それはおそらく一言で言えば羞恥であったが、およそそんな奥ゆかしい言葉とは無縁の、尊大な中年男がそんな感情を抱いているということに、イ・チャンジンはまず笑んで、それから苛立った。彼の弱点を押さえたのはまず有利な点ではあったが、肝心の死体がどこかへ消えてしまったからだ。それが露見すれば、あの尊大な中年男ことハン・ギファンの怒りと苛立ちをぶつけられるだけでなく、逆に自分の側の弱みになってしまう。それはト・ヘウォンについても同じだったが、チャンジンはギファンの方に数倍苛立ちを感じた。あの女はあれで肝が据わっているし、息子のためならどんな泥でも被るだろう。気に入らない女ではあるが、ヘウォンは腹を括っている。とっくにこっち側の盃を飲み干している。
ギファンはどうだ。一向に腹を括らないどころか、汚れ仕事は自分の預かり知るところではない、という顔をしている。手を汚すのはチャンジン達で、自分の領分はそこじゃない、とそっぽを向いている。実際にはとっくに同じ泥を踏んでいるのに、いつまでも澄ました表情でいようとするのが気に入らない。もちろん直接手を下すのは自分の仕事で、ギファンに譲るつもりはなかったが、それはいわば共同経営者としてだ。こちらを軽蔑し、見下してくる人間はいくらでもいたが、ギファンに対しては、これからも手を組み続けなければならない分、余計に苛立った。
だから、あの後――彼が事故を起こし、それを自分が「処理」してやった後、チャンジンは以前よりもむしろ頻繁に、ギファンと会食の席を持った。何かと口実をつけ、一度で済むものをわざと二度に分けて、店へ呼び出し食事をともに囲む。ヘウォンは呼ばなかった。男同士で話しましょう、署長殿。そう言うとギファンは嫌な顔をする。
「もう話はついたと思っていたが」
「話? なんのことだ。まだ何も終わっちゃいませんよ、署長殿。あんたにはこれから先やってもらわなきゃいけないことが山ほどあるんだ」
そう言うとギファンの顔はわずかに引きつる。そして食事に手をつける。刺身、国産牛、季節の料理に珍味の類い。苛立ちを抑えるためだ。咀嚼したものと一緒に、怒声や棘の含んだため息を飲み下すための摂食だ。しかし決して、チャンジンから注がれたものは、酒だろうが茶だろうが、手をつけようとはしなかった。今日もチャンジンの注いだ酒は、コップの中でぬるくなっている。ああ、なんて分かりやすい男! クソ野郎、と胸中ロシア語で呟き、目の前の肉だか魚だかを口の中に突っ込む。
「それで、私に何を?」
「それについてはまあ、食事でもしながらゆっくり」
とチャンジンははぐらかす。すぐにやってほしいことなど別にない。さっさと出世して、こっちに旨味をもたらしてくれればそれでいい。
ジファ。
ふと愛しい女の面影が頭をよぎりかけて、慌てて打ち消す。彼女はこんな場所にはふさわしくない。ただ思うだけでも彼女を汚すような気がした。あの強さと清さは、こんな男の前で思い出すべきではない。
「捜査は――」
と突然ギファンが口を開いた。いや、突然ではない。自分が話を聞いていなかっただけだ。
「そろそろ終わりになるだろう」
ぐ、と奥歯を噛み締める。これで開発の話が進められる、が、あからさまに喜びを出してはいけない。それは弱みを見せることだ。ことがうまく運びそうになった時に、それを噛み潰すのは、もう彼にとっては習い性になっていた。
「へえ。意外に早かったな」
とわざと料理を口に運びながら言う。
「これもあんたの尽力のおかげかな」
ギファンは答えず、小さく鼻を鳴らした。とことん気に食わない男だ。
「それを知りたかったんじゃないのか。ここ最近はずっと気にしてただろ。何度も私を呼び出して」
それを聞いた瞬間、鋭い苛立ちがチャンジンの頭の中を突き刺した。この男は、自分に恩を着せるつもりなのだ。いや違う、「よくしてやって」いるつもりなのだ。この期に及んで。
チャンジンは奥歯を噛み締めた。今度は喜びではなく、怒りと刺すような苛立ちを噛み潰した。小さく笑ってから、顔を上げる。
「そうだな。その通りだよ。実を言うと気が気じゃなかったんだ。やたらと呼び出して悪かったよ。あーああ! ものすごくほっとした。わかるか? 今までどれくらい俺が緊張していたか、あ、もちろんここは俺が奢る。あんたは警官だからそれはできないんだったか? まあいいや、ごちそうさせてくれ。これで一安心だよ。まったくあんたのおかげだ。いやあ、さすがにそこまで上り詰めた男は違うな」
と、明るさを装って言い、ぐっと乗り出してギファンに告げた。
「あとは死体が見つからなきゃいいな」
それまで上機嫌でチャンジンの口上を聞いていたギファンは、一瞬遅れて死体が何なのかを悟った。頬がぴくりと引きつり、みるみる顔が紅潮していった。
湯に放り込まれた海老のようにギファンの顔色が変わっていくのを眺めながら、チャンジンは、奥歯を噛み締めて、満足感を噛み潰した。薬味か何かが口に残っていたらしく、刺激が歯を伝って口中を満たす。それがあんただ、と思う。高潔を装っているが、痛いところを突かれればすぐに顔を真っ赤に震わせて怒る、小さな男。
彼は恥じている。ひき逃げのことではない。本来自分は下衆ではなかったのに、運悪く泥に塗れてしまったと思って羞恥を感じている。あいつらと同じ場所に堕ちてしまったと思っている。けれども初めからお前は同類だった。俺たちと同じ場所にいて、同じ泥を踏み、同じ臭いをさせている。
ふと、自分は何をしているのだろうと思った。こんな男に構って、一体何になるのだろう。食事代だって馬鹿にならない。どれだけ注ぎ込んだって、この男は一生わからない。自分がどこにいるのか、どんな臭いをさせているのか。
「ひとまず一件落着かな。死体のことはご心配なく。俺がちゃんと処理しておいた」
チャンジンは平静な声で言った。ギファンはそばの盃を乱暴につかみ、飲み干した。それはさっき自分が注いでやった酒だったが、もうそんなことはどうでもよかった。