うさぎ

 チャイムのボタンを鳴らすと、びーっ、という間抜けな音の後に静寂が帰ってきた。またか、と半ば予感しながら、ジャソンはチャイムを連打し、玄関を叩く。
「先生。いらっしゃいますか。先生」
 客、というにはいささか不穏、というよりはほとんど借金取りのような乱暴さで玄関のドアをガンガン殴った後、ジャソンはポケットから合鍵を取り出した。勝手に開けて中に入る。念のための緊急用、という名目で作らせた合鍵だが、ほとんど形骸化している。居留守の時も中で行き倒れていた時も、ジャソンはさっさと合鍵を使って中に侵入する。今回もずかずかと中に入り、それほど広くないアパートの部屋を、玄関から近い順に開けて行く。トイレも物置も念のため開けるし、風呂の蓋も閉まっていれば中を確認する。過去にそこに隠れていたことがあったからだ。
 が、今回はどこにもいなかった。部屋の突き当たり、家主の仕事部屋には、描きかけの原稿があるばかりで、本来その前に座ってせっせと手を動かしているはずの——本来なら、とっくに原稿が出来上がってコーヒーでも淹れていてほしいが——チョン・チョンはどこにもいない。
「あのクソ野郎」
 ジャソンはつぶやくと、またずかずかと玄関まで戻って部屋を出る。鍵をかけ、ポケットに突っ込むと今度はまっすぐ廊下を歩いてアパートを出る。途中、すれ違った住人が、すごい剣幕に飛び退いて、ジャソンの背中を見送った。顔にはまたか、という表情が浮かんでいる。
 ジャソンがアパートを出た頃、チョン・チョンは深く息を吸い、吐いて、「来い」と呟いてバットを構えた。ボタンみたいな茶色の瞳は、じっとピッチャーを見つめている。ピッチャーも彼を見返した。肩を引き、投球姿勢に入り、投げた。
(もらった!)
 ボールの離れる瞬間がはっきりと見えた。チョン・チョンは体に染み込んだ自然さでバットを振るい——
「せんせえええいっ!」
 突然の怒号と同時にバットが空を切る。ぶおん、と勢いはいいが空振りだ。ボールはキャッチャーのミットの中に綺麗に収まっている。
 いやそんなことよりも。チョンはそっと顔を上げ、公園の入り口を見る。鬼のような形相の男が、鬼のような形相のまま、ずんずんとまっすぐこちらへ歩いてくる。
「あーあ」
「先生、また仕事さぼったんですかあ」
 ピッチャーとキャッチャー、というか、ピッチャーとキャッチャー役の小学生が呆れたような口調で言った。外野にいた子供たちも集まって来る。鬼のような形相のジャソンはすでに目の前だが、いささかも動じる様子がない。叱られているのは自分ではないし、いきなり怒号が公園に響くのも、鬼のような形相の男が乱入してくるのも、よくあることだった。
「先生」
とジャソンが低い声で言う。
「おう、ジャソン。ちょっとさあほら、気分転換に。知ってるか? 漫画家の平均寿命、座りっぱなしはよくないんだってよ。早死にしちまう」
「先・生」
 ジャソンは一音一音区切って言った。さすがのチョンも「はい」と神妙にうなだれる。その横を、「先生、じゃあねー」「今度は仕事終わってから来てくださいよ」「俺らも宿題してから来てるんで」と言いながら小学生が歩き去っていく。
「原稿は」
「その……まあ、ほぼ出来てるっていうか」
「終わってないんですね」
「もう終わりは見えてんだよ。あとは描くだけっていうか」
「終わってないんですよね」
「はい」
 ジャソンは深い深いため息をついた。町内中に響くような大声の主のため息なのでそれはそれは長い。チョン・チョンは、じいさんのキレの悪い小便みてえだな、と思ったが口には出さなかった。
「帰りますよ」
「はーい」

 また締切に遅刻するか、と覚悟した原稿は、その日の夜中には、どうやら間に合いそうだという確信に変わった。ジャソンは仕事部屋の隅で待機しながら、トイレと飲み物の調達以外はその場から動かずひたすら手を動かし続けるチョン・チョンの背中を見つめる。
(一回スイッチが入ると早いんだよな)
 ジャソンの目の前のちゃぶ台には、お菓子やジュース、パンが積まれていたが、ほとんど手がつけられていない。公園から帰る途中、コンビニに行きたい行かなきゃやる気が出ないと駄々をこねたチョンが買ったものだが、最初に開けたスナック菓子をいくつか摘んだ以外は手をつけていなかった。パンは、菓子ばかり買おうとするのでジャソンが無理矢理買わせたものだったが、それも帰って来て机の上に放り出されてからずっとそのままだ。ジャソンはパンの袋を開けてかじる。口の中がパサパサするので、そばにあった乳酸菌飲料も開けて飲む。食べ終わったらちょっと仮眠させてもらおう。さすがに眠くなってきた。そう思った時だった。
「ジャソン」
「はい」
「お前、俺に黙ってることあるだろ」
 ぐ、と咽せる。パンが喉に詰まったのを、乳酸菌飲料で無理矢理飲み下す。喉元の鈍い痛みが下に降りていって消える。
「なんですか、いきなり」
「こないだ聞いたぞ編集長から。お前さ」
 そこで初めて、チョン・チョンはくるりと椅子を回してジャソンに向き合った。ジャソンの方は床に座っているので、必然的に見下ろすような格好になる。
「漫画、描いたことあるんだよな」
 ぐ、と一瞬言葉に詰まった。それを悟られないように、まだ喉にパンが詰まっているようなふりをして話す。
「いや、まさか」
「あるんだよな。知ってるぜ」
 チョン・チョンは椅子を降りた。手にはペンを逆手に握りしめている。卓上ライトの光が逆光になって、まるでヤクザ映画の兄貴みたいに見える。彼はしゃがみ込み、ジャソンの目の中を覗き込んだ。思わず唾を飲み込む。
「原稿、手伝え」
 こうなるから嫌だったんだ。

 こうなるから嫌だったんだ。こうなるから嫌だったんだ。ちくしょうタダ働きだ。バラしたやつは誰だ。
 ジャソンは呪いながら原稿に消しゴムをかけ、墨を塗る。眠気のピークはとっくに越して、すでに眠くないフェーズに入っている。チョン・チョンは相変わらず机に向かって手を動かし続けていて、飲み物とトイレに原稿を渡す動作が増えたくらいだ。
 なんで今どきアナログなんだよ。デジタルに移行してくれよ。
 そう呪いつつも、やっぱり彼の絵が好きだ、という気持ちが、結露した窓に指で描いた絵みたいに、消しても消してもいつの間にか浮かび上がっている。好きなのだ、彼の絵が。洗練とは真反対の、泥臭い、迫力のある彼の絵。ほとんどバランスの崩れるギリギリの直前まで、絵の力を追い求めるような彼の絵。一見荒削りだが、それも計算されているのでは、と思うような細部の書き込み。
 好きなんだよな。
 出版の世界に入ったのは偶然だった。漫画は昔に少しだけ描いていたが、すぐにやめた。才能がないと思っていたけれど、そもそも興味がなかったのだ、と気づいたのは、彼の担当編集になって、その背中を見てからだ。
 机に齧り付くように、魂をこめるように、一つ一つの線を引いていく。ほとんど迷いがないし、修正もない。まるで仏像を彫っているみたいだ、と、その現場を見たこともないくせに思う。と、チョンが背中を向けたまま「ジャーソン」と言った。
「は……はい」
「寝てた?」
「起きてますよ。今返事したでしょ」
「あのさ」
「はい」
「一コマ余ってんだけど、何か描いてみない?」
 え、と固まったジャソンの前に、チョン・チョンは原稿を置いた。「ここね。何か描いて。ウサギとかがいいな」とんとん、と指をさしたコマはたしかに真っ白で、指示も下書きも何も描かれていない。
「え、でも」
「よろしくね」
「でも」
「それ描かねえと原稿完成しないよ」
 ジャソンはコマに向き合う。手が震えた。三センチ四方の小さなコマだったが、途方もなく大きく見えた。
 チョンが最後の一ページを書き終えるのと同じくらいの時間をかけて、ジャソンはその一コマを完成させた。完成したコマを見た彼は、「ふはっ」と息を漏らした。
「お前……」
「わかってます。絵心ないでしょ。だから言ってないんですよ漫画描くとか」
 コマにはウサギ——と言われないとわからないであろう、六本足の奇妙な蜘蛛のようなものが、ぴょんと飛び跳ねている。
「いや、俺はいいと思うね」
 からかってるんですか。そう言おうとしたジャソンの口が閉じる。チョン・チョンは、柔らかい、と言えるような笑みを浮かべてウサギを見ていた。あのガラス玉みたいな色の目が、きらきら光っているみたいに見えた。
「いいと思うよ」
「……」
「いいと思う。好きだな」