啓示

 なんだかふつうだねえ、と彼は言った。はあ、と最上は答える。インパクトがない。普通の会社員みたいだよ。彼は首をひねりながら、最上ではなく傍の撮影助手に向かって言う。最上はうつむいて自分の衣服を見る。緑がかった灰色のスーツの上下。しっくりこないように見えるのは、これが中古の品だったからか。
 譲ってくれたのは卒業した高校の、二年の頃の担任だった。聞いた話じゃお前テレビに出るんだって、と、ある日突然古いスーツを持ってきた。どうやら母が同級生の母に話し、その噂が学校の方に届いたらしい。くれようとするのを固辞して買い取った。それでも格安だった。あつらえものだから品はいいんだ、きっとまだ着られるはずだ、おれじゃその色は若すぎるからと担任は言った。丈は直したはずなのに、どうもまだどこか布が余っているような気がする。帰ってからもう一度、直してもらおうか。家の方へと意識が逸れていくのを、男の声がひきもどした。
「そうだ。ちょっと名前を変えようか。けいじくん、だっけ。啓示にしよう。なんだか、ご利益ありそうじゃないか」
 そういうわけで、最上は本名の「啓司」ではなく、「最上啓示」という名前でテレビに出ることになった。
 そのことを聞いた母は笑い転げた。
「笑いすぎだよ」
「だって、あんた、そんなご大層な名前で……んふふっ」
 体を折るようにして母は笑う。頰がぽっと赤くなっているのは笑いすぎたせいではなく微熱のせいだ。それでも今日は体の調子が良いらしかった。本当に調子の悪い日は布団に一日中臥せっている。母は知り合いの紹介で助産院で働きながら、最上を女手一つで育てて来たが、数年前に体を壊して以来、寝たり起きたりの日々が続いていた。
「そうだ、母さん。これ、どう思う? まだちょっと大きいかな?」
 最上は立ち上がり、スーツの裾をひっぱりながらくるりと回る。
「そうでもないと思うけど……ちょっと布が余って見えるかもしれないわね。あんた細いから」
「もっと詰めた方がいいかな」
「やめときなさいよ。それ以上詰めたら鉛筆みたいになるわよ」
 鉛筆、と呟いて最上はスーツの太もものあたりをつまんだ。そこが特に、布が余っているように見えて、密かに気にしているところだった。
「今は着なれてないだけよ。そのうちしっくり来るようになるわ」
「そうかなあ」
「そうだって。それよりもしわくちゃだよ、それ。伸ばしといてあげるから脱ぎなさい」
 うん、と頷いて最上はスーツを脱いだ。脱ぐとほうっと何か重いものが肩から滑り落ちたような気がした。こんなものを毎日着る仕事は大変だ、と思ったのを覚えている。
 そのやりとりがあったのがふた月前。それからすぐにテレビ番組の収録があったのだが、大学占拠事件やら何やらが起こって放送が延び延びになっていた。その番組がどうやら先日やっと放送されたらしい。と言っても、最上はほとんど映っていないだろう。目玉の霊能者は別にいて、番組中、コメントを求められるのは彼ばかりだった。つるりとした頭の、豪華な袈裟を来た僧侶だった。いかにも霊能者、という感じだったし、たしかに力も強いようだった。最上はその引き立て役として呼ばれただけだ。
 が、母は放送日を教えてくれなかったと、ここ数日いたく立腹している。
「もうっ。なんで言ってくれないのよ」
「だってうち、テレビないじゃない」
「大家さんに頼んで見せてもらったわよ。黙ってるなんてひどいじゃない。私だってあんたがテレビに出てるとこ見たかったのに。ばか」
「ごめんってば」
 最上は苦笑しながら味噌汁を飲む。黙っていたのではなく、単純に忘れていただけだ。母もそれは分かっていてむくれている。ほぼ声を出していない、いるだけの番組収録でも、報酬はそれなりの額になった。貯金するという母を説き伏せて大きな病院に連れて行った。色々と検査をしてみたが原因がわからず、医者の見立ては過労、おそらく慢性疲労でしょう、ということだった。
「疲労と言っても侮れんのです。一度体を壊してしまうとね、なかなか戻りませんのでね。人の体はねえ、機械と違って取り替えが効きませんから。休むが肝心、日にち藥が一番ですね」
と医者は言った。ひとまず、ということで点滴をうち、いくつか薬をもらって帰った。不調の原因がわかったからか、薬が合っていたのか、最近では体調がいいらしく、起きて家事をしている日も増えた。
「時間、大丈夫?」
「うん、そろそろ出るね」
 最上は味噌汁でご飯を流し込む。それから作業着に着替え、弁当をカバンに詰めて家を出る。いってらっしゃい、と母が手を振り、ほうっと息をついたのを、最上は背中で聞く。
 職場の印刷所は自転車で十五分ほどの距離にある。最上が到着すると、ちょうど門のところで所長が煙草を吸っていた。ホープは外の空気と一緒に吸うのが一番うまい、と所長は寒くなければよく外で煙草を吸う。所長は最上に気づくと、にやにやしながら手をあげた。
「よう、最上先生」
「やめてくださいよ」
 放送があってからというもの、所長は最上をそう呼ぶ。テレビに出たからと言って有名になったというわけではない。最上はただ単に「霊能者の皆さん」として賑やかしに呼ばれただけで、番組でも「そうですね」とか「そうだと思います」みたいな相槌以外、ほとんど発言していない。ゴールデンタイムの放送だったのと賑やかしの霊能者の中でも最上が特段に若かったのとで、近所では多少話題にはなったらしい。
「いやあ、けいちゃんがテレビに出るとはねえ」
「出たって言っても座ってただけですよ」
「いやいや、そのうちなあ。有名人になるよ。大霊能者最上啓示、ってな。ま、お一つどうぞ、先生」
「これはこれは。どうもどうも」
 所長は最上に煙草を差し出した。自転車をその場に駐め、煙草をありがたくいただいて、マッチで火をつける。最上が煙草を吸うあいだも、所長は最上の見ていない番組の話をし続けた。なかなか男前に映ってたよ、ああして見ると霊能者ってのもいろいろだね、うちの奥さんも褒めてたよ。所長は手を振り回しながら話す癖がある。指に挟んだ煙草から灰が塊になって落ちて作業着についた。せわしなく手を振り回しながら灰を払い落とし、煙草を吸い、テレビはどうだとか芸能人に会ったかとか最上に話しかける。
「次は何に出るんだ」
「もう出ませんよ。向こうからも何も言って来ないし」
 テレビの仕事は夢のようだった。夢、というのはなんだかよくわからないままに始まってなんだかよくわからないままに終わったからだ。明け方に見る支離滅裂な夢に似ている。起きるとなんだったんだろう、と思い返そうとするけれど、よく覚えていない。
「そうだ。ちょっと見て欲しいものがあるって。谷原さんが」
と手をぴょんと跳ねさせるように動かして所長が言う。また灰がぽろぽろと落ちる。わかりました、と最上は煙草を踏んで火を消し、誰が置いたのか、灰皿がわりのパインの空き缶に捨てる。門のそばの駐輪所に自転車を駐め、印刷所の脇のプレハブ小屋に入る。中は休養室と事務室とちょっとした物置を兼ねた、要するに何でも部屋になっている。職員用のロッカーも置いてあるから、人の多い日には事務員と社員と職工たちとで押し合いへし合い、最上のような若輩者は掃除用具の影で弁当を食べなければならないような有様だったが、今日は人が少ないのか、事務室の中は物は多いが閑散としていた。
 最上が声をかける前に、隅の机でそろばんを弾いていた谷原が顔を上げ、「あ、最上くん」と立ち上がった。立ち上った拍子に隅に積んだ簿記用紙の箱が崩れ、谷原は「もうっ」と言いながら積み直す。最上も手伝おうと思ったが、バケツにソファに灰皿に、その影で身を潜めている備品や印刷見本や空のダンボールに阻まれて、たどり着く頃には谷原もすっかり体勢を立て直し、手鏡を出してほつれた髪を撫でつけている。
「最上くん、おはよ」
「おはようございます」
 谷原は事務員で、最上と同い年だったが、中学校を出てすぐに働き始めたので職場では先輩である。最上くん、と気安く呼ぶし、最上もこの印刷所に出入りするようになった頃から世話になっているので姉のように思っている。
「朝から悪いけど、ちょっと見てほしいものがあるのよ」
 最後の最後で脛をゴミ箱にぶつけた最上を見て、笑いをこらえながら机の引き出しから紙片を取り出した。最上は、いいですか、と谷原に尋ねてそれを取り上げた。古い写真だった。民家の前で、少女が赤子を抱いて微笑んでいる。隅まで確認したが、何の変哲もないポートレートに思えた。ひっくり返すと、インクで「民子十四歳 邦子一歳」と書かれている。
「どう?」
「ええと……ちょっと、よくわかりません」
「よく見てよ」
 谷原は写真の一角を指差した。民家の縁側と、その奥の部屋が写り込んでいる。部屋の中は暗く、中に何があるのかは見えない。谷原は、ここ、と暗い模様の一点を指差した。
「ここ。顔みたいに見えない?」
「それはそうですが……」
 最上は言葉尻を濁した。たしかに、谷原の指した部分には、顔のような模様が浮かび上がっている。しかし、それはあくまでも模様だ。何が原因かはわからないが、たまたまそのように見えるにすぎない。
 少し前からこういうケースが増えた。もともと霊能力は隠していなかったので、変な物音がする、とか胸が重苦しい、とか近所の人が相談に来ることはまれにあった。ところが最近は、知り合いの知り合い、とかそのまた知り合い、というような人がちょくちょく最上を訪ねては、心霊写真だと思う、と言って何もない写真を持ってくる。説明してもなかなか納得してくれない。聞いた話によると雑誌でそういうものが流行っているらしく、「心霊写真の撮り方」指南なるものもあるらしい。困ったことだと最上は思う。そんなものは狙って撮れるものではないし、狙って撮ろうとするものでもない。
 念のため、最上は谷原の持ってきた写真を隅々まで見た。何度見ても少し古い以外はごく普通の写真だった。最上は小さく息をつく。谷原がそれにつられてはあっと息を漏らした。
「……何も感じません。偶然このような形になっているのだと思います」
 最上が言うと、谷原は心外そうに目を釣り上げた。
「でも、こんなにはっきり写ってるのよ」
「ええ。しかし霊は関係ありません。おそらく光の加減か何かかと思います」
 でも、と口の中で言う谷原に、最上は写真を差し出した。「申し訳ありませんが……」谷原が受け取らないので、机の上に置く。事務室を出て行こうとすると、谷原がでも、と言った。
「でも、その子たち皆んな死んじゃったのよ」
 最上は黙って首を横に振った。ないものはないのだ。谷原は、そう、と投げ出すように言って写真を机の中に仕舞った。

 

 

 仕事は好きだ。集中していれば余計なものを見なくて済む。最上は片手に小さな箱と原稿用紙を持って、壁のように並んだ木の棚の前に立つ。棚はわずかに後方に傾斜していて、升のような等しい大きさの仕切りがついている。仕切りの中にあるのは活字だ。原稿に沿って活字をピンセットで拾い、箱の中に入れる。拾うたびに箱が重くなる。隣の棟から印刷の機械の音が聞こえる。この活字を植字工に渡し、印刷用の版を組んで印刷に回す。最上がやっているのは印刷の最初の段階だ。
 原稿用紙に書かれてあることは、見てはいたが読んではいない。読むと拾うのが遅くなるしミスが増える、と言われた。違いはよくわからない。いずれにせよ書かれていることに興味はなかった。自分の持っている原稿用紙に何が書かれていて、どこに掲載されるのか、そういうことは最上にとってはどうでもいい。ただ目の前のごく狭い範囲の物事に集中できる、そういうところが重要だった。
 自分の能力とは生まれたときからの付き合いだから、多少何かが見えていても普段は意識に上ることはない。今まで、自分の行くところ、学校も職場も、注意深く祓っておいた。けれども浮遊霊はその辺にいるし、疲れている時にふと景色を見たりすると、思いもかけないものと目が合うことがある。学校にいる間は、よく窓の外や教室の隅に人ならぬものを見た。首のない子供の影や耳殻ばかりが集まってバレーボール大になったの。耳殻はほとんど人のものばかりだったが、二つ三つ犬猫のものが混じっていた。
 無論近づけば除霊するが、不意に目に入れてしまった時は同時に耳鳴りを感じた。鼓膜をごく弱い力でこするような小さな音がいつまでも続く。霊自体はあまり気にならないが、耳鳴りは不愉快だ。その点、活字拾いの仕事はきょろきょろしなくていいのがありがたい。印刷の機械の音はひっきりなしにしているし、原稿を声に出して読みながら活字を拾う職工もいるが、それは集中の妨げにはならない。
 この印刷所には高校生の頃から出入りしていた。母が倒れて、生活費を稼ぐ必要があったのだ。始めは原稿の整理とか掃除とか、印刷に使った活字のインクを綺麗にしたりとか、そういう雑用から始めた。印刷の依頼が多い時は朝も夜もずっと明かりが点いている。その時は社員の数も多くて余裕があったのだろう、職人の一人が、活字拾いを教えてやる、と言って最上をそばに呼び寄せた。片手に原稿を持ったまま、最上が目でそれを追うよりも速くひょいひょいと鉛の棒を抜き出して行く。目を丸くしていると、やってみろと原稿と箱を手渡された。
 始めは一行拾うのに一時間かかった。最近は、他の職人に追いつきつつある。勘がいいのか記憶力がいいのか、いや若いからだ、と職人も所長も上機嫌で褒める。何かコツはあるのかと尋ねられたこともあったがよくわからない。あるいは、ひょっとしたらそれは霊視の一種なのかもしれなかった。見よう見まねで活字を拾っているうちに、原稿に書かれた文字を見るだけでその活字がどこにあるのかわかるようになった。細い糸が活字に繋がっていて、文字を見るとかすかにその糸が引っ張られる。活字拾いの感覚を、そんな風に最上は理解している。
 活字拾い、とは言うものの、最上自身は職工としてではなく印刷所の社員という身分だった。活字拾いを教えてくれた職工は、すでに別の場所へ移っている。活版もこれからどうなるかな、けいちゃんは若いからな、と言って所長は最上に新しい機械の操作を覚えさせようとしている。文字を写真のように紙に焼き付ける機械で、すでに何度か触らせてもらった。たぶんそれもうまく使いこなせるだろう、と最上は思っている。
 拾った活字を納める箱は今や痺れるほどに重くなっている。最上はそれを壁際に並べられた机の上に置き、新しく空の箱を掴んだ。
 そこでブザーが鳴り、最上は顔を上げる。時計は十二時ちょうどを指している。休憩の時間だ。そこここで小さなため息が漏れる。原稿に鉛筆を走らせ、その場に箱と原稿を置いて次々に印刷所を出る。最上も胸ポケットから赤鉛筆を取り出し、どこまで拾ったかしるしをつける。そして、空の箱ごと原稿をその場に置き、印刷所を出た。
 休養室へ入ると、先に入っていた他の職員が一斉に最上の方を見た。最上を遠巻きにするような、いぶかるような視線には覚えがあった。最上は休養室の中を見渡す。所長の隣に二人、見慣れない顔が混じっている。
 ――――……
 彼らの顔を見た途端、耳鳴りがした。最上は頭を軽く振ってそれを振りはらう。どうせ自分に手の出せるような霊などほとんどいない。
「あの……」
と、見知らぬ顔のうち一人が口を開いた。やたら背が高く、よれよれのジャケットを着ている。もう一人は、背丈は普通でやや小太り、ポロシャツに大きな荷物を抱えている。
「最上啓示さんですか?」
とのっぽの方が尋ねた。返事をしようか迷っているうちに、そう、そうだよ、と周りが頷いた。
「けいちゃん、この人たち、雑誌作ってんだよ。で、あんたに相談したいことがあるって」
「はあ」
「何気の抜けた返事してんの。ほら、こっち」
 所長は最上と客人を応接室へ通した。と言っても、事務所の一角をパーテーションで区切り、机とソファを置いただけの空間だ。二人がギリギリで座れる狭いソファが二つ置いてあって、向かい合って座る。ソファの間の背の低い机の上には仕出し弁当が置いてある。
「これは」
「今昼休憩でしょう。お仕事と別にお時間取らせるのもなんですし、食事しながら。どうぞ、召し上がってください」
「いいんですか?」
 最上は返事も聞かずに仕出し弁当を開けた。最上の普段の食費の五倍はするような店の、しかも焼肉入りの弁当だ。やった、いただきます、と割り箸を割り、弁当を掻きこむ。
「ゆっくり食べなよ。弁当は逃げやしないよ」
「ふぁい」
 客人は頬袋をいっぱいに膨らませながら食事に没頭する最上をあっけに取られたように眺めている。所長が「私たちも、ひとまずいただきましょう」と促し、自分も割り箸を割った。
 最上が弁当を食べ終わり、ごちそうさま、と割り箸を置いた時には、まだ客も所長も弁当を半分以上残していた。「あの、最上さん」と言いかけるのっぽを制して最上は立ち上がり、自分のロッカーから弁当を取り出す。
「まだ食べるの? お腹壊すよ」
「壊しませんよ。成長期なんで」
「何言ってんだい、とっくの昔に高校卒業しといて」
 ぎゅうぎゅうの白米と梅干しと卵焼き、それに茹でた菜っ葉の詰まった弁当を、最上はこれまた瞬く間に平らげた。久しぶりの満腹感だ。やっぱりこれだけだと足りないのかもしれない、と、最上は今しがた自分が空にした弁当箱を見つめる。
「……あの」
「あ、はい。何でしたっけ。相談でしたね」
 最上は今更のように弁当箱の蓋を閉め、膝に手を置いてかしこまった。客人はうさんくそうな目つきで最上を見ている。
「我々はこういうものでして」
とのっぽが名刺を出した。どうも、とおそるおそる両手で受け取って眺める。極楽舎代表編集、洲崎直史、と書かれてある。洲崎に続いて小太りの方が、
「私はそこの記者兼カメラマンで、野田と言います。申し訳ありませんが今名刺を切らしてまして」
「はあ」
 最上はもらった名刺を両手に握ったまま頷いた。もちろん、こっちは名刺なんて持っていない。せっかくもらったがどこに仕舞えばいいのかわからない。弁当包みの中……では、ないのだろう、もちろん。けいちゃんもそろそろ名刺作るか、と所長が横から名刺を覗き込みながら言った。
「我々はその、ゴシップ系雑誌を出してまして。最近ですな、オカルトが流行っていますよね。で、うちでも読者から心霊写真を募って、コメントをつけて掲載をしていたのですが」
「はあ」
とまた最上は上の空で言った。もらった名刺をまだ持て余している。どこに置くか迷った末に胸ポケットに仕舞う。
「送られて来たもののなかに、こんなものが」
 ぐぞあお。
 のっぽの編集――洲崎がジャケットの上着から封筒を取り出す。最上は何か、すごく嫌な感じがした。最上の顔色が変わったのを見て、洲崎と野田が顔を見合わせた。
「見てもよろしいですか」
 どうぞ、と洲崎の差し出した封筒を手に取る。嫌な感じが強くなった。ぐぞあお、ぐぞあお。後頭部が痺れる。うるさい。耳鳴りに心の中で一喝を食らわせると静かになった。封筒を開け、中身を取り出す。
「うわ……」
 隣で見ていた所長が呻いた。
 写真は、誰かのポートレートだろうが、ほとんど顔の判別がつかない。立ってポーズをとっている、おそらくは男性の上半身は、光の軌跡のようなぐねぐねした白い何かで覆われている。からまった髪の毛のようにも見えるが判然としない。光の先端には人の顔のようなものが浮かび上がっている。
「それがこちらに届いてから、奇妙なことが続きまして」
「……奇妙なこと?」
 最上が黙って写真を眺めているので、代わりに所長が尋ねる。
「ええ。夜中に作業をしていると、妙な声が聞こえたり……人影を見たり。気のせいだろうと言っていたのですが、何人もそういう体験をしたとかで。それに、事故もね、立て続けに起こりまして……」
 しかも普通の事故ではないのです、と洲崎は最上の方を見ながら言った。最上はまだ写真に目を落としている。
「ゴシップ系雑誌としてはネタにすべきなのかもしれません。ですが、もうこれ以上は持っておけません。それであなたを頼ったわけなのですが」
「それは正しい判断です」
 最上はそこで初めて写真から顔を上げ、頷いた。

 

 

 それから三十分後、最上は自転車を引きながらとぼとぼと河川敷を歩いていた。
 最上が心霊写真を引き受けると客人は安心して帰って行った。が、昼休みが終わり、最上が仕事に戻ろうとすると、今度は所長に引き止められた。
「けいちゃん。その写真危ねえんじゃないのか」
「ええ。でも……」
「じゃ、ここに置いとくわけにはいかんだろ。危ない写真なんだから」
「ですが……」
「今日は帰んな。ちゃんと出勤したってことにしといてやるから」
と、追い出されてしまったのである。
 困ったな、と最上は思う。確かに写真には深い恨みを持った霊が写っていた。そのせいで極楽舎の編集部内で霊障が起こっていたようなのだが、写真に染み付いていたものは、洲崎がしゃべっている間にとっくに祓っている。今最上の胸ポケットに入っている写真はただの紙切れに過ぎない。
「うーん……」
 最上は写真を取り出して眺める。にょろにょろと白い軌跡の走る写真。軌跡の中には人の顔のようなものが浮かび上がる。今はもう嫌な気配はない。まあ、呪いの写真なのだし、顔だって写っていないし、なくなっても困る人はいないだろう。最上はポケットからマッチを取り出した。一つ擦って火を点ける。その火をそのまま写真に近づけるとすぐに火が燃えうつり、写真は瞬く間に燃えクズになった。
「熱っ……あっ」
 いつの間にか大きく軸が燃えていたマッチを取り落とす。その拍子に写真も手を離してしまった。男性の左足のあたりだけ残っていた写真は、そのまま風に吹かれてどこへともなく飛んで行った。
 さて。これからどうするか。
 このまま帰れば母が心配するだろう。早退の理由も正直に告げていいものかどうか。最上と違って母はさっぱり霊感がない。その上実のところ怖がりだった。最上の前ではそんなそぶりを見せないようにしているが、お化け屋敷の前は足早に通り過ぎるし、恐怖映画のポスターは目を逸らしている。呪いの写真などと聞いたら震え上がってしまうだろう。最上は自転車にまたがって、そのまままっすぐ河川敷を走る。どうしようかなあ、と考えながら自転車を走らせているうちに、いつの間にか隣町まで来ていた。自分が住んでいるところよりも賑やかな町だ。夜も昼も人が町を行き交い、どこを歩いていても誰かの話し声がする。道幅もも人の多さも、建物の大きささえ、一回り大きいような気がする。
 そういえば、と、最上は駅へ向かった。駅前に自転車を駐めてバスに乗り、三つめのバス停で降りると、目の前に動物園の門が現れる。看板には赤地に白抜きで調味動物園の文字と、デフォルメされた動物の絵が並ぶ。看板の上には鳩が羽を膨らませて何羽も止まっている。看板の左下には券売所がある。大人百円、小人十円。大人一枚、と告げて切符を買い、中に入った。
 平日の昼間だったからか、中は空いていた。あるいは、開園からもうかなり経つからか。動物園には、数組の親子連れと遠足らしい小学生の集団の他に客は見えない。
 懐かしい、と園内を見渡して最上は思う。小さい頃に母親にここへ連れて来てもらったことがあった。その時は開園したばかりで、園内は人でごった返していた。猿だったかカバだったか、動物に気を取られている間に母の手を離してしまって、半泣きになりながら探し回った。あの時はどうしたのだったか。
 母子連れが不審げにこちらを見ている。いつの間にか彼らをじっと見つめていたことに気づいて最上は慌てて目をそらした。そのまま母子と反対側へ足早に歩き去る。
 動物園の中は、記憶にあるよりも広々としていた。前に来た時は人が多くて、どこに何があるのやらわからなかった。今は人も少なく、動物たちも檻のなかでのんびりと日向ぼっこをしている。鳩は檻の内と外、どちらにもいて、餌や水をつついたり、地面をトコトコ歩いたりしている。
 動物を眺めながらふらふらと歩いていると、「←キリン舎はこちら」という看板を見つけた。キリン、と口のなかで呟いて、最上は看板に沿って道を曲がる。前に来た時はいなかった、と思う。ほどなくして、キリンの檻が見えて来た。
 檻、と言ってもキリンがいるのは開放的な運動場みたいなスペースだった。客とキリンの間は深い溝と手すりで仕切られている。運動場の中には土と水場、それに中央に背の高いポールが立っているだけで、他は何もない。ポールは、先がカゴのように広がっている。おそらくここに餌をいれるのだろうが、今は何も入っていなかった。その代わり、鳩が一羽止まっている。キリンは暇そうに運動場の中をぶらぶらと歩いている。
 最上はキリンをぽかんと見上げて運動場に近づく。上を見ながら歩いていたので手すりにぶつかった。手すりはまだペンキも剥げておらず新しい。最上は手すりに両手をきちんと乗せて、またキリンを見上げる。
 思ったよりも大きい。驚きと同時に獣くさい風が鼻先へ吹き付けた。キリンが歩くと体に生えた短い毛が筋肉と骨格に合わせて歪み、また戻る。キリンが横を向くと短いたてがみが見えた。運動場をぶらぶらと歩く足先は二つに割れている。運動場の隅の水たまりはキリンの尿だろう。一通り観察してから、看板の解説とキリンを見比べる。体長四メートル、体重七五〇キログラム(推定)。草食。アフリカの生き物だが、生まれたのは日本。名前はグレー。まだ若いオスのキリンだという。去年に都会の動物園からやってきました、と書いてあるから、母とここへ来た時にはまだいなかったはずだ。このまま母の病状が回復すれば、また一緒にここに来られるかもしれない、と最上は思う。
 ふと、キリンがもぐもぐと口を動かしているのに気づいた。最上の見る限り餌はない。キリンの横のポールを見ると、さっきまで止まっていた鳩がいなくなっている。
 ……まさか。
 草食のはずだが、周りに食べるものはない。空腹だと食べてしまう、なんてこともあるのだろうか。でも動物園だし、ちゃんと餌はやっているはずだ。ひょっとして集中すれば今食べられた鳩の霊が見えるかもしれない。小動物はよっぽどのことがない限りすぐに霊体が霧散してしまうが、今なら間に合う。
「お好きなんですか」
 集中しかけた時に声をかけられて、最上は飛び上がった。
「うわっ、すいません。熱心に見られているものですから」
「あ……いや、こちらこそすみません。ぼんやりしてて」
 最上に声をかけたのは、作業着を着た男だった。五十代か、六十代、所長と同じくらいの年だろうか。最上の反応に、恐縮したように頭を掻いている。
「ここの飼育員の方ですか?」
「いやいや。ただの掃除人です。あそこにほら」
と男の指差した方を見る。リヤカーに刈った草と掃除道具が積まれている。
「お一人でされているんですか?」
「この辺りだけね。何人かで区分けしてやってるんです。平日はね、人もいないのでそれで十分なんです。休みの日なんかはもっと人も増えますけどね」
「へえ……」
 男はにこにこと愛想よく答える。答えに淀みのないところを見ると、こういう質問はよくあるのかもしれない。
「動物、お好きなんですか?」
「ああいや……前に母とここへ来たんです。小さい頃に。その時にはキリンはいなかったな、と思って」
「ああ、なるほど、お母様と」
「はい……」
 最上はじっとキリンを見上げる。キリンの口元はまだ動いている。念のため見てみたが、鳩の幽霊はいない。
「あの、つかぬことを伺いますが」
「はい、なんでしょう」
「あのキリン、何を食べてるんでしょう」
 最上はキリンを指差した。キリンは鳩を食べるんですか、とはさすがに訊けなかった。男はきょとんとした顔で最上とキリンを見比べていたが、ああ、と頷いた。
「あれね。反芻してるらしいですよ」
「反芻?」
「牛の仲間なんですって。キリンって」
「へえ……」
 キリンはちょうど真正面を向いている。斜め下からだからわかりにくいが、牛の仲間、と聞けば横向きについた耳の形が牛に似ている気もした。
「ホルモンね。胃が四種類あって、名前が違うでしょ。ミノ、ハチノス、センマイ、ギアラ。三つ目までの胃に入れた草を吐き戻して噛んでまた飲み込んで……っていうのを繰り返して柔らかくして、四つ目の胃で消化するんですって」
 なるほど、と返事しながら、どうしても網の上で焼かれる肉の方を想像してしまう。昼間の焼肉弁当はうまかったが、ホルモンもいい。
「よく見ると吐き戻す時に首の筋肉が動いているらしいですよ。あっ、ほら」
「えっ、……ああ、わかんないなあ」
 キリンは眠たげな瞼でほおを膨らませ、口を動かしている。耳がそれとは関係なくぴこぴこと動いて前や後ろを向いている。長い首は、遠目にはほっそりしているがよく見るとかなり筋肉質だ。推定体重七五〇キログラム、そのうち首は何キロぐらいあるのだろう。
「おじさん、詳しいんですねえ」
「いやあ、聞きかじりでしゃべっちゃって。恥ずかしいね。日曜日に来るとね、本職の飼育員さんが色々教えてくれる時間があるんですよ。それ横で聞いてただけなんだよね」
「いやあ、教えてくださってありがとうございます。僕、てっきりキリンが鳩を食べちゃったのかと」
「ああ。ありますよ、たまに」
 ええっ、と最上はキリンとおじさんを見比べた。おじさんは最上の様子に苦笑しながら、見たことありますよ、草と一緒にぱくっと食べちゃうの、と言った。
「あんなに大人しそうなのに……」
「まあねえ。あれだけ大きい生き物だからねえ」
 そういうこともあるんだろうねえ、と、おじさんは呟くように言った。

 

 

 夕方になるとこの辺りは肌寒い。工場がいくつも立っていて、日が差さない路地がいくつも出来る。そういうところは春でも冬のようにいつまでも足元の空気が冷たい。昨日雨が降ったからか、誰かが水を撒いたのか、ところどころ道がぬかるんでいる。いつもは避けるぬかるみを突っ切って印刷所へと向かう。
 終業にはあと十五分ほどあった。泥の跳ねた自転車を門の前に駐め、人目を避けてプレハブ小屋へ向かう。そっと戸を開けると、中には一人を除いて人はいなかった。まだ誰も印刷所の方から帰って来ていないようだ。
「失礼します……」
 最上が中に入ると、事務机の上で何やら書きつけていた谷原がちらっと顔をあげ、
「ロッカーの中」
と言った。
 谷原に会釈し、言われた通りにロッカーを開けると弁当箱が入っていた。やっぱり、と最上は嘆息して、カバンの中に入れる。ロッカーに弁当を入れた覚えがないので、もしかしたら応接室に忘れていたのかもしれない。と、
「焼肉弁当」
という谷原の冷たい声がして、最上はぎくりと背中を強張らせる。そっと振り向くと、谷原は無表情で書き物に向かったまま言う。
「あっちは本物で、こっちは偽物なんだ。私も焼肉弁当をおごればよかった」
「そんな、そういうわけでは。どっちも本物で……」
 最上はしどろもどろに言う。最上にとってはどちらも本物の写真だ。ただそこに、霊の思念があるかないかというだけの違いにすぎない。鳥や猫が写り込んでいる写真とそうでない写真があるように、霊がたまたま写り込んでしまう場合もある。
 谷原は、顔を上げて最上を見ると、突然ふっと息を吐き出した。
「うそうそ。冗談だって。怒ってないわよ。そんな顔しなさんな」
「ちょっともう、本当にびっくりしましたよ」
 ごめんね、と谷原は笑って舌を出した。怒っていないというのは本当らしい。よかった、と最上は胸を撫でおろす。
「さ、早く帰っちゃいなさい。もうすぐ皆戻って来るわよ」
「はい」
 谷原は手をひらひら振って最上を追い出しにかかる。最上も素直にそれに従った。出入り口の扉に手をかけたところで、そうだ、と谷原の方を振り返る。
「あ、谷原さん」
「なあに?」
「また明日」
「はいはい、また明日ね」

     *

 その日、職場に着いた最上は、いつものようにプレハブ小屋に入り、おはようございます、とあいさつをして荷物をロッカーに入れた。始業より少し前に印刷所に入り、始業ぴったりに仕事を始める。昼まで仕事をして、昼休みを挟み、また午後から仕事だ。箱と原稿を片手に持ち、続きの部分の活字を拾う。一つ目の活字をつまんで、最上は違和感に首をひねる。何かがいつもと違う気がする。今日は午後から雨で、活字を拾うピンセットの表面は指にわずかに吸い付くような湿り気を帯びている。でも、それだけではない。
 最上は活字を拾いながら気配を探る。特に悪いものはいないようだ。それなのになぜ、こんなにも静かなのだろうか。最上はそう考えて、そうだったのか、と違和感の正体にたどり着いた。今日はなぜか、妙に静かなのだ。印刷の機械の音が遠くからするのも、しゃべりながら作業をする職工がいるのもいつも通りだが、なぜか皆息をひそめているような気配がある。
 何か事件があったのだろうか、と最上は思う。最上の家にはテレビがないし、新聞もとっていなかった。新聞は休養室にも置いてあるが、一番年若い最上は、誰も読んでいない時にしか読めない。前に大きな強盗事件があった時は、なんとなく職場全体が浮ついたような雰囲気になっていたのだが、最上一人だけが事件を知らず、谷原が教えてくれるまで、なぜだろうと不思議に思っていた。
「あのう」
「何だい」
「何かあったんですか?」
 隣で活字を拾っていた職工に尋ねる。彼は怪訝な顔で、「何かって?」と尋ね返した。
「何か大きな事件とか……」
「さあ。知らねえけどなあ」
と素っ気なく言い、また作業に戻る。そうですか、ありがとうございます、と最上も活字拾いの作業に戻った。
 その日の作業を終え、荷物をまとめてプレハブ小屋を出る。幸い雨は小止みになっていた。これくらいなら合羽はいらないだろう。自転車を取りに駐輪所へ行くと、そこに誰かが立っていた。門の内側で影になっていて顔がよく見えない。人影は最上に向かって会釈する。
「どうも」
と挨拶をしたのは、いつだったか最上のところに心霊写真を持ってきた記者だ。たしか名前は、
「えっと……野田さん」
「ええ。お久しぶりです」
 野田はもう一度最上に会釈した。どうも、と最上も挨拶をする。そういえば作業着の胸ポケットに洲崎の名刺を入れっぱなしにしているのを思い出した。今日はいないのだろうか。野田が何も言わないので、自転車の鍵を外して門の外まで引いていくと、なぜか野田もついてきた。
「あの……」
「最上さんにお話があるのですが。ここでは何ですから、少し離れましょう」
とだけ言い、さっさと歩き出す。家の方向だったので、最上もまあいいか、とついて行った。
 しばらく歩いて、印刷所から離れたのを確認してから、野田が口を開いた。
「以前一緒に来た編集。洲崎、覚えてますか」
「ええ。背の高い方ですよね」
「あの人、亡くなりました」
 えっ、と言い、最上は立ち止まった。野田が振り返り、自転車のハンドルをつかんだ。その目が探るように動いている。案外つぶらで色の黒々とした瞳をしている。愛嬌のある、と言えなくもない目だったが、今は色が黒いのが災いして感情が読めない。
「なんでまた……」
「心臓発作だったそうです。もう葬儀も終えました」
「それは……御愁傷様です」
 最上はこういう時に言うべき言葉をやっと思い出した。だが口に出すと空虚に響く。それは、最上が洲崎をあまり知らないせいかもしれないし、野田の口調があまりにもあっさりしているせいかもしれなかった。
「最上さん、あの時の写真はどうされました?」
「あれは……処分しました」
「どうやって?」
 野田が無表情に尋ねる。目は最上の顔に固定されている。最上はその目をまともに見返した。
「燃やしました。もちろん、除霊はしてから」
「本当に?」
「ええ。残していても仕方がないでしょう、顔だって写っていないし」
「ではなくて。本当に、確実に除霊をしたんですか?」
 どういうことだ。最上は眉をひそめる。
「あなたが除霊をしそこねた。でも写真は燃やした。だから霊が怒った……という可能性は?」
「ありません」
 最上は即座に言い返す。怒ったのではなかった。この種の疑いをかけられるのは慣れている。こういう時、怒ったり言い淀んだりした方がトラブルになりやすい。落ち着いて、だがきっぱりと事実を伝えるのが一番面倒にならない。
「でも、証拠はあなたが燃やしてしまった。そうではないですか?」
「証拠って……」
 最上は言葉に詰まる。証拠、と言ってもあの写真に何か目に見えて変化が起こったとか、例えばあの軌跡が消えたとか、そういうことはない。あるいは、野田も霊能者なのか。それなら、洲崎が話している時に最上が除霊したのに気付くだろう。
 野田はふうん、と鼻から息を吐く。
「噂になっているんですよ。洲崎さんが死んだのは、あの写真のせいじゃないかって」
「ありえません」
「でも、そう言っているのはあなただけだ」
「それを言い出すとキリがないでしょう」
 最上は淡々と言い返した。野田の表情が少し動く。無表情は相変わらずだが、やや雰囲気が緩んだような気がした。うん、と自分に納得させるように口の中で言う。
「洲崎が亡くなったことはもう広まっています。あなたの職場にも」
「そうですか」
「写真の呪い、ということも一緒に」
 だから何だ、と言いかけて思い至る。ひょっとして、今日のあの、息をひそめるような雰囲気は、そのせいだったのか。皆呪いを恐れている。頭から信じ込んでいるわけではないのだろうが、もしかすると、という疑いを抱いてしまっている。
「でも今更どうしようもありません。写真は除霊ののち燃やしました。皆にもそう言ってください」
「それはそうなんですがね。実はこんなものがありまして」
 野田はポケットから紙片を取り出し、開いて見せる。二つに折りたたまれた封筒だった。住所は隣県で、すでに開かれた形跡があった。
「これは……」
「あの写真が送られて来た封筒です」
「そうですか。でもこれは何ともありませんよ」
 別に呪いの封筒でも何でもない。第一、あの写真だってそんなに強い霊ではない。敏感なものは当てられる程度だ。野田は「でしょうね」とうなずいた。
「実はね、ここを一度訪ねてみようかと思いまして」
「はあ」
「ご同行願えませんか」
 えっ、と最上は言う。思いの外あからさまに嫌そうな声になってしまい、内心慌てた。だが行きたくない。休みが潰れるのは嫌だ。母とも天候がよければ近場へ出かけようか、などと言い合っていたのに。
「でないと疑いは晴れませんよ」
「疑い……」
 そっちが勝手にかけてきたくせに。しかし、このままだとまずいのは確かだ。野田はどうでもいいが、職場の雰囲気がこのまま悪い方向に行くのは嫌だ。
 最上がしぶしぶうなずくと、野田は「では今週の日曜日、七時に調味駅で」とさっさと決めてしまった。しかも時間が早い。日曜日なのに、と最上は暗い気持ちになった。
「ではよろしくお願いします。まあ、飯くらいはおごりますよ」
 それだけ言うと、野田は帰って行った。

 

 

 その週の日曜日、約束の時間の十分前に駅に着くと、すでに野田が待っていた。最低限の身の回りのものだけを身につけた最上と違い、大きなリュックサックを背負っている。随分と大荷物ですね、と言うと、カメラが入っているので、と答える。そういえば記者兼カメラマンだと言っていたっけ、と思い出す。
 切符を買おうとしたら、野田が「もう買ってありますよ」と言った。そのまま改札をくぐり、ちょうどよく来た列車に乗る。休日だというのに車内はガラガラに空いていた。四人がけのボックス席に、二人で向かい合わせに座る。切符代を返そうとしたら怪訝な顔をされた。
「交通費は編集部持ちですが」
「え、そうなんですか。助かったあ」
 ほっと胸をなでおろす。ここ数日、切符代のことを考えて憂鬱な気持ちだったのだ。さっそくですが、と野田がリュックサックから封筒を取り出す。心霊写真が入っていたという封筒だ。最上に渡し、中の手紙を読むように言う。
 あの写真の被写体の娘だという人の手紙だった。父親を写すとああなった、それ以来身内に不幸が続き、父親も寝付いている、いずれは父も、と思うと不安で眠れない、というようなことが書き連ねられていたが、内容は前後していて要領を得ない。どうやらかなり動揺しているらしかった。手紙の後半には、「ツカ」という単語が頻出している。よくないものを封じ込めた「ツカ」が近所にあり、その呪いではないか、という。
「どう思いますか」
「これだけでは、何とも判断できません」
 手紙を書いた人間は、相当混乱しているようだ。字も乱れていて、ところどころ読めない部分がある。内容もどこまで信用できるのか分からない。彼女が嘘をついていると言うわけではない。人は不安になると、何でもないようなことまで、何かの呪いや罰なのではないかと考えてしまう。写真の状態からして何らかの霊障があったのは確かだろうと思うが、どこまでが写真のせいだったのかは、実際に見てみないことには分からない。
 野田もうなずいた。
「我々も最初はそう思っていました。ただ、編集部の中で事故が続くと、だんだん呪いじゃないかという声も大きくなってきましてね」
 その写真が編集部に届いたのは二週間ほど前だったと言う。最初はなかなか派手な写真が届いたな、という反応だった。今まで届いた心霊写真はそれなりの数になる。最初の方は怖がったり気味悪がったりしていたものの、この頃ではすっかり慣れてしまった。写真を撮って以来奇妙なことが起こるという手紙も、この手の写真にはよく同封されていたが、編集部で何かが起こったことは一度もなかった。気味は悪いがよくある写真、というのが全員一致した感想だった。
 最初に事故に遭ったのはアルバイトの学生だった。蛍光灯が切れているのを交換しようとして、はしごから落ちた。それだけなら本人の不注意ということになるが、学生曰く、誰かに襟首を引っ張られた、と言う。もちろん編集部でそんなイタズラをした者はいない。そもそも、蛍光灯が切れたのは、普段人のいない資料室の方で、彼の周りには誰もいなかった。
 その後すぐ、今度は社員が怪我をした。しかも、普通の事故ではない。裁断機を使っていて、自分の指を切り落としそうになったのだ。紙の上に左手を置いて、右手で裁断機の刃をおろしたのを、そばにいた別の社員が見ていた。彼が止めに入ったので、指を切断せずに済んだが、骨にまで達する怪我だったと言う。ぞっとした、まったくためらわなかったと、その止めに入った社員が後で語った。
 この時まではまだ、不注意による事故、ということになっていた。ある朝、と言っても編集部だからほとんど昼のような時間帯だったが、最近皆緩んでいる、雑誌の売れ行きは順調だが、油断は禁物、気をひきしめて事故を減らして行こう、というような訓示が珍しく入った。その日の夜だった。
 突然、編集部のある部屋が停電した。何の前触れもなくふつっと明かりが消えた。窓から見ると、同じビルの他のテナントには明かりがついている。ということは、たぶんブレーカーが落ちたのだろう、と洲崎が見に行った。編集室はいいが、ブレーカーのある廊下はほとんど真っ暗だ。懐中伝統を探すのも面倒で、ポケットにライターがあるのを確認して廊下に出た。明かりはそれで済ませるつもりだった。廊下を手探りで歩いていると、手のひらがそこにはないはずの何かに触れた。
「濡れたような感触だったそうです」
と野田は手のひらを下に向け、ボールを上から触るような形にした。
「そのすぐ後に電気が点きました。おれたちはそこにいませんでしたが、洲崎さんによれば、一瞬正体が見えたそうです」
 膝を抱えて下を向いた女のように見えた、という。洲崎が触れたのはその後頭部だった。野田は話しながら背中を丸め、首を曲げて顔を下に向ける。
「こう、膝と膝の間に顔をうずめてうずくまっている姿勢ですね。ぼろぼろの姿だったそうですが、女だ、と洲崎さんは言っていました。明かりの点いた後すぐに消えてしまったと」
 その後すぐ、洲崎は最上のところへあの写真を持っていくことに決めたという。心霊写真はあの写真以外にもいくつもあったが、洲崎はあの写真に違いないと断言した。事故の起こり始めた時期と写真の届いた時期が一致する。それに、写真の嫌な感じと、女の感じが似ている、と。
「感じ、ですか」
「ええ。私にはよくわかりませんが」
 その後、おかしな事故はなくなった。――洲崎が死んだのを除けば。
 話を終えた野田は、腕時計をちらりと見て、「あとしばらくはこのままです。寝てていいですよ。着いたら起こしますから」と言った。それから、座席の横の窓枠にもたれて外を眺める。まるで一仕事終えた、というような感じだった。実際彼にとってはそういうつもりらしく、もう最上の方はたまたま居合わせた乗客程度に思っているような態度だった。
 それなら、と最上は目を閉じた。朝が早かったのだ。目的地に着くまで少し眠ろう。列車の振動が背中に心地いい。どこかで野焼きでもしているのか、煙の匂いがした。

 

 

 大きく揺れた。それで目が覚めた。頭はだんだん冴えてきているのにまだ体は半分まどろみに浸かっていて動かない。腕を組んだ姿勢で寝ていたために軽く手が痺れている。電車が揺れるのに合わせて体が揺れる。工場地帯の、金属の焼ける臭いがする。濡れた綿の詰まったような体を強いて動かして目蓋を開くと、山の緑が薄曇りの光を反射しているのが目にしみた。組んだ腕を解いて座りなおす。どこにも工場なんかなかった。この臭いは、列車の連結部かブレーキか、車輪と線路か、金属同士が擦れ合う臭いだろう。
「起きましたか。ちょうどよかった」
と野田が言った。手には分厚い文庫本を開いている。角が擦れていくつも付箋が貼ってある。随分と読み込んでいるようだった。
「もうすぐ着きますよ。降りる準備をしておいてください」
 最上はうなずいたが、まとめる荷物などほとんどない。野田はもう文庫本に目を落としている。結局腕を組み直し、また窓の外に目を向けた。列車は山の中を走っている。伸びすぎた木の枝は車窓に触れそうで触れない。最上は外を眺めながら大きなあくびをした。喉の奥に金属の焼ける臭いが侵入する。
 駅に到着すると、野田はまず駅前の蕎麦屋に入った。バスの時間まではまだしばらくあるので、ここで腹ごしらえをしましょう、という。野田は天ぷらそば、最上は月見そばを頼む。
「足りますか?」
「ええ、まあ……」
「ここから先はたぶんろくな店もないですよ」
 腹が減ってもどうにもできないぞ、と言いたいらしい。そういえば最初に会った時、弁当にがっついてしまったのを思い出して赤面する。赤面ついでに、どうせ意地汚いのは知られているのだし、というやけくそじみた気持ちになって、いなり寿司を追加した。いなり寿司の甘く煮た油揚げと、塩辛いそばの汁はよく合う。注文してよかった、と最上はさっきの赤面を忘れて思う。
 腹ごしらえをしてから駅前のバス停でしばらく待つ。来たバスに乗って三十分ほど揺られる。バス停で降りてからまた坂道を下る。そうやってたどり着いた村を、今度は手紙の差出人を探してうろうろ歩く。これは一日仕事だ、と最上も覚悟した。村の中は番地の表示どころか表札すらろくに出ていない。家と家の間には、田畠が広々と広がっている。青い田の上を鳥が飛び回っている。野田はリュックからカメラを取り出し、民家や周りの風景を撮影しながら歩いている。重そうな荷物を背負い、カメラを構えながら歩いていても一向に疲れた様子を見せない。記者というのは案外体力仕事なのかもしれない。体つきもよく見れば小太りというよりはがっちりとしている。と、向こうから住人らしき中年女性が歩いて来た。野田がカメラを下げた。
「あ、すみませんお母さん、お話よろしいですか。私こういう者ですが……」
と野田が名刺を取り出しながら駆け寄る。妙に愛想がいいのに驚いた。自分に対する時とは大違いだ。最初は不審そうにしていた女性も、みるみるうちに警戒を解かれて野田と談笑を始めた。野田はしばらく立ち話をしていたが、そのうち、どうも、とぺこぺこと会釈をしながら最上の方へ戻って来た。
「差出人の所在がわかりました。行きましょう」
 野田に着いて歩く。ふと後ろを振り返ると、さっきの女性がこちらを見ていた。最上に向かって手を振るので、ぺこりと会釈をする。
「さっきの方と何を話してたんですか」
「何ということも。ただの世間話です。あ、あなたがテレビに出たことも話のタネにさせてもらいましたよ。タレントってことになってます」
「タレントじゃないのに……」
「似たようなものでしょう」
 ろくろく口も開かず、開いても相槌程度の者が「タレント」なら随分楽な話だ、と最上は思う。最上を番組に出演させたプロデューサーの顔が思い浮かんだ。四十前後だろうか、とにかく体力のある、生命力の強そうな男だった。最上と話す間も、くるくると話題を変え、突然横を向いたかと思うと助手やスタッフに指示を出す。指示には業界の隠語でも使われいるのかほとんどわからない。と思ったら、また最上を向いてきっかり中断したところから続ける。声は大きくてよく通ったがうるさいということはない。にいっと笑うと前歯の隙間に金歯が見えた。話の合間合間に挟まれる思い出話によると、どうやら大陸の方で放送の仕事をしていたらしい。テレビに出て何がしか映るのを「タレント」と言うのなら、彼の方がよっぽどタレントらしい。
 ここですね、と野田が突然足を止める。考え事をしながら歩いていたので、危うくぶつかるところだった。野田はそれには気づかない様子で民家と封筒の文字とを見比べている。この辺りでは大きな農家のようで、敷地と道の境に立派な門が建てられている。門は開け放たれており、中の様子が見えたが、しんとしていて人がいるんだかいないんだかわからない。家の周りは塀でかこまれておらず、竹を縦横に並べて縛った簡単な垣根がおざなりに巡らされていた。ごめんください、と野田が言って門をくぐる。門のそばには大きな蘇鉄が植わっている。それを横目に、最上も門をくぐる。
 ごめんください、と玄関先でもう一度尋ねる。反応がないので、――さん、極楽舎の者ですが、と呼ぶと、横から「あんたら、どこから来たんかね」と声がした。見ると、老人が一人、サンダルをつっかけてほてほてと歩いてくる。野田が愛想のいい表情を作ってまた会釈し、名刺を取り出す。
「初めまして。極楽舎の野田と申します。みよ子さんはご在宅でしょうか」
「娘なら今出かけとるが」
 老人は野田の名刺を受け取らず、胡散臭そうに眺めた。娘。ということは、この人が差出人の父親か。手紙では寝付いているということだったが。野田もおやと思ったらしく、愛想のいい表情が一瞬崩れた。
「あのう、失礼ですが、みよ子さんのお父様でいらっしゃいますか」
「そうだけど」
「ということは、近頃妙な写真を撮られませんでしたか。顔が写っていなかったり、変なものが写り込んでいたり」
「写真? ……ああ! もしかしてあんたがた、雑誌の人かね」
 ええ、極楽舎の、と野田がもう一度名乗り、名刺を差し出した。老人はようやく受け取り、ためつすがめつする。
「調味市から? また遠いとこから来たねえ。写真のことで?」
「ええ。娘さんから、奇妙なことが続いているというお手紙をいただいて……」
 最上が口を挟むと、老人がまた胡散臭そうな表情に戻る。野田は最上と老人の間に割って入るようにして、「そうなんです、ですから我々で取材に参りました」と言った。
「取材ってもねえ。なんて書いてあった? どうせツカの呪いだとかでしょう。本当にあの子は昔っから早っとちりで。迷惑かけましたねえ」
「ということは、お父さんは何もなかったんですね?」
「まあちょっと風邪は引いたけどねえ。それでびっくりしちゃって。あの写真のせいだって騒いでたからね、雑誌に送るって聞かなくて」
 わっはっはと笑う老人には霊障の影もない。野田の方を見ると、向こうも最上を気まずそうな表情で見ていた。

 

 

 依頼者の家の裏手から山道に入り、道なりに歩く。舗装もされていない細い道が続いている。誰かが定期的にここを歩いているのだ。ツカのほうへはわざわざ行かない、けれどもこの奥に墓場があって、そこへ行くためにこの道を使うのだいう。依頼者から話を聞くのは諦めた。待ちますという野田に、娘婿の実家へ子供と夫と遊びに行っているから、帰ってくるのは夜になるねと依頼者の父が言った。
 ツカ、というのは塚ではない。昔強欲の女がいて、山菜やきのこのよく採れる場所も誰にも教えなかった。跡をつけようとすると猿のように歯をむき出して怒った。寺社の普請の時も女だけは何かと理由をつけてびた一文出さなかった。のみならず、ある年、村人の作物を盗んで商人に売りさばいたのだという。怒った人々は、女を縛り上げ、ついでに不要のむしろや破れ籠を縛り付けて一緒に池に沈めたのだという。つまり、ツカとは束のことである。
 道なりに歩いて行くと、たしかに道が二股に別れるところがあった。そのまま山肌を緩やかに行くのが墓への道、急な坂を登る方がツカの方だという。ツカの道は誰も通らないのか、ほとんど草に埋もれかけている。そちらに足を踏み入れるとひやりとした感覚があった。温度が下がったのではない。肌を撫でるような何者かの気配が空気の中にある。気配、と言っても誰かがいるような気がする、というのではなく、稲光があれば雷鳴が轟くように最上にははっきりと知覚される何かだ。
 夏の初めの若草に消えかけた道を登って行くと、水の匂いがした。淀んではいない。むしろ澄んでいる。道を登りきったところ――池が見えたところで、最上は足を止めた。野田が不審げに最上を見る。
「いますね」
 池の端に女がうずくまっている。首が折れそうなほどに下を向いて、膝の間に顔を押し付けている。両腕を体の横に押し付けるようにして、手を地面に垂れていた。手の甲が地面について、手首が直角に曲がっている。そうして身じろぎもしない。野田が池の方を向いて写真を撮る。それでも女は反応しない。最上は池の方に近寄る。小さな虫が顔の周りにまとわりつくのを手で追い払う。野田も後ろから着いてきているらしく、シャッターを切る音が途切れ途切れに聞こえる。最上は片手で合図して野田を制し、池の端の女のそばに立つ。女の髪はべっとりと濡れて頭や首に張り付いている。手首の皺の間に土色の水が溜まっている。
 執着。それもかなり強い。けれども、それだけだ。何に執着しているのか、なぜ執着しているのかも忘れて、ほとんどその感情だけの入れ物になっている。敵意や害意のような動物的な感情すらもなくしている。が、敏感なものは近寄るだけで影響を受けてしまう。そういう種類の執着だった。
 女の後頭部から、突然べこりと別の顔が生まれ、虚空に向かってぱくぱくと口を動かす。つるりとした顔に女の濡れた髪が張り付いている。顔は数秒でしぼむようにして髪の間に消えていく。それがいくつも繰り返されるのを最上は静かに眺める。この池に沈んでいるのは一人ではない。顔は全て異なっていたが女の顔のようだった。まれに犬や猫のものらしい黒目がちの顔が浮かびあがり、他の女たちと同じように消えて行った。
「最上さん……」
「写真に写っていたのは」
と、最上が言うと女の頭がが動いた。がくんと左側に折れて、ぐぞあおいざあぎぎぎう、と、声にならない声が最上の皮膚を圧迫した。女の体はその場でぶるぶると震えるが動かない。
 最上は女の声を落ち着いて押し返した。息を吸って吐く。ふうっと吐く時に自分をおおう薄い膜を、ふうっと膨らませる。ただのイメージだ。そうすると力をうまくコントロールできる。最上に押し返され、女はまた元の姿勢に戻る。
「写真に写っていたのは、このツカの霊で間違いないでしょう。故意に写り込んだのではありません。呪いでもない。本当にたまたま、何かのはずみで思念がああ言う形に写っただけです」
 心霊写真、と呼ばれるもののうち、大方はそのようなものだ、と最上は思っている。何らかの理由でこの世に残ってしまった者たちが、何かのはずみで写真という形で見えてしまう。
「ただ、思念が強いので、条件が合えば写真を媒介にして本体の姿が見えるかもしれません。洲崎さんが見たのは、それでしょう」
 けれども、それには人を殺すほどの強さはない。そんな力を持った霊など、ほとんど存在しない。体を無くした魂で、長い間自我を保っていられる方が珍しい。大抵はすぐに消えてしまう。あるいは、長く留まれば留まるほど、生前の恨みや愛着に引きずられて記憶を無くし、そのせいで肝心の何を恨み、何を愛していたのかすら忘れ、最後には人の姿すら無くしていく。あるいはこの女のように、形は女を保ちながら、中身はもとの女でも、人間でも、おそらく動物でもない、いくつもの思念の融合した執着の塊になる。
「どうするんですか」
「……祓います」
 最上は息をふうっと吐いた。さっきの膜を自分の外に広げて行く。女がゆっくりを顔を上げ、真上を見た。女の口が小さく動く。ころされた。あるいは、しにたくない。たすけて。声にならない声を最上は聞いた。
「駄目だ。僕にはどうすることもできない」
 最上の膜が女に届くと、今度はそれが女を包み込んで行く。全て包み込む寸前、そうか、と最上は思う。女の姿勢は池に放り込まれた時の姿勢だ。女たちが縛られ、束ねられた時の。
 女が消える。何もいなくなった池に、野田のカメラのシャッター音が響いていた。

 

 

「おれはね、幽霊なんか信じてないんです」
 帰りの電車のなかで野田がふとそんなことを言った。行きと同じように二人の間には会話がほとんどなかった。最上は外の景色を眺めていて、野田の存在をほとんど忘れかけていた。
「幽霊なんか見たことも聞いたこともない。大半は気のせいです。呪いだとかなんだとか、ばかばかしい。この世のなかに不思議なことなんてないんです。人がそういう物語を作り出しただけだ」
 野田は最上の方を見ないまま、外の景色を見ながら言った。山の日暮れは早く、行きに見た緑はほとんど影に沈んでくすんだ色をしている。
「編集部の事故だって、偶然ですよ。全部気のせいだと思っています。洲崎さんだって……あの人、めちゃくちゃ酒飲みでね。煙草も毎日何十本も吸って。しかも不規則な生活でしょう。校了前は何日も徹夜が続くしね。だから、いきなり死んじゃっても不思議ではないとおれは思う」
 最上はうなずいた。写真の呪い、というものを野田は信じていない。それは最上も同意見だった。最上にとっては、幽霊は不思議でもなんでもない。そこにいて、現れたり消えたりする。そういう存在だった。呪いや因果はよく霊障の理由として挙げられるが、大抵はただの事故のようなものだ。たまたまそこにいて、不運なものが影響を受ける。霊が選んだわけではない。ただ巡り合わせが悪かっただけだ。
「人は信じたいものを信じるんだ。呪いで事故にあったり病気になったりするのは、そうあってほしいと人が望むからです。だってその方がちゃんとした理由があるから。『運が悪かっただけ』なんて理不尽じゃないですか。おれたちは、そういう読者の要求に応えて、理不尽な出来事に『呪い』という理由をつけて説明してやる。読者は雑誌を読んで安心するし、おれたちには金が入る」
 野田は景色から目を離して最上を見た。「あんたもそうでしょう」と野田は言う。どういう意味だ、と最上は首をかしげる。
「おれはあんたを信じていない」
 信じていない、と言ったが、その目に今まで色々な人の目の中に見た不信の色はない。ただそういう立ち位置であることを伝えている。最上としてはそれでよかった。見える世界が異なるのは当然のことで、最上はそれを強いて信じてもらいたいとは思わなかった。むやみに信じる者の方が、かえって望まない結果になったときに棘を出す。
「そうでしょうね」
 最上が言うと、野田はふと表情を変えた。前にも同じようなことがあった気がした。何だっただろう、と記憶をさぐっていると、野田が突然にやりと笑った。
「なんですか」
「いやね。これからはあんたみたいな人が売れるんじゃないかな。あんたみたいな普通の人」
「そうですか?」
「そうなった方が面白いじゃないですか。おれの記事だって売れる」
 なんだそれは、と最上は腕を組んだ。今更ですけど、今日のことは記事にしてもいいですよね、と野田が言う。それにおざなりに返事をして、最上は窓の外を眺める。といっても、外はもう暗く、何があるのかほとんど判別がつかない。窓ガラスに自分の顔が映っている。その向こうに視線を投げる。目は何も見ていない。今日のことを思い返している。
 あの女の幽霊。ごみか何かのように束ねられて、池のなかに投げ込まれた、女たちの幽霊。あれはおそらくは人身御供だ。そう思うのは、以前あの女とよく似た霊を見たことがあるからだった。いくつもの霊の集合体で、その場に強く執着する。それが時に荒神として扱われ、また人間が捧げられる。近年では祭祀を忘れられることが多いからか、霊障による事故が起こることも少なくない。最上が見たのは、そういう霊の一つだった。
 あの池もかつてはそういう場所だった。強欲の女というのも、ひょっとしたら元々はそういうものだったのかもしれない。時間が経ち、人身御供は忘れられたが、強欲の女の話と「ツカ」の名前が残った。
 女の頭から生まれた顔のなかには犬猫もいた。生まれすぎた仔を捨てたのだろうと思われる、ひたいの広い丸い顔だった。
 池に落とされた恐怖も、怒りも、水の冷たさも死にゆく苦しさも、彼らはもう覚えていない。それはもう最上が、彼らの存在ごと消してしまった。消した魂がどこへ行くのかを最上は知らない。輪廻の輪に戻るのか、あるいは風か土になるのか。
 けれども、そこにいたことは覚えている。すでに恨みですらなくなった執着を抱えながら、そこにうずくまっていたことを、最上は覚えている。そうすることが、存在への礼儀であろう、と最上は思う。
 列車がガタンと大きく揺れる。分岐点を越えたらしい。最寄りの駅へはまだもう少しかかるようだ。野田はもう口を開かなかった。ふと見ると、またあの分厚い文庫本を開いていた。

 

 

 それからしばらくして、野田から封筒が届いた。なかには先日の心霊写真の取材記事が掲載された雑誌が入っていた。「編集部を襲う怪奇! 呪いの写真の正体とは……」という見出しに小さく「霊能者・最上啓示と行く」と書かれてあるその記事を、母はまた笑い転げながら読んだ。
「笑いすぎじゃない?」
「だ、だってあんた、ちゃんとした霊能者みたいなんだもん」
 母が示した記事には、編集部が数々の怪奇現象に見舞われたこと、「霊能者・最上啓示」が恐怖に怯える彼らの元を訪れたこと、彼が怪しい写真の気配をたどり、とある村の池を見つけたこと、池に「強い恨みを持った霊」がいることを看破し、「霊」のすさまじい恨みをねじ伏せて成仏させたこと、などが書かれている。
『記者は戦慄した。たしかにそこには何かがいる。目にはさやかに見えねども、すさまじい恨みを持った何者かが……。脂汗を流し、震える記者を最上啓示氏は下がらせ、気合い一喝、何やら池に向かって放った。その途端、記者の震えが止まった。』
 そう書かれた記事につけられている写真は、最上が除霊したときではなく、池に向かっているところだった。手を前方に掲げた姿勢なのを、斜め後ろから捉えている。こんなポーズをしただろうか。おそらく虫か何かを払ったのがうまい具合にそう見えているだけなのではないか。
 記事の最後は、こう結ばれていた。
『この世には確かに不可思議が存在する。霊たちは我々にメッセージを送り、時に実力行使に出る。無力な我々はそれに怯えるしかない……。が、この世には、そうした霊たちの声を聞くことのできるものも確かに存在するのだ。
 霊たちは何を訴え、何を求めているのだろうか。これからも我々はその声なき声を聞き続けるだろう。』
 封筒には手紙も同封されていた。手紙には、取材同行の礼と、わずかながら謝礼を支払う、いずれ現金書留で送金する云々と素っ気なく書かれている。手紙の末尾には、
「霊能者として売っていくなら、もう少し動きを大きくした方がいいですよ。除霊の決め台詞やジェスチャーがないとわかりにくいです。はたから見るとただ突っ立っているだけに見えています。」
と書かれている。最上は苦笑した。
「何、あんた霊能者になるの?」
「ならないよ」
 それよりも謝礼が出るらしいから、何か美味しいものでも食べに行こう、と言うと母は喜んだ。
 野田は同じものを所長にも送ったらしい。ある朝出勤すると、待ち構えていたように最上をつかまえて、これは本当にあったことかと尋ねた。
「いや、全部が全部あったことでは……」
「じゃあ、呪いは解けてないのか」
「それは大丈夫です。除霊はしましたし、そもそも呪いでは……」
「じゃ、本当にあったんじゃないか」
 記事にあることは話半分どころか九割がたフィクションなのだが、うまく説明できず、結局「霊能者・最上啓示」の活躍は半ば公然のものとなってしまった。所長がどうやら本当に除霊して来たらしい、と吹聴した上、昼休みには皆が記事を回し読みするので、最上は内心冷や汗をかいた。これは本当にあったことなのかい、と訊かれるが、何と言っていいのかわからない。除霊をしたのは本当だが、初めから呪いではないのだ、ということを訴えてもきょとんとされる。何かよくわからんが、除霊したんなら大丈夫だろう、という雰囲気が広まるにつれて、最上もだんだんこれでいいのではないか、という気がして来た。とにもかくにも、皆は安心している。
 そうか、と最上は腑に落ちる。野田の言っていたのは、こういうことか。人は信じたいものを信じる。人には物語が必要なのだ。因果を説明するための物語が。
 その日の夕方、退勤の前に、最上は谷原を訪ねた。前に見せた写真のことを尋ねると、谷原は黙って自分のカバンから手帳を取り出した。手帳を開くと、民子十四歳、邦子一歳、と書かれた紙片が丁寧に挟まれている。ひっくり返すと、少女と赤子が揃って写っている。
「私の姉妹なの。姉と、妹。ずっと前に死んじゃったけどね」
 風邪か何かだった、という。二人とも高熱が出たと思ったら、立て続けに亡くなってしまったという。この写真は、二人の亡くなった年の夏に撮られたものだった。
「でも呪いでもなんでもないのね。二人とも、ただ運が悪かったのね。私だけ運がよかったんだわ」
 谷原は写真の表面を撫でた。時々そうしているのかもしれない。写真の表面は毛羽立っている。
「二人とも……」
 最上が口を開くと、初めてそこに人がいるのに気づいたように谷原が顔を上げた。
「二人とも、幸せだったと思います。仲の良い姉妹だったのでしょう。恨みのオーラは感じません……」
 言ってみたはいいものの、何か言葉がうわっ滑りしている気がする。話しながら、最上は顔が熱くなっていくのを感じた。しどろもどろになっているのがわかるが止めようがない。最上の話を谷原はあっけにとられたように聞いていたが、
「ありがとう、最上くん」
と言って、苦く笑った。

 

 

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