机の上に寝かされたパーシャを眺めながら、どうして、とマルファ・イグナーチエヴナは思う。けれどもどうしての先に言葉は続いていなくて、彼女自身何を問いたいのか分からない。マリア・コンドラーチエヴナは、さっきまで取り乱していたが、今は別室で眠っている。彼女のことは母親が見ているだろう。
マルファは部屋に置いてあった椅子に深く腰掛け、肘を腿の上について、組んだ指を唇に当てている。時々口元が小さく動いて白い息を吐いたが、声は出なかった。瞑想しているようにも見えたし、祈っているようにも見える。実際にはそのどちらでもなく、これから入用になるものと様々な段取りと、その他の日常的な雑事が頭の中をめまぐるしく駆け巡っていた。それはマルファがこれまでの人生で培った癖のようなものだった。十やそこらでもうマルファは一人前、ということになっていた。要領が悪いと叱責が飛んでくるし、段取りがうまく行けば得意になりもした。そんなことの積み重ねで、マルファの頭の中ではいつも、今やるべきこととこれからしなければならないことが、整列させられるのを待っていた。
どうして、はその雑事の奔流の中で、時々泡のように浮かび上がった。しかしその後がないから、結局すぐに弾けてしまう。ただでさえ考えることが多かった。主人が殺されるという恐ろしい事件が起こり、その下手人はこの家の長男だった。幼い頃にあの家で暮らし、彼女も風呂に入れたことのある坊ちゃんだ。夫はその証人として裁判に出席している。事件が起こった時、自分は眠っていた。目が覚めると夫がおらず、事件の全てが終わった後だった。だから、裁判の欠席もあっさり認められた。たぶん養い子が亡くなったという理由でなくとも、風邪気味だとか日が悪いとか、そんな理由でも認められたに違いない。
パーシャは白いテーブルクロスの上に寝かされている。汚れた服ではなく、新しい服を着せたかったが、体が硬くなってしまってできなかった。せめてもと被せたシーツの上をごきぶりが這う。マルファは組んだ指をほどいて椅子から立ち上がった。机を拳で叩き、ごきぶりを追い払い、踏み潰す。どうして、と思う。どうしてこんなところに寝ているの?
打ち解けない子だった。それでも小さい頃は子供らしく甘えることもあったが、背丈が自分の胸くらいになるとぱったり止んだ。疑り深い眼差しに腹が立ったのも、一度や二度ではない。物覚えは早かった。仕事も文字も、教えるとすぐに要領をつかんだ。そういえば言葉を話すのも早かった。イワン坊ちゃんに時々何か、子供達にしか分からない言葉で話しかけていた。料理は本当に上手かった。きっとペテルブルグかモスクワか、どこか都会でレストランを開けるに違いない、と思うのに、本人にはその欲がない。洒落者でもあった。女中奉公をしていた時に見たどんな旦那よりも垢抜けた格好をしていた。モスクワでのことは、あまり話してはくれなかったが、何通か絵葉書を寄越した。銅版ではなく、石版の彩色のやつだ。聖ワシリイ大聖堂や生神女就寝大聖堂、河を望む風景。元気でやっているという短い文言が走り書きされている。物語は嫌い。小さい頃に聞かせてやった寝物語は、ボガトゥイリの冒険も聖者様の奇跡も気に入らず、気難しい顔をして、今思えば退屈で仕方なく眠っていたという感じだった。音楽は好きなようだった。いつの間にかギターを持ち込んでいたし、村に楽隊や芝居が来ると、舞台から少し離れたところに静かに立ち、バラライカやドムラの音に耳を傾けていた。近くで聞けばいいのにと言うと、芝居はあまり好きではないからと言った。「それにアコーディオンもないじゃないですか。昔ながらのバラライカばっかりですよ。こんな田舎にはアコーディオンなんか来ないんです」とひねくれたことを言う。そこは確かに、離れているわりに楽隊の演奏のよく聞こえる場所だった。
彼は庭や家の中からいつの間にか姿を消して、村の木立の中から姿を現す。抜け道や裏道をよく知っていた。モスクワへ行く前は、叱られるたびにそういう道を使ってどこかに身を隠していた。大人になってからは、市場かどこかへ寄るのか、きのことか、新鮮な野菜や果物なんかを持って帰ることもあったが、何も持たずにふっと消えて現れることの方が多かった。動物は概して嫌いだった。猫も犬も、鶏を獲るからという以上に嫌って、手酷く扱った。ガリガリに痩せて疥癬のかさぶたがあちこちにできているようなのは、特に嫌った。鶏どころか死にかけのコガネムシも獲ることのできないような哀れな動物たちに、彼は石を投げ、毒や針を食べさせた。パーシャは彼らを嫌っていた。たぶん、この世と同じくらいに。
彼が死んだことは、その遺書の文言とともに村中を駆け巡っている。おそらく夕方には、赤ん坊ですら彼の死を知っていることだろう。なぜ彼が自殺したのか、すでに様々な憶測が飛び始めていた。なぜこんなタイミングで死んだのか、あの遺書の本当に意味するところは何か。彼が真の主人殺しであると坊ちゃん方も言っているらしいが、一方で、あんな臆病者に大それたことができるはずがない、とも言われている。
しかし、全ては憶測だ。誰かの頭の中の想像だ。お前が起き上がり、自分の口で語らないなら、私は何も聞かない、とマルファは思う。そして彼のほつれた前髪をかきあげ、額が出るように綺麗に直してやる。額にはうぶ毛がなく、つるりとしていた。頬にも髭がなく、綺麗に剃られていて、もみあげがきちんと整えられている。
火の気に乏しい部屋の中は、すでに死臭が漂い始め、遺体の悪臭と混じり始めている。彼女は夏に亡くなった長老のことを思い出した。亡くなってすぐに腐臭が漂い、耐え難いほどの悪臭を放ちながら埋葬されたという。夏と違い、今は腐敗も緩やかだった。
マルファが部屋から出ると、マリア・コンドラーチエヴナが、部屋の前でしゃがみ込み、顔を覆って泣いていた。マリアの部屋の戸は開いていて、疲れた母親がベッドに突っ伏して眠っているのが見えた。
「お友達だったんです」
とマリアは言った。
「お友達だったんです。あの人にとって私はあまり重要な人間ではなかったかもしれません。でも、私たち、お友達だったんです……」
マルファはそのそばに膝をついて座り、震える肩を抱いた。しゃくりあげる声が耳に入ってくる。涙も一緒に入って来そうだ、とマルファは思い、目の端を流れて耳の中に入ってくる冷たい幻を感じる。彼にも追善料理を作ってやらねばなるまい。自分は料理が下手だが、ブリヌイくらいは焼いてやらなければ。鮭やクリームは店で買って来よう。誰も招待しないで、ひっそりと、私たちだけで……。マルファは寒い部屋で一人、机の上に寝かされているパーシャの姿を思い浮かべる。彼は教会の墓地に眠ることはない。埋葬は拒否され、葬儀も通常の形では出せず、遺体は春が来るまで村のはずれの安置所に置いておかなければならない。そこには行き倒れの旅人や、喧嘩のはずみで命を落とした若者や、川で溺れ死んだ子供などがいて、肉や骨の見えた腕を絡め合わせながら、地に帰る日をひっそりと待っている。
フョードル・カラマーゾフが死んだ今、夫と自分は、裁判が終わるまでひとまず留め置かれている状態だった。坊ちゃんたちはもはや自分たちを必要としていない。屋敷もいずれ処分することになるだろうが、どこか別の場所で新しい生活を始めるには、夫も自分も年をとり過ぎていた。ここを出ていかなければならないとしても、セミークまではこの村にいたい。春が来れば、あの子をこの地に埋葬することができる。春たけなわの大地は、他の不幸な死者たちとともに、あの子を受け入れてくれる。それまで、心の中で祈るくらいは許されるだろう……。
生活にかかる金を、マルファ・イグナーチエヴナは一つ一つ勘定し、金を借りられそうな人々の顔を思い浮かべた。そうしながら、泣きじゃくるマリアの肩を、ゆっくりとさすっていた。
【参考】
「聖霊降臨祭」ロシアフォークロアの会なろうど『ロシアの歳時記』東洋書店新社、二〇一八年、一〇九〜一一三ページ
「ルサールカ」同上、一三一〜一三四ページ
またセミークと自殺者の埋葬については、杉里直人氏よりレクチャーをいただきました。