皆様は覚えていらっしゃるだろうか。二つ前の練習問題②に関する記事で、私はこんなことを言った。
文という単位は、発信者側から見れば「思想の完結」つまり「とりあえずこれ一個でなんかいい感じにアレするようにまとめといたから」という塊であり、句点は受信者側から見て「なんかいい感じにアレする」ポイント、つまり「理解」のための情報の処理ポイントを示す。
実はこの「思想の完結」については、必ずしも「文」が完結する必要はない。実際、会話では文が終わらず話が続いていくことなどよくあるのだ。話し言葉に句読点はないし、会話の終わりにマルはない。ちゃんと「思想の完結」に従った文末のある話など、アナウンサーの読み上げとか講演会とか、きちんと原稿が――即ち書き言葉による文章が事前に準備されているものでない限り、あまり見かけないだろう。それでも我々は日常会話や文字のコミュニケーションで、それなりに「思想の完結」点を見つけて情報を処理している。
書き言葉というのは、本来発されたそばから消えていく言語を視覚化・空間化したものとひとまずは捉えられるが、実際には書き言葉の形に落とし込むまでにかなりの加工を経る。いちいち文末をつけて「文」としてまとめるのもそうした加工の一つである。
それゆえ、実を言うと、「思想の完結」の切れ目が「、」になるか「。」になるか、というのは結構曖昧なケースもある。というより、その切れ目は結構どっちでもいい、書き手の匙加減で恣意的に決められることも多い。
例えば、シェイクスピア『ハムレット』の三幕一場に出てくる有名なセリフを例に取ろう1。これは以下のように切ることができる。
例 To be, or not to be, that is the question:
1、生きるべきか、死ぬべきか、それが問題だ。
2、生きるべきか、死ぬべきか。それが問題だ。
原文では「生きるべきか、死ぬべきか」と「それが問題だ」の間をコンマで繋いであるのでマルを使うとそれはそれで翻訳の態度としては問題になってしまうのだが、それは一旦措く。それを言い出したら「問題だ。」の後も原文ではコロンになっているのだし。
ここでは後半部分に「それ」という指示語がある。そのためにこの二つのパートの間には論理的な繋がりがしっかりある。「生きるべきか、死ぬべきか」の部分を一かたまりと考えマルで一旦切ってもよい。あるいはこれ全体を問いを提起する文と捉えてテンで繋いでも構わない。下にあるこんな形だってやろうと思えばできるし、それなりに通じてしまう。
3、生きるべきか。死ぬべきか。それが問題だ。
流石にこれはぶつ切りに近いが、できないこともないし、この後に文が続いていたとしても、どこからどこまでが「大体一かたまり」なのか、面倒ではあるが見分けられないこともない。実際、現代ではほぼ見かけないが、明治になるまでの文章というのは大概そのようなものであった。つまり、句読点など使わないか、あっても一種類だけで済ませていたのである。
これは「切れ目が複数種あっても切れ目を示す符号は一種類で済ます」「実際どっちでもいいものもある」というケースだが、「切れない」あるいは「切れにくい」文体というのはある。国語の古典の授業でやるような、古文の物語の文体などがそうだ。
国語学者の小松英雄氏は、語り手の口頭による〈語り〉をベースとした平安和文の文体の構造について、隣接した句節が〈付かず離れず〉の関係となっているとして、句読点や会話/地の文といった切り分けを現代的な観点から施すことに疑問を呈している。「付かず離れず」と言っても句節同士がどれくらい離れているのか、くっ付いているのかはそれぞれのケースで異なるし、「〜といった」とかの引用表現があればその直前までは確実に誰かの言ったことであるわけだが、文の構成の仕方も使用する符号も違うのだから、書かれた当時に「ここが文末で、文の切れ目だ」とか、「ここから会話文が始まる」という意識が、現代と同様な形で存在していたとは必ずしも言えない。
例えばすべらない話でも怪談でもなんでもいいが、誰か語り手が話している時に、別の人の言葉を引用したとして、それが本当に言った通りなのか、それとも話者の要約や加工がある程度入っているのか、聞いている側は分からないし、話している側もおそらくわからない。誰かが誰かの声=言葉を引用した時点でおそらくそこには話者自身の声が入り混じっているので、カギカッコをつけて「誰かの声」を峻別するよりは、グラデーションあるいはマーブルのように語りと溶け合っていると考えた方が適切であろう。むしろカギカッコを使って他者の言葉を引用している現代人の方が、それが「本当にその人が言ったその人の言葉」であると思い込み、そこに自分の声が混在していることに気づいていない可能性もある。
話がズレた。とにかく、「一文」をマルを打った直後(または文章頭)から次のマルまでと解釈するとして、いくつか「思想の完結」したかたまりをテンだけで繋ぐことはあまり無茶な話でもない。と思う。とにかくやってみることだ。
練習問題③問二 半〜一ページの語りを、七〇〇文字に達するまで一文で執筆すること。
人は死んだら星になるのでもなく大地に還るのでもないと教えてくれたのは誰だったか、思い出すのは一族の揃う食卓のテーブルクロスの白さばかりで、幼さのわりに骨の目立つ不恰好な私の手がクロスの上でナイフを握り、切り分けるのは白身の魚、子羊の肋、茹でた野菜、蝸牛、土栗、黒瑪瑙、金剛、青磁、古伊万里、おうむ、お祖父様の遺産はこれできっちり八等分と伯母が言い、食器をチャラチャラ鳴らして一族が言祝ぐその八に私が入らないのは、私の年がまだ九つ、成年に十も満たないからであったが、お祖父様の一番年若の子孫、一族の繁栄のあかしの子とかわいがられ、もてはやされ、人形を与えられ、刺繍入りの絹の衣装に髪飾り、腕輪に指輪、骨張った身におよそ不似合いな豪奢な飾りで身を包まれること半世紀、私を可愛がってくれた伯母は死に、父も死に、私一人が生き残り、遺産も時間も無為に食いつぶしてようやく腕にも腹にも脂肪のついた頃、私もあっさり鬼籍に入り、さて鬼の裁きと責め苦を受けんと思えど鬼は来ず、脂肪をまとった体からするりと抜けて、地面に落ち、雨に流され川を降って、たどり着いた海を漂いつつゆっくりと沈みゆくこの身の重さ、脂肪も骨も肉もなく、小魚のひれにもゆらゆらと煽られ、潮に流され、それでも決して浮かぶことはなく、あそこに見えるのは深海生物の発光、マッコウクジラは光の届かない深い海でも大きなものだとわかるもの、などと呑気に遊山気分で行き着く先の海の底は真の真っ暗闇で、目玉も地上に置いてきたというのに、何も見ることができないなりに、ここに沈み着いた人間たちのため息、嘆きが感ぜられ、私もここで息のないため息をつくしかないのだけれど、何日、何年、単位も忘れるくらい過ごし続けていつしか私が私でなくなれば、この地の一部になることもできるのかしら。
(755字)
【解説】
テンで繋ごうとしてやってやれないことはあるまい、とは言ったものの単に文末を変えて繋ぐだけでは書いていてしんどいので、いくつか変則的な表現を入れた。
最初の方にある「白身の魚、子羊の肋(中略)、おうむ」は、並列表現を場面転換に利用したもので、前々回にも使った手法である。半ばにある「刺繍入りの絹の衣装に髪飾り」から始まる部分も同じような手法で、少し説明を付け加えた上で時間経過を示す「半世紀」に繋げている。
後半部分、「私」が海を漂う部分は、「するりと抜けて」「地面に落ち」云々という動作の連続を受ける「たどり着いた」をさらに「海」にかかる修飾部にして場面をスライドさせた。また「あそこに見えるのは」で始まる部分は語り手の心内発話にあたる部分で、地の文(実際にはここも語り手の「語り」であり一種の発話なのだが)的なものとは質の違ったものを入れ、語りを屈曲させる狙いである。
文舵の課題をSNSで発表する時には、毎回ページメーカーを使って本文を画像化していたのだが、このサービスは基本的に縦書きである。700文字を一枚にしようと思ったら二段組になるので、上から下へという動きを意識して話の内容を考えた。没落貴族の話になるはずが、物理的に落ちていく話になってしまった。
大きな切れ目になりそうな部分はいくつかある。冒頭の「誰だったか」、上で述べた「半世紀」、後半に入れた「この身の重さ」である。一つ目は文末になるし、後の二つはいわゆる体言止めであるが、「付かず離れず」になるように後ろに続く部分を構成した。ここはマルでもおかしくはないが、全く切り離されている、というわけではないはずだ。そうなっていると嬉しい。
思うに、マルを打つとは思考に「けり」をつける作業なのだ。そのままでは完結しない、いくらでもああでもないこうでもないと考え続けることのできるようなものに、文末をつけ、「こうだ」と断言し、終わらせる。けりをつけないと進めないジャンルや内容もあるが、言葉というのはそういうものばかりではなく、そうではなくていい文章も実は探してみると意外に多い。
やってみる前は、この一文が長いやつは風景描写などと相性が悪そうだなあ、となんとなく思っていたのだが、重要なのは「語り手の視点がそこにあるかどうか」のような気がする。視点は主観と言い換えてもよい。主観が混じるぶん、描写と感想などの種類の違う文章を混ぜやすいし、そうすると構文も変則的にしやすい。
つまりここでも重要なのは「語る身体」なのだ。評論や説明文で変則的な構文などされたらたまったものではないが、ここは「物語」、ものを語る場である。重要なのは、内容だけでなく、「誰かが語っているということを語ること」なのではないか。
とすると、今回はテンだけで繋いだが、…とか―を混ぜても面白そうである。ル=グウィンもそうした符号を入れることを推奨している。またこの課題に挑戦した時に試してみよう。
- 結構有名なセリフなのだが、実際にはこの部分は色々な訳があり、この言い回しにしたのは河合祥一郎氏の訳だったようだ。原文の句読点も版によって変わっている可能性があるが、今回は切れ目を示す例ということでこのままにする。
参考 シェイクスピア勉強会 第一回-ハムレット 生きるべきか死ぬべきか-言葉遊びと翻訳家の戦い-構成について ↩︎
参考
小松英雄『日本語書記史原論 補訂版 新装版』笠間書院、2006
シェイクスピア『ハムレット』原文 Project Gutenberg
https://www.gutenberg.org/ebooks/1524
鎌倉湖畔棒銀堂 池田眞也の世界 https://bogindo.jimdoweb.com/シェイクスピア勉強会/第一回-ハムレット/生きるべきか死ぬべきか-言葉遊びと翻訳家の戦い-構成について-ページ/
