キリンの檻

 最上加代子。旧姓、畠中加代子。O女学校卒業。由実子さんの紹介で助産院の手伝いをしていた。今はただの病人だ。看護婦長がこのノートをくれた。うつうつとするのはよくないから思ったことをここに書くと健康にも良いから是非何か書けと言われて閉口して居る。何を書いたらいいのかしらん。
 ご飯、カレイの煮付け。菜二種。果物。夜に啓司来る。少し話をして帰る。

 前から少し時間が空いた。相変わらず何を書いていいのやら。学校でも綴り方の授業は嫌いだった。
 ご飯、治部煮、菜とひじき。

 ご飯、焼き鮭等。啓司の御土産の饅頭をもらう。

 ご飯、鰆。もずく。今日は菜の花が出た。

 啓司が来る。三日ぶり。ロケで少し遠くへ泊まりに行ったのだと云う。相変わらずのテレビの仕事らしい。テレビで見る啓司は何か別人みたいにしゃんとしていると云うとあの子に怒られるだろうか。スーツを着て誰かの質問にしっかりと受け答えをして居る。しかも「プロ」として頼られて居る。母親とはしようがないものだ。いつまでも子供は小さな子供のままなのだと思ってしまう。
 ご飯、白身魚の餡かけ、あとは忘れた。

 久しぶりに夫のことを思い出す。もう疾うに居ない人だ。
 ご飯、ささみのあっさり煮、菜二種。

 大島さんが来る。啓司が嘘をついているという記事を持って来た。わざわざ私の病室まで来て云う事だろうか。私は啓司の能力の事はわからないけれど人を傷つけるような嘘は吐かない子だということは知って居る。
 ご飯、あとは忘れた!

 啓司の出る番組は怖いのが多い。怖くなくてもUFOだとか何とかおどろおどろしいのばかりだ。啓司が出るから見るけれどこんな怖いのを皆よく喜んで見る。ああいう番組が今は人気なのだそうだ。若い看護婦達も喜んで見て居る。啓司が私の息子だと云うと今度サインを下さいと云うので驚いてつい笑ってしまった。気を悪くしていないといいが。
 ご飯、かぼちゃのそぼろあんかけ、絹さやの色が綺麗だ。

 発熱。退院の許可は取り消しになった。啓司が着替えと絵葉書を持って来る。祖谷谷の写真だった。行ったのかと尋ねると行かないがテレビの人からもらったのだと云う。良くなったらこういう処へ行きたいと云った。本当は何処でも良い。とにかく外で伸び伸びしたい。病院は飽きた。
 ご飯、鶏の照り焼き、菜二種。おからは嫌いだが食べなければならないのが苦痛である。

 啓司はスプーン曲げは出来ないのかと同室の人から尋ねられる。出来ないと答えるとつまらなそうにする。今はスプーン曲げが流行って居るらしい。だが私は啓司一筋である。映像があんまり怖いのは目をつぶって居る。溝口さんに見つかってからかわれてしまった。啓司の出るのはどうしてあんなに怖い番組なのだろうか。啓司は怖くないのか。
 ご飯、豆腐ハンバーグ、菜二種。

 どうしてあの子だったんだろう。どうしてあの子だけ特別な力があったんだろう。啓司は今日もテレビに出て居る。
 ご飯、肉豆腐、菜二種。

 発熱。余り動けず。
 八分粥。他にも色々。

 啓司が綺麗な箱を持って来る。地方へ行った御土産だと云う。六角形の千代紙の貼り箱で中を開けると一回り小さな箱が入って居る。これが五回あって最後には小さな小さな六角の箱が出て来る。箱の模様はそれぞれ違う。枕元に飾る。
 八分粥、蒸し鶏。真桑瓜が出る。もうそんな季節か。

 父親の事を啓司は覚えていないだろう。啓司の小さい頃に出て行ってしまった。しばらくは金を寄越したがその内それも無くなった。金を寄越すだけまだ有難いと周りからは云われた。何処かで死んだらしいと聞いたが啓司が有名になっても名乗り出ないのは本当に死んで居るからか。啓司の事も覚えていないのかもしれない。由実子さんが居てくれて良かった。
 粥。飽きた。

 胸の辺りが苦しくここしばらくは何も書け無かった。また治療を変えて見る事になるらしい。

 嫌な事を云う人間は何処にでも居る。病気をして居る癖にその元気はあるのか。そんな事をして居る暇があるなら少し世の中の役に立つ事でもして見ればいい。私のように役に立てない人間は精々が小さくなってなるべく迷惑を掛けないのが良いのだ。
 粥、煮魚。

 啓司がテレビに出て居る。霊能相談が人気らしい。先日は霊視で子供の失踪事件を解決したと聞いた。自分の力を誰かのために役に立てられるのが嬉しいと云う。由実子さんにこの子はあおめだと云われた時はどうなることかと思った。
 粥、魚に洋風の餡がかかったの、菜二種。

 啓司がしばらく来ない。仕事が忙しいと云って居たがおそらく風邪を引いたのではあるまいか。秋口になると啓司はよく体調を崩した。風邪を引くのは冬ではなく決まって秋口だった。風邪を引くとうなされる。小さい頃は嫌なものが見えると云って泣いて居た。どうしてあの子ばかり辛いものが見えるのだろうか。
 粥。あとは一口ずつくらい食べた。

 頭痛。内臓が熱い。

 今日は昨日よりはいい。少し熱があるらしいがそれほど辛くはない。気分のいい日はこれから先の事を考えてしまうのが辛い。昨日よりも良かった日と昨日より悪かった日どちらが多いかを数えてしまう。
 粥、ほうれん草のお浸し。後は食べられなかった。お浸しは上に乗って居る鰹節を食べた。啓司の持って来た無花果が食べられず腐らせる。

 気鬱になるのも良くないとかで病院の中庭を散歩する。足がすっかり萎えて居る。少し歩くだけでもう足が上がらなくなった。啓司の出て居る番組も近頃は見られない。今はお昼のワイドショーに出て居る。洗剤のCMにも出て居た。真っ白いシャツが似合わなくて笑ってしまった。洗剤を看護婦さん達に配ったらしい。自分にはくれなかったとわざわざ云いに来た人があった。
 粥、魚の蒸し物、菜二種。

 いつもそうだ。余計な事をしてしまう。私が意地悪だから罰が当たったのだ。生嶋さんと喧嘩をした。仲裁に入ってくれた看護婦さんにも酷い事を云ってしまう。わからず屋の意地悪おばさん。こういう意固地な事ばかりしているからいけない。夫が出て行ったのも私の性格のせいなのだ。
 粥、おでん。早生みかんが出た。

 夫が出て行ったのは私のせいではない! 昨日は弱気だった。あの男が出て行ったのはあの男がそういう人間だったからである。許すまじ。あのクソ野郎。啓司にお化けは怖くないのか尋ねる。別にと云う答え。別にだって。
 粥、太刀魚のみぞれ煮、菜二種。

 UFOを見たかもしれない。昨日眠れずにいると山の方にヒューと飛んで行った。飛行機でもないし流れ星でもない。きっとUFOに違いない。検温の時に尋ねたが長嶺さんは見て居なかった。昼食の時にも尋ねたが誰も見て居ない。啓司がその時間はテレビの仕事だったらしい。そんなに遅くまで仕事があるのか。テレビの仕事は不規則なのだ。
 粥、豆腐の何か、菜二種。ひじき。

 外泊の許可。一泊だけであるが嬉しい。
 粥、鮭の蒸し煮、菜二種。

 また病室に逆戻り。病院というのはこれほどまでに消毒くさいのか。私も消毒くさいかもしれない。中にいるともう分らない。
 粥、中華和え。

 啓司の人生を私が邪魔をしている。早く治さなければ。私が居てはあの子は結婚相手も探せないではないか。
 粥、白身魚の蒸し物、菜二種。

 啓司がテレビに出て笑って居る。楽しいのか。ここへ来る時は疲れたような顔をしていたのが最近は余りそういう顔をしないようになった。私に心配を掛けまいとして居るのだろう。あの子はだんだん痩せて行く。テレビと云うのは少し太って映るらしい。
 粥、鶏そぼろと野菜のうま煮。

 散歩に出る。体力をつけるためにも動ける日はしっかり動かなければと思うが動きすぎると熱を出す。加減が難しい。太田さんも無理はするなと云う。お医者さんは十五分位陽に当たるのが良いと云った。
 粥、豆腐の何か。

 最近は雨ばかりなので中々散歩に出られない。病院の廊下を十五分位歩く。知らない看護婦さんが啓司に礼を云って欲しいと云う。彼女が霊障で困って居る時に助けたらしい。私には一言も云わない。別の病棟の看護婦さんで啓司も忙しいので会えないのだと云う。啓司よりも少し下だろうか。はきはきした良い女性である。
 粥、白身魚、菜二種。

 啓司に恋人や気になる人がいないのか尋ねるときょとんとしていた。昔からぼんやりした子だ。女の子の中でばかり遊んでいたから却ってその方面には無頓着に育ってしまったらしい。せっかくテレビ局にいるのに少しは遊んではどうかと云うとまたきょとん。何処か遊びに行けばいいのにと云うと動物園に行ったと云う。きりんが好きなのだそうだ。
 粥、炊き合わせ、菜二種。

 変な夢を見る。病院のベッドで寝ていると隣に人がいる。その人は暗い影のようになっていて顔もわからないし男か女かもわからない。その場にしゃがんでいるのか寝て居る私からは肩から上だけが見える。そういう人がずっと横で私を見ている。太田さんが検温に来た時にこういう夢を見たのだと云うと怖がって居た。私は夢だと云うのが分って居たので余り怖くないと云った。
 粥、厚揚げの餡かけ、菜二種。一つはひじきの煮物。

 一度、啓司を捨てようと思ったことがある。二人で動物園へ行った時だった。人波に揉まれて手を離してしまってあの子を動物園中探し回った。見付けた時、啓司は親切そうな老夫婦に抱かれて動物園の迷子センターに連れて行かれる所だった。啓司を抱いて居たのは老夫婦の夫の方で着て居るものも高級そうに見えた。ああ云う人に育てられた方がきっと幸せに違いない、父親も無いし私のところに居るのではこの子も将来苦労するのが目に見えていると思った。このまま私が現れなければ誰か親切な人が啓司を連れて行ってくれるのではないだろうか。あの子はとてもいい子だからきっとすぐにいい人が見付かる。そう思って見て居たのに私は啓司を迎えに行った。迷子センターに入った時、啓司は真っ先に私を見つけて私の所に走って来た。泣いて居るのが可哀想だった。
 粥、白菜と白身魚の蒸し物、菜二種。

 外泊の許可。

 私が啓司の足を引っ張ってしまう。何もしないで家の中にいれば良かった。散歩なんか出ないで人に話しかけられても知らんぷりをしていれば良かった。私は余計な事ばかりする。この病気も私がやったことの何かの罰なのだ。もう治らなくていいから早く死んでしまいたい。

 またあの夢を見る。ベッドの脇に暗い影の人がいる。私を見ながら頭を前後に揺らして居る。私は夢だと云う事が分って居る。
 粥。

 陽が落ちるのが早くなった。明かりの点灯が間に合わなくてぐっと暗くなる時間がある。病室の外では誰かが歩いたり何かを運んだりする音がして居る。部屋の中は何の音もしない。明かりを点ければいいのだが億劫で何もしたくない。食事の時間になって配膳の人がまあ暗いとビックリしている。明かりが点く時は蛍光灯からピンピンと音がする。
 粥少々。

 お腹が気持ち悪い。内臓がどろどろ溶けていく。

 体が重い。何もしたくないと云いながらこれだけは書いて居る。作文は嫌いだが誰にも見せないから気が楽だ。何でも書ける。ああ死にたいとか厭だとか嫌いだとか。皆嫌いだ。私の処に誰も来ないで欲しい。

 どうしてあの子だったんだろう。私は啓司を手放せなかった。

 今日は少し気分がいい。天気も良い。窓辺に座らせてもらう。窓を開けるとじんと寒くて声が出た。すぐに閉めた。看護婦さんと笑う。笑うのは久しぶりだ。
 粥、巣篭もり卵。

 嫌な事を云う人が居る。私の病は啓司のせいと云う。あの子があんな業の深い仕事をして居るからそれが私に影響して居るのだ。
 粥が出たが吐いてしまった。

 ベッド脇に暗い影の夢。だんだん鮮明になる。夢は夢だが気味が悪い。

 啓司が居眠りしてた。テレビの仕事が忙しいか。私のために無理をしている。もう諦めて欲しいのに辞めてと云えない。私はあの子の人生を食い潰してまで生きたいのか。

 もう何もしたくない。点滴を倒してしまった。針が血管を引っ掻いて血が沢山出た。手の甲に点滴。手の甲の血管が虫のよう。

 由実子さんの夢を見る。怖くて意地悪な人だった。啓司は懐いていたが。私は手の甲を何度も抓られた。あの人のお陰で働けたのだから文句は云えない。

 体が痒い。甲が痒くて掻いてたら点滴を抜くなと叱られる。どうすればいいのか。

 ベッド脇にあれが居る。頭を前後に揺らして居る。気持ち悪い。

 これはあの子のせいなのか。この苦しいのは

 熱が下がった。後から見るとおかしな事ばかり書いて居る。由実子さんは良くしてくれたのに何故苛められた等と書いたのか。点滴が痛かったせいか。

 ベッド脇の影の夢。夢は夢だ。怖くはない。

 そんなはずはないのだ。啓司のはずがない。嫌なことを云うのを止めて欲しい。

 影の夢。あれは私を呼んでいるのか。誰が呼び寄せたのか。

 啓司

 発熱。息が苦しい。

 前にテレビできりんを見た。アフリカの生き物だ。アフリカはとても暑い場所で、枯れかけたような草が生えて居る。きりんは高い木の葉を食べる。

     *

 佐藤は心臓発作で死んだらしい。らしい、と言うのは最上は人づてにそれを聞いたからだった。あんたの前任は心臓発作だったよ、と。いわゆる呪術返しをされたのだと言う。あんたも気をつけなよ、と最上に仕事を斡旋した男は言った。すぐに死なれちゃ困るしね。佐藤は結構保った方だったけどね。あんたはどれくらいかな。脅しがまるで挨拶のように唇に馴染んでいた。呪術や呪術返しがこういう世界でこんな風に溶け込んでいるのに、最上はくすぐったいような可笑しいような気持ちがしていたがすぐに慣れた。
 最上の呪術は術と呼べるほどのものではない。産婆からやってはいけないこととして習っていたものだ。彼女は最上が自分の能力でうっかり人を傷つけないようにと教えたのに、今はそれを利用して人を殺している。申し訳ない気もしたが彼女はもうとっくにこの世にはいない。肉体も魂もどこにもない。
 最上がやったのは悪夢祓いの応用だった。力をあの糸を追い出す代わりに人の体の中に留まるようにする。それは体を巡るうちに心臓を止める。最初は対象に接触しなければならず、触れた皮膚の生ぬるい感触が最上を苦しめた。酒量が増え食事は減った。今は遠くから眺めるだけでそれが出来る。増えた酒量はそのままだった。
 テレビ局の仕事は辞めた。あの後しばらくしてまた仕事が来るようになったが、どうしても断れないものを除いて全て断った。霊能相談も辞めた。夜に眠れない代わりに人と話していると突然眠ってしまう。その間の出来事は、夢か本当にあったことか分からない。相談を受けたと思ったのにそうではなかったり、噛み合わない受け答えをしたりする。時々呪殺をした相手の急死がニュースになった時はたまらなかった。辞めたくてももう後には引けないのだ、とその時気づいた。
 呪殺の依頼の報酬は確かにテレビの仕事よりもよかったが、そうそう殺してくれという依頼があるわけではなかった。経済状況は以前より少しよくなったくらいだ。ただ「ターゲットは悪いやつ」というのは佐藤が正しかった。
 何人もの人間を自死に追い込んだ人間や、少年少女にひどい虐待を加えるもの。人を踏み潰してその汁をすするような生活をしていて涼しい顔をしているものたち。依頼者もまた似たり寄ったりの人間だった。依頼は彼らの所業に対する制裁ではなく邪魔者の排除として行われた。あいつがいては自分が上に立てない。勢力を広げるために排除しなければならない。そういう理由で誰かが殺される。殺された誰かがすり潰していた人々のことは誰も顧みない。
 一度だけ最上自身がターゲットになったこともあった。ある日自室にいると背中にひやりとしたものを差し込まれたような感覚があった。これが呪術かと最上は断定して背中から引き剥がした。それほど労力はかからなかった。霊の干渉を拒否するのと同じで、体の中に力の膜を張り、体からいらぬものを追い出す。引き剥がしたものはどこかに行ってしまったが、後になってそれが「呪術返し」になったのだと聞いた。
 最上はほとんど眠らなくなった。母の病室に頻繁に行った。その度に、母は衰弱していく。大丈夫ですか。最上さん、あなたもきちんと休んで下さい。今倒れては元も子もない。そう言われて家に帰される。帰った家で布団に入っても眠れない。酒を飲むととろとろとまぶたが重くなる気がするが、それで布団に入ると頭がぼうっとするばかりで一向に眠れない。することがない夜はおそろしく長かった。アパートの周りは静かでほんの時たま人や車輪の通る音がする。静寂に耳をそばだてているとやがて耳鳴りがした。時々うとうとしながら、明け方のカラスが鳴くまでを布団の中で過ごす。家にいる間は朝でも昼でも同じことだった。食欲はなかった。喉の奥から嫌な臭いがして、ものを胃に入れると痛む。台所は洗わない食器で溢れ、乾いてゆく。寝床の周りにゴミが散乱していくのを、最上はまるでアリの行列を眺めるように看過した。
 そうしているうちに母が亡くなった。
 最上がそばにいない時だった。危篤の連絡を受けて病室に行くと、母のベッドの周りで医師と看護婦が並んで立っていた。さっきまで張り詰めていたものが、伸びきってしまって戻らないような奇妙な空気だった。
 容態は安定していたのだが急変したのだ、という医師の説明を聞いて、最上はそうか、と思う。医師も看護婦も、病室で何もしていなかったから変な空気だったのだ。普通なら彼らはきびきびと動く。医師の指示で看護婦たちが立ち働くのは一つの機械のようだった。けれどもそれは生かすためなのだ。
 ベッドに近づく最上のために看護婦たちが道を開ける。母はすっかり痩せ細っていた。もう何度も見た姿だったはずなのに、いつもと違う気がする。血の気の引いた唇がうっすら開いて間から黄色っぽくなった歯が見えている。歯茎が痩せたせいで歯列は少し歪んでいる。確か、入院するときに口紅を持ってきていたはずだと思う。母が昔、一本だけ買ったものだ。母の額に触れるとまだ温かかったけれど、硬く重い骨の感触は紛れもなく死者のものだった。
「最上さん」
 看護婦が最上の肩を叩いた。処置をするので母の体を移動させる、と言う。わかりました、と最上はうなずいて母から離れた。別の看護婦が引いてきたストレッチャーに移し、母を移動させる。医師と看護婦が次々と出ていく。最上が一人病室に残る。
 ごげあぜ。
 最上はゆっくりと振り向いた。そこには、薄く広がった霧のようなものがあった。最上は驚かなかった。どこかでそれを予感していた。自分を覆う膜をゆっくりと剥がし、それに向かい合う。
 おまえのせいだ。
「母さん」
 それは母の成れの果てだった。霧の中には人の顔のようなものが認識できたが、すでに母の顔ではなかった。霧はおまえのせいだ、という言葉を繰り返している。言われるたびに耳鳴りがして目の奥が痛んだ。生前の母はもうそこにいなかった。亡くなってそれほど経たないはずなのに、ただの執着になりつつあった。霧は最上を包み込む。耳鳴りと目の痛みがひどくなる。ごめんなさい、と耳鳴りの向こうで自分の呟く声がする。
「最上さん?」
 看護婦に呼ばれて最上は振り向いた。あら、と看護婦が素っ頓狂な声を上げる。
「大丈夫ですか」
 看護婦が、ベッドの脇の机においてあった鼻紙を差し出した。最上がぽかんとしていると、看護婦が自分の鼻の下を指差した。最上も同じように自分の鼻に触れる。ぬるっとした感触がして、途端に鼻の奥に広がる鉄くさい臭いを認識した。最上は鼻紙を二枚引き抜いて鼻の下に当てる。
「すみません」
「いえ。外で待っていますので、準備ができたら声をかけて下さい」
 看護婦が病室から出て行った。最上は鼻の下をしきりに拭きながら、病室を見回す。そこは清潔だった。消毒薬の臭いがどこからもしていた。そして、何もなかった。母の体も、魂も。
 最上は母の霊を祓った。生前の記憶を忘れ、恨みの対象も忘れ、妄執となってただ存在するよりは、そうした方がいいと思ったからだった。今までもずっとそうしてきた。そのはずなのに何かが間違っている気がした。
 鼻血はなかなか止まらなかった。鼻に丸めた紙を詰めて病室を出る。服の胸のあたりに血がついて、茶色く固まっている。もうこの服は捨てなければと思う。看護婦について歩き出してから、血のついた鼻紙を手に持ったままだったことに気づいた。まあいいか、とポケットに入れる。また鼻血が出るかもしれないのだし。
 霊安室に行くと、看護婦が母を清めてくれていた。軽く化粧もしているらしく、唇に色が差していた。母の口紅とは違う、流行りの濃い色の口紅だった。母のそばでこの後の手順について説明を受ける。ご親戚は、と尋ねられたが首を横に振った。母の係累はあの産婆以外ほぼいない。いても離散している。今更連絡を取るような親戚もいなかった。母の職場の人間も、母を知る人がどれくらい残っているのか分からない。
 病院の紹介した葬儀社に連絡し、葬儀の手配をする。それから母のいる場所に戻り、亡骸を眺める。額に触れるともう冷たくなっている。母の頭の重みが増している気がしたが、それは気のせいだ。
「ごめんなさい」
 お前のせいだ、という母の憎しみを最上は仕方のないものとして受け止めていた。自分は母のために何もできなかった。母はずっと苦しんでいたのに、自分はそこから救い出すことができなかった。
 全部間違っていたのだ、と最上は疲れた頭で思う。大きく息を吐く。息苦しいのに気づいて鼻に詰めていた鼻紙を抜いた。乾いて茶色くなった血の塊がついていた。さっきのゴミを入れたポケットに入れる。線香が鉄臭い血に代わって鼻の奥に匂う。最上はしばらく母のそばにいた。それから立ち上がった。母の病室を片付けなければならなかった。
 まだ昼間だった。暗い地下の霊安室から、三つ階段を登って戻った。階段を登るごとに周囲の明るさが増す。母のいたベッドはもう綺麗にされていて、そこにさっきまで人が寝ていたなんて思えなかった。
 ベッドの周りの物入れと、ロッカーの衣服と小物、それに最上の買って来た細々とした土産物。母の持ち物はそれくらいだった。ロッカーの衣服は外泊から帰るときに着ていたもので、草色のワンピースだった。口紅は手回り品をまとめた小さなカバンの中にあった。母の荷物をまとめ、もう一度忘れ物がないか確認する。と、ロッカーの奥にノートを見つけた。他の荷物に押されて壁に張り付くようになっていて、さっきは見落としてしまったらしい。開いてみると、母の日記だった。一ページ目には、看護婦長が何か書けとくれた、と書いてある。最上はベッドに腰掛け、それを読み始めた。

 

 日記の最後のページを読んだ最上は、立ち上がって病室の脇の洗面台に走った。洗面台の脇を掴んで胃の中のものをぶちまける。ほとんど水分しか入れていなかったからすぐに胃液だけになった。鼻の奥がずきずきと痛む。もしかしたらまた鼻血が出ているのかもしれなかった。
 母の病が自分の仕事のせいであるはずがなかった。母の病室には悪いものは近づけないようにしていた。そんなものがあればすぐに分かる。明るく清潔な病室だった。悪夢を見せる糸はしばしば母に取り憑いたが、その都度祓っていた。けれども、そうではなかったのだ。母に必要なのは、そんなことではなかった。お前のせいだ、ともういない母が言う。お前が魔を集めた。母にとってはそれが真実だった。
 全部間違っていた、と思う。どこからか。呪殺の依頼を受けてからか。テレビの仕事を始めてからか。母が体を壊す前に自分が働けばよかったのか。とにかく全部間違っていた。最初から、自分は母を救えなかった。
 不意に生ぬるく柔らかな感触を思い出す。手を握った時の母の温もりであり、自分が触れたターゲットの皮膚の感触でもあった。洗面台を握りしめる手が震えた。助けたかった。そのはずだった。それなのに、自分は、どうしてこんなところまで来てしまったのだろう。
「僕のせいだ」
 最上は洗面台を見つめる。黄色い胃液に混じって菜っ葉の切れ端がある。いつそんなものを食べただろう、と思ったが、よくよく見ると小さな血の塊だった。最上は蛇口をひねり、胃液と血の塊を流した。手を椀の形にして水を受け、口をすすぐ。水は胃液の刺激で熱を持った舌を冷やし、口中を満たしていた苦いものを流して行く。
 蛇口を閉めて水を止める。横を向くと、病室に午後の日差しが窓から差し込んで、明るい部分と暗い部分、くっきりと線が引かれている。明るいところを見ていると目がちかちかした。それでも最上は空っぽの病室から目が離せなかった。目がくらむまで見続けてようやく、最上は洗面台に視線を戻した。
 洗面台の上には鏡が掛けられている。明るいところを見ていたせいで目の中に色の帯が見える。それは最上の視線を遮って鏡の上を覆った。数度、まばたきをする。まばたきを重ねるたびに色が薄くなる。
 母は逃げられなかった。病からも、自分の子供への憎しみからも、それを抱く自分からも。苦しみと憎悪を抱えながらベッドの上で衰弱し、誰にも言わないまま死んでいった。あるいは、死後に自分が母の怨霊を見る可能性に気づいていただろうか。それなら、もっと苦しんだだろう。
「母さん」
 最上の視界から色の膜が消える。逃げて、と母から言われたのを思い出す。あれは何から逃げるのだったろうか。けれども、もう遅かった。鏡の中から自分を見返す最上は、どうしようもなく全てを憎み、怒りを抱いていた。
 呪殺の依頼者。呪殺のターゲット。佐藤。母に嫌な噂を吹き込んだ人間。霊能治療の詐欺師。父親。看護婦。医師たち。テレビ局の人々。タレント。スタッフ。印刷所の人々。自分。
「ごめんなさい」
 もう逃げられない。

 

 

エピローグ・町をつくろう

 身中に取り込んだ悪霊の数が増えて抑えるのが難しくなってきたので町を作ることにした。精神の一部に空洞を作り、丈夫な殻で覆う。暇を見て少しずつ現実に近づけた町に霊を放つ。不思議なもので、そうすると多くは家に住まい、外に出たり入ったり、台所に立ったりソファに座ったり、生前の生活を模倣しようとするのだった。ただそれはどこまでも真似事だった。霊たちの行動には目的がなかった。生きるために食べ、排泄し、眠る。その目的を無くした霊たちの生活は漠然と生前の習慣をなぞるだけになっている。食事も排泄も性交も、全てはただの仕草にすぎない。本人たちも、おそらく何をしているのか認識していないだろう。ごく少数、自我の強い霊がいて、その町に住まう悪霊として振舞った。
 町の中には人間以外の生き物は極端に少なかった。犬猫は数は少ないもののそれなりにいたが、虫が皆無と言ってよかった。人々はゴキブリも小蝿もいない清潔な家で暮らした。きちんと観察したわけではないのだが、食事などの真似事をしている者もいるらしい。もちろんふりだ。だから虫に驚くふりもするのかもしれない。霊たちは時に連れ立って出かける。どこへ行くでもない。町の外へは出られないのだから。
 モデルにした町には古い動物園があり、精神の町にも再現している。だが犬猫以外の霊がいないので人の訪れない動物園の檻はいつも空っぽだった。きりん、ぞう、しまうま、等書かれた看板が空の檻の前ですすけている。いつしか閉鎖された動物園の跡地ということになっていた。現実の動物園もこれと同じになった。

 

 

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