大丈夫の居場所

 死ぬ気で家を出て二年ほど経ったころ、マイケル・メルから唐突に《大丈夫?》っていうメッセージが届いた。
 死ぬ気で、というのは文字通りの意味で、あの町のあの家に暮らし続けていたらいろんな意味でいろんなところが死ぬ、と思った。ていうかもうだいぶ死んでた。同級生の家に火をつけた人間の居場所なんかどこにある? だから死ぬ気で勉強して、なるべく家から遠い大学に進学した。自分の頭で行けてなるべく学費が安くて家から遠いとこ。選択肢はそれほど多くはなかったし、進学して来てみれば寮の部屋は古いし狭いし、大学では相変わらず陰キャだし、まだプライドパレードには行けてない。でもまあ「まだマシ」な選択をできたんじゃないか、と思っている。
 マイケル・メルは高校の同級生だ。というか、自分がいじめていた相手だ。SQUIPの騒動の後でなんとなく連絡先を交換して、その後は連絡を取ったりとらなかったり、廊下で会ったら「よお」くらいは挨拶してみたり、みたいな微妙な距離感だった。それでも高校の時は何度か遊びに行ったりしたのだが、卒業してからは、お互いほとんど連絡もとっていなかった。ただの知り合い以上の何者でもない。だからメッセージを見た時、最初は間違いで送ったのかと思って、それからひょっとして何か変な噂でも出回ってるのかな、と思った。
《何が? 間違いメッセ?》
《いやジェレミーがさ》
 ジェレミー。ちょっと面白くない気持ちになっているのを、リッチは我ながら意味不明だなと思いながらも、またジェレミーか、と思う。こいつは彼以外に友達がいないのだろうか。幼馴染でゲーム仲間で大学も同じで、そりゃ特別だろうけど。連絡先を交換したのだって、自分が入院していた病院にジェレミーもいたからだ。度々見舞いにくるのでどうしても顔を合わせることになる。何あんたたち同級生? 同じ高校? 暗い顔しちゃってもう動けるんだからちょっと外に遊びに行ってきな、と看護師に病室を追い出されて、その流れで連絡先を交換することになったのだった、というのを連鎖的に思い出す。あの時もマイケルはいろんなワッペンをつけたジャケットを着て、自分が落書きしたリュックを背負っていた。
《ジェレミーがさ、SQUIPの声が消えたんだって言うから。俺知らなかったんだけど最近までSQUIPの声が聞こえてたんだって。そんでまあそん時はふーんで終わったんだけど、ジェレミーも別に大丈夫って言うしさ、でも後でそれってほんとに大丈夫なのかな? と思って、気になって聞いた。何かいきなりごめん》
 それは、とテキストを打ち込みかけて、指が止まる。なぜだかそれ以上言葉が出てこなかった。
 ジェレミーと違って、自分のSQUIPは完全に壊れてしまったみたいだった。火事の後から何も聞こえなかった。自分もSQUIPを飲む前の自分に戻った――というか、飲む前よりもなお悪い。あの時に色々やったことは消えない。
 何より最悪なのは、SQUIPがいた間は楽だった、と思っている自分がいることだ。迷わなくていい。自分で考えなくていい。言う通りにするだけで、嫌な目に合うことがなくなった。SQUIPを飲む前は何度も何度も自問自答していた。どうして、って。どうして自分はこうなんだ? どうしてうまくやれないんだ? どうして弱くて馬鹿なんだ? って。どうして自分はこんな人間なんだろう、って思わなくてよくなって、それはとても楽だった。
 でもさあ、と心の中で自分が言う。SQUIPの声じゃない、自分の声だ。なりたくない自分から逃げてみたけど、結局それもなりたくない奴だったよな。
 そうだよ。だから嫌なんじゃないか。どうして自分はこうなんだろう? SQUIPに逃げて、今度はSQUIPから逃げて、町を出たのだって自分のやったことから逃げるためだ。
 びょん、とメッセージアプリがアクションを返す。マイケルからメッセージが届いている。
《いやごめんほんといきなり》
《何? って感じだよな》
《ジェレミーから話聞いててなんかすっげえ気になっちゃって、嫌なこと思い出させてたりしたらマジごめん》
 返信を打つそばからぽこぽこメッセージが送られてくる。こいつこんなしゃべる奴だっけ? いやそうだったかも。主にジェレミー相手だったけど……。リッチはとりあえず《いや、大丈夫》と返した。
《マジ?》
《俺のやつはすぐ壊れたし》
 だから、大丈夫だ。
《大丈夫》
「大丈夫、大丈夫、大丈夫……」
 リッチは返事を打ちながら、いつの間にか声に出してそう言っていた。本当言うと全然大丈夫じゃない。別に何も解決はしていない。でも、少なくとも、世界はあの家の中だけじゃないし、あの町の中だけでもないし、自分の中だけにあるものでもない。自分が思っていたのと全然違う世界が、この世にはたくさんあった。いつかはあそこに――あの日に戻らないといけないかもしれないけど、今はそのことを知っている。だから、
《大丈夫だよ》
 リッチはそう送る。大丈夫。今のところは。見栄をはってるよな、と思う。でもそれ以外に、何をどう言葉にしたらいいのかわからなかった。
《そう?》
《うん》
《じゃあいいけど》
「うおっ」
 いつの間にか帰ってきていたルームメイトがリッチの顔を見て声を上げた。実を言うと、メッセージにSQUIPの話が出たあたりからべしょべしょに泣いていた。
「何? 何かあった?」
「いや、何でもない」
「そうなの?」
「うん、大丈夫」
 また大丈夫、だな。でも口に出すとなんだか本当に大丈夫なような気がしてきた。
「何かはあったけど、嫌なことじゃなかったから」
「あ、そうなの。まあでもティッシュ使いなよ、ほら」
「あ、サンキュ」
 大丈夫だ。