最上啓示、タヨリに出会う事他

上質

 

 お前は美味いらしいのだ、とそれは言った。口と腹と脂肪ばかりでできているような、白く膨れた悪霊だった。肥満体に見えるが表面は油膜のような光沢があり柔らかい金属のようにも思える。手足も胴体ももう最上に引き裂かれていたが、何分巨体であったのでまだその辺を這うように動いていた。それほど強くもないが面倒だと最上は思う。
「待て、待ってくれ。少しお前を食わせてくれないか。ちょっとでいいんだ。その小指の先くらいでもいい。それだけ食わせてくれたら、俺はもうお前に完全に食われるよ」
 肥満体の悪霊は大きな口を動かして言う。最上はそれを無視して悪霊をばらばらに引き裂いて取り込んだ。悪霊は悲鳴もあげなかった。
強い悪霊の霊体は美味い、という噂がどうやら一部に流布しているらしかった。「強い悪霊」は簡単に最上啓示に入れ替わり、ここ最近はわざわざ悪霊を探さなくても向こうからやって来る。皆最上を食べに来るくらいだから、悪食の、食欲旺盛な悪霊ばかりだった。来るたびに最上は彼らを引き裂いて取り込んだ。楽ではあるがキリがない。そろそろどこかへ隠れようか、と最上は思う。
霊体に眠りはないが音や時間の感覚を遮断する、まどろみのような瞬間はあった。ばきんだかがりんだか、何か音がして最上は目覚める。すると周りを悪霊たちに囲まれているのが見えた。群れる鮫のように歯を打ち鳴らしている。群の中に一匹、歯をむき出しにしたイタチのような形の悪霊がいて、最上の左手を咥えている。イタチに似ているがつるんとした顔と目鼻の位置は人間にも似ている。登頂には黒い髪が生えている。
「美味いのか?」
と最上は尋ねた。イタチのようなそれは歯を剥いて唸る。意思の疎通はできそうになかった。これも元は人間だろうに。イタチの頭が歪む。咥えられた左手が手首をひねるようにしてイタチの頭を握り砕いた。最上の左手は食われたのではなかった。この程度のものに食われるわけはなかった。最上はやすやすと左手を取り戻し、残りの悪霊を引き裂きにかかった。
「もう終わりか」
と最後の一匹に向かって最上は言った。狐のような体をしていたが、顔にはあのイタチと同じように人間の名残があった。それは最上を警戒しながら、周囲をぐるぐると回って攻撃の隙を伺っている。他の悪霊は鮫のような反射的な攻撃の意思しかなかったが、それには強い自我があった。逃げるつもりなのかもしれない。
「どうした? 私は美味いんだろう?」
 最上はさっき噛まれた左腕を無造作に差し出した。だらんと手首から先を下げて誘うように揺らす。それの目がきゅうっと細められる。
 最後の一匹も、結局あっけなく引き裂いてしまった。いつもはすぐに取り込んでしまうのを、最上は「食って」みることにした。引き裂いた悪霊の体を掴み、口を開けて歯で噛み砕き飲み下す。そして美味とはどういうことなのだろうと思う。取り込もうがこうして噛み砕き舌の上に載せようが、味は感じない。何か感触のようなものはある。だがそれを味と言っていいものか。五感の記憶は既に薄れかけていたが、それが肉体で感じていた味とは異なることはわかる。自分を食いに来る悪霊たちは、一体何を求めているのだろうか。今度来たら引き裂く前に尋ねてみようか。
「あるいは」
 最上は食いかけの悪霊を捨てて自分の手を見る。「弱すぎるからか?」最上は人差し指を口に入れた。ガリッと硬い音がして、指が舌の上に落ちた。

 

 

 

 犬を飼いたかった。色は白でも黒でもいい。ぶちのあるのもいい。毛の長いのも短いのもいい。名を呼ぶと犬は振り向いて駆け寄り、尻尾をふる。温かいベロで顔や手を舐める。
 小さい頃住んでいた家の近所には雑種の犬がいて、硬い茶色い毛に、口の周りだけが黒かった。人懐こくて誰にでも尻尾を振った。左官屋のおじさんの家の犬で、大人しくて、放し飼いではなくて庭に繋がれていた。いつもは子供が呼んでも地面にごろりと伏せている。左官屋さんと一緒に朝早くから散歩をする。時々、夕方くらいに散歩をしている時があって、そういう時は嬉しかった。撫でてもいい、と尋ねるとおじさんは頷いて犬を座らせる。散歩ではしゃぎ疲れた犬は口をぱかっと開けて舌をだらりと出している。舌は綺麗なピンク色をしている。頭や首のところを撫でるとすぐ近くに生臭い息が臭う。毛皮を通しても犬の骨格と散歩で温まった筋肉の跳ねるような柔らかさがわかった。ありがとうございます、と言って立ち上がると左官屋のおじさんは口笛を吹く。犬がぴょんと立ち上がって尻尾を大きく振りながらおじさんの膝に体を擦るようにして歩く。
 犬を飼う夢は生前は叶わなかった。死後もそうだったし、叶える気もない。ただあの生臭い息を時々無性に懐かしく思い出すことがあった。あの犬の形も大きさも思い出せないのに。覚えているのは毛の色と開けた口に並んでいた、黄色っぽい色の尖った歯のことだった。犬は大人しく、それが子供に向けられることはなかった。
そんなことを思い出したのは、魔津尾の持つ悪霊の中に、獣の形をしたのがいたからだ。悪霊は、あの犬に似ていた。形は似ていない。そもそも足は六本ある。大きさもサイくらいある。だが、茶色い体毛に覆われていて、口の中に尖った歯が並んでいるところは似ている。わずかに開けた口から舌が垂れているのも犬がよくやる仕草だったから、最上はその悪霊を撫でてみよう、という気になった。
 そっと手を伸ばし、逃げたり噛み付いたりしないのを確認して首筋に触れる。いきなり頭を撫でてはいけない。首を一通り撫でてから耳のあたりや首の後ろに手を伸ばす。悪霊は存外大人しく最上に撫でられている。主人の命令があるまでは無闇に攻撃しないのかもしれない。最上は悪霊を撫でながら、こんな風だっただろうかと思う。あの犬よりも毛皮は柔らかいだろう。というよりも、これは毛なのだろうか。毛皮というにはかけ離れた感触がする。冷たく吸い付くような感じだ。しかし植物の蔓とも烏賊の足とも違う。
 両手で悪霊の首筋を撫でながら、そうか、と最上は思う。悪霊の口はすぐ目の前にあったが、あの犬の生臭い息の臭いがしなかった。残り物を食い、蝉や油虫を捕っていたあの犬の口の、卵を噛んだような臭いは、生の臭いだった。犬は口を開け舌を出して息をし、あの生臭い息を最上に吐いていた。今や犬の記憶はすっかり薄れている。尖った歯の黄色い色だけが思い出せる。

 

 

池の端の小屋

 

 またこの場所に来た、と最上は思う。薄暗い森の中に池がある。池の表面は凪いでいて、生き物が住んでいるのか疑わしいほどに波立たない。そもそも、この場所はおそらく現世の場所ではないのだ。周囲は灰色の靄が立っていて、光源もないのにぼうっと池と、森と、それから池のほとりの東屋の姿が見える。
 前に来たのは自分が死ぬ直前だった。生前、自分は悪霊を食っていた。死んで自らも悪霊となるためだったがおそらくはそのために感覚は鈍り、何を食べても味がしなかった。皮膚の表面はしばらく外に置いた餅のように萎びて冷えていた。晩秋だったからだろう。最上の体は生存に必要な熱を十分生み出さなくなっていた。冷えた体のままで眠りにつき、夢の中でこの場所に立っていた。その時も森と池はぼうっと薄暗い中に存在していた。生き物の気配はこそともしなかった。池のへりを巡って東屋に行くと、最上の体が横たわっている。触れるとずしりと冷えている。それは最上の死体だった。目覚めてから奇妙な夢を見たと思った。恐怖も何の感慨も湧かなかった。そういえば久しぶりに夢を見た、と、顔を洗いながら思った。夢の中の死体に比べれば手足も顔もまだ生きた温度をしていた。
 そういう夢を生前見たのだが、今またここに来ているということはただの夢ではなかったのかもしれない。自死して悪霊になってからは眠り自体なかった。最上は池の端を東屋に向かって歩く。歩くと草が踏み潰されて青臭い匂いが足元から立つ。虫の声はしない。気配を殺しているのではなく気配そのものがない。
 東屋に行くと、今度は自分の死体ではなく魔津尾の体があった。横たわるのではなく腕を組んで座り、居眠りをしているように目を閉じている。最上は驚かなかった。何となくそれを予感していた。魔津尾の体は以前見た夢の自分のように冷えているだろうと思った。おそらく、彼は死んでいるわけではない。境界線を超えて死者に近づいた者、あるいは、真っ当な死者にすらなれない者、そういう存在がここに来る。ここに来て死体を晒す。おそらく魔津尾もここへ来たことがあり、自分の死体を見ただろう。奇妙な夢として。
 最上は魔津尾の死体をしばらく見下ろした。自分の体もこうやって誰かに見られたのだろうか、と思う。死体だから誰かに見られていても気づけない。目覚めることがない。埋められて池に沈められてもわからない。彼にそうしようとしたのではなかった。自分の死体をもしそのように、どこかに埋めたり沈めたりしたら、どうなっていたのだろうか、と気になったのだった。
まあいい。それにしても、ここからどうやって帰ればいいのだろう?

 

 

WALKMAN

 

 布団を頭からかぶり耳を塞ぐ。それだけでは駄目だったからあー、と声を出した。頭の中に自分の声だけが響いてようやく安心する。目はもう閉じているから何も見えない。もやもやとした色の塊だけが暗闇に見えるけれど、それは何かの魂ではない。と、トントンと腕を突っつく者がいる。そっと目を開ける。
腕をつつくのは母だった。台所仕事をしていたのだろう、しっとりと濡れた冷たい指先だった。けいじ、と口が動く。幼い最上は声を上げるのをやめ、耳を塞ぐ手も離した。「どうしたの?」と母が尋ねる。
「うるさいの」
「何が聞こえるの?」
「ごじゃごじゃする」
 それは今も、母の声の向こうから聞こえている。人の声か獣の声か、何かぞわぞわとする声がどこかからかしていた。大勢の人が話しているようにも聞こえるし、籾殻を両手で握りつぶしているようにも聞こえる。
 母は近頃では、何も聞こえないけど、と戸惑ったように言うのをやめていた。代わりに、じゃあ、お母さんがお歌を歌ってあげる、と布団に入った。最上のこめかみのところに唇をつけて、低く歌う。歌はお話のこともあった。桃太郎とか一寸法師とかの昔話だったが、大抵途中で筋を見失い、別の話に接続する。桃太郎はお姫様と月に行くし、一寸法師は鴨の背に乗って世界一周をした。だから、歌もひょっとしたら、というかたぶん、母が適当に繋げたものなのだ。歌詞だって正しいのか怪しいものだ。最上の覚えている母の歌がラジオでかかった試しはないし、その歌知ってる、という人も会ったことがなかった。
 あの歌を録音できていたら。けれど母は嫌がるだろう。音痴なのに、そんなのいやよ、と言って。それに、今の自分にはその資格もない。最上は物憂げに首を振る。耳元では、大勢の人間が部屋の向こうで話しているような、あるいはただの砂嵐のような雑音が聞こえている。
 それは最上にだけ聞こえる声だった。幼い頃から聞こえていた死者の声。遮断し、聞こえないふりをすることを覚えたその声が再び聞こえるようになっていた。そんな筈はないのを分かっていても、その中に自分が呪殺した者の声が混じっている気がする。街頭のテレビには持ち歩きのできるオーディオの陽気なCMが流されている。いつでも音楽を、と画面の女がイヤフォンで耳を塞ぎながら誘う。そういえばこの声は、伸びた磁気テープを両手でもみくちゃにした時の音にも似ている。

 

 

長い夢の後先

 

 けいちゃんは、うちで預かった方がええでしょう、見えすぎる子ですからなあ。と、しばらく母の知り合いの神社へ預けられていたことがある。小学校へ上がる前の話だ。小さい頃のことなのでよく覚えていないが、一年ほど預けられていたのではなかったか。記憶は朧げながら、そこでの出来事は春夏秋冬、それぞれ思い浮かぶ。
 神社の神主はつるりと禿げ上がった頭をしていた。食事の後片付けや掃除の合間に、頭をピシャリと叩き、どうや、坊さんみたいやろ、と言ってわははと笑う。つまらぬ冗談だったがいきなり親元を引き離された男児を和ませようとしていたのだろう。最上は笑ったことはなかった。面白いと思ったけれども時々ほんの少し口角をあげるくらいで笑わなかった。いつもひっそりと生きていた。
ひっそりと生きるのは預けられた家で大人しくしていたからではなく、最上の常の所作だった。気づいてはならないし気づかれてもいけない。例えば黒焦げのボロボロの人体が、母と散歩をしていた道に現れ、自分の裾を掴んだような時、以前は嫌なのがいる、と言って泣き喚いた。けれどもそうすると頭に血がのぼる。するともっと色々なものが見えたり聞こえたりするのだった。それらは最上自身の泣き声と混じり合って頭の中に響いたし、最上の反応で、見えている、とわかるのか、他のものどもが寄ってくる。最上はさらに泣く。最後には疲れはてて熱を出す。熱を出した最上の顔の上を頭の異様に大きな子供がケラケラ笑いながら走り回った。
 見えていれば嫌な目に遭う、というのがわかってから最上は極力それらに気づかないふりをした。それは傍目には、ひっそりと息を潜めて暮らしているように見えた。男の子ですか、この年の子にしてはめずらしい、おとなしいお子さんですね、と言われる最上の視界には、そう言う人の足元に両腕で絡みつき引きずられている老人が見える。老人は歯のない口を開け閉めする。その口の中から指がちろちろと覗く。最上はそれに気づかないようにますます息を潜める。
 けいちゃん、怖いか。
 濡れ縁に腰掛けて境内をぼんやり眺めている最上に神主は尋ねた。さっき神主と一緒に掃き清めた境内の、真ん中を横切って、白い行列がゆっくり歩いている。人のようにも見えるが、輪郭が溶けていて、掲げる道具類も所々おかしい。先触れは一足ごとに叩頭しながらほとんど四つ足で歩いている。
最上はゆっくりと首を振った。首を振ると行列の女房装束を着たのがこちらを振り向いて、みるみるうちに頭を膨らませて弾けさせる。頭をなくして倒れた体をそのまま引っ掛けて後続のものが歩く。最上は怖くない、と言った。怖い、という感情は閉じ込めていた。もう麻痺していたとも言える。
 怖あてええんやで、と神主は、何かを見極めようとするように目を細めて最上を見つめた。最上もその目を見返した。神主は、最上の無言の問いかけに応えるように、数回、うん、うん、と頷いた。
怖あてええんや。怖い思うんは生き物の性や。けどな、けいちゃんはもう丈夫になったんやから、もう何もかんも怖がらんでええのやで。わからんもん、強いもんだけ恐れたらええ。そういうもんに会うたら逃げ。他はそこに居とるだけや。
 最上は神主の言葉を頭の中で反芻し、考えた。やがて消せないの、と尋ねた。けいちゃんは強い。せやから、消そうと思えば消せる。けど、むやみにやったらあかん、と神主は言った。
けいちゃん、と神主が境内を横切る白い影を指差す。あれは神さまや。神さまやけど、消えかけとるんや。消えかけておっても神さまやから、ああやって御渡りをなさる。あと百年くらいしたら消えるやろ。そういうもんなんや。見えてしまうもんは、もうしゃあない。見えても、そういうもんやと受け入れなさい。
 記憶はそこでふつりと途切れている。消えかけた神様の御渡りを見たのが、いつの季節かも定かではない。たぶん修行の日々の終わりに近い頃だろう。それ以降、最上はひっそりと生きるのをやめた。相変わらずおとなしい子だとは言われたが、息を殺して片隅にいるような緊張は生活からなくなった。

 

「何の話?」
と母は言った。熱の下がらない母に、せめてもの寝物語にと、昔親戚の神社に預けられていた時の話をしたのだった。母はついて来なかったから、気晴らしになるだろう、と。しかし母は、そんなことはなかった、と言う。仕事の都合で近所の人に預かってもらった以外、誰かに預けたことはない。それだって半日やそこらで、一日以上預けたことはないと。
「ああ、そうなんだ。夢なんだよ。時々聞くでしょう、いつも同じ場所の夢を見るって。昔はそうだったんだ。駄目だね、まだ話が下手くそで」
 母はまだ疑うような目をしていたが、「僕も寝ぼけてるよね。本当にあったことみたいに一瞬思ったんだ」と言うと、「しっかりしてよ」と笑った。
 しばらくして、テレビのロケで行った瀬戸内海の小さな島で、最上は御渡りを見た。神社はとうになく土台だけが残っていた。御渡りは、もはや人らしき影も留めず、地面の上に、薄い白い影がなめくじの這った跡のように残るばかり。「百年はもう来ていたんだな」と、最上は昔読んだ小説の一節を思い出した。

 

 

タレント

 

 ロケ先で最上にあてがわれたのは、旅館ではなくホテルの一室だった。最近流行りのビジネスホテルというやつだ。そこもつい数ヶ月前に旅館から鞍替えして建て増ししたとかで、部屋は真新しく、窓は大きい。部屋のほとんどをベッドが占めていて、あとは細長い机が置かれている。椅子を引くと、それで部屋はほぼいっぱいになった。最上は荷物も下ろさずに、部屋を見渡し、机の引き出しを開けた。中にはルームサービスやお土産物のチラシが入っている。
 今まで畳の部屋ばかりだったから落ち着かない。ベッドなんて、寝返りを打ったら落ちてしまわないだろうか。スタッフはまだ呼びに来なかった。収録は夜ですが後で打ち合わせがありますからその時になったら呼びます、とスタッフの男は最上を部屋に押し込めてそのままどこかへ行ってしまった。誰も来ないまま時計の針はゆるゆると進んでいく。
 最上は観念してベッドに腰を下ろした。ベッドは最上の体重を受け止めてわずかに沈む。シーツは冷えていて固かった。少し首をひねって後ろを向くと、いつも眠る布団よりもひと回りほど大きい白い布の塊がぬっと視界を埋めている。病院のベッドよりも広々としている。寝返りを三回うっても落ちそうにない。こういうものなら母にはいいだろうか。いや、おそらくどれだけ広々としていても母は嫌がるだろう。落ちそうだ、と言って。入院した当初も、何よりもそれを嫌がるそぶりを見せていた。こんな少し地面から浮いたところで寝るなんて落ち着かない。私は寝相が悪いから、絶対に落ちちゃう。
 じゃあ、ちょうどいいじゃないか、やっと寝相が直るかもよ、と軽口を叩くと言ったわね、と母は笑った。最上が見舞いに行くと、母はそういう何でもないような軽口ですぐに笑う。やっぱり息子さんが来ていると明るくて、と担当の看護婦が帰るときに言った。最上のいない間、母は沈みがちらしかった。
 何をやっているのだろうと思う。母が入院することになり、治療費が生活を圧迫した。だからもっと出演料の高い企画に出ることにした。泊りがけの大掛かりな番組だ。母が入院して、家での看病がいらなくなったから、泊りがけで出て来られるようになった。因果は尾を噛む蛇のように最上を取り巻いている。
 いや、と頭を振る。全ては母を元気にするためだ。お金があれば、母にいい治療を受けさせられる。元気になれば母は家に帰れる。それが最優先だ、と最上は自分に言い聞かせる。そこで部屋の戸がノックされた。はあい、と最上は明るい声を出す。ドアを開けるときには、すっかり「最上啓示」になっている。

 

 

最上啓示、タヨリに出会う事

 

 あそこには一度行ったことがあります、という声が聞こえた。
「え?」
と隣を見る。通路を挟んだ隣のボックス席に若い男が座ってこちらを見ていた。まだ少年と言ってもいいような丸い頰に、こちらを見る目だけが妙に落ち着いている。
「ええと。君は?」
と尋ねるとモガミケイジと言います、と答えた。声を張り上げているというわけでもないのに、動く列車の中でもよく通る声をしている。
「モガミ君。僕らはこういう者だけど」
と中塩ディレクターが名刺を差し出した。モガミは最上だろう。ケイジはどう書くのか。最上青年は、名刺を両手で受け取り、中塩さん、よろしくお願いします、と頭を下げた。
「あそこに行ったことがあるのかい?」
「はい。でも、行くのはやめたほうがいいと思います」
「どうして?」
「死ぬと思います」
 最上青年は淡々とした調子で言った。驚かすつもりではなくただの事実を述べたようだった。
「それは穏やかでないなあ」
と中塩さんが言った。言外に大人を脅かすならやめた方がいいぞという警告をにじませている。
 中塩さんは、大陸の方で放送関係の仕事をしていた。戦争が起こって早々こっちに引き上げてきたらしい。小柄でも迫力があるし、すごまれるとそんじょそこらのチンピラなんかは怯んでしまう。だが中塩さんの脅しを受けても青年は涼しい顔――というよりきょとんとした顔をしていた。今までそういう怖い大人に逢ったことがないのか。しかし、世間知らずのぼんぼんという感じもしない。そもそもぼんぼんならこんなさびれた在来線のボックス席なんかに座っていないだろう。
「でも本当ですから」
と最上青年は真顔で言う。
「ということはだ。君はあそこに入ったことがあるのか」
「はい」
「禁足地ではないのか」
「そうです。けれども、知人に頼まれて」
 最上青年が語ったのは、以下のような話だった。彼は昔から幽霊が見えた。それだけでなく強い力もあった。それゆえに物心ついてからしばしばとある寺に預けられていたのだが、一年ほど前に、その寺から手伝いを要請されたらしい。
「それが、禁足地の除霊?」
「はい。でも、除霊なんて……」
 最上青年は少し窓の外を見た。それからふと、まだもらった名刺を両手に持っていたのに気づいてシャツの胸ポケットに仕舞う。しばらく考え込むように目を伏せていたが、「あそこは土地がよくないんです」と言う。
「そういう話ならよく聞くが」
 土地がよくない。方角がよくない。禁足地に限らず東京でもよく聞く話だ。が、最上青年は頭を横に振った。
「あそこは……」
 一旦言葉を切り、何か考え込むようなそぶりを見せた。それからうん、と自らに向かって頷いた。
「あそこに入った時のことを話します」
「へえ」
「でも秘密です。絶対に誰にも言わないで」
「いいとも。約束しよう」
 では、と最上青年が話したのは奇妙な出来事だった。知り合いの手伝いを終え、帰ろうとしたときに、禁足地の方から小さな子供の助けを求める声が聞こえた。最上青年は反射的に禁足地に入ってしまった。が、そこには子供などおらず、棘だらけの藪が生えているばかりだった。
「つまり騙されたというわけか」
「はい。あそこにいるときのルールをご存知ですか」
「何だったかな」
「入ったら、決して振り向いてはいけない」
 まるで黄泉比良坂だ、と私が横から口を挟むと、最上青年は生真面目な顔のまま頷いた。
「その通りです。振り向いたら最後、連れて行かれてしまう」
「どこへ?」
「さあ。禁足地の奥の方だと思います」
 相変わらず淡白な口調だったが、ふいにゾッとした。つまり連れて行かれて戻って来た者はいないのだ。おそらく彼を除いては。中塩さんの方を見ると、彼も気づいているらしく、こめかみに汗が浮いている。暑さのためではない。ねっとりした脂汗だった。
 ふと私の頭をとんでもない考えがよぎる。彼は生きている人間だろうか。妙に落ち着いた雰囲気は、二十歳そこそこの青年とは思えない。自分の背中がかあっと熱くなり、汗が噴き出るのを感じた。我々の様子に無頓着に最上青年は話し続けた。
「あの。禁足地は、別名タヨリというんです。タヨリ、というのは、頼りにする、の頼りだと思います。というのも、あそこに入ると、そのとき頼りにしている誰かの声が聞こえるんです。それで、たまらず振り向いてしまう」
「して、君は?」
 最上青年は、少し首を傾げた。微笑んでいるようにも見える。相変わらず瞳は黒く落ち着いている。人というよりも、年を経た鹿のような感情の揺らぎの見えない瞳であった。
「僕の声でした。僕の声で、おおい、と」
「それで、君は」
「振り向きました」
「なぜ?」
「何があるのか、興味がありました」
 中塩さんの喉がごくりと動いた。私も息を殺すようにして最上青年の話を聞いていた。
「……で、何があった?」
「僕がいました」
 ぶわ、と腕の表面を誰かが撫でたような気がした。見ると、むき出した手の甲に鳥肌が立っている。さっきの疑問が再び頭をもたげる。彼は本当に生きている人間なのだろうか。中塩さんがふうむ、と唸るように息を吐いた。
「で、君は……」
「そりゃあ、逃げましたよ。連れてかれちゃかなわない」
「逃げられたのか?」
「ええ、まあ。あの、現れた僕をですね。こう、ヒュンと消して」
と、最上青年は手をひらりと振った。
「ヒュン?」
「ああ、分かんないですよね。すみません、僕は説明するのが下手なんです」
 最上青年がしきりと手を振りながらしどろもどろに答える。それを見ていると、さっき感じた寒気が次第に引いていった。中塩さんが除霊の模様を話そうとする最上青年を止める。
「いや、わかったわかった。とにかく君は助かったんだな」
「そうです」
「しかしそれじゃあ、そこはもう除霊してしまったんじゃないのかい」
「とんでもない」
と最上青年は表情を硬くして首を横に振る。
「さっき土地が良くないと言いましたよね。あそこには、怨念が地中深くまで染みついている。それも今まで死んでいった人のものも含めて。僕が消したのは、地中からちょっと生えたきのこみたいなものです。本体はまだあの中にいる……あの土地の中に」
 最上青年は遠くを睨むような目になった。私はふと、昔に見た生物の教科書を思い出した。森の断面図で、地面の中にもじゃもじゃと木の根っこが伸びていて、その間に冬眠中のクマやたぬきやセミの幼虫がいる。その中に得体のしれない化け物がいるのを思い描く。
「よしわかった」
と中塩さんが突然大声で言い、私と最上青年は飛び上がる。
「君の言う事はわかった。あの土地に行くのはやめよう」
「ちょっと中塩さん」
と私は止めた。あそこに行かないと番組のネタがない。ネタがなければ私たちは干上がってしまう。が、中塩さんは私に待てと言うような仕草をした。
「代わりに君だ」
 良かったあ、と胸をなでおろす青年に向かって中塩さんは言った。
「僕?」
「そう。代わりに出てみないか?」
「出るって、どこへ」
「テレビだよ。テレビ番組。君も知らんか、金曜スペシャル! やってるだろうたまに」
 僕の家テレビないんですという最上青年を無視して中塩さんは続ける。
「君いくつ? 十八? 十九? 若き霊能力者、現代に蘇る陰陽師! ってな具合でね。そういう曰くの土地に行ってな、霊視だの何だの。公開除霊なんかも面白いかもしれん。君は声もいいしねえ。テレビ向きだ。どうかね」
「はあ」
「謝礼は弾む」
 謝礼、と最上青年の口が動いた。すかさず私も畳み掛ける。
「ゴールデンだからね。割にいい小遣い稼ぎになるんじゃないかな。どうだろう」
「……やります」
最上青年は頷いた。よっしゃ、と中塩さんがまた大声を出す。今度は飛び上がったのは最上青年だけである。
「ええとじゃあね。こっちに連絡先書いて。詳しいことが決まったら連絡するから」
 私はメモを差し出した。
 最上青年は、住所らしきものを書きかけて、はたと手を止める。
「あの、今の話、絶対に誰にも言っちゃだめですよ」
「禁足地に入ったこと? 大丈夫、言わないよ」
「本当に言わないでくださいね。母が心配するので」
と、言いながら最上青年は鉛筆を動かした。在所は調味市。名前は啓示と言った。

 

 

朝のステップ

 

 夏休みに入る少し前の、暑い夏の日のことだった。私はその日、忘れ物を取りに学校に戻っていた。忘れ物は何だったのか。ノートだったか、教科書か。もう時間はかなり遅くなっていたが、まだ日は落ちきらず、じりじりと町の上で躊躇しながら、横向きの赤い光を、誰もいない静かな教室に投げていた。どうしてそういうことを覚えているのかというと、濃い影を教室の壁に映して遊んでいたからだった。私のいた教室は西向きに窓があった。窓に背を向けて立つと、教室の壁に私の影が黒々と落ちる。影は、教室の床や机の上にべったり引き伸ばされたように伸びて、壁のところでは私と同じ背丈になった。
 私はその時、髪を耳の下で二つに結んでいた。そういう校則だった。肩より長い髪は黒か茶色のゴムでくくること。私は毎朝律儀に二つ結びにした。ずっと同じ髪型だと禿げるという噂に怯えながらも、別の髪型に変えるのは、色気付いていて恥ずかしいことだと思っていた。
 でも、これはただの遊びだ。そう思った。二つ結びを解いて肩に自然な形に流してみよう。と、思ったけれど髪には二つ結びの型がついている。私は髪を三つ編みに結び直し、頭を振ったり、三つ編みの先を両手で持って頭の上に突き出すようにしたりした。頭の上から突き出た三つ編みは悪魔の角みたいだった。私は家の古い児童書で見た、悪魔の挿絵を思い浮かべてクスクス笑った。私のクスクス笑いが静かな教室に響いた。
「やめた方がいいと思う」
と、ふいに声をかけられて、私は慌てて三つ編みから手を離し、背中に回した。子どもっぽい遊びを見られたのが恥ずかしく、顔が熱くなった。声の方を見ると、ドアがほんの三十センチほど開いていて、そこから男子生徒が体を半分覗かせて、私の方を睨むようにしている。
 最上君、と私は言った。隣のクラスの最上くんだ。去年は同じクラスだった。最上君は頷いて、「動かないで」と言った。なんで、と返すと狙いがずれるから、と言った。何の? と尋ねているうちに、「もういいよ」と最上君が言った。それで私は、彼にまつわるある噂を思い出した。彼は幽霊が見える。彼は「憑き物落とし」ができる。
「ここにお化けがいたの?」
「えっと……」
 最上君は少し言い淀んだ。どう説明したものか、と考えあぐねているようだった。どうやら本当に何かまずいものがいたらしかったが、私は怖くなかった。ちっともそんなものは見えなかったし、それはもういないらしいのだから。
「うん。そうだね。お化けがいたよ」
「あんたがどっかやったの?」
「うん」
 どっかやった、という私のぞんざいな言い草に、最上君は笑った。あるいは、元からそういう顔だったのかもしれない。数年後にテレビで見た彼は大抵穏やかに微笑んでいた。
あの日、教室に本当は何がいたのか、私は知らない。そして、私の影遊びがどういう結果をもたらそうとしていたのかもわからない。ただ、最上君が来た後、突然勇ましいマーチが聞こえるのに気づいたのを覚えている。マーチは吹奏楽部が演奏していたのだろう。それまでずっと、何の音もしなかったのに。
 どうしてこのことを思い出したのかというと、それが東京オリンピックの前の年のことだったからだ。娘と来年は東京オリンピックだね、という話をしていてふと思い出したのだ。あとで最上君のことを調べてみたら、彼はもう亡くなっていた。自殺だった。

 

 

めざめ

 

 母の故郷は海の近くにあり、母は一度、幼い最上を故郷の海水浴場に連れて行った。祖父母はもうとうに亡くなっており、生家も人の手に渡っていたが、それでも海の匂いは懐かしいらしく、電車に乗っている最中に、母はあ、と顔を上げ、今空気の匂いが変わった、潮の匂いがすると言った。もっとも、最上が母の事情を知ったのはかなり大きくなってからだった。その頃は、母の言う「潮の匂い」の意味もわからなかった。ただただ母と遠出をするのが楽しかった。
 たどりついた母の故郷の海の水は夏でも冷たく、浜から数メートルも行けば足のつかなくなる地形のせいで、底の見えない濃紺色をしていた。そのような浜だったので、未就学児童は波打ち際に作った囲いの中で遊ばせる規則になっていた。幼い最上もそこで遊んだ。三つか四つくらいだったと思う。まだ夏の初めだったせいか、人の姿はまばらだった。囲いの中には数人の児童と保護者がのんびりと波とたわむれていた。母は出たときの服のまま、靴と靴下だけ脱いで海に入った。最初はスカートを濡らさないように気をつけていたが、すぐに裾が海面についてしまった。あーあ、と言ったきり母はスカートを気にするのをやめて、水面をぱちゃぱちゃと叩きながら、こっちにおいでよ、楽しいよ、と最上を呼んだ。
 最上はというと、すぐには海に入らず、波打ち際にしゃがみこんで波が自分の足を洗うのをじっと見つめていた。けいじ、こっちにおいでよ、という母の言葉は聞こえていたが動かなかった。海が怖いのではなかった。波が行ったり来たりするのや、表面に浮いた粘っこい泡、水底に透けている砂が波の動きに合わせてころころと動くのなどが不思議だった。
十分満足するまでそれらを眺めてからようやく最上は立ち上がり、海へ向かって数歩歩みだした。すると、足が何か、砂以外のものを踏んだ。ぐにゃっと柔らかいもの。わずかに温かかったように思う。泥か、貝の外套膜のような感触だった。最上は足元を見た。海はまだ浅く、最上の膝くらいしかなかった。水底が歪みながら砂色に透けて見える。
その、砂の上に奇妙なものがあった。最上が踏んだのはそれだった。それは黒っぽい塊で、波の動きに合わせてうねっている。よく見ると、黒っぽい塊は、奇妙なもののごく一部のようだった。砂と似た色なのでわかりにくいが、黒くうねるものは、まりくらいの大きさの、土気色の何かに繋がっている。
ぐにゃ、と最上の足に黒いものが絡みついた。海藻のようだったがいやに粘ついている。「ちゃ」と最上は言った。あっちへ行け、と言ったつもりだった。しゃがみこんで水面を叩く。すると海の中のものと目が合った。波を通して見ているせいで、輪郭は大きく崩れているが、確かにそこに何者かがいてこちらを見ている、と最上は感じた。
次の瞬間、最上は前のめりに海の中に転んでいた。というより、引き込まれた。海の中の塊が最上の手首を捉えていた。最上はその時目を閉じる暇もなかった。だから、そこにいるものの正体を知った。
確かに目が合ったと思ったのに、眼球はなく眼窩だけが残っていた。半分ちぎれた唇が最上に向かって開く。閉じる。かすかに唇が動いている。水に沈んだ耳がぎりぎりと痛む。それが何か言おうとしている。
 あ、聞こえてしまう、と思った時、母の悲鳴とともに最上は海中から引き上げられた。抱き上げられ海から引き離された時、目に入ったのは濃い青の空と、そこに浮かぶ綿の塊のような雲だった。一拍遅れて、最上は泣き出した。海の中のものが怖かったのではない。ただ驚いたのだった。海水が沁みて目も鼻も喉も痛く、そのせいで咳き込み余計に声をあげて泣いた。母が最上をあやしながら、海から彼を遠ざけた。
 それが、最上の覚えている限りで最も古い、霊を見た記憶だった。それ以前の記憶はあるものの、霊を見たという感覚はない。この日初めて生者と異なる世界に気づいたのかもしれず、あるいはこの日に能力に目覚めたのかもしれない。いずれにせよ、母が最上を故郷の海へ連れて行ったのはこの一度きりだった。

 

 

母の卵

 

 乾いた秋の夜だった。風があってジャケットを着ていても肌寒い。どこかから咳き込むような犬の吠え声が聞こえている。新月で、月明かりはない。しかし魔津尾にとってそういうことはどうでもよかった。今日は日が悪い。色々な場所の箍が緩んでいる。肌を撫でる風に、コーヒーの澱のようなざらざらしたものが混じっている。
ビルや家々の隙間、ぼうぼうと伸びた薄の隙間、苔むした石と地面の隙間から、ゆらゆらと立ち上るものがある。魔津尾は煙草の煙に似ていると思う。色は黒、と知覚している。もっとも、光学的に見えているわけではない。視覚に類似した形で認知している。だから人によっては、あれを虹色の炎だとか薄青い糸だとか言う。
「こういう日はね。悪い夢を見るのにいいのよ、プリンちゃん」
 魔津尾は手の中の小瓶に話しかけた。瓶にはベタベタとシールが貼ってある。シールは一種の霊的な封印だったが、一目見ただけでは、小学生の持ち物のようだ。シールの中にはファンシーグッズのお店で買ったのも混じっている。これは封印のためではなく、かわいい悪霊のためにお気に入りを貼っている。
 瓶の中にいる最上は、魔津尾の声が聞こえていたが返事をしなかった。返事をしても聞こえるものではない。すでに死んで久しい自分が夢を見ないのは魔津尾も知っている。時々魔津尾は、手持ち無沙汰のとき、こういう愚にもつかないようなことを話しかける。が、今回は心当たりがないでもない。
 夢は見ないが不随意に生前の記憶を思い出す瞬間があり、今日はやたらと割れた卵が頭に浮かぶ。コンクリートの上に落とした卵。殻がぐしゃりと割れ、中身が飛び散っている。白身はねばつきながら地面に広がり、黄身は潰れてコンクリートの細かい粒の間にすでに染みはじめている。やってしまった、と最上はそれをぼんやり眺めている。
久しぶりにうどんでも茹でようか、と思って買ってきた卵だった。最近はテレビの仕事で忙しく、家にもなかなか帰れないでいた。食事は外食ばかりで、最初は良かったが近頃では完食するのも難しく、胃のあたりが常に熱をもっている。時々喉の奥からドブのようないやな臭いがする。今日は早めに帰れたから、と思ったのだが。
 片付けなくては、とはっとして慌てて自室に入り、雑巾を探した。それから、ゴミ入れになるもの。割れた殻もを片付けてしまわなければ。カラスはなんでも食べる。あのまま放って置けば鳥がつつきにくるだろう。卵を落としたのはアパート入口の段差になっているところで、踏むか避けるかしなければ皆奥へ入れない。最上は台所をひっくり返した。が、雑巾が見つからない。長い間家事をしていないせいで、台所の全てはよそよそしく乾いている。雑巾がないなら古着か何か、とどたばた畳を踏みながら押入れを開ける。
 ……もういいか。
 押入れの中を目にして、最上は突然そう思った。押入れの中には今は使わない冬物や、わずかばかりの思い出の品に混じって古着や端切れがあるはずだった。けれども、雑多に積まれた箱の中の、どれにそれらが入っているのかわからない。端切れは母が集めたものだ。その母は入院している。いつのまにかかなり長くなってしまっている。母の私物は少しずつ箱に詰めて押入れの中に仕舞った。その箱が今、押入れ全体に積み上げられている。振り向くと、漫然と散らかった部屋が見える。万年床の周りには、最上の服や、テレビ局からもらった記念品や、古い台本や心霊関係の参考書が無秩序に積まれている。
 最上は黙って押入れを閉めた。上着とズボンを脱ぎ捨て、床の上の台本をまたぎ越して、布団の中に入った。仰向けになると胃が痛むから横向きになる。カーテンの隙間からはもう夕暮れの光も入らない。最上はそのまま目を閉じた。まぶたのうらにチラチラと薄暗い万華鏡のような光が翻る。光は割れてぐちゃぐちゃになった卵になっている。卵はいつのまにか、コンクリートの上ではなく、土の上で割れている。ごめんね、と母が言う。けいじ、ごめんね。母は泣いている。どうしてかはわからない。卵を買いに行ったのに全部割っちゃった。つまずいて。最上は熱で重い頭を動かして頷く。
 あれは自分がひどい風邪をひいて寝込んでいたときの記憶だ。たまご粥か何かを作ろうと買い物に行ったのに、卵を割ってしまった。たぶん母が泣いていたのは、それだけではないのだ。卵を割ったことは、ただきっかけに過ぎなかった。二十代の、今の自分より若く貧しい母を泣かせるにはそれで十分だった。
 最上の割った卵は母の割った卵になった。ぎざぎざに割れた殻から白身が漏れ出している。かろうじて半分に割れた殻の上に黄身が乗っているのを拾い上げる。傷ついた黄身が破れて殻からあふれだし、母の指の隙間から地面にこぼれた。丸くお椀型にした母の手の上にわずかに残った卵には砂が混じる。
 ああ、と母が泣くような声を漏らした。それを自分は見ていないはずだった。なるほど嫌な夜だ、と最上は小瓶の中でつぶやいた。それは小さな震えとなって魔津尾の手のひらを震わせた。