少ないが。
「予定の変更はございません。それでは失礼いたします」
 頭を下げてその場を辞そうとするのを、ドミートリイが捕まえた。
「いつだ?」
「はい?」
「何時からだと聞いてるんだ!」
 ドミートリイは苛立った視線をスメルジャコフに向けた。時間を忘れたのは自分のくせに、言い直させたのが気に障ったらしい。スメルジャコフは慌てて一時だと口走ってからしまったと思った。確か本当は十二時からだ。一時間遅く告げたことが分かればドミートリイはひどく自分をぶつだろう。しかし訂正しようとすると途端に舌がもつれた。ドミートリイを前にすると、スメルジャコフはうまく体が動かないような気がする。彼の体躯とか声の大きさとか、つまりは暴力の気配が自分を怯えさせているのだった。彼の前に立つと自分が必要以上に小さくなっていくように感じる。上から叩き潰されて小さく平たくなっている……。スメルジャコフは自分で思い浮かべたその比喩に、瞬時にはらわたが浮き上がるような不愉快さを覚えた。
「間違いないんだな?」
「ええ、その通りでございます!」
 スメルジャコフは叩きつけるように答えた。反射的に頷いた返事であり、刹那に沸いた反抗心が押し出した言葉でもあった。ドミートリイはそれを聞くともう用はないとばかりに扉を閉めた。戸の閉まる音が聞こえた時、スメルジャコフは神経質に背中を震わせた。
(なあ、あのミーチェンカのやつに間違った時間を教えたらさぞ愉快だろうな……)
 昨夜、自分にそう囁いたのはイワン・フョードロヴィチだった。「あいつは時間を覚えていないだろうし、手紙も失くしているだろうよ。賭けてもいい」イワン・フョードロヴィチが低く喉をくっくと鳴らした。彼も酔っていた。肩に置かれた手が生温く湿っていた。どう答えるのが正解だろう? スメルジャコフはそっと唇を舐めて湿らせ、そろりと薮に手を差し出すように「ご冗談を」を言う。
「僕は結構本気なんだがな?」
 イワンは小首を傾げた。不満げな色が見え隠れしていた。が、まだそれは命令ではない。目の前の使用人をなぶって楽しむくらいの余裕はあった。スメルジャコフは哀れっぽい表情になって、「あの方は私を殴りますよ、ひどく殴ります」と拝むように言った。イワンの目の奥がビー玉みたいに揺れる。イワンはふうんと吐息を漏らし、それ以上追求はしなかった。そもそもこの考え自体単なる思いつきで、あまり執着はしていなかったのだろう。けれども結局、彼の望み通りになった。明日にはあの男は自分をしたたかに殴るだろう……。なぜあんなことを言ってしまったのかと思う。しかしあの場ですぐに訂正しても、ドミートリイは自分をぶっただろう。今更……。
 今更、何をしても。
 周囲は不気味なくらい音がしなかった。スメルジャコフはしばらくその場にいたが、そろそろと扉の前から離れ、帰途についた。

 

 

願いの星の夜

 君の研究もいつかは武器に使われる、武器そのものではなくてもそれを助けるために必ず使われる、と教授から言われた日、イワン・カラマーゾフは真っ青になり、黙って研究室を出た。大学を出て、そのまま歩き続けた。どこへ行こうというあてはなかった。屋根裏にある自分の部屋にも帰らず、ただ歩いた。教授の言うことが間違っていると思ったわけではなかった。それは正しいという直感があり、そのことこそが間違っていると思った。
 日が落ちて、夜になった。いつの間にかモスクワの外へ出ていた。ようやくイワンは立ち止まる。足はひどく痛み、靴は壊れかけている。修理するための金を稼ぐのに必要な記事の数を頭の中で数える。月は明るく、見上げた空には星の遠い光が見えた。イワンは何一つ許す気はなかった。今この瞬間からこれから先の全てにおいて、そんなことはあってはならない。イワンはそれが途方もない不可能な願いであることを知っていた。それでいて一切を許さなかった。何もかも、何が何でも、一切、決して、何一つ! イワンは一途にそう思った。自分がそう思うからにはきっとそうならねばならないのだと、自分でも不思議になるような頑固さでそう思った。

 

 

また今度

 マリア・コンドラーチエヴナの家に移るにあたって、パーヴェル・フョードロヴィチは、着替えと筆記具、それにコップを一つ持ってきた。持ってきたのはそれだけだった。あんまり寂しいようねと、マリアの母は父の遺した本を一冊、パーヴェル・フョードロヴィチに贈った。黄色い表紙の聖人伝だった。
 パーヴェル・フョードロヴィチは食事の時以外、あるいは食事の時も、部屋にいることが多かった。部屋で何をしているのか尋ねてもなかなか教えてくれなかったが、ある日フランス語の勉強をしていると教えてくれた。
 マリアが尋ねたのに答えたのではなかった。その時は全然別の話をしていた。いつもマリアが一方的に喋って、パーヴェル・フョードロヴィチはそれを聞いている。これから冬になるから薪が心配だとか、今日の針仕事はよくできたとか、そんなたわいもない話だ。パーヴェル・フョードロヴィチはいつも相槌しか打たない。マリアは沈黙が怖くていつも喋り過ぎてしまう。糸繰の糸を切らさないようにするみたいに。だけどそれも限界、ぷつんとマリアの話が途切れて訪れた静寂に向かって、パーヴェル・フョードロヴィチは、私は今フランス語をやっているんですと教えてくれた。まるで露が葉からこぼれ落ちるように、秘密にしているのに耐えられなくなったみたいに。
 素敵ですねとか何とか言ったと思うけど、パーヴェル・フョードロヴィチは、そんなことはありませんよと素っ気ない。「全然、ぜんぜん、進みゃしないんですから……」と嘲るように小さく呟いた。それっきり口を閉じている。気まずそうな、戸惑うような顔でカタツムリみたいに黙っている。マリアは焦って、だけどやっぱり素敵ですわとか何とか言った。話題を変えようとギターはどうしたのか尋ねたけれど、事件のどさくさで無くしてしまったという。残念ですねと言うと、今度はそうですねと頷いた。「朗読はお好き? 私、何か読んで差し上げますわ」と言ったのは、以前弾き語りを聞かせてもらったそのお礼のつもりだった。母の置いた黄色い本を出鱈目に開いて、そこにあった言葉を読んだ。パーヴェル・フョードロヴィチがじろじろ見るので緊張した。それで喉が締まったのだろう、途中で咳き込んでしまった。パーヴェル・フョードロヴィチは自分のコップに水を注いで飲ませ、もういいですよと言った。
「いつもはこんなではないの。また今度お聞かせしますわ。次はもっと楽しい本を持って来ます」彼は苦笑したかもしれない。ではまた今度、と言った。
「ええ、必ず。今度は……素敵な詩を持って来ます。お友達が持っているの。あれを借りて来ます。また今度、朗読をさせて下さいましね」
 マリアは友人の持っていた、美しい本を思い浮かべる。表紙の色は褪せて薄紫になっている。表紙を開いて最初に目に入る扉の、蔦と小鳥の細い飾り枠の素晴らしい、少女の手に持つために軽く作られた詩集だった。