黒い犬

 風もないのに蓑虫がかすかに揺れている。少し風が吹けばぽきりと折れてしまいそうな枯れ枝の先に、これまた細い枯れ枝を寄せ集めたような姿で、ちょこなんとくっついている。蓑虫の吐く糸は細く、少し見るだけでは枝の先に浮いているように見える。浮かんで揺れながら、
 ゆじやゆじえおのろこあぜで……
 とぶつぶつ呟いている。
 何だろう、と彼は手を伸ばした。彼の背丈では枯れ枝の先に手が届かない。思いっきりつま先だちをして腕をめいっぱい伸ばすと指先が触れた。このままこれをむしり取ってしまえばいい。もう少し、あともうちょっと背伸びをすれば摘めそうだ。
「駄目だよ」
 今にも蓑虫をつかみそうだった手を誰かが止めた。大人の手だった。彼の手と蓑虫との間に、そっと手のひらを割り込ませている。もう少しだったのに、と相手を睨む。逆光で顔はよく見えない。灰色のスーツの袖から痩せた手首が伸びている。その隣で蓑虫は悠々と揺れている。枯れ枝は高く跳ね上がっていて、もう今度は届きそうにない。そう思うと無性に腹が立った。
「ばか! ブタ!」
 罵って地団駄を踏む。目尻から涙がにじむ。男は、それを静かに眺めていたが、突然しゃがみこんで彼と目線を合わせた。まだ若い男だった。口元は柔らかく微笑んでいる。
「君には聞こえるんだね」
「うるさい!」
 まばたきをすると涙があふれてほおを濡らした。男がポケットから白いハンカチを出して彼のほおを拭った。拭われながら彼はずっと罵りの言葉を叫んでいたが、男は一向に気にならない様子で、ばたばたと涙がこぼれるたびにハンカチで彼のほおを几帳面にぬぐう。何を考えているのか、笑いも怒りもしない。その顔にはどこか見覚えがあった。どこでだろう。新しい郵便屋さんではないし、おばあちゃんの家に行く時に乗るバスの運転手さんでもない。
 彼が泣き止んだのを確認してから、男は上を指差した。見上げると蓑虫が揺れている。
「何て言ってるか、気になるかい」
「うん」
「そうか。でもね、あれは聞いてはいけないものだよ」
「なんで」
 聞いてはいけないと言われても聞こえるのだから仕方ない。聞こえるものをなぜ聞いてはいけないのだ。そのようなことを彼は思い、鼻孔を膨らませた。鼻の穴にからんだ鼻水がふくっと膨らんで、男はそこで初めて声を上げて笑い、鼻水をハンカチで拭いた。
「あれは、よくないものだから」
「よくない?」
「人の死を願っている。家が燃えたり、病気になったりするのを望んでいる」
 見上げると、枯れ枝の先で、まるで男の言葉を肯定するように蓑虫がびくびくと大きく揺れた。男の方に視線を戻す。男は少し目を細める。右と左で少しだけ目の大きさが違う。左目だけ少し小さい、というよりも、まぶたが開ききっていないような感じだ。それは若く健康そうな男の顔に小さな陰影を与えていた。
「聞こえても無視をしなさい。もし耳を傾けてしまったら――」
 男はそこでぐっと声を落とし、彼の耳元で言った。
「耳が腐って落ちてしまうよ」
 ゆじや、と蓑虫が言った気がした。
「……!」
 彼は飛びのいて、一目散にそこから逃げ出した。家を目指してまっすぐに駆ける。もうすぐそこに見えている家が遠く感じた。早く家に帰り、母の膝に守られたかった。
 懸命に駆ける幼い背中に、
「気をつけるんだよ!」
と最上は声をかけた。知らない子供だ。最近引っ越して来たのだろう。このあたりも、新しい住宅が増えた。最上は蓑虫の声の主を祓い、その場から立ち去る。
 新しい家の並ぶ通りから、一つ角を曲がると古い家の並ぶ住宅街に入る。家の壁が暗い色なのと、道がまっすぐでなくぐねぐねと曲がっているせいで薄暗く見える。その薄暗い通りの、さらに暗い方へ暗い方へ――道幅の狭い方へと進んで行った先に最上の住むアパートはあった。
 明るい時間に戻ったのは久しぶりだ。三角屋根の変わった形のアパートで、まだ建てられてそれほど経っていないが、黄色い壁はすでにいくつも雨の筋がついて病人めいた土気色になっている。玄関を入るとすぐ脇に公衆電話がある。風呂は近所の銭湯まで行かねばならないが、台所と便所は部屋についている。最上の今の収入ならもっといいところに住めるかもしれないが、そうしないのは母親の治療があるからだった。
 数年前、最上が本格的に芸能活動を始めてしばらくして、母親の体調は悪化した。過労だ、と言われていたのに、いくら休んでもよくならない。発熱と体の痛み、めまいや胸の圧迫感に悩まされ、入退院を繰り返している。その費用がばかにならない。なるべく生活に金をかけたくなかった。どうせ家なんてほとんど寝に帰るだけなのだし、それなら布団が敷ければどこでもいい。とはいえ、母が退院した時にあまり暮らしにくいところは困る。その二つの妥協点にあったのがこのアパートだった。
 部屋に入り鍵をかける。明かりはつけない。カーテンも閉じたままだったが、薄い布地から午後の日差しが漏れて、部屋全体を薄明るくしている。玄関を入ったすぐ脇のところには台所がある。そこは日差しが十分に届かず暗かった。影の中に、鍋や醤油瓶やコップの輪郭だけが微かな光を反射して浮かんでいる。流し台の脇に延べた布巾に伏せられていたコップを取り上げ、蛇口をひねり水を汲む。半分くらい飲んだところで残りを流しに捨て、流しの下から酒瓶を取り出した。注いだ酒を飲み干し、軽くコップを水ですすいで元のように布巾の上に伏せる。それから奥へ入り、スーツを脱いでハンガーにかけると、下着のまま布団に入った。しばらく目を閉じていたが、やがてぱかっと目を開けた。
 眠れない。昨日は徹夜だったから、仮眠を取ろうと思ったのに。最上は体を起こし、一つため息をついた。体は疲れているのに、変に頭が冴えてしまっている。いや、疲れている、というよりは凝っている、という感じだろうか。収録が長くなると、スタジオの不安定な椅子に座りっぱなしになる。昨日はバーのカウンターの椅子みたいな、小さくて高い椅子にずっと座る羽目になった。そのせいで体のあちこちが固まってしまって、うまく休めない。思いっきり伸びをすると、肩がばきばきと音を立てる。腕をおろし、はあ、と大きく息をつく。
 まいったな。スッキリしてしまった。これはいよいよ眠れそうにない。最上は諦めて布団から出ると、服を着替えて外に出た。
 外は風もなく、とろとろとぬるい春の日差しがこの暗い裏路地まで届いているいい陽気だった。まだ学生が帰っていない時間帯だからか、周囲は静かだ。もう少し遅くなると、この辺りは子供の声で満ちる。
 その前に散歩でもして、何か軽く食べて帰ろうか、と何となく歩き始めた。目的もなくぶらぶらとしていたはずなのに、自然と足が駅の方に向かう。最上は散歩に出たそのままの格好で電車に乗り、二駅目で降りる。駅前で今度はバスに乗り、三つ目のバス停で降りた。降りると目の前に動物園の門がある。赤地に白抜き文字、その周りでデフォルメされた動物たちが微笑んでいる。
 切符を買って門をくぐった最上は、ペンギンにも象にも「赤ちゃんが生まれました」というポスターの貼られたライオン舎にも目をくれず、まっすぐ園の奥へと向かった。目当ての看板を見つけて案内に沿って道を曲がると、運動場と、首を前後にゆっくりと振りながら歩くキリンの姿が見えてくる。
 最上はキリン舎の向かいにある木立のそばのベンチに腰をおろした。木陰になっていて涼しいし、少し遠いが、キリンの全体がよく見える。最上はポケットから煙草を取り出すと、火をつけた。眠いような、そうでもないような、宙ぶらりんの気分が、煙草を吸っている間は覚醒に傾く。最上はベンチのそばに備えつけられた灰皿に灰を落としながら、キリンが運動場を歩くのを眺める。
「お好きなんですか?」
 突然、声をかけられた。少し驚いたが顔には出さない。そうするにはどうやら体が疲れすぎているらしかった。最上は鈍く首を動かして横を見る。隣のベンチに男が座っている。どこにでもいるようなサラリーマンだった。かなりの細身で、くたびれたスーツの中で体が泳いでいるのが外側からでもわかる。こんな時間にこんなところにいるのは、サボりだろうか。
「ええ、まあ」
 最上は短く答える。自分のことは、知らないのか、気づいていないのか。気づかれて除霊やサインを求められるのは面倒だ。
「私も好きですね、動物園。生き物がたくさんいる。平日だと人も少ないですし」
 サラリーマンは最上のいるベンチに移ると、片手を差し出した。
「佐藤です」
「……最上です」
 どうも、と佐藤が手を握った。最上もぎこちなく握り返す。佐藤がスーツの内ポケットから煙草を取り出す。一本くわえてから「おっと」と呟き、最上を見る。まるでその奥に何もないような、薄い茶色の、ぽかんと澄んだ瞳をしている。
「すみません。火、貸してもらっていいですか?」
「ああ、どうぞ」
 最上はマッチを渡した。佐藤が煙草に火をつける。キリン舎に向かって煙をふうっと吐き出してから、最上の方に向きなおる。色つきガラスめいた薄い色の瞳がくるんと最上の方を向く。
「お仕事は何を?」
「ええと……」
 最上は言い淀む。どうやら向こうは自分を知らないらしい。では、何と説明したものか。最上が言葉に迷っているのを見て、佐藤は「なんてね」と笑った。薄い唇がぎゅっと横に引っ張られて、隙間から几帳面に生えそろった歯が見える。
「存じてますよ。最上啓示さん」
「ああ、そうでしたか」
 最上はとっさに愛想のいい顔を作る。とはいえもう手遅れだろうか。そんなに邪険にはしていないはずだが、平日の昼間にぼんやり煙草をふかしているところなど、あまり見栄えのいいものではない。
「ええ。よくテレビに出てらっしゃるでしょう。母もあなたの大ファンで」
「そうですか。それは、ありがとうございますとお伝えください」
 最上は灰を灰皿に落とす。指先が神経質に震えている。これでいいのだろうか。間違いはないか。カメラの前で自分がどう振る舞っているのか、最上はいつも思い出せない。カメラとスタッフがいるから「最上啓示」でいられるのだ。そうでない時の自分はただの……何だろう? テレビとちょっと印象が違うね、と言われるたびに戸惑う。一体テレビを通さない自分はどんな風に見えているのだろう。
「何でしたっけね。『お昼なワイドショー』の。何かのコーナーに最上さんが時々出てるんだって毎日テレビの前で待ってるらしくてね。それが終わってから出かけるのよって」
「それはそれは。楽しみにしてくださっているんですね。嬉しいです」
 自分の声が空虚に聞こえる。背中に汗をかいているのを感じる。こういう時にしっかり対応してこそのタレント、なのだろうが、どうも苦手だ。
「お母様も喜んでいるでしょう」
「えーっと……まあ、楽しみにはしてくれているみたいです」
 調子の悪くない日は病院の娯楽室でテレビを見ているらしい。あんたの出る番組を見たいんだけど、チャンネルを譲ってくれない人がいるのよ、でもこの間は皆さんが自分も見たいって味方してくれたの、と先日嬉しそうに話していた。「恐怖! 呪いのトンネル……女学生を襲った悲劇……ひょっとしたらあなたの身にも」などという、脅しすれすれのどぎつい宣伝文句で耳目を集めるたぐいのうさんくさい番組だが、母にとっては「啓司の番組」らしい。
「そういえば、お身体がよくないとか」
「ええ、まあ」
「きっとよくなりますよ。回復すること、私も母も願っております」
「ありがとうございます」
 最上は内心閉口した。誰がかぎつけたのか、最上の母が病であることがゴシップ雑誌の記事になった。記事の内容自体は最上を中傷するものだった。曰く、病気の母を放り出してタレント業に勤しむ親不孝者、華やかな世界に魅せられ滅多に母の元へ姿を見せぬ、云々。ところが、今度はテレビ局がそれを逆手にとった。瞬く間に最上は「母の治療費のため、人のために悪霊を退治する、善良な霊能者」ということになった。どちらも実際の自分とは違う。
 確かに収入のほとんどは母の治療費に当てているし、時間があれば母のところに顔を出している。テレビ局の雰囲気は性に合わないので仕事が終わればさっさと帰る。だから、ゴシップ誌の記事は間違いだ。けれども、テレビ局がそれに対抗して、というかそれを利用して押し出した「善良な霊能者・最上啓示」というのもただのイメージだ。自分はそこまで善良な人間ではない。ずるいこともするしサボったりもする。気の進まない依頼や嫌いな依頼人だっている。どうしても反りの合わない霊能者がいて、冷たい対応をしてしまうこともある。善良なイメージを背負ったままテレビに出るのは、薄っぺらくて自分に合わない服を無理やり着せられているような気がする。
 佐藤は最上の様子には気づかぬ風でぺらぺらしゃべり、その合間に煙草をふかしている。空いた方の手で最上の渡したマッチ箱をいじくっている。
「いやね、うちの母も先日入院しまして。いやただのめまいでね。くらっと来て転んでたんこぶ作ったんですよ。年寄りだし念のため入院してもらったんですけどね、いやあ、びっくりしましたよ。入院ってかなりその……あれですねえ」
「そうですねえ」
 眉を下げて情けない顔で笑う佐藤に、思わず最上もつられて笑った。
「大事なくて何よりですよ。どうかお大切に、とお伝えください」
 最上が言うと、佐藤が奇妙な表情になった。一瞬、最上は怒らせたのかと思った。が、佐藤はそのままの表情で最上を見つめている。瞳は相変わらず嘘くさいくらいに澄んでいる。ほおが変に緊張して震えている。
「……すみません。嘘です」
「え?」
「母の話。嘘っぱちですよ。私に母親なんかいません」
「はあ」
 じゃあ何でそんな話したんだろう。変な人だな。最上は無意識のうちに佐藤と距離を取る。
「すみません。あなたとたくさん話したくて」
「はあ……」
「嘘をついたお詫びに、もっと稼げる仕事をご紹介したいのですが」
「……稼げる仕事、ですか」
「ええ。最上さんだけに」
 最上は内心身構えた。これは、あれか。ネズミ講というやつだろうか。少し前にナントカ友の会、というネズミ講グループがニュースを騒がせていたのを思い出す。首謀者は何十億と脱税するほど儲けていた一方で、末端の会員は金を騙し取られた形になった。
「でもね。今は詳しいことを話せないんです」
「いえその。結構です。今の収入で十分ですので」
「そうですか? 本当に? 今の仕事でずっとこれから先もまかなえますか?」
 佐藤が畳み掛ける。目が一回り大きく見開かれる。そうすると一層目がきらきらとして見える。熱っぽく話しかけるというよりは、何か段階を踏んで変化する機械のようだった。最上は立ち上がり、煙草を灰皿に押し付けた。
「ご親切にどうも。ですが、お気遣いには及びませんよ」
 それだけ言って、最上は歩き出した。走って逃げたいのを我慢して早足に歩く。今にも佐藤が後ろから肩をつかむのではないかと思うと背中がむずむずする。そのまままっすぐ出口まで行った。回転ゲートを押して出る時に念のため後ろを確認したが、誰もついて来ていなかった。

 

 

「……っていう、変なことがあってさ」
「ふうん。変わった人もいるのねえ」
「というより、ただの詐欺師だと思うけど……」
 それもそうね、と母はのんびり言った。痩せたほおには笑みが浮かんでいる。もともとあまり大柄ではなかったが、病室の白いベッドの上では、余計に小さくなったように見える。
「母さんも気をつけてよ。変な人がいたら、話を聞かないでまず僕に言うんだよ」
「もう、大丈夫だって。私はあんたみたいにぼんやりしてないんだから」
「ええ? ひどいなあ」
 肩を揺らすようにして母は笑った。腕に点滴が刺さっているから、以前のように全身で笑わないように気をつけている。それとも、そんな体力ももうないのだろうか。寝間着から覗く腕は、以前よりもさらに細くなったように思える。
 啓司くんが来てるとね。元気なのよ、加代子さんも。
 看護婦長の言葉を思い出す。疲れさせすぎないように、と注意した上で、こう言ってくれた。今は体力をつける時期だから。あまり気力もないと、体力も落ちちゃう、こうやって来てくれてると、こっちも安心するのよ。
「じゃあ、僕は帰るけど、母さんはしっかり休むんだよ」
「はいはい。あんたも無理しすぎないようにね。最近、痩せたんじゃない?」
「そうでもないよ」
「ロケ弁はおいしいし?」
「そうそう。じゃあね」
 最上は病室を出た。看護婦たちに挨拶をしに行くと、今日はお土産ないの、若く弾むような声の軽口が飛ぶ。
「しばらくはないですよ」
「あら残念」
と口を尖らせる若い看護婦を、婦長がたしなめる。看護婦たちはそれにも一向にめげず、次に地方に行った時は必ずお土産を買ってくる、と約束をさせられた。ごめんなさいね、と言う婦長に最上は首を横に振る。気が滅入りがちな中で、看護婦たちの元気なのは頼もしかった。
 病院を出たその足でバスに乗り、テレビ局へと向かう。早めに出たつもりだったが間に合いそうになく、結局降りてタクシーを拾った。こんなところで無駄遣いしている場合ではないのに、と最上は財布の中身とタクシーのメーターとを見比べる。
 今日は番組改変期のつなぎのスペシャル番組の収録だった。収録は一応進行表通りに進んでいるらしいが、若干遅れている。そこまではいつも通りだったが、途中、スタジオのあまりの暑さに女性タレントが倒れてしまい、休憩になった。スタッフが慌てて扉を開けて換気する。扇風機借りて来い、と怒号が飛ぶ。
 楽屋に帰るのも面倒なので、スタジオの近くの休憩所でコーヒーを買った。最近は不規則な生活のせいか、あまり胃の調子がよくなかった。ブラックは胃に悪いから、とミルクと砂糖を入れたが、乳脂の臭いが鼻につく。一口すすると喉の奥に絡みつき、嫌な味のつばが舌の付け根にわいた。最上はため息をついて空いているベンチに座り、何となく持って来た台本を眺める。表紙には、「木曜スペシャル! 幽霊・超能力・UFO……現代に残る超常現象に科学のメスを入れる!」という大仰な番組タイトルと、目と頭ばかりが大きい宇宙人が印刷されている。このタイトルだと自分は科学のメスを入れられるほうになるのだろうか、とぼんやり考える。今まで何人もの人から能力を頼られ、その倍くらいの人からインチキ呼ばわりされたり疑われたりした。なぜ霊なんかが見えるんだ、と言われても最上にもわからない。
 最上の能力は生来のものだ。物心ついた頃には幽霊が見えた。何も見えない場所を指しては笑い、虚空に向かっておしゃべりをしたり泣きわめいたりする子供を母はさぞかし持て余したことだろう。それでも母は、困った顔をしながらも、最上の言うことを嘘だと断ずることはなかった。
 最上に霊を祓うことを教えたのは、母の遠縁の女で、母も最上もただ「おばさん」とだけ呼んでいた。産婆を生業としていて、父がいなくなり、女手一つで最上を育てることになった母が最後に頼った相手だった。他の親戚には皆断られた。母はその家の住み込みの見習い、という形でしばらく暮らし、後に彼女の紹介で助産院の雑用の仕事を得た。
 彼女の家にはしばしば、最上の他にも子供が預けられることがあった。どういうわけか、最上以外は全て女の子だった。学校へ上がる前に覚えた遊びは皆女の子のもので、学校へ通うようになってからも女の子とばかり遊んでいた。弱々しく首もほっそりしていた低学年の頃はよかった。たとえ男児がからかっても、女児たちは最上を「ともだち」と認識してかばってくれた。男のくせに、と言われても最上はきょとんとしていた。ずっと子供の頃から女の子と遊んでいたから、男とか女とかでなく、子供というのはそういうものだと思っていたのだった。
 この頃、子供たちの恐怖の的になっていたのが「おいと」だった。おいと、というのは灸のことで、産婆の家で喧嘩や癇癪を起こした子供たちが据えられる。熱くて熱くて泣き叫ぶが産婆は許してくれない。不思議と押さえつけもしないのに、子供たちは暴れずにその場に寝転がっておいとを受けるのだった。
 おいとは喧嘩や癇癪を起こせばいつも据えられるわけではなく、産婆に見つかって「あんた、こっち来なさい」と言われた子供だけが据えられる。寝小便だとか、昼寝の時にうなされるとかでも据えられた。産婆の家にいるのは女の子ばかりだったが、おいとのために男の子もしばしば連れて来られていた。
 ところが、この灸を最上は据えられたことがなかった。たしかにあまり喧嘩はしなかったが、癇癪を起こさなかったわけではない。幽霊に話しかけられて混乱し、泣き叫んだこともある。なぜ自分にはしないのか、と問うと、産婆は「あんたはそうなのよ。あんたはいらんの」と言った。
「あんた、なんで私があれをやってるのか分かってるでしょう」
 最上は首を傾げ、それからあのことだろうか、と思った。灸を据えると、赤い糸のようなものがつうっと皮膚から這い出て来る。それは床の上に落ちて、二つ、三つ身をひねると消える。そうすると、不思議と灸を据えられた子が落ち着くのだ。
「あんたにはいらんよ。あれはあんたに憑かないからね」
 そう言って、あれを追い出す仕組みを教えてあげよう、と、最上を自分の部屋へ連れて行った。そこは子供の決して入ってはいけないところで、母も呼ばれるまでは入ったことはない。中には書物や巻物や積まれ、壁には人間の解剖図が貼られている。産婆は、端に積まれた巻物から一つを引っ張り出し、最上に見せた。稚拙な人間の図に、いくつもの線が引かれている。産婆はこれは「けいらくず」だと言った。体の中の「気」の流れを示したものだ、と言う。「気」を扱うことができれば、それをぶつけたりして悪いものを追い払うことができる、と。産婆の言うことは難しかったし、今も経絡図はほとんど覚えていない。それでも何かのきっかけにはなったのか、三ヶ月ほどで祓う方法を覚えた。それからは、産婆に見つかる前に、産婆のところに預けられた女の子たちの身中の糸をそっと祓ってやった。
 高学年になった頃から女の子たちは最上を遊びに入れなくなった。それは、仕方がないことなのだ。成長するにつれて子どもにも男女の別があるのを最上も分かるようになったし、体つきが明らかに違ってきているのにも気づいていた。中学の頃、母は、産婆の紹介で別の都市の医師の元で働くことになった。
 それからしばらくして、彼女が亡くなった。母と葬儀に出たが、彼女の残滓は何もなかった。家財道具や彼女の自室に積まれていたいくつもの書物も全て処分したらしく、家の中にはほとんど何も残っていなかった。おそらくは早い段階で死期を悟り、何の未練も残さずに亡くなったのだろうと思う。母への仕事の斡旋も、思えば妙に急だった。
 霊の見える人間は多くない。霊の見えている人間でも、同じように見えて、同じように振る舞えるとは限らない。今まで霊が見えると嘘をついた人間も何人も見たし、霊が見えても対処ができない人間もいた。
 あんたはそうなのよ。
 と、産婆が言った時、なぜか憐れむような目をしていたのを、最上は今も覚えている。

 

 

 スタジオに戻ると、まだ休憩中だった。近くを歩いていたADを捕まえて尋ねると、もうすぐ本番始まります、ということだったので、スタジオの隅に出されている折りたたみ椅子に腰掛けて待つことにした。アウトドア用の、布製のもので座るとふにゃりと沈み込む。冷えたコーヒーを一気に飲み干したせいか、胃のあたりが気持ち悪かった。
 最上は台本をめくる。実は中身をしっかりと読んでいなかった。こういう番組は何度か出演したことがあるが、心霊現象以外で自分に話が振られることはほとんどない。だから、大抵は自分の出そうなところだけしっかり読んで、あとは流し読みをしている。今回もそういう風な読み方をしているので、段取りを詳しくは知らない。心霊のパートは後ろから二番目だ。自分の出番まではまだしばらくある。次は何だろうか、と台本をめくる。
 ううん、と誰かの唸る声がした。最上は顔を上げて周りを見回す。またうめき声が聞こえる。気配はしないので幽霊ではない。最上は立ち上がり、自分の斜め後ろ、スタジオの隅の薄暗いところに、折りたたみ椅子に沈み込むようにして眠っている少年を発見した。見た所、随分とうなされている。最上は椅子の上に台本を放り投げて少年のところへ行く。そばに膝をつき、肩を揺する。数回声をかけると、目がぱかりと開いた。
「君。大丈夫? うなされてたみたいだけど」
「おじさん誰」
「最上啓示と言います。この番組に出ています」
 最上は後ろのセットを指差した。少年はうさんくさそうに最上を眺める。十歳ほどの、目の大きい、利発そうな少年だった。スタジオの隅の薄暗い照明でもわかるくらいに青ざめている。よっぽど嫌な夢をみたらしく、首元には汗をかいている。
「最上? あのインチキ霊能者?」
「インチキではないよ」
 最上はいいかい、と言って少年の手を握った。その手を上に向けて力を込める。波のイメージだ。少年の手のひらから腕へ、隅々まで流れる。そのうち、少年の手の真ん中からするすると赤い糸が出て来た。スタジオの床に落ち、二つ三つ、身をくねらせて消える。
「何?」
「おまじないみたいなものだよ。これで嫌な夢は見ない」
 最上は手を離す。少年は、半信半疑、と言った様子で手を開いたり閉じたりしていた。
「変なおっさん。まあいいや、どうもお世話様でした」
 少年は椅子に座ったままぺこりと頭を下げた。最上は苦笑した。子役だろうか、なんともふてぶてしい。そのふてぶてしさもここにいるための強さかと思うと、あまり叱る気にはなれなかった。
 と、少年の顔色が変わった。どうしたのか、と尋ねる間もなく最上の肩をぐいぐいと押し、「さっさと戻って」と促す。
「もう大丈夫だから。行っちゃって」
 押し切られるように最上が自分の席に戻り、椅子の上に置いてあった台本を手に取ったところで、「アキラ!」と声がした。見ると、大人の男がさっきの少年の傍らに立っている。
「何の話をしてたんだ?」
「別に。ただの世間話だよ、父さん」
 なるほど、父親か。そう言われてみれば、目の大きいところがよく似ている。最上は「お父さんでしたか」と声をかけた。
「あんたは?」
「最上啓示と言います。霊能者で……」
「それは知ってる。うちの子に何してたんだ」
 喧嘩腰の父親に、最上は面食らった。それにしても、何してたんだ、とは、ずいぶんな言い草だ。少年の方を見ると、父親から視線を外し、スタジオの床を無表情に見つめている。
「ああ、別に世間話ですよ。こういうところに子供さんがいるのは珍しくて、つい」
 最上は嘘をついた。彼には正直に話さない方がいいだろう。男は「そうですか」とだけ切口上に言い、少年の方を向くと、後は最上には目もくれなかった。最上も自分の席に座ったが、この位置だと嫌でも話が耳に入る。曰く、お前ならできる、とか世間に泡を吹かせてやれ、とか言っているらしい。舞台に出るわけでもないのに、子役にかけるにしては妙な言葉だ。
 その謎はすぐに解けた。次の収録のテーマは「超能力」だった。さっきの少年は超能力者で、スプーンを曲げることができるのだ、と言う。固唾を飲んで大人たちに見守られる中で、少年は見事にスプーンを曲げて見せた。
 司会者が少年の手からスプーンを取り上げ、高く掲げた。トロフィーのように頭上に掲げられたそれは、真ん中のところからくの字に折れ曲がっている。スプーンの先がスタジオの光を反射してキラキラと光った。すごい、と最上は拍手をした。
 ところがスタジオの反応は鈍かった。どうやってやったの、だのいつからできるようになったの、だのと司会者が話しかけるが、何となくその声色になぶるような響きがある。ゲストの物理学者だという男は、てこの原理を使えば曲げられる、と言って自分でも実践してみせた。挙句の果てに、映像で検証してみましょう、と言う。最上はひやりとして少年の方を見た。少年は、口をひき結んでじっと立っている。
 映像の検証の結果、不審なところはなかった。ほっとしたのもつかの間、今度は司会者が「最上さん、どうですか?」といきなり最上に話を振った。
「どうって……」
「超能力。どうですか、実在しますか、しませんか」
「それは私にはわかりませんが……というか、やめませんか、こういうこと。相手は子供ですよ」
 最上が言うと、司会者の顔から表情が抜ける。しまった、と最上は思う。たまに台本にないことをしてしまい、あとで叱られるのだった。しかし構うものかと思う。まだ何か言うようならもっと言い返してやる、と意気込んでいたものの、収録時間が押しているせいか、これ以上の問答はなく検証は終わりになった。
「では、濱口アキラくん、ありがとうございました。皆さまもう一度拍手を」
と司会者が言う。しらじらしく響く拍手の中を濱口少年は帰って行った。カメラの視界から出た彼の肩を、父親が抱いてスタジオの外へ連れて行った。
 後日、番組が放送された。濱口少年の出番のところで言った最上の言葉は、司会者が話しかけた部分から全部なかったことになっていた。
「なんだか気の毒ね、この子」
と、ベッドの上で番組を見ながら母が言った。司会者が、濱口少年に拍手を、と言った瞬間に映像が突然途切れ、臨時ニュースに切り替わった。曰く、ネズミ講の首謀者が死亡、死因は心臓発作、被害総額は数億と見られる。番組が戻った時には、もう次のコーナーに移っていた。

     *

 秋に入って、母の病状は悪化した。最上は母の主治医と相談し、別の大きな病院に移ることにした。今より少しお金はかかりますが、最新の治療を受けられます、お母様のためにはそちらの方をおすすめします、という主治医の勧めだった。母も最上もこの人を信頼していた。この人がそう言うなら、と最終的には母が転院を決めた。
 最上は前にもまして積極的に仕事を引き受けるようになった。幸い仕事は途切れなくあった。最上の方も、以前より柔軟に仕事を受けるようになった。つまり、
「最上さん、すみません。この後なんですけど、その、ふりだけですね……」
という話に応じるようになったのだ。もちろん、ある程度報酬に色はつけてもらうし、人を傷つけたり詐欺になりかねないようなものは断る。それでもそういう話は、数度に一度の割合で回ってくる。それもそのはずで、この手の番組は数を増やしていたが、いつも都合よく怪奇現象の起こるトンネルだの呪われた人形だのが見つかるわけではない。霊が番組の思い通りにふるまうことなどほとんどないのだし、いたとしても収録中には反応しない、ということもある。むしろ霊たちの反応のないの方が収録は平和に済むのだし、お互いいいことではないか、と思うようにしている。
 そういうことが、どういうルートから漏れるのか、最上は週刊誌に「インチキ霊能者」としてすっぱ抜かれたことがあった。ヤラセに応じたのは本当なので気にはしないが、あまりにも不愉快な書き方をしていたので、それ以来、最上はそのたぐいの雑誌は見ないことにしている。たまに、雑誌にこんなことが書いてあったんだけど、と言って来る者もいないではないが、「ああ、よくあるゴシップ記事ですよ」と笑い飛ばすと大抵矛先を収めた。それよりも、母が気にしてしまうのが気の毒だった。誰が見せてくるのか、母はそのような雑誌の記事を見つけては、こんなひどいこと、と怒り、悲しむ。
「僕は気にしてないよ。よくある記事だよ。誰にでもあんな風に書くんだ」
「でも、あんな風に悪口言わなくたって」
「いいんだよ。僕がそんなんじゃないっていうのはさ、母さんが知ってるし、ここの看護婦さん達も、前の印刷所の所長も、僕の担任だった先生も、みんな知ってるんだから」
 それは本心だった。知らない人間に何を言われようが、自分が知っている誰かが自分を信じてくれているのだから、構わない。
 母は最上の目をじっと見つめ、ようやくそうね、と呟く。そう言う唇は荒れて、かさついた頰にはしみが浮き、痛々しいほどに痩せている。腕には点滴のあとがいくつもついている。昔はふっくらとしていた手も、今は関節の骨の尖った形がわかるほどになっていた。最上はその手を握る。最上よりも少し低い体温で、表面は乾いている。長い間水仕事をしてこなかったからつるつるしていた。石のようだ、という自分の連想を押し殺す。
「怒ってくれてありがとう」
 しょうがないな、と母は呟いて横になると目を閉じた。一通り怒ったので疲れたらしい。最上は母の手を握りしめる。その手のひらの中央から、赤い紐状のものが出て来て、ぽとんと床に落ちる。それが床の上でのたくって消えるのを確かめてから、最上は立ち上がった。母がゆっくりと目を開ける。
「仕事?」
「うん」
「そう。気をつけて」
 母がまた目を閉じた。
 病院を出てバスに乗ってから、そうだ、と気づく。今日は打ち合わせが中止になったのだ。今朝連絡を受けていたのに、すっかり忘れていた。母のところへ戻ろうか、と思ったが、また起こしてしまうのも忍びなかった。最上はそのままバスに乗り続け、目当てのバス停を通り過ぎる。このままだとどこへ行くのだろうか。座席から立ち上がり、運転席の後ろの路線図を確かめる。今乗っているのはこの線。さっき通り過ぎたのは市役所前。次は双葉台二丁目。それじゃあ、次は……と路線図を指でたどり、あ、と手を止める。
 動物園前。
 最上が降りたのはそこだった。以前来た通りの正門と看板と、切符売り場。入園料は百十円に値上がりしていた。料金を払い、中へ入る。前と同じようにまっすぐキリン舎の方へ行く。
 キリンの姿が見えた頃に、そういえば前に変なやつに会ったっけ、と思い出す。確か名前は佐藤だったか鈴木だったか。ひょっとしたら、またいる、というよりも、まだいるのでは、という気がして、最上はばかげていると知りつつおそるおそるキリン舎に近づいた。向かいの木陰に並ぶベンチを確かめる。ベンチは全て空だった。手すりにつかまるようにしてキリンを眺めている親子以外、周りには誰もいない。
 最上はベンチに腰を下ろす。キリンはまぶたを伏せて、ゆっくり歩いている。まつげが下向きに生えていて優しい顔をしている。アフリカの生き物。遠い大陸の生き物だ。けれども都会の生まれの生き物。最上はベンチの背もたれにもたれかかり、頭を背もたれに乗せる。頭上に見える木の枝はほとんど葉を落としている。枝に二つ三つずつ枯葉がくっついているが、風が吹くたびにゆらゆらとして今にも落ちそうだった。秋晴れの空が疲れた目の奥にしみる。
 頭が重い。そのくせ、芯のところはぼんやりとして、考えがなかなかまとまらない。近頃はいつもこうだ。不規則な生活のせいなのだろうというのは薄々分かっている。生活の方は変えられないので、それとうまく付き合っていく方法を、最上は探しあぐねている。知り合いのスタッフに尋ねても、細切れに寝る、とか寝溜めする、とか、そもそもあまり気にならない、とか、参考になりそうになかった。
 最上はため息をついて起き上がる。ポケットから煙草の箱を取り出し、一本くわえる。
 ごぜ。
 最上は煙草を摘んで口から離す。ゆっくりと隣を見た。隣のベンチに、黒い影が座っている。輪郭のおぼろげな何かが、それでもどうやら人らしい形を取りながら、まるで子供が無造作に写真に描いた落書きのようにして、そこにいた。
 ごろさざれまじだだだ。
「……何ですか」
 最上はそれに話しかけながら神経を集中させる。普段は閉ざしている感覚を、布を一つずつ剥いで行くように開いて行く。そうしながら、相手の感情に影響されないように、透明な防御壁を張る。瞬時にピントが合う。と言っても、相手は相変わらず輪郭のぼやけた影のような形だった。ピントが合ったのは声――というより、言葉の方だ。
 ころされました。
「私には、どうすることもできません」
 ころされました。
「あなたを祓います。私には、それしかできません」
 ころされころされころされました。
 影がぬっと体を突き出してくる。最上は目を伏せた。影には眼球がなかった。それどころか、炭でその場を塗りたくったような茫漠とした黒い塊そのもので、鼻や唇の隆起すらない。それでも目は逸らした方がよい、とくだんの産婆から教わっていた。目は魂の窓だ、と産婆は言った。だからうかつに目を見られてはいけない。
 わたしをころしたおとこを。
「それは警察の仕事です」
 最上は影の方向に向かって力を込める。膜では弱い。波のイメージを使う。男を包んで押し流す、小さな波。
「え?」
 顔を上げる。影はもう消えていた。自分が今しがた祓ったのを最上は知っていながら、周りを見回した。
 わたしをころしたおとこをあんたはしっている。
 消える寸前、影はそう言ったように聞こえた。つまり、自分の身近に殺人者がいるということか。影はその警告に来たのか。まさか、と最上は思う。真意を問いただしたかったが、もう祓ってしまった。それに、あれは死者だ。死者はしばしば、生前の思い込みや強迫観念に引きずられてものを言う。気にしても仕方がない。
 そう思うのだが、肌にまとわりつくような気味の悪さが消えなかった。
「もう、何なんだ一体……」
 最上はぐしゃぐしゃと髪を掻き回し、一つため息をついて立ち上がった。吸ってもいない煙草を灰皿に捨てる。もうキリンを眺める気分ではなくなってしまった。ふと檻の方を見ると、キリンがまっすぐ立って、じっとこちらの方を見ていた。

 

 

「霊能力では落ちない汚れも、酵素の力で驚きの白さ!」
 最上は何度目かになるかわからないそのセリフを口にする。最初にあった恥ずかしさも今はほとんど消え失せた。と、思う。そうであってくれ。棒読み。なんだか硬いんだよね。もっと奥様方に訴えかける感じで。頼り甲斐をアピールして! 撮影の合間、矢継ぎ早にかけられた言葉を思い出す。頼り甲斐って何なんだ。生まれてこの方一度も言われたことがないのにどうやって出したらいいんだ。だいたい霊能力で落ちない汚れって何だ。そもそも霊能力は汚れを落とすものではない。それを言うなら超能力だろうが何だろうが洗剤がなければ汚れは落ちない。
 カット、と声がかかり、最上は口元に浮かべていた笑みを解いた。すかさずメイク係の女性が最上の顔に浮いた汗を拭うのを、居心地の悪い思いで受ける。ちらりとスタジオの端を見る。CM監督が撮影助手と何やら話しながら、セットの一部を指差し、カメラを覗きこんでいる。これでいいだろう。いいはずだ。いいことにしてくれ。最上はひょっとしたら生まれて初めてかもしれない神仏への祈りを捧げた。
 祈りが通じたのか、顔を上げたCM監督が「オッケー。これでいこう」とゴーサインを出した。安堵でその場にへたり込みそうになるのをこらえて、最上はありがとうございます、と頭を下げる。
「いやあ、CM初めてだって? いい感じだね、映りもいいし、声がいい」
「ありがとうございます」
「最上さん、お母さんがたにウケがいいんだよね。爽やかだって」
「そうですか」
 最上は上の空で頷いた。やっと帰れる。慣れない発声で何度も声を張ったせいで、すっかり疲れていた。ここ数ヶ月、忙しさのせいかあまり感じなかった健全な空腹感を覚える。腹が空っぽで何でも入るぞ、という貪欲な気持ちを思い出す。先に食事をしてから帰ろう。今日は何を食べようかな。社員食堂は安くて量が多い。前は常連だったから、食堂のおばちゃんは何も言わずにご飯を大盛りにしてくれたけれど、今も覚えてくれているだろうか。ほっとした最上の心の隙を刺すように、ディレクターが言った。
「ついでに、もう一パターン撮っとこうか」
 朝から始まった撮影は、昼休憩を挟んで夜まで続いた。最上は疲れた体を引きずりながら楽屋に戻る。もうすでに食欲は失せていた。どうせ流れるのはほんのちょっとなのに、あんなに何回も撮影するなんて、とは思うものの報酬はいいのだ。それに、もうあれを受け取ってしまった。最上は部屋に届いた大きなダンボールと、その中にぎっしり詰まっていた洗剤を思い出す。洗剤は近所の人と母の入院する病棟の看護婦たちに配った。そのうちいくつかはミカンや佃煮になって返って来た。最上は報酬に意識を集中させる。でないと恥ずかしさでその場から逃げ出してしまいそうだ。
 きっかけは、お昼のミニコーナーをレギュラーで受け持つようになったことだった。ワイドショーの中の一コーナーで、「あなたの隣の心霊相談」という。視聴者からの心霊体験を募集し、それに最上がアドバイスやコメントを述べる、という形式だ。時間は短いが、ともかくも定期的な収入を得られる仕事があるのはありがたかった。
 昼のワイドショーだから視聴者は主婦が多い。スポンサーは家電や日用品のメーカーで、それで最上にCMの話が回ってきたのだった。なぜ自分に、とは思うものの、最近は心霊関係以外の仕事の割合も増えてきた。あるいは、
「すみません。ちょっと最近おかしなことがあって……」
と、タレントやテレビ関係者からの相談が来る。大抵は体調不良や勘違いに起因するものだったが、最上は真正面から否定せずに彼らの話を聞いたし、必要であれば除霊のフリも、それで安心できるなら、と、もちろん病院や整骨院への通院を進めた上で行った。おかげで、今ではテレビ関係者以外からの相談もぽつぽつ来るようになった。もちろん相談料はもらうが、他の霊能者に比べればかなり良心的な値段だろう。若いスタッフや駆け出しのタレントからは取らない。代わりに、もし困っている人間がいたら自分を紹介してもらえるように頼む。
 霊能タレントなんて、いつまでも続けられるわけではない。仕事の時間は不規則だし、収入も不安定だ。飽きられればそれで終わり。最上は自分の立ち位置をよくわかっていた。一見普通の人間らしい、つまり霊能者らしくないところが物珍しがられている。ブームの中心は坊主や数珠を掛けた神がかりの中年女性、要するにそれらしい貫禄ある人々で、最上はそれに対するアクセントだ。このオカルトブームだっていつまで続くか分からない。ずっとこれから先もこの仕事でやっていけるなんて、最上も思っていない。このまま霊能相談の方に軸足を移せれば、と思っているが、そうするにはまだ早いというのもわかっていた。
 例えば霊能事務所を出すとする。事務所を借りる費用、中を整える諸経費に、広告費、自分がいない時に留守を預かってもらう人件費。最上は頭の中で何度となく繰り返した計算をもう一度行い、そしてまた諦める。新しい生活を思い描いて必要なものを一つ一つ積み上げていくと、必ず何かが足りなくて崩れてしまう。相談が増えている、と言っても生活と母の入院を支えるにはほど遠い。何より、そんなまとまった金があれば、母の治療を優先させたかった。霊能事務所のことを考えるのは一種の逃避だった。テレビの仕事にはもう慣れたが、それでも時々、帰るときにぴりぴりとした神経の高ぶりと疲れを実感することがある。いっそあの印刷所に戻りたい、と思うこともあった。
 楽屋で帰り支度をしていると、ノックの音がした。まだ何かあるのだろうか、と、さっきのCM撮影が瞬時に頭を過ぎる。青を基調としたセット、真っ白なシャツ、熱が入って唾を飛ばしながら叫ぶ監督、石鹸の匂い……。一瞬躊躇してからどうぞ、と言う。入ってきたのはさっきまでいやというほど付き合っていたCM監督ではなく別の番組のカメラマンだった。最上も何度か仕事をしたことがある。あまりお化けは怖くないとかで、心霊ロケによく行かされているんだ、と言っていた。確かにその手の影響はあまり受けないタイプのようだった。
「あれ? お久しぶりです。どうかされたんですか」
 新しい仕事か、あるいは霊能相談だろうか。カメラマンは困惑したような表情で、君に会いたいって子がいて、と言った。
「私にですか。相談とか……」
「いや、それがよく分からなくて。会えるまでここを動かないの一点張りでさ」
 帰ろうと思ったのに捕まっちゃって、弱ったよ、と言うのでよっぽど手強い相手だったらしい。とにかくお会いしましょう、と言うと「ああ、よかったよ」と大げさに息をついた。ついでだから楽屋まで連れてくるね、と言うので、ありがたく任せることにした。
 少しして楽屋がノックされる。どうぞ、の「ど」を言ったくらいのところでドアが開けられた。入って来たのはあのカメラマンではなかった。
「君は……」
「最上さん、僕に何をしたんですか」
 楽屋に入って来たのは、十歳ほどの少年だった。彼を連れてきたカメラマンが、じゃ、あとよろしく、と口の形だけで言って楽屋のドアを閉めた。
 少年は大きな目をいっぱいに開けて最上を睨みつけている。その目には見覚えがあった。いつだったかの番組で、スプーンを曲げてみせた少年だ。確か名前は、
「濱口アキラくん。ひとまず、座らないかい」
「失礼します!」
 濱口アキラはぶりぶりしながらすぐそばにあった椅子を引き寄せて腰を下ろした。最上も椅子を持って来て、その向かいに座る。
「それで、一体今日は、何の話かな」
「この間の番組で、僕に何かしてた。一体、何をしたんだ」
 濱口アキラは喧嘩腰に言った。面食らいながらも、何かとは、と最上は記憶を探る。収録では、最上はほとんど見ているだけで何もしなかったはずだ。濱口アキラは焦れたように身を乗り出した。
「休憩中に!」
「ああ」
 最上はあれか、とようやく合点が行った。
「別に、大したことはしていないよ。君はあの時うなされていたでしょう。その原因を取り除いたんです。疲れていたり心が弱っていたりすると、悪い虫みたいなものが取り憑いて、意味もなく機嫌を悪くしたり、悪い夢を見せたりするんだよ。もしまた悪い夢を見るようなら、またやってあげるけど……」
 最上の話を聞く濱口アキラの表情が、怒りからみるみるうちに落胆に変わっていく。さっきまで赤く上気していた頰から血の気が失せて白くなった。
「濱口くん?」
「じゃあ、本当に……何もしてなかったんですね」
 濱口アキラは、愕然とした表情で、斜め前を見ながら呟いた。最上は、「気休め程度だろうね」とうなずいた。少年が悔しそうに唇を噛む。
「何があったのか、聞いてもいいかい」
 濱口少年はしばらく押し黙っていたが、やがてぽつぽつと語り出した。テレビでスプーン曲げを行う超能力者を見たのをきっかけに、自分もスプーンを曲げられるようになったこと。それを父親が雑誌に売り込んで有名になったこと。父親はフリーライターでオカルト系の雑誌にもいろんな記事を寄稿していたのだと言う。母は離婚して別居しているが、時々会っている。スプーン曲げの能力は日によって波があり、曲げられる時と曲げられない時があった。
「そういう時は、いいんだよ、ってさ。雑誌の人たちが。曲げるのは前に見せてもらったから、今日はこれを使おう、って前に曲げたのとか手で曲げたのを写真に撮るんだ」
「なるほど」
 最上は相槌をうつ。どこでもやることはよく似ているらしい。
「でも、最近は、スプーンが曲げられなくなって来てて。前はもっといっぱい曲げられたのに、今はあんまり曲げられない」
「それは……スプーン自体が曲がらなくなってきたということかい? それとも回数のことかな」
「両方」
 濱口アキラは顔を上げた。最上を見る目が真っ赤に充血している。最上は濱口アキラの手をとった。
「君くらいの年齢だとね、能力に波があることはよくあるんだ。特に、弱っているときは……」
 そう言いながら力を込める。手のひらから赤い糸が出てくる。長い長い糸だった。糸は床につくくらいまで伸びてぽとりと落ちる。最上はそれを靴底で踏んだ。のたくる前に糸が消える。最上は濱口アキラの手を離した。
「虫、退治したんですか」
「そうだね。もう大丈夫だよ」
 濱口アキラは手を開いたり閉じたりした。それから首を横に振った。
「大丈夫じゃないよ」
「どういうこと?」
「スプーン曲げ、たぶん、僕はもうできない。わかるんだ」
「でも、ダメってことでは……」
「これじゃダメなんだ。明日、雑誌の人が来る」
 濱口少年が声を震わせる。大きな目がいっぱいに見開かれて、その表面を涙の膜が張っている。顔は青白かった。そういうことか。先日の収録で、濱口少年に懐疑的な発言をぶつけていた男の姿を思い出す。最上は無意識のうちに太ももに爪を立てる。
「ナントカ写真、っていうので僕がスプーン曲げをするところをブンセキテキに見るんだって」
「今日はできない、と正直に言うのは……」
「そしたらインチキ扱いだ!」
 濱口アキラが立ち上がる。椅子が耳障りな音を立てて倒れる。少年はそれに一瞬びくりと肩を震わせ、視線を走らせたが最上の方に向き直った。
「みんなもうスプーン曲げには飽きたんだ。今度は僕がインチキするところを見たいんだ」
 濱口アキラの目から涙がこぼれだした。両目から一筋、二筋、涙がこぼれたがそれ以上は流れなかった。濱口少年は斜め下の床を睨んで唇をぎゅっと引き結んでいた。ぐ、と喉が鳴る。少年が指で目に溜まった涙を乱暴に拭い去る。
「濱口くん」
「最上さんにはわからない」
 濱口アキラはもう泣いていなかった。目は赤く腫れぼったくなっていたし、頰の上にも涙の跡がついていたが、大きな目はしっかりと見開かれて最上を映している。あの日見た、黒目がちの、利口そうな少年がそこにいた。
「最上さんの力は誰にも見えないんだ。悪い霊がいますよ、って言ったら、最上さんにしかわからない。でも僕の力はみんなに見えちゃう。最上さんと僕は違うでしょ。最上さんにはどうしようもない」
 濱口アキラはいっそせいせいしたような様子で、ずけずけ言いながら倒れた椅子を立てた。
「……君の言うとおりだ。私には、どうすることもできない」
「ここまで来たのにさ」
「ごめん……」
「いいよ」
 濱口アキラが手を開いたり閉じたりしながら言った。「じゃ、僕帰ります。どうもお世話様でした」とぺこりと頭を下げる。
「濱口くん」
 楽屋を出ようとする濱口少年を最上は引き止めた。
「……もし、本当に雑誌に出るのが嫌だったら、隠れたらいい。うちに来るといいよ。今は私一人だから、君くらいなら増えても大丈夫だ」
 濱口アキラはまるで大人のように苦く笑い、首を横に振った。
「ありがとう。でも、お父さんを一人にできないから」
 そう言って楽屋を出て言った。
 二週間ほどして、書店の店頭にとある雑誌がいくつも並べられた。ゴシップ雑誌で、表紙には大きく「スプーン曲げの天才!? 少年Aのトリックを暴く」と書かれてあった。中を見ると、太ももにスプーンを押し当てる濱口アキラの姿が掲載されている。ストロボによる連続撮影、と小さく注釈がついている。最上は雑誌を閉じてその場に叩きつけるように置いた。結局、濱口アキラは、彼らの望む通りにトリックを演じて見せたのだ。
 重苦しいものを抱えたままテレビ局に行き、楽屋にこもる。と、扉がノックされた。開けると、顔見知りのスタッフが立っていた。いつだったか、濱口アキラを楽屋に連れてきたカメラマンだ。
「どうかされましたか」
「いや、その……アキラくん、この間来てたでしょ。やっぱりちょっと気になって」
「ああ」
 どうぞ、と楽屋へ入れようとすると、ここで、とカメラマンは首を振った。すぐに行かなければならないから、と断り、それから少し尋ねにくそうに言う。
「アキラくん、やっぱり何かあったの?」
 最上は少し迷った。が、カメラマンの心配そうな視線とかち合い、濱口アキラとのやり取りをかいつまんで話すことにした。詳細には踏み込まず、いつだったかに悪夢祓いをしたこと、それを覚えていて来たこと、それが雑誌撮影の前日だったことを手短に話す。
「そうかあ」
 カメラマンは目玉を斜め上に向けてぐるりとさせたかと思うと、腰に手を当ててため息をついた。がっくりと頭が下を向いた。
「知り合いなんですか」
「いや。番組は見たことあるけど面識はないよ。声かけられたのだって偶然だし、向こうは僕のことなんか覚えてないよね。でもちょっと気になっちゃって」
 カメラマンは苦笑した。
「そうでしたか……」
「あの性格だからちょっとやそっとじゃしょげないだろうけど……いや、よく知らないのにこんなこと言っちゃだめだね」
 カメラマンは首を横に振った。
「もうこれで、マスコミと縁が切れるといいんだけどね、あの子。僕なんかが言うのも自分を棚に上げてって感じだけど、ろくでもないもん、この業界」
 最上はうなずいた。マスコミと縁が切れるといい、というのも、ろくでもない、と言うのもその通りだと思った。濱口アキラは聡明な少年だ。ふてぶてしいところもあるが、人に対して気を使える人間でもある。きっと、マスコミと縁が切れてもうまくやっていける――というより、そうなってほしい、という、これは自分の願望だ。最上の心中を代弁するようにカメラマンが言う。
「僕なんかがここで心配しててもしかたないんだけどね」
 じゃ、突然お邪魔様でした、と言ってカメラマンは去っていった。

     *

 その日の収録は、冬休み向けのスペシャル番組で、野外でのロケだった。かつて虐殺事件のあった村があり、そこはその後廃村になった。その村の跡地があるらしい、という噂の森に入ることになっていた。今回は生放送で、スタジオの方で事件の再現ドラマのVTRを流した後、ロケ地にいる最上とスタッフに繋ぐことになっていた。冬だというのに暖かい日だった。ただでさえ待機の時間の長い生放送の野外ロケで、それだけが救いだった。
 噂の村の跡地だという場所はもう少し遠くらしかったが、その森に足を踏み入れた瞬間に最上は嫌な感じを皮膚に受けていた。いるというようなものではない。全てを拒絶するような負の感情をひりひりと肌に感じていた。最上は腕時計を確認する。まだ真昼間だというのにうすら寒い。手の甲の体毛が逆立っていた。周りでは、スタッフが車に簡易テントを張って中継基地を作り、機材の準備をしたり、司会役のタレントに何やら説明したりしている。見たところ、具合の悪くなった人間はいないようだ。最上はテントから外れた場所で煙草を吸っているディレクターの元へ向かった。
 ディレクターは最上を見るとまた面倒なことになったぞという顔をした。今まで何回もここは危険です、ロケはやめましょうと訴えているからである。最上は構わず森を指差した。
「ここ、本当に行くんですか?」
「……つまり?」
 ディレクターが煙を吐いて最上を見た。
「あまり良くない感じがします」
「感じ、と言われてもねえ。君にしかわかんないでしょう」
「それはそうですが……」
 最上は唇を噛む。スタッフか出演者の中に一人くらい、敏感な人間がいるのではないか。最上の感じる嫌な気配を、もう一人でも察知してくれれば、まだ説得できるだろうに。
「まあ、一応このまんま行くよ。生放送だし、今更行きませんというわけにもいかない。我々も生活がかかってるからね、申し訳ないけど、お付き合いをお願いしたいんだけど。もし本当に危ないっていうんなら、手前のとこまででもいいからさ」
「……わかりました」
 最上はしぶしぶ頷いた。いずれにせよ、自分しかそれがわかる人間がいないのだ。それならば、危険の少ない方へ誘導してしまえばいい。今までもしばしば、最上はこの方法を取ってきた。あまりにも霊が凶暴そうなときや、そっとしておいた方がいいようなとき、最上は「こちらから気配がします」と言いながら何もない方へと歩いた。それで何も起こらなくても、今回は運が良かったとか霊が警戒して隠れてしまった、ということになる。あるいは、機材の故障やオーブの映りこみやら、霊障らしき現象が起こることもないではない。放送されればそこに霊がいたことになるのだ。それで番組が成立するのなら、それでいい。
 霊は基本的に、そこにいるだけだ。よっぽど何か強い願望を持っているとかでない限り、自我がはっきりしている霊はあまり多くない。けれども近づけば何らかの反応をするし、時にそれが攻撃という形になることもある。自分の嘘でお互いの安全が守れるのだ。それならいくらでも嘘をつく。
 雲で日が陰って肌寒い。最上は腕を組んで、中継基地からやや離れた場所にある木立のそばに立つ。相変わらず嫌な気配は消えていないが、こちらに手を出してこようという様子はない。
「どうぞ」
 突然目の前に紙コップが差し出される。中には、コーヒーが湯気を立てている。コーヒーを持ってきてくれたのはまだ若いスタッフだった。何か重労働でもしてきたのか、腕まくりをして、額に汗をかいている。
「ありがとうございます」
 受け取る時にスタッフの手が目に入った。腕には一面鳥肌が立っている。
「寒いですか」
「え? ああ、いや、そうですね……」
 スタッフは言われて初めて気がついたと言うように、自分の腕を眺めて首を傾げた。無意識にか顔を拭っている。額の汗も、よく見れば脂汗のようだった。
「この辺りは、よくない気配がします」
「ええ? やめてくださいよ、俺そういうの苦手で……」
「守りをかけましょうか」
と最上が尋ねると、お願いします、とスタッフがうなずいた。最上はスタッフの手を取り、手のひらを指でとんとんと叩く。本当は何もしなくても十分役には立つのだが、何かしら仕草がないと相手が不安になるのでそうしている。最上が手を離すと、スタッフが手をひっくりかえしたり戻したりしてしげしげと眺めた。手の動きに連動して腕もくるくると日焼け跡の濃い側と色の薄い側が交互に見える。もう鳥肌は立っていなかった。
「どうですか」
「うーん……まあ、ましになったかな。ありがとうございます」
 スタッフはいまいちよくわからない、といった様子で頭を下げ、また自分の仕事に戻って行った。
 空は次第に雲が多くなっている。肌寒い空気が森の方から吹き付けてくる。スタッフからもらったコーヒーはいくらもしないうちに冷めてしまった。まだ準備に時間がかかると言うので、最上はロケバスの中で待機することにした。暖かいとはいえ、何もしていないとさすがに肌に寒さが沁みてくる。バスの中には司会役の若手の俳優がいたが、疲れているのか、アイマスクに耳栓をした上で熟睡している。最上はすでに何度も確認した台本の、表紙の角を折ったり指で丸めたりしてもてあそびながら、外で忙しく働くスタッフを見るともなしに眺める。
 ……ごめんね、啓司。
 一人になると母のことを考えてしまう。最上は頭を振って目を閉じた。幼い頃に覚えた数え歌を心の中で歌う。産婆の家で習い覚えたものだったが、母も一緒に歌った記憶があるからあの辺りで昔から口にされるものなのだろう。
 産婆から教えられたことはそれほど多くなかった。力のコントロールと、やっていいことと悪いこと、霊の祓い方、身の守り方。身の守り方とは、最上の場合、見えすぎるのをどうやって見ないことにするのか、ということだった。道端のカラスのように、汚れた窓ガラスのように、それらを見ながら無視するのはどうすればいいかということだった。
 なんで、みんなは見えないの。
 と尋ねると、産婆は首を横に振った。みんなが見えないのでないの。あんたが見えてしまうの。
 普通の子供は見えない。お前だけそういう業を負っているのだ、というようなことを言われたのだと記憶している。なんで、と言うと、産婆は知らんよ、と言った。
 そういう風に生まれついてしまったんだもの。私も、あんたも。
 こここここここ。
 耳がきいんとする。最上は顔を上げる。外でスタッフが立ち働いている中に子供が一人いる。魚のようなのっぺりした目の子供で、機材の端を掴んで口を半開きにしている。スタッフたちには見えていないらしく、時々子供に真正面からぶつかっている。子供はスタッフの体をすり抜け、その度ににたりと笑っている。と、やにわに子供が口をぱかっと開けた。そのままどんどん開くので顎が胸のあたりまで届く。そして消える。最上が祓ったからだ。子供の消えた後をスタッフが往来する。
 しばらく見ていると、あらかた設営が済んだのか、スタッフが数人、ロケバスの方に入って来た。
「お疲れ様です」
「お疲れ様です。この後、よろしくお願いします」
「はい、よろしくお願いします」
 一通りの挨拶を終えると、スタッフはもう最上を意識から外したようだった。そのまま寝る者と賭け事を始める者とに分かれる。こんなに狭いのに、どうやっているのか麻雀を持ちこんでいるらしい。牌の触れ合う音やスタッフが雑談をする声が聞こえる。騒がしい場所は嫌いではなかった。むしろそっちの方が、余計なものに気付いたりせずに済む。時計はそろそろ夕方を示そうとしていた。自分も少し休んだ方がいいのだろう、と最上は目を閉じた。目を閉じるとまぶたの裏にちらちらと形のない模様が揺らめく。気にしないでおこうと思うのに、目はついその模様を追っている。いつもこれだ。このせいで上手く休めない。最上は無意識のうちに固くまぶたを閉じていた。

 

 

「最上さん、そろそろ本番です」
 ロケバスのそばに立っていると、スタッフが呼びに来た。最上はうなずいてスタッフについて歩く。
「外寒くないですか? 中で待っててもよかったのに……」
「いやあ、中にいるとつい寝過ごしちゃいそうで。ちょっと目を覚ましたかったんで」
「あはは、寝てても僕らが起こすのに」
「本番で寝ぼけてたら困るでしょう」
 スタッフと談笑しながら、最上は周囲の様子を探る。陽が落ちると嫌な感じはいっそう強まった。昼間の嫌な気配はほとんど皮膚を圧迫するようなはっきりとした圧になっている。さっきの子供のようなごく弱い霊も活発になっている。絶対にあっちには連れていけない、と、最上は森の奥のほうを透かし見る。森は暗くてほとんど何も見えないが、そこにいるものを最上はひしひしと感じた。一人、寒い、と腕を組んでガタガタと震えるスタッフがいる。影響が強くなっているのだろう。最上は彼の肩を叩いた。震えの止まったスタッフが、青い顔で最上に尋ねる。
「これってそういうアレですか」
「そういうアレです。私がいるので大丈夫でしょうが、道をそれたりしないで。私から離れないで下さいね」
 スタッフがこくこくとうなずいた。ディレクターがどう言おうが、実際に動くのはスタッフだ。こっちを押さえておけば、霊をむやみに刺激するようなうかつな行動は取らせないようにできる。視聴者にとってはつまらないかもしれないが、お互いの平和のためだ。
 本番が始まった。司会のタレントが声をひそめてこの森の由来をカメラに向かって語り聞かせる。大げさに恐怖を煽るわけではなく、淡々と話すのが逆にその場の緊張感を高めていた。最上さん、いかがですか、と尋ねられて最上はうなずいた。
「いますね。それもかなり強い。皆さん、気をつけてください」
 台本通りのセリフだったが、最上の本心だった。いや、すぐに帰れ、と本当は言いたい。言えばそれでは番組は成立しない、と最上は外され、別のものが据えられる。後任が本物とは限らない。それなら自分がやったほうがましだ。
「こちらです……気をつけて、私から離れないで下さい」
 最上はスタッフたちを誘導する。森の奥へ奥へと行くようでいて、あの嫌な気配から遠ざかる道へ。森は広いからそれでおそらくは問題はないだろう。機材には多少影響が出るかもしれないが、それならそれで面白い、とあのディレクターなら言うだろう。
 静かに、と声をひそめてみたり、突然立ち止まったり、気配をさぐるような仕草をしたり、要所要所に小芝居を入れながら、最上はあの場所から離れて行く。嫌な気配が次第に弱くなる。影響を脱した、と思った瞬間だった。
 ごめんなさい。
 強烈な声が最上の頭を刺し貫いた。それと同時に悲しみと後悔が心を侵食する。家族か、職場の同僚か、友人か、自分が悲しませた者全てに謝罪をしている。自らを恥じて悔いていた。悲痛な声だった。許しすら求めていなかった。
 ごめんなさい。
 ごめんね、啓司。
 まずい。影響されるな。最上は無意識のうちに耳を塞いだ。うまく膜を張れない。声を追い出せない。彼の声が抑えこんでいた最上の記憶を引きずり出す。母さん、だまされちゃったのね。あの人悪い人だったのね。啓司の大事なお金を使ってしまったのね。
 違うんだ、母さん。
「最上さん?」
 突然黙りこんだ最上にスタッフが声をかけた。最上はしばらく虚空を見つめ、それからスタッフに向きなおる。
「ちょっと待っててください、誰かが呼んでます」
「え?」
「撮影はちょっと待ってください」
と言い置いて、最上は道を外れて山の方へと入って行く。
「ちょっと、どこ行くんですか? 放送中ですよ!?」
「夜の山は危険ですよ!」
 最上はスタッフの声も聞こえていないような様子で山の中を進んで行く。放っておくわけにもいかない、というより、こんないわくつきの森の中で放り出されてはたまらない、とスタッフがついて行く。最上の足取りは速く、迷いがなかった。まるで道が見えているようだった。最上の背中を追いかけるカメラが上下に振れる。
 やがて最上が立ち止まった。そこには、声の主がいた。
 死んでから数日も経っていない。虫や鳥に食われ、あちこちが朽ちていたが彼はまだ生前の形を留めていた。山の頂上から吹き下す風で縄が揺れ、最上の目線よりも高い位置に浮かぶ彼の体がかすかに回る。木の根元には靴と手紙が置いてあった。雨が降ったのか、手紙は靴の上で波打っている。
 ごめんなさい。
 彼――彼の魂は、靴のそばにうずくまっていた。死んでからずっと膝を抱える姿勢をとっていたのだろう、顔と膝と腕が癒着した、丸い繭のような形になっていた。何があったのかはわからない。誰に謝罪をしているのかもわからなかった。ただただ謝っていた。もう、彼はそうするだけの存在になっていた。
「もういいんですよ」
 最上は呟いた。彼はその声も聞こえなかった。最上の存在にも気づいていなかった。木の根元にうずくまる彼の体をすり抜けて飛ぶ羽虫にも、枝から落ちて足元を埋める枯葉にも気づかなかった。
「もういいんです」
 最上は、彼を除霊した。彼が消えた時、最上は自分が泣いているのに気づいた。

     *

「あんたが生まれてしばらく経った頃にね、大きな黒い犬に追いかけられる夢を見たの。口の中が真っ赤でけむくじゃらの大きな犬。あんたを狙ってるんだと思って、あんたを腕に抱えて必死で逃げたわ。逃げても逃げても追いかけてきた。あんたはすやすや寝てた。母さんが見たことのある幽霊はそれくらい」
と母が言った。母の頭は重たげに枕に沈んでいる。額や唇は紙のように白いのに、こけた頬と目のまわりはうっすらと赤かった。今日は熱が高いのだ。寝ていればいいものを、熱で寝苦しい時、母は時々、突然最上に昔の思い出話を聞かせる。しばらく話した後、また突然ぱたっと口をつぐむ。すう、と息を吸った母が軽く咳き込んだ。
「黒い犬?」
 最上は母の体を起こし、水を飲ませた。母の喉がごくんと鳴る。再び枕に頭を乗せると、そう、と母は頷いた。
「黒い犬。こーんなに大きいの」
と天井を眺めながら両腕を広げてみせる。
「今も見るの?」
「見ないよ。ただの夢だもの」
 母は笑った。かすれたような笑い声が喉の奥から聞こえる。
「あんたと違って私は幽霊なんか見えないよ。あんただけよ。あんたは特別なの」
「うん」
「正しく使うのよ。人のために……」
「わかってるよ、母さん」
 最上は頷いたが、母は目をじっと閉じて、首を振った。
「やっぱやめ。今のは嘘だ」
「え?」
 母はぱちりと目を開けて最上を見た。
「あのね、一番は自分のためだからね。人のため、はほどほどにするのよ」
「ええ……」
「あんたは優しいっていうか、ぼーっとしたところがあるから母さんは心配なの」
「大丈夫だよ……今は」
「ほらね」
 母は朗らかに言った。半ば自分に強いてそういう声を出しているのを最上も気づいたが言わなかった。
「無理はしないで、啓司」
「うん」
「だめだと思ったら逃げて」
「わかってる」
「啓司。あの黒い犬から逃げるの。あんたならきっと逃げられるから」
「母さん」
 最上は母の手を握る。熱っぽくて作り物のように乾いている。今度、ハンドクリームを買って来よう。前に共演した女性タレントが、手荒れにいいのだと言っていたのを。
「大丈夫だよ。心配しないで」
 握りしめると、母が手を握り返した。痩せて尖った指の付け根の骨が最上の手のひらに刺さった。それからふっと力が抜ける。少し遅れて母の寝息が聞こえた。ほとんど気絶するように母は眠りに落ちた。最上はしばらく母の手を握っていた。
「あれ、最上さん。今日はゆっくりでいいんですか」
 病室に来た看護婦が、母のベッドのかたわらに座る最上に尋ねる。頭を垂れて、まるで後頭部に水でも受けるような姿勢でいた最上は、顔を上げて看護婦の方を見た。起こしちゃたかしら、と彼女は思う。最上はまるで夢から覚めたような茫洋とした顔をしている。が、それは一瞬で、すぐにいつもの朗らかな表情が浮かぶ。
「ええ。でも、もう行きます」
「そうですか。お仕事?」
「ええ。母をよろしくお願いします」
 最上は微笑んで頭を下げる。病室を出ながら、なぜそんな嘘をついたのだろうかと思う。今日は仕事はない。明日もおそらくはない。その先は知らないけれど、しばらくはないだろう。
「困るよ、最上さん」
 例の生放送が終わってしばらくしてから、最上は番組のプロデューサーに呼び出された。プロデューサーは開口一番そう言った。あの時の、声の主――縊死体を見つけた時のことを言っているのだ。
「ああいうことされちゃうとね。うちも流石にね、対処仕切れない」
「すみません」
 最上は体を縮めた。プロデューサーの言うことはもっともだ。あの後、スタジオでは大変だったということは最上も聞いている。中継は中止にせざるを得ず、スタジオのタレントと霊能者のトーク、それに使い回しのVTRで場を繋いだらしい。局には苦情の電話がひっきりなしに掛かってくる。もっとも、そのいくらかはよくやったという賞賛だったらしいが、対応に追われている中では邪魔には変わりないし悪趣味だ。各所に頭を下げに行ったが、溜飲の下がらない、という人も何人もいた。プロデューサーは恐縮する最上を見て、小さく息を吐いた。
「いくらなんでもやりすぎだよ」
「そんなつもりでは……」
「とにかく、ああいう事故を起こされてしまうとね、しばらくはうちは使えません。次の仕事は、なかったことに」
「そんな」
 悪いね、と言ってプロデューサーは最上を追い出した。それから、たくさんあったテレビの仕事も次々にキャンセルになってしまった。困ります、と最上が食い下がると、ほとぼりが冷めたらまた呼ぶから、こっちもどうしようもないんだよ、と言われる。そう言われてしまえば、最上にできることはなかった。
 以前勤めていた印刷所にも行った。所長は快く出迎えてくれた。社員の多くは入れ替わったらしく、すれ違うのは知らない顔ばかりだった。通された休養室でも、谷原の代わりに別の事務員がいた。谷原は結婚を機に辞めたのだと言う。
「こっちもね、そりゃ戻ってくれれば嬉しいんだが……ただうちも、今余裕がなくてね」
 所長によれば、最上が辞めたあと別の事業に転換したらしい。それで、前の社員は大部分が入れ替えになった。事業もまだ軌道にのっておらず、苦労している、と言う。
「まあ、あんだけテレビ出てたんだ、大丈夫だよ」
と所長が言う。最上は、ただ頭を下げてその場を出て行った。帰る最上を、外で煙草を吸っていた社員が物珍しげに眺めていた。彼も見知らぬ顔だった。門のそばには求人広告が出ていたが、これはもう、決まってしまったということなのだろう、と思う。
 新聞で求人広告をかたっぱしから調べ、応募してみたが、いずれも空振りだった。印刷の主流は活版からオフセット印刷に変わりつつあったし、その上たった数年の職業経験では、他にいくらでも人はいる。タレント業は職歴と見なされていなかった。手当たり次第に職に応募し、その度に断りの連絡を受ける。お話だけでも聞いてみましょう、というところもないではなかったが、いざ行ってみると遠回しに断られた。応対してくれた事業所の所長は物腰柔らかではあったが、どことなく最上を敬遠するような空気があった。
 これからどうしようか。当面はまだ大丈夫だ。けれどもいつまで保つのだろうか。しばらくの間、とプロデューサーは言っていたが、もしこれが一、二ヶ月も続けばあっという間に干上がってしまう。せめて心霊相談があれば、と、すがるような思いで何人かに声をかけてみたものの、いずれも空振りだった。今は大丈夫、何もないですよと言っていたけれど、どことなく最上を忌避するような雰囲気があった。縊死体を見つけたことで、本当に本物らしい、という評判が流れた。それと同時に、周囲の人間が何か触れてはいけないもののような視線で自分を見るようになった。
 病院を出た最上は、いつもの癖でバスに乗る。帰るバスなのか、それともテレビ局の方面なのかもわからない。行き先を確認しようと思ったが、それすらも億劫で、最上はバスの背もたれに体をもたせかける。どうにかしなければ、と思うのに、頭がぼうっとして考えがそれより先に行かない。
 母の病状は悪化していた。母の気落ちが、それにどれくらい関係しているのかはわからない。
 母はいわゆる心霊治療に傾倒しかけた。少し病状が持ち直して、数日外泊したその隙につけこまれたのだった。近所に住む人間だ、と名乗って母に近づき、何くれと世話をやいて、その次の日に母を「気晴らしになれば」と治療の集会に連れて行った。
 普通なら――健康であれば、母も警戒しただろう。あるいは、自分がそばにいればよかった。外泊が決まってから断れる仕事は全て断ったが、すでに予定の動かせないものもあり、家を空けざるを得なかった。ずっと入院していた母は周りに知り合いがおらず、心細かったのだろう。そういうところにつけこむ人間がいた。通帳を確認して、外泊の日にまとまった額が引き出されていたので最上が気づいた。母から話を聞いて、最上はそれが偽物だと断定した。その金で母は守りの数珠なるものを持たされていたが、一目でなんの力もないと分かった。
 ごめんね、啓司。
 心霊治療の欺瞞を一言で暴いた最上に母は言った。一気に老け込んだように見えた。最上はそこで、自分の失敗を悟った。それが本物なのか偽物なのか、区別のできる人間は少ないのだ。最上には、火を見るよりも明らかなそれが、母には見えていない。最上の断罪は母をも裁いてしまった。
「大丈夫だよ。僕のほうこそ、ごめん」
 こんなお金は何でもないから大丈夫。もう少ししたら仕事が一段落する。そうしたら、二人でゆっくりしよう。なるべく早く帰れるようにするから、だから……。
 そう言っていたのに、病院に戻った母は次第に衰弱していく。この間まで小康状態だと言っていた医師も難しい顔をしている。どうすればいい、と最上は思う。
 バスががくんと揺れた。無理な割り込みか飛び出しがあったらしい。運転手が荒っぽく何かを呟いてハンドルを叩く。最上はようやく行き先を確かめて、もう少し乗って行くことにした。
 停留所を三つ過ぎて、四つめで降りる。冬の日差しは暮れるのが早い。夕方の匂いを漂わせた薄黄色い午後の日差しの中で、動物園の門に描かれた動物たちが微笑んでいる。切符を買い、中に入る。
 園内は空いていた。最上は行き先を決めずに園内をぶらぶらと歩く。奇妙な気配に引かれて行くと慰霊碑があった。そばに立てられた看板には、ここで死んだ動物たちが祀られていると書かれてあった。最近ここで死んだ動物がいたのかもしれない。慰霊碑の周りは静かで平和だった。何かとてつもなく大きな生き物が眠っているような気配があった。それを起こさないように、最上はそっと立ち去った。
 いくらなんでもやりすぎだよ。
 園内を目的もなく歩きながら、最上はプロデューサーの言葉を思い出していた。あの時はつい体が動いてしまった。生放送だということも、後ろを着いてくるスタッフのこともほとんど頭の中になかった。やりすぎなんて、そんなつもりはなかったのだ。見つけなければ――助けなければ、と思っていた、のだと思う。その時のことは、夢中だったからあまり覚えていない。
 いきなり走り出すから、びっくりしましたよ。
 最上さんて、本当にほんものだったんですね。
 縊死体から離れ、道に戻って警察を待つ間、スタッフが興奮気味にそう話しかけてきた。最上はあいまいに微笑んでうなずいた。自分の力は誰にも見えない。ただ、本物らしい、という噂だけがある。何かがない限り、それを証明することは難しい、ということは、相手にとってもよっぽどでない限り本物だと確信できないということだ。けれどもそんな証明なんて望んでいなかった。そんなことのために彼を見つけたのではなかった。
 目的を決めずに歩いていたはずが、見慣れた道を歩いているのに最上は気づいた。数歩も行かないうちにキリンの姿が見える。手すりと溝に囲まれた運動場で、ゆったりと歩いている。午後の日差しを受けて、キリンの首の影が背後の建物に落ちている。おそらく、あそこで夜は過ごすのだろう。運動場を歩くキリンよりも背の高い、コンクリートの堅牢な建物だった。
 キリン舎の向かいの木陰にあるベンチに腰を下ろす。煙草を出そうとすると、誰かが隣のベンチに腰を下ろした。最上はふと気になって顔をそちらの方へ向けた。
「……あなたは」
「ああ、早速ばれましたか。さすがですねえ」
 隣に腰を下ろしているのは、作業着を着た中年男性だった。以前、ここで話をしたことがある掃除夫が同じ服を着ていたのを記憶している。少し離れたところには掃除道具を積んだリヤカーが置いてあった。おそらく、ここで働いている人間だろう。問題は、その中身だ。
「そこから出ていって下さい」
 でないと今すぐ消すぞ、という脅しを言外に滲ませながら最上は言った。中年男性は、首をかくりと傾げる。
「大丈夫です。お話が済めばすぐに消えますよ。いや本当に、信じて下さい。私だってむやみに人を傷つけたいわけじゃないんですから」
 最上が警戒を強めると、慌てたように中年男性が両手を胸あたりまで上げた。
「前に言ったでしょう。あなたに紹介したい仕事があるって。その話です」
 男が目を見開く。酒が過ぎる生活なのか、白目が黄色く濁っていたが、その表情には見覚えがあった。
「佐藤さん、でしたっけ」
「そうです。覚えていてくださったんですね」
 中年男性に取り憑いた佐藤は、にっこりと笑った。最上は以前ここで出会った男のことを思いだす。サラリーマン風の痩せた男だった。サラリーマン風、であるだけで、実際にサラリーマンであるかどうかは知らない。
「実はね、最上さんに私の仕事をお譲りしようかと思いまして。いえね、あの時はちょっと仕事を分けようかな、というくらいのつもりだったんですが、この通りしくじってしまいましてね」
 佐藤はぺらぺらとしゃべり出す。口数は多いが何を言いたいのか要領を得ない。
「それで、仕事とは?」
「聞きたいですか?」
 自分から話を振ったくせに、佐藤はすっとぼけたような口調でそんなことを言う。最上は怪訝そうに眉をひそめた。
「ああ、そうですよね。私から言い出したのに、こんなことを言うのはおかしいと私も思います。ですけれど、聞いてしまうと後には引けないので。何せまあ、何というかですね、その、表立ってはっきり言えるような商売じゃあないんです。私もどうやって説明しようかと思っているところなんですがね……」
 佐藤は手を挙げた姿勢のまま、目線を上にあげて左右にさまよわせる。どうやら佐藤自身、本当に迷っているらしい。
「その仕事は、私の力を使う仕事なんですか」
「そうですね。そして、私の力でもある。……ああ、そうだ。最上さん、一度あなたの放送に合わせて仕事をしましたよ。少しずれてしまいましたが」
「放送に合わせて?」
「そう。夏頃の木曜スペシャルでしたかね」
「夏……」
「スプーン曲げの男の子が出ていましたね」
 濱口アキラ。あの生意気で気の毒な少年。放送を見ながら、何だか気の毒ね、と母が言い、それから、臨時ニュースが入った。ネズミ講の首謀者が死んだ、というニュースだった。
「思い出していただけましたか。おっと、何も言わないで下さい。それ以上は踏み込んじゃだめですよ。まあとにかく、それが私の仕事でした。ろくでもない仕事をしてろくでもない死に方をしたわけです」
 佐藤は両手を広げて肩をすくめる。
「とにかく今は私の次を探してるところでして。もちろん私はこんな状態ですから、頼まれたわけじゃないんですが、まあ自主的にね。死んでもこれじゃあ、まったく私も業が深いですね。ワーカーホリック、というんでしたっけ。親父もそうだったんですよ、働きすぎて頭の血管が切れちまいましてね、そのくせ死ななかったんです、それで私ら家族も困ってしまいまして……いや、こんな話はどうでもいいです。仕事の話でしたね。もし興味があるなら……と、言うか、踏み込むつもりならこれをどうぞ。そうじゃないなら、破って捨てて、忘れてください」
 佐藤はポケットから紙切れを取り出すと、何かを書き付けて最上の方へ差し出した。最上が受け取らないので、佐藤はそのままの姿勢で、ふうっとため息をついた。
「ええと、給料はいいです。今のお仕事よりも断然いい。それから、ターゲットは悪いやつです。依頼者も悪いやつですけど……っていうのは、ちょっと情報開示しすぎましたねえ。忘れてください」
 佐藤は紙切れをつまんでいる手を上に向けた。「人を傷つけたくない、っていうのは本心ですよ。私はサディストじゃないんです。ただ金が要ったんでね」と付け加える。
「毒虫が毒虫を食い合うってやつです。人に寄生して、人を食い物にして、自分たちはぶくぶく太っていく、そういう毒虫たちがいる。そいつらはお互いの縄張りを争って毎日毎日大忙しなんです。で、私が自分の能力を生かしてちょちょいと手を貸して、縄張り争いの手伝いをする。そういう仕事ですよ。サドじゃないけど、私もろくでなしですね」
 最上は手を伸ばし、紙切れをつまんだ。紙を手放した佐藤の手がぱたん、と作業着の膝に落ちる。
「ああ、よかった」
「受けると決めたわけじゃありません」
「でしょうね。でも、私は最上さんにお渡ししたかった。私たちは、同じだから」
 最上が顔を上げる。佐藤は「私はあなたのファンなんですよ。それに、マッチももらっちゃったしね」と言うと、正面を向いて座り直した。男の体からふっと力が抜け、それからゆるやかに顔が持ち上がる。
「あ、あれ? 居眠りしちゃってたかな、ははは……」
 男は、照れたように最上に会釈をすると、そそくさと立ち上がり、リヤカーを引いて立ち去った。佐藤の気配はどこにもなかった。話が終われば消える、というのは本当に文字通りの意味だったのかもしれなかった。
 最上は紙切れを手の中に押し込める。そのまま煙草に火をつけた。手の中の紙切れの角が親指の付け根の柔らかいところに当たってちくちくした。煙が立ち上り、風に吹かれて散り散りになる。最上は身を縮める。私たちは同じ。佐藤も霊の見える人間なのか。あるいは、母親が入院していたというのは嘘ではなかったのか。最上は煙草をくわえたまま紙切れを開いた。中には電話番号が書かれてあった。最上はしばらくそれを見ていたが、やがてくしゃくしゃに丸めてポケットに入れた。立ち上がり、まだ長い煙草を灰皿に押し付けて火を消す。それから、キリン舎を立ち去った。
 最上がその紙切れをポケットから取り出して開いたのは、それから幾日もしない間のことだった。