返せに関する三つの挿話

「返せ!」
と思わず強い口調で言ってしまったことを、イワンはすぐに後悔した。が、弟は、ただ大きな音にびっくりしたみたいに目をぱちくりさせたあと、イワンの目を見つめてにっこり微笑み、手につかんだノートの端っこをゆっくり口に含んだ。
「あああ……」
 イワンは自分のノートが弟の唾液でべしょべしょになっていくのをなすすべもなく見つめていた。それは先日、珍しくフョードルが子供たちを母屋に入れ、菓子をふるまったあとで、「何、こんなものが欲しいのか?」とくれたものだった。イワンはそれに、覚えたての単語を書いて練習していた。もちろんフョードルに見せるためでもなんでもなく、ただ自分のためにやっていたことだ。グリゴーリイは何か勘違いして涙をぬぐっていたが。
 弟は幸せそうにもぐもぐとノートをしゃぶっていたが、そのうち満足したのか「ま!」とイワンに返した。
「どうも……」
とイワンは受け取り、ページをぱらぱらめくる。端っこはべろべろになっているが、あとは大丈夫だ。と、イワンは表紙に目を留める。表紙は黒いボール紙でできていて、少し分厚くなっているのだが、その隅の方に、小さな小さな爪でひっかいたような跡がついている。
「アリョーシャ、お前歯が生えたの? 見せてごらん、ほら、兄さんに見せて」
 弟は、ほら、ほらと言う兄を見つめてきゃっきゃと笑う。ピンク色の歯茎から、小さな白い歯が頭を覗かせているのが見える。笑った拍子にこぼれたよだれをイワンは袖で拭いてやる。

 ちょっと見せてほしいだけだった。そりゃあからかう気持ちも多少あった。でも、多少、本当にほんのちょっとだったし、そこには親愛の情だってあったのだ。それなのに、
「返せ」
と強い調子で言われたので、やっぱり返さないことにした。
「返してほしけりゃ自分で取り返してみな!」
と言い返した自分は我ながらなかなか憎たらしかっただろうと思う。
 などと冷静に当時のことを思い返すことができるのは、それが実に半年以上前の出来事だったからである。取り上げて、本や折れたペンやらと一緒にトランクの中に放り込んで、そのまま忘れていた。半年以上。冷静になっている場合ではない。
「はは。まずいな……」
 半年ぶりに見つかった「戦利品」は、きちんと製本された本で、表紙をめくると『天体の運行に関する最新知見及び考察』という堅苦しいタイトルが書かれているタイトルページが現れる。分厚くて文字も小さくて知らない数式が並んでいて、どう考えても中学生向けの内容ではない。さすがにあのカラマーゾフの持ち物、というわけだ。
 イワン・カラマーゾフは秀才だ。優秀な少年を集めたというこの学校の中でも飛び抜けて優秀だ。だから、というわけでもないだろうが、なんとなく取っ付きづらい。周囲の少年たちに混じらずにいつも本を読んでいるか、教授に質問をしに行っているかのどちらかで、みんながゲラゲラ笑うような状況でも滅多に笑わない。周りを見下しているんだ、というもっぱらの評判だった。しかし、だからと言って本を取り上げていいわけではないし、それを返さないまま半年以上自分の懐に入れているのはなお悪い。しかもこんな高価そうな本を……返せとも言わないのは、いつでも読めるからか? イワン・カラマーゾフの服はいつでもぴかぴかで、靴だってサイズにあったやつを仕立ててもらっている。自分は大きめに仕立ててつま先に靴下を詰めて履いていたのが、この半年できつく……いや、そんなことはイワン・カラマーゾフには関係ない。
 いつでも正直になさい、と母も繰り返し言っているではないか。
 勇気を奮い立たせて返した本を、イワン・カラマーゾフは「ああ」と言ってあっさり受け取った。「ああ」。「ああ」だって! まったく素っ気ないもんだ。
「悪かったよ」
「いいよ、別に」
 これもまたあっさりしている。なんだかあれだけ悩んだのがバカみたいだ。イワン・カラマーゾフがさっさと話を切り上げたそうにしているのはわかっていたが、なんとなく意地悪な気持ちになって話を継ぐ。
「それにしても、君は本当に優秀なんだな。少し読んでみたけどさっぱりだったよ。こんな大人向けの本がもう分かるんだからな」
「別に……」
 別に。また別に、か!
「いやいや、謙遜するなよ。僕だってちょっとしたもんだと思ってたけど、君と来たらほんとうに優秀なんだから。驚いたよ!」
「……やめてくれ」
 イワン・カラマーゾフは不機嫌そうに言葉を発する。それを見ているとなんだかむかむかした。これはまずいぞ、と頭の端っこで危険信号が点滅したが止まらなかった。イワン・カラマーゾフが本を持って歩き出すのにくっついて、彼を褒め称える言葉をまくしたてる。君のような子供がいるんじゃ一族はさぞ鼻が高いだろう、末は国を背負って立つに違いない、どうか僕らのような凡人を導いてくれ、等々。イワン・カラマーゾフはむっつり黙って早足で歩いていたが、そのうち耐えられなくなったように、
「いい加減にしてくれ!」
とどんと胸を突いた。そんなに強い力じゃなかった。もちろんやり返そうとしたさ、それで彼の胸ぐらをつかんだのだが、彼の顔を見てふと気力が萎えてしまった。真新しいハンカチみたいに青ざめて、歯を食いしばって、ものすごい苦痛を耐えているような顔だった。
「……ごめん」
「いや、いい。乱暴して悪かった」
「いや、本当に! あんなこと言うべきじゃなかったと思ってる。信じてくれ」
「うん」
 彼があっさりしているのが、今度ばかりはありがたかった。
「本当に、本当に悪かった。心の底から言ってるんだ。僕の母に誓って言う。信じてくれる?」
「うん」
 またイワンはあっさり言ったが、一瞬置いてから「信じる。僕の母に誓って」と付け加えた。
「ああ、よかった。また母さんに叱られるとこだった」
「君の母さんは怖いの?」
「ううん。優しいよ。だから叱られるようなことしたくないんだ。って思ってはいるんだよ、本当に……思っちゃいるんだけどさ……」
 母は優しい。悲しませるようなことはしたくない。だけど嘘をつくのもいやだから、自分は帰省したときに悪事を全部白状して、悲しい顔をした母に叱られる。今日のことも母に言うだろう。母は自分を叱るだろう。でも、イワンがゆるしてくれたなら、大丈夫だ。
「本当を言うとね」
とイワンがいきなり言った。
「この本は全然わからなかった。それに、これは古い本なんだって。先生が、今はもっといい本が出ているし、これは僕向けじゃない……つまり、全然子供向けじゃないから、読むべきではないってさ。貸してくれた人も僕も全然気がつかないんだもの、嫌になるね」
 イワンはふいにあはははと、自分たちがそり遊びする時みたいな快活な笑いをあげた。
「これは君の母さんには言うなよ」
「うーん、どうしようかな。きっと言っちゃうよ。僕嘘が下手だもの」

「返せよ」
とイワン・カラマーゾフは言う。「それは僕の考えだ……盗むな……」
「別に盗んだわけじゃない。君からは何も盗ったりしないよ。僕は君だもの」
 悪魔が言って、イワンのこめかみに口付ける。