さて、文献資料の整理と考古学的発見に加え、土壌の成分分析によってロボの実在を確認することができました。次なる問いは、「ロボとはいかなる存在か?」ということでした。
ロボの体を構成する主要な素材が金属であることは間違いありません。問題は神経系統でした。
人類が搭乗する場合も、遠隔で操作する場合においても、手足や姿勢の制御はある程度独立して行われます。文献資料によれば、頭部や上腕、足の付け根等、いわゆる「五体」(手足の数は型によって異なるため、これは便宜上の呼び方です)の継ぎ目に制御用の人工臓器(脳と呼ばれます)が埋め込まれていたようです。我々のシミュレートにおいても、制御用の臓器がない場合は、立ち上がることすらできないという結果が出ています。ロボとは人類の命令に従いつつ、ある程度自律的に動く存在だったと言えます。
自律的に動くと言っても、あくまでも姿勢制御が目的であるため、通例ロボは操縦者の命令がなければ動くことができません。操縦者の意思を離れて動くことはないように設計されている、というか、いわば操縦者がロボの意思となるわけですが、どうやら設計を離れて動くこともあったようです。
一つ例をお示ししましょう。巨大ロボ時代の人類の資料はそれほど残されていないのですが、口承文学は比較的多く現代に伝わっています。
そのうちの一つに、「優しいロボ」と呼ばれる一群があります。とあるロボ、これは話者によって大きさも型もまちまちですが、これがある日突然、命令通りに動かなくなった。右と言ったのに左に動く。まっすぐ歩いているつもりが、だんだん予定ルートから外れていく。故障かしらと思いつつ、操縦者は交換もままならないのでそのロボに乗り続けるわけです。この後はいくつかバリエーションがあり、操縦者がロボを捨てたり、癇癪を起こしたり、壊そうとしたり、ごく稀にねぎらったりします。しかし結末は同じで、ロボが何らかの形で自ら操縦者を庇って動作不能になる、というものです。
この種の話は各地に散在しており、またそれだけバリエーションもあります。あくまでも口承文学、つまり「お話」ですから割り引いて考える必要がありますが、ロボの自律性には比較的幅、言い換えれば、「遊び」が持たされていたのではないかと考えられます。
存在というのは意外にままならないものです。たとえ厳密に設計したとしても、目的の幅に対してぴったり合うようにはならないことはしばしばあります。この動作をさせたいならこの設計、というふうに、一対一にはいかないのです。この動作をさせたいなら、これとこれもできるようにしておかないと、結局うまくいきません、と、こうなるわけですね。全てのものは有機的に繋がりあっています。先ほど「目的の幅」と申しましたが、この動作をさせたい、の「この動作」には、どこかしら他の動作と関連していて、その関連まで含めないとうまくいかないのです。つまりは「大は小を兼ねる」ようにしなければいけない、ということです。
この「大は小を兼ねる」の、余りの部分、つまり目的には不要のおまけですが、これが「遊び」です。我々は、この「遊び」の部分に、「ロボとはいかなる存在か?」ということを解き明かす鍵があると考えています。
先ほど、制御用の臓器は五体の継ぎ目に配置されていることを申し上げました。つまり、操縦者を除いて、ロボには最低五つの「脳」が存在していたわけです。
さて、この五つの脳は独立して存在していたわけではなく、各部位が連携していました。これは姿勢制御のために必要な処置でしたが、この時に、この「遊び」の部分も連携します。ロボの体の中では、人類の目的のためには使われない、けれども潜在的に何かをすることのできる部位が、連携し、つながり合いました。この部位は、人類の目的のもと働いている部位にもつながっていて、そこから刺激を受けます。そうすると、何が起こるでしょうか。
先ほどの「優しいロボ」のように、人類の意思を完全に離れた自律的な動きも発生しうるのではないでしょうか。
人類は、この自律性をさまざまな名前で呼びました。意思、mind、Ψυχή《プシュケー》、精神《Jīngshén》、等々。つまりは、「心」です。
ロボとは、身体と心を備えた存在だったのではないか。先ほどの「ロボとはいかなる存在か」という問に対し、我々はこのように考えています。
もし、ロボに心があったとしたら、そしてその痕跡(これを人類は「幽霊」と呼んでいました)を観測することができたら、ロボのみならず、骨も皮も残さずに消滅してしまった人類とは、一体いかなる存在だったのか、という問にも一歩近づくことができるかもしれません。
私の話は以上です。ご静聴ありがとうございました。
参考文献
ピーター・ゴドフリー=スミス著、夏目大訳『タコの心身問題』みすず書房、2018