子供の学び
「ワーニャ!」
と声がする。
「わあああああにゃ」
弟の声だ。イワンは鼻を一つ鳴らして読んでいた本から顔を上げた。あのトロくさい弟にここが見つけられるとは思えないが、万一ということもある。イワンは本を閉じ、「秘密基地」から音を立てないように抜け出した。幸い弟は背中を向けていた。
「アリョーシャ。靴紐が解けてる」
足元を指さすと、弟はぽかんとした顔でイワンを見つめた。瞳がまん丸に見開かれている。母親と同じ色の目には周りの木立が丸く歪んで映っている。イワンは本を脇に挟んでしゃがみ込んだ。弟はまだ靴紐が結べない。ほどけていたのを結び、縦結びになっていたもう片方もほどいて綺麗に結び直す。二つ並んだ蝶々結びは弟の気にも召したようで、かかとを上げてその場で小さく跳ぶ。
「ワーニャ」
「ありがとうは?」
「あいまと」
弟が手を差し出す。繋がれることを疑わない小さな手を握りしめ、家へと向かう。テラスでは茶の準備ができている。それで呼びに来たらしい。ふいに弟がくしゃみをした。膝をついて垂れた洟を袖で拭ってやる。前にもこんなことがあった、とふと思う。
ワーニャ、靴紐が解けてるぞ。
イワンを教会に連れて行くのはいつも兄のドミートリイの役目だった。もちろん、グリゴーリイも一緒だったから厳密に言えば彼ではない。それなのに、イワンの記憶の中では常にドミートリイに手を引かれているのばかり思い出されて、グリゴーリイの姿が見えないのだ。イワンの手をつかんで、ぐいぐい引っ張っていく兄を、後ろからずっと追いかけていたからかもしれない。
教会に行く日は朝から大騒ぎだった。綺麗な服を着て、清潔な靴下を履いて髪もとかさなければならない。イワンにそれらを着せる役割をドミートリイは召使いたちから嬉々として取り上げた。持ち物をいちいち確認するのもドミートリイで、くしゃみでもしようものなら、自分のハンカチをポケットから引っ張り出してイワンの鼻を拭いた。準備ができたら弟の手を引いて教会の門を潜る。お祈りの仕方は家でグリゴーリイやマルファに習ったのに、ドミートリイはイワンの横にまとわりついて、しきりと手の形だの聖書の文言だのをささやく。極めつけは、あれだ。
「ワーニャ、靴紐が解けてるぞ」
ドミートリイは言うが早いがその場に膝をつき、イワンの靴紐を素早く結び直した。説教が終わり皆が帰りかけた時だった。靴紐くらい、その時のイワンは結べた。たぶん。いや、どうだったろう。ともかくその時は、周りの大人達の視線が自分達に注がれているのが妙に居心地が悪かった。
「イワン坊ちゃん、どこにいらっしゃったんです。また秘密基地ですか?」
「……言わない」
「まあ、本当に口の固いこと」
ほほほと笑うのに構わずイワンは茶に口をつけた。弟はまだ茶碗を見つめて冷めるのを待っている。この間、うっかり口の中を火傷したのを気にしているらしい。
イワンの「秘密基地」はドミートリイから譲られたものだった。一見何て事のない木だが、三つに分かれた股のところに浅い窪みがあり、小さな子供ならそこに身を隠せるようになっている。周囲の木がちょうど視線を避けるような具合に生えているせいで、外からは一見したところわからない。窪みにぴったり身を寄せていれば、弱い雨くらいなら避けることができた。細かい糸みたいな雨が降る日、そこに身を隠して空を見上げると、雨雲を覆い隠す葉の重なりから、雨粒が滴って額に落ちた。
ドミートリイはこの類いの場所をたくさん持っていた。「お前にはいるだろ?」と、そのうちの一つをイワンに譲り渡したのだった。「これでここはお前の場所だ。俺は絶対近づかないし、そこにあったことも忘れると誓う」という大仰な言葉とともに。実際ドミートリイはそこには近寄らず、ただ雨が降りそうな時にだけ、遠くからイワンの名前を呼んだ。そのすぐ後に別々の家に引き取られたから、その後も本当に誓いが守られたかどうかは分からない。
その後、とうに成人して帰郷したイワンは、その時のことは覚えているものの、秘密基地の場所もその見つけ方も忘れてしまった。庭を歩いてみたが皆目見当がつかない。イワンは目についた切り株に腰を下ろした。疲れたのと、子供の目線で庭を眺めれば何か見えてくるかと思ったが、特に何もなかった。もっとも、あの木が残っているか保証はない。父なら庭の木だって売りかねない。これが悪い冗談にならないのが、フョードル・カラマーゾフという人間だった。ドミートリイのいくつもある秘密基地も、父や父の連れてきた悪徳から逃げるためだった。
それにしても、ドミートリイはどうやって学んだのだろう。庭に無造作に生える木の中から、自分を匿ってくれる友人を見つけ出すということを。ほどけた弟の靴紐を結んであげるということを、誰から学んだのだろう。明るい曇りの日にも近づいてくる雨の気配を、たくさんのベリーの生る場所の見つけ方を。酔った父親が部屋にやって来た時に、弟を箪笥に隠して父親の手に噛み付くなんていうことを、彼は一体、どこで学んだのだろうか。
子供の記憶
アレクセイ・カラマーゾフは言葉が遅かった。三歳になっても家族の名前と、「はい」か「いいえ」かの簡単な意思表示しか口にしなかった。どうやら言葉は分かっているようだし、これは周りにいるのが大人ばかりだからだろう、イワン坊ちゃんも歳の割には大人びているから、それで甘えているのだろう、と、アリョーシャは放っておかれた。
アリョーシャの世界には光が満ちていた。小鳥の鳴き声と木を切る人夫たちの仕事歌、白樺の葉ずれの音、食器の擦れる音、虫の羽音と人々の言葉を彼は区別せずに聞いた。形を変えながら流れていく雲、小さく円弧を描きさえずりながら飛びすぎるヒバリ、耐えかねるように枝から離れてシダの茂みに落ちる木の葉、ゆっくり開くきのこの傘を彼は見つめる。見たり、聞いたり、という意識はなかった。アリョーシャはその全てを自分に降り注ぐ光として認識した。その意味で世界はあまりにも眩しかった。眩しすぎて、たくさんの光がありすぎて、それで満たされてしまうから、言葉を発することができなかった。
「ワーニャ!」
彼が呼びかけるのは家族だけだった。
「わあああああにゃ」
呼ぶと兄は森の懐から出てくる。兄の後ろには、今まで兄を抱いていた木が立っている。アリョーシャは自分に降り注ぐ兄たちを全身で受け止める。アリョーシャの伸ばした手を兄が握りしめる。兄の手は温かく、アリョーシャの感じる光の中で兄の姿だけが輪郭を持って浮かび上がる。
「ワーニャ」
「何、アリョーシャ」
「ワーニャ」
「絵本かい? お茶の後ならいいよ」
兄はアリョーシャの意図を理解しなかったが、それでよかった。そもそも、自分に降り注ぐ光の中で、兄は今ひときわ強い光である、というようなことを、うまく説明できそうにない。だから名前を呼ぶ。兄の名も光の一つだ。
天気のいい日はテラスでお茶をいただく。カップに注がれた紅茶の表面に空が映り、刷毛ではいたような薄い雲がくちゃくちゃになって流れていく。アリョーシャはそれをじっと眺めている。彼の鼻息で空はたびたび乱れた。「アレクセイ坊ちゃん、紅茶が冷めてしまいますよ」とマルファが言う。
「ミーチャ」
もう一人の兄の名前を呼ぶ。
「ミーチャはいないよ」
兄—— イワンが応じる。もう一人の兄は、イワンよりも大きく、ほんの少し一緒にいて、すぐにどこかに行ってしまった。
「寂しい?」
「ううん」
嘘ではなかった。この光のどこかにミーチャがいるに決まっているからだ。ここにはワーニャもいて、名前を呼ぶと、なあに、と尋ね返す。なあに、アリョーシャ。兄の声は柔らかくて心地よかった。マルファが冷めた紅茶を庭に捨て、熱いのを入れなおした。
ある夜、「アリョーシャ」とささやくような声で兄が呼ぶ。「アリョーシャ!」昼間で疲れ切っているから、アリョーシャは繭の中の蚕のように眠る。兄がまだ眠り足りない様子のアリョーシャを抱きかかえて持ち上げると、繭は完全に破れる。兄はそのまま箪笥の戸を開けて、中にアリョーシャを隠した。と同時に、がなり立てる声が部屋の中に入ってくる。兄が慌てて箪笥の中に隠れ、扉を閉める。
箪笥の戸の隙間から、母の寝床に近づく男の影が見える。お母さん、と声が出そうになったところで、兄の手がアリョーシャの目を塞いだ。「静かに……」兄が背中から囁く。やたらに陽気な男の声、何かが倒れたり壊れたりする音、布を擦り合わせる音に紛れて、引き攣った女の声がした。
背中で押し殺した声が聞こえる。肩に兄の熱い吐息を感じた。兄の腕が自分を締め付けんばかりにきつく抱きしめる。繭は今や兄の腕になり、固い殻になった。兄の体の細かな震えが背中を通して伝わって、アリョーシャは、小さく兄の名前を呼んだ。
グリゴーリイが割って入って父を母から引き離すまでの数分間、イワンはアリョーシャの背中に顔を押し付けて嗚咽をこらえていた。箪笥から出た時には、イワンはもう、頬に垂れた涙を拭って、自分に抱きついて震えている弟の肩を抱いていた。汗の匂いと、熱と、わずかばかりの痙攣が嗚咽の名残だった。
語彙が増え、言葉を自由に話すようになった時から、それ以前の記憶は、アリョーシャの中で急速に薄れていった。けれどもその時のことは、背中に感じた微かな震えとして、記憶の中に残っていた。
子供の疑問
父親は嫌いだ。だから噛みついてやった。悲鳴を上げたときは胸がスッとした。その後殴られたけど構わなかった。新しい母さんは好きだ。母というより姉のような歳の彼女が自分をどう思っているのかわからないけど好きだ。新しい母さんの産んでくれた弟たち二人も好きだった。ワーニャと、アリョーシャ。
雪の日は嫌いだ。風があると外でそり遊びも何もできない。召使小屋は隙間風が多かったけれど、窓の目張りをして、厚手の布を張り巡らして、大きな年代もののサモワールまで焚いているからむしむしと暑いくらいだ。霜焼けがむずむず痒くて、ドミートリイはしきりと指をかきむしる。
隣では小さな弟がもっと小さな弟を膝に乗せて絵本を読んでいる。自分も読んで、そしてすぐに飽きてしまった文字の絵本だ。一ページに一つずつ、絵と単語が載っている。ワーニャが繰り返し読むものだから、本の綴じ糸ははずれかけていた。
アリョーシャは、わかっているのかいないのか、彼の母さんそっくりの大きな目で絵本のページを見つめ、時々絵本のページを指差す。その度にワーニャが絵解きをしてやった。アリョーシャの指差しは全く気まぐれで、何ページ読んでもちっとも反応しないかと思えば、同じページばかりを指差すこともある。どちらの場合もワーニャは一定の速度で絵本を読み進み、何度でも同じ絵解きをした。その辛抱強さには本当に感心する。自分ならとっくに癇癪を起こしている。今日のアリョーシャのお気に入りはБで、頭巾を被ったおばあさんが描かれたページを繰り返し指差している。
「それはおばあさんだよ。おばあさんが連れているのはアヒル……」
ワーニャの絵解きはたまにバリエーションが挟まれる。おばあさんのスカートの色だとかカゴの中のきのこだとか。アリョーシャは何が気になるのか、やっぱり同じページを指差す。
「それはおばあさん……」
「悪霊だ!」
割り込まれたワーニャがむっとした顔でドミートリイを見る。
「邪魔するな、ミーチャ」
「同じ単語だと飽きるだろ。Бは悪霊のБだ。なっ、アリョーシャ」
アリョーシャはにっこり笑うと、また同じページを指差した。
「気に入らないってさ」
「それはお前だろ。そら、家の外には悪霊どもが……」
「あっち行けよ」
ワーニャが上擦った声で言ってドミートリイの胸を押した。目が潤んでいる。怒った時も悲しい時もワーニャは泣く。このままだとまた泣かせてしまいそうだ。そしたらまた叱られる。それはごめんだ、とドミートリイは退散した。何か面白いものはないかと家の中をうろつき回る。新しい母さんは今日も伏せっているだろう。自分以外は皆忙しそうにしている。いや、一人、暇そうなのがいた。食糧庫の扉の前でぼんやり座っている。「パーシャ」と呼ぶとのろのろ顔を上げる。
「なあパーシャ。そんなとこで何やってるんだ? 台所で何焼いてるか見にいこう」
パーシャはゆっくり首を傾げる。張り合いのないやつ。こいつはアリョーシャより小さいからしょうがない、と内心嘆息しながら、ドミートリイは霜焼けだらけのパーシャの手を掴んで立たせ、台所まで引っ張っていった。パーシャはよちよちと着いてくる。
台所を覗くと、マルファが忙しそうに何か捏ねている。お菓子がいいけどたぶん違う。「パーシャ」
とドミートリイは耳打ちする。
「何作ってるか、偵察してこいよ」
パーシャは、ていさつ? と言うようにドミートリイを見上げる。
「偵察ってのはな、こっそり入って、重要そうなものを持って帰るんだ。そら」
ドミートリイはパーシャの背中を押して台所に入れる。パーシャはよたよた歩きながら、台から垂れ下がる布巾や、床に置かれたバケツに小さな手で触れる。そのままよちよち歩いてマルファの足にぶつかった。マルファが悲鳴を上げる。
「こら! だめじゃない、ここに入ったら……坊ちゃん! あなたですか!」
マルファが粉だらけの手を振り回す。ドミトリーはパーシャを置いて逃げる。かわいそうに、パーシャは今頃怒られているかも。でもあいつは小さいから、怒られないかな? ドミートリイは外に逃げて、母家に隠れる。父が呼んだ女たちの声がしている。そのうちグリゴーリイがやってきて、女たちを追い散らした。母さんはどうしているだろう。こっそり寝室に行こうと思ったけれど、グリゴーリイに見つかって召使小屋に帰されてしまった。
その日の夜、食卓に登ったのはマルファの捏ねていたパンだった。おそろしく歯ごたえがあってぱさぱさしたそれを、ワーニャもアリョーシャも、もくもくと噛んでいる。ドミートリイはウハーでパンを流し込みながら、ふと疑問に思ってグリゴーリイに尋ねる。
「グリゴーリイ、どうしてパーシャは一緒に食事をしないの?」
それに対するグリゴーリイの答えは至極簡単だった。
「あいつは坊ちゃんとは身分が違いますから」
ドミートリイの返事もやはり簡単だった。
「ふうん。そうか」
こうしてドミートリイは、とある童の前を通りすぎたのだった。
子供の遊び
猫を殺すと殴られた。祈祷をあげて丁寧に埋葬したのに、司祭の真似事は冒涜的だからと、もっと手ひどく殴られた。猫たちは、町の片隅で勝手に繁殖し、ネズミをとったり食べ物を掠め取ったりしている薄汚れたやつらで、花壇や軒先に糞尿を残す。女中や肉屋が気まぐれに何かの切れ端をやっているから、捕まえるのは苦労しなかった。子猫はもっと簡単だった。弱っていればなおさらだ。
普段は猫など見向きもしないのに、女中たちは自分を猫殺しの不気味な子供だと嫌った。こいつあのスメルジャーシチャヤの息子だって、ほんとかよ、尻尾があるか確かめてやれ、と服を脱がされたこともある。なんだ、やっぱりないじゃない。裸で震えている彼を見て、女中たちは指をさして笑う。取り上げた服を高い木の枝に引っ掛けると、彼女たちはもう飽きたというように仕事に戻って行った。旦那方は下男を殴り、下男は女中のスカートをめくりあげ、女中たちは子供をいじめる。そして子供は子猫を殺す。
坊ちゃん方はそういう品のないことはなさらない。彼らは陰湿にやる必要はない。ただ殴る。お日様の照らす往来で自分の召使いを殴る。アレクセイ・フョードロヴィチは、何か気に入らないことがあったりすると、よく自分に玩具をぶつけたり叩いたりしたものだった。やると気が済むのか、天使みたいな笑顔でにっこり笑う。イワン・フョードロヴィチがいるときは、彼が止める。
「だめだよ、アリョーシャ」
と弟を抱きとめて玩具を取り上げながら、イワン・フョードロヴィチは言う。
「パーシャはお前よりも小さいんだから」
アレクセイ・フョードロヴィチは、鼻ちょうちんを膨らませながら、兄の肩や顔を叩き、洟をシャツに擦り付けた。
その後二人は親戚の夫人に引き取られ、自分はこの、淫蕩と放蕩のカラマーゾフの家に残った。マルファとグリゴーリイに育てられ、殴られ、猫を殺した。子供たちの世界の中で、私生児、それも浮浪者の女の産んだ、「カラマーゾフの旦那」の「おぞましさ」の結果の子供など格好の標的だったが、子供の足ではほとんどどこにも逃げられなかった。
そのうちに、裏庭に逃げることを覚えた。庭には木が生い茂っていて、ぼうぼうと生えた羊歯は自分の小さな体を隠した。庭に入っているのをグリゴーリイに見つかると面倒だから、子供たちは深追いしない。森の中は、葉の影が落ちて全体的に薄青く、湖の底のように見える。草の陰に隠れて、逃げる間に垂らした涙やよだれを拭う。顔や手に虫たちが寄ってくる。指の上をミツバチが這い回ってくすぐったい。そっと指を閉じると、ミツバチは胴体ごと脚を数本挟まれて、その場でばたばたもがく。しきりに羽ばたかせる羽根が、指の腹に当たる。そっと指を開くと、ミツバチは慌てて逃げて行った。指の腹に、もげた脚が一本くっついていて、木の皮にこすりつけて取る。
花壇のミミズはスコップでぶつ切りにした。蝶の羽はむしって胴体を窓枠に並べた。ミミズは頭を切り落とされてものたくっていたし、蝶々は細い脚でよちよちと歩き、窓枠から落ちた。猫殺しを教えてやった同い年の子供は、最初は一緒に楽しんでいたくせに、いつしか自分を避けるようになった。だからスメルジャコフは、また一人で猫を殺し、丁寧に祈祷をあげて庭に埋めた。裏庭と、召使小屋と、スメルジャコフの手の中の小さな世界で、生き物たちは無惨に死んでいく。それはたぶん、どの子供も多かれ少なかれ持っている全能の世界だったが、どの子供もそれぞれにたった一つだけの世界で、スメルジャコフのものは取り分け生命の影に満ちており、孤独だった。
裏庭にはたくさんの猫の骨が埋まっている。グリゴーリイが思うよりずっとたくさんだ。猫を埋めた森は、夏、青々とした下生えを生やして、そこに木漏れ日が落ちる。小鳥や蝶々、蜂や甲虫がその上を飛び交う。マルファが時々ベリーやきのこを探す。誰もが猫の墓を踏みながら暮らしている。それを悼む人は誰もいなかった。
フョードル・パーブロヴィチのお葬式では、誰も泣かなかった。自分の殺した猫たちと同じだ。祈祷の言葉は死者の棺の上を滑り落ちていく。殺してもただじゃ死なない、などと言われていた男は、今やただの死体となって棺の中におとなしく横たわり、柔らかなものの何一つない土の中に埋められても、一言も不平を漏らすことはなかった。
葬儀はフョードルのような不信心者にも平等に行われる。そして、彼のような不心得者であっても、神の罰は下らない。彼と言う存在は、ここでは完全に看過されていた。儀式は退屈なほどにつつがなく進み、時間通りに終わった。
かわいそうな猫たち。かわいそうなお父さん。みんな死んでしまって、もういない。フョードルの埋められた墓地にはつるバラが這いまわり、あちこちで夏の名残の花を咲かせている。